『槇尾山平等心王院故弘律始祖明忍和尚行業曲記』(以下、『行業曲記』)とは、近世における日本仏教史に短いながらも重大な足跡を残した人、俊正明忍(以下、明忍)の伝記です。
明忍は天正四年〈1576〉の洛中に公家(中原氏)の次男として生まれ、同じ家格の清原氏の養子となった11歳で早くも元服し、その跡を継いで官職を得ていました。しかし若い頃からその志があったといいますが、24歳となって高尾山神護寺の晋海僧正の元で出家しています。
ところが出家したまでは良いものの、すぐさま明忍はそれまで知れなかった当時の出家の有り様、当時の日本における仏教というものの現状に直面しています。
先僧正ヲ爲闍梨真言瑜伽ノ密行ニヲモムキ俗年廿五慶長五年十一月十五日十八道ヲ開白シ四度加行セリソレモ猶カタチノミナル有樣ナリ本意ナケレハ古德ノ遺跡ヲ尋テ南部ノカタニ行、《後略》
まず僧正を阿闍梨として真言瑜伽の密行に入ることとなり、俗年廿五歳の慶長五年〈1600〉十一月十五日、十八道を開白して四度加行を修めた。しかしながら、(真言瑜伽の密行などといっても)ただ形ばかりのことにすぎない有り様であった。(明忍は)これが不本意なものであったため、古の大徳らの遺跡を尋ねて南都に行った《後略》
『明忍律師之行状記』
師の晋海は京でよく名のしれた人で五穀断ちの行をするなどしていたとされますが、しかし総じて当時の僧はいわばただ頭を剃り袈裟衣をつけているだけの俗人に過ぎませんでした。その理由はただ一つ、もはや日本には正統の仏教僧となるための授戒の伝統が断絶して久しかったからに他なりません。そしてまた晋海から受法した密教の修行も、ただ形式的にこなすだけのことであって失望した、と明忍自ら感想していたとされます。
そこで明忍は、それが師の指示によるものであったか自主的であったか知れませんが、南都にて修学するため京を離れています。すると南都にて偶然、志を等しくする二人の僧と邂逅したのでした。一人目は三輪山にて出逢った慧雲寥海、二人目は西大寺にて遭った友尊全空で、いずれも当時堕落を極めていたという日蓮宗を嫌って脱宗し、南都に法を求めてあった僧です。
これは奇遇なことであったのか、あるいは意図してのことであったのか知れませんが、西大寺はもちろんのこと三輪山も同じく、中世における戒律復興の雄、興正菩薩叡尊の流れを汲む地でした。そこで三人は西大寺にて相伝されていた律学を学び、戒律復興の筋道をつけていったのでした。
そして明忍ら三人はそろって京都に戻り、いよいよ戒律復興せんとした時、その志に感じた師の守理晋海ともう一人玉圓空渓という僧も参加して都合五人が、その昔に明恵が居した栂尾山高山寺本堂脇の春日・住吉両明神の祠において、通受自誓受という叡尊らが行ったのと同じ方法により、戒律復興を果たしています。時は慶長七年、明人が出家してからおよそ三年後のことです。
明忍およびその同志ら五人によって点された戒律復興の灯火は、ただちに世人に気づかれ注目されることとなって、ついには律宗だけでなく真言宗・臨済宗・曹洞宗・天台宗・法華宗・浄土宗など諸宗に広がり、江戸期の仏教諸宗諸派に伝播し少なからぬ影響を与えています。およそ江戸期における戒律に関して名を馳せた僧・律院で、明忍ら五人の初めた流れに預かっていない者など一人として無いといって過言ではありません。
本書の題目にある「興律始祖」とはそんな事情を示したもので、明忍の行業を広く世に知らしめた最初の書、それがこの『行業記』です。『行業記』は決して明忍の生涯を語り尽くしたものでなく、そもそも明忍は戒律復興を果たした8年後には35歳の若さで早逝してしまっているのですが、ごく短く簡潔なものに過ぎません。しかし、あくまで純粋に仏教を求めたその清冽にしてひたむきな、そして劇的な生涯は、たとえ簡潔なものであっても人の胸を今も強く打つものです。
『行業曲記』の編者、月潭道徴〈1636-1713〉は、永源寺の中興二世となっていた臨済僧、如雪文巌の弟子として出家し、やがて京都嵯峨に直指庵を結んで住した独照性円の膝下に入り、師と共に明から渡来してきた臨済宗黄檗派(後の黄檗宗)の隠元隆琦の門下に参じてその法を継いだ黄檗僧です。
月潭が最初出家の師としていた如雪は、もとは玄龍朗然という名で、槇尾山平等心王院にて具足戒を受け比丘となるも、後に一絲文守の元に参じて臨済僧となり、名を改めその跡を継いだ人です。彼が如雪文巌と名を改めたのは、槇尾山から禅門に改衣した時のことです。
また、月潭が後に師事した独照は、澤庵宗彭の門人で、後に肥前の興福寺に滞在していた隠元の元に参じて長く随時し、その衣を継いだ人でした。最初は国内の移動を厳しく制限されていた隠元が移動の自由を許されて大阪・京都に来た際には、その門人の多くが、元槇尾山衆徒の一人であってやがて天下の三僧坊と讃えられる野中寺を中興した慈忍慧猛から受戒しています。また、黄檗山萬福寺を落成して初めて執行された授戒に際しては、慈忍の高弟の一人である戒山慧堅がその証明師として招聘され参加しています。
旧来の日本で根付いた臨済僧らからだけではなく、実際のところ明朝における戒律についての状況も日本ほどではなくとも頽廃していたという事情もあったのでしょう、大陸から新来の臨済宗黄檗派の僧からも槇尾山に端を発する律僧らの戒脈と持律峻厳さは注目され認められており、非常に多くの臨済僧が明忍らが復興した戒と律との流れに参加しこれを受け、学んでいました。
ここで学者の中でも誤認している者、もしくはそのように見ようとする者が見られますが、新来の黄檗僧が戒律の伝統を固持しており、その風儀を日本にもたらしていたなどということはありません。隠元を始めとする黄檗僧がもたらしたのは、禅と浄土とが融合した明朝における法式、またその衣帯や法具、そして書など、多く外形的・文化的なものです。
それが当時の日本人にとって非常に目新しいものであり、また明代までの(漢民族による支那の伝統を崇拝する)朱子学が江戸期に隆盛していたという事情も重なって、強く諸人を惹きつけたのは間違いありません。しかしながら、結局はただそれだけに留まり、それ以上の何か大きな影響を当時の律宗に与えていた、あるいはその教義的もしくは行儀的に「相互に影響しあっていた」とは到底思われず、またその痕跡も認められません。これは中世において俊芿や栄西が宋での律院・禅院の行儀ばかりでなく、その建築様式をももたらし、当時の仏教界における教・行両面に大きな影響を与えていたのとはまるで異なった点と見えます。
そのような中、月潭は若かりし頃に槇尾山に滞在あるいは出入りして律を学び、所蔵の典籍を比較的自由に閲覧していたようです。そして禅宗に転じた後も、槇尾山衆徒らと親交を絶たず持ち続けていたため、その詩文の才に優れていることを見込まれ、新たに明忍伝の執筆を依頼されています。
そもそも、それ以前に俊正律師の伝記はすでに著されていました。日蓮宗僧であったものの槇尾山の門下に入って律僧となった省我から、日政(深草元政)がその編纂を依頼され著した『槙尾平等心王院興律始祖明忍律師行業記』(以下、『行業記』)がそれです。そしてその際に参考とされたのは、平等心王院衆徒の堯遠不筌によって記されていた『明忍律師之行状記』(以下『行状記』)でした。
よって『行状記』こそが律師の伝記の嚆矢と言えるのですが、その体裁は伝記というのには及ばぬ未編集の、いわば資料集のようなもので、その故に深草元政に依頼して『行業記』が著されたのでした。しかしながら、平等心王院の衆徒は『行業記』の内容に甚だ不満足であったようで、まったく律師の業績を伝えるのに不十分なものと見ていました。事実、『行業記』を著した深草元政自身がその末に「吾れ憾むらくは文獻足らず、律師の聲徳を述ぶるに堪へざることを」と述べている有り様で、参考とした『行状記』だけでは足りないと自覚されていました。
月潭によれば、平等心王院第八代衆首であった雲松實道律師は「師の嘉言懿行、前哲の記する所を攟拾して遺すこと有るを以て、衷に歉無きこと能はず」と、彼らの祖師の偉業をより確かに伝える書が示されることを望んでいたと言います。そこで槇尾山衆徒の志を汲んで月潭が著したのが『行業曲記』です。
月潭は謙遜してあれこれ言っていますが、実際はその伝記を自ら記すことは名誉なことであったのでしょう。またその内容にも自信を持っていたようで、その題を「曲記」としています。
蒙修補始以菲才辭然再請弗輟嘉其念祖尚德暫不相㤀因按故堯遠筌公所錄事實與松公所傅聞重爲編次命曰行業曲記𥁋曲細而記其事也
最初は菲才〈才能が乏しいこと〉であることから辞退した。しかしながら再び請われたためやむを得ず撰すこととなった。その祖師を想い、その徳を尊んで片時も忘れないことを称えて、因みに原本である堯遠不筌公が記した事実〈『明忍律師之行状記』〉と雲松公の伝え聞く所とを按じ、改めて編纂した。名づけて『行業曲記』という。けだし曲細〈非常に詳細であること〉にその事を記したためである。願わくは(この『行業曲記』によって)来裔〈子孫。律師の法孫〉が(師を)歆艷〈羨慕〉して自らを励まさしめるものになるように、とそう命名したのである。
月潭『槇尾山平等心王院故弘律始祖明忍和尚行業曲記』(西明寺蔵)
曲記とは「曲細な伝記」すなわち非常に詳しい伝記であるということで、月潭の自信のほどが現れた題と言えるでしょう。そして確かに、当時の漢文をよくする禅僧らしい表現・用語に満ちて衒学的ではありますが、存在する俊正律師の伝記の中で文字通り最も詳しいものとなっています。月潭がここで「堯遠筌公の錄する所の事實と松公の傅へ聞く所とを按じて」などと言って既存の『行業記』に全く触れていないのも、その内容に対する不満とそれに対する優越、自身の著した伝記に対する自信を表したものと見ることが出来ます。
もっとも、いくら月潭が文筆に優れていたとは言え、本来はその祖師の伝記ですから本来的には彼ら槇尾山衆徒のいずれかが書くべきものであったと思えます。結局、それを成し得るだけの知識教養を備えた者が、当時の槇尾山衆徒の中にはなかった、ということもあるのでしょう。この後、槇尾山から出て野中寺を律院とする基を築いた慈忍慧猛の弟子戒山やそのまた弟子の湛堂慧淑 らは自らの手で僧伝を著しています。とはいえ、戒山が編纂した『律苑僧宝伝』に録した『槇尾平等心王院俊正忍律師伝』は、『行業記』ならびに『行業曲記』の双方を参照し、多く『行業曲記』の表現に倣ったものとなっています。
『行業曲記』は、当時の律僧と禅僧との盛んな交流の結果著された、明忍という近世初頭に短く悲劇的ながらもその後の近世における日本仏教に大きな影響を与えることとなるその生涯をよく伝えるものです。
愚衲覺應 拝記