沙弥尼とは、仏教の見習い男性修行者を意味する[S]Śrāmaṇeraの音写「沙弥」と、[S]Bhikṣuṇīの音訳に「比丘尼」が充てられて以来、女性宗教者を意味するようになった「尼」との混成語です。原則として数え13歳から18歳未満の、仏教における見習い女性出家修行者です。
(漢字「尼」は男女が向き合っている姿の形象であり、本来そこに女性あるいは女性宗教者の意味などまったく無かったことに注意。)
沙弥尼の原語は、女弟子・女生徒を意味する[S]ŚrāmaṇerīあるいはŚrāmaṇerikā / [P]Sāmaṇerīです。その漢訳として、これは玄奘による新訳以降のことですが、勤策女とされます。
沙彌尼。奘三藏云。室利摩拏埋迦。此云勤策女
【沙弥尼】 玄奘三蔵は「室利摩拏埋迦〈室羅摩拏理迦.Śrāmaṇerikā〉」、ここでは「勤策女」と云うとしている。
法雲『翻訳名義集』巻一 釈氏衆名篇第十三(T54, p.1073a)
沙弥尼になるためには、先ず必ず両親から出家の許しを得る必要があります。その上で、自身の出家の師となる和尚([S]upādhyāya / [P]upajjhāya)からその弟子となることの許しを得なければなりません。しかし、極限られた特殊な例外を除き、沙弥尼の和尚は必ず比丘尼でなければなりません。
(和尚については、「比丘 ―仏教徒とは」および「沙弥 ―仏教徒とは」を参照のこと。)
そして、沙弥尼の師僧(和尚)となる比丘尼は、比丘が和尚たり得るのには受具後十夏以上であるのとは異なって、十二夏以上でなければならないとされます。沙弥あるいは沙弥尼は、自身らはあくまで見習い身分であるため、誰か他の師となることは決して出来ません。したがって、比丘あるいは比丘尼が無ければ、必然的に沙弥・沙弥尼は存在し得ません。
沙弥に同じく、沙弥尼も誰か比丘尼を和尚としてその膝下に入ることの許しを得て後、正しく十戒(十学処・沙弥尼律儀)を受けることに依ってなることが出来ます。
No. | 学処 | 相 |
---|---|---|
1 | 不殺生 | いかなるものであれ、故意に有情を殺傷しない。 |
2 | 不偸盗 | 故意に与えられていない物をみずからの物としない。 |
3 | 不婬 | 相手が男・女・天人・獣、自慰であれ、一切の性行為をしない。 |
4 | 不妄語 | 故意に虚言を為さない。 |
5 | 不飲酒 | 穀物酒であれ果実酒、薬酒であれ、一切の酒類を飲まない。 |
6 | 不塗飾香鬘 | 装飾品や香水などつけて身体を飾らない。 |
7 | 不歌舞観聴 | 音楽や舞踏などを鑑賞しない。 |
8 | 不坐高広大牀 | 高く広い寝台で休まない。 |
9 | 不非時食 | 正午から翌日の日の出まで、一切の固形物を食さない。 |
10 | 不蓄金銀宝 | 金銀財宝、および金銭に触れず、蓄えない。 |
沙弥尼が沙弥と異なるのは、結婚経験があった場合(厳密に言えば、男性との性交経験がある者)に限り、十歳からでもなることが可能な点です。そして沙弥尼となってほどなく式叉摩那となることが可能であり、従って十二歳で具足戒を受け、比丘尼となることが一応許されています。
沙弥であれ沙弥尼であれ、その生活は比丘または比丘尼の管轄下に置かれ、僧伽の清掃や修繕、諸々の儀式の準備等の様々な営事には携わりますが、例えば布薩や授戒など羯磨を伴う僧伽の正式な行事に参加することは出来ません。見習いとして師の指導のもと出家者として様々な事項を学び、何ら欠格条件が無いのであれば、成人して比丘または比丘尼となるための素養を備えていきます。
(沙弥尼として学ぶべき事柄の一例は、「沙弥 ―仏教徒とは」を参照のこと。)
沙弥・沙弥尼はあくまで見習いではありますが出家修行者に変わりなく、生活は比丘に準じたものです。したがって、比丘・比丘尼の律儀として定めれている行為に抵触することがあれば、多くの場合、悪作という罪が適用されます。また、悪作以上に該当する罪を犯した場合は、比丘・比丘尼と同様の罰は与えられませんが、相応の懲罰が与えられ、時には追放に処せられます。
現在、比丘尼と称する女性が存在しているのは、支那を始めとする東アジアにて主として依行されてきた、法蔵部(曇無徳部)の『四分律』に基づいた伝統を保持する、台湾・中国・韓国そしてベトナムです。これはいずれも大乗の教団において受容され、伝えられたものです。
一方、南および東南アジアを拠点に繁栄して伝えられた現在の上座部の比丘尼僧伽は、おそらく十一、二世紀頃に消滅しており、その復興は不可能とされてきました。しかし現代、その事情がやや変わっています。というのも、五世紀中頃の支那において初めて結成された比丘尼僧伽は、実はセイロンから渡来した比丘尼らによるものであったという理由から、東アジアにおける比丘尼僧伽(韓国)の伝統を借り、スリランカの女性たちが上座部の比丘尼僧伽をインドにおいて復興したする流れが生じているためです。
(今、スリランカにおいて比丘尼と称する女性たちは、もはや台湾や韓国の助けを借りることなく、自前で受具を行うようになっています。ただし、スリランカ上座部の比丘の大多数が律などほとんど省みず、ただスリランカ流の生活様式で動いているのと同様、その女性達もただ比丘尼に同じ袈裟衣をまとって「比丘尼である」と自称しているだけであって、十戒すら満足に守っておらず、八重法など全く無視しています。)
また、チベット(西蔵)仏教にも比丘尼を称する女性が存在しています。しかし、それは台湾の比丘尼僧伽すなわち『四分律』の伝統において授戒した者がチベットの僧服を着て生活しているに過ぎず、チベット仏教の伝統において比丘尼と認められたものではありません。そもそもチベットでは比丘尼僧伽が存在したことが無いため、これを創立したいとする女性等の欲求は高まる一方ではあるものの、その長老の多くからは「根本説一切有部律」に基づいた比丘尼は存在し得ないと考えられています。
したがって、実際のところ、世界において比丘尼僧伽の命脈が辛うじてでも保たれているのは、ただ『四分律』の伝統においてのみです。しかし、それも東アジア一般の僧が普段は袈裟衣を着用することなく、清代以来のものと思われる比丘や比丘尼としてはありえない、支那流の珍妙な服装で生活しているのとその尼僧らも同様であることを見れば、ごく基本的な律儀という点から真っ当に在る者は無いといえます。
ところで、先に「比丘あるいは比丘尼が無ければ、必然的に沙弥・沙弥尼は存在し得ない」と述べましたが、しかし女性としても出家して修行したいとする願いが消えることはありません。そもそも仏陀ご在世においてもその強い願いが、それはまさに釈尊の養母Mahāpajāpatī Gotamīによるものであったのですが、仏教における比丘尼僧伽の誕生を導いていました。
しかし、上座部を信奉してきた南および東南アジア諸国の中で最も伝統的であり保守的なビルマでは、比丘尼僧伽は往古に滅亡したものであり、律蔵の規定に従ってその復興は不可能と考えているため、スリランカにて復興したとされる比丘尼僧伽の正統性を全く認めていません。
(現代のビルマにおいては、スリランカを起点として欧米に展開した上座部の比丘尼復興問題について、それほど知られておらず、興味も持たれていません。知っている者も、比丘尼僧伽は遠い過去に滅んで久しいもの、復興など不可能という認識に立っているのがほとんどです。なにより、ビルマにおいて現代の比丘尼僧伽復興運動に参加することは違法とされ、国禁となっています。)
しかしながら、そんなビルマでは女性仏教徒の願いを叶えた一つの結果として、これは十九世紀頃からのことだといいますが、Thīla shin(「戒を保つ者」の意)、一般的にはSayāleと呼称される、沙弥尼のような立場の女性の存在が許されています。前項「七衆 ―仏教徒とは」にて、七衆以外の仏教徒の立場は無いと述べましたが、しかし、ビルマにおけるティーラシンはその七衆いずれにも該当しない立場です。そして比丘尼がなければ式叉摩那も沙弥尼も無い。したがって、上座部における女性出家修行者など存在しえない…筈です。ところが、ビルマにおける上座部では、ティーラシンは社会的だけでなく、仏教的・宗教的にも出家者であると認められています。
ただし、彼女たちは比丘尼や式叉摩那、または沙弥尼でないため、ほとんどの場合十戒でなく八斎戒のみを受け、これを厳持して生活しています。そしてその和尚となるのは、比丘尼や沙弥尼の規定とは異なって、長老比丘の場合もあれば年長のティーラシンである場合もあり、特に定まっていません。
八斎戒を常時、受持しているという点からすれば、ティーラシンは、日本の中世から近世にかけての律院に起居していた齋戒衆の女性版のようなものです。ただし、齋戒衆はあくまで在家分であったのに対し、ティーラシンは出家者として見なされている点が大きく異なります。
ティーラシンという立場に対する規定はそもそも律蔵にも経論にも無く、その装束の規定などある筈もないものです。しかし、出家者とする以上は、在俗者とその外儀からして差別化しなければなりません。そこで、ティーラシンが剃髪しているのは勿論ですが、そのほとんどはビルマ語でKo youn(身体を覆うもの)という、かつて比丘尼などが用いた尼僧用の覆肩衣(僧祇支・[S]saṃkakṣikā)と、ビルマ語でLongyi(女性用は特にHtamein)といわれる筒状の下裙、いわゆる厥修羅([S]kuśūla)を着用しています。ただし、コー・ヨウンは薄桃色、ロンジーは朱色であって、律蔵における出家者の衣帯の規定からすればあり得ないものとなっています。
(ただし、これは特に修禅寺院にほとんど限られたことですが、ティーラシンの着用する装束を比丘の袈裟色に準じた茶褐色としているのが、その極一部に見られます。)
そして彼女たちは、比丘尼などのように袈裟衣をまとう立場にないので、その代わりにビルマ語でPa khoun tin(「肩に載せるもの」の意)という、香色の一枚布を折りたたんで肩にたすき掛けにするのが正装となっています。これはいわゆる条帛で、仏像・仏画などにおいて菩薩や明王などが肩にまとっている(在家信者を象徴する)衣装です。もっとも、出家して相当年数を経た年長のティーラシン(セヤージーと呼称)は、パ・カウン・ティンを畳んで条帛のようにせず、広げて体にまとうのが一般的です。こうすると、沙弥や沙弥尼などが着用する縵衣のようなものとなります。
もっとも、北ビルマ(マンダレーやサガイン)では、上図のセヤーレーのようにパ・カウン・ティンを肩から胴に一回りに廻して着けず、ただ左肩に掛けるだけと、同じビルマ国内でも南北で若干着用法が異なっています。また、彼女が托鉢に回る際は、(暑さを避けるために)これをたたんで頭に載せることも一般によく行われています。
このようなティーラシンの装束・外形は、それが七衆の中になく、したがって出家ではあっても正規の出家でないとする曖昧な立場が反映されたものあると言えます。
ビルマ社会において出家者としての身分を確立しているティーラシンは、在家信者達から出家者として敬意を表され処遇されています。しかし、在家信者達もまた、比丘尼僧伽は遠い昔に滅んだとの認識を共有しており、ティーラシンは出家者であろうけれどもやはり「仏教の正式な出家者」としては認めていません。また、彼女たちの多くが貧困層出身の者や孤児、地方の少数民族出身であることなど、ビルマにおける複雑な社会背景も手伝って、それら敬意は表面上のものに留まっている、と言える一面も存しています。
なお、ティーラシンが、スリランカにおける比丘尼僧伽復興運動をいかに見ているかといえば、多くの場合、否定的なものとなっています。実際、その本音のところを彼女たちに聞くと、「仮に比丘尼僧伽の復活が可能であったとしても、しかし、比丘尼として311にもわたる多くの学処を守るよりは、同じ出家でも八戒だけを守って暮らしたほうが良い」との答えが返ってくる場合もあります。
あるいは、「実際のところ、比丘は227の学処を受持しているがそれを全て守っている者などほとんどいない。けれども、ティーラシンのほとんど多くは八斎戒を厳密に守って暮らしている。そう考えたならば、守れないもの、守る気すら無いものを受けて正統が云々いうよりは、自らが受けたものを確かに守っていることのほうがより良い」、「比丘尼や沙弥尼となるには八重法を必ず守らなければならない。そこで仮に比丘尼・沙弥尼になれるとしたら、やはり八重法を厳しく守る必要があるけれども、それは嫌だ。だからティーラシンが良い」という者もあります。
現実として、ビルマのティーラシンは厳密に八斎戒を守り、学であれ行であれ真にこれを深めている求道の人が少なからずあって、そこらの比丘では到底及ばない程であるのが珍しくありません。
ちなみに、ビルマ社会は、インドと支那に挟まれた環境にありながら、非合理な男女差別というものがほとんど無く、社会的な男女同権が確立していると言えます。もっとも、仏教寺院の一部区画などには、女人禁制の場所がまれに存在していますが、これを非合理だとか差別だなどと考えるビルマ女性は少なく、当然のことと考え、受け入れていることが多いため、それが問題には今のところなっていません。
近年、女性も男性同様に、ごく若い時に一時出家することがある程度一般化してきています。しかし、もし女性がティーラシンとして本格的に出家することを希望した場合は、その両親など家族が大反対することが多いようです。実際、若い女性であっても、ティーラシンとして出家し、一生生活することを希望する者がままあるのですが、家族からの猛烈な反対のために叶わぬ夢となっているのをよく耳にします。それでも、なんとか出家を果たした彼女たちの多くは、みずから出家者として特に勉学に励み、しばしば学徳人徳ともに非常に優れた者を輩出しています。2010年現在、ビルマにはおよそ5万人のティーラシンが存在しています。
スリランカには、現代における比丘尼僧伽復興運動が生じる以前から、Dasa sil mātāという女性出家修行者らが存在しています。Dasa silとは、[S]daśa-śīla / [P]dasa-sīla がシンハラ語に転訛した語で十戒を意味し、[S/P]mātāは母で、十戒の母を意味します。すなわち、沙弥尼とは異なるものの、しかし十戒を護持する女性出家修行者が、ダサシルマーターです。
ダサシルマーターの淵源、それは十七世紀中頃からオランダ、そして十九世紀初頭以降は大英帝国の植民地となって以来、ほとんど失っていたシンハラ人の民族的誇りと伝統とを回復すべく、十九世紀後半から仏教復権運動を展開した在家居士Anagārika Dharmapālaにより始められたものに求めることが出来ます。
もっとも、ダルマパーラが求めた「女性出家」の回復は当初、「キリスト教の尼僧に倣ったもの」としてでした。しかもそれを最初に行わせたのは、セイロン人ではなく、当時アメリカ在住であったMiranda de Souza Canavarroというポルトガル人貴族で神智学協会員であった女性です。その法名は、Asoka王の実妹であり、セイロンの分別説部(現在の上座部)に初めて比丘尼僧伽をもたらした人、Saṅghamittāにあやかってそれに同じとしています。
けれども、彼女はダルマパーラから「十戒を受けて出家した」と称していたものの、頭髪を剃るでもなく、白いブラウスの上にサフラン色の一枚布を袈裟のようにまとう奇態な姿(右上写真)をしたのみです。それは出家などとは到底言い難い、所詮は白人の有閑貴族による異国情緒を絡めた遊興の類に等しいものでした。あるいは当時のセイロンの社会通念として「女性出家」などあり得ないと現地人の間では考えられており、そのような異邦の白人女性であったからこそ女性ながら「出家」を称することも出来たのかもしれません。
けれども彼女は、これは当時の神智学協会員らしいことであったというべきか、その「出家」を長く続けることなどありませんでした。とはいえ、当時のスリランカやインドにおける仏教復興に、神智学協会たとえば同協会の創始者の一人でありアメリカ陸軍大佐であったHenry S. Olcottの果たした役割は大きいものでありました。批判も大いにあるものの、神智学協会は当時の日本仏教界にも少なからぬ影響を与えています。
スリランカにおける女性出家ダサシルマーターの嚆矢は、Catherine De Alwisというシンハラ人の裕福な上流階級出身の女性です。彼女は当時のスリランカの上流階級がほとんどそうであったように、もと聖公会(Anglican Church)教徒でした。しかし、何が彼女を回心させたかは不明ながら、後に仏教に改宗。彼女はただ改宗しただけでなく、女性として出家することまで希望していました。ところが、スリランカでは11から12世紀の間に比丘尼僧伽が滅んでおり、女性仏教者として正式な出家をすることは不可能で、当時それを許す比丘もありませんでした。
出家を諦めきれず、悶々とした日々を過ごす中、アルウィスは、たまたま古都キャンディの仏歯寺に巡礼に来ていたビルマの前王妃に随行していたティーラシンらを目にし、ビルマならば女性出家が可能であることを知ります。そこで意を決して前王妃らの帰国に随伴してビルマに渡航。それから三年の間、ビルマ語をはじめパーリ語、そして阿毘達磨など仏教を懸命に学び、ついにみずからティーラシンとして出家しています。その法名はSudhammacārī。それからもさらに七、八年間修行を重ね、アルウィスはティーラシンのスダンマチャーリーとして帰国したのでした。
帰国したスダンマチャーリーは、比丘尼や沙弥尼など仏教者として正規の出家ではなくとも、ビルマのティーラシンのような女性出家をセイロンにも定着させようと、特にキャンディを中心に活動しています。スダンマチャーリーがもともと上流階級出身であってその人脈があり、また彼女が高い教育を受けていたことにより、その運動を後援する者が、シンハラ人からだけでなくイギリス人の有力者の中からも出ています。しかし、スダンマチャーリーが女性出家させ教導したのは、ほとんど貧困や病苦にあえぐ孤独な高齢女性で占められており、また社会からそれが「出家」として認知されるには至りませんでした。
そのように、セイロンでの女性出家の道をようやく開こうとしていた最中の1929年、ビルマから一人のティーラシンが来島しています。Vicārī (Ma Wichari)です。彼女こそ、まだ暗中模索で社会的にそれほど認知されていたなかったダサシルマーターなるスリランカの女性出家を定着させる決定的な影響力を与えた人です。
彼女はもともとスリランカの女性出家運動を後押ししにセイロンに来島していた訳ではありません。しかし、コロンボにあるビルマ人比丘が住まう寺からの勧めと、縁あってHerbert Sri Nissankaとの知己を得たことにより、彼女はセイロンにおける女性らもまたビルマのティーラシンのように出家生活を送る術のあることを示しています。そしてさらに、在家信者であっても戒を守り、さらに進んで定(特にVipassanā)を修めることを強く世人に勧めたのでした。長く植民地とされキリスト教教育がなされて、その僧伽も衰亡していたセイロンに瞑想の伝統も実行もほとんど途絶えて亡かったのを、再びそこに目を向けさせ、在家にまで行わせるようになったのもヴィチャーリーでした。
それは20世紀初頭のビルマはMingun Jetavana Sayādawという一人の僧に始まる、在俗者にも修禅(特にヴィパッサナー)を修めさせるという、Vipassanā movement(ヴィパッサナー運動)とでもいうべきビルマ仏教での大きな転換があったことの余波でもあります。これは贔屓目からそういうのではなく、ビルマの僧尼における宣教意識、護法精神の高さは、今なお他国の比ではありません。極めて保守的ではあっても、その眼は常に外に向けられています。
ヴィチャーリーの宣教により、ダサシルマーターとなる道は若く教養ある女性たちにも開かれ、それによってその女性出家者たる立場は、社会に浸透・定着するようになっています。
なお、ヴィチャーリーを後援したニッサンカは若い頃、ビルマに渡って一時ながらも比丘出家した経験をもつ上流階級に属したシンハラ人です(後に弁護士。そして地方議員を経てセイロン独立後には国会議員)。彼もまた、植民地となって失われたシンハラ人の誇りと伝統を、仏教への信仰を取り戻すことによって復活させんとしていた人であったのです。
それらはやはり、その先鞭をつけていたダルマパーラの影響があったに違いありません。そしてその運動を展開した人々が、ビルマ人のティーラシン・ヴィチャーリーは例外としても、その皆が高い教育を受けた上流社会出身であったことは決して偶然ではありません。ただスダンマチャーリーやニッサンカ、またヴィチャーリーらは、ダルマパーラとは異なって、あくまで上座部の伝統においてこれを成し遂げようとしています。いずれにせよそれらは、ビルマの影響を色濃く受けてこそ果たされたものでした。
(ただし、一般に現代のスリランカ人には非常なる愛国者、ともすると過激な国粋主義とすら言える思想を持つ者が多くあり、また今のその比丘や仏教学者にはビルマという国自体はもとよりその仏教者らを見下す傾向が強く見られます。したがって、実は彼らのいう「誇らしいシンハラ仏教の伝統」なるものが、以上のようなビルマからの非常に強い、しかも多岐にわたる影響抜きには全くあり得ないものであったことを認めようとしない、認めることが出来ないのが比較的多くあります。)
ダサシルマーターの装束は当初、ミランダやスダンマチャーリーの時分には白いブラウスの上にサフラン色の一枚布をまとうといった珍奇なものでした。しかし、ビルマのティーラシンの影響もあり、やがてはそもそも在家を象徴する色である白色の衣を着ることはなくなりティーラシンと同じものを着け、頭髪に関しても、スダンマチャーリー以来、その皆が当然のこととして剃髪しています。
もっとも、現在のダサシルマーター(左写真)が着けているのはサフラン色の衣であって、ティーラシンのそれとは全く異なっています。サフラン色の衣を着るのは、シャム由来の派でありスリランカの多数派であるSiyamopāli Nikāyaの比丘らに倣ったものです。実はサフラン色の衣は律の規定に明らかに反するものです。本来的には仏教の出家者が着得る衣の色ではありません。
(少数派であり森林住の者が多くあるビルマ系のAmarapura NikāyaやRāmañña Nikāyaに属する比丘のほとんどは赤褐色あるいは濃茶褐色の衣をまとい、律を厳持する者も比較的多数あります。袈裟すなわちkāṣāyaとはそもそも「赤褐色」という色を指す語です。)
また、彼女たちの衣は、やはり正規の出家ではないがために、いわゆる糞掃衣(割截衣)ではなく一枚布(縵衣)であって、比丘尼などのそれとは異なります。
スリランカには現在、先に幾度か触れたように、上座部の比丘尼僧伽復興運動が展開されたことにより、沙弥尼と比丘尼を称する女性出家者らがあります。彼女らは、ダサシルマーターとは異なり、糞掃衣を着用しているのですが、色は同じサフラン色であるため、ほとんど外見上で見分けることは出来ません。
スリランカにおける比丘尼僧伽復興運動は、ダサシルマーターであった者からも多く出ているのですが、しかし、現在ダサシルマーターとしてある女性のほとんど多くは、比丘尼僧伽復興を否定的に見ており、その正統性を認めてはいません。だからこそ、比丘尼僧伽復興が果たされた、とするスリランカにおいて、今なお旧来のダサシルマーターが存在しています。
(にも関わらず、比丘尼とダサシルマーターが共存している、あるいは尼僧院での行事を共にする場合があるのは興味深く感じられることでしょう。しかしこれは大体、ただ経済的理由あるいは社会の慣習からそうしているだけのことのようです。)
ただし、前述したように今のダサシルマーターとは、ビルマのティーラシンの多大なる影響によって存在するものです。しかしながら、これは個人的所感ではありますが、ビルマのティーラシンたちと比較したならば、戒を厳持し、経論を熱心に学んで修禅に励むという人は圧倒的に少ない、その程度が甚だ低いと言わざるを得ません。その点では比丘尼もダサシルマーターも同じ様なもので、その現状からすれば、内実など無くただ自称する立場の名が違うに過ぎません。
(ティーラシンからダサシルマーター、そしてその流れから上座部の比丘尼復興運動が展開していった経緯とその問題点、また実際にビルマ人のティーラシンで1998年のスリランカにおいて比丘尼僧伽復興運動に参加したことにより帰国時逮捕・還俗させられたSaccavādīについては、現在日本の龍谷大学にあってその研究に従事するティーラシン、Saccānandīの研究が非常に詳しい。)
ビルマのテーィラシン、あるいはスリランカのダサシルマーターとやや似た立場の女性が、タイやラオス、カンボジアにも存在しています。
タイでは、それをMae jisと言い、頭髪だけでなく、男性僧と同様、眉毛も剃っています。ラオスにもメーチーが存在しているのですが、タイのそれとは異なって、八齋戒を受けて一時的に出家生活を送る、有髪の女性がそう呼ばれます。これに対し、一時的ではない、剃髪して八齋戒を受持する女性は、Me khaoと言われます。これと同様なのがカンボジアにもあり、Don Cheesと呼ばれます。
しかし、それらの国ではビルマほど組織化されておらず、その数も比較にならないほど少数です。なにより決定的に違うのは、彼女たちは当国において出家であると見なされておらず、あくまで在俗修行者と見なされている点です。それらの国では、国法としても女性出家が肯定的に認められていません。
女性達は剃髪してはいるものの、右上写真のように全身白衣で、白の一枚布を上にまとっています。仏教において、白は在家信者の象徴となる色です。ビルマのティーラシン、スリランカのダサシルマーターがまさにそうであるように、タイのメーチーなど女性剃髪修行者の外形・装束は、その立場に対する宗教的・社会的理解が明瞭に反映されたものとなっています。彼女たちが白色の衣を着ている限り、社会から出家者であると見なされることは決してないでしょう。
彼女らの立場を理解し、これを後援する人々の存在もあります。しかし、そもそも彼女たちが存在し得るのが、多くの場合、郊外の比較的大きな修禅寺院の一角を間借りし、そこを訪れる一時的な瑜伽行者らの世話や、比丘らの食事の支度などに従事する場合に限られています。メーチーといってもその出自は様々で、その経済状況も異なりますが、一般論として言えば、彼女たちはおおよそ貧しく、高い教育を受け得る境遇にありません。
社会的に出家であると認められているかいないかでは、その処遇や活躍の場に雲泥の差があるのです。
そのようなこともあり、またこれはごく自然な思いと言えたものですが女性自らが(上座部における)「正統な出家」たろうとする願いを持ち、ついにはそれが現実の動きとなっています。タイでは2001年以来、スリランカの比丘尼復興運動に乗じた女性が幾人か出ているのです。ただし、タイではビルマのように国禁とするには至っていませんが、大勢としてはやはりこれを批判的に見ており、その正統性など認めていません。実際、上座部としてこれを正統と見るには、女性たちの側における知識、その理論武装が不十分でその正統性を立証し得るものとは言い難いままとなっています。
しかし、彼女たちの多くは、黙々とそして熱心に修行しつつ比丘僧伽にも仕え、これがフェミニストの目から見ると、女性が奴隷のように扱われる男女不平等のケシカランありかた以外の何物にも見えないようですが、世間の苦しみから逃れて懸命に道を求め、真摯に修行に励んでいます。
実際、仏教を熱心に信仰して出家者として道を歩みたいという希望に応えるためとしては本より、女性仏教信者の社会的逃避の場を設けることもまた、非常に大きな意味があって仏教者全体として欠くべからざる必要なことであろうと思われます。
非人沙門覺應