suppatipanno bhagavato sāvakasaṅgho, uju'ppaṭipanno bhagavato sāvakasaṅgho, ñāya'ppaṭipanno bhagavato sāvakasaṅgho, sāmici'ppaṭipanno bhagavato sāvakasaṅgho, yadidaṃ cattāri purisayugāni aṭṭha purisapuggalā, esa bhagavato sāvakasaṅgho, āhuneyyo pāhuneyyo, dakkhiṇeyyo añjalikaraṇīyo, anuttaraṃ puññakkhettaṃ lokassa.
世尊の弟子である僧伽は、善く道に従うものであり、世尊の弟子である僧伽は、真っ直ぐに道に従うものであり、世尊の弟子である僧伽は、正しく道に従うものであり、世尊の弟子である僧伽は、適切に道に従うものである。
それは四双八輩であり、それが世尊の弟子の僧伽であり、もてなさすに値するものであり、(食事などを)供えるに値するものであり、供養するに値するものであり、合掌するに値するものであり、 この世におけるこの上ない福田である。
ye ca saṅghā atītā ca, ye ca saṅghā anāgatā, paccuppannā ca ye saṅghā, aham vandāmi sabbadā. n'atthi me saraṇaṃ aññaṃ, saṅgho me saraṇaṃ varaṃ.
etena saccavajjena, hotu me jayamaṅgalaṃ. uttamaṅgena vande'haṃ, saṅghañca duvidh'ottamaṃ, saṅghe yo khalito doso, saṅgho khamatu taṃ mama.
かの過去世の僧伽、かの未来世の僧伽、そしてかの現在世の僧伽すべてを、私は敬礼いたします。私には他に帰依処などなく、僧伽こそが私の尊い帰依処。
この真実の告白によって、私に勝利をもたらす吉祥あれ。二種の卓抜した僧伽に、最上の礼拝をいたします。僧伽について、私になにか過失や罪があったならば、僧伽よ、どうか許したまえ。
Saṅgha guṇā(以下、「サンガ・グナー」)とは、「saṅghaの徳」の意で、その徳の優れた点を九つ挙げ連ねた文言です。saṅghaとは、原意は単に「集まり」・「集い」というほどのものですが、仏教においては「出家者(比丘・比丘尼)の集い」を意味する言葉であり、漢語で僧伽と音写され用いられてきた語です。すなわち僧伽とは、複数の比丘あるいは比丘尼からなる出家修行者の組織のことをいいます。
複数といっても、厳密には最低でもそれぞれ四人の比丘あるいは比丘尼がなければ僧伽は成立しません。したがって、ある区域や地域に比丘が三人以下であった場合、その場において僧伽は存在せず、そのような場合はVaggaあるいはGaṇaといって区別されます。そして比丘と比丘尼の混成で四人あっても僧伽は成立せず、それぞれ四人以上なければなりません。すなわち、僧伽には比丘僧伽と比丘尼僧伽の別があります。
もっとも、僧伽には現前僧伽と四方僧伽 という二つの概念があり、今述べた僧伽は現前僧伽についてのものです。対して四方僧伽というのは、四方の僧伽、すなわち世界の現前僧伽すべてを包括していったものです。そして、三宝の一つである僧宝とはこの四方僧伽のことであり、またここで紹介している「サンガ・グナー」にていわれる僧伽も同様です。
要するに、「Saraṇataya(三帰依)」やこの「Saṅgha vandanā(礼僧)」で帰依・礼拝の対象としている僧伽とは、自身の目前にしていたり、近くにあるとかいう僧伽だけでなく、およそ過去から現在まで存在してきたすべてのものを対象としたものです。
念のため、僧宝としての僧伽がどのようなものかを視覚的に理解出来るよう、その構成を以下に図示しておきます。
日本では巷間、仏法僧の三宝の僧とは、「仏を信じる全ての人である」などと主張する者があります。これは仏教系新興宗教団体に属する者がよく主張することですが、稀に伝統的宗派の僧職者や学者でさえそのようなことを言うのがあります。しかし、三宝の僧とは、あくまで「正規の出家修行者の集い」たる僧伽(四方僧伽)をいうものであって、「出家在家を問わない、仏教を信仰する者すべての集い」などでは決してありません。
また、この「サンガ・グナー」にて特に四双八輩に言及されていることを根拠として、「三宝のうちの僧宝とされるのは、あくまで僧伽のなかでも聖者の境地に達した僧に限定されるのであって、未だ聖者の境涯を得ていない比丘や比丘尼は除外されるのだ。したがって、私は比丘や比丘尼であるからというだけで尊敬などしない。その人の境地をまず確認してから帰依するのだ」などということを言う、大体が中高年の人が、むしろ日本でままあります。しかし、僧宝とされる僧伽はそのように限定されたものではなく、むしろそのような主張を退けるための律の規定すらあるので全くの誤認です。
これは余談となりますが、日本仏教においては明治維新前後に律の伝統が完全に潰えてなくなったため、日本仏教に僧宝、僧伽は存在していません。日本で僧とされる人は比丘でも沙弥でもなく、出家ですらもないため、それが四人集まっても、たとい百万人集まったとしても、仏教の僧伽が構成されることはありません。そして実は、上座部の伝統において比丘尼僧伽は十世紀から十一世紀頃を最後に滅びてなくなっているため、上座部に比丘尼僧伽はもはや存在していません。
しかしながら、二十世紀末頃、インドおよびスリランカにおいて上座部の比丘尼僧伽復興運動が生じたことにより、いまスリランカや欧米に上座部の比丘尼僧伽とされるものが存在し、上座部の比丘尼を称する女性が見られるようになっています。ところが、その復興の過程には上座部の立場からすると極めて重大な問題が、しかも複数存していたことから、ビルマやタイ、ラオスなど上座部を信仰してきた主要な国々では異端視されています。それどころか、公然とその復興に参加して比丘尼を称し振る舞うことは国家の法律によって禁止されてすらいます。
その初期の極端な事例としては、ビルマの尼僧(ティーラシン)で留学中のスリランカにて比丘尼となった女性(Saccāvādī)があります。彼女はスリランカから比丘尼として帰国した途端に逮捕され、裁判が行われて強制還俗させられた上で百日弱投獄されています。彼女の行動は、ただ一人の女性仏教徒として純粋に道を求めただけのことであったのですが、しかし、ビルマの僧界を掌握する機関である僧統(Saṅghanāyaka )の考えは違っていました。僧統の言い分はもちろん上座部の律蔵やその注釈書など伝統に則ったものではありましたが、そこには幾分かの穴や矛盾点があり、またその対応はあまりにも苛烈に過ぎたものでした。
女性の出家問題は釈尊ご在世の当時から存しており、その許可を得るために種々の困難があって、また比丘尼僧伽が成立した以降も次々と様々な問題が生じていたことが知られます。しかし、苦からの解脱を願い、菩提を真剣に求める女性の立場をいかにするか、特に出家としてその道筋を、しかも正統なものとしてつけることは、現代の僧伽としても社会としても不可欠であろう、重要なことです。
もっとも、今はその傾向が顕著であるように思えますが、何でも時流の違うこと変わることを盾にしたり、西洋での女性運動の流行に乗ったりすることによって、軽々に論じて性急に結論を出しえるものではないため、この問題を解決するために現在も種々の模索が行われています。
「サンガ・グナー」の文言の中に、「cattāri purisa-yugāni aṭṭha purisa-puggalā」という語がありますが、これは漢訳で「四双八輩(四雙八輩)」とされる言葉です。今一般に耳にすることは決して無いであろう仏教の術語(専門用語)の一つですが、これは仏教における四種の聖者もしくはその階梯を示したものです。「サンガ・グナー」では、僧伽とは仏陀の教えに従う者によって構成され、またそれを実際に自ら証して聖者となった者により構成されているとして称賛するものでもあります。
以下、その四種の聖者の階梯のパーリ語・サンスクリットの原語ならびにその音写と漢訳とを示し、なぜそのような称であるかの意味を簡略に示します。
No. | パーリ語 | 漢訳 (音写) |
意味 |
---|---|---|---|
サンスクリット | |||
1. | Sotāpanna | 預流 入流 (須陀洹) |
聖者の流れに預かった、入った者(もはや退転することはなく、死後は七度転生するまでに必ず解脱を得る)。 |
Srotāpanna | |||
2. | Sakadāgāmi | 一来 (斯陀含) |
天界と人界を一度だけ往来する者(死後は天趣に生じ、そのまた死後に人趣に生じて解脱する)。 |
Sakṛdāgāmin | |||
3. | Anāgāmi | 不還 (阿那含) |
再び人趣に生じることがない者(死後に天趣に生じて彼の地で解脱を得る)。 |
Anāgāmin | |||
4. | Arahatta Arahaṃ |
応供 不生 殺賊 無学 (阿羅漢) |
供養するに相応しい者。 二度と転生することのない者(最後生を得た者)。 煩悩という賊を殺した者。 学ぶべきことがもはや無い者。 |
Arhat Arahan |
上に挙げた四つの境地それぞれに「向」、すなわちその境地に達しつつある状態と、「果」、その境地にすでに達した状態の二つがあります。たとえば、聖者として初めの境地である預流には、預流に達しつつある「預流向」と、預流にすでに達した「預流果」の二つがあります。その他三つの境地もこれと同様で、すべてひっくるめると都合八つの境地があることになります。
もっとも、上座部の教学においては、「預流向」という境地を得た者はその三、四刹那後に自動的に「果」を得るとされています。いわば「預流向」は、終着駅直前の超特急列車の通過駅、ただ瞬間的に過ぎ去る通過点に過ぎないもので、誰も「向」の境地に留まることなど出来ません。したがって「預流向」の人など、現実には存在しないに等しいものです。
なお、出家しなければ人は聖者の流れに預かることが出来ないのか、ということはありません。在俗者であっても、不還までは達し得るとされています。しかし、これも上座部の教学に従えば、在俗のままでは阿羅漢に達することは出来ず、阿羅漢に達する人は自ずから出家するものとされています。
いずれにせよ、畢竟、人が達し得る最高の境地とされている阿羅漢果を得ることをもって、人はもはや転生することが無くなり、苦海からの解脱がなされたとします。この境地に達するべく、僧伽の成員つまり比丘ならびに比丘尼たちは日々精進を重ねていくもので、現に達している者があり、それ故に尊敬し、信仰し、供養するに値するのである、というのが「サンガ・グナー」の趣旨です。
僧伽は仏陀の教えを仏陀ご在世の往昔から、それがたとい紆余曲折を経たものであったとしても、今に至るまで様々な形で伝えてきたまさに宝です。そしてその僧伽の中には、それは決して多くはなかったとしても、悉地を得て仏陀の法の真たることを身をもって覚知した徳高き僧があり、世の人に様々に行くべき道を示しています。そのような成就者を生み出す豊穣な土壌、それが僧伽であり、故に敬して支え、また適時に教えを請うて範とすべきものです。
Ñāṇajoti