嗚呼、師の世を去ること僅か九十余稔にして兒孫繩繩、徧く寓内に布く。槙峰精舎、頃𡻕桂昌院國太夫人の懿㤙を䝉て、殿宇を𪔂建し輪奐の美を極む。且つ僧糧若干石を以て賜ふ。律門榮盛すること是の時に加るなり。
但だ対陽の遺蹟、未だ一浮圖を建置する能はず、是れを缺典と為す。 茲には上座比丘智本澄公、衆と相議し工に命じて密石を礱て、五智輪の塔婆一基を造り、將に舟載運送して彼の所に樹立して永世の標幟と為さんと欲す。乃ち來て銘を余に徴む。是より先、余、律師の行業記を撰し、克く其の由を詳にす。故に不文を以て辭せず、略して平生の梗槩を叙し、之に系るに銘を以てす。 銘に曰く、
佛三學を設く。戒を洪基と為す。
人天崇奉して、衆聖咸く規る。
海東の國に、戒日輝騰す。
鑑眞肇めて授け、叡尊重て弘む。
數百載の後、僧風淪替す。
忍師有らずんば、孰か其の弊を救はん。
志鋒鋭利にして、行璧瑕無し。
槇峯に衆を領して、専ら開遮を唱ふ。
自誓審なりと雖も、別受、傅を失ふ。
求法の錫を飛ばし、対陽の堧に抵る。
鶏林、望みに在り。震旦奚か適かん。
國禁嚴重、未だ舶を泛るに由なし。
滄溟萬里、徒に遐想を勞す。
島陰に茆を締び、姑く此に棲養す。
世緣俄に盡きて、清泰の遊を為す。
幻生幻滅、師に於て何をか憂ん。
但た惜むらくは律苑、早く蓍龜を丧ふことを。
西竺の法に遵て、處に就て闍維す。
遺蹤蕪没して、後代疇か識らん。
ここに𡨔堵を鑱して、海𡶨の側に樹つ。
金剛の正體、獨露して巍然たり。
山霛衛護して、永く改遷勿らん。
元禄十六年𡻕次癸未季春糓旦峩山直指嗣祖沙門道澄月潭和南 撰文
含玉山房元定蘭谷 和南 篆額書丹
遠孫比丘智本理澄・雲松實道等㒰𥡳首百拝 勒石
嗚呼、師が世を去られてから僅か九十余年ながら、その法孫は絶えることなく、あまねく寓内〈世の中〉に満ちている。槇尾山の精舎〈平等心王院〉は、近年〈元禄十二年(1699)〉、桂昌院国太夫人〈大将軍綱吉の生母〉からの懿㤙〈恩寵〉を得て、殿宇〈堂塔伽藍〉が整備され輪奐の美を極めている。さらに僧伽運営のための田、若干石を賜われた。(平等親王院にて明忍律師らにより再興された)律門の繁盛は、この時からより一層のものとなったのである。
しかしながら、対馬の(明忍律師の)遺蹟には、未だ一つの仏塔をすら建置出来ておらず、これでは不完全である。そこでここに(槇尾山平等心王院の)上座比丘の智本理澄公〈平等心王院十四代衆首。明暦四年(1658)四月五日 自誓受具〉が衆僧と相議し、石工に命じて密石を磨かせて五智輪塔婆一基を造り、舟に載せて搬送。(律師が没された)彼の地にこれを樹立して永世の標幟とすることとなった。そこで(槇尾山衆が)訪れ来たり、その銘文を私〈月潭道澄〉に撰することを依頼したのである。以前、私は律師の行業記〈『槙尾平等心王院故弘律始祖明忍和尚行業曲記』〉を著し、よく律師の伝記を詳細にしている。そのようなことから、(私の)不文〈文章が下手であること〉をあることを理由に辞退はせず、簡略に師の平生の梗槩〈あらまし〉を叙述して、行業記に継ぐものとして銘とした。銘に曰く、
仏陀は三学を設けられ、戒をその洪基〈基礎〉とされた。
人と神とは崇奉して、諸々の聖者は皆(戒に)規った。
海東の国〈日本〉に、戒という太陽が輝き登る。
鑑真が初めて授け、叡尊は重ねて弘めたのである。
しかしその数百年の後には僧の風儀は頽廃した。
明忍師が無ければ、誰がその悪弊を救えたであろう。
その志鋒は鋭利にして、その行璧に瑕は無い。
槇峰に衆僧をまとめ、専ら開遮〈ここでは律学の意〉を唱えた。
自誓は審であるが、別受は伝えを失っている。
そこで求法の錫を飛ばし、対馬の岸辺に向かったのである。
鶏林〈朝鮮〉は眼前、震旦〈支那〉に行けぬわけはない。
しかし国禁厳重にして、舶を漕ぎ出すことは出来ず、
滄溟〈青海原〉の万里に徒らに思いを馳せるのみ。
島陰に茅〈粗末な庵〉を結び、しばらくここに逗留した。
ところが世緣にわかに盡き、清泰〈極楽浄土〉に赴いた。
幻生幻滅、師にとって何ら憂えるものでなかった。
惜しむらくは律苑が早く蓍亀〈手本〉を失ったことにある。
西天の法に従い(亡骸は)その地で闍維〈荼毘〉した。
遺跡は山野に帰し、後代誰も知ることはないであろう。
そこで卒堵〈塔〉を刻み海岸〈海岸寺〉の側に建てたのだ。
金剛の正体は、獨露〈自ずから現れ輝くこと〉して巍然たる。
山霊はこれを衛護し、永く後世に伝えるであろう。
元禄十六年歳次癸未〈1703〉季春糓旦〈吉日〉 峩山直指嗣祖沙門道澄月潭〈臨済宗黄蘗派の僧。隠元隆琦の弟子。嵯峨の直指庵第二世〉 和南〈vandanaの音写。稽首の意〉撰文
含玉山房元定蘭谷〈月潭道澄の弟子〉 和南篆額書丹
遠孫比丘智本理澄〈平等心王院第十四代〉・雲松實道〈巌松院中興三世〉等全𥡳首百拝勒石