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Dharmacakra
智慧之大海 ―去聖の為に絶学を継ぐ

栄西 『日本仏法中興願文』

原文

倭漢斗藪沙門賜紫阿闍梨
傳燈大法師位榮西
敬白十方三世佛法僧寶護法聖者而言

夫佛法東流自漢至宋千有餘歳摩騰竺蘭蹈雪山法顯羅什渉沙河眞諦覺賢催赤縣無畏不空歴紫塞各各挑將滅之法燈數數續既絶之慧命又嵩山航葦南溟南嶽誕生梁代恭弘鷲峰之舊聞明傳鶏嶺之法眼又天台■五品智解南山圓四分甘露玄奘遍學熟蘇都會義淨補綴律藏墜文爰唐則天皇后號中興大王義淨三藏立其名是美其實也譽其德是全其益也亦復我上國日本百濟日羅將來彌勒石像上宮太子取衡山妙經道璿鑑眞超蒼海傳敎弘法届中華競傳深法爭弘顯密自爾以來六百餘載三國傳燈之餘光日域殊明九宗習學之規式東扶强茂矣然而求法渡海絶而三百餘年遣唐使停又百餘年非啻故實之漸訛謬亦復墜文永不傳乎

我國縱富于法藏何不復悲一句之墜文哉況深法遂時漸爲淺近廣學隨人稍爲薄解設有隨分解者皆隨名利永不爲大事因緣或自稱智人而於道心有若亡就中律藏澆漓之世梵行之比丘削跡福田衰弊之時人天之依怙全少欲謂之則可見害將不謂亦爲欲令知爲之如何説黙共煩進退云谷但忘一身之陵辱以報三寶之恩德是學佛法者之根源也抑又非如來本意哉我土衆生比者失善知識何不資助此哉庶幾輔相智臣留心於此願文具令經奏聞廻中興之叡慮修復佛法王法者最所望也小比丘大願只是中興之情也誰復可思議哉其佛法者是先佛後佛之行儀也王法者是先帝後帝之律令也謂王法者佛法之主也佛法者王法之寶也是故慇懃可被見知檢察矣近世以來比丘不順佛法唯口能語之學者不習佛儀唯形状似之高野大師云能誦能言鸚鵡尚能言而不行何異猩猩云云可恥此言乎縱其行勿令輕弄然而近代人翻此咲持戒蔑梵行爲之如何

小比丘榮西爲救此陵替忘身命遊兩朝學如來戒藏持菩薩戒律先勸門徒漸及疎人望請慈恩往自利利他賢慮誘進沙門勸勵比丘令修梵行持戒律者佛法再興王法永固乎小比丘願旨若斯

按梁僧傳僧伽跋摩云受戒法重不同餘事餘法不成唯得小罪罪可懴悔紹隆佛種消信施罪以戒爲本若不成就非出家人斷滅佛法故異餘者是以輔相大臣欲令國土興復深廻賢慮重設籌策奏公家令知此旨勵僧尼令持戒律諸龍降時雨國土豐饒諸天布福祐逆徒却退矣今按灌頂血脈譜日本國六十六州小比丘榮西門徒散在及二千人乃至孫葉及一萬歟其中何無隨順修行者一千人各住廣大隨喜心可令修清淨梵行也

伏惟人身再難受億億萬劫猶希也佛法永難値生生世世不可得今若堕無間經一中劫之際洩賢劫一千佛出世者歟仰願三寶願海助成大願伏乞普賢願王守護三宗法利乃普濟群生者

于時元久元年甲子初夏
二十二日乙卯敬書

訓読

倭漢斗藪とそう沙門しゃもん賜紫しし阿闍梨あじゃり
傳燈大法師でんとうだいほうしい榮西えいさい
敬て十方三世佛法僧寶護法の聖者しょうじゃもうしてもうさ

れ佛法東流とうるしてかんよりそうに至て千有餘歳摩騰まとう竺蘭じくらん雪山せつざんみ、法顯ほっけん羅什らじゅう沙河しゃがわたる。眞諦しんたい覺賢かくけん赤縣せきけんもよほし、無畏むい不空ふくう紫塞しさいすぎる。各各かっかくまさに滅せんとするの法燈をかかげ、數數そくそく、既に絶するの慧命えみょうぐ。 また嵩山すうざん南溟なんめい航葦こういし、南嶽なんがく、梁代に誕生して、恭しく鷲峰じゅぶう舊聞くもんを弘め、明かに鶏嶺けいりょう法眼ほうげんを傳ふ。また天台てんだい五品ごほん智解ちげを■南山なんざん四分しぶんの甘露をまどかにす。玄奘げんじょうは遍く熟蘇じゅくそ都會とえを學し、義淨ぎじょうは律藏の墜文ついもん補綴ぶたいす。ここに唐の則天そくてん皇后、中興大王義浄ぎじょう三藏と號す。其の名を立てるは、是れ其の實をむるなり。其の德をむるは、是れ其の益を全うするなり。 また我が上國日本百濟くだら日羅にちら、彌勒の石像を將來し、上宮じょうぐう太子衡山こうざん妙經みょうきょうを取て、道璿どうせん鑑眞がんじん、蒼海を超ふ。傳敎でんきょう弘法こうぼう、中華にいたり、競て深法を傳え、爭て顕密を弘む。 爾れより以來六百餘載、三國傳灯の餘光、日域ことに明らかなり。九宗くしゅう習學の規式、東扶とうふ强茂ごうぼうす。 然れども求法ぐほう渡海とかい、絶えて三百餘年。遣唐使けんとうし、停まることまた百餘年。故實こじつようや訛謬けびゅうするのみに非ず。復た墜文、永く傳らざらんか。

我國、たとひ法藏に富めども、何ぞ復た一句の墜文を悲しまざらんや。いはんや深法、時をて漸く淺近と爲り、廣學こうがく、人に隨て稍く薄解ばくげと爲るをや。 たとひ分に隨てす者有れども、皆な名利みょうりに隨て、永く大事因緣の爲にせず。或いは自ら智人と稱して、道心に於ては有るもきがごとし。就中なかんづく律藏りつぞう澆漓ぎょうりの世、梵行ぼんぎょう比丘びくは跡を削り、福田ふくでん衰弊すいへいの時、人天の依怙えこ全く少なり。 之を謂はんと欲すれば則ちがいせらるべし。まさに謂はざらんとすれども、また爲に知らしめんと欲す。之を爲さんこと如何。説黙せつもく共にわづらひ、進退ここきはまる。 但だ一身の陵辱りょうにくを忘れ、以って三寶の恩德に報ずる。是れ佛法を學する者の根源なり。そもそもまた如來の本意に非ずや。 我が土の衆生、このごろ善知識ぜんちしきを失う。何ぞ此れを資助せざらんや。庶幾こひねがはくは輔相ほしょう智臣ちしん、心を此の願文がんもんに留め、具に奏聞そうもんを經せしめて中興の叡慮えいりょを廻らし、佛法・王法を修復しゅふくせば、最も望む所なり。小比丘しょうびくの大願、只だ是れ中興の情のみ。誰か復た思議すべけんや。 其の佛法は是れ先佛後佛の行儀ぎょうぎなり。王法は是れ先帝後帝の律令りつりょうなり。謂く王法は佛法のあるじなり。佛法は王法のたからなり。是の故に慇懃いんぎんに見知・検察せられるべし。 近世以來、比丘、佛法にしたがわず。唯だ口のみ能く之れを語る。學者、佛儀ぶつぎを習わず。唯だ形状ぎょうじょうのみ之れに似たり。高野こうや大師の云く、く誦し能く言うは鸚鵡おうむすらなほ能くす。言いて行はざるは何ぞ猩猩しょうじょうに異ならんと云云。此の言を恥ずべきか。其の行をほしいままにして輕弄きょうろうせしむることなかれ。然るに近代の人は此れに翻ず。持戒をわらひ、梵行をないがしろにす。之を爲さんこと如何いかん

小比丘榮西、此の陵替りょうたいを救わんが爲に、身命しんみょうを忘れて兩朝りょうちょうに遊び如來戒藏にょらいかいぞうを學し、菩薩の戒律を持す。先ず門徒にすすめ、ようや疎人そにんに及ぶ。 望み請うらくは慈恩じおん、自利利他の賢慮に往かしめ、沙門を誘進し比丘を勸励かんれいして、梵行ぼんぎょうを修し戒律を持せしむれば、佛法再び興り、王法永く固からんか。小比丘の願旨、かくの若し。

りょう僧傳そうでんあんずるに僧伽跋摩そうぎゃばつまの云く、受戒の法、重きこと餘事に同じからず。餘法の成ぜざるは唯だ小罪を得るのみ。罪は懴悔すべし。佛種を紹隆しょうりゅうし、信施の罪を消するは、戒を以て本と爲す。もし成就せずんば出家の人に非ず。佛法を断滅す。故に餘の者に異なり。 是を以て輔相大臣、國土をして興復せしめんと欲すれば、深く賢慮を廻らし、重ねて籌策ちゅうさくを設け、公家おおやけに奏して此の旨を知らしめ、僧尼を励まして戒律を持せしめば、諸龍、時雨じうを降らして國土豊饒に、諸天、福祐ふくゆうを布いて、逆徒、却退きゃくたいせん。 今、灌頂血脈譜かんじょうけちみゃくふを按ずるに、日本國六十六州に小比丘榮西の門徒、散在して二千人に及ぶ。乃ち孫葉そんように至っては一萬に及ばんか。其の中に何ぞ隨順修行する者、一千人無からん。おのおの廣大隨喜の心に住して清浄しょうじょうの梵行をしゅせしむべし。

伏しておもんみれば、人身は再び受け難し。億億萬劫ばんこうにも猶ほまれなり。佛法永く値い難し。生生世世にも得べからず。今もし無間むけんに堕せば、一中劫の際を經て、賢劫げんごう一千佛の出世に洩れん者か。 仰ぎ願わくは三寶願海さんぼうがんかい、大願を助成せんことを。伏して乞ふらくは普賢願王ふげんがんおう三宗さんしゅうを守護して、法利乃ち普く群生ぐんじょうすくはんことを。

時に元久げんきゅう元年甲子こうし初夏
二十二日乙卯おつぼう、敬て書す

脚註

  1. 斗藪とそう

    [S]dhūta / [P]dhutaの音写、抖擻あるいは頭陀に同じ。漢訳では「斗藪煩悩塵垢(煩悩を振りはらうこと)」などとされ、広くは仏道修行全般を意味。狭義には律を厳持して清貧な生活を送ることの意。

  2. 沙門しゃもん

    [S]śramaṇa / [P]samaṇaの音写。桑門。原意は静める人、あるいは努める人。漢訳では息心・勤息・静志・淨志・貧道など。
    釈尊ご在世の当時、インドにおけるバラモン教とは異なる自由思想家で出家遊行していた人の称であったが、今は特に仏教の出家修行者を意味する。

  3. 賜紫しし

    賜紫は、天皇から紫衣を下賜された僧。唐代の支那において則天武后が法朗などの僧に紫衣を下賜したこと、および本朝の玄昉が入唐時に皇帝より紫衣を下賜された故事に倣い、日本でも朝廷が功績のあった僧に対して紫衣を下賜することが行われるようになった。

  4. 阿闍梨あじゃり

    [S]ācārya / [P]ācariyaの音写。原意は規範、転じて先生・教師。伝統的には、具足戒(律)を受けて五年以上を経ており、法(経論)と律とに詳しくその行業の優れた者。あるいは密教において、すでに伝法灌頂(具支灌頂)を受けた者の意。ここでは後者の意で、栄西が天台と真言双方の密教の相承者であることを強調した自称であろう。

  5. 傳燈大法師でんとうだいほうしい

    僧位九階の最上位で、天皇から任命される位。官位三位相当。

  6. かんよりそうに至て千有餘歳

    支那における仏教公伝は後漢代、永平十年〈67〉のこととされ、それから栄西が本書を表した元久元年〈1204〉に至るまで1137年を経ていた。

  7. 摩騰まとう

    永平十年〈67〉、支那に初めての仏経となる『四十二章経』を伝え翻訳したと言われる印度僧Kāśyapamātaṅgaの音写名、迦葉摩騰あるいは迦摂摩騰の略。天竺(印度)出身であることから竺摩騰とも称された。
    出身地名を僧名の頭に冠して称する習慣は支那仏教の初期に見られるものであるが、鳩摩羅什と同時代の高徳、支那におけるいわゆる格義仏教を正そうと奮闘した道安〈314-385〉により、「出家者は家も名も捨て釈教の門下に入った者、いわば釈尊の子であるのだから、出身地由来の語などではなく釈とこそ冠するべきである」などとして廃され、以降は行われなくなった。

  8. 竺蘭じくらん

    竺法蘭の略。竺は天竺出身であることを示すが、法蘭の原語は不明。一節にDharmaratna、あるいはDharmarakṣa。迦葉摩騰と共に洛陽に来たり『四十二章経』を訳した人と言われる。

  9. 雪山せつざん

    「せっせん」とも。ヒマラヤ山脈、あるいはヒンドゥークシュ山脈。

  10. 法顯ほっけん

    東晋代の支那僧〈337-422〉。支那に仏教が伝わっておよそ二百五十年が過ぎていたものの、しかしいまだ戒律が不備であったことを嘆き、初めてインドへと求法の旅に出た僧らの一人で、ただ独りその目的を完遂した人。その求法の旅の記録は『仏国記』(通称『法顕伝』)として残され、今もなお貴重な資料として珍重される。果たして法顕によって大衆部の律蔵『摩訶僧祇律』および化地部のものと目される『五分律』が支那に請来された。また、『大般涅槃経』も法顕が将来し訳したことによって支那に急速に広まった。ただし、法顕が志した律蔵の普及は、先んじてもたらされていた『十誦律』が鳩摩羅什らによって漢訳されて急速に進んだ。

  11. 羅什らじゅう

    Kumārajīva〈344-413〉(鳩摩羅什)の略。亀茲国(クチャ)出身。羅什の父はインド出身の僧であったが、クチャ国王の妹に見初められたため、ほとんど強制的に還俗させられて結婚。羅什をもうけた。のち羅什は出家し、若くして世にその英才で知られるようになる。前秦がクチャを攻略した際には、彼を高僧として厚遇。後秦の世となってから長安に迎えられ、訳経僧として仏典の翻訳に従事し、数多くの重要な小乗・大乗仏典を翻訳。その訳文は中国語として大変美しく流麗で、今に到るまで支那はもとより日本においても、支那の四大三蔵法師の一人として讃えられている。ただし、羅什の訳文には原文に無い文言、おそらくは彼自身の見解に基づく文言が多数挿入されているなど、文章としては美しくとも翻訳文としては問題が大変多いことが知られている。

  12. 沙河しゃが

    砂漠。

  13. 眞諦しんたい

    Paramārtha〈499-569〉. 印度僧。扶南(カンボジア)経由で支那に入って後、訳経僧として非常に多くの、そして数々の重要な仏典の翻訳を手掛けた。鳩摩羅什・玄奘・不空らと共に、四大翻訳僧の一人として讃えられる。

  14. 覺賢かくけん

    Buddhabhadra〈359-429〉. 印度僧。『高僧伝』に、釈尊と同郷のKapilavastu(迦維羅衞)の出であると伝えられる(T50. P334b)。修禅に秀でていたといわれ、その禅法を支那に伝えるために来訪したが、当時の支那僧らに受け入れられず排斥される。最終的には当時の支那仏教における雄、廬山の慧遠のもとに身を寄せた。
    今も修禅のための優れた指導書として有用なる『達磨多羅禅経』を訳し、また『観仏三昧経』・六十巻『華厳経』・『摩訶僧祇律』など重要な仏典の数々を翻訳した。

  15. 赤縣せきけん

    王城、都。唐の都(長安)から近い県を赤といったことによる称。

  16. 無畏むい

    [S]svabhayakara / [M]Subhāgara〈637-735〉. 善無畏の略称。音写は輸婆迦羅。印度僧。『宋高僧伝』によれば、中インドの王族出身でその才覚の突出していたことから王より早くから譲位され王位に就いたという。しかし、これをよく思わない兄弟との間で内戦となり、ついにこれを平定するもその虚しきことを思って兄に王位を譲り、みずから出家。特に『妙法蓮華経』を信仰し、法華三昧を得たという。その後、Nālandā(那爛陀寺)に入ってDharmagupta(達摩掬多)に師事し、密教を相承した。Dharmaguptaといえば玄奘三蔵が渡天の昔に会ったことがあるという人であったが、善無畏三蔵が師事した時には八百歳の高齢でなおその容貌四十歳ばかりの若々しさで健在であったと伝説される。
    善無畏は師より唐に密教を伝えよと指示されたことによって来唐。『法華経』系の密教である『大日経』を筆頭とする、数々の密教経典を翻訳され、また『大日経』を注釈されたのが『大日経疏』および『大日経義釈』として支那・日本で重用され今に伝えられている。真言宗では真言八祖(伝持)の一人に挙げられる。

  17. 不空ふくう

    Amoghavajra〈705-774〉. 印度出身ながら幼少から支那に渡って生育した僧。『初会金剛頂経』を筆頭とする重要な密教経典・儀軌の多数を訳しており、四大訳経家の一人として称えられる。真言宗では真言八祖(伝持・付法)の一人に挙げられている。

  18. 紫塞しさい

    万里の長城。

  19. 嵩山すうざん

    Bodhidharma〈?〉. 菩提達磨。印度僧。南インドの王子であったといわれるが、出家して南海経由で支那に渡り、嵩山少林寺にて面壁九年といわれる不断の修禅を行ったとされる。禅を支那に伝えたことで高名となるが菩提流支と光統律師に妬まれ、毒殺されたと伝えられる。

  20. 南溟なんめい

    支那から見て南の海。南海。

  21. 南嶽なんがく

    慧思[515-577]. 隨代の学僧。南嶽衡山にて過ごしていたことから南嶽慧思といわれる。『摩訶般若波羅蜜経』と『妙法蓮華経』とを最重要視した。後に天台教学を大成する智顗が師事してその薫陶を受けたことから天台宗祖ともされる。

  22. 鷲峰じゅぶう

    [S]Gṛ̣dhra-kūta. 摩伽陀(Magadha)国の都、王舎城(Rājagṛha)の東北に位置する山。霊鷲山。現在のビハール州ナーランダー地区ラージギルのギリヴラジ(Girivraj)と言われる山。

  23. 鶏嶺けいりょう

    [S]Kukkuṭapadagiri. 摩伽陀(Magadha)国の伽耶(Gayā)の南東に位置する山。鶏足山。Mahā-Kāśyapa(摩訶迦葉)尊者が入定した山と伝えられる。禅宗における拈華微笑の伝説にいわれる、霊鷲山での説法中になされた釈尊の暗示をただ迦葉だけが理解したこととから禅宗の第二祖であると禅宗でされることと、その迦葉が鶏足山にて入定されたということ、そしてさらにその法脈を菩提達磨が伝えたことに掛け、「明らかに鶏嶺の法眼を伝う」と言ったのであろう。

  24. 天台てんだい

    [538-597]. 隋代の学僧、智顗の敬称「天台大師」の略。南嶽慧思に師事し『摩訶般若波羅蜜経』(ひいては『中論』・『大智度論』など龍樹菩薩の諸思想)および『妙法蓮華経』を学び、天台山にて天台教学を打ち立てて多くの著作を著した。『摩訶止観』・『法華玄義』・『法華文句』がその代表作で天台三大部と言われる。

  25. 五品ごほん智解ちげを■

    底本においても最後の一文字が脱落しており意味が明瞭でない。五品は智顗のいった「五品弟子位(五品位)」であろう。
    智顗は釈尊一代の教説を五時八教に分類して理解した。五時とは、釈尊が成道後に説法した順序として言うもので以下の通り。
     ①華厳時
     ②鹿苑時
     ③方等時
     ④般若時
     ⑤法華涅槃時
    結局、そのうち最期に説かれた『法華経』およびそれを補完する『涅槃経』が、仏陀の教えの中で至高だと智顗はいう。また八教とは、釈尊の教えをその内容によって分類した化法四教と、釈尊の教えをその種類によって分類した化義四教の総称だとされるもの。化法四教とは、
     ①三蔵教(声聞乗の教え)
     ②通教(声聞乗と菩薩乗と共通する教え)
     ③別教(大乗の教え)
     ④円教(法華・涅槃の完全な教え)
    化義四教とは、
     ①頓教(華厳)
     ②漸教(阿含・方等・般若)
     ③秘密教
     ④不定教
    そこで「五品弟子位」とは、化法四教のうち円教における修道者の初歩的階梯(十信位以前の外凡の位)であるといい、①随喜品・②読誦品・③説法品・④兼行六度品・⑤正行六度品からなるという。伝説では、智顗は臨終の際、弟子から自身がいずれの階位にあるかを問われた時に、「もし自分がこのように弟子を教導することがなかったならば、必ず六根清浄の位に至ったであろう。けれども、しかし利他として弟子を教導し、己を損じたがために五品弟子位にあるに過ぎない」と答えたといわれる。この伝承は、智顗の弟子灌頂によると伝説される智顗の伝記『隋天台智者大師別伝』に「吾不領衆必淨六根。爲他損己只是五品位耳」(T50. P196b)とあるによる。そこで、ここでいわれる「五品の智解」とは、智顗が五品弟子位にのみようやく達していたとする伝説に基づく語。あるいは、以上の如き智顗の諸仏典に対する理解・解釈全体を意味したものか。

  26. 南山なんざん

    [596-667]. 唐僧、道宣の諡号「南山大師」の略。支那における律宗の祖、智首に学んだ後、相部宗の法礪にも師事して律を学び、ついには終南山に居して自らの学系を建てたことから南山律宗祖とされる。玄奘が長い天竺への旅から帰ったときにはその訳経事業にも参加している。
    道宣は多くの著作を残したが、特に『四分律刪繁補闕行事鈔(行事鈔)』が重要。さらに『続高僧伝』や『広弘明集』などは、今も僧伝や往時の伝承などを知る上で不可欠の名著として珍重される。

  27. 四分しぶん

    『四分律』。

  28. 玄奘げんじょう

    [602-664]. 唐僧。原典にて仏教を学び、みずからの阿毘達磨や法相(唯識)についての疑問を解消することを目指し、国禁を破って国を出、陸路にて中央アジアを経巡って西北からインドに入った。支那を出てインド各地に永く滞在し、また支那に戻るまでおよそ十六年。その間に得た膨大な仏典と知識とを支那にもたらしたが、その後はその翻訳を国家の庇護の元に監督し、原典にかなり忠実な翻訳やそれまでの訳語の修正した。その故に玄奘以降の訳は新訳と言われる。また、弟子基(窺基)によって法相宗が起こされる。インド旅行の記録であり一大冒険記だとも言える『大唐西域記』は、今も貴重な記録として珍重される。

  29. 熟蘇じゅくそ都會とえ

    大乗の『大般涅槃経』では、諸々の仏典が五味に喩えられる。五味とは、牛乳を加工する過程で順に得られるもので、最後に得られる牛乳の精髄たる醍醐はこの世の最上のものであるとされる。① 乳味(牛乳そのもの)…十二部経・② 酪味(バター)…修多羅・③ 生酥味(レアチーズ)…方等経・④ 熟酥味(熟成チーズ)…般若波羅蜜多・⑤ 醍醐味(醍醐)…大涅槃。
    『涅槃経』における譬喩をもって、玄奘三蔵がインドで直に学び、また持ち帰って翻訳された諸般若経の中でも『大般若経』を、栄西は「熟酥の都会」と讃しているのであろう。

  30. 義淨ぎじょう

    [635-713]. 唐僧。法顕や玄奘の渡天に憧れ、ついに自身も南海経由でインドに入って各地の僧院で過ごした人。インドにおける大乗・小乗の僧徒の生活・あり方・律が、実際どのように行われているか等を詳細に記し、『南海寄帰内法伝』を著した。その著の中で、義浄はインドと支那における律への解釈や実際を比較し、道宣とその一門に対する批判を加えたが、当時の支那の律僧にはほとんど無視・黙殺された。それはむしろ後代になってこそ貴重な書として評価され、研究されることとなる。実際、『南海寄帰内法伝』は六、七世紀におけるインドの僧院生活や風習を知る上で、現在は無二ともいえる資料となっている。
    義浄は支那へと帰ってから三蔵としても活動しており、多くの経律を翻訳されたことから義浄三蔵と称される。中インドで新たに展開していた説一切有部の分流たる根本説一切有部の律蔵『根本説一切有部毘奈耶』を請来して訳されているが、栄西はそれを取り上げて「義浄は律蔵の墜文を補綴す」と言ったのであろう。『根本説一切有部毘奈耶』などもまた、現在も律蔵研究・インドの僧院生活研究、そしてまた仏伝研究にも欠かせぬものの一つとなっている。
    栄西は義浄のことを非常に敬していたようで、特に『出家大綱』において『南海寄帰内法伝』にある記録とその見解、さらには『根本有部律』にほとんど全面的に基づき、出家のなんたるかを論じている。このことから、栄西が禅を相承しえた支那における禅院生活を決して至上のものとはしておらず、戒律の実修に際しては、渡航の果たせなかったインドでのそれをこそ規矩としたいとの志があったことが知られる。それは、栄西のやや後代から現代に至るまでの「僧形の儒者」の如きものとなっている禅僧などとは、まったく異なった志向・態度である。室町期から近世、そして現在にいたる禅僧の有り様をもって、栄西の実像を探ろうとすればたちまち大いに誤ることであろう。

  31. 墜文ついもん

    いまだ当地に伝えられていない仏陀の教え、仏典。

  32. 則天そくてん皇后

    則天武后[690-705]。唐代の高宗の皇后。高宗の死後、みずからが皇帝を称して武周朝を立て、唐朝を一時中断させた。支那史上において唯一の女帝。仏教を信仰して諸寺院を庇護、またチベットにも仏像を送っている。
    日本で今も読経する最初などに頻繁に唱えられている「開経偈」は、現在の中国では一般に武則天によって作られたものであるといわれる。

  33. 日羅にちら

    百済の王に仕えた日本人高級官僚[?-583]。敏達天皇十二年〈583〉に天皇の命を受けて帰国するが、その際、百済と外交するにどのようにすべきかその攻略法を上奏したことから、日本にあった百済人に暗殺された。要は日本から百済に差し向けた工作員であった人。
    もっとも、ここで栄西禅師は当時の諸伝承に従い、日羅を百済人の僧であって日本に仏像を実際に伝えた人であり、聖徳太子の師僧であった人であると理解している。

  34. 上宮じょうぐう太子

    聖徳太子〈574-622〉の異称。日本では古来(天平の頃から)、聖徳太子は南嶽慧思の生まれ変わりであったと信じられた。

  35. 衡山こうざん

    支那において古来信仰された五岳の一。現在の湖南省中東部にある霊山。隋の文帝以後、南岳と称された。

  36. 妙經みょうきょう

    『法華経』。「衡山の妙経を取って」とは、慧思の生まれ変わりである聖徳太子が遣隋使を送ったのは、前世の自分(慧思)が南岳(衡山)に秘した『法華経』を掘り起こして日本に将来するためであった、と信じられていたことによる言。

  37. 道璿どうせん

    [702-760]. 唐僧。鑑真に先んじて栄叡・普照から日本への渡航を請われ、天平八年丙子〈736〉に来日。来日後は大安寺に入って日本の僧徒に薫陶を垂れ、『梵網経』の注釈書『註菩薩戒経』三巻を著した。天平勝宝三年辛卯〈751〉には朝廷の請により僧綱に就き律師となった。律に通じて禅観をよくし、特に華厳教学に精通しており、世に華厳尊者とも尊称された。また、天台教学にも通じており、後の最澄にも影響を与えた。後、四大不調のために吉野の比蘇山寺に隠居して没した。

  38. 鑑眞がんじん

    [688-763]. 唐僧。南山律宗および相部宗の律学を伝え、天台教学に通じた学僧。日本に伝律しうる高僧を招来せよとの聖武天皇の勅によって渡航していた栄叡と普照の要請により、日本に仏法を伝えることを決意。十年の歳月を要するも天平勝宝四年〈753〉に来朝、翌五年〈754〉には東大寺大仏殿の前に設えられた戒壇にて聖武上皇・光明上皇后を始めとする僧俗に菩薩戒を授け、また僧には白四羯磨による具足戒(律)を授けた。それによりようやく日本に初めて僧宝が誕生した。

  39. 傳敎でんきょう

    [767-822]. 清和天皇から贈られた最澄の諡号「伝教大師」の略であり、それは日本における大師号の初めであった。日本の天台法華宗の宗祖。

  40. 弘法こうぼう

    [774-835]. 醍醐天皇から贈られた空海の諡号「弘法大師」の略。真言陀羅尼宗祖。

  41. 九宗くしゅう

    鎌倉期の日本で行われた倶舎宗・成実宗・律宗・法相宗・三論宗・華厳宗・天台宗・真言宗そして禅宗の、仏教の全宗派の称。
    平安期初頭に天台と真言とが請来される以前は六宗(南都六宗)、平安期には天台と真言とを加えて八宗となった。それぞれ八宗の優れた概説書として鎌倉後期の碩学、東大寺戒壇院長老の凝然〈1240-1321〉による『八宗綱要』がある。凝然は臨済禅を学んで実際に印可も受けており禅宗を否定していたものでは全くなかったが、古来の八宗という枠組みに無いものであることから付録とした。ただし、浄土は宗としてではなく、あくまで教としてであった。
    そこで九宗について、その語自体はすでに台密の大成者といわれる安然〈841-915〉の著『教時諍論』冒頭において、八宗に(最澄が伝承したところの)禅宗を加えた称として用いられていた。「夫我大日本國有九宗教」(T75. P355a)。もっとも、九宗なる語は当時まったく一般的で無かったのであろう。栄西は安然『教時諍論』を渡宋以前に読み、そこで初めて九宗という言葉を知ったということをその著『興禅護国論』にて記している。ここで栄西は、禅宗が平安の昔から正統なものとして認識されていたことを言わんとして八宗でなく九宗と言ったのであろう。

  42. 求法ぐほう渡海とかい

    仏法を求めて日本海を渡り支那へ行くこと。あるいはその留学僧のこと。「求法の渡海、絶えて三百余年」とは、最澄や空海、常暁など入唐八家と言われる入唐留学僧の中、貞観七年〈865〉に唐より帰った宗叡を最後に、栄西禅師が仁安三年〈1168〉に初めて宋に渡るまでの300年余りの間、海を渡る僧のなかったことを言うもの。実際はその間も幾人かの僧の渡航があったが、特にコレという目立った成果も活動もなく、その故に知られることもなかった。

  43. 遣唐使けんとうし

    舒明二年乙未〈630〉から寛平六年甲寅〈894〉の264年間都合20回(諸説有り)行われた、日本が国として唐へ派遣した使節団。当時は世界に冠たる文明大国、唐から様々な文物を日本へもたらし、日本の政治・文化・宗教・芸術などへ多大なる貢献を果たした。しかし、大使に任じられた菅原道真によってもはや不要であるとの建議がなされて停止され、やがて唐そのものが延喜七年丁卯〈907〉に滅亡したため廃止となった。
    ここで栄西禅師は「遣唐使、停まることまた二百余年」と言うが、実際は遣唐使が停止された寛平六年〈894〉からこの願文が著される元久元年〈1204〉まででちょうど三百十年、すなわち三百余年である。故にこれは底本に「二百余年」とあるが「三百余年」の誤植・誤記であろう。おそらくは「求法の渡海」の最後と「遣唐使」の停止とからが同じく三百余年も経て、天竺および支那など日本が国外から断絶していたことを併記したのであったと思われる。

  44. 澆漓ぎょうり

    澆と漓とは共に「薄い」の意。一般には道徳が退廃することを言うが、ここでは律学が衰亡していることの意。

  45. 梵行ぼんぎょう

    [S]brahma-caryā. ここでbrahma(梵)とは「清らか」を意味し、狭義では特に性欲を制して一切の性行為を断じること。広義には持戒すること。

  46. 比丘びく

    [S]bhikṣu / [P]bhikkhuの音写。苾蒭(びっす)とも。その意は「(食を)乞う者」で、仏教においては具足戒を受けた正式な出家修行者を指す。大僧または乞士と漢訳される。詳しくは別項「比丘 ―仏教徒とは」を参照のこと。

  47. 福田ふくでん

    敬意・信仰に基づいて布施・接待など供養することにより、福徳の果報が返ってくるもの。敬意の対象としては仏・法・僧の三宝、あるいは両親・師など。ここで栄西は、真に尊敬しえて福田たりうる僧宝すなわち僧伽が日本に無いことを憂いこう言う。

  48. 依怙えこ

    頼り。寄す処。

  49. がいせらるべし

    実際、栄西は日本における僧徒の堕落を口にしたことにより、それは禅を広めんとする活動の一環でもあったのだけれども、「則ち害せられるべし」という経験をすでに存分に、嫌というほどしていた。それはほとんど天台宗延暦寺の僧徒らによってなされていたが、ただ政治的妨害・圧迫というだけではなく、物理的に寺を打ち壊し、栄西の命をすら奪わんとする構えであった。これは直接、禅師に関わることではなくその没後二十年弱に生じた事件であったが、その門流の人たる聖一国師円爾などは、禅を憎む天台僧数名に暗殺されかけている。当時の天台僧らの多くは、出家修行者を称していながら殺人をも厭わぬ恐るべき暴虐集団であった。
    栄西は『興禅護国論』において、これは当時のまさしく自身の状況であったのであろうが、このようにいう。「西府有謗家。東洛有障者。欲避無百由旬之地也。欲省躬非智者也。當如之何。雖須再渡巨海晦迹於台岳之雲。唯恨捨吾土利。潤異域之法水乎」、すなわち「西府〈筑紫〉には私を謗る者〈筥崎の良弁〉があり、東洛〈京都〉には妨害する者〈比叡山延暦寺の僧徒〉がある。それらを避けようとは思うけれども、もはやどこにも避けえる所は無く、これを何とかしようと思うけれども、智者でもない私には如何ともしがたい。一体、この事態をどのようにすべきであろうか。あるいは再び海を渡って天台山にかかる雲に身をくらませようかとすら思う。けれども、しかし、我が国を利することを捨てて、異国において仏法を修めることとなるのは遺憾である」。それはまさに天台宗徒の迫害による自身の窮状を悲嘆したものであった。

  50. 善知識ぜんちしき

    仏道に導き、悟りへと誘う師あるいは友。

  51. 奏聞そうもん

    天子(天皇)に申し上げること。奏上に同じ。

  52. 叡慮えいりょ

    天子(天皇)の考え、気持ち。

  53. 高野こうや大師

    空海。ここで栄西が引くのは『秘蔵宝鑰』巻中「能誦能言鸚鵡能為。言而不行何異猩猩」(『定本 弘法大師全集』Vol.3, P135)にある一節。
    栄西は『興禅護国論』でも空海の著作を引用しているが、禅師はただ博覧強記であったというだけではなく、空海のことを篤く尊まってもいた。実際、栄西は天台密教だけではなく真言密教も修めてその法流つらなっていた人であり、また真言を修めるべきことを主張していた。
    今一般には「栄西が天台や真言を併せ修めるように主張していたのは、新来の禅を定着するためのある方便。反対の多かった禅宗を受け入れさせるための融和政策であり、栄西はその本心としてはどこまでも臨済禅の専修を目指していた」などという者があるが、誤認であろう。栄西はただ一宗のみ、一向という褊狭な態度など持っておらず、「日本仏法」の中興を目指していた。

  54. 猩猩しょうじょう

    猿の化け物、妖怪。

  55. 陵替りょうたい

    次第に衰えていくこと。

  56. 兩朝りょうちょうに遊び

    日本と支那。栄西は仁安三年〈1168〉、そして文治三年〈1187〉の二度、宋に渡航した。最初の渡宋はわずか半年、天台山や阿育王山などを訪れるに留まって帰国。二度目の渡海は支那ではなく印度の仏跡巡拝を目指すものであったが国禁により果たせず、しかし天台山および天童山にて臨済禅を相承した。栄西の学問・著作から、その志は支那に留まっておらず印度に向いており、自身が足を踏み入れられなかった印度における様相をよく義浄『南海寄帰内法伝』および『有部律』から読み解こうと勤めていたことが知られる。

  57. りょう僧傳そうでん

    一般に「梁の僧伝」といえば梁代の慧皎『高僧伝』。しかしながら、以下に引かれた一節は『高僧伝』になく、道宣『關中創立戒壇図経』における僧伽跋摩三蔵の伝記を記す中におおよそ一致する。「至元嘉十一年。有僧伽跋摩者。時號三藏法師。與前三藏同至楊都。《中略》 及論受戒。何爲獨出邑外等。咸是善法。何以異耶。答諸部律制互有通塞。唯受戒法重不同餘事。以餘法不成。唯得小罪。罪可懺悔。夫紹隆佛種用消信施。以戒爲本。若不成就。非出家人。障累之源斷滅大法。故異餘者」(T45. P813c)。

  58. 僧伽跋摩そうぎゃばつま

    [S]Saṃghavarman. 印度僧。漢訳名は衆鎧。元嘉十年〈432〉あるいは十一年〈433〉に支那に来訪。その後ただちに多くの僧尼に授戒したことが知られ、戒律に通じた大徳であったといい、支那における比丘尼僧伽創立を主導した。十九年〈442〉までの間に『分別業報略経』や『薩婆多部毘尼摩得勒伽』、『雜阿毘曇心論』など五つの仏典の翻訳に従事した。

  59. 籌策ちゅうさく

    計略、策略。策をめぐらすこと。

  60. 灌頂血脈譜かんじょうけちみゃくふ

    栄西によって授けられた(葉上流に基づく?)灌頂の歴名簿であろう。現存せず。同時期に禅師により著された『斎戒勧進文』に「受灌頂一門衆并有縁道心衆早求出離應勤修齋戒勸進文」とあって、禅師がその一門の衆徒らに灌頂を授けていたことは確実。おそらくその灌頂は伝法灌頂などではなく僧俗并びに授けられた結縁灌頂か受明灌頂であったろうことが、勧進文の内容から推測される。

  61. 億億萬劫ばんこう

    劫は[S]kalpa / [P]kappaの音写、劫波の略。古代インドの時間単位のうち最長のもの。宇宙的長大な時間。

  62. 無間むけん

    無間地獄の略。阿鼻地獄に同じ。無間は[S]avīciの漢訳で「一瞬たりとも間断無い苦しみに苛まれ続ける地獄」とされることによる称。

  63. 賢劫げんごう一千佛

    仏教では現在の宇宙は賢劫(bhadra kalpa)といわれる。そしてこの賢劫、すなわちこの宇宙が生じてから滅するまでの長大な時の間には、千人の仏陀が生じると言われる。釈迦牟尼仏は、賢劫一千仏の中の第五番目であり、今はまだ菩薩で未来に仏陀となるべく下生する彌勒仏は第六番目となる。

  64. 三寶願海さんぼうがんかい

    仏陀(Buddha)・法(Dharma)・僧伽(Saṃgha)の三宝における誓願が、海のように広く、深いことを喩えていう語。ここでは、仏陀あるいは諸菩薩、諸賢聖がすでに建てている衆生済度などの誓願について、また自身の同様の誓願への助力を請じている。

  65. 普賢願王ふげんがんおう

    「普賢大願王」という語は『華厳経』に見られるが、ここでは普賢菩薩自身、あるいは『華厳経』にあるその十大誓願である「普賢行願」を王と称したものか。

  66. 三宗さんしゅう

    禅宗・真言宗・天台宗。ここで栄西が、律あるいは戒について宗として「四宗」と言わないのは、僧侶が戒律を持すことは「至極当たり前」であって本来は宗派など立てるべきもので無いためであろう。実際、南都六宗といわれる場合の律宗とは、そもそも今言われるような意味での宗派ではなく、特に『四分律』やその注釈書を学習する学派・学系であって、往古は南都七大寺それぞれにそれを主とする律学衆があった。
    なお、栄西に遅れること四半世紀ほどに現れた不可棄法師俊芿〈1166-1227〉は、栄西に同じく宋代の天台山に渡って禅宗および天台ならびに戒律(『四分律』および菩薩戒)を修学。帰国して後に泉涌寺(仙遊寺)に入ってからは、後鳥羽上皇など貴族らからの信仰を得ることとなり、密教・禅・天台・浄土の四宗兼学の道場とした(律は常識のものとして宗を挙げられない)。栄西は俊芿が宋より帰朝した際は自ら博多まで出迎えに行き、そして俊芿を建仁寺に招聘して、自身の門人らに対し律の講伝を行ってもらっていたと伝えられている(『不可棄法師伝』)。
    現在、日本仏教においては、専修や一向ということが至極当たり前のように考えられ、存在する各宗派が総じてそのようなあり方をしている。このようなことから、それに引きずられ「宗派とは、そもそも古来そのようなものであった」と理解する者が至極多い。仏教学など文献学者などですらそれを疑問に思わず、当たり前の前提かのようにして仏教史を眺め、語るような者が多くある。何事か仏教の一流を「純粋」に「ただそれだけ」行うことこそ正しく、またそうあるべきだ、などと無意識的に考えているのかもしれない。しかし、本来からすれば、そのようなあり方こそがむしろ異常である。

  67. 群生ぐんじょう

    生けるもの全て。

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