Ratana sutta(以下、『ラタナ・スッタ』)とは、漢訳すれば『宝経』で、文字通り「宝」についての教えが説かれた経です。その宝とは、ブッダ(仏陀)とダンマ(法)とサンガ(僧伽 )の、いわゆる三宝です。なぜそれらが宝と言われるかの所以として、ブッダをはじめとする三宝のそれぞれ徳が列挙され、それらは現世および他世における比類なき勝れたものであり、それがまさしく真実であるためにそういう、と『ラタナ・スッタ』では宣言されています。
『ラタナ・スッタ』は、18の偈頌からなる小経でKhuddakanikāya(小部)にあるKhuddakapāṭhaに第6章として収められ、また同じく小部所収のSuttanipātaにも第2章第1経として収められています。
『ラタナ・スッタ』は、Maṅgala sutta(『吉祥経』)とMetta sutta(『慈経』)の二経と共に、パリッタとしては最も読誦される頻度の多い経典です。特に『ラタナ・スッタ』は、Dhajjagga parittaと同様に、特に人が何か病気となった時にはその治病回復を期待して自ら、あるいは僧侶に依頼して唱えられることが多くあるパリッタとなっています。
それにしてもなぜ、治病を期待して『ラタナ・スッタ』が唱えられるのか。その所以の概要は、『ラタナ・スッタ』の前に唱えられることがある、以下のNidāna(序.以下、「二ダーナ」)が示しています。
Paṇidhānato paṭṭhāya Tathāgatassa dasa pāramiyo dasa upapāramiyo dasa paramatthapāramiyo'ti samattiṃsa pāramiyo. pañca mahāpariccāge, lokkatthacariyaṃ ñātatthacariyaṃ Buddhatthacariyan'ti tisso cariyāyo, pacchimabhave gabbhavokkatiṃ, jātiṃ, abhinikkamanaṃ, padhānacariyaṃ, Bodhipallaṅke Mārayijayaṃ, sabbaññutaññāṇappativedhaṃ, Dhammacakkappavattanaṃ, nava lokuttaradhammeti sabbe pime Buddhaguṇe āvajjettvā Vesāliyā tīsu pākārantaresu tiyāma-rattiṃ Parittaṃ karonto Āyasmā Ānandatthero viya kāruññacittaṃ upaṭṭhapetvā.
Koṭīsatasahassesu, Cakkavāḷesu devatā. Yassānaṃ paṭiggaṇhanti, Yañca Vesāliyā pure.
Rogāmanussa-dubbhikkhasambhūtaṃ tividhaṃ bhayaṃ, Khippam'antaradhāpesi, Parittaṃ taṃ bhaṇāma he.
(菩薩が仏陀となることを)誓願して以来、如来の十波羅蜜・十小波羅蜜・十最勝波羅蜜という三十波羅蜜、五種の偉大なる放棄、世間の善行・親族のための善行・成仏のための善行という三つの善行、最後生における受胎・誕生・出家・修行・菩提(樹下)の結跏趺坐におけるマーラ〈魔羅.邪神〉との勝利・一切智の成就・転法輪・九つの出世間法という、一切のこれら仏陀の徳を観察し、ヴェーサーリ〈Vesāli.毘沙離〉を取り巻く三重の城壁の間にて、パリッタを終夜読誦された尊者アーナンダ長老のように悲心〈悲心.kāruññacitta〉を起こし、一兆の世界の神々が認め、先のヴェーサーリにて病〈roga〉・非人〈amanussa.神.ここでは特に悪鬼〉・飢饉〈dubbhikkha〉より起こった三種の恐怖を速やかに消滅させた、かの護経を、さあ(友らよ)、誦えよう。
ここで述べられているように、ヴェーサーリという城塞都市(商業都市)にて疫病・悪鬼・飢饉という恐ろしい災いが重ねて起こったとき、尊者アーナンダがこの『ラタナ・スッタ』を心に慈しみを満たして唱えたことにより、それら災いが去ったという伝承が上座部には伝えられています。
仏教では、真実なる言葉には何事か事象に変化をもたらす、とされます。まさに『ラタナ・スッタ』は、ブッダを筆頭とする三宝がこの世における最も優れたものであることが真実であり、この言葉が真実であるからが故に、これを(まさしく真実であると知って)唱える者に幸いが実現され、悪鬼はその威力に依ってたちまち退けたのである、という話です。
そもそもこの「ニダーナ」は、Dhammapada(以下、『ダンマパダ』)の注釈書 Dhammapada-aṭṭhakathā(以下、『ダンマパダ・アッタカター』)にある、『ダンマパダ』の第290偈に対する註釈において長々と語られているものの、まさに概要です。『ラタナ・スッタ』の内容を直接見たならば、これは仏陀が直接説かれたものでなく、むしろ尊者アーナンダが説かれたのではないのか、と思えるようなものとなっています。しかし、注釈において『ラタナ・スッタ』はあくまで仏陀が説かれたものであり、また仏陀の教示に従って聖水儀礼を行ったものであるとされています。
そのようなことから、『ラタナ・スッタ』は別項「パリッタと儀礼」において述べたように、上座部におけるパリッタにまつわる祈祷など諸儀礼の根拠となっているものであり、パリッタとして最も重要な経典と見なされています。
『ラタナ・スッタ』がただ治病や悪鬼退散をのみ目的として唱えられるということはありません。『ラタナ・スッタ』は、先に述べたように、仏法僧の三宝がこの世における勝れた宝であり、それは神々も等しく認めたことであって、最も敬い尊ぶべきものであることを説いたものです。そしてまた、慈しみをもって他者に幸いあることを願う経でもあります。
もっとも、『ダンマパダ・アッタカター』がその中で述べていることは、ヴェーサーリの災厄がただ仏陀の威徳や『ラタナ・スッタ』の威力によって消え去ったということでは実はありません。その要は、実は敬すべき境地に達した聖者に対する布施の功徳がそれがいかに小さく僅かなものであったとしても、大きな果報として後世に結実することを言ったものでした。
『ダンマパダ・アッタカター』において、前述の『ラタナ・スッタ』の「ニダーナ」が語られた元の『ダンマパダ』の詩偈。それは、ヴェーサーリの災厄を除き払えたその遠因が、実は仏陀の前世における小さな布施の功徳の威力によるものであったと明かされた後に説かれたものである、とされます。
mattāsukhapariccāgā, passe ce vipulaṃ sukhaṃ.
caje mattāsukhaṃ dhīro, sampassaṃ vipulaṃ sukhaṃ.
限られた楽〈mattāsukha〉を捨てることにより、大なる楽〈vipula sukha〉を見るのであれば、
賢者は限られた楽を捨て、大なる楽を見よ。
KN, Dhammapada, Pakiṇṇakavagga 290.
この偈に対する因縁譚として挙げられるヴェーサーリにおける退魔や疫病退散などの話は、少々チグハグの感のあることを否めません。しかし、これは仏陀自身やパリッタや真実語などに一定の威力あることを説きつつも、しかしそれを過剰に強調するものでなく、むしろ日頃の小さな善行の積み重ねこそがいかに大切であるかを説いたものとして解したならばどうでしょうか。そのようなチグハグに思えた当初の感想はたちまち転じ、より意味深いものとなる。
(いや、これは人によるでしょうけれども、少なくとも私はそのように解し、パリッタというものに対する理解が矛盾なくより深まったと独り考えています。しかし、これはあくまで独善的な我が所感に過ぎません。)
ところで、『ダンマパダ』に言及するついでに、宝と楽ということに関連する一偈を紹介します。
ārogyaparamā lābhā, santuṭṭhiparamaṃ dhanaṃ.
vissāsaparamā ñāti, nibbānaṃ paramaṃ sukhaṃ.
無病は最上の利益であり、満足は最上の宝である。
信頼は最上の親族であり、涅槃は最上の安楽である。
KN, Dhammapada, Sukhavagga 204.
無病であること、それは確かに無上の利益です。世界一の大富豪であったとしても、病や怪我にまみれていたならば詮無いことです。少々貧しくいくらかの不自由があったとしても、健康で元気であることを財産でどうにか出来るものではありません。人の歴史の中で、莫大な財産を築き、また名誉を得た者が最後に求めるのは、若さであり長寿であり健康です。病や老いによる痛み苦しみ、生々しく迫る死の恐怖に怯えて過ごすことは、その老死の定めから目を逸らせば逸らすほど逃れることが出来なくなる。財にある人はそこから逃れられるのであればと、様々にその財を存分に費やすことでしょうが、それは時に虚しい努力であって苦しみに苦しみを重ねるだけとなることもある。
次の足ることを知り、なんであれ不満よりも満足して過ごすことを宝とすること。それは無病、老死にも関わる話であって、別個のことではありません。
しかし、「足るを知る」などと簡単に口にすることは出来ますが、それは人の本性に反するものであり、多くの人にとって実に難しいことです。けれども、難しいからといって出来ないことではありません。たとえばそれを知るのに、今まで自身が掴み握って離さなかった事物を手放し、捨てるという経験をしたならば、「足るを知る」ことがどれほど自身を楽にするものであるかを知るでしょう。我々は、その周りをほとんど必要の無いものに取り囲まれ、しかしそれを必要不可欠だと思って抱え込んでいることが多くあります。
本当に「足るを知る」には自身の分を知る、身の程を知ることも必要でしょうが、それは一度種々の事物を手放し、捨てるとより明らかに見えるようになるでしょう。人に本当に必要なもの、欠かせないものなど、それほど多くはありません。
(ここで宝とした原語は、ratanaではなくdhanaであって、宝や財宝と言うよりむしろ財産・富と訳すべき言葉ではあります。)
また、人に親しみ信頼されること。日本でも巷間、「遠くの親類より近くの他人」などと言いますが、自らに縁ある近しい人々と日頃親しく交わり、その信頼を得て共に過ごすことは幸いです。老若男女関わらず、人にとって最も恐るべきものの一つは孤独です。
ekassa caritaṃ seyyo, natthi bāle sahāyatā.
eko care na ca pāpāni kayirā, appossukko mātaṅgaraññeva nāgo.
孤独に行くほうが良い。愚か者を友とするな。
孤独に歩め。諸々の悪をなさず、悠然と求めることなく、林の中の象〈mātaṅgarañña〉のように。
KN, Dhammapada, Nāgavagga 330.
仏陀はその弟子に対し、もし友とすべき賢者あるいは善人がないならば、独りで孤高に生きることを勧めています。しかしながら、孤独に打ち勝って心が曲がらず、むしろそれを愛する人もありますが実に稀です。これは人に限らず、多くの動物もまた孤独を畏れ、孤独によって病んでいきます。そのゆえに善友を得ることは何にもまさる宝であるともされています。善友、善き伴侶を得るのに欠くべからざるもの、それが信頼です。
その上で、それらより更に価値あるもの、最も安楽なるもの、それが涅槃という寂静なる境地です。それがいかなることかを聞いてなお最上と思えない人は求めないほうがよい。けれども、それが最上の安楽であろうと感じられたのならば、みずからそれを得ようと努め励むことを勧めます。その最上であろうことを幾分かでも知るのに、それほどの時間は要しません。
Ñāṇajoti