anekajātisaṃsāraṃ, sandhāvissaṃ anibbisaṃ;
gahakāraṃ gavesanto, dukkhā jāti punappunaṃ.
gahakāraka diṭṭhosi, puna gehaṃ na kāhasi;
sabbā te phāsukā bhaggā, gahakūṭaṃ visaṅkhataṃ;
visaṅkhāragataṃ cittaṃ, taṇhānaṃ khayamajjhagā.
私は幾多の生涯を経巡ってきた、家屋の作り手を探し求めて。あの生涯、この生涯と、生まれることを重ね繰り返すことは苦しい。
家屋の作り手よ 汝(の正体)は見られてしまった。汝が再び家屋を作ることはない。汝のすべての梁は壊れ、屋根は打ち破れた。(我が)心は行〈saṅkhāra〉を離れ、渇愛〈taṇhā〉を滅ぼし尽くしたのだ。
Anekajāti gāthāとは、釈尊が六年間に及ぶ過酷な苦行を経、果たして苦行によって悟りを得ることは出来ないとこれを放棄して、菩提樹下に坐し、ついに無上正等正覚を得られたその直後、まだ夜も開けぬ早朝に初めて発せられたと伝えられるUdāna(無問自説)です。
なお、gāthāとはいわば詩のことであり、一定の体裁を以て説かれた韻文です。漢訳経典では、偈や頌と訳され、あるいは伽陀・偈陀と音写されています。この偈の場合は、一句八音節で、十句からなっています。
またUdānaとは、仏陀が何事かに感慨された際、誰からも問われず自ずから発せられた言葉のことです。つまり、それは「問わず語り」であり、いわば「高尚で詩的な独り言」なのですが、これを支那では古来、無問自説あるいはただ自説などと漢訳してきました。近年は文献学者らによって、感興偈という新しい訳語が作られ用いられています。なかなか優れた訳です。
この偈が説かれている経は、Kuddhaka Nikāya(小部)所収のDhammapada, Jarāvagga(『法句経』老耗品)で、その第153-154偈です。古代末期から中世の日本でしばしば取り沙汰された漢訳経典の『出曜経』では、これに対応する偈文とその注釈が載せられています。
以觀此屋 更不造舍 梁棧已壞 臺閣摧折以觀此屋者。危脆不牢要當壞敗爲磨滅法。正使安明巨海盡當融爛。更不造8舍者。所以然者。以知根*原病之所由。更不受形造五陰室。是故説曰以觀此屋更不造舍也。梁棧已壞臺閣摧折者。所以論此者。乃論結使之原本。身壞四大散。萬物不久合。此乃論成道之人。捨形神逝澹然虚空。肢節形體各歸其本。地還歸地水還歸水。火還歸火風還歸風。神逝無爲不復懼畏更來受形。是故説曰梁棧已壞臺閣摧折也心已離行 中間已滅 心爲輕躁 難持難護心已離行者。所謂行者衆結之首。所以群萌沈湮生死者。皆由造行致斯災變。聖人降世精懃自脩。斷諸行本使不復生。是故説曰心已離行也。中間已滅者。三世之法永盡無餘。是故説曰中間已滅也。心爲輕躁者。如佛契經所説。我今説心之本輕躁速疾。一日一夜有九百九十九億念。念念異想造行不同。是故説曰心爲輕躁也。難持難護者。發心之頃造善惡行。念善之心尋響即至間無滯礙。念惡之心如響應聲。欲令守護者未之有也。猶若惡獸之類。虎狼蛇蚖蝮蠍之屬。欲使將護其意。使不行惡者亦未前聞。是故説曰難持難護
この屋を観ずるを以て、更に舍を造らず。梁棧已に壊し、臺閣も摧折す。「この屋を観ずるを以て」とは、脆くて堅牢でない、必ず壊敗するものは磨滅の法なることである。安明〈須弥山〉と巨海であろうとも、すべて融爛〈朽ちて滅びること〉するであろう。「更に舍を造らず」とは、然る所以は、根原なる病の原因を知ったことによって、再び形〈生命〉を受けず、五陰〈五蘊〉という室を造らないことを云う。そのことから、「この屋を観ずるを以て 更に舍を造らず」という。「梁棧已に壊し 臺閣も摧折す」とは、これを論じる所以は、すなわち結使〈煩悩〉の根源を論じたものである。身体が壊れ、四大〈地大・水大・火大・風大〉が散じたならば、もはや万物は久しく合して存在することはない。これはすなわち成道の人〈仏陀・阿羅漢〉を論じたものである。形〈物質〉を捨て神〈精神・意識〉逝き、澹然虚空にして、手足やその身体は各々その本〈四大〉に帰る。地は地に還帰し、水は水に還帰し、火は火に還帰し、風は風に還帰する。(仮に仏陀・阿羅漢の境地まで達し無くとも、預流以上の境地に達したならば)神逝無為にして、また更に生まれ変わって形を受けたとしても、もはや懼畏することはない。そのことから「梁棧已に壊し 臺閣も摧折す」という。心已に行を離るれば、中間已に滅す。心を軽躁と為す。持ち難く護り難し。「心已に行を離るれば」とは、いわゆる行〈saṅkhāra〉とは諸々の煩悩のはじめである。群萌〈衆生〉が生死に沈湮する所以は、すべて行を造ることに由るのであり、この災変〈迷いの中に流転すること〉を致すのだ。聖人が世に降って努力して勤め、諸行の本を断ち切って再び生ぜさせない。そのことから、「心已に行を離るれば」という。「中間已に滅す」とは、三世の法が永く盡きて余り無いこと。そのことから、「中間已に滅す」と説かれている。「心を軽躁と為す」とは、仏の契経に、「我、いま心の本の軽躁速疾なるを説かんに、一日一夜に九百九十九億念有り〈一念=0.0086秒〉。念念、想を異にし、造行同じからず」と説かれているとおりである。そのことから、「心を軽躁〈極めて早く動くもの〉と為す」という。「持ち難く護り難し」とは、発心の頃も善悪の行を造り、善を念う心は、重ねて響いて一瞬として滞ることはない。悪を念う心は、響きが音に応じるようなものである。これを守護しようとする者など未だかつて無い。あたかも悪しき獣の類、虎・狼・蛇・蚖・蝮・蠍の属のようにして、その意を守護し、悪を行ぜさせないようとしすることも、また未だかつて聞いたことがない。そのことから、「持ち難く護り難し」という。
『出曜経』巻廿八(T4, p.759b-c)
このように漢訳仏典で同偈が収録され、またその注釈も併せて伝えられおり、今なお往古の理解に触れることが出来るものとなっています。とはいえ、Dhammapadaと『出曜経』とでは、テーマは同じであっても、その原文は比較的異なっていたものであったようです。そしてその本文は、これは漢訳であるからということもあるのでしょうが、さらに抽象的で一見して理解し得るものではありません。やはり現代においては釈尊が話されていたインド語から直接、現代日本語に訳するのに如くものではありません。
なお、最初の一偈における、パーリ文の中でいわれている「家(gaha)」とは、色・受・想・行・識の五蘊、すなわち「身体と心」を意味するものである、と分別説部の伝統において注釈されています。それに対し、この『出曜経』の最初の一偈では、「屋」が万法(あらゆる存在・事象)であり、「舎」が生命であるとされ、注釈において「室」が五蘊であるとされています。この一偈については両者の意味はほとんど同じように解されてます。しかし、次の偈文については、その意味合いが両者ずいぶん異なっています。
さて、Anekajātisaṃsāraṃ、直訳すると「一つきりではない人生を経巡って」となる言葉から始まることから、Anekajāti gāthā(一度きりでない人生の偈)と言われます。しかし、そのような訳では気品が感じられないので、ここではこれを且く「生死流転偈」と漢訳しています。
この偈が発せられたのは、南方に伝わり繁栄した分別説部(上座部)の伝承によれば満月の旧暦5月10日の明け方のことです。釈尊は、それまで法を求めて得られず、数知れず生死流転を繰り返すもついにその日、マガダ国ガヤー〈現インド・ビハール州ブッダガヤー〉の菩提樹のもと、Buddha(仏陀)すなわち「目覚めた人」となられました。
多くの人生を生まれ変わり死に変わりしてきたことをその前日の早晩、宿命智を得たことによって明らかに知られ、深夜に天眼智を、そしてあくる朝には漏尽智を得て仏陀となられ、のち初めて発せられた深い感慨の言葉、それがAnekajātisaṃsāraṃです。
伝統的にいうところの生死流転、今世間一般にいう輪廻転生は、仏教が大前提とする世界観です。
それは、少々それが現実とかけ離れていても許される程のただ世界観というのでなく、また仏陀の教えの核心に深く関わる、「真実なる、世界のそして生きとし生けるものの苦なるあり方」とされます。輪廻転生を否定しては仏教の説く倫理・道徳も、修行もそしてその結果としての涅槃も何も、究極的には意味がなくなってしまいます。
とはいえ、これはなにも自然科学がある程度発達した近現代に始まったものでなく、「輪廻など世迷い言に過ぎない」・「転生など如何にしても認識することの出来ない、すなわち愚人の迷信、狂者の妄説」、「この世には事物を構成するところの原子ならびにこれを支配する法則のみしか存在していない。一生命など死んでしまえばそれで全ておしまい。いや、生命などそもそも幻の如きものである。世界はただモノが巡り続けるのみであって、輪廻転生などありえない」などとする人々が古来あります。
むしろインドなどは、現代の社会一般の人にしばしば見られる「生ぬるい半ちく唯物論者」とは異なって、「筋金入りの唯物論者」が仏陀ご在世の往古からあり、どうやら逆に現代には見られなくなったようですが、近代にまで存在し行われていました。その代表的なものがLokāyata(順世外道)、あるいはBārhaspatya(唯物論者)などの、いわゆるNāstika(虚無主義者)です。
また古代ギリシャにおいても、やはり仏陀釈尊とほとんど時を同じくして現れていた原子論者LeukipposやDemokritosなどが唯物論を説いています。そしてこれに根ざしたEpikourosは、先行するAristipposとはまったく異なる享楽主義を説いて世の尊敬を集めていたといいます。
そして、暗黒の中世を乗り越えたヨーロッパでは、ギリシャのそれを引き継ぎ、イギリスのR. BaconやT. Hobbes、そしてJ. Rockら、次にフランスのD. DiberotやLa Mettrie、さらにドイツからはJ. Moleschottなど、多くの場合科学者を兼ねていた諸哲学者によって、それぞれの立場から唯物論は主張され初めています。宗教を初めとする権威主義などいかなる呪縛からも脱却し自由となって、理性と科学的知識とのみによってこそ、人は生きるべきだとする啓蒙思想(the Enlightenment)です。
また近代には、K. MarxそしてF. Engelsによって共産主義が宣揚され、弁証法的唯物論ならびに史的唯物論が展開していきます。共産主義の掲げる理想は一見、これ以上なく素晴らしいものに思えるものでした。しかし、現実はその真逆であって、多くの恐るべき共産主義国家の誕生を見、そこに属する人々はまさに生き地獄を経験することになっています。また結果として二十世紀の世界は大きく二つに分断されるにまで至り、その影響は二十一世紀の今なお根強く残っています。
さらに現代では、自然科学の発達に伴い、物理学・化学・医学など種々の立場から言われる「世界に神などといった存在を認め得る事象は無い」「精神・意識なるものは所詮、大脳の一機能に過ぎない」という(今のところ)仮説が、大勢の承認を得られるに至っています。「いまだ多く解明されない謎は残されているものの、モノ以外の何ものかが存在していることは観察されえず、故に認められない」という実証的立場が、いわば科学的唯物論を導き出しています。そして、それがまた様々な実証主義を産み出しています。
時代の趨勢としては、そのような態度を持つことが知的に良しとされるものですが、しかし、世界の大勢としては、そのような態度を持つ者が多数を占めるには至っていません。けれども、いわゆる現代の先進国における人には、概ね自然科学的態度や啓蒙思想に基づいた教育を受けてきた結果として、これは必然的にでしょうが、科学的に承認され得ない概念や思想内容は総じて迷信であり、これを保つものはいわば知的に劣った者、前時代的であると考える人が、比較的多くあるようです。
このようなことから、日本はもとより西洋には、仏教の説く輪廻転生について「仏陀がまさしく説いたと科学的文献学的に推論され、一定の確度を持っている言葉の数々の内容は、誠に首肯し得る人道主義的英知・理性に満ちたものである。けれども、輪廻転生などは科学的に観察され得ないし、実証し得ない。故に到底認められないし、受け入れられない」と考える人々があります。
なるほど、それは確かにそうでしょう。そう思うのが現代における科学的教育の結果として、当たり前の感覚であり態度であると思います。実際、啓蒙思想は多くの恩恵を人類にもたらし、知ってか知らずか、現代の我々すべてはその利益を享受し続けています。しかしながらそれは、やはりこれも現代だからこそかく考えるというようなものではなく、人間である以上ある意味当たり前に持っている思考・感覚であると、仏教では考えています。業や輪廻と聞いて、それを疑問に思わないほうがむしろおかしい。
例えば、これは実に極端な例ですが、「私は前世、遥か彼方M78星雲のとある惑星で修行してた者ですが、このたび衆生救済の誓願を立てたことからここ地球に転生してきました、ジョワッ!」、あるいは「余と汝とには前世からの分かちがたい絆があるのだ。さあ、いざ宿世からの思いを今こそ遂げようぞ」、はてまたは「あなたは気づいていないかも知れないが、あなたは前世で私の母だった。私はずっと母、そう、まさにあなたをこそ探し続けていました。ママァ!」などと言われて、「は?」などと思わず聞き返してしまう、いや、返す言葉を全く失ってしまうのは、何も輪廻を信じていない人だけではありますまい。
鳩が豆鉄砲を食らった顔、というのは、このような場面に出くわしたときに現れる表情に違いない。輪廻を信ずる、と言ってもこういう輩は例外としておくべきで、困った人の部類に入るものでしょう。「お花畑組」、「お星様組」とでも申しましょうか。そのような人には違う意味での、しかも終わらない春、が訪れてしまっているようです。
唯物論と一口にいっても、それは哲学的考察の果てに導きだされたもの、観念論に相対するものとしてや、科学的観察の結果として仮説された、あるいは結論されているものなど、多種多様です。いずれにせよ、世界には諸説乱立し、それぞれ我が意とするところを研ぎ澄ますなどして壮観なること誠に結構、それでこそ人社会です。
が、ではそのように、唯物論だけではなくいまだ健在の観念論、ユダヤ教・キリスト教・イスラム教・儒教・ヒンズー教・道教等の、諸主義思想、諸宗教などが、我が宗とする思想こそが至高と、諸山屹立して競っている(?)中での、仏教通じての立場はいかなるものか。
仏教とは、あくまで輪廻転生を前提としてその苦しみを説き、そしてそこからの解脱と解脱に至る道を説くものであります。そしてその教えに(未だ理解が至らないとしても一先ず学び)従うのが仏教徒です。これを否定しては仏教でもなんでもなくなってただの新宗教、あるいはいま挙げ連ねたような唯物論の一派、あるいはその傍流・亜流、はてまたは市井の戯言にすぎないものとなるでしょう。
このように言えば、たちまち「仏陀は、いくら仏陀の言葉であったとしても、それを自分自身が考え、納得しなければならないとされた。ただ仏陀の言葉であるからといって、これを盲目的に信じるのは愚者である。教条主義者である。輪廻などは当時のインドで支配的であった思想をやむを得ず取り入れた結果、あるいは後代の蒙昧の徒が挿入した迷信たる思想にすぎない。故にそれなしでも仏教は仏教たりえる」と主張しだす、大体が60歳代から80歳代の人によく出会います。前半部分は確かにそのとおり。しかし、後半はいただけません。
いや、これは何故かここ最近とみにそういう事を言う仏教学者を聞かなくなりましたが、戦前戦後の著名な仏教(信者)学者などがその著書などで盛んに主張していたことであって、これをオウム返しに我が意としているだけのことでもあるのでしょう。世間に左寄りの風がビュンビュンと吹いていた、かつての時代を反映したものと思われます。
実は、そのような共産主義・無政府主義に傾倒、あるいは憧憬を抱いていた当時の仏教者らの主張は、近世において富永仲基の唱えた加上説に知ってか知らずか影響され、基づいたものとも考えられます。富永によって論述された、いわゆる大乗非仏説、それには当時から近代までの仏教者らが誰一人としてまともに反論できませんでした。
そして、近代以降に南アジアおよび東南アジアの植民地支配のため発達していった西洋由来の文献学に基づいた仏教理解が、村上専精など日本の仏教者らに受け入れられていく中で、富永仲基の主張がまた混淆し、形成されてた思想を、おおよそ彼らはその背景としているように思われます。といっても、現代における仏教学者らは、自身らのその主張がよもや近世から近代に紆余曲折して形成されたものを継承したにすぎないものであることの自覚は、ほぼ皆無であったようです。
閑話休題。このような言に対し、先に述べたような諸宗諸派数多くあるといえども仏教に通じた立場というものを開陳すると、次には「私は確かに仏教に対する興味はあるが、しかしそれほど宗教などというものに首も突っ込みたくはないし足も踏み入れたくもない。そこでだ、仏教の教学的な云々など私にはどうでも良いことで、故に私は仏教に輪廻思想など全く不要。むしろそれは害悪だと考えるのだ」という、仏教に首と足を十分に突っ込んでいなければ言うことも、またその必要もない言が放たれる。
あるいは、これも似たようなものですが、「そもそも仏教だなんだと、私はこだわってはいないのだ。仏陀は『仏教』を説かなかった。真理としての達磨(Darma)、そう達磨をこそ私は信じ従う」と来ると、その手合いの人は「では達磨とはナンゾや」と聞くと明確に答えられないことが多いのですが、大体相場が決まっているようです。これは戦後の著名な仏教学者、中村元などの言を生半可に模倣したものであるのでしょう。まさに一知半解の権化というべき人です。
しかし、その手合の人々の言いたいことはわかります。
それは詰まるところ、仏教が輪廻を通じて説いていることであるとはいえ、それ以上理解できず受け入れられず、また受け入れたくもないが為に、そのような主張となるのでしょう。仏教の立場からすると、輪廻を完全に否定するような思想いわゆる唯物論を断見、そしてその全く逆の永久不滅の魂があってこれが輪廻するという思想は、これを常見というのですが、邪見であり、モノの真実なるありさまに昏いということになります。まれに、「いや、業や輪廻転生の思想を除いたとして、仏教は唯物論にも虚無主義にもならない」と言う人もありますが、それは一体どういう事でしょうか。
とはいえ、それに対し、仏教を奉ずる人はここで「我が(信奉する)説こそが優れ正しい」などと言えないし、言ってはいけない。そこでその良し悪し、真偽云々を言いだせばたちまち、不毛の地平が開けます。また、どう考えようがその人の自由です。そして、わからない者に「わからなくてもただただ信じよ、信じれば救われる」などと強制するのも全く違います。それでは全く解決になりはしません。
故に、今は一応、そういう人はそれで良い。自分が納得できないことを、無理に信じ受け入れようとする必要など全くありません。わからなければ「わからない」、と一先ずしておけば良い。それを無理やり、「かくもゴーリテキな自分がわからない。それはすなわち悪なる説である。妄説である」などと断ずる必要はない。
仏教では、特に業や輪廻についての疑惑を、サンスクリットでvicikitsā、パーリ語でvicikiccāと言い、漢訳ではそのまま疑とする、誰しもがもつ煩悩・心の働き、これを仏教では心所と言うのですが、その一つとして挙げます。広義での疑い・疑惑については、kāṅkṣā(kaṅkhā)あるいはvimatiといって、これと区別されます。
疑、それは誰でもが持つ、人によってその強弱こそありますが、因果応報・生死輪廻(など真理)についての疑問であり疑惑です。人間には諸々の煩悩があって当たり前であり、故に輪廻についての疑惑は、人間である以上ある意味当たり前に持っている思考・感覚と言えるのです。別に自身がカガクテキであるからこそそう思うのでもない。
ただ仏教では、これは修行が進んでいく中で消え去るものとされます。具体的には、声聞乗の修行体系で言えば、預流(須陀洹)という境地に至って解消されるものとされます。
さらに言うならば、仏教では輪廻転生について、要するに自分が修行していかなければ疑惑は解消されないことである、禅に至らなければこれを認識することは出来ず、修行が完成されなければ完全には理解できないことである、という態度を採っています。要するに、いくらゴーリテキに考えたところで理解できることではないとされています。
“cattārimāni, bhikkhave, acinteyyāni, na cintetabbāni; yāni cintento ummādassa vighātassa bhāgī assa. katamāni cattāri? buddhānaṃ, bhikkhave, buddhavisayo acinteyyo, na cintetabbo; yaṃ cintento ummādassa vighātassa bhāgī assa. jhāyissa, bhikkhave, jhānavisayo acinteyyo, na cintetabbo; yaṃ cintento ummādassa vighātassa bhāgī assa. kammavipāko, bhikkhave, acinteyyo, na cintetabbo; yaṃ cintento ummādassa vighātassa bhāgī assa. lokacintā, bhikkhave, acinteyyā, na cintetabbā; yaṃ cintento ummādassa vighātassa bhāgī assa. imāni kho, bhikkhave, cattāri acinteyyāni, na cintetabbāni; yāni cintento ummādassa vighātassa bhāgī assā”ti.
比丘たちよ、不可思議〈acinteyya〉の四つの事柄があって、それらは思索されるべきでないもの〈na cintetabba〉である。誰であれ(それらについて)考える者には、狂気〈ummāda〉と悩害〈vighāta〉とがもたらされるであろう。ではその四つとは何であろうか?比丘たちよ、諸々の仏陀の境涯は不可思議であって、思索されるべきでない。誰であれ(これについて)考える者には、狂気と悩害がもたらされるであろう。比丘たちよ、禅者の禅の境涯は不可思議であって、思索されるべきでない。誰であれ(これについて)考える者には、狂気と悩害がもたらされるであろう。比丘たちよ、業果〈業報. kammavipāka〉は不可思議であって、思索されるべきでない。誰であれ(これについて)考える者には、狂気と悩害がもたらされるであろう。比丘たちよ、世界(の始まり・終わり・無限・有限など)についての思想は、思索されるべきでない。誰であれ(これについて)考える者には、狂気と悩害がもたらされるであろう。実に比丘たちよ、これら不可思議の四つの事柄があって、それらは思索されるべきでないものである。誰であれ(それらについて)考える者には、狂気と悩害とがもたらされるであろう。
AN. Catukkanipāta, Acinteyyasutta (4.77)
実はその昔のインドにて、この問題についても唯物論者と仏教徒とは永遠と論争しており、輪廻を論証せんと試みられています。
しかし、現代における知的枠組みにおいては、生命すなわち意識あるものは、と言うと生物学者らから「待った」・「異議あり」の声がかかるかもしれませんが、輪廻転生するということについて論証など出来ず、また科学的に観察し得るものでもありません。私自身について言えば、業そして輪廻はあると確信、というかそれは自明のことであってもはや信じてなどいませんが、これを人に指し示せ、となると何も出来はしません。
おや、しかし、これでは神の存在も霊魂の不滅も論理的に論証できないけれども信仰の上では真であるなどという、キリスト教世界で言われた二重真理説の態度とさして変わらないことになってきました。
これは先に述べたことの重複となりますが、仏教徒であるが、しかし輪廻については「信じられない」・「受け入れられない」・「わからない」というのであれば、まずは一応、疑いを持ってはいても、説き続けられた教えに従いつつ、また自ら問い続けておけば良いでしょう。その存在を認められないからと言って性急に否定しに走ってこれを妄説と断じ、むしろ仏教まるごと否定するか、または「私だけの仏教理解」、「私の達磨」あるいは「新時代に適合する新しい仏教」如きものに改変する必要はありません。
近代インドの哲人とされるJiddu Krishnamurtiは、「自分の信仰することを繰り返し主張することは不安の表れである」という言を残しています。確かにそのとおり、あるモノゴトについて「信じる」・「信じている」・「信じて」などと、日々繰り返して自他に言うような人ほど、実はその人自身、半信半疑であることがあるようです。それを他に対して口にしているようでも、信じ切られていないが為に不安で、むしろ自分自身に言い聞かせているような人もまま見られます。
信頼するというのではなく、「信じる」というのは、その対象を知らないからこそ、ある場合には「努力して」する必要あるものでしょう。その対象の全てを知っているならば、その対象が真実であると知っているならば、いや、その対象の真実の姿を知っているならば、そもそも信じる必要などない。
また、「信仰とは『真実を知りたくない』という意味である」とは、近代を代表するドイツの哲学者の一人、F. W. Nietzsheの言ですが、まさしくそのような意味で信仰している人も多くあります。
…おや?とすると…、私自身はどうやら今までそれをすでに口にし過ぎてしまっているようです。これではまるで「問うに落ちず、語るに落ちる」、私自身が「実は業や輪廻など信じていないのだ」と語っているようなものになってしまうでしょうか。
「おい、もはやAnekajāti gāthāの説明でもなんでもなく、半可通の知識と妙な理屈、そして駄文で、汝が信ずるところの輪廻はあると、ただゴリ押ししているだけになっているではないか。しかも結論が悟らなければ誰もわからないなどと、教条主義的かつ権威主義的で、さらに神秘主義的態度以外の何ものでもない。いい加減にしろバカヤロウ。やめっちまえ、ハゲ!」という鼻息も荒々しい罵声が聞こえてくるようです(少し大げさに言いました)。いや、むしろただ「フッ」とのみの哀れみを含めた冷笑の鼻音、嘲笑でしょうか。
が、たしかに本題から遠くはなれてしまった感があり、またこれ以上私の知性の低さが露見するのは、いやむしろ自分からそれを露呈してしまっているわけですが、不本意なること甚だし。やはり、ここらでやめたほうが良いようです。
しかし最後に一点だけ、繰り返し言わなければならないことがあります。仏教から輪廻転生という前提を抜き出し、そして行(Saṃskāra)や業(Karma)という概念を、物理学的な作用反作用や原子の循環、あるいは化学の反応機構などであるとだけ捉えてしまうと、仏教が音を立てて崩れ落ちる、とまではいかなくとも、「仏教」というものにほとんど意味がなくなるでしょう。
「むしろ、それをこそ望んでいるのだ」という人もあるでしょう。しかし、そう簡単にはいかない。死んでしまえば全ておしまい、人生はこの一回こっきりで次など絶対にないとすると、懸命に修行に励んで仮に「涅槃なるもの」を得たとしても、そこに大した意味などないのではないでしょうか。
「何故にわざわざ五感を制し、抑えがたき情欲を抑えて、命ある間に実現可能かどうかも全く知れない、しかも私の家族親族近隣でそれを以前見たことも経験したこともない、およそユートピアの如き伝説、いや、まるでネバーランドのようなお伽話の類に等しき涅槃などというものを目指さなければならないのか、馬鹿馬鹿しい」
「一回こっきりの人生ならば、我が心が思う様に世の快楽を享受し、そのためにこそ合法非合法問わず、あらゆる手段を以て努力したらいいではないか」
「バレなければいいのだよ、諸君。バレなければ」
ならば、古代ギリシャのアリスチッポスの如く、徹底的に肉体的瞬間的快楽をただただ追い求め、自分の好きなように生きる享楽主義者になることが良いでしょうか。「それでは獣と変わらないではないか」という人もあるかもしれません。しかし、アレスチッポスのそれは、あくまで哲学的思考に裏打ちされた、人生における最高の幸福とは何か、善をは何かを追求した結果としての一つの態度です。彼はソクラテスの弟子でキュレネ派を創始した人です。
また、結果的に同じようなあり方になるでしょうが、特に哲学的思考など無しに、世の中金がすべてと拝金主義者となって金儲けに精を出し、この世の春を謳歌するのもあるでしょう。しかし、これは実際ごくごく限られた人にのみ実現可能なことでしょうから、全く非現実的でしょうか。
もっとも、そのような意味で現実的・非現実的ということを言うのであれば、大乗・小乗を問わず仏教徒は世界中に数あれといえど、涅槃に到達する人がごく限られている現状、それは億万長者になる方がずっと確立が高いのではないかと思えるほどです。故に、涅槃を目指すことは極めて非現実的な行為ということになりますけれど(わざわざ言わなければ気づかない人のほうが多いでしょうが、フェアを期すために一応)。
「人生は苦しいことばかりで楽しいことなど一つもない」と感じ、実際そのような事態に直面した場合、あるいはまた物理的経済的に逼迫し四面楚歌となって何等希望を持てなくなった時、途端に自殺するのが最善の方法となるでしょう。
「人生山あり谷あり、明日は明日の風が吹く。そう悪いことばかりじゃないさ」と、うそぶいてみるのもいいでしょう。実際、そのように言う人に多くあったことがあります。しかし、実際人生はそんな甘いものではない。そのように言う人は、この世においては比較的恵まれた今を過ごしているからこそ、そういえるのでしょう。けれども、老病死は平等に我々のもとにやってきますが、人の能力も境涯も幸運も決して平等ではなく、ゆえに「老病死の過ごし方」は決して同じとはならない。それを無視して「明日は明日の風は吹く」はない。温帯の風は寒暖あって時に心地良いものでも、「北極に吹く風は常に冷たい」のです。
何も仏教だけが「人生は苦しみである」と説いているのではなく、キリスト教にしろイスラム教にしろ、その深度の異なりこそあれ同様です。一般に、ある程度恵まれた国に生きる人が年若い時には、「人生なるもの」など五里霧中であっても、おおよそ明るく華やかで希望に満ちたものであると楽観的観測を持って生き得られるかもしれません。
しかし、実際のところ、その人の主義が唯物論であろうが観念論であろうが、仏教であろうがキリスト教であろうが関係なく、その人の経済的貧富すら関せず、誰のものであっても人生はまことに理不尽で苦痛に満ちています。そうでなければ「救い」を求める人、「真理」を求める人などありえず、故に宗教や哲学が人類において大きな役割をもつこともなかったでしょう。
人生というものに真摯に向き合った時、あるいは何事か悲劇に直面した時、それを真剣に深く考え思えば思うほど、その如何ともし難い苦を見出すことになる。そしてその苦とは一体何か、そこから如何にすれば脱却できるかを考え、また悩むことになる。時としてそれを忘れさせてくれる至高の瞬間、灼熱の地における一服の清涼剤を得ることは出来るでしょうが、そこが灼熱の地であることは変わりません。であるからこそ、この問題について古来人は考え続け、今の人も考え、それぞれ好むところの見解を選択しているのでしょう。
かく言えば、「それは極端な物の見方だ」という人があるでしょう。およそすべての人は生来的に生きたいと望んでいる、生きたくて生きたくて仕方がないという根源的な欲求をもっていることを忘れてはいません。誰人にも自身の命こそまずもっとも重く、尊いものです。
「いや、そんなことはない、自らより大事な命はある。たとえば我が子のためならば、私はよろこんで我が生命をなげうつ」という人もあるでしょう。もちろん、そのような思いは言葉だけでなく、真でありましょう。けれどもそれは、そのような「我が子のためならば我が生命を捧げる」という「我が思い」こそ、「我が生命」より重く価値ある、ということです。しかし、我々の身体というものは普段、その根源から自らの生命を維持することを至上命題としていることは、一般に言えることです。
そこで、そのようなことを百も承知の上で、人生が嫌なら死ねば良い、自分の命をどうしようがその者の勝手。死ぬ瞬間こそ肉体的苦痛を感じるのかもしれないが、死んでしまえば全ておしまいであるならば、生きて苦しい思いをダラダラと虚しく続けるよりはよっぽど良い、と考えること。それはむしろ合理的でこそあれ、決して極端な考えであるとは思いません。
希望がなければ絶望はありえません。生きたくて生きたくて仕方がない、幸せになりたくてなりたくて仕方がない、死にたくなんかない。けれども、その実現をはばむどう仕様も無い自分自身を含めた環境、冷徹な現実がある。経済的理由から、精神的理由から、社会的理由から、病苦のため、心を病み気が違ってしまったため等々、理由は人によって色々とあるでしょう。しかし、理由は異なっても自殺という同様の手法でもって、その苦しみ、絶望を終わらせようとする人があります。
いや、「自殺こそが最後の希望なのだ」という人がある。そのような人が現実に、これは日本に限らず、世界に多くあります。むしろ経済的に困窮している国では、その経済的困窮を苦に自殺する者はごく少数であり、経済的物質的にある程度恵まれた国では、病苦や社会的悩みを苦としてではなく、経済的困窮を苦に自殺する人が多く見られるようです。その事実は人の幸不幸というものについて、様々なことを示唆するものです。私見では、その背後には必ず「孤独」というものがきっとあるのだろうと考えています。
人は幸せになりたいものです。ところが、人生とはかくも不如意なるもので、その浅深強弱は人によってまちまちであり、その異なりの故にもまた人は苦しみを味わう。
いや、そもそも「私は幸せになりたい」と人は間違いなく思っているけれども、実は「では幸せとは何か」に対して明快な答えを持っている人など、ほとんどありはしないように思われます。むしろその答えなど持っておらず、ただ漠然と社会が漠然と、また不安定に与えている空虚な「幸せのイメージ」に自分が合致しないことに、さらに悩み苦しむ人がある。「幸せになりたい。しあわせに、しあわせに。けれども、だから、私は死ぬのだ。それが私には最後に残された、たった一つの選択肢だから」と。
人は、生きたくて生きたくてしかたがない。幸せになりたい。でも、実際に何が幸せかはよくわからない。そして、しかし、自らがなんとなくでも生きたいようにその最低限ですら生きることが出来ないから、人々が思う幸せに自分がなりえないことから、死を選ぶ人がある。
そこでさて、「来世など無い!すべては物理的化学的法則に則ったモノだけの世界に過ぎない」、「それが(未だそのメカニズムが解明されていないが故に)驚異的なことであるとは言え、私という意識も脳の所産でモノの一機能」と言う同じ口から、そしてまた個人の意志・自由を尊ぶ思想を奉ずる社会にあって、その核とされるべき脳が導き出した、個人の意志として選択された死を、一体どうして阻害しようとするのか。
どのようにすれば、彼の偉大な科学者は「神はダイスを振らない」との言を残しましたが、おそらく科学的にはどこまでも不確定である未来について、そして多くの場合そのような望みがほとんど無いからこそ死という最後の選択肢を選ぶ者に対して、「生きていればそのうちきっと良いこともある」・「人は変わり得る、だから生きろ」などという言が吐き出されるのか。
一体何を根拠に、人は、そして社会は「死んではいけない」と言うのであるか。さらにいうならば「なぜ人は道徳的であるべきだ」と言うのか。ただ人倫として自殺は悪とするのか、いや、道徳として自殺は悪であるのか。だとすれば何故それは悪なのか。
なぜ自分はそう考えるのか?なぜ、そのように人に言い自分にも言い聞かせるのか?その背景が自分でも朦朧として何故かを言えないならば、それは「死を決断した人」に対して説得力に欠けたものとなるでしょう。
「おっと、これは具合が悪い」と考える唯物論者の中には、頭をひねって道徳の根拠、すべては物質だけであって死ねば全てが終りのこの世界において、「なぜ人はその過酷な人生を生きなければならないのか」、ひいては「なぜ人は人を殺してはいけないのか」、「バレなければなにしても良いのか」に対する模範回答を出そうと苦心している者もあるようです。
「自殺問題についてのみ、個人を主とせず、社会など全体を主として観た場合、個人が好き勝手に自殺することを許すと社会の諸機能・秩序に不都合、混乱が生じる。それがひいては各個人の不利益となるから駄目なのだ」というのも一つの回答でしょう。
実際人の死体についての見方が色々あったとして、それをただのモノと見ようが見まいが、いずれにせよその処置・処分には面倒事が多いものです。経済が傾くたび、何事か人の精神を不安定にさせる危機を社会が迎えるたび、街のそこいらに勝手気ままに自殺した遺体が無秩序にゴロゴロするようでは、社会は困ってしまう。死んだ本人は知らん顔でも、そのつけを払うのはその他の個人である他人です。例えば、東京でJR中央線を毎日利用している人ならば、これは見に染みて知っていることでしょう。
いや、そもそもこのような件に首を突っ込んでいくと、社会的に色々と都合が悪くなる可能性が高いので、いつもは舌鋒鋭く云々カンヌンする者でも口を閉ざすのが多いようです。
実のところ人倫と道徳の問題は絡み合うものであり、そう簡単に論じきられることではありません。自分という個人の意思を尊重するならば、また他人という個人も尊重しなければならず、社会という個人の意思の総体もまた尊重しなければならないものです。「個人」であるのは自分だけでは決してない。
では自殺について、仏教としての見解は如何。端的に、結論から先に言えば、仏教では「条件付きで自殺は可」とされます。
仏教は輪廻からの解脱を果たした人、すなわち仏陀もしくは阿羅漢、あるいは我が命を投げ出すほどの自己犠牲をする菩薩についてのみ、自殺することを許しています。故に誰でも死にたくば死ねば良いでしょう、悟りを確かに得た後ならば。あるいは、そのような機会に合うことは実にまれとなるでしょうが、人や社会のために我が生命を捧げるという場合があるならば。
さもなければ、無闇に自殺することはむしろ自他をさらに多大に苦しめる結果を引き起こすことになり不毛である。故に軽はずみに死んではいけない、と仏教では考えます。そもそも、「全身全霊で死を望む人」など、決して存在しません。それは決して存在し得ない。そのような人がもしいたとしたら、その人はわざわざ自らを殺す必要などなく、勝手に身体が死を迎えるでしょう。我々の身体は、その隅々にいたるまで、我々が生きるのを出来うる限り維持しようとする機能で満ち溢れ、最大限その機能を発揮せんとして働き続けています。
悟りを得ない限り、私という意識は死を超えてなお相続し続け、幾多の苦しみを受け続けます。それが、仏教通じての見解です。心が解脱し、智慧の解脱をみない限り、たとえば天に唾すれば自らに振りかかるように、自らが作り出した苦しみを無闇に被り続けて果てることがありません。それを今、この世において止めようとしないかぎり、我が苦しみの連環は止むことはありません。
したがって、その意義を認める限りにおいて、この世の生は尊い。ただ「生きること」自体に価値や意味などない、それはただ不毛な苦しみでしか無い、そう仏教では考えるのです。
「いやいやいやいや、輪廻などという虚妄を前提としなくとも、死んでしまえば全ておしまいであるからこそ、この生が尊いのではないか」
そう、そのように言う人ももちろんあるでしょう。「終わりがあるからこそ、それは輝く」と。そのような思想を持っている人こそ、今の日本人(に限ったことではないでしょうが)には多いように思われます。ならばエピクロスのように、「人は神だの来世だのというものへの恐怖心から脱却し、少欲知足を旨として精神的平静と充足を探求すべし」とする、快楽主義者となる道もあるでしょう。
「仏教が好きだ、キリスト教など一神教に比せば仏教には大変好感を持ちえる。そこでしかし、その仏教からどうしても自分が気に食わない『迷信に過ぎない』業や輪廻という教え・概念は取り除きたい。けれども道徳の根拠を失うのは遺憾である」と考える人々は、わざわざ仏教に執着して無輪廻派とでも云うべきものを形成しようとするのではなく、エピクロス主義を学び、一先ず彼に従ってみるのが良いのではないでしょうか。
ああ、かく言ったならば、「暴言だ!すべての者を救わんとするのが宗教というものであろう」などという言が投げつけられるかもしれません。まず、そのような宗教一般に対する理解が全く誤っています。そして、物事には時機というものがあり、人には能力の差というものがある。仏教、特に大乗において「衆生愚蒙ならば、強いて度すべからず。真言行者方便して引進せよ」〈『菩提心論』〉とは云うものの、「縁なき衆生は度し難し」との巷間言われる言葉もまた真実。
実際、エピクロスの主義主張、たとえば彼の言ったataraxiaという境地は、「そのような人々が思い思いに想い描いている涅槃」のように思われます。伝えによれば、エピクロスは優れた尊敬すべき哲人、いわば真のバラモンであったに違いない。古代ギリシャの哲人たちの思想は、常にその人生生活における実践をともなってこそだったものであり、多くの点で仏教との共通点を見出し得ます。しかしもちろん、そこに多くの似通った点が見られるとしても、仏教とエピクロス主義とは全然違うものです。
けれども、そう言えばたちまち「そら見たことか。仏教から輪廻だの業だのという蒙昧の概念を取り除き、人生はこの世限りで死んでしまえば全てオシマイだとしても、そのギリシャのエピなんとかという哲人の主張のごとく、仏教が無価値なものなどにはならないであろう。仏教は理性・知性を尊ぶ合理的な教えとして、依然として意義ある、人類に貢献するものとしてあり得るのだ」という人もあるでしょう。いや、それはもう仏教ではなく、むしろエピクロス主義です。しかし確かに、輪廻や業の思想を受け入れずとも、仏教の部分部分には、数多くの人や社会に有益な事柄があります。
故に、これを実用主義(pragmatism)的に用いることは充分可能で、実は特にアメリカの教育や心理学の領域では、むろん東洋や仏教というステッカーはべりっと剥がされて、すでに行われています。この点を西洋と比較した場合、いつものことというべきか、日本はこの種のことは全く遅れています。しかしながら、アメリカや欧州で実用され成功しているからといって、日本で同じことが出来るかといえば多くの場合そうではありません。大抵、その形だけを猿真似し、ただ何事かやっているような気になる一団を作り出すのみ。
さて、エピクロスが立脚したデモクリトスの唯物論を、なんとか物理学や脳科学に挿げ替えさえすれば、それは彼らの思想、好みにきっと適合することでしょう。日本の有智有能なる人があってこれを行えば、イギリスやアメリカで行われたそれとはまた違ったものが生み出されるかもしれません。いや、エピクロスや唯物論云々など全然関しませんが、それはすでに江戸期の禅僧によって果たされていると言える。
しかし、何故かそのような人々には、自分が「唯物論者」・「虚無主義者」・「快楽主義者」あるいは「Anarchist」と呼ばれるのを好まない者が多いようで、なんとも世の中は色々難しいことです。自分がそうであるならば、堂々と自信を持ってそう言えば良いのでしょうに。
他人からどのようなものであれ「枠」に嵌められて自分が眺められるのを好まず、そして自身の主義主張を開陳することが躊躇われるような日本社会一般の風潮ということがあるのでしょう。
また一方、仏教に属する側にもそれと似たような人々があり、(自分が信ずるところの)仏教を宗教と見られたくない者があります。言っていることが国家神道を唱導して「国家神道とは宗教などという低級なものではないのだ」とした当時の日本政府とまるで変わらないような欺瞞、あるいは仏教はそもそも科学や哲学そのものであったかのようなことを社会に対しては吹聴しつつ、裏では多くの努力を払って宗教法人を取得し、盛んに宗教活動に勤しんでいる輩があるなど様々です。
仏教が宗教では決してなく科学だなどと言うのであれば、宗教法人などではなく、何故に(宗教法人を背景にもつ仏教系大学などではない)大学など学校法人あるいはたんなる研究所をこそ設立し、宗教活動ではなく、純然たる学究活動を専らにしないかと不思議に思えてなりません。いや、それなら最初から旧帝大のいずれか研究室に入って精を出せ、ということになってしまうでしょうか。
仏教を哲学とのみ見たがる人も多くありますが、仏教に哲学的側面はあっても哲学ではありません。
仏陀の滅後、たしかに仏弟子たちは仏陀の法に対する「何故か」・「何か」という問に対する回答を様々に求め、それぞれに出して諸派を形成しました。
結果、多くの部分ですでに(絶対的)回答が出されています。その故に、誤解を恐れずに言えば、仏教という大枠においては、「何故か」という問いから様々に展開し、あるいはその回答を覆すほどの余地はもはやありません。仮に覆したとしたら、それはもはや「仏教」ではありません。ことさらに「~でなければならない」と思っているからかく言うわけではないのですが、そう、仏教は宗教です。
ダライ・ラマ十四世法王がよく語っているように、仏教という宗教には、大きく言えば三つの側面・要素があります。いわゆる宗教(信仰・呪術・救済)的側面・哲学的側面・心理学的側面です。それらのうち一側面だけをもって「これが本当の仏教である」などとすると、木を見て森を見ざるが如き、群盲象を評するが如きものとなるでしょう。おっと、これはいけません、また横道にそれてしまったようです。
しかしさて、現実としては、自身の思想信条がいかなるものかを考える人などごく少数。社会に出ればそんな時間など無いし、そんなことを考えるのは思春期から大学生ぐらいの間にとっくに済ませた(ような気持ちでいる)。「後悔はとっくに済ませた。あとはそれをどうやって忘れるかだ」といったところでしょうか。
多くは「なんとなくそう思う」、「そう考えることが自然だと思うから」、「何故だか知らないが私がそう考えるからそう言うのだ」という如きものであって、しかも多くの場面において、社会での多数の意見や自身の周囲の見解にくるくると変化させられるのが、いたって普通というもの。事大主義というのですが、それを。マスコミや政治家など、人がそのようなものであることをよくよく熟知している。
嗚呼、実に人は多面的であって社会は矛盾に満ちて奥深く、ある意味においては、まこと面白く感ぜられるものです。とはいえ、それは他人事ではなく、自分はまさにその人であり社会の一員である以上は当事者であって、ただ笑い事で済ますことは出来ません。
一点だけと言いつつ、また要らぬ余談ばかりで長くなりました。輪廻を信じていても、一番重要なのは現世におけるこの人生です。来世ではありません。来世で「こそ」救われよ、などという教えを仏陀は説かれはしなかった。
また、この現世において「生きることは苦しい」、「人生は苦だ」などとオウムのように繰り返し、ある意味苦しみに酔っても仕方ありません。本当に苦しみの只中にある者には、苦しいなどという言葉すら発することも出来ず、泣くことも叶わないでしょう。苦しい苦しいとの題目を無闇に唱え続け得る間は、「饅頭怖い」にすぐ成り得る程度のものと言えるかもしれません。
しかし、…しかしやはり、まことに人生は苦しく、どこまでも悩ましいものです。私という矛盾しきった存在、この身勝手で薄汚れた自分、時として全く言動不一致となって自ら呆れるばかりの愚かな私というものと死ぬまで、どこまでも付き合わなければならないことを知りつつ、もう無理か、もう駄目だなどと思いつつそれでも生きている。いつかわからぬとも、結局は絶対に死んでしまうという恐るべき事実を知りつつ、七転八倒しながらも生きている。いずれ死んだらそれですべて終わりならば、むしろどんなに良いであろうか。いや、このような心情からも啓蒙思想は生み出されてきたのでしょう。
無常であるが故に人は変わり得、無我であるからこそ私はかく有り、我が善悪業によってこそ私は私自身を救いもしえるし地獄にたたき落とせもし得る。そのように私は確信しています。しかしながら、その体験、内容自体は他者に各云々と客観的に開陳し、さらに共有できるものではないために、これはまったく私一人の内なるものです。
この信は、初め我が人生における諸々の苦しみ、自らの愚かさとそれに基づく諸悪行がもたらして生じたもの、ある意味極めて独りよがりで自分勝手なものです。けれども今は、それをただいわゆる「信仰する」というのではなく、自分自身によって確認し得、その恐るべきことを確認してきたことであります。
人は、その人生が苦しみであること、仏陀の教えに従ってそれを根本的なところで知れば知るほど、人生は少しずつ楽なものとなっていくことを、自らのうちに確認しうるでしょう。多くの犠牲を払って。
仏陀が成道されて初めて発せられたといわれる、この生死流転偈。それは、数えきれないほど多くの人生をさまざまに繰り返してきたという実感、多く苦しみを重ねてきたがついにその苦しみの終焉に至った、涅槃を得たとのまことに深い感慨があってこそ発せられた、静かで揺るがぬ喜びに満ちたものです。
Ñāṇajoti