VIVEKA For All Buddhist Studies.
Dharmacakra
智慧之大海 ―去聖の為に絶学を継ぐ

『無畏三蔵禅要』

原文

第七請師門

弟子某甲等。奉請十方一切諸佛及諸菩薩。觀世音菩薩。彌勒菩薩。虚空藏菩薩。普賢菩薩。執金剛菩薩。文殊師利菩薩。金剛藏菩薩。除蓋障菩薩。及餘一切大菩薩衆。憶昔本願。來降道場。證明我等。至心頂禮。
弟子 某甲 奉請釋迦牟尼佛。爲和上。奉請文殊師利。爲羯磨阿闍梨。奉請十方諸佛。爲證戒師。奉請一切菩薩摩訶薩。爲同學法侶。唯願諸佛諸大菩薩慈悲故。哀受我請。至心頂禮

第八羯磨門

諸佛子諦聽。今爲汝等羯磨授戒。正是得戒之時。至心諦聽羯磨文
十方三世一切諸佛諸大菩薩。慈悲憶念。此諸佛子。始從今日。乃至當坐菩提道場。受學過去現在未來一切諸佛菩薩淨戒。所謂攝律儀戒。攝善法戒。饒益有情戒。此三淨戒具足受持 如是至三 至心頂禮

第九結戒門

諸佛子等。始從今日。乃至當證無上菩提。當具足受持諸佛菩薩淨戒。今受淨戒竟。是事如是持 如是至三 至心頂禮

第十修四攝門

諸佛子等。如上巳發菩提心。具菩薩戒巳。然應修四攝法及十重戒。不應虧犯。其四攝者。所謂布施愛語利行同事。爲欲調伏無始慳貪。及饒益衆生故應行布施。爲欲調伏瞋恚憍慢煩惱。及利益衆生故應行愛語。爲欲饒益衆生。及滿本願故應修利行。爲欲親近大善知識。及令善心無間㫁故應行同事 如是四法此修行處

第十一十重戒門

諸佛子受持菩薩戒。所謂十重戒者。今當宣説至心諦聽
一者不應退菩提心。妨成佛故 
二者不應捨三寶歸依外道。是邪法故 
三者不應毀謗三寶及三乗敎典。背佛性故 
四者於甚深大乗經典不通解處。不應生疑惑。非凡夫境故 
五者若有衆生巳發菩提心者。不應説如是法令退菩提心趣向二乗。㫁三寶種故 
六者未發菩提心者。亦不應説如是法令彼發於二乗之心。違本願故 
七者對小乗人及邪見人前。不應輒説深妙大乗。恐彼生謗獲大殃故 
八者不應發起諸邪見等法。令㫁善根故 
九者於外道前。不應自説我具無上菩提妙戒。令彼以瞋恨心求如是物。不能弁得令退菩提心。二倶有損故 
十者但於一切衆生。有所損害及無利益。皆不應作及敎人作見作隨喜。於利他法及慈悲心相違背故 

巳上是授菩薩戒竟。汝等應如是清淨受持。勿令虧犯

巳受三聚淨戒竟

訓読

第七 請師門

弟子某甲等、十方一切の諸佛及び諸菩薩、觀世音菩薩、弥勒菩薩、虚空藏菩薩、普賢菩薩、執金剛しゅうこんごう菩薩、文殊師利もんじゅしり菩薩、金剛藏菩薩、除蓋障じょがいしょう菩薩、及び餘の一切の大菩薩衆をしょうじ奉る。昔の本願を憶して、道場に來降らいごうして、我等を證明しょうみょうし玉へ。心を至して頂禮し上る。
弟子 某甲、釋迦牟尼佛を請い奉て和上わじょうと爲し、文殊師利を請じ奉て羯磨こんま阿闍梨あじゃりと爲し、十方の諸佛を請い奉て證戒師しょうかいしと爲し、一切菩薩摩訶薩を請じ奉て同學の法侶と爲す。唯だ願くは諸佛・諸大菩薩、慈悲の故に我が請を哀受あいじゅし玉へ。心を至して頂禮し上る。

第八 羯磨門

諸佛子、あきらかに聽け。今、汝等が爲に羯磨して戒を授けん。正しく是れ得戒の時なり。心を至して諦に羯磨こんまの文を聽け。
十方三世の一切の諸佛諸大菩薩、慈悲憶念し玉へ。此の諸佛子、始て今日より、乃し當に菩提道場に坐せるに至るまで、過去・現在・未來の一切の諸佛菩薩の淨戒を受學すべし。所謂、攝律儀戒しょうりつぎかい攝善法戒しょうぜんほうかい饒益有情戒にょうやくうじょうかいなり。此の三淨戒、具足して受持すべし 是の如くすること三びに至る 。心を至して頂禮し上る。

第九 結戒門

諸佛子等、始て今日より乃し當に無上菩提を證するに至るまで、當に諸佛菩薩の淨戒を具足して受學すべし。今、淨戒を受け竟て、是の事、是の如く持すべし 是の如くして三びに至る 。至心に頂禮したてまつる。

第十 修四攝門

諸佛子等、上の如く巳に菩提心を發し、菩薩戒を具しおわんぬ。然して應に四攝法ししょうぼう及び十重戒をしゅすべし。應に虧犯きぼんすべからず。其の四攝とは、所謂布施ふせ愛語あいご利行りぎょう同事どうじなり。無始の慳貪けんどん調伏ちょうぶくし、及び衆生を饒益せんとねがふが爲の故に、應に布施を行ずべし。瞋恚しんに驕慢きょうまんの煩惱を調伏し、及び衆生を利益りやくせんと欲ふが爲の故に、應に愛語を行ずべし。衆生を饒益し、及び本願を滿ぜんと欲ふが爲の故に、應に利行を修すべし。大善知識に親近しんごんし、及び善心をして間㫁けんだん無からしめんと欲ふが爲の故に、應に同事を行ずべし 是の如き四法、此れ修行處なり

第十一 十重戒門

諸佛子、菩薩戒を受持すべし。謂ふ所の十重戒とは、今當に宣說すべし。心を至して諦に聽け。
一は、應に菩提心を退すべからず。成佛を妨るが故に。
二は、應に三寶を捨て 外道げどうに歸依すべからず。是れ邪法なるが故に。
三は、應に三寶及び 三乗さんじょうの敎典を毀謗すべからず。佛性に背くが故に。
四は、甚深の大乗經典の通解せざる處に於て、應に疑惑を生ずべからず。凡夫の境に非ざるが故に。
五は、若し衆生有て巳に菩提心を發さんには、應に是の如き法を説て菩提心を退せしめ、二乗にじょうに趣向せしむべからず。三寶の種を㫁ずるが故に。
六は、未だ菩提心を發せざる者には、亦た是の如き法を説て、彼をして二乗の心を發せしむべからず。本願に違するが故に。
七は、小乗の人及び邪見の人の前に對して、應にたやすく深妙の大乗を説くべからず。彼れ謗を生じて大殃だいおうを獲るを恐るが故に。
八は、應に諸の邪見じゃけん等の法を發起すべからず。善根を㫁ぜしむるが故に。
九は、外道の前に於て、應に自ら我れ無上菩提の妙戒を具せりと説くべからず。彼をして瞋恨の心を以て是の如き物の弁得すること能わざるを求め、菩提心を退せしめて、二り俱に損有るが故に。
十は、但だ一切衆生に於て、損害する所有ると、及び利益無きをもて、皆な應に作し、及び人を敎へて作さしめ、作すを見て隨喜すべからず。利他の法、及び慈悲心に於て相ひ違背するが故に。

巳上、是れ菩薩戒を授けをはんぬ。汝等、應に是の如く清淨しょうじょうに受持すべし。虧犯きぼんせしむること勿れ。

巳に三聚淨戒を受け竟んぬ。

脚註

  1. 證明しょうみょう

    律を正しい手順と条件下で間違いなく受けたことを確認し承認すること。本来、戒について証明の必要は無いが、一部の大乗戒ではその受戒の証明が要求される。

  2. 和上わじょう

    [S].upādhyāya / [P].upajjhāyaが于闐(ホータン。ウイグル)など中央アジアの胡語に転訛した語の音写。和尚に同じ。師僧の意。ここでは特に菩薩戒を授ける戒師を指す。
    今一般に用いられる「高僧」であるとか「老僧」であること、あるいはなんらか「僧としての位階」などを意味したものではない。

  3. 羯磨こんま阿闍梨あじゃり

    授戒の主導者。一般に、授戒の主役・主体は戒和上であると言う者が多いが、実際に授戒を主導するのは羯磨阿闍梨であって和上ではない。特に律の場合、和上の役割は、それを受者に与えることを僧伽に対して乞うことであって与えることではない。

  4. 證戒師しょうかいし

    受戒が正統な手順と条件下で行われたことを保証する人、証人のこと。証明師とも。なお、具足戒の受戒にては、和尚や羯磨阿闍梨および教授阿闍梨以外に最低七人の証明師が必要とされ、これを三師七証という。
    ここで三聚浄戒の受戒に際して釈迦牟尼を和尚、文殊師利を羯磨阿闍梨とし、十方諸仏を証戒師とするというが、これはおそらく直接には湛然『授菩薩戒儀』「奉請釈迦如来応正等覚。為我和上。我依和上故得受菩薩戒慈愍故。文殊菩薩為羯磨阿闍梨。弥勒菩薩為教授阿闍梨。一切如来為尊証師。一切菩薩為同学等侶」に基づいた説で、それはまた『観普賢菩薩行法経』「今釋迦牟尼佛。爲我和上。文殊師利。爲我阿闍黎。當來彌勒。願授我法。十方諸佛。願證知我。大徳諸菩薩。願爲我伴」(T9. P393c)に基づくものと思われる。
    しかし、先の「好相」の註にて述べたように、ここでこのような説を出すことは不審。そもそも現前の戒師があることを前提とし、さらにその羯磨文をすら出して如何に授戒すべきかを述べていながら、別途に釈迦牟尼を和上に、文殊師利を羯磨阿闍梨とせよとする『授菩薩戒儀』の説は道理に合わない。したがって、その構成を踏襲した『禅要』の所説もまた当然おかしい。

  5. 攝律儀戒しょうりつぎかい

    律儀は[S/P].saṃvaraの訳で防護や制御の意。摂律儀は七衆それぞれに異なる学処の総称。比丘であれば比丘律儀、比丘尼は比丘尼律儀、沙弥・沙弥尼は十戒、式叉摩那は六重法(六敬法)、優婆塞・優婆夷は五戒または八斎戒。

  6. 布施ふせ

    dāna. 与えること。分かち合うこと。

  7. 愛語あいご

    priya-vacana. 優しく思いやりのある言葉をかけること。

  8. 利行りぎょう

    artha-kriyā. 他の為に行うこと。

  9. 同事どうじ

    samānârthatā. 他と共に行うこと。

  10. 外道げどう

    tīrthika. 仏教以外の思想・宗教。

  11. 三乗さんじょう

    仏教における三つの異なる教え。菩薩乗・独覚乗・声聞乗。

  12. 二乗にじょう

    三乗のうち小乗と言われる独覚乗と声聞乗の二つの教え。

  13. 邪見じゃけん

    四聖諦、三法印、縁起・輪廻などを否定する思想。

  14. 清淨しょうじょうに受持

    戒律に関して言われる場合の清浄とは、清潔・不潔という意味ではなく、また宗教的・精神的に高潔・純粋であることを意味するものでもなく、戒律の条項・規定に違反していないことを意味する。たとえば、律において金銭は「不浄」と称されるが、それは「金など穢らわしい」ということではなく、比丘にとって金銭は直接蓄えてはならなず、したがって律に抵触する物との意。

関連コンテンツ