VIVEKAsite, For All Buddhist Studies.
Dharmacakra
智慧之大海 ―去聖の為に絶学を継ぐ

真人元開 『唐鑑真過海大師東征伝』

鑑真伝補遺

鑑真渡来前夜

唐から日本へ律の正統を伝え得る僧らを招聘するため特別に派遣され、道璿および鑑真など幾多の僧に懇願して実際に招いた人、それは先にも触れたように、栄叡と普照という興福寺の二人の僧でした。この二人の存在無しには鑑真の日本渡来は決して実現しなかった大功労者です。

その栄叡と普照はいかにして唐に派遣されることになったかの経緯を伝えるのが、嘉承元年〈1106〉に当時蒐集し得た東大寺に関わる諸資料が寺僧なにがしにより編纂され、長承三年〈1134〉八月十日に東大寺僧、観厳かんげんによってさらに集大成され編纂されたものという寺誌、『東大寺要録とうだいじようろく』の一節です。

五年癸酉。《中略》 又有元興寺沙門隆尊律師者。志存鵝珠。終求草繋。於我国中。雖有律本。闕傅戒人。幸簉玄門。嘆無戒足。卽請舎人王子處曰。日本戒律未具。假王威力。発遺僧榮叡。隨使入唐。請傅戒師。還我聖朝。傅受戒品。舎人親王卽爲隆尊奏。勑召件榮叡入唐。於是興福寺榮叡。與普照倶奉勑。四月三日。隨遺唐大使多治比眞人廣成。到唐國。
(天平)五年癸酉〈733〉、《中略》 また元興寺がんごうじ沙門の隆尊りゅうそん律師という者があり、その志は鵝珠がしゅ 〈小さな命でも決して害わず守ろうと努めること。ある比丘が、托鉢に訪れた宝玉職人の家で誤って宝玉を飲み込んだ鵝鳥の命を護るため自らの身命を擲とうとした、という『大乗荘厳経論』巻十一にある説話に基づく語〉にあって終に草繋そうけい〈どれほど小さな律の条項であってもこれを厳密に守ろうとすること。またはそのような比丘のこと。賊により地面から生えた草でもって捕縛された比丘達が、生草を損傷してはならないという律の条項を守るために、たやすく引きちぎることが出来る草であってもこれを害わなかった、という『大乗荘厳経論』巻三にある説話に基づく語。「結草の比丘」とも〉たることを求めていた。
「我が国の中には律蔵の典籍は有るけれども、(肝心のそれを実行する)伝戒の人が欠けて無い。(私は)幸いにも玄門〈仏門〉に交わることが出来たとはいえ、戒足の無いこと〈持戒が仏道修行の根本たることをいう『仁王経』・『涅槃経』等に基づく語〉を嘆くばかりである」
そこで舎人とねり王子〈天武天皇の第三皇子、舎人親王。淡路廃帝(淳仁天皇)の父〉のもとに参じて、
「日本には戒律が未だ具わっておりません。王の威力を借り、僧栄叡ようえいを派遣し大使に随行させ唐に入らせたまえ。そして伝戒師を請うて我が聖朝しょうちょうに還らせ、戒品かいほんを伝受させたまえ」
と請い求めた。舎人親王は隆尊の為にこれを(聖武天皇に)上奏し、勅にてくだんの栄叡を召して入唐させることとなった。すると興福寺の栄叡は普照ふしょうと共に勅を奉じ、(同年)四月三日、遺唐大使〈第九次遣唐使〉多治比真人たじひのまひと広成ひろなりに随行して唐の国に至った。

『東大寺要録』巻一 本願章第一
(筒井英俊校訂『東大寺要録』, p.7)

以上のように、この伝承の真偽は定かではないものの、『東大寺要録』の所伝に拠れば、栄叡は伝戒師招聘の為の要員として指名された人であったようです。隆尊は栄叡を知っており、それに相応しい人と認められていたということであったのでしょう。そして指名された栄叡が、共に唐に行こうと誘ったのが普照であったようです。

この隆尊という人について、『延暦僧録えんりゃくそうろく』に「高僧沙門釈隆尊伝」としてわずかながら残されています。

釋隆尊者。氏族未詳。住元興寺。隆尊幸造玄門。嘆無戒足。欲廣[考]廣恐度曠野嘆無良伴。欲渡瑶澗歎無舟揖〈楫の写誤〉。欲渉炎陸嘆無義井。欲行遠道歎無旅亭。於黑月夜歎無庭寮燎。於闇室内歎無燈明。如佛所言。自未得度。願前度人。◯而隆尊雖欲戒律大行平生業華嚴經。每發耀衆妙則理暢春葩。遠近緇流感家[考]家恐承日用今編上高僧傳。錄以呈萬代。
隆尊りゅうそんの氏族は未だ詳かでない。元興寺に住した。隆尊は幸いに玄門〈出家〉るも、戒足の無いことを嘆いた。曠野こうやわたろうとして良いともの無いことを嘆き、瑶澗ようけん〈美しい渓谷〉を渡ろうとして舟楫しゅうしゅう〈舟と舵〉の無いことを無き、炎陸〈砂漠〉わたろうとして義井ぎせい〈積徳の為の公共井戸〉の無いことを嘆き、遠道を行こうとして旅亭の無いことを歎き、黒月こくがつ〈新月〉の夜に庭寮のりょう〈かがり火〉の無いことを歎き、闇室あんしつの内に燈明の無いことを歎いた。仏の説かれたように「自ら未だ度を得られなければ、先に他者を度す」〈『涅槃経』〉ことを願った。◯そこで隆尊は戒律の大行を求めていたけれども、平生へいぜいは『華厳経』をごう〈学問.特に専攻する学派〉としていた。(講席の場で、隆尊が)衆妙を発耀する毎に、その(講説する)理は春葩しゅんぱ〈春の花〉のびるかのようであり、遠近の緇流しる〈僧徒〉は(その学徳に)感心承服して日々に用いた。今、(その伝記を)編じて高僧伝に脩め、記録して万代に呈する。

『日本高僧伝要文抄』巻三 高僧沙門釈思託伝
思託『延暦僧録』第一》
(増補改訂『大日本仏教全書』, Vol.62, p.53)

思託は、隆尊が舎人とねり親王に戒師招聘を請うたとは記していません。しかし、平生から戒律が日本に正しく伝えられることの不可欠なるを思っていた人としてここに描いています。思託が隆尊をして高僧であるとその伝記を遺したのは、何らかの形で鑑真請来に関わった人であると認識していたからこそと思われます。なお、隆尊は日頃は「華厳経をごうとする」人であったと思託は云います。

『東大寺要録』にて隆尊からの請いを受けたとされる舎人親王が、戒師招聘のために動き、それによって栄叡と普照が派遣されることになったというのは、他の史料からも事実であったろうことが確かめられます。

釈榮叡者。美濃人也。氏族未詳。住興福寺。機掶神叡論■〈巩+言〉難當。瑜伽唯識爲業。日本戒律未具。受舎人親王請入唐。請傳戒律師僧。奉勑發遣。
栄叡ようえいは美濃の人である。氏族は未詳。興福寺に住していた。その機掶きしょう〈機捷.機知に富んですばやいこと〉は神叡にしてその論■〈巩+言.確固たる主張〉は抜かりないものであった。瑜伽ゆが唯識ゆいしき〈『瑜伽師地論』・『成唯識論』〉ごう〈学問.特に専攻する学派〉としたが、日本に戒律は未だ具わっていなかった。そこで舎人とねり親王の要請を受けて入唐し、伝戒律師僧を請うべく、勅を奉じて発遣ほっけんされた。

『日本高僧伝要文抄』巻三 高僧沙門釈栄叡伝
《思託『延暦僧録』第一》
(増補改訂『大日本仏教全書』, Vol.62, p.52)

栄叡と普照が随伴したのは多治比真人たじひのまひと広成ひろなりを大使とする第九次遣唐使でしたが、『続日本紀しょくにほんぎ』(以下、『続紀しょっき』)は、それについて以下のように伝えています。

(遣唐使が実際に何度派遣されたかは学者によってかなり所見が異なっていますが、本稿では十五回説に依っています。したがって、多治比広成を何次の遣唐使とするかは学者により異なっていることに注意。)

丁亥。以從四位上多治比眞人廣成爲遣唐大使。從五位下中臣朝臣名代爲副使。判官四人。錄事四人。《中略》
戊午。遣唐大使從四位上多治比眞人廣成等拝朝。《中略》
癸巳。遣唐大使多治比眞人廣成辞見。授節刀。○夏四月己亥。遣唐四船、自難波津進發。
(天平四年〈732〉七月)丁亥ていがい〈十七日〉、従四位上多治比真人たじひのまひと広成ひろなりを遣唐大使とし、従五位下中臣朝臣なかとみのあそん名代なしろを副使とする。判官四人、録事四人。《中略》
(天平五年〈733〉三月)戊午ぼご〈廿一日〉、遣唐大使従四位上多治比真人広成等、拝朝〈参内〉する。《中略》
(天平五年閏三月)癸巳きし〈廿六日〉、遣唐大使多治比真人広成、辞見〈帝へ出立の挨拶〉節刀せっとう〈大使や将軍への全権委任の象徴〉を授ける。○夏四月己亥きがい〈丁酉朔三〉。遣唐四船、難波津なにわつより進発する。

『続日本紀』巻十一
(新訂増補『国史大系』普及版, 『続日本紀』前篇, pp.129-131)

遣唐使の辞令が下されてから実際に一行が出帆するまで、およそ十ヶ月の準備期間を要していたことがここから知られます。しかし、『続紀』はただ大使と副使の名を記すのみで、その他の随行した官人の名はもとより、それがどれほどの規模であったかも伝えていません。

そこで『扶桑略記ふそうりゃっき』によれば、この時、遣唐使として派遣された者の数はなんと総勢五百九十四人であったことが知られます。それは全十五回行われた遣唐使史上、最大規模でした。しかし、船数は通例通り四船であって、それに分乗してのことであったとされます。単純計算で一船あたりおよそ百五十人の乗員。様式は同じでも、それを収容し得る相当大きな船が造営されたに違いありません。

天平五年癸酉七月六日。《中略》●遣唐大使多治比廣成。副使中臣名代。乘船四艘。惣五百九十四人渡海。沙門榮叡普照法師等隨使入唐。
天平五年癸酉〈733〉七月六日。《中略》●遣唐大使多治比広成たじひのひろなり、副使中臣名代なかとみのなしろ、四艘に乗船。総勢五百九十四人、渡海。沙門栄叡ようえい普照ふしょう法師等、使に隨って入唐する。

皇円『扶桑略記』第六
(新訂増補『國史大系』, vol.12, p.90)

この規模は聖武天皇が当時、どれほど遣唐使を通して、大陸の種々様々な文化を取り入れることに力を入れ、急であったかを知らせるものです。実際、当時の遣唐使によってもたらされた大陸の種々の文物による日本の政治や文化への影響は甚だ大きいものでした。

なお、上掲したように、『続紀』では遣唐使が難波津なにわづを出港したのは四月三日とされます。しかし、一行はそれから瀬戸内海を経て筑紫に向かい、博多津はかたつを発って実際に日本の本土を離れ支那へと帆を張り出したは七月六日のことです。

そして『扶桑略記』に伝えられるこの時の遣唐使一行の総数が正確なものであったろうことは、支那側の重要史料『冊府元亀さっぷげんき』において確かめられます。

二十一年八月。日本國朝賀使真人廣成與人傔從五百九十人舟行。遇風飄至蘇州。刺史錢惟正以聞。詔通事舍人韋景先往蘇州宣慰勞焉。
(開元)二十一年〈733〉八月、日本国の朝賀使ちょうがし真人まひと廣成ひろなり傔従けんじゅう〈侍者〉五百九十人、舟行して風に遇い、飄して蘇州そしゅうに至る。(蘇州)刺史〈地方長官〉銭惟正せん いせいがこれを以聞〈上奏〉。(玄宗皇帝は)詔して通事舍人つうじしゃじん〈引導・辞見・承旨・労問を司る官人〉韋景先い けいせんを蘇州に往かせて慰労した。

『冊府元亀』巻一百七十 帝王部 来遠

ここで遣唐使が支那に到着したのは、博多を発ってから約一ヶ月後となる、翌八月のこととされています。博多から蘇州まで直線距離で約800km。これを一ヶ月は時間がかかり過ぎで、その間ずっと漂流でもしていない限り海路にあったとは考えられません。もし一月もの間漂流していたとあらば、その乗員が皆無事であったとはさらに考えられないことです。そこで博多津を発ってからも五島列島に寄港し、一定の時間を過ごしていたように思われます。もっとも、航海誌など無いので航路は全く不明です。

史学者の中には、当時の遣唐使は種子島(多裏禰嶋)や沖縄(阿兒奈波嶋)を経由した航路を採っていたと考える者がありますが、それを裏付ける明確な根拠が無いため不明です。普通に考えれば、五島列島からそのまま西進したと見るのが合理的です。いずれにせよ、四船に分譲した使節団すべてが同じく支那に渡り得ていた記録があることからすれば、その航海は難なく無事なものであったと考えられます。

大使一行は蘇州にて慰労された後、玄宗に朝貢したのは翌年の四月のことです。そしてその場所は都の長安ではなく洛陽でした。というのも、開元廿二年一月に玄宗皇帝は長安から洛陽に一時的に居を移していたためです。

二十二年正月己巳。幸東都。己丑。至東都。
(開元)二十二年〈733〉正月己巳、(玄宗皇帝が)東都〈洛陽〉に幸す。己丑、東都に至る。

『冊府元亀』卷百十三 帝王部 巡幸第二

一行がその情報を知らずまず長安に向かっていたか、あるいはその情報を事前に得て洛陽に直接向かっていたかは不明です。しかし、その途上、支那に滞在してすでに長年を経ていた日本の留学生・留学僧や官人などと接触して情報交換し、また行く先々の都市の刺史や僧徒などとの交流は必ずしていたあったことでしょう。

蘇州から長江の北岸へ渡ればすぐ揚州ですから、揚州にはまず必ず渡っていたとみて良い。けれどもその後、南北に走り淮河に連なる運河を通り、さらに黄河へ抜けて遡上していったか、あるいは陸路でひたすら洛陽を目指したか、どのような道程を辿ったかの記録はありません。

四月。日本國遣使來朝,獻美濃糸二百匹。水織糸二百疋。
(開元二十二年〈733〉)四月、日本国の遣使が来朝し、美濃糸〈絁〉二百匹と水織糸二百疋を献じた。

『冊府元亀』卷九百七十一 外臣部 朝貢第四

遣唐使が蘇州に着いたのが開元二十一年〈733〉八月ですから、それから洛陽にて玄宗皇帝に謁見するまで実に八ヶ月近くの時間をかけ移動しています。初めて支那の地を踏む人にとっては、その間に見聞した大陸の大河の雄大さや異邦の町並みの雰囲気に驚きの連続であったに違いありません。

画像:第九次遣唐使 入唐経路図

ところで、当時の留学生として遣唐使に随伴して入唐した者は僧俗共に多くありました。しかし、正史の性質上それも当然のことではありますが、一定以上の官職や僧綱などにでも補任されない限り、そのほとんど多くの名は『続紀』などに記されていません。普照は、鑑真の招聘に成功して共に帰国したからこそ史書に載せられたのですが、しかしどういうわけか入唐時および帰国時の名は普照ではなく、 業行ごうぎょうと記されています。

ただし、実のところ業行とは普照である、とは必ずしも確定的に言えません。それを確実にする史料がないためです。しかし、それ以外には考えられないため、今一般に業行とは普照の別称である、と学者によりほとんど断定的に云われています。もっとも、では『続紀』にて普照は行業という名で統一されているかと言えばそうでなく、「普照」の名はその母が叙位された記事に出ており、それが唯一のものです。

○甲午。授正六位上白猪与呂志女從五位下。入唐學問僧普照之母也。
○(天平神護二年〈766〉二月)甲午こうご〈八日〉。正六位上白猪与呂志女しらとのよろしめに従五位下を授ける。入唐学問僧、普照の母である。

『続日本紀』巻二十七 天平神護二年二月甲午条
(新訂増補『国史大系』普及版, 『続日本紀』後篇, p.329)

栄叡については、鑑真の死と共に記されたその卒伝にようやく記されている程度となっています。

そのように正史にはほとんど取り上げられない二人ではありますが、本書『東征伝』に触れた者で、栄叡と普照の存在無しに鑑真渡海はありえなかったことを否定する者などまず無いことでしょう。鑑真渡来の意義がその後の日本仏教において甚大であり、特に普照の功績が最も大きいものであったのは、思託が著した「普照伝」において繰り返し強調されています。その最初から鑑真と行動を共にして普照を傍で見てきた思託が、その功績を敬し最大限評価しているのです。

後に隆尊は、印度僧菩提僊那ぼだいせんなや唐僧道璿どうせん、そして日本の良弁ろうべんと共に、僧綱そうごうに任命されてその律師位に就いています。

○甲戌。詔以菩提法師爲僧正。良弁法師爲少僧都。道璿法師隆尊法師爲律師。
◯(天平勝宝三年〈751〉四月)甲戌こうじゅつ〈廿三日〉みことのりして、(印度僧)菩提ぼだい〈菩提僊那. Bodhisena〉法師を僧正とし、良弁ろうべん法師を少僧都とし、(唐僧)道璿どうせん法師と隆尊りゅうそん法師とを律師とした。

『続日本紀』巻十八 天平勝宝三年四月甲戌条
(新訂増補『国史大系』普及版, 『続日本紀』前篇, p.212)

この翌年に行われた東大寺盧遮那仏の開眼供養会では、菩提僊那が導師(開眼師)、道璿どうせんが呪願師の役を果たし、隆尊りゅうそんは『華厳経』の講師を務めています。確かにそれに任じられるに相応しい学徳ある人であったのでしょう。

鑑真が渡来した天平勝宝六年に僧綱職にあったこれら四人の僧(もう一人、行基の弟子行達ぎょうたつが大僧都としてあった)のうち、菩提僊那は唐の崇福寺にあるとき鑑真による講律の席に並んでいた人であり、道璿は唐で鑑真の高名を必ず聞いていたであろう人です。日本を出たことのない隆尊が鑑真の名を以前から知る由もありませんが、戒律の不可欠であることを考え、しかし自ら「戒足の無いことを歎く」人であったならば、その正統を伝える唐僧一行の渡来は極めて重大にして待望のことであったに違いありません。

僧綱職への補任

なお、鑑真が渡来して二年半に満たないうちに聖武上皇が崩御していますが、その二十二日後、孝謙天皇は鑑真と良弁を大僧都だいそうずに、法進などを律師に取り立てています。

○丁丑。勑。奉為先帝陛下屈請看病禪師一百廿六人者。冝免當戸課役。但良弁。慈訓。安寛三法師者。並及父母兩戸。然其限者終僧身。又和上鑒眞。小僧都良弁。華嚴講師慈訓。大唐僧法進。法華寺鎭慶俊。或學業優富。或戒律淸淨。堪聖代之鎭護。爲玄徒之領袖。加以。良弁。慈訓二大德者。當于先帝不豫之日。自盡心力。勞勤晝夜。欲報之德。朕懐罔極。冝和上小僧都拜大僧都。華嚴講師拜小僧都。法進。慶俊並任律師。
○(天平勝宝八歳〈756〉五月)丁丑ていちゅう〈廿四日〉、勅す。
「先帝陛下の奉為に屈請した看病禅師一百廿六人は、宜く当戸の課役を免除する。ただし良弁〈東大寺僧〉・慈訓〈興福寺僧〉・安寛〈東大寺僧〉の三法師は、並びに父母の両戸に及ぼせ。しかしながら、その限りは僧身が終わるまでとする。また和上鑑真・小僧都良弁・華厳講師慈訓・大唐僧法進・法華寺鎮慶俊きょうしゅん〈大安寺僧。後に法華寺大鎮法師〉は、あるいは学業優富あるいは戒律清浄であって、聖代の鎮護とするに耐え、玄徒〈出家者〉の領袖である。その上、良弁・慈訓の二大徳は、先帝不予の日にあたり、自ら心力を尽くして昼夜に労勤した。その徳に報おうと思うのに朕の懐いは極るところがない。よろしく和上〈鑑真〉、小僧都〈良弁〉を大僧都に拝し、華厳講師〈慈訓〉を小僧都に拝す。法進・慶俊はいずれも律師に任じる」

『続日本紀』巻十八 天平勝宝八年五月丁丑条
(新訂増補『国史大系』普及版, 『続日本紀』前篇, p.212)

こうして僧綱は、菩提を僧正としてその長としたまま鑑真を大僧都に迎え、真の意味で「法務に綱維たらん者(僧尼令)」・「玄徒の領袖」がその多くを占めるようになっています。もっとも、道璿と隆尊とは天平宝字四年に両人とも没するまで僧綱職にあったとする伝承と、天平勝宝七年に辞していたとする伝承とがあります。

(道璿はその晩年、吉野の比曽山寺に隠棲していたとされることから、最期まで僧綱職にあったとは思われません。隆尊については没年は伝えられているものの、その場所など晩年の消息が伝えられておらず不明です。)

そして、鑑真やその他の真っ当な僧らが僧綱職に任ぜられたからといって、他の僧徒が皆その指導など所言に服すという事はなく、実際には種々の困難があったようです。そもそも僧綱が設置されて以来、与えられた権威をもって強力に僧尼を統率・指導し、それに僧徒もよく伏したということは実際の所ほとんど無かったようです。たとえば、鑑真の当時には以下のような事件が生じています。

○癸酉。土左國道原寺僧專住。誹謗僧綱。无所抅忌。配伊豆嶋。
○(天平勝宝八歳〈756〉七月)癸酉きゆう〈廿一日〉、土左国の道原寺僧専住せんじゅうは僧綱を誹謗して拘忌〈忌み憚ること〉することがない。伊豆の嶋に流す。

『続日本紀』巻十九 天平勝宝八年七月癸酉条
(新訂増補『国史大系』普及版, 『続日本紀』前篇, p.226)

正史にこのように記述されているのは、土佐の専住なる僧の言動がよほど目に余るものであったことによるのでしょう。僧綱はむしろ天皇の諮問機関として重要な役割を果たしていましたが、それを公然と誹謗する者を放置することも出来ないのは当然のこと。これは一昔前の鑑真伝研究の立役者であった安藤更生も指摘していたことですが、ここでただ「僧綱を誹謗」とあるのは、実は僧綱職に着いたばかりの鑑真に対する誹謗を意味したものであった可能性があります。

実際、この専住という僧は伊豆に流されて戻った後、また誰か宿徳(高僧)を誹謗して佐渡に流されていたようです。

○庚辰。先是。僧善神殉心以縦姦惡。僧專住極口而詈宿德。並擯佐渡。令其悔過。而戻性不悛。醜聲滋彰。至是。還俗從之差科。
○(天平宝字三年〈759〉五月庚辰)庚辰こうしん〈十五日〉、以前、僧善神ぜんしんは心にしたがって姦悪をほしいままにし、僧専住せんじゅうは口を極めて宿徳しゅくとくののしる。いずれも佐渡にしりぞけ、それを悔過けかさせた。しかし戻ってもそのしょうあらたまることなく、醜声しゅうせい〈醜聞〉滋々ますますあらわとなっている。以上のことから還俗させ、これらを差科〈税を納めさせ課役すること〉させる。

『続日本紀』巻廿二 天平宝字三年五月庚辰条
(新訂増補『国史大系』普及版, 『続日本紀』前篇, p.261)

ここで専住は僧綱でなく「宿徳」と誰か個人を対象に誹謗していたとされますが、まったく反省の色がなくその言動も改めなかったため、ついに還俗に処されています。いつの時代でも人にはこの手合が存在するものであって特異なことでもないでしょうが、こうして不名誉な記録が正史にされたのは、「宿徳」が実に重要な人であったからこそのことと考えられます。

この年の前年、鑑真はその任を解かれてもはや僧綱でなかったのですが、そこでこの「宿徳」がまさに鑑真であった可能性がやはりあります。これも鑑真に向けられた敵意の表出の一つであり、またそれを朝廷もよく知って問題視しての処置であったのでしょう。

その他の鑑真伝

鑑真の渡来の経緯について、これを詳しく描いているのは本稿で紹介している『東征伝』に勝るものはありません。しかし、前項において述べたように、『東大寺要録』にはその元本となった『大和上伝』の逸文がいくらか収録されています。

大和尚傳云。勝寶六載甲午二月一日。至難波驛國師郷。僧崇道及大僧正行基弟子法義等。設供■〈余+刄〉寒暄。三日至河内國守藤原魚名廳。大納言仲丸故遣賀蕳光順慰勞衆僧。復有律師道璿。令弟子二僧來問許兼令二近事來■〈身+弖〉承。同日復有布衣高行僧志忠。賢璟。暁貴等卅餘人。行道讃歎。明發取大和國平凉驛〈平群驛〉宿。在道𠡠使催令入京。至平凉驛。略歇息少時入京。𠡠使遣安宿王正四品於南閭門慰勞衆僧。𠡠令請住於東大寺安置。有京城僧徒及官僚文者等。於南閭門相迎同送引和東大寺。良弁僧都引至大佛前禮拜。良弁云。此是大帝太上天皇引天下人共結良緣鑄此金銅像坐高笏尺五十尺。又問唐中頗有如此大像。遣延慶譯語云無。更禮拜供養讃歎行道竟。相引至客堂住。𠡠使安慰。明旦卽有大唐律師道璿來相問訊。後有婆羅門僧正菩提亦來參問云。某甲在唐崇福寺住經三日。闍梨在彼講律。闍梨識否。和上云憶得也。復有内道場僧五十人令來相看。良弁僧都云一時禮拜。光祿大夫右僕射藤原豐成來相參。復有光祿大夫大納言藤原仲麿來相參。金紫光祿大夫式部卿藤原永手參禮。又移入官倉院。三月𠡠使朝臣眞備參東大寺安慰衆僧。大德遠渉滄波來至此國。朕先造東大寺經十餘年。於大佛西欲立戒壇。自有此心日夜不忘。今諸大德遠來冥契朕心。乃是朕之有感。自今已後授戒傳律一任大德。又𠡠令良弁。問和上在唐相共臨壇僧名此間有幾律師。和尚仍令僧法進附口錄出唐中常共化法僧。卽法進。普照。星靜。思祐。義靜等。後經半月𠡠使良弁僧都及撿唐朝大德位名。和上位特贈。卽大和上。法進。學生普照。延慶。星靜。法顒。思祐。義靜。又令佐伯今毛人出贈位絹廿匹。絁廿匹。大布卌端。細布一百屯。用施和上。餘僧各減半。從仁幹已下與半位物又減半。和上衆僧並合掌。頻勞主上憂當客人。時有大安寺唐律師道璿。問得來由。乃作讃詞慶賀大和上。其年四月𠡠於盧舎那佛前立壇。爲沙彌證修等四百卅〈卌の写誤であろう〉餘人受戒。後有内道場興行僧。神榮行潜等五十五人重大小乘戒。至勝寶七歳於盧舎那佛前爲沙彌受戒。後有實行僧志忠。靈福。賢璟。善頂。道緣等八十餘人。遠起臥具進隆和光之族類者。來云受具足戒。已上
『大和尚伝』〈思託『大唐伝戒師僧名記大和上鑑真伝』〉に云う。
勝宝六載甲午こうご〈754〉二月一日、難波駅国師郷に至る。僧崇道すうどう、及び大僧正行基の弟子法義ほうぎ等が(唐僧一行の為に)供養会を設けて寒暄かんけん〈時候の挨拶〉を叙べた。三日、河内国守藤原魚名ふじわらのうおなの庁〈官邸. 別邸〉に至る。大納言仲丸なかまろ〈藤原仲麻呂〉は、故に賀蕳光順〈未詳〉を遣わして、衆僧を慰労させた。また(大安寺の)律師道璿どうせんが弟子の二僧を遣わして問訊もんじん〈機嫌伺い〉させ、兼ねて二人の近事ごんじ〈在家信者.おそらくは漢語を話し得た人〉も遣わし接待させた。同日、布衣高行の僧志忠しちゅう賢璟けんきょう暁貴ぎょうき等の三十余人あって、行道讃歎した。明けて大和国平群駅へぐりえき〈場所不明〉の宿に出発した。道中、勅使が促して京に入らせようと平群駅に至り、少しの間、休息してから京に入った。勅使は安宿王あすかべおう正四品を南閭門なんりょもん〈羅城門〉に遣わして衆僧を慰労し、勅により東大寺に安んじて滞在することを請うた。京城の僧徒及び官僚、文官等は、南閭門にて(唐僧一行を)相い迎え、同道して東大寺に引率した。良弁ろうべん僧都〈少僧都〉が率先して大仏の前に至り礼拝した。そこで良弁が言った、
「これは大帝太上天皇〈聖武天皇〉が天下の人々を導いて共に良縁を結び、金銅の像を鑄造されたものです。坐高は笏尺の五十尺〈約15m〉あります」
と。そしてまた(良弁は唐僧一行に)、
「唐にこのような大像があるでしょうか?」
と問うた。それを延慶えんきょうが通訳して聞いたが「無い」といった。それから礼拝、供養、讃歎するなど行道し終わってのち、案内され客堂に至って滞在し、勅使から安慰された。明朝、大唐律師道璿が来たって問訊した。後に婆羅門ばらもん僧正菩提ぼだい〈Bodhisena〉もまた来たって参問し、
「私は唐の崇福寺に住まって三日を経た時、阿闍梨あじゃり〈ācāryaの音写.先生の意。ここでは鑑真〉がそこに在って律を講じられていましたが、阿闍梨は(私がその講席に連なっていたことを)ご存知でしたか?」
と尋ねた。すると和上は、
「憶えている」
と言われた。また、内道場ないどうじょうの僧〈皇家に仕え祈祷・看病などする僧〉五十人が挨拶に来たり、良弁僧都が云って一斉に礼拝した。光禄大夫こうろくたいふ〈従二位〉右僕射うぼくや〈右大臣〉藤原豊成とよなりが来たり相参。また光禄大夫大納言藤原仲麻呂なかまろが来たって相参。金紫光禄大夫きんしこうろくたいふ〈正三位〉式部卿しきぶきょう〈式部省長官〉藤原永手ながて参礼。また官倉院に移し入れた。三月、勅使朝臣あそん真備まきびが参じて東大寺に衆僧を安慰〈慰安〉した。(聖武上皇の詔に曰く、)
「大徳、遠く滄波を渉り、来たってこの国に至る。朕、先に東大寺を造って十余年を経。大仏の西に戒壇を立てんと欲す。この心ありしより日夜に忘れず。今、諸の大徳遠く来たること冥に朕が心に契えり。すなわち是れ朕の感有り。今より已後、授戒伝律、一えに大徳に任す」
また勅により良弁をして、和上が唐に在りし時、相共に(授戒のため)壇に臨んだ僧がここにある律師の誰かを問わせた。そこで和尚は僧法進ほうしんに口述して唐において常に共に化法した僧(の名)を列挙した。すなわち法進、普照ふしょう星静せいじょう思祐しゆう義静ぎじょう等である。その後、半月を経て勅使良弁僧都は唐朝の大徳の位名を調べ、和上位を特贈した。それは大和上を始め、法進、学生普照、延慶、星静、法顒ほうか、思祐、義静であった。また、佐伯今毛人さえきの いまえみしをして贈位の絹廿匹、絁廿匹、大布卌端、細布一百屯を出させ、それらを和上に施した。その他の(和上位を贈られた)僧はそれぞれその半分、仁幹にんかん〈鑑真が龍興寺から脱出する手助けをして共に来朝した唐僧〉以下(の伝律の資格は供えていなかった僧)には半位を与え、施物もまたその半分とした。和上と衆僧はいずれも合掌し、頻りに主上〈帝〉が(自分たち)客人のもてなしに心を砕かれていることの感謝を述べた。ある時、大安寺の唐律師道璿が(鑑真一行の唐からいかなる経緯で渡海したかの)来由を聞き取り、それを讃嘆する詞を作って大和上を慶賀した。その年の四月、勅により盧舎那仏の前に壇を立て、沙弥証修等四百三十余人〈四百四十余人の写誤であろう〉の為に受戒した。後に内道場興行僧の神栄しんえい行潜ぎょうせん等五十五人が重ねて大・小乗戒を受けた。勝宝七歳、盧舎那仏の前で沙弥のために受戒した。その後、実行僧志忠、霊福、賢璟、善頂ぜんちょう道縁どうえん等の八十余人、遠く臥具から起って進んで和光を隆んにする族類の者が来たり、具足戒を受けると云った。已上

『東大寺要録』巻四 諸院章第四
(筒井英俊校訂『東大寺要録』, pp.96-98)

以上のように、思託は難波津に着いてからの出来事を事細かに記しています。おそらく『大和上伝』全編もまた、同じ調子でその委細を伝えたものであったのでしょう。思託はまた『延暦僧録』の中にも「鑑真伝」を脩めており、それは『大和上伝』を抄出したものであったと考えられます。

釋鑒眞者。廣陵龍興寺僧也。俗姓淳于氏。齊大夫淳于髠之後。辨李參玄。二十一具戒精勤律藏五載窮微。學海翰林。詞淵義府。施戒爲功講律爲務。□於開元年中有崇福寺主僧明演。來白云。今崇福寺破落。請大和上降臨於彼講律受戒修營功德。依請赴彼講大律等修造大殿。〃梁柱大四尺五寸。徑頭河深岸險難上。金剛變爲牛引木。盡上寺竟。其牛卽死。大工匠夜夢見金剛。語云。我相助造殿上木已畢。僧乃知牛是金剛作耳。又欲接[考]接一作構塔。其江都縣令陳明府向洲衙〈州衙の写誤〉。馬上忽見塔上霧氣結成九層。語典言。其塔本有七級。如今九層。細看乃是彩雲二重結於塔上。在後造塔。三層蹟[考]蹟恐礎上級九。八角。高五十七丈[考]丈一作尺下三重基。〃開四門。八面乃今羅睺。法師撿挍造塔亦畢。歎無舎利。時有梵僧。將舎利五千粒來。乃盡從請得。二千粒於塔上供養。便放光明。餘三千粒隨身供養海若。大風時卽見神人於塔邊立。身等於塔。又寺東院造文殊院。堂中彌勒左右鑄鐵文殊普賢。堂盡[考]盡恐畫万菩薩。其匠人安文殊師子太近於後。一夜師子自跪向前三人。[考]人恐尺 又受城中東南奉法寺請講律受戒鑄像造殿門守等事。先令惠融禪師取殿木。其殿𥱼被江水下急漂落幾山下。去泊𥱼筏也處二十里。融禪師發願造金銅觀音像。船夫力之盡臥。忽起乃云。有二十僧水中牽𥱼。睡覺。只見𥱼逆水流行。直至揚子東河上木處。◯和上弟子亦感祥瑞。天垂甘露地漾星珠。卽江州廬山東寺僧志恩以唐天寶九載春三月於寺晉遠法師甘露壇上爲僧尼受戒。天降甘露。初但蜜雲露點衣黏手。其別當江州太守甞之味甘逾蜜。以匙䅫[考]䅫恐撩〈掠の誤写〉樹葉上得一外色紫顆。如是經二十日日〃天降。於是道俗共相歡詠。唐恩瑞同晉遠。四方公子各振金聲于時。緣[考]緣恐錄事不暇度本。◯我生將盡。一期命盡。卷舒出沒。古今同然。爰於寶字七年歳次癸卯五月六日隠几端坐閴焉而化。容彩儼然猶生。情靈歸乎遷寂。春秋七十有七。今編上高僧傳。錄以呈萬代矣。
鑑真がんじんは、広陵郡〈揚州〉の龍興寺僧である。俗姓は淳于じゅんう氏、斉の大夫、淳于髠じゅんう こんの後裔であった。弁李に参玄さんげん〈出家〉した。二十一歳で具足戒を受けてから律蔵の研究に没頭し、五年でその微を極めた。学海翰林、詞淵義府、施戒を功とし講律を務めとしていた。□開元年間〈713-741〉、崇福寺主の僧、明演みょうえんが来たって云った。
「今、崇福寺は荒廃しております。大和上よ、どうか来たって律を講じ、戒を授けて功徳を修めたまえ」
この請いによって崇福寺すうふくじに赴き、大律〈律蔵〉等を講じて大殿を修造した。大殿の梁柱の太さは四尺五寸あったが、(これを崇福寺までもたらす)途上の河は深く、その岸は険しくして(寺まで)引き上げ難かった。すると金剛〈金剛神〉が変化して牛となりその木を引き、そのすべてを寺まで引き上げ終わると、その牛はたちまち死んでしまった。(崇福寺を修造する)大工匠の夜の夢に金剛が現れ、
「私が仏殿を造るのを助けて木を引き上げたのだ」
と云ったという。そこで僧たちは(死んだ)牛が金剛の化作であったことを知ったのである。そこでまた塔を造ろうと思い立った。江都の県令、陳明府が州衙しゅうが〈州の役所〉に向かっていた際、馬上にて忽然として塔の上に霧が立ち昇って九層と成ったのを見た。そこで典〈部下〉に、
「あの塔は本は七層であったのに、今は九層であるかのようだ」
と云った。よくよく見れば彩雲が二重となって塔の上を覆っていたのである。その後、(改めて)塔を造営したが、それは三層の基壇をもつ九層の八角であった。その高さは五十七尺。下の三重の基壇には(その四方に)四門を設けた。八面は今の羅睺〈?〉である。法師〈鑑真〉検校けんぎょうして塔を造り上げたが(本来そこで祀るべき肝心の)仏舎利が無いことを嘆いた。すると梵僧が舎利五千粒を持ち来たり、そのすべてを請うて得た。そのうち二千粒を塔の上に祀って供養すると、たちまち光明を放った。他の三千粒は身に備えて海若かいにゃく〈海神.わたつみ〉を供養した。大風の時、神人が塔の傍に立ち、その身で塔が倒れないようにしているのを見た。また、寺の東院に文殊院を造った。堂の中央には弥勒を、その左右には鋳鉄の文殊と普賢を安置し、堂(の壁には)幾万もの菩薩の姿を描いた。その匠人が文殊と(その坐である)師子とを安置したがあまりに後ろ〈壁?〉に近かった。ある夜、師子自らが跪いたまま前に三尺進んでいた。また、都城の東南にある奉法寺たいほうじの請いを受け、講律・授戒・鑄造・造殿・門守などに従事した。そこで恵融えゆう禅師に殿木〈材木〉を用意させたが、その殿箄でんはい〈材木を組んだいかだ〉は江水の急流に流されていくつもの山の下に漂落し、そのいかだは二十里も離れた処に行ってしまった。そこで恵融禅師は金銅の観音像を造ることを発願した。(すると箄を操っていた)船夫は力が盡きて倒れ臥していたが、忽ち起きあがり、
「二十人の僧が水の中で箄を牽いている!」
と言った。睡りから覚めると、箄は水に逆らって流れ行き、直に揚子東河上の木処〈木場〉に至ったのである。
◯和上の弟子もまた祥瑞〈めでたい兆し.〉の感応があった。天が甘露を垂れ、地は星珠をただよわせた。すなわち江州廬山東寺〈東林寺.慧遠の居所であった寺〉の僧志恩しおんは、唐天宝九載〈750〉春三月、その寺で晋の慧遠えおん法師(が建立した)甘露壇の上にて僧尼の為に授戒した時、天は甘露を降らせている。初めはただ蜜のような雲露で衣を濡らし手を潤すばかりであったが、その別当べっとう 〈寺の長〉と江州の太守とがこれをめてみたところ、その味の甘いこと蜜をも越えるようであった。匙をもって樹の葉の上(の甘露)を掠いとると、一つの外色の紫顆しか〈仏舎利?〉を得た。そのようにして二十日を経ても日々に天は(甘露を)降らせた。そこで道俗は共にこれを唐の志恩の奇瑞は晋の慧遠に同じであると讃嘆した。四方の公子はそれぞれ金声を時に振るい、事を録して本を度す暇はなかった。
◯「我が生はまさに尽きようとしている。一期の命が尽きることの卷舒けんじょ出没しゅつもつ〈寿命の長短と死の時機〉(が意のままにならず、死が必ず訪れるものであること)は、今も昔も同様である」(と大和上は云われ)、天平宝字七年歳癸卯きぼう〈763〉五月六日、几〈脇息.脇机〉を取り払って端坐し、閴焉げきえんとして化した。その容貌は儼然としてあたかもいまだ生きているかのようにして、その情霊は遷寂せんじゃくに帰した。春秋七十七。今、高僧伝を編じ、(その行業を)万代の後世に伝える。

宗性『日本高僧伝要文抄』第三
《思託『延暦僧録』第一 高僧沙門釈鑑真伝》
(新訂増補『大日本仏教全書』, vol.62, p.51b-c)

ただし、『延暦僧録』「鑑真伝」は以上のように、鑑真の行業の一端ではあったとしても短い限られた文中でよりによって何故これを?と疑問に思えることが滾々こんこんと述べられています。思託がどうしても語りたかったものをここに入れたのでしょうけれども、しかし『東征伝』で採用されている鑑真の弟子志恩の逸話が重複しており、しかも鑑真に直接関係の無い話であって、その本質に迫り伝るものとは全く言い難い。これでは鑑真の徳行を「以って萬代に呈する」ことなど出来ません。

そして、文飾を過剰にしながら唐突な表現が多く前後の脈絡もわかりにくい、何を言わんとしたものか直ちに解し得ない文章となっています。思託の文章力と編集能力には大きな疑問を感じざるを得ません。思託が淡海三船に再執筆を依頼したと自ら述べていますが、それは実に賢明な判断であったというべきでしょう。

ところで、『続紀しょくき』においても、特に鑑真の日本渡来について焦点をあて、しかもそれを極々簡潔に伝えたものが記されています。いわゆる「鑑真卒伝がんじんそつでん」です。

五月戊申。大和上鑒眞物化。和上者揚州龍興寺之大德也。博渉經論。尤精戒律。江淮之間獨爲化主。天寳二載。留學僧榮叡業行䒭白和上曰。佛法東流至於本國雖有其敎無人傳授。幸願。和上東遊興化。辞旨懇至。諮請不息。及於揚州買船入海。而中途風漂。船被打破。和上一心念佛。人皆賴之免死。至於七載更復渡海。亦遭風浪漂着日南。時栄叡物故。和上悲泣失明。勝寳四年。本國使適聘于唐。業行乃説以宿心。遂与弟子廿四人。寄乘副使宿祢古麻呂船歸朝。於東大寺安置供養。于時有𠡠。挍正一切經論。往々誤字諸本皆同。莫之能正。和上諳誦多下雌黄。又以諸藥物令名眞僞。和上一々以鼻別之。一無錯失。聖武皇帝師之受戒焉。及皇太后不悆。所進醫藥有驗。授位大僧正。俄以綱務煩雜。改授大和上之号。施以備前國水田一百町。又施新田部親王之舊宅。以爲戒院。今招提寺是也。和上預記終日。至期端坐。怡然遷化。時年七十有七。
(天平宝字七年〈763〉)五月戊申ぼしん〈6日〉、大和上鑑真が物化した。和上は揚州龍興寺の大徳である。博く経論を渉猟しょうりょうして最も戒律に詳しく、江淮こうわいの間において独りその化主であった。天宝二載〈743〉、留学僧栄叡ようえい業行ごうぎょう〈普照〉等が和上に、
「仏法は(印度から支那、そして日本に)東流して本国〈日本〉に至りましたが、教え〈仏典〉はあってもそれ〈戒律〉を伝え授ける人がありません。どうか願くは和上よ、(我が国に)東遊して教化を興したまえ」
と言い、その言葉懇切にして諮請息むことがなかった。(和上がその請いを受け入れると)すなわち揚州にて船を買い、海に漕ぎ出した。ところがその中途に風に漂い、船は打ち破れた。和上は一心に念仏した。人は皆、それよって死を免れ得た。(天宝)七載〈748〉となって更にまた渡海を試みた。また風浪に遭って日南〈海南島〉に漂着した。その後、(端州龍興寺にて)栄叡が物故した。和上は悲泣し、失明した。
天平勝宝四年〈752〉、本国の使節がたまたま唐に訪れていた時、業行は(鑑真に)その宿願を打ち明けた。(そこで鑑真は)遂に弟子廿四人と共に、副使大伴宿祢おおとものすくね古麻呂こまろの船に乗り合わせて帰朝した。(聖武太上天皇は鑑真を)東大寺に滞在させて供養した。
ところで当時、勅により一切経論の挍正が命じられていたが、往々にして誤字があり、しかし諸本が皆同じであってこれをよく正せる者が無かった。しかし和上は(幾多の経論を)諳誦しており、その多くについて雌黄を下した〈文章を批評し添削・改竄すること〉。また、諸々の薬物についてその真偽を明かにするに際しては、和上はその一々を鼻で嗅いで分類したのである。そしてそれは一つとして錯誤することがなかった。聖武皇帝〈太上天皇。出家し沙弥となって勝満と号していた〉は、これ〈鑑真〉を師として受戒したまわれた。
皇太后〈光明皇后〉不悆ふよ〈不予。天子や貴人が重い病で倒れること〉に際しては、(鑑真が)進めた医薬に効験があったことから、位「大僧正」を授けられた〈誤認.しかしこの説が興福寺本『僧綱補任』に採用されている〉。しかし、にわか綱務こうむ〈全国の僧尼・寺院を統括する官職たる僧綱としての勤め〉が重荷となったため、改めて「大和上」の称号を授け、備前国の水田一百町を施した。そしてまた新田部にいたべ親王〈天武天皇の皇子。一品親王〉の旧宅を施し、これを戒院とした。今の唐招提寺がそれである。和上はあらかじめその最期の日を伝えられていた。そしてその時〈宝字七年五月六日〉がくると端坐し怡然いぜん〈穏やかな様子〉として遷化された。時にその歳七十七であった。

『続日本紀』巻廿四 天平宝字七年六月条 「鑑真卒伝」
(新訂増補『国史大系』普及版, 『続日本紀』後篇, pp.293-294)

実は今示した「鑑真卒伝」の一節の後半部分には、『続紀』の編者に依る事実誤認の跡が見られ、また時系列が乱れています。というのも、鑑真は僧綱として大僧正に任じられていた事実はありません。そして、備前の水田一百町が施されたのは天平宝字元年〈757のことであって、それはいまだ大僧都として僧綱の職にある時のことです。

より後代に編纂された史料(『僧綱補任そうごうぶにん』)において、大僧正位が贈られたのは没年の天平宝字七年のことであったとされています。したがって、鑑真を大僧正としたのは生前のことではなく没後のこと、すなわち贈位ぞうい〈死者に贈られる生前より高い位階〉です。本稿で紹介する『法務贈大僧正唐鑑眞過海大師東征伝』という題目に「贈大僧正」とありますが、それは大僧正がまさに贈位であったことを示しています。

鑑真伝は他により後代、中世となっても凝然ぎょうねん三国仏法伝通縁起さんごくぶっぽうでんつうえんぎ』(以下、『伝通縁起』)や同『律宗綱要りっしゅうこうよう』、虎関師錬こかん しれん元亨釈書げんこうしゃくしょ』に録され、また近世に編纂された卍元まんげん師蛮しばん本朝高僧伝ほんちょうこうそうでん』や戒山かいざん慧堅えけん律苑僧宝伝りつおんそうぼうでん』などに収録されるなど、本邦の高僧伝の類には必ず収録されています。

中でも凝然による『伝通縁起』にある律宗の歴史が概説される中で語られる鑑真伝は、『大和上伝』に主として依ったであろうものであり、(中世の所伝も多く混じっていることから注意すべき点はあるものの)他で伝えられていない細かな所伝が多くあることから、本稿にて紹介する本書や『東大寺要録』および『続紀』以外に目にしておくべき、特に重要なものとなっています。

なお、『東征伝』は海を越えて唐代の支那にも伝えられています。これを支那にもたらしたのは、『東征伝』が著された宝亀十年〈779〉に日本を訪れ、その末に鑑真の死を悼む詩を寄せている唐使、高鶴林こう かくりん であったと思われます。すなわち、本書が著されて早々に支那に伝えられていたのでしょう。宋代に編纂された『宋高僧伝』には、『東征伝』が下敷きに極略されて「唐揚州大雲寺鑑真伝」として収録されています。ただし、そこでは淡海三船著ではなく思託著とされています。すると、支那にもたらされた写本の著者名には「真人元開」と記されておらず、あるいは思託のみ、もしくは思託と真人元開(または淡海三船)の両名が記載されていた可能性も一応考えられます。

画像:井上靖『天平の甍』

現代、鑑真については『東征伝』よりも井上靖による『天平のいらか』を通して知る者こそ多くあるでしょう。しかし、鑑真について昭和中頃の世間に広く知られるに大きな功あったものではありますが、仏教のことも仏僧のこともよく知らぬ井上のそれは、『東征伝』をなぞって軽薄にしただけの所詮は小説に過ぎず、本書を直接読むに過ぎたものでは全くありません。

いや、時は過ぎ、もはや井上の『天平の甍』に興味を持つ者すら少なくなって無いかも知れません。ならばなおさら、今なお鑑真という日本の宗教および文化に多くの影響を遺した尊者に興味を抱く者は、まず本書『東征伝』を読むのが良いでしょう。

そこでまた、あらためて『東征伝』に直接触れたことにより、今から千二百五十年前にもなろうかという往古の鑑真やその他周辺の誠に偉大な先徳達に惹かれ、よりその実像に迫りたいと思う殊勝の人は、少しばかり仏教と漢籍の素養がなければ読解することが困難な点はありはしますが、是非とも『伝通縁起』にも触れることを勧めます。

(興味はあるけれどもその手段が無い。漢文を直接読むのは無理である、そこで誰か原文とその対訳を公開しないかという人の要望が一定数あれば、本サイトにて『伝通縁起』など関連書を紹介することも可能です。)