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Dharmacakra
智慧之大海 ―去聖の為に絶学を継ぐ

栄西 『日本仏法中興願文』

訓読

倭漢斗藪とそう沙門しゃもん賜紫しし阿闍梨あじゃり
傳燈大法師でんとうだいほうしい榮西えいさい
敬て十方三世佛法僧寶護法の聖者しょうじゃもうしてもうさ

れ佛法東流とうるしてかんよりそうに至て千有餘歳、摩騰まとう竺蘭じくらん雪山せつざんみ、法顯ほっけん羅什らじゅう沙河しゃがわたる。眞諦しんたい覺賢かくけん赤縣せきけんもよほし、無畏むい不空ふくう紫塞しさいすぎる。各各かっかくまさに滅せんとするの法燈をかかげ、數數そくそく、既に絶するの慧命えみょうぐ。 また嵩山すうざん南溟なんめい航葦こういし、南嶽なんがく、梁代に誕生して、恭しく鷲峰じゅぶう舊聞くもんを弘め、明かに鶏嶺けいりょう法眼ほうげんを傳ふ。また天台てんだい五品ごほん智解ちげを■、南山なんざん四分しぶんの甘露をまどかにす。玄奘げんじょうは遍く熟蘇じゅくそ都會とえを學し、義淨ぎじょうは律藏の墜文ついもん補綴ぶたいす。ここに唐の則天そくてん皇后、中興大王義浄ぎじょう三藏と號す。其の名を立てるは、是れ其の實をむるなり。其の德をむるは、是れ其の益を全うするなり。 また我が上國日本百濟くだら日羅にちら、彌勒の石像を將來し、上宮じょうぐう太子、衡山こうざん妙經みょうきょうを取て、道璿どうせん鑑眞がんじん、蒼海を超ふ。傳敎でんきょう弘法こうぼう、中華にいたり、競て深法を傳え、爭て顕密を弘む。 爾れより以來六百餘載、三國傳灯の餘光、日域ことに明らかなり。九宗くしゅう習學の規式、東扶とうふ强茂ごうぼうす。 然れども求法ぐほう渡海とかい、絶えて三百餘年。遣唐使けんとうし、停まることまた百餘年。故實こじつようや訛謬けびゅうするのみに非ず。復た墜文、永く傳らざらんか。

我國、たとひ法藏に富めども、何ぞ復た一句の墜文を悲しまざらんや。いはんや深法、時をて漸く淺近と爲り、廣學こうがく、人に隨て稍く薄解ばくげと爲るをや。 たとひ分に隨てす者有れども、皆な名利みょうりに隨て、永く大事因緣の爲にせず。或いは自ら智人と稱して、道心に於ては有るもきがごとし。 就中なかんづく律藏りつぞう澆漓ぎょうりの世、梵行ぼんぎょう比丘びくは跡を削り、福田ふくでん衰弊すいへいの時、人天の依怙えこ全く少なり。 之を謂はんと欲すれば則ちがいせらるべし。まさに謂はざらんとすれども、また爲に知らしめんと欲す。之を爲さんこと如何。説黙せつもく共にわづらひ、進退ここきはまる。 但だ一身の陵辱りょうにくを忘れ、以って三寶の恩德に報ずる。是れ佛法を學する者の根源なり。そもそもまた如來の本意に非ずや。 我が土の衆生、このごろ善知識ぜんちしきを失う。何ぞ此れを資助せざらんや。庶幾こひねがはくは輔相ほしょう智臣ちしん、心を此の願文がんもんに留め、具に奏聞そうもんを經せしめて中興の叡慮えいりょを廻らし、佛法・王法を修復しゅふくせば、最も望む所なり。小比丘しょうびくの大願、只だ是れ中興の情のみ。誰か復た思議すべけんや。 其の佛法は是れ先佛後佛の行儀ぎょうぎなり。王法は是れ先帝後帝の律令りつりょうなり。謂く王法は佛法のあるじなり。佛法は王法のたからなり。是の故に慇懃いんぎんに見知・検察せられるべし。 近世以來、比丘、佛法にしたがはず。唯だ口のみ能く之れを語る。學者、佛儀ぶつぎを習わず。唯だ形状ぎょうじょうのみ之れに似たり。 高野こうや大師の云く、く誦し能く言うは鸚鵡おうむすらなほ能くす。言いて行はざるは何ぞ猩猩しょうじょうに異ならんと云云。此の言を恥ずべきか。其の行をほしいままにして輕弄きょうろうせしむることなかれ。然るに近代の人は此れに翻ず。持戒をわらひ、梵行をないがしろにす。之を爲さんこと如何いかん

小比丘榮西、此の陵替りょうたいを救わんが爲に、身命しんみょうを忘れて兩朝りょうちょうに遊び、如來戒藏にょらいかいぞうを學し、菩薩の戒律を持す。先ず門徒にすすめ、ようや疎人そにんに及ぶ。 望み請うらくは慈恩じおん、自利利他の賢慮に往かしめ、沙門を誘進し比丘を勸励かんれいして、梵行ぼんぎょうを修し戒律を持せしむれば、佛法再び興り、王法永く固からんか。小比丘の願旨、かくの若し。

りょう僧傳そうでんあんずるに僧伽跋摩そうぎゃばつまの云く、受戒の法、重きこと餘事に同じからず。餘法の成ぜざるは唯だ小罪を得るのみ。罪は懴悔すべし。佛種を紹隆しょうりゅうし、信施の罪を消するは、戒を以て本と爲す。もし成就せずんば出家の人に非ず。佛法を断滅す。故に餘の者に異なり。 是を以て輔相大臣、國土をして興復せしめんと欲すれば、深く賢慮を廻らし、重ねて籌策ちゅうさくを設け、公家に奏して此の旨を知らしめ、僧尼を励まして戒律を持せしめば、諸龍、時雨じうを降らして國土豊饒に、諸天、福祐ふくゆうを布いて、逆徒、却退きゃくたいせん。 今、灌頂血脈譜かんじょうけちみゃくふを按ずるに、日本國六十六州に小比丘榮西の門徒、散在して二千人に及ぶ。乃ち孫葉そんように至っては一萬に及ばんか。其の中に何ぞ隨順修行する者、一千人無からん。おのおの廣大隨喜の心に住して清浄しょうじょうの梵行をしゅせしむべし。

伏しておもんみれば、人身は再び受け難し。億億萬劫ばんこうにも猶ほまれなり。佛法永く値い難し。生生世世にも得べからず。今もし無間むけんに堕せば、一中劫の際を經て、賢劫げんごう一千佛の出世に洩れん者か。 仰ぎ願わくは三寶願海さんぼうがんかい、大願を助成せんことを。伏して乞ふらくは普賢願王ふげんがんおう三宗さんしゅうを守護して、法利乃ち普く群生ぐんじょうすくはんことを。

時に元久げんきゅう元年甲子こうし初夏
二十二日乙卯おつぼう、敬て書す

現代語訳

倭漢斗藪とそう沙門しゃもん賜紫しし阿闍梨あじゃり
伝灯大法師でんとうだいほうしい栄西えいさい
敬って十方三世仏法僧宝併びに護法の聖者しょうじゃもうしてもうさ

そもそも仏法が(中印度から)東に流れて、(支那に伝わった)漢より宋代に至って千有余年、摩騰まとう〈迦葉摩騰〉竺蘭じくらん〈竺法蘭〉とは雪山〈ヒマラヤ山脈、あるいはヒンドゥークシュ山脈〉を越え、法顕ほっけん羅什らじゅう〈鳩摩羅什〉とは沙河しゃが〈砂漠〉わたり、真諦しんたい覚賢かくけんとは赤県せきけん〈長安〉もよおし、善無畏と不空とは紫塞しさい〈万里の長城〉すぎて(支那に到来して)きた。各各かっかく、まさに滅びゆかんとする法灯をかかげ、数数そくそく〈幾度も〉、既に絶えたとも思えた智慧の慧命えみょう〈仏教の命脈〉を継いできた。また、嵩山すうざん〈菩提達磨〉は(印度より)南溟なんめい〈南海〉を船で渡って来、南嶽なんがく〈南岳慧思〉は梁代〈南梁.六世紀初めから中頃の南朝四王朝の一〉に誕生して、恭しく鷲峰じゅぶう〈霊鷲山〉における(『法華経』の)旧聞〈伝承〉を弘め、明らかに鶏嶺けいりょう〈鶏足山.ここでは摩訶迦葉の意〉の法眼〈正法眼蔵を〉伝えた。また天台てんだい〈天台大師智顗〉五品ごほん智解ちげ〈化法四教の最初で、智顗が達していたという境地〉を■し、南山なんざん〈南山大師道宣〉は、四分〈『四分律』〉の甘露を悉く明らかとした。玄奘は遍く熟蘇じゅくそ都会とえ〈『大般若経』〉を学び、義浄ぎじょうは律蔵の墜文ついもん〈未だ伝わらずにいた教え、仏典〉を補完している。ここに唐の則天そくてん皇后〈武則天〉は、(義浄をして)中興大王義浄三蔵と称したのである。その名を立てるのは、その実を称賛してのこと。その徳を誉めるのは、その益を全うすることである。また、我が上国日本においては、百済の日羅にちら〈百済朝に工作のため仕えた日本人〉が弥勒菩薩の石像を将来し、上宮じょうぐう太子〈聖徳太子〉は(支那の)衡山〈南岳〉に秘していた妙経〈『法華経』〉を取り、道璿どうせん鑑真がんじんは(日本に来るため)蒼海を超えた。伝教〈最澄〉と弘法〈空海〉は、(いまだ日本に伝わらぬ法を求め)中華に渡り、競って甚深なる仏法を伝え、争って顕教・密教を弘めた。それより以来六百有余年、三国伝灯の余光は、日域〈日本〉においてことに明らかである。(倶舎・成実・律・法相・三論・華厳・天台・真言、そして禅の)九宗を修学する規式は、この東扶〈日本〉において盛んに栄えた。しかしながら、仏法を求め渡海する者が絶えること三百年余り。遣唐使が停止されてからもまた二百年余り〈三百年余りの誤植・誤記〉。(それが意味することは、)ただ(仏陀ご在世の)故実こじつ〈法と律.仏教〉ようや訛謬けびゅうしてきただけではない。また墜文ついもんが永く伝わらなかったことでもあろう。

我が国には、たとえ法蔵〈仏典および九宗〉が伝わって富んでいるとしても、どうしてまた一句の墜文を悲しまないで良いことがあろうか。ましてや深法〈仏教〉が時を遂って次第に浅近となり、広学は人と随ってようやく薄解となって良いはずもない。たとえ(人それぞれ)分〈能力・立場〉に随って理解する者があっても、皆が名利みょうり〈名誉と金銭的利益〉に随って、永く(後生にいたるまでの)大事因縁の為とすることはない。あるいは自ら「智人である」とすら称するが、しかし(その者に)道心など有って無いようなもの。就中なかんづく、律蔵(を学び、持する者)が衰亡したこの世には、梵行の比丘などその跡を隠し、福田ふくでん〈福徳の基となる存在。僧伽など〉が衰え潰えているこの時代では、人々と神々の拠り所(となるべき比丘など)全く稀である。これについて(率直に)謂わんとしたならば、たちまち(今の世で「僧」を名乗る者等から)迫害される。では謂わぬままとしようとしても、また(仏法、ひいては国家と人々の)為には(僧本来のあるべきようを)知らせようと思うのだ。これをするにはどうしたら良いのか。嗚呼、これを説くにも沈黙するにも煩いである。まさに進退、ここに極まる。ただ(この栄西)一人身への陵辱を忘れ、(僧のあるべき姿を世に示すことを)もって、三宝の恩徳に報ずること。それが仏法を学ぶ者の根源である。そもそも、(それこそ)また如来の本意に違いないであろう。我が邦土の人々には、このごろ善知識ぜんちしき〈解脱・涅槃に導く師、友〉を失っている。どうしてその助けとなろうとしないことがあろうか。庶幾こいねがわくば、(帝の)宰相・智臣よ、心にこの願文を留め、(これを)詳しく奏聞を経させて(仏法)中興のための叡慮を廻らし、仏法・王法とを修復したならば、(我が)最も望むところである。小比丘しょうびくの大願、それはただ仏法の中興への思いのみである。誰がまたこれを思議できようか。その仏法とは、先仏後仏の行儀である。王法とは、先帝後帝の律令である。謂わく王法は仏法の主である。仏法は王法の宝である。この故に、慇懃に(この我が大願を)精査・熟考さられたい。近世〈平安中期〉以来、比丘は仏法にしたがわず、ただ口のみよくこれを語る。学者〈学僧〉は仏儀〈戒律〉を習わず、ただ形状のみこれに似ている。高野こうや大師〈空海〉は、「よく誦し、よく言うのは鸚鵡おうむですらよく為しうる。(僧が仏法を)語るのみで行わぬならば、何が猩猩しょうじょう〈猿の妖怪〉と異なるというのか」と言われている。この言葉を恥ずべきであろう。その振る舞いを(自ら)思うがままにして軽く弄ぶようにしてはならない。しかるに近頃の人はこれにまったく反している。持戒(すること自体、持戒する人)をあざ笑い、梵行をないがしろにしている。これを為すにはどうすべきであろう。

小比丘栄西、この陵替りょうたい〈次第に衰えること〉を救うために、身命を忘れ兩朝りょうちょう〈日本と南宋〉に遊んで如來戒蔵にょらいかいぞうを学し、菩薩の戒律を持している。先ずは(我が)門徒に勧め、次第に他者に(持戒を勧め)及ぼす。ただ望み請うことは慈恩、自利利他の賢慮をもって、沙門を誘進し比丘を勧励し、梵行を修させ戒律を持させたならば、仏法は再び盛んとなって王法もまた末永く堅固となるであろう。小比丘の願旨は以上の如し。

梁の『僧伝』〈実際は道宣『戒壇図経』〉を調べたならば、僧伽跋摩そうぎゃばつま〈Saṃghavarman〉は「授戒の法とは重大なものであって、他事と同じではない。他の法についてはたとえその通りでなかったとしても、ただ小罪を得るのみである。その罪は懺悔すれば良かろう。(しかし、)仏種を盛んにし、(破戒無慙の身でありながら僧として布施を受ける)信施の罪を消し得るのは、持戒が根本である。もし(授戒を如法に)成就することが出来なければ出家の人にはなれない。(授戒が如法に伝えられなければ)仏法を断滅する。故に(授戒の法は)他事と異なっている」と言われている。このようなことから、宰相・大臣よ、国土を興復しようと思うならば、深く賢慮を廻らし、重ねて籌策ちゅうさく〈計略〉を設けて、公家おおやけ〈天皇〉に奏してこの旨を知らしめ、僧尼を励まして戒律を持させたならば、諸々の龍は時雨じう〈季節に応じた雨〉を降らせて国土豊饒となり、諸々の神々も福祐ふくゆう〈神の助け〉を布いて、(帝・朝廷に逆らう)逆徒は退けられるであろう。今、『灌頂血脈譜かんじょうけちみゃくふ〈現存しない〉を開きみたならば、日本国六十六州に小比丘栄西の門徒は、散在すること二千人に及ぶ。さらにその法孫に至っては一万人にも及ぶであろう。(もっとも、)その中で(如法に持戒し、修禅する)随順修行〈如説修行〉の者は、一千人にも満たないであろうか。各々、(それら随順修行する者らへの)大随喜の心を起こして、清浄の梵行を修めさせるべきである。

伏して惟んみれば、人としての生を再び受けるは難きこと。億億万劫にも(生死輪廻し続けたとして)なお稀である。仏法も永く値い難い。生生世世にも得られはしない。今、もし(人が後生で)無間地獄に堕したならば、一中劫の永きに経て(地獄に苦しみ、ついに再び人の生を受けたとしても)現在賢劫一千仏の出世を逃す者となるであろう。仰ぎ願わくば三宝願海さんぼうがんかい、(栄西の)大願を助成せんことを。伏して乞うらくは普賢願王ふげんがんおう、三宗を守護して、法利あまねく群生ぐんじょう〈生ける者すべて〉を救わんことを。

時は元久げんきゅう元年甲子こうし〈1204〉初夏〈四月〉
二十二日乙卯おつぼう、敬って書す