一 仁和寺土橋惠鏡房法橋尊實ニ對シテ弘法大師ノ御作習學ス。又花嚴院景雅法橋ニ對シテ花嚴五敎章受學ス。又又賢如房律師尊印ニ對シテ悉曇字記等ヲウク。シカルニ律師悉曇ニ於テ分明ナラサル所アリ。仍彼ノ說ヲ受學スト雖トモ聊思煩トコロニ、夢ニ一人ノ梵僧ニ對シテコレヲナラヒテ、ソノ不審ヲ決ス。梵僧告テ曰ク、汝來世ニ釋迦如來ニ親近シ奉リテ五百生ノ間コノ悉曇聲明ノ法ヲナラヒキハムヘシ。其後夢サメテ律師ニ對シテ是ヲ問ニ分明ナラス。夢中ニ示ストコロ律師コレヲシラス云々。
一 十二三歲ノ時、髙尾ヲ出ムト思フ事アリキ。而ニ父母我ヲハ藥師仏ニマイラセタリ。暇ヲ申テ後ニ出ツヘシト思フ。又ヲナシク八幡大𦬇ニモイトマヲ申ニ、或夜夢ニ、已ニ髙尾ヲ出ムト思ヒテ三日坂マテ出タリ。見レハ大虵頭ヲサヽケテ、追來テ、路ノ前ニフサカレリ。八幡大𦬇ノ御使ナリ云々。又蜂ノ三四寸許ナル飛來テ曰ク、八幡大𦬇ノ御使トシテ留メ奉ルヘキ由ノ仰アリ、カヘラシメ給ヘシ云々。其後思ヒ留リ畢ヌ。
又十三歲ノ時、心ニ思ク、今ハ十三ニナリヌレハ年ステニ老タリ。死ナムスル事モチカツキヌ。何事ヲセムト思トモ、イク程イキテ營ムヘキニアラス。同ク死ヌヘクハ、佛ノ衆生ノ爲ニ命ヲステ給ヒケムカ如ク、人ノ命ニモカハリ、トラ狼ニモクハレテ死ヌヘシト思テ、其心ヲ試カタメニ、倶舎頌ハカリ手ニニキリテ、人ニモシラレスシテ、タヽ一人、五三昧ヘ行テトヽマレル事アリキ。傍ニ物々ヲトせシカハ、ステニ狼ノ來ルカト思テ、彼薩埵王子ノ餓虎ニ身ヲ施シカ如ク、我又今夜狼ニ食レテ命ヲ捨ヘシト思キ。尺尊僧祇ノ昔ノ修行思ヒツヽケラレテアハレナリシカハ、一心ニ佛ヲ念シテマチヰタリシカトモ、別ノ事ナクテ夜モアケシカハ、遺恨ナルヤウニ覺テ還リニキ云々。
一 生年十四歲ノ時、文覺上人所勞ノ間、ヒソカニ告曰ク、我ニ大願アリ。髙雄興隆シテ大師ノ仏法ヲ興セント思。此所勞ニヨリテ命終ハ、コノ願成セセラム。汝カ申サム事ヲソ仏モ聞入シメ給ハムスル。入堂シテ藥師仏ニモシ大願成就スヘクハ此病ヤメシメ給ヘト祈請シ申セ云々。仍入堂シテ祈請スルニ、卽平愈アリキ云々。
一 生年十三歲ヨリ十九歲ニ至マテ、金剛界ノ初行の期ニ至間、毎日ニ一度髙尾ノ金堂ニ入堂スルコト七ヶ年ノ間退轉アルコトナシ。若イマタ入堂セスシテ睡眠シタル事アレハ、夢中ニ必人アテ告ケ驚カス。又日々ニ文殊五字眞言千反ヲ誦ス。ソノ本尊ニハ月輪ノ内五字眞言ヲ旋テカヽレタリ。其願スル所ハ、永ク世間ノ榮花ヲステヽ、名利ノ覊鏁ニホタサレス、必文殊ノ威神ニヨテ如實ノ正智ヲヱテ、仏意ノ源底ヲ極メ、聖敎ノ深旨ヲサクリヱム事ヲノソム。然世間ニ如此好ミタル人モ見ヘサレハ、誰人ニカ訪尋ヘキ。諸仏𦬇ノ御加被力ニ非スヨリハ、サラニ得ヘカラサルトコロナリト思テ、一心ニ仏力ヲタノミ仰ク。然間、常ニ種々奇特ノ夢相ヲ感スルコト多シ。十三歲ノ年、子ンコロニ祈請スルニ、夢ニ大髙巖髙尾ノイワヤナト覺ユノ上ニ奇麗ノ灌頂道場ヲタテヽ、師匠土橋ノ法橋ヲ受者トシテ灌頂ヲ授クト見ル。縱我灌頂ヲ受ト見ムスラ奇瑞ノ夢也。況ヤ師匠ヲモテ受者トシテ灌頂ヲサツクト見ル事不思議也。其時ハ眞言師ニナラムスルカト思テ、祈請ノ本意ニモアラス覺テ、都テ眞言師モ學生モ心ニイラス好モシクモ覺ヱサリキ。只仏法ニ於テ仏意ヲ得テ聖敎ノコトワリノ如ク勤メ修行セム事ヲノミ思キ。此夢ヲ後ニ思合スレハ、大智惠ヲ得ヘキ瑞相ナリ。彼第十地𦬇受識灌頂ノ儀式、一切諸仏ノ智惠ヲウル故ナリ云々。又或時、夢ニ納凉坊ニ參スル次ニ見レハ、弘法大師髙尾造營ノ番匠ニ雜テ御坐アリ、漸ク納凉坊ヘ御遊行アリ、其御共ニ參ス。大師納凉房ノ長押ヲ御枕ニテ臥給ヘリ。ソノ二ノ御眼、水精珠ノ如シ。梅ノ勢シテソノ御枕ニ有。是ヲ取テ袖ニ裹テ持セリ。寶物ヲマウケタリト思テ覺了云々。
一 文治四年戊申生年十六歲ニシテ舅上覺上人ニ付テ出家ス。東大寺戒壇院ニシテ具足戒ヲウク。又東大寺尊勝院華嚴宗林觀房法眼聖詮ニ謁シテ倶舎ヲ受學ス。然ルニ倶舎第十九卷有身見ノ名ヲ尺スルニ、爲遮常一想故立此名ト云ヲモテ、學者外道所立ノ神我見ニ名クト云々。昔十六七ノ比、幻學ノ心ノ底ニ、比等ノ料簡聞シ時、誠ニ宿善ノ催ス力ニモヤアリケム、スヘテ聖敎ノ本意ニアラスト思キ。三乘賢聖ノ道跡入不入ノ要路、タヽ此事ニアルヘシ。衆生五薀和合聚ノ中ニ迷ヘルカ故ニ、一我ノ心アリ。念々生滅ヲ見サルカ故ニ常執ヲ起セリ。サラニ我ヲ執セムカタメニ、マツ常一ノ執ヲ起スニ非ス。如來此迷心ヲ翻セムカタメニ、三科ノ法門ヲ說キ給ヘリ。先五薀和合ト說カ故ニ、一執コヽニ遮シ、即是非常ト聞カ故ニ、常執忽ニ亡ス。シカレハ衆生ト者五薀非常和合聚ノ躰ナレハ、人我ノ執何處ニカ立せム。此ノ處ニ人空眞如ヲ立テ、又二乘無餘ノ躰ヲ建立セリ。故ニ有身見ノ義、外道ノ執我見ニアツクヘカラスト思キ。然間タ倶舎婆沙正理顯宗等諸經論ノ中ニ、有身見尺スル所、并諸外道ノ宗義、又二十句ノ我見、六十二見等、是ヲ心ニ懸テ檢ルニ隨テ、弥學者此理ニ迷ヘル事ヲ知ル。誠三乘ノ道果ハ此所ヨリ披ケタリ。我法ノ前ニ得ヘキ所ニ非サレハ、速ニ文殊大聖ニ大知惠ヲコヒテ、如來ノ本意、无我法印ノ正理ヲウヘシト思キ。則其比此事ヲ決セムカタメニ、一切經藏ニシテ經論ノ尺文披覽ノ次ニ、或十枚許或六七枚、是ヲ暗誦シテ住處ニ還テ抄寫シアツメラルヽ事ツ子ニアリキ云々。
一.仁和寺の土橋惠鏡房法橋尊実に対して弘法大師の御作〈著作〉を習学した。また華厳院の景雅法橋に対して『華厳五教章』を受学した。またまた賢如房律師尊印に対して『悉曇字記』等を受けた。しかしながら、律師(の教える内容)には悉曇について分明でないところがあった。そこで彼の説を受学したとはいえ、(釈然と出来ずに)聊か思い煩っていたところ、夢に(現れた)一人の梵僧〈印度僧〉に対してこれを習い、その不審を解決した。梵僧は告げて云った。
「汝は来世、釈迦如来に親近し奉って五百生の間、この悉曇〈梵字〉と声明〈梵語の文法または音韻学〉の法を習い極めるであろう」
その後、夢が覚めてから、律師に対して(梵僧から習い学んだ悉曇について)これを問うたけれども(答えは)分明でなかった。夢の中で示されたところについて、律師はこれを知らなかったのだ、ということである。
一.十二、三歲の時〈元暦二年(1185)頃〉、髙尾〈神護寺〉を出ようと思う事があった。しかしながら、父母が私を薬師仏〈神護寺本尊〉に参らせたのである。(まずは)暇を申して後に出ようと思った。また、同じく八幡大菩薩〈神護寺の鎮守〉にも暇を申したところ、ある夜の夢に、すでに髙尾を出ようと思って三日坂〈鳴瀧川にかかる橋から神護寺の山門に続く急峻な参道〉まで出た。見れば大虵が頭をもたげ、追い来たって路の前を塞いでいた。(その大虵は)八幡大菩薩の御使いであったという。また蜂の三、四寸ほどもあるのが飛び来たって云う。
「八幡大菩薩の御使いとして(高弁を)留め奉るべき由の仰せがありました。『(高尾に)帰らしめ給え』と」
その後、(高尾を去るのを)思い留まったのである。
また、十三歲の時〈文治二年(1186)〉、心に思った。「今、もう十三になったということは、(私は)年すでに老いたのだ。死ぬであろうことも近づいた。何事かしようと思ったとしても、どれほど生きて営むことなど出来るものではない。(誰であれ何であれ、必ず)同じく死ぬものであれば、仏が衆生の為に命を捨て給われたように、人の命に代わって虎や狼にも喰われて死のうと思った。(そこで自ら)その心を試そうと、『倶舎頌』だけを手に握って、人にも知られずただ一人、五三昧〈風葬地。特に愛宕山一帯であろう〉へ行って留まったことがある。傍には色々と音がしてきたため、すでに狼が来たのだろうと思い、(釈尊の前世であった)かの薩埵王子〈釈尊の前世における一境遇〉が餓えた虎に身を施したように、私もまた今夜、狼に食われて命を捨てようと思った。釈尊による阿僧祇劫〈長大な宇宙論的時間〉にわたる昔の修行が思い続けられ、深く心にしみじみとした感動を覚えてきたため、一心に仏を念じて(狼に喰われるのを)待っていた。けれども、何の事もなく夜が明けたため、遺恨なように思いつつ還った、ということである。
一.生年十四歲の時、文覚上人〈上覚の師で明恵の庇護者。神護寺の中興〉が所労〈病気〉の間、ひそかに告げて云った、
「私には大願がある。髙雄を興隆して大師の仏法を興そうと思うのだ。この所労によって命が終れば、この願いは成すことができない。汝が申す事ならば仏も聞き入れしめ給われるであろう。入堂して薬師仏に、『もし(文覚の)大願が成就しえるものであるならば、この病を止めしめ給え』と祈請し申せ」
と。そこで(高弁が)入堂して祈請したところ、たちまち(文覚の所労は)平愈した、ということである。
一.生年十三歲より十九歲に至るまで、金剛界の初行の期〈『金剛頂経』系の密教、三密瑜伽を習得するため一定期間修すべき行。いわゆる四度加行の第二段階〉に至る間、毎日に一度、髙尾の金堂に入堂することを七ヶ年の間、退転したことはなかった。もし未だ入堂せずに睡ってしまうような事があれば、夢の中に必ず人が現れて(本堂に入堂していないことを)告げ、驚かされた。また日々に文殊の五字真言(



)千反を誦した。その本尊には月輪の内側に、五字真言を旋らして書かれていた。その願いとするところは、永く世間の栄華を捨てて、名利〈名誉と利得〉という覊鏁〈縛り付けるもの。虚飾〉にほだされず、必ず文殊の威神によって如実の正智を得て、仏意の源底を極め、聖教の深旨を探り得る事を望むものであった。しかしながら、世間にそのように(仏法を志向して)好みとする人も見ることはないため、(その願いを叶えるために)誰人を訪尋るべきであろうか。諸仏・菩薩の御加被力によらないでは、更に得ることなど出来ないところであると思い、一心に仏力を頼み仰いだ。そうしたところ、常に種々にして奇特なる夢相を感じることが多くあった。
十三歲の年、懇ろに祈請したところ、夢に大高巌髙尾の巌谷であろうと思われるの上に奇麗な灌頂道場〈密教における嗣法のための重要儀式を行うための堂舎〉を建て、師匠である土橋の法橋〈尊実〉を受者として灌頂を授けるというのを見た。すでに私が灌頂を受けるのを見ることすら奇瑞の夢である。ましてや師匠をもって受者とし灌頂を授けると見ることは不思議である。その時は真言師〈密教行者〉になるのであろうかと思ったが、祈請の本意などではないと感じ、ずべて真言師であれ学生であれ心に入らず、(それらを)好ましくも感じられなかった。ただ仏法に於いて仏意を得、聖教の理の如くに勤め修行する事をのみ思っていた。この夢について後に思い合わせたならば、大智恵を得るであろうことの瑞相であった。かの第十地菩薩〈仏位に至る手前の境涯にいたった菩薩〉の受識灌頂の儀式は、一切諸仏の智恵を得る故である、ということであった。
またある時、夢で納凉坊〈空海が滞在していたとされる神護寺の一房〉に参詣する次いでにふと見たならば、弘法大師が髙尾を造営する番匠〈工匠。大工〉に雑じって御坐されていたが、漸く納凉坊へ御遊行されたので、その御共に参じた。大師は納凉房の長押を御枕にして臥し給われた。その二つの御眼は水精珠のようであった。(その二つの眼が、あたかも春に芽吹き枝葉を伸ばす)梅の(ような)勢いをもってその御枕に(転がり落ちて)あったため、それを取って袖に隠し持った。「宝物をもうけた」と思ったところで目が覚めた、ということである。
一.文治四年戊申〈1188〉、生年十六歲にして舅の上覚上人について出家した。(そして)東大寺戒壇院にて具足戒を受けたのである〈具足戒は数え廿歳でなければ受けて比丘となることは出来ない。もし受けても無効とされる。当時の諸大寺における律宗や戒壇院が正当に機能していなかった証左〉。
また、東大寺尊勝院にある華厳宗の林観房法眼聖詮に謁して『倶舎論』を受学した。そうしたところ、『倶舎論』第十九卷に出る「有身見〈諸要素が仮に集合して成立しているにすぎない自身あるいは自身(他者含む)をして、恒常にして常一なる存在であるとする誤った見解〉」の名目を解釈するのに、「常一の想を遮する為の故に此の名を立つ」と云うことから、学者は外道所立の「神我見」について名づけられたものだという。昔十六、七の頃、幼学の心の底に、これ等の(学者による)料簡を聞いた時、誠に宿善の催す力でもあったろう、すべて聖教の本意ではないと思った。三乗賢聖の道跡入不入の要路は、ただこの事にあるのだ。衆生には「五薀和合聚」の中に迷っているため一我の心(という誤った見方が)がある。念々生滅〈事物が刹那刹那に生滅していること〉を見ないが故に常執〈世界には何か「常」なるものがあるという見解に対する執着〉を起こすのだ。さらに「我」を執することから、先ず常一の執を起すのではない。如來はこの迷心を翻させるために、三科の法門を説き給われた。先ず「五薀和合〈我々生命とは色・受・想・行・識という五つの要素が仮に集合したものであり、その機能であること〉」と説かれたことによって一執〈自我という一なるものが存するという誤った見解のとらわれ〉をここに遮し、「即ちこれ常ならざるもの」と聞くが故に常執〈自我は常に存して不滅であるという誤った見解のとらわれ〉はたちまちに消亡する。ならば衆生とは「五薀非常和合聚」の体であるから、人我の執など何処に成立しえるであろう。この処に人空真如を立て、また二乗無余の体を建立されたのだ。故に「有身見」の義は、外道の執我見に(限定して)理解すべきものではないと思った。そこで『倶舎論』・『大毘婆沙論』・『順正理論』・『顕宗論』等の諸経論の中に「有身見」を注釈する所や、ならびに諸々の外道の宗義、また二十句の我見、六十二見等、これらを心に懸け、検べていくに随って、いよいよ学者はこの理に迷っている事を知った。誠に三乗の道果は、この所から披けているのだ。我法の前に得べき所ではないのであるから、速かに文殊大聖に大知恵を請い、如来の本意、無我法印の正理を得なければならないと思った。そこでその頃、この事を決するため、一切経蔵〈経典の収蔵庫〉にて経論の釈文を披覧する次でに、あるいは十枚ばかり、あるいは六、七枚、これを暗誦して住処に還って抄写〈文章の一部を書き写すこと。抜き書き〉して集めることが常にあった、ということである。
洛外北西に位置する寺院。宇多天皇による開基で観賢を初代別当に迎えた寺。後、宇多天皇が東寺の益信に師事して出家し、法皇となった際に入寺して以来、皇族の法親王が住持を務める門跡寺院となった。
現在は真言宗御室派総本山としてある。今は「にんなじ」と読まれるが、その昔は「にわじ」と称した。▲
出自などその人物の詳細は知られないものの、鎌倉後期に元瑜により撰述されたと思われる真言密教の相承譜『血脈類集記』巻七に「惠鏡房法橋」の名で出、「文治五年四月廿五日卒八十四」とあることから、明恵がその室に入った時は八十一歳という高齢であったことまでは知られる。
法橋は法橋上人の略で、平安初期(貞観六年〈864〉)に制定された僧位階の一。上から法印大和上位・法眼和上位・法橋上人位の三位が定められた。それまで僧に与えられた官位は僧綱職における僧正・僧都・律師であって僧徒の綱紀粛正を図る実務を担当したが、律令制の崩壊によって僧綱は機能しなくなりただ名誉職となった。しかし一応定員があってたやすく乱発出来なかったため、より叙位しやすいものとして考案したのであろう。実際、広大になるにつれ朝廷から乱発され、その叙位に際して得る礼金は金銭稼ぎの種となった。
法橋上人は僧綱における律師に対応し、公家の五位に相当するものとされた。▲
空海による著作。ここでその題目の具体が出されていないため不明であるが、『弁顕密二教論』・『即身成仏義』・『声字実相義』あたりで、その素読を教わった程度のことであったろう。▲
花厳院(華厳院)は仁和寺の子院の一つ。景雅の人物像について判然としないが東大寺尊勝院にて学問を修めた人であったという。▲
『華厳五教章』。華厳宗祖(第三祖)法蔵による著で、華厳宗における根本典籍の一。仏教を小乗教・大乗始教・大乗終教・頓教・円教に分類、円教こそ至高のものであって『華厳経』がそれに当たると説き、当時優勢であった法相宗は大乗初教に過ぎないとした書。空海の思想にも重大な影響を及ぼしており、真言宗の思想的内容はほとんど法蔵の華厳思想と大差ない。▲
未詳。律師ということから僧綱位に叙せられた人であったことが知られるのみ。▲
古代印度において用いられた文字体系の一。悉曇は[S] siddhaṃの音写で「成就」を意味するものであるが、その文字体系の称であったと思われる。もっとも、『悉曇字記』においてはその母音十二音(あるいは十四音)を表する十二字(十四字)のみを指すものとし、子音は体文あるいは字母というとする。▲
印度僧。▲
ここで声明とは日本においていわれる仏教音楽でなく、印度以来の用法に同じく梵語の文法学・音韻論の意。▲
神護寺の鎮守。
「大𦬇」の「𦬇」は菩と薩が字が共に有する草冠を上下に合わせた略字。八幡神の本地が菩薩であるとする理解が平安中期から行われていたことによる称。▲
麓を流れる鳴滝川にかかる高雄橋から神護寺の山門に至るまでの急峻な坂に対する称。あまりに急であることから登り切るのに三日を要するとした大仰な表現。▲
後三昧所(後代、これを文字通り「五箇所の三昧所」とする理解が生じるが、明恵当時の事情とはそぐわない)。
京の人々が遺体を打ち捨てた地。あるいは貴族などがその遺骸を荼毘に付した地。当時、相応の金銭が必要であったろうことから火葬された死者の数は少数であったと思われ、その大多数はただ死体を埋めるでもなく山野に野ざらしにするだけであった。ここで明恵が狼に食われて死のうと試みたのも、風葬が普通であったからこそのことである。遺骸が山犬(狼)など獣、そして猛禽類が食い荒らされることは自明であり、それが当然であって何とも思われてはいなかったのである。このことから、当時(ひいては古代から近世にいたるまで)、一般の日本人は遺体・遺骨になんら思い入れなど有していた無かったことが知られよう。ただし、仏舎利の扱いに同じく、これが高僧のものとなると事情は全く異なり、多くの場合火葬され、その遺骨は丁重に祀られた。対して凡僧、下級僧などは葬儀すらされずに野辺に打ち捨てられることがままあったらしい。
京都には著名な地として三箇所、北西の化野(愛宕山)・北の蓮台野(舟岡山)・東の鳥辺野が広く知られる。いずれも洛外のそれほど高くない山間部に位置する。ここで明恵が言っているのは、高雄から比較的近く鳴滝川下流にある化野であろう。▲
釈尊の前生の一端。『最勝王経』「捨身品」などに説かれる、飢えた虎に我が身を与え食わせたとされる。▲
釈尊。▲
計り知れないほど長大な月日。
阿僧祇劫の略。阿僧祇は[S] asaṃkhyaの音写で無数の意。劫は[S] kalpaの音写で宇宙の誕生・維持・変化・滅亡までの宇宙的時を表す単位。▲
平安末期から鎌倉期前期の僧。摂津の武士出身。俗名は遠藤盛遠。同僚であった源渡の妻に横恋慕するも、誤って彼女を斬り殺したことをきっかけとして出家。神護寺に入ってその復興を試みた。その資金として後白河法皇に荘園を寄進するよう強制しようとして伊豆に流された。そこで同じく伊豆に流されていた源頼朝に出会う。後に許されて京に還ってしばらくした時、平清盛が法皇を幽閉したことを許せず、伊豆の頼朝に平氏打倒を勧めて法皇からはその院宣を得るなど奔走。その功によって法皇および頼朝から荘園を寄進され、それによって神護寺の再興を果たした。▲
病気。病に伏せること。▲
真言密教において伝法灌頂(具支灌頂)を受けるために受けるべき加行のうち、『金剛頂経』に基づく瑜伽法を受け修める前に行うべき法。▲
寺院における本尊を祀る堂宇。本堂。▲




(ア・ラ・パ・チャ・ナ)。▲
月輪に擬した白色の円形の内側に文殊の五字真言を巡らせ書いた図。▲
名聞利養。名誉と(物質的)利得。▲
縛り付けるもの。「覊」は面繋で、馬の頭の上から轡につなげる飾り紐。鏁は鎖。▲
夢に見ること。古代末期の当時、日本人にとって夢に見た話はその人の人生を左右するほど重要な意味をもつものであり、時として意味不明なその内容を解釈することが真剣に行われた。▲
密教の重要な儀式である諸々の灌頂を行うための堂。▲
真言密教を受法し、その瑜伽法を修める者。必ずしも真言宗徒ではない。▲
学僧。▲
『華厳経』などに説かれる菩薩の五十二の階梯のうち、下からは第五十、上からは第三となる高位の境地「法雲地」に達した菩薩。▲
神護寺に空海が滞在していた時、居住していたという堂。現在の大師堂の元とされる。▲
建築に携わる工匠。大工。▲
柱と柱の間の横方向に渡して打ち付けた材。▲
一般的な表現でないが、おそらくは春に梅の花が咲き、その枝が伸びる勢いに掛けた表現であろう。▲
鑑真とその一行によって可能となった受具足戒を行い、またその受者に律に関する必要最低限の教育を授けるために建立された、東大寺の子院の一。現在その遺構として残っているのは戒壇堂のみであるが、その昔は縁を巡らせた講堂と三方に僧坊がある一定規模の寺院であった。▲
人が比丘たることを僧伽が正規の手順と条件下で承認すること。▲
東南院と勢力を競った東大寺院家の一。古代末期から中世における華厳教学復興の拠点であった。▲
未詳。尊勝院にあってその学頭を務める学僧であったらしい。▲
世親『阿毘達磨倶舎論』三十巻。説一切有部の教学を批判的にながらよくまとめた綱要書。支那・西蔵・日本など大乗の伝えられた国々で、仏教学の入門書としてよく学ばれた。先に明恵はこの書の要点の集成である『倶舎頌』の素読を習っていたが、ここで聖詮から『倶舎論』自体、すなわちその意義を学んだのであろう。▲
[S] satkāya-dṛṣṭi. 薩迦耶見とも。我々生命あるものの根底には、いわゆる「魂」・「霊」などといわれるような、決して変わることない恒常的主体が存するという(誤った)見解。▲
『倶舎論』巻十九「分別隨眠品」第五之一にある一節。▲
考え、思考、見解。▲
前世においてなした善業。▲
仏教をその志向によって分類した三種。すなわち声聞乗・縁覚乗・菩薩乗。▲
賢者と聖者。三賢以上に至ったものを賢者といい、預流果あるいは不退転(阿毘跋致)に至った者を聖者という。▲
[S] pañca-skandha. 我々生けるものの身心を構成する五つの集まり。色薀(身体・物質にまつわる集合)・受薀(感受作用にまつわる集合)・想薀(想起作用にまつわる集合)・行薀(意思にまつわる集合)・識薀(認識作用にまつわる集合)。▲
印度の数論外道が主張する、恒常普遍なる真実にして一なる真実在たる我。▲
あらゆる存在は瞬間瞬間に生滅変化して止まないこと。ここで念とは[S] smṛtiでなく[S] kṣaṇaの訳で、一瞬というにも及ばないほどのごく短時間。▲
この世そのもの、あるいはこの世には変わること無く、滅びることなど無い存在があるという(誤った)見解を抱き、固執すること。▲
[S] ātman. 常住不変にして「存在」の根底にあってそれがそれとしてあらしめるもの。▲
我々という存在、あるいは我々を取り巻く諸々の事物は、常にそれ自体(一)としてあるという(誤った)見方。▲
一切の存在を分類して挙げた三種。すなわち五蘊・十二処・十八界。▲
人という存在の根底には常住不変なる「我(ātman)」が存するという(誤った)見解。▲
人の根底には常住不変なる「我(ātman)」などなく、ただ五蘊・四大などが因縁によって集まり、仮に人という存在としてある、という真実。▲
声聞乗と縁覚乗。大乗(菩薩乗)から不完全であるとして批判される二つの教えの類。▲
玄奘訳『大毘婆沙論』二百巻。説一切有部の根本典籍たる迦多衍尼子『発智論』に対する大注釈書。毘婆沙は[S] vibhāṣāの音写で注釈の意。説一切有部の正説のみならず編纂当時に行われていた諸学僧の見解を多く収録する。▲
玄奘訳 衆賢『阿毘達磨順正理論』八十巻。世親の『倶舎論』が説一切有部の教学に対し批判的態度で撰述されたものであることに対抗し、説一切有部の正統の立場を示そうと著された著。▲
玄奘訳 衆賢『阿毘達磨蔵顕宗論』四十巻。『順正理論』をより簡潔に整理して説一切有部の正統教学を示した書。▲
『発智論』以来、説一切有部で論じられた二十種の有身見(薩迦耶見)。▲
釈尊在世当時、世に行われていた六十二の誤った見解。▲
文章の一部を書き写すこと。▲