故建仁寺ノ本願僧正。戒律ヲ學シ。威儀ヲ守リ。天台真言禪門。イヅレモ學シ行シ給ヒ。念佛ヲモ人ニスヽメラレケリ。遁丗ノ身ナガラ。僧正ニナリ給ケル事ハ。遁丗ノ人ヲバ非人トテ。イフ甲斐ナク名僧ノ思アヒタル故ニ。佛法ノタメト思給テ。名聞ニハアラズ。遁丗ノ光ヲケタジトナリオホカタハ。三衣一鉢ヲ持シ。乞食頭陀ヲ行スルコソ。佛弟子ノ本ニテ侍レ。釋尊スデニ其ノ跡ヲノコス釋子ト𬼀。本師ノ風ヲソムカンヤ。サルマヽニ。名僧ノ 振舞。カヘテ在家ノ行儀ヲタトヘス。大ニ佛弟子ノ儀ニソムケリ。然レドモ末代ノ人ノ心。乞食法師トテ。イフカヒナクオモヒ。佛法ヲ輕シムル事ヲカナシミテ。僧正ニナリ出仕有ケレバ。丗モテカルクセズ。菩薩ノ行時ニシタガフ。サタマレル方ナシ。コレスナハチ。格ニカヽハラヌ振舞也。イマダ葉上房ノ阿闍梨ト申ケル時。宋朝ニ渡テ。如法ノ衣鉢ヲ受テ佛法ヲ傳。歸朝ノ後。寺ヲ建立ノ志御坐ケルニ。天下ニ大風吹テ。損亡ノ事アリケリ。丗間ノ人ノ申ケルハ。此ノ風ハ異國ノ様トテ。大袈裟大衣キタル僧共。丗間ニ見ヘ候。彼ノ衣ノ袖ノヒロク。袈裟ノ大キナルガ。風ハフカスル也。如此ノ異體ノ仁。都ノ中ヲハラハルベキ也ト申ケルニツキテ。ハテハ公卿僉議ニヲヨビテ。京中ヲ罷リ出ベキ由シ宣旨有ケレバ。弟子ノ僧共。淺猿ク思ケル処ニ。今日ハ吉日也。吾カ願成就スベシトテ。堀川ニテ材木買ベキ事ナント下知𬼀。宣旨ノ御請申サレタル詞ハノ中ニ云ク。風ハ是レ天ノ氣也。人ノナス処ニ非ス。榮西風神ニアラズ。何ゾ風ヲフカシメン。若風神ニ非ズ𬼀風ヲフカシムル德アラバ。明王何ソステ給ハント云々。是レニヨリテ。此僧ハ子細有ル者ノ也ケリ。申ス旨アラバ聞食入ラルベキ由シ重テ宣下アリケレバ。寺建立ノ志ヲ申サレケルニヨリテ。建仁寺ヲ立ラレケリ。鎌倉ニ壽福寺鎭西ニ聖福寺ナント創草禪院ノ始也。然ドモ國ノ風儀ニソムカズ𬼀。教門ヲヒカヘテ。戒律天台真言ナンドアヒカ子テ。一向ノ唐様ヲ行セラレズ。時ヲ待ユヘニヤ。又西天モ昔シハ經論アヒ兼タリ。漢土モ上代ハ三學ヘダテナカリケレバ。深キ心アルベシ。殊トニ真言ヲ面ト𬼀。禪門ハ内行也ケリ。長ノ無下ニヒキク。オハシケレバ。出仕ニ憚リアリトテ。遥ニ年タケテ後ヲコナヒテ。長四寸高ク成テオハシケリ。我滅後五十年ニ禪法興スヘキ由シ。記シヲキ給ヘリ。興禪護國論トイフ。文ヲ作給ヘリ。其中ニ有。ハタシテ相州禪門建長寺ヲ立テ。大覺禪師叢林之軌則宋朝ヲウツシオコナヒハシメラル。滅後五十年ニテアタル。建仁建長文字相似リ。年號ヲ以テ寺號トスル風情モ昔ニタガハズ。相州禪門ヲバ。彼ノ僧正ノ後身ノゴトク申アヘリキ。佛法ノ興廢時ニヨル事ナレバ。時節ノ之因縁ヲマタレケルニヤ。上宮太子ハ觀音ノ垂跡ナカラ。戒律ハ猶ヲ興シタマハテ。鍳真和尚始メテ戒壇ヲ立。如法受戒ノ作法我カ朝ニハシマル。是モ時機ヲカヾミ給ケルニヤ。サテ彼ノ僧正鎌倉ノ大臣殿ニ暇申テ京ニ上テ。臨終仕ラント申給ケレバ。御年タケテ御上洛ワヅラハシク侍リ。イヅクニテモ御臨終アレカシト仰ラレケレ共。遁丗ヒジリヲ丗間ニイヤシク。思アヒテ候トキニ徃生𬼀。京童部ニ見せ候ハントテ。上洛𬼀年號ハ不覺悟侍。六月晦日説戒ニ最後ノ説戒ノ由有ケリ。七月四日明日終ルベキヨシ披露シ。説法目出クシ給ケリ。人々最後ノ之遺戒ト哀レニ思ヘリ。次日勅使タチタリケルニ。今日入滅スベキヨシ申サル。門徒ノ僧共ハ。ヨシナキ披露カナト。アヤブミ思ケル程ニ。其ノ日ノ日中倚座ニ坐𬼀。安然ト𬼀化シ給ケリ。勅使道ニテ紫雲ノ立ツヲ見ケリ。委細事コレアレドモ略𬼀記ス。有ノガタク目出カリケリ
故建仁寺の本願僧正〈栄西〉は、戒律を学び、威儀〈律儀。戒律の具体的条項〉を守り、天台・真言・禅門のいずれも学び行じられ、念仏をも人にお薦めになられていた。遁世僧の身でありながら僧正になられたことは、遁世の人を「非人〈世捨て人〉」と言う甲斐なく〈語る価値もない見苦しいもの〉名僧〈高名な僧〉らが見なしているために、むしろ仏法のためを思われ、自らの名聞(を求めてのこと)ではなかった。遁世の光を消すまい、とされたのだ。
概略して言えば、三衣一鉢を持し、乞食・頭陀を行ずることこそ仏弟子の本来である。釈尊はすでに(弟子たちが辿り行くべき)跡を残されたのだ。釈子として本師の風儀にどうして背けようか。そうであっても、名僧らの振る舞いは、かえって在家の行儀に倣っており、おおいに仏弟子の儀に背いている。しかしながら、末代の人の心が(遁世僧を)「乞食法師」などと言う甲斐なく思い、仏法を軽んじていることを悲しんで、(遁世僧でありながら)僧正となって(宮中に)出仕するようになったならば、世間も(遁世僧を)軽んじはしない。菩薩の行とは、時に従うものであって定まったものではない。それはすなわち、格〈形式・常識〉に拘らない(しかし菩薩としての)振る舞いであった。
いまだ(栄西が)葉上房の阿闍梨〈密教の学匠としての栄西の称〉と申されている頃、 宋代の支那に渡って如法の衣鉢〈その正統性の象徴としての南宋代の袈裟衣〉を受け、仏法を伝えられた。 日本に帰られて後、寺を建立する志があられた時、天下に暴風が吹いて大きな被害があった。世間の人が言うには、「この風は異国のものの様である。(そういえば)大袈裟・大衣を着た僧たちが、(近頃)世間に見える。彼の衣の袖が広く、袈裟の大きいのが、あの暴風を吹かせたのだ。あのような異体の者は、都の中から追い払うべきだ」などと騒ぎ立てため、ついには公卿が詮議するまでとなり、京中から追放させるべしの宣旨が出るまでのこととなった。弟子の僧たちが「浅ましい」と思っていたところ、(栄西は)
「今日は吉日である。(寺を建立するという)我が願いはきっと成就するであろう」
と言って、堀川にて材木を買うべきことを下知され、宣旨への御請を申された詞の中で、「風とは天の気であります。人のなせる処ではありません。栄西は風神ではありません。どうして風を吹かせられるでしょう。もし(私栄西に)風神でもないのに風を吹かせる徳があるというならば、明王はどうして(そんな徳ある)私をお捨てになるのでしょう」と云われたのだ。(すると、)これによって「この僧は子細ある者だ。何か申したい旨があるならば、それを聞き入れよ」との由が、重ねて宣下されたため、寺を建立する志を申さたことによって、建仁寺〈源頼家開基〉を建てられたのだ。鎌倉には壽福寺〈北条政子開基〉、鎮西〈太宰府〉には聖福寺〈栄西が創建した禅宗最初の寺〉なども、(栄西によって建てられた)草創禅院の始めである。
しかしながら、(それら禅院では、従来の)国の風儀に背くことなく、(自ら宋にて受法した)教門を控えて、戒律・天台・真言などを相い兼ね、(専ら禅のみを行う)一向の唐様を行われなかった。(それは私無住が考えるに、)「時を待つ故のこと」であったのだろうか。また、西天〈印度〉においても昔は経典・論書を相い兼ねて(学ばれ行じられて)いた。漢土も上代は三学〈戒学・定学・慧学〉を隔てることなど無かったことからすれば、(栄西には何か)深いお考えがあったに違いない。特に真言を面として禅門は内行であった。
(栄西は)身長が無下に低くあられた〈栄西は身長が非常に低く、それが為に人から見下されることを気に病んでいた〉ため、(朝廷に)出仕するにも憚りあったが、ずいぶんお歳を取られて後に(虚空蔵求聞持法を)行われ、長が四寸〈約12cm〉高くなられた。
「我が滅後五十年に、禅法が興るであろう」との趣旨の言葉を記し遺されている〈『未来記』〉。(それは)『興禅護国論』という書を著され、その中にある。はたして、相州禅門〈北条時頼〉が建長寺〈北条時頼開基〉を建て、大覚禅師〈蘭渓道隆。南宋から渡来した支那僧〉は叢林〈禅院〉の行儀規則として、宋朝に倣って行い始められた。(それは栄西の)滅後五十年にあたることであった〈栄西の没年は建保三年(1215)で建長寺の落慶は建長五年(1253)だが、無住は建長寺で支那風の寺院規則が始められたのが五十年後、すなわち文永二年(1265)としている〉。
建仁と建長とは文字もよく似たものである。(創建された時の)年号をもって寺号とする風情も昔に違わぬもので、(建長寺を創建した)相州禅門を、彼の僧正〈栄西〉の後身〈生まれ変わり〉のように語り合っている。仏法の興廃とは時代に依る事であるが、時節の因縁〈様々な原因・条件〉を待たれたのであろうか。上宮太子〈聖徳太子〉は観音菩薩の垂迹〈化身〉であったが、戒律はなお興されることはなく、鑑真和上が始めて戒壇を建てられ、如法受戒の作法が我が国でも始まったのだ。これも時機というものを鑑みてのことであったろうか。
さて、彼の僧正は、鎌倉の大臣殿〈源実朝〉に暇を申して、京に上って臨終しようと申されたが、お歳が長けておられてご上洛がわずらわしくなられた。(そこで)
「どこであっても臨終を迎えることとしよう」
と仰せられたが、遁世聖を世間は卑しいものと考えている時であるから往生して、京の若者らに見せることにしようと、上洛され、年号は覚悟されなかった〈この一節、意味不明〉。六月晦日〈三十日〉の説戒〈布薩〉において、(これが)最後の説戒となる由があった。七月四日、明日終わるであろう由を披露され、説法を目出度くなさられた。人々は、(これが僧正の)最後の遺戒となるのかと哀れに持った。次の日、(栄西を見舞いに来ていた)勅使が発たれたが、今日入滅する由を申された。門徒の僧たちは、(栄西が壮健な様子でもうすぐ死ぬなどとはとても思われなかったため)、「由無き披露であったか」と危ぶみ思っていたが、その日の日中、倚座〈椅子〉に坐されたまま、安然として化されたのだった。勅使は(帰りの)道すがら 紫雲が立ち登るのを見た。(他にも栄西の最期について)委細の事があるけれども略して記した。ありがたく、目出度いことであった。
洛外東山麓と鴨川の中間、三条と四条の中程の東側に位置する寺院。建仁二年〈1202〉、将軍源頼家が当地を寄進し、栄西を開山として建立。当時、天台・真言・禅・律の四宗兼学寺院であった。▲
明庵栄西〈1141-1215〉。平安末期から鎌倉初期にかけて活躍した僧。備中出身。初め比叡山に登って天台を学び出家。叡山を降りて後は密教の修学修行に努めた。仁安三年〈1168〉、二十八歳にて日宋貿易船に乗じて入宋し、唐末から宋代にかけて著されていた天台章疏を始めて日本にもたらした。帰国後、さらに密教に打ち込んで一家をなす。入竺を志して文治三年〈1187〉、四十八歳にして再び入宋するが、南宋朝に許されず断念。しかし偶然に、再び訪れた天台山にて臨済宗黄龍派を受法、これを日本に伝えた。日本に南宋代の行儀と禅を初めて伝えた。また、俗に茶を日本にもたらした最初の人とされる。しかし、茶はすでに古代奈良・平安の昔に日本にもたらされて一部にこれを嗜まれていたが後に衰微、栄西はそれを再び日本にもたらし広めた人であった
なお、栄西の別称となった「本願僧正」の「本願」とは、寺院あるいは仏塔など建立の発起人、願主を意味する。
今一般に「栄西」は「えいさい」と訓じられ、呼称されているがこれには大いに疑義がある。なんとなれば、伝統的に僧名は呉音で読まれることが多いが、呉音で読んだ場合、「栄西」は「ようさい」となり、あるいは漢音で読んだならば「えいせい」となるためである。また、鎌倉期当時に最新の音として伝えられた唐音で訓じたならば「よんすい」である。そこで「栄西」を「えいさい」と訓じるのは、呉音と漢音が混濁したものとなり尋常ではない。したがって「ようさい」とするのが普通であると考えられる。鎌倉当時、栄西をどう訓じていたかを伝える書があればこの問題は忽ち解消されようが、管見にして知らず。▲
[S/P] saṃvara. ここでは律儀、すなわち戒あるいは律として説かれる諸々の学処の意。学処は具体的な禁則、行動規定。沙門として守るべき行儀。▲
遁世。元来は出家と同義であったが、古代平安中期以降から中世鎌倉初頭ともなると、堕落・世俗化していた寺院・僧侶の世界から脱して距離をとる、いわば再出家・二重出家することを意味するようになり、当時そうした者を一般に遁世僧と称した。
本書『沙石集』には、遁世僧に対する従来の僧(特に官僧といわれる貴族化した僧)からはひどく見下し、侮蔑した見方があったことが伝えられている。▲
栄西は洛外の鴨川東岸、東山岡崎にあった御願寺の大伽藍、法勝寺の九重塔再建を奉行した功績の恩賞として、遁世僧を自認していながら「自ら」僧正位を求め与えられたこと。これについて、天台の貴族僧であった慈円は『愚管抄』の中にて強く批判しているが、栄西は僧正位ばかりか大師号を下賜されることを求めており、それを慈円が天皇に上奏して引き止めたという。▲
①窮民・②世捨て人・③神霊・④河原者、江戸期の身分階級(士農工商)の枠外に置かれた被差別民の意があるが、ここでは①と②を交えた用例であろう。遁世僧は当時、貴族化した官僧からは見下された、卑しい存在であった。もっとも、同時代に同じく遁世僧であった貞慶の学識を興福寺の官僧がむしろ頼り、その力を借りていたことが知られるため、官僧と遁世僧との関係はそう一概に言って一般化出来ぬ側面もあったようである。▲
語る価値もない・取るに足らない・見苦しい。▲
高名な僧、一定の地位にある僧。ここでは遁世僧に対する官僧を意図したものであろう。▲
名誉、社会的名声。▲
僧伽梨(大衣)・鬱多羅僧(上衣)・安陀会(下衣・作務衣)の三種の衣と鉄鉢。
しばしば誤解されるが、三衣一鉢とは沙門がそれのみ所有出来るものでなく、必ず最低限所有していなければならないもの。そもそも三衣一鉢を所有していなければ、受具して比丘となることは出来ない。▲
托鉢。家々を回って食を請うこと。▲
[S/P] dhūta. 振り払う、取り除く、打ち砕くの意。仏教では特に粗食・清貧たることを意味し、その具体的項目として十二あるいは十三を数える。僧伽において苦行的修行を求める者に対応した生活態度。▲
栄西の通称(房号・坊号)。慈円も『愚管抄』の中で栄西をして「葉上ト云上人」と称している。栄西が創始した台密の一派をまた葉上流といい、栄西はむしろ当所は密教の阿闍梨としてよく知られていた。▲
栄西以前、平安中期頃より日本の僧儀は頽廃し、その装束についても乱れに乱れ、およそ沙門の着るべきものから遠く離れていた。例えば今、威儀五条などと称される袈裟が当時の日本で考案され常用されていたが、それは本来あるべき色・形・大きさから程遠いものであって、もはや袈裟衣と称するに及ばないものであった。そこで栄西が南宋からもたらしたのは、その威儀五条から比べれば数倍大きく、その基本的形状としては一応律蔵の規定に沿ったものであった。いわゆる南山袈裟といわれる、金属製の鈎と環によって装着するものである。これは南山律宗を再興した大智律師元照などが正統な衣として付けていたものに同じで、今の律宗や真言律宗などが用いている。栄西からすれば、それは自身が相承した法の正統なる証でもあって、まさに如法の衣であった。しかし、当時の日本ではこれが異様に目に写ったようで、以下の一節にて「大袈裟・大衣」と云われている。
もっとも、栄西やその後進らが伝え、その後の律宗なども正統として着用したいわゆる南山袈裟は、おそらくは唐末から南宋代にかけての支那で明らかに改変されたものであり、天平の並み居る高僧ら、たとえば鑑真や良弁から、平安初期の空海・最澄・円仁・円珍・聖宝・安然などが着用していた形態と異なるものであって、およそ「如法」とは言い難いものであった。▲
高位の公家。「公」は摂政・関白・大臣、「卿」は大納言・中納言・参議およびその他の三位以上の人。▲
天皇。建仁寺が創建された建仁二年は土御門天皇代であり、後鳥羽上皇による院政が敷かれていた。▲
①詳細、詳しい事情・②支障、差し障りの意であるが、ここでは「道理」・「芯」の意として用いられている。▲
正治二年〈1200〉、北条政子が栄西を開山として創建した、現在の神奈川県鎌倉市扇ケ谷にある禅寺。▲
宋から帰朝した栄西が、建久六年〈1195)、源頼朝の寄進を受けて建立した、現在の福岡市博多区御供所町にある寺。栄西における最初期の禅宗の拠点であった。元久年間〈1204-1206〉、後鳥羽上皇から「扶桑最初禅窟」の勅額を下賜されている。▲
ここで無住は、栄西が建仁寺などを禅宗一向の寺としなかったことを「時機を待つためであったろうか」と推量しているが、それが正鵠を射たものであったとは云い難い。そもそも栄西は、最初から禅宗専修することなど志向などしていなかったであろう。それは栄西の著書『興禅護国論』や『日本仏法中興願文』、『出家大綱』等々を読んでも、彼がそう考えていたとは思い難いためである。もちろん栄西は禅門が日本で興隆することを願ってはいた。が、だからといって創建に関わった寺を兼学道場としたことを、ただちに政治的手段として不本意なものであってやがては専修にすべきものとしていたと見ることは、「選択」・「一向」・「専修」などといった宗旨固まりを本来で純粋なあり方とする、後代の日本で常識化した色眼鏡を通しての見方である。▲
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栄西の主著『興禅護国論』(後述)に付された『未来記』を意図した一節。『未来記』はわずか四百字ほどの小著であるが、その末尾に「禅宗は空しく墜ちず。予が世を去るの後五十年、此の宗最も興るべし」とあるのに依る。栄西にとって禅とは、往古すでに最澄によって日本にもたらされていたのが廃れたものであって新しいものでなく、むしろ最澄が伝えたと自称していた諸々の法を今こそ再興しようとするものであった。もちろん、結果的に彼が伝えた行儀は南宋代の支那の律院や禅院における規矩は、我が朝において耳目に新しいものではあった。▲
栄西の主著。栄西が自ら受法した臨済禅を日本にて布教するに際して、特に比叡山(天台宗徒)から猛烈な批判と反発があったことに対し、禅宗の正統性とその宣布の妥当性を公然と証するため、幾多の仏典および支那・日本の諸宗の祖師らの言などを挙げて著した書。詳しくば別項、「栄西『興禅護国論』」を参照のこと。▲
北条時頼〈1227-1263]〉。鎌倉幕府第五代執権。北条泰時の孫で時氏の二男。渡来した蘭渓道隆に帰依し、建長寺を建立した。康元元年〈1256)、三十歳で病となり家督を六歳の時宗に譲り最明寺で出家。以後、最明寺殿とも称された。▲
支那からの渡来僧、蘭渓道隆のために北条時頼が建長五年〈1253〉、鎌倉は地獄谷巨福呂に創建した寺院。日本における宋風禅の一向寺の初め。▲
蘭渓道隆〈1213-1278〉。南宋の支那僧。日本に渡来して臨済宗楊岐派を伝えた。北条時頼の帰依を受けて建長寺を寄進され、その初代住持となった。また後に建仁寺の住持にも任じられている。南宋代の支那における寺院のあり方として、おおよそ禅院・律院・教院に大別されていたが、禅院における規矩は律宗の律儀を踏襲した上で禅宗独自の清規などを敷いて行っていたが、次第に律儀を忘れ禅一辺倒となっていた。蘭渓道隆はそんな禅一辺倒の風儀を日本にもたらした初めの人で、建仁寺など彼の関わった寺院を禅専修としていった。▲
樹木の群生した林。転じて僧の居並ぶ大寺院の意。特に禅院を指す。▲
聖徳太子。日本の天平期、すでに聖徳太子は支那の大徳、南嶽慧思の生まれ変わりであるとの説が大陸にても知られており、平安期以降はさらに観音の化身であったとする信仰が生じて人々に奉じられていた。▲
仏・菩薩が衆生を救うため、仮に人や神など他の姿をとって現れること。化身に同じ。▲
鑑真〈〉。▲
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人が仏教の正式な出家者、比丘となるためには、諸律蔵に共通して規定される条件を満たしたうえで、正規の手順を経て僧伽からその者が「比丘たること」を承認されなければならない。その条件とは遮難といわれ、例えば『四分律』では十遮十三難の不適格条項に抵触していないことであり、また正規の手順とは白四羯磨といわれる僧伽の議決を得ることで、その僧伽は一般に三師七証といわれる最低十人以上の比丘で構成されたものでなければならない。
鑑真はそのような規定を全て満たし得る知識と経験を備え、また必要員数となるその他比丘らと共に渡来したことによって、初めて日本で正規の授戒を可能とした。▲
源実朝。源頼朝の次男で鎌倉幕府第三代将軍。右大臣、正二位。▲
遁世聖。遁世僧、遁世上人に同じ。▲
語義としてはただ京の若者であるが、ここで「童部」には元服していない未成熟あるいは反社会的な輩が含意され、京にある無頼漢、あるいは噂好きで悪態をつく愚かな人々を意味する。▲
この一節、意味不明。異本にはこの一節無し。▲
[S] upoṣadha. 布薩。一ヶ月のうち新月と満月の日に開かれるべき出家者にとって最も重要な日。律儀の条項を連ねまとめた波羅提木叉(戒本)を一人の長老比丘が暗誦し、それをその他大衆が静聴して、それぞれ違犯が無く僧伽が清淨であることを確認する日。
一般に、「僧が集って懺悔・反省する日」などと説明されることが誤り。もし何か発露・懺悔すべき律儀に反する行為を為した者は布薩に参加することは出来ず、しかし布薩には必ずその境界内にある僧徒全員が参加しなければならないため、それが出罪可能なものであれば布薩以前に懺悔しておかなければならない。もし直ちに出罪の出来ない重罪を犯した者は、出家者の資格が一時的あるいは恒久的に停止・追放され、布薩に参加することが出来ない。▲
椅子、高座。▲