大宋元豐三年夏首
餘杭沙門元照於天宮院出
初明三衣爲三物
僧伽梨大衣 此衣九品且示上品餘準減作
欝多羅僧七條
安陀會五條
比見樂學戒者。欲置法服。不知所裁。既昧律儀。多承妄習。然其制度。遍在諸文。故撮其大要。兼所見聞。還宗舊章。且分十位。援引正教。庶令事有準承。指斥非濫。所謂不看他面
初制意。鈔云。何名爲制。謂三衣六物。佛制令畜。通諸一化。竝制服用。有違結罪。薩婆多云。欲現未曾有法故。一切九十六道無此三名。爲異外道故。四分云三世如來。並著如是衣。僧祇云。三衣是賢聖沙門標識音志 雜含云。修四無量。服三法衣。是則慈悲者之服。十誦云。以刀截故。知是慚愧人衣。華嚴云。著袈裟者。捨離三毒。四分云。懷抱於結使。不應披袈裟。賢愚經云。著袈裟者。當於生死。疾得解脱。章服儀云。括其大歸。莫非截苦海之舟航。夷生涯之梯蹬也。所以須三者。分別功徳論云。爲三時故。冬則著重。夏則著輕。春則服中。智度論云。佛弟子住中道故。著三衣。外道裸形無恥住斷見故 白衣多貪重著住常見故 多論云。一衣不能障寒。三衣能障等。戒壇經云。三衣斷三毒也。五條下衣。斷貪身也。七條中衣。斷嗔口也。大衣上衣斷癡心也世傳。七條。偏衫。裙子。爲三衣者謬矣 天台智者制法第一條云。三衣六物道具具足。若衣物有闕。則不同止。清涼國師十誓第一云。但三衣一鉢。不畜餘長。歴觀經論。遍覽僧史。乃知聖賢踵跡。華竺同風。今則偏競學宗。強分彼此。且削髮既無殊態。染衣何苦分宗。負識高流。一爲詳鑑。況大小乘教。竝廣明袈裟功徳。願信教佛子。依而奉行
初めに三衣を明して三物と爲す。
僧伽梨大衣 此の衣に九品あり。且らく上品を示す。餘は準じて減じ作れ
欝多羅僧七條
安陀會五條
比ろ戒を學ぶことを樂う者を見るに、法服を置けんと欲すれども所裁を知らず。既に律儀に昧くして、多く妄習を承く。然れども其の制度、遍く諸文に在り。故に其の大要を撮て見聞する所を兼ね、還て舊章を宗として且く十位に分つ。正教を援引して、庶くは事をして準承有らしめんとなり。非濫を指斥することは、所謂他の面を看ざるなり。
初に制意とは鈔に云く、何をか名けて制と爲すや。謂く三衣六物なり。佛、制して畜えしむ。諸の一化に通じて竝びに服用することを制したまふ。違有れば罪を結す。薩婆多に云く、未曾有法を現ぜんと欲するが故に。一切の九十六道には此の三の名無し。外道に異らんが爲の故にと。四分に云く、三世如來、並びに是の如き衣を著したまへりと。僧祇に云く、三衣は是れ賢聖・沙門の標識 音は志なりと。雜含に云く、四無量を修するもの、三法衣を服すと。是れ則ち慈悲者の服なりと。十誦に云く、刀を以て截す。故に知ぬ、是れ慚愧人の衣なるをと。華嚴に云く、袈裟を著する者は、三毒を捨離すと。四分に云く、結使を懷抱すれば、袈裟を披るに應ぜずと。賢愚經に云く、袈裟を著する者は、當に生死に於て疾く解脱を得べしと。章服儀に云く、其の大歸を括るに、苦海を截るの舟航、生涯を夷るの梯蹬に非ずということ莫きなりと。三を須る所以は分別功徳論に云く、三時の爲の故なり。冬は則ち重を著し、夏は則ち輕を著し、春は則ち中を服すと。智度論に云く、佛弟子は中道に住するが故に三衣を著す。外道は裸形にして恥無し 斷見に住するが故に、白衣は多貪にして重著す常見に住するが故にと。多論に云く、一衣は寒さを障ること能わず。三衣は能く障る等と。戒壇經に云く、三衣は三毒を斷ず。五條下衣は貪と身とを斷ず。七條中衣は嗔と口とを斷ず。大衣上衣は癡と心とを斷ずなりと 世に七條と偏衫と裙子とを三衣と爲すと傳ふるは謬りなり。天台智者の制法の第一條に云く、三衣六物の道具、具足すべし。若し衣物闕くること有らば則ち同止せざれと。清涼國師の十誓の第一に云く、但三衣一鉢にして餘長を畜えず。經論を歴觀し、僧史を遍覽するに乃ち知る、聖賢、跡を踵ぎ、華竺、風を同じくするを。今則ち偏えに學宗を競て、強に彼此を分つ。且らく髮を削るは既に殊なる態無し。衣を染めること何ぞ苦に宗を分たんや。負識の高流、一たび詳鑑を爲せ。況んや大小乘の教、竝びに廣く袈裟の功徳を明せり。願くは信教の佛子、依て奉行せんことを。
杭州。北宋時代は杭州府。現在の浙江省北部。▲
北宋代の律僧。余杭銭塘の人で、字は湛如、諱は大智律師。初め東蔵慧鑑について律を学んだ後、神悟處謙について天台を学んだ。その後、律こそ仏法の根本であることを強く意識し、すでに廃れていた南山律宗を復興すべく尽力。ただし、道宣は法相教学をその思想的背景としていた筈が、元照において天台教学によって再解釈されている。杭州の霊芝崇福寺に入ってから没するまでの三十年、精力的に南山大師道宣の著作の注釈書など主として律関係の著作を多く残した。三十半ばで重病に罹ったことを機に浄土教にも傾倒。天台の法華一乗思想を背景に、持律と念仏とを双修した。日本には俊芿によってその著書と思想がもたらされ、以降律宗だけでなく浄土教および天台宗にも影響を与えた。▲
元照が住した霊芝崇福寺の子院。▲
[S]saṃghāṭiの音写。大衣・重衣・外衣、あるいは入王宮聚落衣と漢訳される。比丘が精舎から外出し、王城や村落に入る時に必ず着用すべきとされる衣。支那および日本では一般に、九から二十五の奇数条にて作られるべきものとされる。しかしながら、『四分律』では大衣は九条から十九条までとされ、『四分律』に依るのであれば二十条以上の大衣はありえない。▲
[S]uttarāsaṅgaの音写。上衣・中衣・中価衣、あるいは入衆衣と漢訳される。僧伽の諸行事、あるいは仏陀や上座への礼拝・読経・講義・聴講・座禅・食事などの際に着用すべきとされる衣。七条にて作るべきものとされる。▲
[S]antarvāsaの音写。本来、腰に巻く袈裟であって、最も下に着けるものであるから下衣・内衣・中宿衣、あるいは作務衣などと漢訳される。その最低限の大きさは、腰に巻き付けたときに三輪、すなわち臍と両膝を隠すことが出来るだけのものとされる。
しかしながら、いつからそう誤解されたか不明ながら、腰に巻く袈裟であるとの理解が失われ、支那で上半身にまとう衣と誤認された。その更に下につけても良いと、いわば下着として聴されたのが涅槃僧(下裙)。
日本ではその誤解がさらに進み、律儀の頽廃と共に平安中後期には威儀五条など最低限度の大きささえ下回る、奇妙な布切れを五条袈裟と称し用いるようになった。▲
律によって仏教僧が必ず常に所持・着用することが定められている三衣、および僧祇支・裙などの装束。▲
道宣による特に衣についての諸著作。中でも『釈門章服儀』および『行事鈔』「二衣総別篇」と『 四分律刪補隨機羯磨』「衣薬受浄篇」。
元照は道宣の南山律宗を宋代に再び復興しようと奮闘し、その中で既に乱れていた宋代の僧らの衣のあり方を正そうとした。しかし、道宣が没したのは乾封二年〈667〉のことであって、元照がこの書を著したのはその四百年余りも後の元豊三年〈1080〉のことである。実は元照は、これは彼自身の過失では無く伝統の断絶があったことによるのであろうけれども、本書において道宣の書を様々にそして多く引きながら、しかしその道宣の著した衣のあるべき姿を再現できていない。おそらく、古くから伝わる袈裟が無くまた古い仏像や仏画を全く参照しなかったのであろう。元照はただ北宋代に普及していたと思われる、衣を留めるのに環と鈎とを用いた全く支那流の衣をのみ前提として本書を書いたのだと思われる。
その一つの証として挙げられるのは、唐代の支那から日本に初めて律をもたらされた鑑真大和上の坐像である。その像は鑑真がいまだ健在であった時に、極めて写実的に作られたもの。和上は道宣の孫弟子にあたる人で、その着用する袈裟が道宣と全く異なっていたということはおよそ考えられぬことである。その鑑真像が着用している袈裟の姿は、元照およびその門流が着用し、鎌倉期に宋から日本に伝わって律宗や禅宗の僧らが用いるようになったものと全く異なる。そのことはさらに奈良および平安初期に制作された日本の仏像や高僧像、あるいは現存する聖武天皇の袈裟や空海や最澄が請来した衣などを見ることによって、より明瞭となるであろう。▲
仏典。ここでは特に律蔵やその注釈書類。▲
ここでわざわざ元照が「他の面を看ざるなり」などと言っていることは、当時彼(あるいはその師東蔵)が本書の中で述べていることに対して、批判するものがあったためであろうことが予想される。実際、(東蔵が最初に著した)『佛制六物図』に対して批判する書『佛制六物図辨訛』が現存しているが、これはまだ冷静でそれなりに合理的で説得力あるものである。元照はその批判で指摘された点をある程度正すためにも本書を再訂したのであろうことは間違いない。
しかし当時、そのようなまっとうな批判ではなく、単に「ワシの知っている衣と違う!」という、いつの時代にもはびこる老害とも言うべき老僧ら、いわば老醜したモノのわからん耄碌爺があって、それらが「どう論拠があろうとも、そんなものはワシは認めん!とにかくケシカラン!キニイラン!」と反対するであろうことを念頭にも置いたものであったかもしれない。▲
道宣による『四分律』の注釈書『四分律刪繁補闕行事鈔』。一般に『行事鈔』と言われる。
ここで引かれているのは、その巻下 二衣総別篇の冒頭にある一節。「何名爲制。謂三衣六物。佛制令畜。通諸一化並制服用。有違結罪」(T40. P104c)。▲
仏陀の一生涯。▲
十誦律』の注釈書『薩婆多毘尼毘婆沙』。著者・訳者共に不明。
ここで引かれているのは、その巻四「欲現未曾有法故。一切九十六種。盡無此三名。以異外道故」(T23. P527b)。▲
[S]adbhuta-dharma. この世に未だかつて存在しなかった、経験されなかった教え・思想。仏陀によってなされた教えを九部経あるいは十二部経に分類した場合の一つとしても挙げられる。▲
インドにおける外道の総称。仏陀ご在世の当時、高名であった六名の外道を六師外道と言うが、その六師外道らがそれぞれ十五人の弟子をもっており、またそのそれぞれがその師と若干異なる思想を説いたととされる。それら六師と弟子らを総計すると九十六となり、これでもって全ての外道の思想を表する言葉とした。▲
『四分律』。
法蔵部(曇無徳部)の律蔵。『四分律』にはこれに同じ一節はなく、むしろ『行事鈔』二衣総別篇にそのまま同一の一節があって、そこから孫引きしたものであろう。そして『行事鈔』のそれは、『四分律』巻四十三 衣揵度にある「過去諸如來無所著佛弟子。著如是衣」(T22. P855b)を略して引いたものであろう。▲
摩訶僧祇律』。
大衆部の律蔵。ここで引かれるままの文は『摩訶僧祇律』には無いが、おそらく巻三十八冒頭にある一節「佛住舍衞城。爾時有人名竭住。在外道中出家。父母在佛法中出家。時竭住。盛寒時無衣。往至母所禽獸而住。母即慈念。有新浣染作淨欝多羅僧。便脱與之。得已即著入酒店中坐。爲世人所嫌。言此邪見噉酒糟驢。而著聖人幖幟」から取ったものであろう。仏陀の元で出家した両親の息子で竭住という者があり、彼は外道で出家していたが寒中でも衣を着ていなかったことから、母たる比丘尼がその大衣を与える。そこで息子は与えられた大衣を着たままで酒屋に入った。しかし、それを見た在家信者らが批判して「(外道が)ふしだらな酒屋などに出入りして、しかも聖人の幖幟(たる比丘・比丘尼の衣)を着るとはけしからん」と言った、というのがその内容。▲
『雑阿含経』。
伝統的に、漢訳『雑阿含経』は説一切有部が伝持した阿含の一部であるとされる。ここに引かれるような一節は『雑阿含経』に確認できないが、『行事鈔』に同一の一節がある。▲
なんら対象を制限せず持つべきとされる慈悲喜捨の想い。慈とは自他が楽であれとの想いであり、また怒りのないこと。悲とは自他が苦しみなくあれとの想いであり、また害意のないこと。喜は自他に悦ばしいことがあれば共にそれを喜ぶ想いであり、妬み嫉みのないこと。捨は自他にたいして拘らず執着しない想いであり、平静であること。▲
『十誦律』。
説一切有部の律蔵。ここに引かれるままの一節は無い。巻二十七の衣法の所説を斟酌したもの。ここに「刀を以て截す」とは、洴沙王(Bimbisāra)が、外道の出家者を比丘と誤認して礼拝したのをきっかけに、王が仏陀に対し、外道の修行者と比丘とをひと目で区別出来るような衣を着してほしいと願う。その後、仏陀と諸比丘が南山に遊行されたおり田園の風景を見、この田園の如き姿の衣を作ることが出来るかと阿難尊者に聞いて出来たのが割裁衣であることを言ったもの。
また「慚愧人の衣」というのは毘舍佉鹿子母(Visākhā-Migāra-mātā)が請食のために奴婢を精舎に遣わした時、素裸で洗身している比丘らを見た奴婢が「是中都無比丘。盡是裸形外道無慚愧人」であると思ってそのまま帰り、これを報告したという一節から、これを逆から言ったものであろう。▲
慚はみずからに対して恥じる想い、愧は他に対して恥じる想い。仏教において、人と畜生との差、人が人たることは恥を知ることにあると説かれる。▲
仏駄跋陀羅訳『大方広仏華厳経』巻六 浄行品「當願衆生 斷除煩惱 究竟寂滅 受著袈裟 當願衆生 捨離三毒 心得歡喜 受出家法」(T9. P430c)。▲
四分律』巻四十三 拘睒彌揵度第九「雖有袈裟服 壞抱於結使 不能除怨害 彼不應袈裟」(T22. P882c)。▲
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『賢愚経』第十三「剃頭著染衣。當於生死疾得解脱」(T4. P438c)。▲
『釈門章服儀』。道宣が法服について顕慶四年〈659〉に著した書。その「括其大歸。莫非截苦海之舟航。夷生涯之梯蹬」(T45. P835a)をそのまま引き写した一節。▲
『増一阿含経』に対する、誰か大乗の見解を奉ずる者による未完の注釈書。著者および訳者不明。巻四「爲三時故。故設三衣。冬則著重者。夏則著輕者。春秋著中者。爲是三時故。便具三衣」(T25. P44c)。ここで『分別功徳論』は、三時を冬・夏・春と訳しているけれども、印度は支那や日本のようにそのような季節の分類は出来ないため、今ならば雨時(雨季)・熱時(暑季)・寒時(乾季)と解すべきことである。寒時は中印度以北ならば零度に達することもあって凍えるほどとなる。▲
龍樹による『大般若経』の注釈書『大智度論』。その巻六十八にある一節「行者少欲知足衣趣蓋形不多不少故。受但三衣法。白衣求樂故多畜種種衣。或有外道苦行故裸形無恥。是故佛弟子捨二邊處中道行」( T25. P538b)の抄略引用。▲
ここで元照は支那における冬・夏・春をもって三時としているが、中印度の気候に即して言えば雨季・乾季・暑期とすべきであったろう。▲
ここでの中道は、在家が服として華美であったり過剰な品質のものを求め、外道は極端な粗衣や裸であることを良しとするのに対し、仏教者が必要最低限かつ柔軟に寒暑に対応できる三衣をもって良しとすること。▲
ジャイナ教は徹底した無所有を説き、その出家修行者はなんらの衣もまとわず裸で過ごした。今なおその行者はジャイナ教の裸形派として南印度に存在している。▲
在家信者。一般に印度における在家者は白い衣を纏うことから、在家信者をして白衣と称す。その習慣は今なお続いてスリランカおよび東南アジアにも伝えられている。▲
『薩婆多論』巻四「所以制三衣。以除寒故。一衣不能却寒」(T23. P53a)。▲
道宣による印度における戒壇についての伝説をまとめ著した書『關中創立戒壇図経』。そのうち「三衣斷三毒也。五條下衣斷貪身也。七條中衣斷瞋口也。大衣上衣斷癡心也」(T45. P816a)を引いたもの。道宣は玄奘の訳経事業に参加しており、あるいは玄奘から天竺の様子など直接聞いていたかもしれない。彼自身、僧のあるべき姿を知るために天竺行の願いを強く持っていたものの、ついにそれを果たすことは出来なかった。▲
貪欲・瞋恚・愚痴の三大煩悩。貪瞋癡。▲
上半身の下着である僧祇支を元に(伝承では宮中の女官により)支那で考案された上半身を覆うための衣。▲
腰にまく下着。涅槃僧。▲
智顗の弟子灌頂によって編纂された『国清百録』の冒頭に記される智顗による制法の第一。「第一夫根性不同。或獨行得道。或依衆解脱。若依衆者當修三行。一依堂坐禪。二別場懺悔。三知僧事。此三行人。三衣六物道具具足。隨有一行則可容受。若衣物有缺。都無一行則不同止」(T46. P793c)。▲
『宋高僧伝』に出る清涼国師澄観伝にて記される、その十願の第一。巻五「門人清沔記觀平時行状云。觀恒發 十願。一長止方丈但三衣鉢不畜長」(T50. P737c)。▲
三衣一鉢とは最低限、それを所有していなければ具足戒を受けられないというのであって、それのみ所有してはならないというのではない。実際に生活する上では、洗い替えなど、衣についてはその予備が必要となる。そこで衣の予備を得るための作法・規定が定められ、その予備の衣を余長と称す。▲