二釋名。有二。初通名者。總括經律。或名袈裟 從染色爲名 或名道服 或名出世服。或名法衣。或名離塵服。或名消痩服 損煩惱故 或名蓮華服。離染著故 或名間色服 三色成故 或名慈悲衣。或名福田衣。或名臥具。亦云敷具 皆謂相同被褥 次別名者。一梵云僧伽梨。此云雜碎衣 條相多故 從用則名入王宮聚落衣 乞食説法時著 二欝多羅僧。名中價衣 謂財直當二衣之間 從用名入衆衣 禮誦齋講時著 三安陀會名下衣 最居下故或下著故 從用名院内道行雜作衣 入聚隨衆則不得著 若從相者。即五條。七條。九條。乃至二十五條等。義翻多別且提一二
三明求財。分二。初明求乞離過。由是法衣。體須清淨。西梵高僧。多拾糞掃衣。今欲如法。但離邪求。事鈔云。興利販易得者不成。律云不以邪命得 下引疏釋 激發得 説彼所得發此令施 現相得 詐現乏少欲他憐愍 犯捨墮衣 三十諸衣戒等 竝不得作業疏云。邪命者。言略事含。大而言之。但以邪心。有渉貪染。爲利賣法。禮佛。誦經。斷食。諸業所獲贓賄。皆名邪命。今人嚢積盈餘。強從他乞。巧言諂附。餉遺汚家。凡此等類竝號邪利。次明對貿離過。若本淨財貿得最善。必有犯長錢寶。將貿衣財準律。犯捨衣貿得新衣。但悔先罪。衣體無染。可以例通。若自貿物。不得與白衣爭價高下同市道法。遣淨人者。亦無所損。有云。淨財手觸。即爲不淨。此非律制。人妄傳耳 但犯捉寶非汚財體
四明財體。分二。初明如法。律中猶通絹布二物。若準業疏諸文。絹亦不許。疏云世多用絹紬者。以體由害命。亦通制約。今五天竺及諸胡僧。倶無用絹作袈裟者。又云。以衣爲梵服。行四無量。審知行殺。而故服之。義不應也。感通傳中。天人讃云。自佛法東傳。六七百年。南北律師。曾無此意。安用殺生之財。而爲慈悲之服。廣如章服儀明之。義淨寄歸傳。輒責爲非。蓋大慈深行。非彼所知。固其宜矣。次簡非法。然其衣體。須求厚密。離諸華綺。律云。若細薄生疎 蕉葛生紵並不可用 綾羅錦綺。紗縠紬綃等。
並非法物。今多不信佛語。貪服此等諸衣。智論云。如來著麁布僧伽梨。此方南嶽山衆。及自古有道高僧。布衲艾絮。不雜一絲。天台唯被一衲。南山繒纊不兼。荊溪大布而衣。永嘉衣不蠶口。豈非慈惻之深。眞可尚也。今時縱怠。加復無知。反以如來正制之衣。用爲孝服。且僧無服制。何得妄行。釋氏要覽。輔教孝論。相循訛説。愼勿憑之。近見白布爲頭絰者。斯又可怪。法滅之相。代漸多。有識者。宜爲革之。則法得少留矣
五明色相。律云。上色染衣。不得服。當壞作袈裟色 此云不正色染 亦名壞色。即戒本中三種染壞。皆如法也一者青色 僧祇。謂銅青也。今時尼衆青褐。頗得相近 二者黒色 謂緇泥涅者。今時禪衆深黲竝深蒼褐。皆同黒色 三木蘭色 謂西蜀木蘭。皮可染作赤黒色古晋高僧多服此衣。今時深黄染絹微。有相渉。北地淺黄。定是非法 然此三色名濫體別。須離俗中五方正色 謂青黄赤白黒 及五間色 謂緋紅紫緑碧。或云硫黄 此等皆非道相。佛竝制斷。業疏云。法衣順道。錦色斑綺。耀動心神。青黄五綵。眞紫上色。流俗所貪。故齊削也。末世學律。特反聖言。冬服綾羅。夏資紗縠。亂朱之色。不厭鮮華。非法之量。長垂髀膝。況復自樂色衣妄稱王制。雖云飾過。深成謗法。祖師所謂何慮無惡道分悲夫 多論違王教得吉者。謂犯國禁令耳
二に釋名。二有り。初めに通名とは、經律を總括するに、或は袈裟と名づけ 染色に從て名と爲す、或は道服と名づけ、或は出世服と名づけ、或は法衣と名づけ、或は離塵服と名づけ、或は消痩服と名づけ 煩惱を損ずるが故なり、或は蓮華服と名づけ 染著を離れるが故なり、或は間色服と名づけ 三色を成すが故なり、或は慈悲衣と名づけ、或は福田衣と名づけ、或は臥具と名づけ、亦は敷具と云ふ 皆被褥に相同じきを謂ふ。次に別名とは、一には梵に僧伽梨と云ふ。此には雜碎衣と云ふ 條相多きが故に。用に從へば則ち入王宮聚落衣と名づく 乞食説法時に著す。二には欝多羅僧、中價衣と名づく 財直二衣の間に當るを謂ふ。用に從へば入衆衣と名づく 禮・誦・齋・講の時著す。三には安陀會、下衣と名づく 最も下に居るが故に。或は下に著するが故に。用に從へば院内道行雜作衣と名づく 聚に入り、衆に隨ふときは則ち著することを得ず。若し相に從へば、即ち五條、七條、九條乃至二十五條等なり。義翻、多く別れたり。且らく一二を提ぐ。
三に求財を明すに、二を分かつ。初めに求乞に過を離れることを明かす。是れ法衣なるに由て、體は須く清淨なるべし。西梵の高僧、多く糞掃衣を拾う。今、如法なることを欲すれば、但だ邪求を離れよ。事鈔に云く、利を興し販易して得たる者は成ぜず。律に云く、邪命得 下に疏を引いて釋す、激發得 彼に得る所を説いて此に發して施さしむ、現相得 詐て乏少を現じて他の憐愍を欲すを以て得ざれ。犯捨墮の衣 三十の諸衣の戒等なり、竝びに作ることを得ずと。業疏に云く、邪命とは、言、略にして事、含なり。大にして之を言はば、但だ邪心を以て貪染に渉ること有り。利の爲に法を賣り、禮佛し、誦經し、斷食するなど諸の業によって獲る所の贓賄は、皆邪命と名づく。今の人は嚢に積み盈ちて餘れども、強に他に從いて乞ひ、言を巧みにして諂い附き、餉遺して家を汚す。凡そ此等の類を竝びに邪利と號す。次に貿に對り過を離れることを明す。若し本の淨財をもって貿得るは最も善し。必ず犯長の錢寶有らんに將て衣財に貿えば、律に準ずるに、犯捨の衣を以て新衣を貿得ば、但だ先罪を悔すべし。衣體は染無し。以て例通すべし。若し自ら物を貿んには、白衣と價の高下を爭ひて市道の法に同ずることを得ず。淨人を遣せども、亦た所損無し。有るが云く、淨財、手に觸るるを即ち不淨と爲すと。此れ律制に非ず。人の妄傳なるのみ 但だ捉寶を犯ず。財體を汚すには非ず。
四に財體を明す。二を分かつ。初めに如法を明す。律中に猶ほ絹・布の二物を通せり。若し業疏の諸文に準ずれば、絹も亦た許さず。疏に云く、世に絹・紬を用いる者多し。體、害命に由るを以て、亦た通じて制約す。今、五天竺及び諸胡僧、倶に絹を用て袈裟を作る者無しと。又云く、衣を以て梵服と爲して、四無量を行ず。審かに知ぬ、殺を行じて而も故に之を服するは、義に應ぜざるなりと。感通傳の中に、天人讃じて云く、佛法東傳してより六七百年。南北の律師、曾て此の意無し。安ぞ殺生の財を用て而も慈悲の服と爲さんやと。廣くは章服儀に之を明すが如し。義淨の寄歸傳に、輒ち責めて非と爲す。蓋し大慈の深行は、彼が知る所に非ず。固に其れ宜なるかな。次に非法を簡ぶ。然れども其の衣體は、須く厚密なるを求めて、諸の華綺を離るべし。律に云く、若し細薄生疎 蕉葛生紵並びに用ふるべからず綾・羅・錦・綺・紗・縠・紬・綃等、並びに非法の物なりと。今、佛語を信ぜず。此等の諸衣を貪服せり。智論に云く、如來は麁布の僧伽梨を著したまへりと。此方の南嶽山の衆、及び古より有道の高僧は布衲艾絮にして一絲をも雜えず。天台は唯だ一衲を被る。南山は繒纊兼ねず。荊溪は大布にして而も衣る。永嘉は衣、蠶口せず。豈に慈惻の深きに非ずや。眞に尚ぶべきなり。今時は縱に怠りて、加復知無し。反て如來正制の衣を以て、用て孝服と爲し、且つ僧に服制無しとす。何ぞ妄行することを得んや。釋氏要覽、輔教の孝論は訛説に相循へり。愼みて之に憑むこと勿れ。近ろ白布をもって頭絰と爲す者を見る。斯れ又た怪しむべし。法滅の相、代て漸く多し。有識者、宜く爲に之を革めば、則ち法、少しく留ることを得ん。
五に色相を明す。律に云く、上色の染衣は服することを得ず。當に壞して袈裟色 此には不正色染と云ふと為すべしと。亦た壞色と名づく。即ち戒本中の三種染壞は、皆如法なり。一には青色 僧祇には銅青と謂ふなり。今時の尼衆の青褐は、頗る相近きことを得たり、二には黒色 緇の泥涅の者を謂ふ。今時の禪衆の深黲竝びに深蒼褐、皆黒色に同じ、三には木蘭色 謂く西蜀の木蘭皮、染めて赤黒の色を作すべし。古へ晋の高僧、多く此の衣を服せり。今時の深黄染の絹、微かに相渉ること有り。北地の淺黄は定んで是れ非法なり。然れども此の三色は名は濫して體は別なり。須く俗中の五方正色 謂く青・黄・赤・白・黒及び五間色 謂く緋・紅・紫・緑・碧、或は硫黄と云ふを離るべし。此等は皆道相に非ず。佛竝びに制斷したまへり。業疏に云く、法衣は道に順ずべし。錦色・斑・綺は心神を耀動す。青黄の五綵、眞紫の上色は流俗の貪する所。故に齊しく削るなりと。末世の律を學ぶもの、特に聖言に反して冬は綾・羅を服し、夏は紗縠を資す。亂朱の色、鮮華を厭はず。非法の量、長く髀・膝に垂る。況んや復た自ら色衣を樂て妄りに王制と稱す。過を飾ると云ふと雖も、深く謗法を成ず。祖師の所謂、何ぞ惡道の分無しと慮る。悲きかな 多論に王教に違すれば吉を得と云ふは、國の禁令を犯すを謂ふのみ。
[S]kāṣāyaの音写。本文の割り註にても言及されているように、そもそも袈裟に衣や服の意は無い。袈裟とは赤褐色あるいは赤黒色のことであって、これが壊色と訳された。『仏制比丘六物図』が多くその拠り所とした道宣の『章服儀』においても、「經律所傳。號曰袈裟。通稱法服。然則袈裟之目。因於衣色。即如經中壞色衣也」(T45. P835a)とある。事実、仏教が伝来した当初、多くの胡僧・梵僧が赤褐色の袈裟を着ていたことが支那の諸伝に見える。やがて支那においては、そのような特徴的な仏教者の衣の色の名、すなわち「袈裟」をもって僧の装束の総称とするようになった。しかし、そもそも袈裟という言葉に衣などの意味など無いため、たとえば現在の印度や南方などにてサンスクリットであれパーリ語であれ「袈裟、袈裟」などと言っても、誰も理解してくれはしない。仏教者の衣は普通、cīvaraと言うのであって、漢土では支伐羅などと音写され、また衣と漢訳された。よって例えば袈裟衣という場合、それは本来「壊色の衣」の意。▲
ここで元照は十二種の衣の異称を挙げる。それらは道宣が衣の別称として『四分律刪補隨機羯磨疏』(以下『業疏』)などにてその根拠とともに挙げ連ねたのを引いたもの。就中、臥具を挙げて袈裟の別称としたのは道宣以来のこと。しかし、道宣が『薩婆多論』に基づいて臥具を衣の異称としたことについて、後代の義浄は誤りであると批判し、その後も江戸期の日本に至るまで様々に論争を惹起した。▲
衣を仕立てるための布の入手法。▲
『業疏』巻四にある一節の引き写し。體(体)とはその本質・元のこと。この一節で「清淨なるべし」とある清淨とは、律の規定に反しないこと。淨は[S]kalpaあるいは[P]kappaの訳であるが、その原意は適切・妥当。
一般に、清淨という語を見たならば物理的清潔さや、宗教的清淨さを想起するかもしれない。しかし、律における術語としての浄はそのようなものではない。よって、この逆の不浄といった場合「律の規定に違反した物あるいは行為」のこととなる。▲
糞掃は[S]pāṃśu-kūlaの音写。その意はpāṃśu(ゴミ)-kūla(集積)すなわちゴミの山、あるいはゴミ捨て場のことであって、糞掃衣とは要するに「捨てられた布で誂えた衣」のこと。傷むなどしたためにゴミとして捨てられた布で、使用に耐える部分をのみ切り取り、洗ったものを重ね縫い、継ぎ合わせて衣に仕立て、それを袈裟(赤褐色)に染めた衣が糞掃衣である。『四分律』では糞掃衣に「牛嚼衣・鼠噛衣・燒衣・月水衣・初産衣・神廟衣・塚間衣・願衣・立王衣・往還衣」(T22. P1011b)の十種が挙げられる。
巷間、ただ「糞掃」衣という漢字からの印象にのみ従って、「汚物を拭いた布で作った袈裟のことだ」などという安直な理解をし、あまつさえ人に解説すらする者があるが噴飯物の理解。▲
『行事鈔』巻下「一求財如法。謂非四邪五邪興利販易得者不成。律云。不以邪命得激發得相得犯捨墮衣。不得作等」(T40. P105b)。▲
捨墮とは、律の五篇七聚のうち衣鉢や敷具・坐具等所有物および金銭や薬についての三十項目からなる諸規定である尼薩耆波逸提(naihsargika prāyaścittika)の漢訳。もしこれに違反した物品を取得した場合、まず四人以上の僧伽に対して懴悔し、その所有を放棄しなければならない。「犯捨墮の衣」は捨墮に違反した衣。▲
道宣『四分律刪補隨機羯磨疏』の略。『四分律』所説の諸羯磨を道宣が集成した『四分律刪補隨機羯磨』に対して自ら注釈した書。『羯磨疏』とも称される。『大正蔵』には未収録。その巻四 衣薬受淨篇第四を釈する中に「邪命者。言略事含。知任何不攝。大而言之。但以邪心。有渉貪染。爲利賣法禮佛誦經斷食諸業所獲贓賄。皆曰邪命物」とあるを引く。▲
比丘が(衣を仕立てるために)金銭を受ける際、衣直として受けなかった場合、それは犯捨堕となる。そしてその金銭は犯長といって、所有権を僧伽に対して放棄しなければならない。▲
その所有権を放棄しなければならない衣。もし犯長の銭宝によって得た衣は、その根本から「犯捨堕の衣」であって、捨てなければならない。▲
比丘には律の違反となる行為を代わりに行うなど、その生活を助ける在家人。浄、すなわち「律に凖じること」を助ける人の意。パーリ語ではそのような役割をする人をkappiyaという。▲
ここで元照は「有るが云く、淨財、手に觸るるを即ち不淨と爲すと。此れ律制に非ず」とそのような主張をする者のあることを言い、これを「人の妄伝なるのみ」などと断じているが、正しくない。まず捨堕において、比丘は金銭に直接触れてはならないと規定されており、たとえ例外の衣直であろうとも、その管理は浄人などに任せるべきものであって、それに比丘は直接触れてはならない。
もっとも、この有る人の説というのが、「衣直にもし比丘が直接触れてしまった場合、その衣直はたちまち犯長の銭宝となって、それを用いて得た衣は犯捨堕衣となる」という意味で言っており、その説に対して元照が異議を唱えているのであれば、元照は必ずしも誤ってはいない。そこで割注にてあるように、「但だ捉寶を犯ず。財體を汚すには非ず」と解することが可能なためである。▲
衣の素材。▲
諸律蔵では通じて衣の財体に絹、および麻や綿などの植物繊維による布を使用することが許されていること。例えば『四分律』巻六 三十捨堕法之一には「衣者有十種。絁衣劫貝衣欽婆羅衣芻摩衣讖摩衣扇那衣麻衣翅夷羅衣鳩夷羅衣讖羅半尼衣」(T22. P602a)と十種の衣を挙げている。それはそれぞれ絁衣(太絹)・劫貝衣(木綿)・欽婆羅衣(毛織物)・芻摩衣(麻の一種)・讖摩衣(野麻)・扇那衣(白色羊毛)・麻衣(麻)・翅夷羅衣(鳥毛)・鳩夷羅衣(絳色羊毛)・讖羅半尼衣(尨色羊毛)とされる。律蔵やその注釈書によって若干の相違はあるものの、いずれの律においてもその素材として絹・麻・綿の使用が許されているのは変わらない。▲
『業疏』巻四「雖求清淨財躰應法綾羅錦繍。倶不合故。世多用絹紬者。以體由害命。亦通制約。今五天及諸胡僧。倶無用絹作袈裟者。來此神州。乃隨著耳親問。彼云絹亦有也。但慈念故。以衣爲梵服行四無量。審知。行殺而故服之。義不應也」。
道宣は絹の使用は律蔵で許されてはいるけれども、梵僧や胡僧らでもそれを着るものは無く、絹は蚕の命を害って得るものであるから使ってはならない、と禁止した。この絹衣禁止の道宣による方針は、南山律宗のいわば教義(ドグマ)となり、後述の義浄三蔵からの批判を始め、後代の日本における律宗や禅宗に至るまで様々な論争・軋轢を生むこととなる。▲
『律相感通伝』。道宣が齢七十二の最晩年、乾封ニ年〈667〉に著した書。道宣の前に天神が現じてその徳を賛嘆し、彼がいまだ明らめていなかった律についての詳細に関する問いに対して天神が次々答えたのを、逐一記録したものとされる書。
ここに引かれるのは、その「自佛法東傳。六七百年。南北律師曾無此意。安用殺生之財。而爲慈悲之服」(T45. P879c)。▲
『章服儀』立体抜俗篇第二には、肉食と絹衣が経律に許されているとは言え、なぜ共に用いるべきでないかの理由と根拠がかなりの長きにわたって主張されている。ここでその全てを示すのは冗長となるため、その冒頭の一部のみ示す。
「問。上顯求之有方。則理事雙得。然求之所幸有布。有繒。或氈㲲相乘或毛綿間獲。五納百結。聞諸儉徒。木食草衣。偏資山衆。蒙既惑焉。願欣其要。答。曰出俗五衆准的四依。聖有成儀。無經凡慮。開濟形苦。意在心清。事不獲已。置斯聖 種而正律遮許。慈悲務先。得而生惱。必不容納。故肉食蠶衣。爲方未異。害命夭生事均理一。暴繭爛蛾。非可忍之痛。懸皰登俎。成惡業之酷。漁人獻鮪。桑妾登絲。假手之義不殊。 分功之賞無別。是以至聖殷鑒審惡報之難亡。經律具彰。兩倶全斷」云云(T45. P835c)。▲
唐代の律僧(635-713)。法顕や玄奘など渡天の三蔵らの蹟を慕って自らも南海経由で印度に入り、廿五年間、南海および印度諸国を遊歴し、多くのサンスクリット経典・律蔵を持ち帰った。帰国後は請来した経律の翻譯に励み、多くの重要な密教経典および新来の根本説一切有部の律蔵の漢訳を遺している。道宣が打ち立てた南山律宗における教学に対し、印度における前例も根拠も無い妄伝が多くあるとして激しく批判したが、その当時の律宗にはほとんど影響を与えなかった。▲
『南海寄帰内法伝』。義浄が印度及び南海諸国において見聞した僧伽のあり方などその詳細を記した書。義浄は支那の仏教自体のあり方、中でも道宣など律宗の教義とそれに基づく諸行事が誤っていることを盛んに批判している。そこで元照は、義浄の『寄帰伝』における実地に見聞した実際と因明を用いた「絹の禁止は不合理」という批判に対し、むしろ感情的に反論している。ここではいわば理想と現実の、そのどちらを重視するかの立場の違いによる齟齬が発生している。けれども、私見では、客観的に見てその理は義浄にある。
まず道宣にしろ元照にしろ、実際に印度に行ってその実際を見聞したことは無い。その故にその所論はただ伝聞か想像の範を出られておらず、その意志はあくまで慈悲を尊んでこれを現実に行おうとする貴いものではあろうけれども、勢いその思想や理解が思弁的に過ぎている感が否めない。そして、義浄の主張は数々の典拠と因明に基づいた、彼らの主張への反証を示したものであり、またより現実的なものであるためである。▲
ここで「律に云く」とあるけれども、いずれの律蔵にも同様の一節は見いだせず、かえって『行事鈔』巻下に「若細薄生疏綾羅錦綺紗縠細絹等。並非法物」(T40. P105b)と見える。▲
『大智度論』巻一「以刀剃髮。以上妙寶衣貿麁布僧伽梨。於泥連禪河側六年苦行」(T25. P58a)。▲
智顗の師、天台宗第二祖慧思は、南岳(衡山)に入ってここを中心として教化活動を行い、晩年を過ごしたことから南岳慧思と称された。ここではその慧思の門弟らを指して言う。▲
天台とは天台宗第三祖智顗。智顗は天台大師あるいは智者大師と称された。しかし、灌頂『国清百録』あるいは『隋天台智者大師別伝』、および道宣『続高僧伝』にある智顗伝にはそのような伝承のあることを愚衲には見いだせない。かわりに元照より下ること二百年ほどの志磐によって表された『仏祖統紀』巻六には、「師於三十年唯著一納衲非」(T49. P185a)とそのような伝承のあったことを伝えている。▲
南山とは南山大師と称された道宣のこと。賛寧撰『宋高僧伝』巻十四に「三衣皆紵一食唯菽」(T50. P790c)とあって、道宣のその三衣すべて麻布であってただ豆類のみ食していたと伝えられる。▲
荊渓は天台宗第六祖湛然、妙楽大師とも言われる。『宋高僧伝』巻六に「天寶末。大暦初。詔書連徴。辭疾不就。當大兵大饑之際。掲厲法流學徒愈繁。瞻望堂室以爲依怙。然慈以接之謹以守之。大布而衣一床而居。以身誨人耆艾不息」(T50. P739c)とその人徳の高くあったことを伝えている。▲
永嘉とは禅宗六祖慧能の弟子玄覺。『宋高僧伝』巻八の玄覺伝に「絲不以衣耕不以食。豈伊莊子大布爲裳」(T50. P758a)とあるに依るものであろう。▲
喪服。▲
(仏教僧における)喪服に関する規定。▲
宋代の僧、道誠が天禧三年(1019)に著した初学者のための仏教辞典的著作。ここで道誠は服制の項を設け「服制 釋氏之喪服。讀涅槃經。并諸律。並無其制」(T54. P307c)などと解説している。これは元照が「妄行である」と批判するのも無理はない暴論であろう。どのようにして彼はこのような説を述べたのか理解しかねる。▲
『輔教編』。宋代の禅僧、明教大師契嵩が、主に儒家など仏教に批判的な人々に対して仏教・儒教・道教の三教一致を主張した書。『輔教編』はそれ自体としては現存していないが、同じく契崇撰の『鐔津文集』にその全文が残っている。その中、契崇は「終孝章第十二」なる一章を設け、「父母之喪亦哀。縗絰則非其所宜。以僧服大布可也」(T52. P662b)と始めて孝論を展開している。
契崇のそれは当時の儒教に迎合するための主張であろうけれども、あまりにも無根拠で杜撰にすぎる感のあることが否めない。元照もやはりこのような僻事をさも正当かのように世に主張する者を認めることは出来なかったのであろう。▲
葬送論。▲
絰とは、古代支那において喪服を着る時に用いられた麻布。これを頭に巻く時は頭絰あるいは首絰といい、腰に巻く時は腰絰と言った。許慎『説文解字』では「喪首戴也。从糸至聲」と解している。ここで元照は、当時の支那僧らが白布をもっていわば襟巻きのように着用しているのを批判している。これは現今の日本における天台宗や真言宗、浄土教徒らが着用している縹帽子(羽二重帽子)の嚆矢のようにも思える。
もっとも、僧が縹帽子を着用するにようになった始めは、隋の煬帝が智顗から受戒したおり、その縹袖を帽子として下賜したことであるとされる。日本では平安最初期、これを桓武帝が模倣して最澄に与えたのが最初とされる。事実、一乗院蔵の最澄図像には最澄が白色の頭巾すなわち帽子をかぶった姿が描かれている。真言宗では、嵯峨天皇が神道灌頂を空海から受けた折、寒かろうといってその片袖を空海に与えたのが初めだ、などという話をまことしやかに伝えている。が、これは空海入定説に等しい、根も葉もない捏造話にすぎない。▲
衣の規定された色。▲
『四分律』巻四十「時六群比丘畜上色染衣。佛言不應畜。時六群比丘畜上色錦衣。佛言。不應畜錦衣白衣。應畜。應染作袈裟色畜」(T22. P857a)。▲
五正色・五間色といわれる、世間で良しとされ、もてはやされる色。後述。▲
[S]prātimokṣaあるいは[P]pāṭimokkhaの漢訳。波羅提木叉と音写される。
仏陀によって規定された、比丘の為すべきでないこと、あるいは為すべきことの集成である律蔵の枢要を抽出してまとめたものであり、それが戒(律)の根本であり、ひいては仏教の根本であることから意訳されて戒本といわれる。しばしば巷間に、戒本という文字から受ける印象からであろうが、「戒がまとめ書かれた本であるから戒本である」など安直な理解をして人に説明すらする者があるが僻事。
その原語prātimokṣaから見たならば、prāti (=prati)は「それぞれの」、mokṣaは「解脱、開放」の意であることから、漢訳としては他に、別解脱・処処解脱・随順解脱とされる。これらの語は各自が受けた戒あるいは律に従うことによって身および口によって為される悪から離れることができる、すなわち少なくともその戒あるいは律の一条項が制する悪からは解脱し得ることからその様に訳されたもの。
戒本が比丘らにとってどのような価値をもつものであるかについて、たとえば『仏遺教経』において「汝等比丘、我が滅後に於いて、まさに波羅提木叉を尊重し珍敬すべし。闇に明に遭い、貧人の宝を得るが如し。当に知るべし、此れは則ち是れ汝等が大師なり」と説かれる。▲
律蔵に制されている衣の三種の色。ここではひとまず『四分律』の所説にしたがって、それぞれ濁った青色・黒色・木蘭色をもって三種染壊とする。ただし、律蔵によってこの三種の色についての語は若干ながら相違する。▲
前述のように三種染壊色は一応、青色・黒色・木蘭色と称されてはいるけれども、先に割註にて青色とは青褐色であり、黒色とはねずみ色であり、木蘭色とは赤黒色のことであると言われているように、それらがそのまま世間で言われている色と同じでは無いこと。今、日本では木蘭色を黄褐色あるいは茶褐色であると理解し、香色などと称する場合があるが正しくない。木蘭色とは赤褐色のことである。また墨染の衣といえば、漆黒の衣のことだと解する者も非常に多いが、すでに述べたように、墨染めの衣とはねずみ色の衣。
いずれにしてもその要は、青・黄・赤・白・黒の五純色(五正色)を必ず避けることであり、また同じく緋・紅・紫・緑・碧あるいは硫黄の五間色にも衣を染めてはならないこと。▲
『業疏』巻四 衣薬受浄篇第四「第三門義。以法衣順道。錦色斑綺。耀動心神。青黄五綵。眞紫上色。流俗所貪。故齊削也」。▲
錦のような色。金銀が混じって輝く色。▲
様々な色が混じり合ったもの。▲
縞模様。▲
精神、こころ。▲
綾絹。▲
薄絹。▲
穀紗。薄絹で織り上げられた絹織物。▲
紫色。▲
大きさ、寸法。▲
色衣とは特に紫衣(紫色の袈裟)。宋代初期の僧賛寧による『大宋僧史略』巻下に「賜僧紫衣 古之所貴名與器焉。賜人服章。極則朱紫。緑皂黄綬乃爲降次。故曰加紫綬。必得金章。令僧但受其紫而不金也方袍非綬尋諸史。僧衣赤黄黒青等色。不聞朱紫。案唐書。則天朝有僧法朗等。重譯大雲經。陳符命言。則天是彌勒下生爲閻浮提主。唐氏合微。故由之革薜稱周新大雲經曰。終後生彌勒宮。不言則天是彌勒 法朗薜懷義九人並封縣公。賜物有差。皆賜紫袈裟銀龜袋。其大雲經頒於天下寺。各藏一本。令高座講説。賜紫自此始也」云々(T54. P248c)とあって、僧に初めて紫袈裟を送るようになった経緯として、唐の武則天(則天武后)が法朗や薜懐義ら九人の僧に『大雲経』の重訳をさせ、その功績として県公の爵位、および紫袈裟と銀亀の袋を下賜したことがその嚆矢であると伝える。愚衲には、元照がここで参照したという「唐書」が何か不明であるため、この伝承がどこまで事実であったかの確認を今の所なし得ない。
元照とほぼ同時代の道誠は『釈子要覧』に、紫袈裟が下賜された顛末として、『大宋僧史略』の一節を粗略ながら引用して記している。さらに後代の天台僧志磐は、『仏祖統紀』巻三十九に「載初元年。勅沙門法朗九人重譯大雲經。並封縣公賜紫袈裟銀龜袋賜紫始此」(T49. P369c)と具体的に載初元年〈689〉のことであったとして、さらに簡略に伝えている。宋代にはすでに何か帝や朝廷に対しなにか功績を残した僧に、紫袈裟を下賜するという慣習は定着して行われていたことが『宋高僧伝』などによっても確認される。そしてさらに、この元照の批判によって、当時の僧らが紫衣を得ることに憧れ、また得た者はそれが明らかに非法であるのに、いわば「王制に反する行為を仏陀は禁止された。紫衣は仏制に反するように思えるけれども、王制に従うことであるから、かえって許されるのだ」という詭弁によって正当化する者らが存在したことを確認することも出来る。
これは俗に言う「おためごかし」というものであろうが、そのような言を振るうものは現代の日本においても多くあり、そして人は変わらないものであるということをここで知ることもできよう。元照がこの少々後の割り注にて「多論に王教に違すれば吉を得と云ふは、國の禁令を犯すを謂ふのみ」としているが、それは『薩婆多論』巻三に「然違犯王教突吉羅」(T23. P518a)とあるのを牽強附会し、そのような弁明をする者らがあったためであろう。
なお、現今の日本では一般に、紫衣とは袈裟ではなく、袈裟の下に着る紫の服を指して言うものと理解されている。元来、衣と袈裟とは同義語であったのが、袈裟の下に着る、いわば下着に該当する部分が支那以来、特に日本で独自に展開し、これを衣と称するようになったことによるものであろう。しかし、袈裟であれ彼らのいう衣であれ、いずれにせよ紫色などは「上色」であって僧が所有・着用すべきもので無いことには変わりない。▲
道宣『行事鈔』巻下「薩婆多云。五大色者不成受。則孝僧白布袈裟等非法。如是例之。多有黒青赤黄四色。無多白者。正言如上不成。今以凡情苦受。此則一生無衣覆身。一死自負聖責。何慮無惡道分。悲哉」(T40. P106cー107a)を引いたもの。この『行事鈔』にある記述から、初唐に活躍した道宣の当時から僧が喪に服すとして白袈裟を着用する者のあったことが知られよう。▲