VIVEKA For All Buddhist Studies.
Dharmacakra
智慧之大海 ―去聖の為に絶学を継ぐ

喜海 『高山寺明恵上人行状』

原文

仁和寺にわじ土橋惠鏡えきょう法橋ほうきょう尊實そんじつ對シテ弘法大師ノ御作ごさく習學ス。又花嚴院けごんいん景雅きょうが法橋對シテ花嚴五敎章けごんごけうしゃう受學ス。又又賢如けんにょ房律師尊印そんいん對シテ悉曇字記しったんじきウク。シカル律師悉曇しったん於テ分明ふんみょうナラサル所アリ。よりて彼ノ說ヲ受學スト雖トモいささか思煩トコロ、夢一人ノ梵僧ぼんそう對シテコレヲナラヒテ、ソノ不審ヲ決ス。梵僧告テ曰ク、汝來世らいせ釋迦如來親近しんごんシ奉リテ五百生ごひゃくしゃうノ間コノ悉曇聲明しゃうみゃうノ法ヲナラヒキハムヘシ。其後夢サメテ律師對シテ是分明ふんみゃうナラス。夢中むちう示ストコロ律師コレヲシラス云々

一 十二三歲ノ時、髙尾たかおヲ出ムト思フ事アリキ。而父母ぶも我ヲハ藥師仏ニマイラセタリ。いとま申テ後ヘシト思フ。又ヲナシク八幡はちまん大𦬇だいぼさつニモイトマヲ申或夜あるよ、已髙尾出ムト思ヒテ三日坂みっかざかマテ出タリ。見レハ大虵だいじゃ頭ヲサヽケテ、追來みちフサカレリ。八幡大𦬇ノ御使おつかいナリ云々。又はちノ三四寸ばかりナルとびきたりいは、八幡大𦬇ノ御使トシテ留メ奉ルヘキよしおほせアリ、カヘラシメ給ヘシ云々其後そののちとどめをはり
又十三歲ノ時、心おもは、今十三ナリヌレハ年ステニおひタリ。死ナムスル事モチカツキヌ。何事ヲセムト思トモ、イク程イキテ營ムヘキアラス。同ク死ヌヘクハ、佛ノ衆生しゅじゃうノ爲ステ給ヒケムカ如ク、人モカハリ、トラおほかみニモクハレテ死ヌヘシト思テ、其心ためさむカタメ倶舎頌くしゃじゅハカリ手ニキリテ、人ニモシラレスシテ、タヽ一人、五三昧ごさんまいヘ行トヽマレル事アリキ。かたはら物々ものものヲトせシカハ、ステニ狼ノ來ルカト思テ、彼薩埵さった王子餓虎がこ身ヲ施シカ如ク、我又今夜狼くはレテ命ヲ捨ヘシト思キ。尺尊しゃくそん僧祇そうぎノ昔ノ修行思ツヽケラレテアハレナリシカハ、一心念シテマチヰタリシカトモ、別ノ事ナクテ夜モアケシカハ、遺恨ナルヤウニおぼへかえリニキ云々

生年しゃうねん十四歲ノ時、文覺もんがく上人所勞しょらうあひだ、ヒソカつげて、我大願アリ。髙雄興隆シテ大師仏法興セント思。此所勞ヨリテ命終みゃうじゃう、コノねがひ成セセラム。汝申サム事ヲソ仏聞入シメ給ハムスル。入堂にうどうシテ藥師仏モシ大願成就スヘクハ此やまひヤメシメ給ヘト祈請きしゃうシ申セ云々よりて入堂シテ祈請スルニ、卽平愈へいゆアリキ云々

一 生年十三歲ヨリ十九歲マテ金剛界こんごうかい初行しょぎゃういたるあひだ、毎日一度髙尾金堂こんだう入堂スルコト七ヶ年ノ間退轉たいてんアルコトナシ。もしイマタ入堂セスシテ睡眠すいめんシタル事アレハ、夢中必人アテ告驚カス。又日々文殊もんじゅ五字ごじ眞言しんごん千反誦ス。ソノ本尊ニハ月輪ぐわちりんノ内五字眞言めぐらせカヽレタリ。其ねがひスル所、永ク世間ノ榮花えいぐわヲステヽ、名利みゃうり覊鏁きさニホタサレス、かならず文殊ノ威神ヨテ如實にょじつ正智しゃうちヲヱテ、仏意ノ源底聖敎しゃうげう深旨じんしサクリヱム事ノソム。しかるに世間如此好タル人モ見サレハ、誰人たれひとたずねとぶらふヘキ。諸仏𦬇ぼさつ御加被力ごかひりきあらスヨリハ、サラニ得ヘカラサルトコロナリト思テ、一心仏力タノミ仰ク。然間しかるあひだ、常種々しゅじゅ奇特きとく夢相むそう感スルコト多シ。十三歲ノ年、子ンコロ祈請スルニ、夢大髙巖だいかふげむ髙尾ノイワヤナト覺ユノ上ニ奇麗ノ灌頂くわんぢゃう道場ヲタテヽ、師匠土橋ノ法橋受者トシテ灌頂ヲ授クト見ル。たとひ我灌頂見ムスラ奇瑞きずいノ夢也。いはむヤ師匠モテ受者トシテ灌頂サツト見事不思議也。其時ハ眞言師しんごんじナラムスルカト思テ、祈請ノ本意モアラス覺すべ眞言師モ學生がくしゃうモ心ニイラスこのモシクモ覺ヱサリキ。只仏法仏意聖敎ノコトワリノ如修行セム事ヲノミ思キ。此夢おもひあはスレハ、大智惠得ヘキ瑞相ナリ。彼第十地だいじふち𦬇ぼさつ受識じゅしき灌頂くわんぢょうノ儀式、一切諸仏ノ智惠ヲウル故ナリ云々。又或時、夢納凉坊なふらうぼう參スルついで見レハ、弘法大師髙尾造營番匠ばんしゃうまじり御坐ござアリ、やうや納凉坊ヘ御遊行ごゆぎゃうアリ、その御共參ス。大師納凉房ノ長押なげし御枕ニテふし給ヘリ。ソノ二ノ御眼、水精珠すいしゃうしゅノ如シ。梅ノいきほひシテソノ御枕有。是取テ袖つつみテ持セリ。寶物ほうもつマウケタリト思覺了云々

文治ぶんぢ四年戊申生年十六歲ニシテしうと上覺上人付テ出家しゅっけス。東大寺とうだいじ戒壇院かいだんいんシテ具足戒ぐそくかいヲウク。又東大寺尊勝院そんしゃういん華嚴宗林觀りんくわん房法眼聖詮しゃうせんまうシテ倶舎くしゃ受學じゅがくス。然ルニ倶舎第十九卷有身見うしんけんしゃくスルニ、爲遮常一想故立此名ト云ヲモテ、學者外道げだう所立しょりうノ神我見がけん名クト云々。昔十六七ノころ幻學げんがくノ心、比等ノ料簡れうけん聞シ時、誠宿善しうぜんもよほス力ニモヤアリケム、スヘテ聖敎ノ本意ほいアラスト思キ。三乘さんじょう賢聖けんじゃう道跡だうしゃく入不入ノ要路、タヽ此事アルヘシ。衆生五薀ごうん和合聚わごうじゅノ中迷ヘルカ故一我いちがノ心アリ。念々ねんねん生滅しゃうめつヲ見サルカ故常執じょうしふ起セリ。サラニしふセムカタメ、マツ常一じゃういちノ執起スあらス。如來此迷心めいしんほんセムカタメ三科さんか法門ほふもん說キ給ヘリ。まず五薀和合ト說、一執コヽニ遮シ、即是非常ひじょうト聞カ故、常執たちまちなく。シカレハ衆生ト五薀非常和合聚ノたいナレハ、人我にんがノ執何處いずくニカせム。此ノ處人空にんくう眞如しんにょ、又二乘にじょう無餘むよ建立こんりふセリ。故有身見ノ義、外道ノ執我見しふがけんアツクヘカラスト思しかるあひ倶舎婆沙ばしゃ正理しゃうり顯宗けんしゅう等諸經論ノ中、有身見尺スル所、ならびに諸外道ノ宗義、又二十句ノ我見がけん六十二見ろくじうにけん等、是ヲ心かけしらべしたがふテ、いよいよ學者此ことはり迷ヘル事ヲ知ル。誠三乘ノ道果此所ヨリひらケタリ。我法ノ前ヘキ所非サレハ、すみやか文殊大聖大知惠ヲコヒテ、如來ノ本意ほい无我むが法印ノ正理しょうりウヘシト思すなはち其比そのころ此事ヲ決セムカタメ、一切經藏シテ經論尺文しゃくもん披覽ひらんつひであるは十枚ばかり或六七枚、是ヲ暗誦シテ住處還テ抄寫せうしゃシアツメラルヽ事ツ子アリキ云々

現代語訳

一.仁和寺にわじの土橋惠鏡えきょう法橋ほうきょう尊実そんじつに対して弘法大師の御作ごさく〈著作〉を習学した。また華厳院の景雅きょうが法橋に対して『華厳五教章けごんごきょうしょう』を受学した。またまた賢如けんにょ房律師尊印そんいんに対して『悉曇字記しったんじき』等を受けた。しかしながら、律師(の教える内容)には悉曇について分明でないところがあった。そこで彼の説を受学したとはいえ、(釈然と出来ずに)いささか思い煩っていたところ、夢に(現れた)一人の梵僧〈印度僧〉に対してこれを習い、その不審を解決した。梵僧は告げて云った。
「汝は来世、釈迦如来に親近しんごんし奉って五百生ごひゃくしょうの間、この悉曇しったん〈梵字〉声明しょうみょう〈梵語の文法または音韻学〉の法を習い極めるであろう」
その後、夢が覚めてから、律師に対して(梵僧から習い学んだ悉曇について)これを問うたけれども(答えは)分明でなかった。夢の中で示されたところについて、律師はこれを知らなかったのだ、ということである。

一.十二、三歲の時〈元暦二年(1185)頃〉、髙尾〈神護寺〉を出ようと思う事があった。しかしながら、父母が私を薬師仏〈神護寺本尊〉に参らせたのである。(まずは)いとまを申して後に出ようと思った。また、同じく八幡大菩薩〈神護寺の鎮守〉にも暇を申したところ、ある夜の夢に、すでに髙尾を出ようと思って三日坂みっかざか〈鳴瀧川にかかる橋から神護寺の山門に続く急峻な参道〉まで出た。見れば大虵だいじゃが頭をもたげ、追い来たって路の前を塞いでいた。(その大虵は)八幡大菩薩の御使いであったという。また蜂の三、四寸ほどもあるのが飛び来たって云う。
「八幡大菩薩の御使いとして(高弁を)留め奉るべき由の仰せがありました。『(高尾に)帰らしめ給え』と」
その後、(高尾を去るのを)思い留まったのである。
また、十三歲の時〈文治二年(1186)〉、心に思った。「今、もう十三になったということは、(私は)年すでに老いたのだ。死ぬであろうことも近づいた。何事かしようと思ったとしても、どれほど生きて営むことなど出来るものではない。(誰であれ何であれ、必ず)同じく死ぬものであれば、仏が衆生の為に命を捨て給われたように、人の命に代わって虎や狼にも喰われて死のうと思った。(そこで自ら)その心を試そうと、『倶舎頌くしゃじゅ』だけを手に握って、人にも知られずただ一人、五三昧ごさんまい〈風葬地。特に愛宕山一帯であろう〉へ行って留まったことがある。傍には色々と音がしてきたため、すでに狼が来たのだろうと思い、(釈尊の前世であった)かの薩埵さった王子〈釈尊の前世における一境遇〉が餓えた虎に身を施したように、私もまた今夜、狼に食われて命を捨てようと思った。釈尊による阿僧祇劫あそうぎこう〈長大な宇宙論的時間〉にわたる昔の修行が思い続けられ、深く心にしみじみとした感動を覚えてきたため、一心に仏を念じて(狼に喰われるのを)待っていた。けれども、何の事もなく夜が明けたため、遺恨なように思いつつ還った、ということである。

一.生年十四歲の時、文覚もんがく上人〈上覚の師で明恵の庇護者。神護寺の中興〉所労しょろう〈病気〉の間、ひそかに告げて云った、
「私には大願がある。髙雄を興隆して大師の仏法を興そうと思うのだ。この所労によって命が終れば、この願いは成すことができない。汝が申す事ならば仏も聞き入れしめ給われるであろう。入堂して薬師仏に、『もし(文覚の)大願が成就しえるものであるならば、この病を止めしめ給え』と祈請きしゃうし申せ」
と。そこで(高弁が)入堂して祈請したところ、たちまち(文覚の所労は)平愈した、ということである。

一.生年十三歲より十九歲に至るまで、金剛界こんごうかいの初行の期〈『金剛頂経』系の密教、三密瑜伽を習得するため一定期間修すべき行。いわゆる四度加行の第二段階〉に至る間、毎日に一度、髙尾の金堂こんどうに入堂することを七ヶ年の間、退転したことはなかった。もし未だ入堂せずに睡ってしまうような事があれば、夢の中に必ず人が現れて(本堂に入堂していないことを)告げ、驚かされた。また日々に文殊もんじゅの五字真言(nanananana)千反を誦した。その本尊には月輪の内側に、五字真言を旋らして書かれていた。その願いとするところは、永く世間の栄華を捨てて、名利みょうり〈名誉と利得〉という覊鏁きさ〈縛り付けるもの。虚飾〉にほだされず、必ず文殊の威神によって如実の正智しょうちを得て、仏意の源底を極め、聖教しょうぎょうの深旨を探り得る事を望むものであった。しかしながら、世間にそのように(仏法を志向して)好みとする人も見ることはないため、(その願いを叶えるために)誰人を訪尋るべきであろうか。諸仏・菩薩の御加被力によらないでは、更に得ることなど出来ないところであると思い、一心に仏力を頼み仰いだ。そうしたところ、常に種々にして奇特なる夢相を感じることが多くあった。
十三歲の年、ねんごろに祈請したところ、夢に大高巌髙尾の巌谷であろうと思われるの上に奇麗な灌頂かんじょう道場〈密教における嗣法のための重要儀式を行うための堂舎〉を建て、師匠である土橋の法橋ほうきょう〈尊実〉を受者として灌頂を授けるというのを見た。すでに私が灌頂を受けるのを見ることすら奇瑞の夢である。ましてや師匠をもって受者とし灌頂を授けると見ることは不思議である。その時は真言師〈密教行者〉になるのであろうかと思ったが、祈請の本意などではないと感じ、ずべて真言師であれ学生がくしょうであれ心に入らず、(それらを)好ましくも感じられなかった。ただ仏法に於いて仏意を得、聖教の理の如くに勤め修行する事をのみ思っていた。この夢について後に思い合わせたならば、大智恵を得るであろうことの瑞相であった。かの第十地菩薩〈仏位に至る手前の境涯にいたった菩薩〉受識じゅしき灌頂の儀式は、一切諸仏の智恵を得る故である、ということであった。
またある時、夢で納凉坊のうりょうぼう〈空海が滞在していたとされる神護寺の一房〉に参詣する次いでにふと見たならば、弘法大師が髙尾を造営する番匠〈工匠。大工〉に雑じって御坐されていたが、漸く納凉坊へ御遊行されたので、その御共に参じた。大師は納凉房の長押なげしを御枕にして臥し給われた。その二つの御眼は水精珠のようであった。(その二つの眼が、あたかも春に芽吹き枝葉を伸ばす)梅の(ような)勢いをもってその御枕に(転がり落ちて)あったため、それを取って袖に隠し持った。「宝物をもうけた」と思ったところで目が覚めた、ということである。

一.文治ぶんぢ四年戊申〈1188〉、生年十六歲にしてしゅうとの上覚上人について出家した。(そして)東大寺戒壇院にて具足戒ぐそくかいを受けたのである〈具足戒は数え廿歳でなければ受けて比丘となることは出来ない。もし受けても無効とされる。当時の諸大寺における律宗や戒壇院が正当に機能していなかった証左〉
また、東大寺尊勝院そんしょういんにある華厳宗の林観房法眼聖詮しょうせんに謁して『倶舎論くしゃろん』を受学した。そうしたところ、『倶舎論』第十九卷に出る「有身見〈諸要素が仮に集合して成立しているにすぎない自身あるいは自身(他者含む)をして、恒常にして常一なる存在であるとする誤った見解〉」の名目を解釈するのに、「常一の想を遮する為の故に此の名を立つ」と云うことから、学者は外道所立の「神我見」について名づけられたものだという。昔十六、七の頃、幼学の心の底に、これ等の(学者による)料簡を聞いた時、誠に宿善の催す力でもあったろう、すべて聖教の本意ではないと思った。三乗賢聖の道跡入不入の要路は、ただこの事にあるのだ。衆生には「五薀和合聚」の中に迷っているため一我の心(という誤った見方が)がある。念々生滅〈事物が刹那刹那に生滅していること〉を見ないが故に常執〈世界には何か「常」なるものがあるという見解に対する執着〉を起こすのだ。さらに「我」を執することから、先ず常一の執を起すのではない。如來はこの迷心を翻させるために、三科の法門を説き給われた。先ず「五薀和合〈我々生命とは色・受・想・行・識という五つの要素が仮に集合したものであり、その機能であること〉」と説かれたことによって一執〈自我という一なるものが存するという誤った見解のとらわれ〉をここに遮し、「即ちこれ常ならざるもの」と聞くが故に常執〈自我は常に存して不滅であるという誤った見解のとらわれ〉はたちまちに消亡する。ならば衆生とは「五薀非常和合聚」の体であるから、人我の執など何処に成立しえるであろう。この処に人空真如を立て、また二乗無余の体を建立されたのだ。故に「有身見」の義は、外道の執我見に(限定して)理解すべきものではないと思った。そこで『倶舎論くしゃろん』・『大毘婆沙論』・『順正理論』・『顕宗論』等の諸経論の中に「有身見」を注釈する所や、ならびに諸々の外道の宗義、また二十句の我見、六十二見等、これらを心に懸け、検べていくに随って、いよいよ学者はこの理に迷っている事を知った。誠に三乗の道果は、この所から披けているのだ。我法の前に得べき所ではないのであるから、速かに文殊大聖に大知恵を請い、如来の本意、無我法印の正理を得なければならないと思った。そこでその頃、この事を決するため、一切経蔵〈経典の収蔵庫〉にて経論の釈文を披覧する次でに、あるいは十枚ばかり、あるいは六、七枚、これを暗誦して住処に還って抄写〈文章の一部を書き写すこと。抜き書き〉して集めることが常にあった、ということである。

脚註

  1. 仁和寺にわじ

    洛外北西に位置する寺院。宇多天皇による開基で観賢を初代別当に迎えた寺。後、宇多天皇が東寺の益信に師事して出家し、法皇となった際に入寺して以来、皇族の法親王が住持を務める門跡寺院となった。
    現在は真言宗御室派総本山としてある。今は「にんなじ」と読まれるが、その昔は「にわじ」と称した。

  2. 土橋惠鏡えきょう法橋ほうきょう尊實そんじつ

    出自などその人物の詳細は知られないものの、鎌倉後期に元瑜により撰述されたと思われる真言密教の相承譜『血脈類集記』巻七に「惠鏡房法橋」の名で出、「文治五年四月廿五日卒八十四」とあることから、明恵がその室に入った時は八十一歳という高齢であったことまでは知られる。
    法橋は法橋上人の略で、平安初期(貞観六年〈864〉)に制定された僧位階の一。上から法印大和上位・法眼和上位・法橋上人位の三位が定められた。それまで僧に与えられた官位は僧綱職における僧正・僧都・律師であって僧徒の綱紀粛正を図る実務を担当したが、律令制の崩壊によって僧綱は機能しなくなりただ名誉職となった。しかし一応定員があってたやすく乱発出来なかったため、より叙位しやすいものとして考案したのであろう。実際、広大になるにつれ朝廷から乱発され、その叙位に際して得る礼金は金銭稼ぎの種となった。
    法橋上人は僧綱における律師に対応し、公家の五位に相当するものとされた。

  3. 弘法大師ノ御作ごさく

    空海による著作。ここでその題目の具体が出されていないため不明であるが、『弁顕密二教論』・『即身成仏義』・『声字実相義』あたりで、その素読を教わった程度のことであったろう。

  4. 花嚴院けごんいん景雅きょうが法橋

    花厳院(華厳院)は仁和寺の子院の一つ。景雅の人物像について判然としないが東大寺尊勝院にて学問を修めた人であったという。

  5. 花嚴五敎章けごんごけうしゃう

    『華厳五教章』。華厳宗祖(第三祖)法蔵による著で、華厳宗における根本典籍の一。仏教を小乗教・大乗始教・大乗終教・頓教・円教に分類、円教こそ至高のものであって『華厳経』がそれに当たると説き、当時優勢であった法相宗は大乗初教に過ぎないとした書。空海の思想にも重大な影響を及ぼしており、真言宗の思想的内容はほとんど法蔵の華厳思想と大差ない。

  6. 賢如けんにょ房律師尊印そんいん

    未詳。律師ということから僧綱位に叙せられた人であったことが知られるのみ。

  7. 悉曇字記しったんじき

    唐代の北支の学僧、智廣により五台山にて著されたと思われる悉曇についての書。日本には空海が初めてもたらしている。他多く支那にて著された『悉曇章』に比して最も整理され、理解しやすいことから平安期以来、梵字を学ぶその根本典籍として重要視された。
    詳しくは別項「智廣『悉曇字記』」を参照のこと。

  8. 悉曇しったん

    古代印度において用いられた文字体系の一。悉曇は[S] siddhaṃの音写で「成就」を意味するものであるが、その文字体系の称であったと思われる。もっとも、『悉曇字記』においてはその母音十二音(あるいは十四音)を表する十二字(十四字)のみを指すものとし、子音は体文あるいは字母というとする。

  9. 梵僧ぼんそう

    印度僧。

  10. 聲明しゃうみゃうノ法

    ここで声明とは日本においていわれる仏教音楽でなく、印度以来の用法に同じく梵語の文法学・音韻論の意。

  11. 八幡はちまん大𦬇だいぼさつ

    神護寺の鎮守。
    「大𦬇」の「𦬇」は菩と薩が字が共に有する草冠を上下に合わせた略字。八幡神の本地が菩薩であるとする理解が平安中期から行われていたことによる称。

  12. 三日坂みっかざか

    麓を流れる鳴滝川にかかる高雄橋から神護寺の山門に至るまでの急峻な坂に対する称。あまりに急であることから登り切るのに三日を要するとした大仰な表現。

  13. 五三昧ごさんまい

    後三昧所(後代、これを文字通り「五箇所の三昧所」とする理解が生じるが、明恵当時の事情とはそぐわない)。
    京の人々が遺体を打ち捨てた地。あるいは貴族などがその遺骸を荼毘に付した地。当時、相応の金銭が必要であったろうことから火葬された死者の数は少数であったと思われ、その大多数はただ死体を埋めるでもなく山野に野ざらしにするだけであった。ここで明恵が狼に食われて死のうと試みたのも、風葬が普通であったからこそのことである。遺骸が山犬(狼)など獣、そして猛禽類が食い荒らされることは自明であり、それが当然であって何とも思われてはいなかったのである。このことから、当時(ひいては古代から近世にいたるまで)、一般の日本人は遺体・遺骨になんら思い入れなど有していた無かったことが知られよう。ただし、仏舎利の扱いに同じく、これが高僧のものとなると事情は全く異なり、多くの場合火葬され、その遺骨は丁重に祀られた。対して凡僧、下級僧などは葬儀すらされずに野辺に打ち捨てられることがままあったらしい。
    京都には著名な地として三箇所、北西の化野(愛宕山)・北の蓮台野(舟岡山)・東の鳥辺野が広く知られる。いずれも洛外のそれほど高くない山間部に位置する。ここで明恵が言っているのは、高雄から比較的近く鳴滝川下流にある化野であろう。

  14. 薩埵さった王子

    釈尊の前生の一端。『最勝王経』「捨身品」などに説かれる、飢えた虎に我が身を与え食わせたとされる。

  15. 尺尊しゃくそん

    釈尊。

  16. 僧祇そうぎ

    計り知れないほど長大な月日。
    阿僧祇劫の略。阿僧祇は[S] asaṃkhyaの音写で無数の意。劫は[S] kalpaの音写で宇宙の誕生・維持・変化・滅亡までの宇宙的時を表す単位。

  17. 文覺もんがく上人

    平安末期から鎌倉期前期の僧。摂津の武士出身。俗名は遠藤盛遠。同僚であった源渡の妻に横恋慕するも、誤って彼女を斬り殺したことをきっかけとして出家。神護寺に入ってその復興を試みた。その資金として後白河法皇に荘園を寄進するよう強制しようとして伊豆に流された。そこで同じく伊豆に流されていた源頼朝に出会う。後に許されて京に還ってしばらくした時、平清盛が法皇を幽閉したことを許せず、伊豆の頼朝に平氏打倒を勧めて法皇からはその院宣を得るなど奔走。その功によって法皇および頼朝から荘園を寄進され、それによって神護寺の再興を果たした。

  18. 所勞しょらう

    病気。病に伏せること。

  19. 金剛界こんごうかい初行しょぎゃう

    真言密教において伝法灌頂(具支灌頂)を受けるために受けるべき加行のうち、『金剛頂経』に基づく瑜伽法を受け修める前に行うべき法。

  20. 金堂こんだう

    寺院における本尊を祀る堂宇。本堂。

  21. 文殊もんじゅ五字ごじ眞言しんごん

    nanananana(ア・ラ・パ・チャ・ナ)。

  22. 月輪ぐわちりんノ内五字眞言めぐらせ...

    月輪に擬した白色の円形の内側に文殊の五字真言を巡らせ書いた図。

  23. 名利みゃうり

    名聞利養。名誉と(物質的)利得。

  24. 覊鏁きさ

    縛り付けるもの。「覊」は面繋で、馬の頭の上から轡につなげる飾り紐。鏁は鎖。

  25. 夢相むそう

    夢に見ること。古代末期の当時、日本人にとって夢に見た話はその人の人生を左右するほど重要な意味をもつものであり、時として意味不明なその内容を解釈することが真剣に行われた。

  26. 灌頂くわんぢゃう道場

    密教の重要な儀式である諸々の灌頂を行うための堂。

  27. 眞言師しんごんじ

    真言密教を受法し、その瑜伽法を修める者。必ずしも真言宗徒ではない。

  28. 學生がくしゃう

    学僧。

  29. 第十地だいじふち𦬇ぼさつ

    『華厳経』などに説かれる菩薩の五十二の階梯のうち、下からは第五十、上からは第三となる高位の境地「法雲地」に達した菩薩。

  30. 納凉坊なふらうぼう

    神護寺に空海が滞在していた時、居住していたという堂。現在の大師堂の元とされる。

  31. 番匠ばんしゃう

    建築に携わる工匠。大工。

  32. 長押なげし

    柱と柱の間の横方向に渡して打ち付けた材。

  33. 梅ノいきほひ

    一般的な表現でないが、おそらくは春に梅の花が咲き、その枝が伸びる勢いに掛けた表現であろう。

  34. 東大寺とうだいじ戒壇院かいだんいん

    鑑真とその一行によって可能となった受具足戒を行い、またその受者に律に関する必要最低限の教育を授けるために建立された、東大寺の子院の一。現在その遺構として残っているのは戒壇堂のみであるが、その昔は縁を巡らせた講堂と三方に僧坊がある一定規模の寺院であった。

  35. 具足戒ぐそくかい

    人が比丘たることを僧伽が正規の手順と条件下で承認すること。

  36. 東大寺尊勝院そんしゃういん

    東南院と勢力を競った東大寺院家の一。古代末期から中世における華厳教学復興の拠点であった。

  37. 林觀りんくわん房法眼聖詮しゃうせん

    未詳。尊勝院にあってその学頭を務める学僧であったらしい。

  38. 倶舎くしゃ

    世親『阿毘達磨倶舎論』三十巻。説一切有部の教学を批判的にながらよくまとめた綱要書。支那・西蔵・日本など大乗の伝えられた国々で、仏教学の入門書としてよく学ばれた。先に明恵はこの書の要点の集成である『倶舎頌』の素読を習っていたが、ここで聖詮から『倶舎論』自体、すなわちその意義を学んだのであろう。

  39. 有身見うしんけん

    [S] satkāya-dṛṣṭi. 薩迦耶見とも。我々生命あるものの根底には、いわゆる「魂」・「霊」などといわれるような、決して変わることない恒常的主体が存するという(誤った)見解。

  40. 爲遮常一想故立此名

    『倶舎論』巻十九「分別隨眠品」第五之一にある一節。

  41. 料簡れうけん

    考え、思考、見解。

  42. 宿善しうぜん

    前世においてなした善業。

  43. 三乘さんじょう

    仏教をその志向によって分類した三種。すなわち声聞乗・縁覚乗・菩薩乗。

  44. 賢聖けんじゃう

    賢者と聖者。三賢以上に至ったものを賢者といい、預流果あるいは不退転(阿毘跋致)に至った者を聖者という。

  45. 五薀ごうん

    [S] pañca-skandha. 我々生けるものの身心を構成する五つの集まり。色薀(身体・物質にまつわる集合)・受薀(感受作用にまつわる集合)・想薀(想起作用にまつわる集合)・行薀(意思にまつわる集合)・識薀(認識作用にまつわる集合)。

  46. 一我いちが

    印度の数論外道が主張する、恒常普遍なる真実にして一なる真実在たる我。

  47. 念々ねんねん生滅しゃうめつ

    あらゆる存在は瞬間瞬間に生滅変化して止まないこと。ここで念とは[S] smṛtiでなく[S] kṣaṇaの訳で、一瞬というにも及ばないほどのごく短時間。

  48. 常執じょうしふ

    この世そのもの、あるいはこの世には変わること無く、滅びることなど無い存在があるという(誤った)見解を抱き、固執すること。

  49. [S] ātman. 常住不変にして「存在」の根底にあってそれがそれとしてあらしめるもの。

  50. 常一じゃういち

    我々という存在、あるいは我々を取り巻く諸々の事物は、常にそれ自体(一)としてあるという(誤った)見方。

  51. 三科さんか法門ほふもん

    一切の存在を分類して挙げた三種。すなわち五蘊・十二処・十八界。

  52. 人我にんが

    人という存在の根底には常住不変なる「我(ātman)」が存するという(誤った)見解。

  53. 人空にんくう眞如しんにょ

    人の根底には常住不変なる「我(ātman)」などなく、ただ五蘊・四大などが因縁によって集まり、仮に人という存在としてある、という真実。

  54. 二乘にじょう

    声聞乗と縁覚乗。大乗(菩薩乗)から不完全であるとして批判される二つの教えの類。

  55. 婆沙ばしゃ

    玄奘訳『大毘婆沙論』二百巻。説一切有部の根本典籍たる迦多衍尼子『発智論』に対する大注釈書。毘婆沙は[S] vibhāṣāの音写で注釈の意。説一切有部の正説のみならず編纂当時に行われていた諸学僧の見解を多く収録する。

  56. 正理しゃうり

    玄奘訳 衆賢『阿毘達磨順正理論』八十巻。世親の『倶舎論』が説一切有部の教学に対し批判的態度で撰述されたものであることに対抗し、説一切有部の正統の立場を示そうと著された著。

  57. 顯宗けんしゅう

    玄奘訳 衆賢『阿毘達磨蔵顕宗論』四十巻。『順正理論』をより簡潔に整理して説一切有部の正統教学を示した書。

  58. 二十句ノ我見がけん

    『発智論』以来、説一切有部で論じられた二十種の有身見(薩迦耶見)。

  59. 六十二見ろくじうにけん

    釈尊在世当時、世に行われていた六十二の誤った見解。

  60. 抄寫せうしゃ

    文章の一部を書き写すこと。

関連コンテンツ