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智慧之大海 ―去聖の為に絶学を継ぐ

河口慧海 『在家仏教』緒言

河口慧海 『在家仏教』緒言 解題

日本は「在家仏教」?

巷間こうかんしばしば、「日本は在家仏教であるから、厳しい戒律を守る必要はない」、あるいは「大乗は在家信者から生まれた仏教であり、ゆえに一般家庭生活を送りながら仏の道をあゆむ在家仏教こそ、真の大乗」、「大乗は在家仏教であり、厳しい戒律を必要としない仏教だ。日本仏教は大乗である。よって我々日本の僧侶はあれこれと細かい戒律を守らなくても良い。戒律を守るのは出家主義・形式主義の小乗」などといった言葉を聞く事があります。

そもそも「在家仏教」とは何でしょうか。

在家仏教という言葉は、かなり曖昧な漠然としたものとして一般に使用されているようで、その実体がいかなるものか把握しがたいようです。そこでまず、一般的な理解がどのようなものか知るための補助として国語辞書を引いてみると、「出家して僧になることなく、俗人の立場で信仰する仏教。また、俗人の信仰の意義を評価する仏教。」(三省堂)とあります。

はたして適切な説明でしょうか。また、このような意味で巷間用いられているのでしょうか。日本では「戒律」というものに対する無理解や誤解が根強くありますが、であるならばそのような誤解の元に成り立ったものではないのか。とすると、いつごろからこれは言われ出したのでしょうか。

結論から言うと、まず「在家仏教」という言葉そのものや概念は、日本人として初めて数々の危険をおかしてチベットに二度にわたり入国、多数のサンスクリットあるいはチベット語で記された経典を日本にもたらした、河口慧海かわぐち えかい(1866-1945)が大正十五年(1926)に提唱したものです。

河口慧海とは

河口慧海は、慶応けいおう二年(1866)1月12日、和州さかい(現:大阪府堺市)にて、父善吉ぜんきち、母つねの長男として生を受けた人です。幼名は定治朗さだじろう

小学校に通っていたのが明治十年に退学し、家業を手伝い始めるも、夜学に通って漢学を習得。定治朗は二十一歳から哲学館(現:東洋大学)に通学したのでした。しかし、明治二十三年(1890)、定治朗二十四才のおり黄檗宗僧として出家し、慧海との僧名を得て東京本所の五百羅漢寺の住職となったのでした。それから二年後、慧海はその本山たる宇治黄檗山万福寺まんぷくじにて一切経を読破したといいます。しかし、慧海は、僧侶として漢訳経典を読んでいくうちどうにもそこに説かれていることに疑問を抱くようになります。

そもそも、日本に伝わり学ばれてきた経典は、サンスクリットなどインドあるいは中央アジアの諸言語から漢語に翻訳されたものです。しかし、言語系統も文化風習もまったく異なるインドと中国では正確に翻訳しがたい点があって意味不明、あるいは翻訳者の解釈などで加筆あるいは改変、削除されたと疑われる点、多々あるものでした。

例えば、仏教の経典には、同じ内容の経典でも、時代などによって翻訳者の異なるものが伝わっている場合があります。そこでそれらを比較してみると、部分的に内容が異なっている、あるいは脱落して一方には有ってももう一方には無い、などということがしばしばあるのです。有名なものを挙げるならば『法華経』・『華厳経』などです。

また、重要とされた経典は、印度や支那の学僧達によってさまざまな解釈・注釈が施された論書が著され、物によっては絶対の権威あるものとして用いられていました。しかし、それらの中には明確な根拠のない解釈や、語義を敷衍しすぎ、抽象的に過ぎて逆に意味がわからなくなっているものが多数あります。故に漢訳経典を直接何度読んでも、いかんとも理解しがたい箇所が出て来るのは必然であり、「権威」に批判的な人がそれら注釈書を用いて読んでも、不審な点が出現するのは当然でした。

そこで慧海は、サンスクリットによる経典・論書をほぼ忠実に翻訳されたチベット語訳経典の入手を志すようになります。時に慧海二十六歳のことです。

それから、慧海は恐るべき精力をもって旅程計画や語学習得など、その準備に取り掛かります。この期間、慧海は、近世における卓犖たくらく不羇ふきの人、慈雲じうん尊者に私淑ししゅくしてその後継を自負し、戒律復興運動を展開していた真言宗の釈雲照しゃく うんしょうの下で戒律について学んでいます。そしてまた、その甥で上座部をセイロンに渡って学び、日本で根付かせようと運動していた釈興然しゃく こうねんの下にてパーリ語を学んだのでした。

そして、明治三十四年(1901)、ついに慧海は、神戸港を発ってシンガポール経由にて印度に到着。以降、今の我々からして想像も付かぬほどの困難な道程を踏破し、当時実質的に鎖国状態にあったチベットの首都ラサに入っています。そして、日本人であることを伏せて支那人であるとその身分を偽りつつ、セラ寺という名だたる大寺院で約一年間チベット仏教を学び、日本に大量のチベット語経典などを初めてもたらしたのでした。

慧海のこの冒険譚ぼうけんたんは、自ら著した『チベット旅行記』にて読む事ができます。また、慧海は帰国後十年にして再度チベットに入り、またチベット語経典とあわせて大量のサンスクリット経典を持ち帰っています。

慧海は、二度にわたる決死の冒険を成功させ、その過程で習得したサンスクリットやチベット語によって、それら言語で書かれた経典を直接読み学んで、念願であり目的でもあった数々の不審を明らかにすることが出来たのです。

ところで、慧海は日本にて出家した僧侶であり、日本仏教界の堕落しつくした現状は、文字通り目の当たりにしています。そればかりでなく、慧海はその冒険を通して、印度周辺国の仏教僧の有り様も目にしていました。これはその著書における僧侶批判の言辞が生々しく伝える所です。慧海は、日本の僧界、チベットの僧界、インドやスリランカの僧界が、それぞれどのようなものかを、文献の中だけでなくその目で確認していた希有の人だったのです。

しかし、それらはおよそ仏陀が制した僧侶のあり方からは遠く離れたありかたであることに慧海は気づいていきます。それまで慧海自身は仏教の僧侶、黄檗宗の僧侶の端くれとして自負していたところが、実はまったく非法・不如法の僧侶でしかなかったというのです。いや、僧侶の姿形ばかりで僧侶と呼べるようなシロモノでは無かったとの葛藤もあったのでしょう。

ところが慧海自身は、彼が当時学び得た限りの律儀、僧としての行儀を守り続けた人でした。しかし慧海は、これは彼の戒律理解が不十分で多くの誤解があり、もしくは極端であったこともその要因ではあったのですが、世界のいかなる場所にも如法如律の僧侶など存在しない、存在し得ないと、「出家」というあり方自体に絶望。ひるがえって僧として生きていた自身の非法を慚愧ざんきし、相当に躊躇ちゅうちょしたとは思われますが、自身の経験そして信念から、大正19年(1921)、ついに還俗を決意するにいたります。それは、僧侶という立場に付随する様々な既得権を放棄することを意味しますが、現実問題として、誰人に出来ることではありません。いずれにしろ言動一致の実にいさぎよい行動でした。

慧海はしかし、還俗後も自ら八斎戒をその生涯において守り抜き、そして菜食(木食)を貫いて、当時のいずれの僧侶などよりも僧侶らしいとさえ言える人生を送り続けています。ところが、大東亜戦争終結の半年前、それも因果であったのでしょう、防空壕に転落した際に頭を打ち、脳溢血を起こしたことによってついに死去。八十年の生を終えたのでした。

出家者の全否定

河口慧海が還俗後、はじめて標榜したのが「在家仏教」、あるいは在家をサンスクリットで言った「ウパーサカ仏教」です。それが具体的にいかなるものかは、その著『在家仏教』にて明らかにされています。

ここで在家仏教とはなにかの要を言えば、「現代を末法であると見、僧侶と僧侶が伝えてきた教法に対して絶望し、出家サンガを完全に否定。現在の戒律復興などは不可能で、それを唱えるのは欺瞞であると断定。これらを前提として提唱された、大乗の理念に基づく、純粋に在家信者だけによる信仰とその分際における実践をうたったもの」です。

さらに言うならば、それは「経典は原典を直接学び、既存の宗派の偏向した経典解釈は採らず、いずれの宗派の教義も原則として否定。本尊は釈尊一仏のみ。僧侶のまねごとなどせず、在家者として五戒を厳持し、心を浄化してゆく道」です。

ところで、仏・法・僧の三宝とは、仏教徒すべてがその信仰対象とすべきものです。ところが、慧海は出家僧侶の集いたる僧伽、つまり三宝の一角たる僧宝を全否定したのでした。これは一体どういうことか。そこでしかし、慧海は「ウパーサカ僧」なるものを主張したのです。

ウパーサカとは、サンスクリットあるいはパーリ語のupāsakaウパーサカをそのまま言ったものであり、その音写である優婆塞うばそくすなわち在家男性信者を意味する語です。そして「僧」とは、その原意は「集まり」のサンスクリットsaṃghaサンガを音写した僧伽を略した言葉です。その漢訳には「和合」・「衆」などがあり、あるいは「僧侶」という語があります。そう、僧侶とは本来、出家者を意味する言葉でなく、出家者の集いすなわち「サンガ(集まり・集い)」を意味するものです。

したがって、サンガとは、その語の原意としては「集まり」を意味するものであって、一般的には必ずしも「出家者の集まり」に限定して用いられる語ではありません。

慧海はこのような点を指摘。僧といっても、それは本来「和合」・「衆」つまり「集まり」の意味であり、その本来の意味で、僧には大きく分けて二種類がある。それは「出家僧(出家者の集い)」と「在家僧(在家信者の集い)」である。しかし、いまや「出家者の集い」は世界のいずこを探しても存在しないが、「在家僧」はある。したがって、現代における三宝の僧宝とは、釈尊御在世の当時から存在する「在家信者の集い」であり、これが「ウパーサカ僧」である、と言ったのでした。

しかしながら、慧海のこのような主張は、現在似たようなことを言っている日蓮系の新興宗教団体もあるようですが、誤認に基づいた牽強けんきょう付会ふかいです。また慧海は、諸々の律蔵に基づいても出家者の批判を展開しています。けれども、慧海には律がどういったものかの理解が充分でなく、その批判にも誤解に基づいた極端、あるいは滑稽こっけいとすら言えるものが含まれています。

まずそもそも、僧俗すべての仏教徒を総称する「四衆ししゅ」や「七衆しちしゅ」という場合の「衆」の原語は、サンスクリットsaṃghaサンガではなく、同じく「集まり」を意味するpariṣadパリシャッドです。これはどうやっても「僧」との訳を用い得るものでなく、よってウパーサカ僧なるものを主張するのは、彼自身がそうしようとしたように原語に基づいたならば無理があります。そして何より、仏教においてサンガと言えば普通、「出家者集団」・「出家者の組織」にほとんど限定されて用いられます。

(詳細は別項「七衆 ―仏教徒とは何か」を参照のこと。)

また、慧海における律に関する誤解という点について具体的一例を挙げるならば、「三衣を離れて一日一夜を過せば、出家の資格は忽ちに失せるのである」などと、当時の僧侶で三衣を常に所持着用している者が一人もいない、というその批判があります。

三衣とは、人が比丘となるときに必ず揃えて所持し、以降はその場合によって常に着用しなければならない三種類の袈裟衣で、基本的にはこれ以外のものを比丘は着用することができません。その三とは、腰に巻き付ける下衣、常日頃に上半身から下半身までを覆う上衣、僧院や結界から出て村や町に出るときに下衣と上衣の上にまとうわなければならない外衣(大衣)のことを言います。

これらは、原則として常に比丘が所持・着用・携帯しなければならないものであると、律蔵において明確に規定されています。これに違反した場合、比丘は他の比丘に対して告白懺悔し、二度とその過ちを犯さぬように努力することを誓わなければなりません。もっとも、比丘が三衣を離れて一日一夜を過ごそうとも一年を過ごそうとも、依然として比丘は比丘で、これによって比丘たる資格を失うことはありません。

それは比丘としての罪ですが、先に述べたように、律蔵の規定に従って懺悔すれば許されるものであって、致命的過失ではありません。極端な例を出せば、たとえ比丘が、俗服に着替えてこっそり外出したとしても、彼は依然として比丘で、これでその資格が消失することはありません。無論それは先に述べたように比丘としての罪であり、また極めて非常識な行為であって、別の観点からサンガによって叱責されるべきものです。しかし、彼はやはり比丘です。

以上のように、慧海による出家者批判の中には少々極端な説や誤解に基づくものがあるのです。もっとも、それは慧海が実に苦々しい経験として目の当たりにした、日本仏教界における僧徒らのおそるべき堕落ぶり、それは実に醜悪であった事が現代のそれを思えば容易に想像されますが、それらが反映してのことなのでしょう。

慧海がやり玉に挙げた三衣に関して言えば、これは現在でも全世界の僧侶に例外なく言い得ることで、外出時も常に三衣を着用・携帯している者などまずありません。それどころか、正しく袈裟を着ている者すら少なく、三衣を所有してすらいない比丘も多くあります。

世俗のオフィスワーカー、いわゆるサラリーマンでも、どれだけ外が暑かったとしても、仕事時・外出時は常にスーツにネクタイを着用あるいは携帯して身なりを正しているのに、出家者を自称する者らはただ「暑苦しい」「面倒くさい」「重い」などの理由で、明文化されている規律を全く無視し威儀を正さないのは、どう考えてもおかしな話でしょう。しかし、この、いわば怠惰は伝統と化しており、比丘側で問題視する人はまずいません。批判されて当然の一側面で、それを慧海は突いたのでした。

『在家仏教』

慧海は『在家仏教』において、日本の各宗派やチベット仏教、経典そのものについてなど、様々なテーマを章立てして批判を展開しています。そして次に、自身の提唱する在家仏教とはなにかを詳細にしています。

『在家仏教』を読めば、現在の漠然と「在家仏教」を言う人たち、あるいは文献学の成果にもとづいてのみ仏教を理解しようとする人々が、師から知らずして影響をうけていることに気づくかもしれません。もっとも、現在巷間でうたわれている「在家仏教」は、慧海がまったく否定するであろう「ご都合主義 日本教」・「事大主義 -本音と宗教(タテマエ)-」・「観念のお遊戯 浪漫仏教」に過ぎません。

在家仏教は、「人間だもの」などと安易な現実肯定を許さず、「仏様がお見守りくださる。すくってくださる」などといった他者による救済を俟つ信仰を容れず、「酒はこの世の習い。少量なら百薬の長。お釈迦様の琴の弦の譬え話のように、厳しすぎてもだらけすぎてもイケナイ。よって、たまになら良いのヂャ」などと、おためごかしを言って飲酒することを正当化しないものです。

在家仏教とは、出家者を容れぬ確固たる信念のもと、後世の者の観念的情意的解釈を廃した仏陀の教えに従い、在家者として最大限持戒した日常生活をおくることを言うものです。

さて、先に辞書にあった在家仏教の説明は、簡略ながら適切なものと言えるようです。しかし、「在家仏教」なるものの是非はここで論じませんが、世間でしばしば口にされている在家仏教とは、河口慧海が提唱したものとは異なる、時としてかけ離れたものとなっていることが知られるでしょう。

在家仏教の前提とする所が「僧侶の不在」・「出家の欺瞞」ですから、現代における祭式執行者としての商業主義的僧侶、鎌倉期からの伝統的呼称でいうと無戒名字の比丘、あるいは自称比丘らが、「大乗(あるいは日本)は在家仏教」などと口に出来るものでは決してありません。

少なくとも「在家仏教」という言葉を口にするならば、一度はその提唱者、河口慧海の『在家仏教』を読み、それがいかなる内容のものであるかを知っておく必要があるように思われます。しかし、その分量からして、ここで『在家仏教』のすべてを紹介することは出来ません。また、読みたいと思っても、『在家仏教』などを収録している『河口慧海全集』は発行部数自体が少なく、収蔵している図書館もほとんどありません。そこで本稿では、本書に記される緒言がその内容を概観するに適したものですから、それのみを紹介するに留めます。

これによって、明治・大正・昭和という激動の近代の日本において、仏教をいかに修めるべきかを真摯に探求し、自ら実践した有徳の人、今も色褪せず、光を失わない河口慧海という美しき輝きに触れる機会とならんことを。

貧道覺應