鑑真とは、天平勝宝五年十二月〈754〉、通算十二年、二度の渡航失敗と三度の計画頓挫を乗り越え、ついに日本の土を踏んで具足戒の正統を伝えた支那は唐代の高徳です。
生年は伝えられていません。しかし、没年などから逆算して垂洪四年〈688〉と推定されています。その出身は揚州江陽県(現在の江蘇省揚州市広陵区周辺)で、俗姓は淳干。長安元年〈701〉、齢十四にして揚州大雲寺の智満禅師の元で出家して沙弥となり、神龍元年〈705〉に道岸律師から菩薩戒を受法。そして、景龍二年〈708〉には長安の実際寺にて荊州南泉寺の弘景〈漢音では「こうけい」〉律師を和尚として具足戒を受け、二十一歳で比丘となっています。
それから長安と洛陽にて修学した後、淮河と長江(揚子江)に挟まれた地域一帯、江淮(淮南)にて仏家の指導的役割を担い、揚州の大明寺にて講筵を敷いていたところ、伝戒の師を日本に招聘するためその元へ訪れてきたのが、すでに支那の地に十年を過ごしていた日本からの留学僧、栄叡と普照、そして(その任は与えられていない一般の留学僧であった)玄朗・玄法の四人でした。
もっとも、栄叡たちは当初から鑑真をこそ日本に招こうと思っていたのでは必ずしもなかったようです。初めはただ、淮南にて名を馳せていた鑑真に適任者の斡旋を依頼するため、その元を訪れていたのかもしれません。しかし、鑑真は栄叡たちの要望を聞き、衆中からその希望者を募りますがの呼びかけに答える者がその衆中に誰一人いませんでした。そこで鑑真が「ならば私が行こう」と自ら応えた、という顛末であったと伝えられています。それは栄叡と普照とに課せられた任務の結果として、望外であったことでしょう。
なお、栄叡と普照が留学して十年の時を経てからようやく伝戒の師を求めて動き出したことには、朝廷から課せられいた最低の年限が十年であったかもしれませんが、おそらくそれ以外にも意味があります。二人は伝戒師を招聘する任務以外に、自身らも特に律学を深く学び修め、伝戒の資格を備えることが課せられていたのでしょう。仏教の正式な出家者たる比丘が自ら弟子を取り、他を指導することが出来るようになるには、具足戒を受けてから最低でも十年(十夏)を過ごしており、かつ出家者としての素養を充分に備えていることが必要不可欠です。そうして初めて僧は、人の「和上(師僧)」たることが許されます。
具足戒とは「比丘たることの承認」を意味する語です。それは、一般に三師七証といわれる十人以上の有資格の比丘達(僧伽)からの承認でなければ正統なものと見なされません。そして、それを受けることを受具足戒、略して受具と云います。比丘とは仏教の正式な出家修行者の称です。
(詳しくは別項「七衆 ―仏教徒とは」、および「比丘 ―仏教徒とは」を参照のこと。)
日本に仏教が伝わったのは六世紀中頃のことですが、しかしそれから二百年を過ぎた八世紀となっても未だ具足戒は伝わっておらず、それによって種々様々な問題が国内に生じていました。なにより、仏教として日本に僧宝が成立せず欠いたままであるという、全く不完全な状態であったため、日本国内で自前に具足戒を受ける制度の導入がいよいよ求められていました。それには正しく具足戒を授け得る有資格の十人以上からなる比丘を日本に招聘することが不可欠でした。また、日本僧としてもその為の知識を大陸で確実に学んだ人が必要とされています。
そこで栄叡と普照の二人は、これは二人に特殊であったことでなく従来の入唐留学僧らも皆必ずそうしていたことに違いなかったことですけれども、入唐し洛陽に入った直後に大福先寺にて具足戒を受けています。そして、二人はただ十年を手をこまねいて空しく唐土にて過ごしていたのでなく、特に律学に励んで比丘としての学徳、素養を身に着けていたのでしょう。そうして十年の時が満ちるのを待ち、ようやく伝戒師として相応しい人材を探すため動き出したのだと考えられます。
果たして二人は、当時としてそれに最も好適であった大徳の協力を得たのでした。まさにそれが鑑真、およびおよびその弟子一門です。
本稿にて紹介する鑑真の伝記は、そんな鑑真が栄叡や普照らからの懇請に応え、どのようにして日本に来たり何をなしてその生涯を終えたかを伝える、淡海三船により宝亀十年〈779〉に著された書です。ただし、その書名について言えば、淡海三船による鑑真伝は過去、様々な称が用いられており一定していません。
淡海三船が著した本書の原本は伝わっていませんが、いくつかの系統の写本が今に遺されており、それらには以下のように相異なる書題が記されています。
No. | 表題 (内題) 《奥書》 |
諸本 (時代) 《特記事項》 |
---|---|---|
① | 鑑真和尚伝 (唐大和上東征伝) 《唐大和上東征伝》 |
「観智院甲本」 (平安末期写本) 《現存最古の写本》 |
② | 鑑真和尚伝号東征伝 (唐大和上東征伝) 《唐大和上東征伝一巻》 |
「観智院乙本」 (鎌倉末期写本) 《脱落多大》 |
③ | (大唐大和尚東征伝) 《唐大和上東征伝一巻》 |
「金沢文庫本」 (鎌倉末期写本) 《脱落甚大》 |
④ | 唐大和上東征伝一帖 (唐大和上東征伝) 《唐大和上東征伝一巻》 |
「大東急記念文庫本」 (南北朝時代?写本) 《元「高山寺本」》 |
⑤ | 「唐鑑真過海大師東征伝」 (唐大和上東征伝) 《唐大和上東征伝一巻》 |
「高貴寺本」 (室町時代写本) 《「高山寺本」系統》 |
⑥ | 唐鑑真過海大師東征伝 (唐大和上東征伝) 《唐大和上東征伝一巻》 |
「内閣文庫本」 (江戸中期写本) 《「高貴寺本」とほぼ同じ》 |
⑦ | 唐大和上東征伝 (唐大和上東征伝) 《唐大和上東征伝一巻》 |
「東大資料編纂所本」 |
⑧ | 唐鑑真過海大師東征伝 (法務贈大僧正唐鑑真過海大師東征伝) 《法務贈大僧正唐鑑真過海大師東征伝一巻》 |
「戒壇院本(原)」 (宝暦十二年刊行) 《発禁》 |
⑨ | 唐鑑真大和上伝記 (法務贈大僧正唐鑑真大和上伝記) 《法務贈大僧正唐鑑真大和上伝記一巻》 |
「戒壇院本(改)」 (宝暦十二年刊行) 《書名変更して出版》 |
⑩ | (唐大和上東征伝) 《唐大和上東征伝一巻》 |
「群書類従本」 (安永八年から文政二年に刊行) 《享保六年の百拙の写本に依る》 |
(参考:蔵中進『唐大和上東征伝の研究』桜楓社, pp.10-11)
以上のように、淡海三船の鑑真伝の書名は必ずしも一定していませんが、おおよそ古い写本は『唐大和上東征伝』で一致しています。これは鑑真伝研究の第一人であった蔵中進もまた認めるところで、それが本来の称であったろうと考えられます。そこで以下、本稿では本書を『東征伝』と略称します。
ただし、本稿にて紹介する鑑真伝の底本としたのは⑧「戒壇院本(原)」です。これは鑑真の一千年遠忌にあたる宝暦十二年〈1762〉、東大寺戒壇院を版元として刊行されたもので、その表題は『唐鑑真過海大師東征伝』、内題が『法務贈大僧正唐鑑真過海大師東征伝』とされています。
しかしながら、上掲の表に示したように、同年に出版されたものであるにも関わらず、「戒壇院本」には⑧と⑨の二種あってその題目が異なっています。
これは宝暦の当時、書名に「東征」とあるのが、支那により日本が征服されたかのような感を受けるものであって不適切と考えられたか、あるいは東大寺のある平城京からすれば東、すなわち江戸を征するという語は見逃し難くケシカランと見なされたか知れませんが、いずれにせよ江戸幕府から問題視され、たちまち発禁とされたことによります。そのため東大寺は題目から「東征」の語を取り除いて『唐鑑真大和上伝記』と変え、改めて発刊したのでした。
江戸中後期ともなると幕臣の多くが官僚化し、表面的アレコレにこだわり何事も穏当に済まそうとする傾向があったようです。もっとも、ある文言で用いられる漢字などについての難癖を付けるのは、江戸最初期に、家康お抱えの儒者、林羅山(道春)が、秀吉が開基し秀頼によって開眼供養間近となっていた方広寺の梵鐘に「国家安康」・「君臣豊楽」と刻まれていたのを家康への呪詛であるとし、ついに大阪冬の陣にまで至った発端として、今もよく知られています。それはさすがにひどいこじつけであって政治的な意図の元なされたものでした。
しかし、用いる文字一つ、言葉一句に最新の注意を払うべきと考える者のあることは、その基準の大きな異なりこそあるでしょうが、今も昔も同様です。そしてそれが時に過剰で、不合理というまでに度々なされることもまた然り。
幕末、勘定方の役人から英国の経済書の邦訳を依頼された福沢諭吉先生は、その中でcompetition という英単語に「競争」という語を考案し、その訳として充てています。そう、今も我々が普通に用いる「競争」とは福沢先生が新たに造られた言葉です。そうしたところが、勘定方の役人による、先生の作られた「競争」という語への反応は実に滑稽なものでした。「イヤ茲に争と云う字がある、ドウも是れが穏かでない、どんな事であるか。《中略》何分ドウも争と云う文字が穏かならぬ。是れではドウモ御老中方へ御覧に入れることが出来ない」と甚だ問題視し、その語の変更あるいは削除を求めてきたのでした。
その役人によるおかしな配慮に対し、先生は「妙な事を云うその様子を見るに、経済書中に人間互に相譲るとか云うような文字が見たいのであろう」と呆れ果て、また「この一事でも幕府全体の気風は推察が出来ましょう」と云われています(『福翁自伝』)。当時、それは当時の幕臣として異常なことでも無かったようです。
鑑真の一千年遠忌の記念として出版された『東征伝』の書名にまつわる顛末もまた、これと遠からず似たような話であったと思われます。当時、幕府から書名を難じられた東大寺はさぞかし泡を食ったことでしょうが、まったく実に詮ないことです。
けれども、今の我々はこれを一昔前の話と笑ってただ眺めることは出来ない。似たような事態は現代も次々生じています。例えば「障害者」という語について、「人に対して害とは何事だ、感じ(漢字)が悪い」といって「障がい者」と表記させ、あるいは「自殺」の「殺はオダヤカでない」として「自死」と表記させようと呆れた運動を展開する一類の人々があるのです。それは、近世末期の役人と似たような精神性を持っているからこそのことでしょう。他にもテレビや新聞などマスコミ、また出版業界による奇妙で不可解な言葉狩りが、ほとんどの場合なんらの法的・合理的根拠が公に示されず行われてもいますが、それも同じようなものです。
『東征伝』を著した淡海三船は、天智天皇(近江天皇)の第一皇子であった大友皇子の曾孫に当たる人、いわゆる皇孫です。
当初は御船王と名乗っていましたが青年期、鑑真に先んじて唐から戒師として招聘され大安寺西唐院に住していた道璿のもとで出家していました。そこで元海との僧名を得て修学に励んでいたようですが、後に勅命により還俗。臣籍降下してからは淡海真人との姓を賜り、淡海三船と名乗るようになっています。
淡海居士淡海眞人三船之曰元開。近江天皇之後。錫得天枝流海源。別賜眞人姓。童年厭俗折[考]折恐忻尚玄明。於天平年伏膺唐道璿大德爲息惡。探閲三藏披撿九經。眞俗兼該。名言兩泯。勝寶年有勅令還俗。賜姓眞人。赴唐學生。因疾制亭。[考]亭恐停 雖處居家不着三界。示有眷屬。常修梵行。求會眞際故奉太微之圓覺順時俗故奉法賓王。
淡海居士。淡海三船、これをまた元開という。近江天皇〈天智天皇(中大兄皇子)〉の後裔である。錫を天枝流海の源に得て〈皇孫でありながら出家したこと〉、(還俗した後は臣籍降下して)別に真人姓を賜る。童年から俗を厭い、玄明〈仏門〉を忻尚〈歓び尊ぶこと〉していた。天平年間、唐の道璿大徳に伏膺〈帰依〉して息悪〈沙弥.息慈・勤策〉となり、三蔵〈経律論.仏典の総称〉を探求して九経〈九部経.経典の分類法の一つで、すべての経典を九種に分けた称〉を研究した。真俗〈仏典と漢籍〉いずれも該博な知識を備え、名言〈名称と言句.ここでは詩文の意か?〉ならびに悉く良くした。天平勝宝年間、勅により還俗して姓「真人」を賜り、入唐学生に指名される。しかし、病を得たことにより取りやめとなった。(還俗した後)在家でありながらも三界に執着することなく、眷属をもうけてなお常に梵行を修した。真際〈涅槃.菩提〉を求めるが故に太微の円覚〈仏教〉を奉じ、時俗〈時代の風習・風俗〉に順じるが故に(俗)法を奉じて王〈帝〉を敬った。
宋性『日本高僧伝要文抄』巻三
《『延暦僧録』巻五 淡海居士傅刑部卿》
(新訂増補『大日本仏教全書』, vol.62, p.58a-b)
淡海三船に出家経験があったこと、しかも道璿という唐の学僧の膝下にあって修道していたことがその第一の理由であったでしょうが、仏典にもある程度通じていたようです。そして仏典ばかりでなく、当時の貴族や知識人の多くが嗜んでいた以上に漢籍にも通じ、その文筆も優れていたことが知られ、石上宅嗣と共に「文人の首」と並び称されていました。
自寳字後。宅嗣及淡海眞人三船爲文人之首。
天平宝字年〈757-765〉より後は、(石上)宅嗣および淡海真人三船が文人の首であった。
『続日本紀』巻三十六 天応元年六月辛亥条 石上宅嗣薨伝
(新訂増補『國史大系』, 『続日本紀』後編, p.474)
この『続日本紀』の一節にて「宝字より後」というのは、一世代前に第一級の文人であった吉備真備の後ということであるのでしょう。一説に、淡海三船は日本最古の漢詩集『懐風藻』の編者であったと目されています。
そのような淡海三船に『東征伝』は著されたのですが、それは淡海三船がまったく新たに書き起こしたものではありません。『東征伝』は、鑑真が日本渡航を決めた当初から随行した唯一の唐僧、思託により著された『大唐伝戒師僧名記大和上鑑真伝』(以下『大和上伝』)をその下敷きとして編まれたものです。
『大和上伝』はその分量が三巻という伝記としては比較的大部なものであったようですが、思託は自ら『大和上伝』を著しておきながら、淡海三船に改めてその執筆を依頼したのでした。もっとも、『大和上伝』は散逸して今なく、いくつかの書にその逸文が伝えられるのみとなっています。
なお、本書において著者名が真人元開とされているのは、本来的にはおかしなことです。元開とは、まだ皇籍にあって御船王と称していた時、道璿のもとで出家して得た僧名(法名・戒名)であり、真人は勅命により還俗した際に同時に臣籍降下して賜った姓であって、淡海がその氏であり三船がその名です。したがって、淡海真人三船という俗名と元開という僧名が併記されることは、その本来からすれば有りえません。
もっとも、思託は他に、日本初の僧伝となる『延暦僧録 』も著しており、そこに「淡海居士伝」も脩める中で「淡海眞人三船之曰元開」と伝えているように、淡海真人三船が元開という僧であったことは当時から知られていました。ただし、『延暦僧録』自体は『大和上伝』に同じく散逸して無く、平安末期に著された『東大寺要録』や鎌倉時代初頭に編纂された『日本高僧伝要文抄』などにその逸文がわずかに伝えられてるのみとなっています。
淡海三船自身が『東征伝』を著した当初からこのように真人元開と記名していたのかは不明です。しかし、今伝わるもっとも古い写本「観智院甲本」でも真人元開とあります。あるいは淡海三船が『東征伝』を著すに際し、大安寺にあって僧であった当時の思いをも込め、あえてそう記したものであったかもしれません。
『延暦僧録』の逸文は当時の日本における僧の姿を伝える数少ない非常に貴重なものです。しかしながら、どうも思託の漢文は率直に言って悪文です。文飾に過度に傾き冗長かつ迂遠で、しかも往々にして主語が何か誰かも判然とせず、一向に要を得ないのです。極端に言えば、読んでいて腹が立ってくる程度にひどい。
思託はそれを自覚してそうしたのかどうか知れません。けれども事実として、おそらくは漢語を一定程度以上に話すことも出来、また出家経験もあって当時「文人の 首」と称されていた淡海三船にその再執筆を依頼したのでした。
思託は『延暦僧録』に、鑑真伝を著すに至った経緯を記しています。
後眞和上移住唐寺被人謗讟。思託述和上行記。兼請淡海眞人元開述和上東行傳荃。則揚先德流芳後毘〈後昆の写誤〉。
後に鑑真和上が唐招提寺に移住すると、人から謗讟〈誹謗中傷〉を受けた。そこで思託は和上の行記〈『大和上伝』〉を著し、さらにまた淡海真人元開に和上の『東行傳荃』〈『東征伝』〉の述作を依頼した。かくして(伝戒の)先徳(である鑑真の功績)を称揚し、後昆〈後世の人〉に流芳〈芳名を広く伝えること〉せんとした。
『日本高僧伝要文抄』巻三 高僧沙門釈思託伝
《思託『延暦僧録』第一》
(増補改訂『大日本仏教全書』, Vol.62, p.52)
思託らが鑑真伝を著した理由、それは「人から謗讟を被る」からであったと云います。「謗讟」とは要するに誹謗中傷です。鑑真が唐招提寺を創建して移った際に、それは南都諸大寺の僧徒からのことでしょうけれども、人から誹謗中傷されていたのです。
なぜ鑑真が誹謗されたか、その理由まで思託は記しておらず、それを伝えるその他の史料もありません。おそらくは鑑真が崩御した聖武上皇の供御米など下賜され、また後には薨去した新田部親王の旧宅地を賜わるなど帝から様々に、そして非常に厚遇され、私寺として唐招提寺を建立したことに対する嫉妬によるものであったと考えられます。
○辛卯。太政官處分。太上天皇供御米鹽之類。冝充唐和上鑒眞禪師。法榮二人。永令供養焉。
○(天平勝宝八年〈756〉六月)辛卯〈九日〉、太政官が「(同年五月二日に崩御した)太上天皇〈聖武上皇〉の供御米・塩〈毎年所領から上がる帝の為の米と塩〉の類を、宜く唐和上鑑真禅師と法栄〈聖武上皇の看病僧〉の二人に充て、永く供養せしめよ」と処分した。
『続日本紀』巻十九 天平勝宝年六月辛卯条
(新訂増補『國史大系』, 『続日本紀』前編, p.226)
他にまた、鑑真など唐僧一行が渡来したことにより、それまでの僧らは菩薩戒〈『占察経』所説〉を自誓受によって出家受具の証としていたところがその正当性も正統性も否定されていました。そこで、帝からの勅により、(彼らからすると)強制的に改めて鑑真のもとで受戒すべきこととなった旧僧の一部が、以前として強いわだかまり、反感を鑑真らに対して持っていたこともその裏にあったと思われます。これは仏教的・宗教的理由というより、多分にそれまで彼らが有していた地位や権益に絡んだ政治的・経済的理由に基づくものであったのでしょう。
鑑真が具足戒の受戒を初めて行ったのは天平勝宝六年〈754〉、それから唐招提寺に移ったのは天平宝字三年〈759〉あたりのことであり、それは渡来して五年後のことです。
『東大寺要録』にある『延暦僧録』の逸文には、鑑真ら唐僧に対するまさに一部の旧僧の敵意が露わとなった場面を生々しく伝えたものがあります。
僧録云。《中略》 勝寶八年四月。於盧遮那殿前。天皇十八種物令唐僧作羯磨。京城諸寺僧集。和上曰今天皇羯磨十八種物。並唐僧進畢。近參坐末唐僧進受戒。少遠坐擧衆不伏。人々面作色之中。有興福寺僧法寂。起立大叫出麁言。忽倒地面殞。皆息心安隱作羯磨。從此已後一切所作無諸笏難已上
『延暦僧録』が伝えるところでは、
「《中略》 天平勝宝八年〈756〉四月、(東大寺)盧遮那殿の前にて、天皇〈聖武上皇〉はその十八種物〈梵網戒で菩薩僧が持すべきと規定する十八種の物品〉に、唐僧をして羯磨〈僧伽における律の規定に従った議決〉を行わせられた。京城の諸寺の僧が集まり、和上〈鑑真〉が「今、天皇十八種物を羯磨す」と云われ、唐僧が(羯磨を)為し終わった。近しく(帝の)坐末に参じ、唐僧が授戒したまおうとしたところ、少し遠くに坐していた衆は皆、伏しなかった〈その受戒に賛同しなかったとの意〉。人々〈どちら側の人か不明瞭〉が顔に怒気を示す中、興福寺僧の法寂が立ち上がって大いに叫び麁言〈暴言〉を吐いたが、忽ち地に打ち倒れて殞ちた。そこで皆、心穏やかとなって羯磨をなし、それより以降はすべての所作は何ら滞りなく行われた」
ということである。
『東大寺要録』巻四
(筒井英俊校訂『東大寺要録』, pp.98-99)
帝が臨席していたであろう場にてこのような事態が生じていたことは、もはや「穏やかでない」どころの騒ぎではありません。これは聖武上皇が崩御する二ヶ月ばかり前のことです。
ここで法寂という興福寺僧が、こともあろうに天皇がかかわる羯磨・受戒がなされる中で何らか麁言を吐いてその進行を妨害するも、「忽倒地面殞」すなわち突然バタリと地に倒れたといいます。この「殞」は落ちる、もしくは死ぬを意味する語です。この一節を「地面に倒れて死んだのだ」と理解する学者もありますが、人が受戒の場で死ぬという凶事が起こって「皆息心安隱」と言うのはおかしなことのように思われます。ただ顔から倒れて(怪我を負い?)大人しくなった程度のことであったのかもしれません。
この場面を理解するのに、従来の学者でこれを指摘した者はなかったようですが、必ず知っておくべき重要な点があります。それは、仏教では、僧伽における儀式(羯磨)の場にて議題となっていることに賛成せぬ者、反対を唱える者が一人でもあった場合は、その議題は棄却され不成立となるということです。ここで行われた羯磨は、天皇の十八種物と受戒で、ここでの麁言とは要するにそれへの反意でしょう。その者が反意を示し続けた場合、その儀礼は進めることが出来ず中止となります。しかし、そこで突然、気を失ったか怪我をしたか、あるいは本当に突然死したか、いずれにせよ反意を示す者がなくなったので、「皆息心安隱」したということであったのでしょう。
いずれにせよ、死を目前とした帝が直接関わる儀式の場で甚だ由々しき事が起こっていました。それが平城京の諸大寺にある旧僧のごく一部が持つものであったか、多くの者が持つものであったかはもはや不明です。しかし、それほどまでの敵意が鑑真や唐僧に向けられており、それが顕在化していたことを示す記録です。一般に、このような不祥事が伝記に載せられることはまずなく、実際『東征伝』には鑑真等がこの羯磨・受戒を為していたこと自体を記していません。
ところで、奈良時代や鑑真周辺の史実については、すでに多くの各種方面の先学によって昭和期にかなり解明されています。しかし、ここでいわれる「天皇十八種物の羯磨」と「受戒」ということについては充分に論じられておらず、まったく放置されたままとなっています。それは思託の文章自体が読みにくく、明瞭でないということがまず第一にあるのでしょう。そして、何より「天皇十八種物の羯磨」という、支那および日本でも史料上はここでしか見られない儀式が何であったかまったく不明で、またすでに鑑真渡来直後にされていた筈の「受戒」がここでも行われていたというのが、学者らにまるで理解できなかったことによると思われます。
学者の一部はこれは帝の病気平癒のための儀式であって、帝は臨席していなかったと言う者があります。しかし、十八種物とは『梵網経』が規定する出家者が所持すべきとする事物ですが、それは沙弥でなく特に菩薩比丘に対するものであろうと考えられます。聖武上皇はその在位中に沙弥となっていますが、ならば十八種物は必要ない。そして何より、その後に「受戒」と云われている点は見過ごせません。この場に上皇本人が臨席せず受戒が行われたとは到底思われない。そして天平の当時、平安中後期に行われるようになった呪術や積徳行としての 空受戒が行われたともまず考え難い。
そこで菲才は、これが実は聖武上皇が沙弥(僧名:勝満)となっていたばかりでなく、具足戒を受け比丘となっていたとする南都諸大寺における伝承が伝説でなく、事実であったらしいことの裏付けとなり得る記述であると考えています。それは上皇が死を目前としていたからこそ敢えて行われたものであったと。
さて、以上のように鑑真に対する反感を解消するため、思託はそもそも鑑真が何故、幾多の困苦を乗り越え日本に渡来したかの所以、鑑真が伝えた具足戒とは一体いかなるものであるかを世に正しく知らせることが急務であると考え、鑑真の生前から筆を起こして書き上げられていたものと考えられます。いくら悪文であるとはいえ、しかしその『大和上伝』が散逸して無いのは非常に残念なことです。
鑑真ほどの人ですから、遅かれ早かれその伝記が著されたに違いありません。しかし、今に至るまで世に広く知られる鑑真の伝記『東征伝』は、鑑真が二度の渡航失敗と三度の計画頓挫を経て、しかも失明をしてもなお伝戒のため渡来し、さらに日本で巻き起こった人からの逆風にも立ち向かい、それを凪がせるためにも著されたものでした。