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智慧之大海 ―去聖の為に絶学を継ぐ

義浄 『南海寄帰内法伝』 巻四 (抄)

訓読

南海寄歸内法傳(なんかいききないほうでん)巻第四

唐三藏沙門義淨(ぎじょう)撰

三十四西方學法(さいほうがくほう)

夫(そ)れ大聖(だいしょう)の一音(いっとん)、則ち三千(さんぜん)を貫て總攝(そうしょう)し、或は機に五道(ごどう)に隨(したがう)て、乃(すなわ)ち七九(しちく)を彰(あらわ)して弘濟(ぐさい)す七九とは卽ち是れ聲明の中の七轉九例なり。下に略して明すが如し。

時に意言(いごん)の法藏(ほうぞう)有り。天帝(てんてい)、無説の經を領す。或(ある)は復(ま)た語に順(したがう)て詮を談ず。支那(しな)、本聲(ほんしょう)の字を悟る。縁に投じ慧を發(おこ)して各(おのおの)虚心に稱(かな)はしむることを致す。唯(た)だ義、煩(わづらい)を除き、並に圓寂(えんじゃく)を凝す。勝義諦(しょうぎたい)の理に至ては、逈(はる)かに名言(みょうごん)を絶す。覆俗諦(ふぞくたい)の中、文句(もんぐ)無きに非ず覆俗諦は舊に世俗諦と云ふ。義、盡きず。意の道く俗事は他の眞理を覆ふ。色、本と瓶に非るを妄りに瓶の解を爲す。聲、歌曲無きを漫に歌の心を作す。又復た識、相ひ生ずる時、體、分別無し。無明に蔽はれて妄りに衆形を起す。自心を了せず、鏡、外に居すと謂ふ。蛇繩、並に繆て、正智斯に淪む。此に由て眞を葢ふ。名て覆俗と爲す。此れ覆卽ち是れ俗なるに據て、名て覆俗と爲す。或は但だ眞諦覆諦と云ふべし。

然も則ち古來の譯は梵軌(ぼんき)談(かた)ること罕(まれ)なり。近日(ごんにち)の傳經(でんきょう)、但だ初七(しょしち)を云ふ。知らざるに非ず。益(やく)無しとして論ぜずなり。今ま望くは梵文(ぼんもん)を總習せば、翻譯の重(わづらい)を勞すること無(なけ)ん。此が爲に聊(いささ)か節段(せちだん)を題して粗(あらあら)初基を述(のぶ)る者か然るに骨崙・速利、尚を能く總て梵經を讚ず。豈に況や天府神州にして其の本説を談ぜず。故に西方、讃して云く、曼殊室利、現に并州に在りと。人皆、福有り。理、欽讃すべし。其の文、既に廣し。此に繁く録せず。

夫れ聲明(しょうみょう)とは、梵には攝拖苾馱(しょうだびだ)停夜の反と云ふ。攝拖(しょうだ)は是れ聲(しょう)、苾馱(びだ)は是れ明(みょう)。卽ち五明論(ごみょうろん)の一明(いちみょう)なり。五天(ごてん)の俗書、總じて毗何羯喇拏(びかからな)と名く。大數(だいしゅ)、五つ有り。神州(じんしゅう)の五經(ごけい)に同じ舊には毗伽羅論と云ふ。音訛なり。

一には則ち創學(そうがく)悉談章(しっだんしょう)。亦は悉地(しっぢ)羅窣覩(らそと)と名く。斯れ乃ち小學(しょうがく)標章(ひょうしょう)の稱なり。但し成就(じょうじゅ)吉祥(きっしょう)を以て目(しるし)と爲す。本(も)と四十九(しじゅうく)字有り。共に相ひ乘轉(じょうてん)して一十八章(いちじうはちしょう)を成す。總じて一萬餘字有り。合して三百餘頌なり。凡そ一頌と言は乃ち四句有り。一句八字なれば總じて三十二言を成す。更に小頌・大頌有り。具に述すべからず。六歳の童子、之を學ぶ。六月にして方(まさ)に了(おわ)る。斯(こ)れ乃ち相ひ傳ふ、是れ大自在天(だいじじてん)の所説なりと。

二には蘇呾囉(そたら)と謂ふ。卽ち是れ一切聲明の根本經なり。譯して略詮(りゃくせん)意明(いみょう)と爲す。略して要義を詮ず。一千頌有り。是れ古の博學の鴻儒(こうじゅ)、波尼你(ぱにに)が造る所なり。大自在天の爲に加被せらる。面(おもて)に三目を現ず。時の人、方に信ず。八歳の童子、八月に誦し了る。

三には馱覩章(だとしょう)と謂ふ。一千頌有り。專ら字元を明す。功、上の經の如し。

四には三棄攞章(さんきらしょう)と謂ふ。是れ荒梗(こうこう)の義。意(ここ)ろ、田夫(でんぷ)の創て疇畎(ちゅうけん)を開くに比す。應に三荒章(さんこうしょう)と云ふべし。一には頞瑟吒馱覩(あんしっただと)一千頌ありと名く。二には文荼(もんだ)一千頌ありと名く。三には鄔拏地(うなぢ)一千頌ありと名く。馱覩(だと)とは則ち意(ここ)ろ七例(しちれい)を明し、十羅聲(じうらしょう)を曉(あきらかに)して、二九(にく)の韻(いん)を述ぶ。七例と言はば、一切の聲の上に皆悉く之れ有り。一一の聲の中に、各三節を分つ。謂く一言(いちごん)・二言(にごん)・多言(たごん)なり。總て二十一言を成す。男子を喚(よ)ぶが如き、一人を補嚕灑(ぷるしゃ)と名け、兩人を補嚕稍(ぷるしょう)と名け、三人を補嚕沙(puruṣāḥ)と名く。此の中の聲に呼(こ)・噏(きゅう)・重(じゅう)・輕(きょう)の別有り。七例の外に於て更に呼名(こみょう)の聲(しょう)有り。便ち八例を成す。初の句、既に三あり。餘の皆、此に准(じゅん)ぜよ。繁を恐れて録せず。蘇盤多聲(そばんたしょう)と名く總て三八二十四聲有り。十羅聲とは、十種の羅(ら)字有り。一聲を顯す時、便ち三世の異を明す。二九の韻とは、上中下、尊卑、彼此の別を明す。言に十八の不同有り。丁岸哆聲(ていがんたしょう)と名く。文荼(もんだ)は則ち合して字體(じたい)を成(じょう)ず。且(しばら)く樹(き)の一目の如き、梵には苾力叉(びりきしゃ)と云ふ。便ち二十餘句の經文を引て、共に相ひ雜糅(ぞうじゅう)して、方に一事の號を成す。鄔拏地(うなぢ)、則ち大に斯の例に同じ。而も廣略、等らざるを以て異と爲す。此の三荒章は、十歳の童子、三年勤學して方に其の義を解(げ)す。

五には謂く苾栗底蘇呾羅(びりていそたら)。卽ち是れ前の蘇呾囉(そたら)の釋なり。乃ち上古に釋を作る、其の類、寔(まこと)に多し。中に於て妙(たえ)なる者、十八千頌有り。其の經本を演(の)べ、詳に衆義(しゅぎ)を談じ、寰中(かんちゅう)の規矩(きく)を盡(つく)し、天人の軌則を極む。十五の童子、五歳にして方に解す。

神州の人、若し西方に向て學問を求めば、要(かなら)ず須(すべから)く此を知て方に餘を習ふべし。如し其れ然らざれば、空(むなし)く自ら勞す。斯れ等の諸書、並に須く暗誦(あんじゅ)すべし。此は上人(しょうにん)に據(より)て准じて爲す。中下の流(たぐい)は意を以て測るべし。晝夜(ちゅうや)に翹勤(ぎょうごん)して寧寢(ねいしん)に遑(いとま)あらず。孔父(こうほ)の三絶(さんぜつ)に同く、歳釋(さいしゃく)の百遍(ひゃくへん)に等し。牛毛(ごもう)は千數、麟角(りんかく)は唯だ一なり。功を比するに神州の上經を明むると相ひ似り。此は是れ學士、闍耶昳底(じゃやてつてい)の造る所なり。其の人、乃ち器量、弘深にして、文彩、秀發(しゅうほつ)し、一び聞て便ち領す詎(なん)ぞ再談を假(から)ん。敬て三尊を重(おもん)し、多く福業(ふくごう)を營む。代を沒して今に三十載に向んとす。

斯の釋を閑(なら)ひ已て、方に書(しょ)・表(ひょう)を緝綴(しゅうてい)し、詩篇(しへん)を製造することを學ぶ。想(おもい)を因明(いんみょう)に致し、誠を倶舍(くしゃ)に虔(つつし)む。理門論(りもんろん)を尋て比量(ひりょう)善く成し、本生貫(ほんしょうかん)を習て淸才(しょうさい)秀發(しゅうほつ)す。然して後に函丈(かんじょう)傳授、三二年を經。多は那爛陀寺(ならんだじ)中天也に在り。或は跋臘毘(ばろうび)國西天也に居す。斯の兩處は事、金馬(きんば)・石渠(せききょ)・龍門(りゅうもん)・闕里(けつり)に等し。英彦(えいげん)、雲の如に聚(あつめ)て是非を商搉(しょうかく)す。若し賢明(けんめい)、善と歎じ、遐邇(かじ)、儁(しゅん)と稱して、方に始て自ら鋒鍔(ほうがく)を忖(はか)り、刃(やいば)を王庭に投じ、策を獻じ才を呈して、利用を希望(けもう)す。談論の處に坐(とど)めば、己れ則ち席を重ね奇を表す。破斥(はしゃく)の場に登ては、他(ひと)乃ち舌を結び愧(はぢ)を稱す。響き、五山(ござん)に震ひ、聲、四域(しいき)に流る。然して後に封邑(ほうゆう)を受て班を策し、素を高門(こうもん)に賞し、更に餘業(よごう)を修す。

復た苾栗底蘇呾羅(びりていそたら)の議釋有り。朱你(しゅに)と名く。二十四千頌有り。是れ學士、鉢顛社攞(ぱてんしゃら)が造る所なり。斯れ乃ち重て前の經を顯て、臂肌(ひき)、理を分つ。後釋を詳明にして、毫芒(ごうぼう)を剖折(ぼうせつ)す。明經(みょうきょう)、此を學すこと、三歳にして方に了る。功、春秋(しゅんじゅう)・周易(しゅうえき)と相ひ似たり。

次に伐致呵利論(ばちかりろん)有り。是れ前の朱你(しゅに)の議釋なり。卽ち大學士、伐㨖呵利(ばっちかり)が造る所なり。二十五千頌有り。斯れ則ち盛に人事聲明の要を談じ、廣く諸家興廢の由を叙じ、深く唯識(ゆいしき)を明して善く因喩(いんゆ)を論ず。此の學士は乃ち響き五天(ごてん)に震ひ、德、八極(はちきょく)に流る。徹(あきら)かに三寶(さんぼう)を信じ、諦(あきら)かに二空(にくう)を想ふ。勝法(しょうほう)を希(ねがう)て出家し、纒染(てんぜん)を戀(かわり)て便ち俗となる。斯の往復、數(か)ず七たび有り。深く因果を信ずるにあらずんば、誰か能く此の若(ごと)く勤著(こんじゃく)せん。自ら嗟(なげ)く詩に曰く、染に由て便ち俗に歸り、貪を離て還(ま)た緇(くろぎぬ)を服す。如何(いかん)んぞ兩種(りょうしゅ)の事、我を弄(ろう)して嬰兒(えいじ)の若くなると。卽ち是れ護法師(ごほうし)の同時の人なり。每(つね)に寺内に於て歸俗(きぞく)に心有て、煩惱に逼(せ)められ、確爾(かくじ)として移らざるときは、卽ち學生(がくしょう)をして輿(こし)を寺外(じげ)に向はしむ。時の人、其の故を問ふ。答て曰く、凡そ是の福地(ふくぢ)は本(も)と戒行の所居に擬す。我れ既に内に邪心有り。卽ち是れ正教(しょうぎょう)を虧(か)く。十方の僧地、足を投ずるに處無し。淸信士(しょうしんじ)と爲て身、白衣(びゃくえ)を著し、方(まさ)に寺中に入て正法(しょうぼう)を宣揚す。化(け)を捨てて已來(このかた)、四十年を經たり。

次に薄迦(ばか)抧也の反論有り。頌、七百有り、釋、七千有り。亦是れ伐㨖呵利(ばちかり)の造る所なり。聖教量(しょうぎょうりょう)、及び比量(ひりょう)の義を叙す。

次に蓽拏(ひつな)有り。頌、三千有り、釋、十四千頌有り。乃ち伐㨖呵利(ばちかり)の造る所。釋は則ち護法(ごほう)論師の製(つく)る所なり。謂(いい)つべし、天地の奧祕(おうひ)を窮して人理の精華(せいか)を極むと。若(も)し人と此に至れば、方に善く聲明を解(げす)と曰ふ。九經(くけい)百家(ひゃっか)と相ひ似たり。

斯れ等の諸書、法俗悉く皆通學す。如し其れ學ばざれば、多聞(たもん)の稱を得ず。若し出家の人は則ち遍く毘奈耶(びなや)を學び、具(つぶさ)に經及び論を討(うた)ぬ。外道(げどう)を挫(くじ)くこと中原(ちゅうげん)の鹿を逐(おう)が若く、傍詰(ぼうきつ)を解くこと沸鼎(ふってい)の凌(こおり)を銷(とか)するに同じ。遂に響き贍部(せんぶ)の中に流し、敬て人天の上に受けしむ。佛を助て化を揚げ、廣く羣有(ぐんう)を導く。此れ則ち奕代(えきだい)挺生(ちょうしょう)す。若(もし)は一、若は二、喩(たとえ)を取て日月(にちがつ)に同じ。況(きょう)を表して之を龍象(りゅうぞう)に譬ふ。斯れ乃ち遠(とおく)は則ち龍猛(りゅうみょう)、提婆(だいば)、馬鳴(めみょう)の類ひ、中(なかごろ)は則ち世親(せしん)、無著(むじゃく)、僧賢(そうけん)、淸辯(しょうべん)の徒ら、近(このごろ)は則ち陳那(ぢんな)、護法(ごほう)、法稱(ほうしょう)、戒賢(かいけん)、及び師子月(ししがつ)、安惠(あんね)、德惠(とくえ)、惠護(えご)、德光(とくこう)、勝光(しょうこう)の輩なり。斯れ等の大師、前の内外(ないげ)の衆德を具せずと云こと無(なけ)ん。各(おのおの)並に少欲知足にして誠に與比(よひ)無し。俗流(ぞくる)外道の内、中には此の類、得難し廣は西方十德傳の中に具に述るが如し。法稱(ほうしょう)は則ち重て因明(いんみょう)を顯し、德(とく)は乃ち再び律藏(りつぞう)を弘む。德惠(とくえ)は乃ち定門(じょうもん)、想て澄しめ、惠護(えご)は則ち廣く正邪(しょうじゃ)を辯ず。方に驗(あらわ)るに鯨海(げいかい)の巨深(こしん)、名珍(みょうちん)、彩を現し、香峯(こうぶ)の高峻(こうしゅん)、上藥(じょうやく)、奇を呈す。是に知ぬ、佛法の含弘、何の納れざる所かあらん。響(ひびき)に應じて篇(へん)を成さずと云こと莫(な)し。寧ろ十四の足を煩(わずらわさ)んや。百遍を勞すること無く、兩卷一(ひとた)び聞て便ち領(りょう)す有る外道、六百頌を造て、來て護法師を難ず。法師、衆に對して一び聞て文義倶に領す。

又、五天の地、皆婆羅門(ばらもん)を以て貴勝(きしょう)と爲す。凡(およ)そ有(あらゆ)る座席に並に餘(よ)の三姓(さんしょう)と同く行かず。自外(じげ)の雜類(ぞうるい)、故に宜く遠くすべし。所尊の典、誥(こう)に四薜陀(しべいだ)の書有り。十萬頌ばかり。薜陀(べいだ)は是れ明解(みょうげ)の義。先に圍陀(いだ)と云ふは訛(あやまり)なり。咸(み)な悉(ことごと)く口づから相(あ)ひ傳授(でんじゅ)して之を紙葉(しよう)に書(しょ)せず。每(つね)に聰明(そうめい)の婆羅門(ばらもん)有て、斯の十萬を誦す。卽ち西方の如んば、相承して聰明(そうめい)を學ぶ法有り。一には謂く生覆(しょうふ)審智(しんち)。二には則ち字母(じも)安神(あんじん)。旬月(じゅんがつ)の間に思ひ泉涌(せんにゅう)の若く、一び聞て便ち領す。再談を假ること無し。親(したし)く其の人を覩(み)る。固(まこと)に虚(いつわり)に非るのみ。東印度に於て、一(ひと)りの大士(だいし)有り。名て月官(がつかん)と日ふ。是れ大才雄(だいさいゆう)の菩薩(ぼさつ)の人なり。淨(じょう)到るの日、其の人、尚(な)を存す。或が之に問て曰く。毒境(どくきょう)と毒藥(どくやく)、害を爲すこと、誰(いず)れが重しと爲る。聲に應じて答て曰く、毒藥と毒境、相ひ去ること實に遙(とおき)ことを成す。毒藥は餐(さん)して方に害し、毒境は念じて便ち燒くと。

又復た騰蘭(とうらん)、乃ち芳(ほう)を東洛(とうらく)に震ひ、眞帝(しんたい)、則ち響(ひびき)を南溟(なんめい)に駕す。大德羅什(らじゅう)、德匠(とくしょう)を他土に致し、法師玄奘(げんじょう)、師功を自邦(じほう)に演ぶ。然るに今古の諸師、並に佛日を光傳す。有(う)・空(くう)、齊(ひとし)く致るときは三藏を習て、以て師と爲し、定(じょう)・慧(え)雙(なら)べ修すときは七覺(しちかく)を指して匠(しょう)と爲す。其の西方に現在するには、則ち羝羅荼寺(ていらだ)には智月(ちがつ)法師有り。那爛陀の中には則ち寶師子(ほうしし)大德、東方には卽ち地婆羯羅蜜呾囉(ぢばがらみったら)有り。南𮖭(なんけい)には呾他掲多掲娑(たたがたげちば)有り。南海(なんかい)の佛誓國(ぶっせいこく)には則ち釋迦雞栗底(しゃかけいりて)有り今ま現に佛誓國に在り。五天歴て廣く學ぶ。斯れ並に秀(ひづ)を前賢に比し、蹤(あと)を往哲に追ふ。因明論(いんみょうろん)を曉(あらわし)て則ち陳那(ぢんな)に擬(なずらう)ことを思ひ、瑜伽(ゆが)の宗を味(あじわい)て、實に懷(おもい)を無著(むじゃく)に罄(つく)す。空を談ずるとき則ち巧(たくみ)に龍猛(りゅうみょう)に符(しる)し、有を論(いう)ときは則ち妙に僧賢(そうけん)に體(もと)とす。此の諸(もろもろ)の法師、淨(じょう)、並(ならび)に親く筵机(えんき)に狎(なら)し、微言(びごん)を餐受(さんじゅ)す。新知(しんち)を未聞(みもん)に慶(よろこ)び、舊解(きゅうげ)を曾得(そうとく)に温(たづ)ぬ。傳燈(でんとう)の一望(いちもう)を想て實に朝聞(ちょうもん)を喜び、蕩塵(とうじん)の百疑(ひゃくぎ)を冀(こいねがう)て、則分に昏滅(こんめつ)に隨ふ。尚(ねがう)て乃ち遺珠(ゆいしゅ)を鷲嶺(じゅりょう)に拾(ひろ)ひ、時に其の眞を得。散寶(さんぼう)を龍河(りゅうが)に擇(えらん)で、頗(すこぶ)る其の妙に逢(あ)ふ。仰(あおい)で三寶の遠被(おんぴ)を蒙(こうむ)り、皇澤(おうたく)の遐霑(かてん)に頼で、遂に踵(きびす)を旋じて東歸(とうき)し、帆を南海に鼓ことを得。耽摩立底(たんまりってい)國從り已に室利(しり)佛誓(ぶっせい)に達す。停住(ちょうじゅう)すること已に四年を經、留連(るれん)して未だ歸國に及ばず。

現代語訳

南海寄帰内法伝(なんかいききないほうでん)巻第四

唐三蔵沙門義浄(ぎじょう)撰

三十四西方学法(さいほうがくほう)

そもそも大聖(だいしょう)の(説かれる言葉は、たとえ)一音(いっとん)〈一言〉であっても、三千(さんぜん)世界を貫いて総摂(そうしょう)し、あるいは(それぞれ生けるものの)機〈状況・能力〉の五道(ごどう)〈地獄・餓鬼・畜生・人・天〉(の異なり)にしたがって、すなわち七九(しちく)を彰(あらわ)して弘済(ぐさい)〈広く世の生けるものを救うこと〉する七九とは声明における七転九例である。以下に略して明らかにする通り。

ところで、意言(いごん)の法蔵(ほうぞう)〈仏陀の心中にあって公開されない真理の集積〉がある。天帝(てんてい)〈Indra. 帝釈天〉は「無説の経」〈いまだ仏陀が説かれていない教え〉を領(あづか)っている。あるいはまた言葉に順(したが)って詮(みち)を談じている。そこで支那(しな)でも本声(ほんしょう)〈梵文による仏教〉の字を悟るのだ。(仏教に初めて触れる)縁に身を任せて智慧を発(おこ)し、各々(おのおの)虚心に(その実義に)称(かな)わせる。ただその義理は(我々人の)煩(わづらい)を除き、いずれも円寂(えんじゃく)〈涅槃〉を成すのだ。勝義諦(しょうぎたい)の理は逈(はる)かに名言(みょうごん)〈言語表現〉を絶っている。(しかしながら一方、)覆俗諦(ふぞくたい)には文句(もんぐ)〈言説〉が無いことはない覆俗諦は古くは世俗諦といったが、それでは(その)意味を完全に表しえていない。その意は「俗事が他の真理を覆う」というものである。ただ色(物質)であって、元から瓶でないものを妄りに「瓶である」と理解する。ただ声(音)であって、歌曲でないものを漫りに「歌である」との思いをいたす。また、識が共に生じる時、その本質としては分別など無いものを、無明に蔽われて妄りに諸々の形があるとの想いを起こす。自らの心を理解せず鏡が外にあると謂う。蛇と繩とを誤認し(また縄が有るなどと思って)いずれも誤って正智はこうして淪む。これに由って真理を葢うことから「覆俗」という。この覆とは俗であることに拠って「覆俗」という。あるいはただ真諦・覆諦と言うべきである。

しかも古来の訳〈迦葉摩騰や鳩摩羅什など古訳や旧訳の三蔵〉は、梵軌(ぼんき)〈印度の学則、または梵語の文法〉を談(かた)ることはほとんどなかった。近年の伝経(でんきょう)(の僧は)、ただ初七(しょしち)〈七転(七例)〉を云ったのみである。(それは彼らが梵語の文法を)知らないからではない。(そうしたところで)益(やく)など無いと論じないのだ。今、(私が)望むのは、梵文(ぼんもん)を(支那の仏僧らが)総合的に学んだならば、翻訳の重(わづらい)によって労することがなくなるであろう、ということにある。その為に、聊(いささ)かながら(「西方学法」という)節段(せちだん)を題して、粗々(あらあら)その初基〈基本〉を述べていきたい然るに(蛮夷である)崑崙や速利国でもなお、よく総て梵経を讚歎するのだ。どうして天府の神州たる(支那が)その本説を談じないことがあろうか。故に西方では讃じて云うのだ、「曼殊室利(文殊師利)が現に并州に在る。(支那の)人は皆な福があって、その理は欽讃すべきものである」と。その(印度にて支那を讃嘆する)文は詳細なものである。ここに繁く記録しない。

そもそも声明(しょうみょう)とは、梵語でśabda(シャブダ)-vidyā(ヴィドヤー)〈攝拖苾馱〉と云ふ。śabda(シャブダ)とは声(しょう)、vidyā(ヴィドヤー)は明(みょう)。すなわち五明論(ごみょうろん)〈古代印度における伝統的五種の学問〉の一明(いちみょう)である。五天(ごてん)の俗書では、総じてこれをvyākaraṇa(ビャーカラナ)〈毗何羯喇拏〉という。おおよそその数に五つあって、神州(じんしゅう)の(儒教における)五経(ごけい)と同様である古くは『毗伽羅論』と云うが音訛である。

その第一はすなわち『創学(そうがく)悉談章(しっだんしょう)』、またはSiddhi(シッディ)rastu(ラストゥ)〈悉地羅窣覩〉という。これはすなわち小学(しょうがく)標章(ひょうしょう)の称である。ただ(その意図は)「成就(じょうじゅ)吉祥(きっしょう)」を目(もく)したものだ。(梵字には)その根本となるものに四十九(しじゅうく)字がある。それらを互いに組み合わせて十八章(じうはちしょう)を形成する。総じて一万余字あって、合わせて三百余頌となる。およそ一頌と言えば四句ある。そして一句は八字であるから、総じて三十二言となる。(しかし、他にも)さらに小頌・大頌があって、具さに述べることはできない。六歳の童子がこれを学び、六ヶ月にして方(まさ)に了(おわ)る。これは相伝によれば、大自在天(だいじじてん)の説いたものである、とのことだ。

その第二はSūtra(スートラ)〈蘇呾囉〉という。すなわちこれが一切声明の根本経である。訳して「略詮(りゃくせん)意明(いみょう)」といい、略してその要義を詮(あきら)かにするものだ。一千頌ある。これは古の博学の鴻儒(こうじゅ)〈大学者〉、Pāṇini(パーニニ)〈波尼你〉が造ったものであり、大自在天〈Maheśvara〉の加護のもとなされた。(大自在天の)面(かお)には三つの目をあると、今の人は信じている。八歳の童子が八ヶ月で誦し了る。

その第三はDhātu(ダートゥ)〈馱覩章〉という。一千頌ある。もっぱら字元〈語根〉を明かしたもの。その功、上述の経に同様である。

その第四はKhila(キラ)〈三棄攞章〉といい、これは荒梗(こうこう)〈荒野〉の義である。その意(こころ)は、田夫(でんぷ)が創めて疇畎(ちゅうけん)を開墾するのに(童子が学問の道を開いていくのに)比す(題目である)。まさに(漢訳して)「三荒章(さんこうしょう)」と言うべきもの。(その三とは)一つにはAṣṭadhātu(アシュタダートゥ)〈頞瑟吒馱覩〉一千頌ありという。二つにはMuṇḍa(ムンダ)〈文荼〉一千頌ありという。三にはUṇādi(ウナーディ)〈鄔拏地〉一千頌ありという。Dhātu(ダートゥ)〈馱覩.Aṣṭadhātu〉とは則ち、その意(こころ)は七例(しちれい)を明かし、十羅声(じうらしょう)〈動詞の十種の活用〉を曉(あきらか)にして、二九(にく)の韻(いん)〈動詞を作るために語根に加える十八の人称語尾〉を述べたもの。七例とは、すべての声〈名詞・形容詞〉の上に皆悉くあるもの。一つ一つの声の中に各々三節を分かつ。いわゆる一言(いちごん)〈単数〉・二言(にごん)〈両数〉・多言(たごん)〈複数〉である。総じて二十一言となる。(例えば)男子〈puruṣa. 男性名詞〉についてこれを言えば、一人をpuruṣaḥ(プルシャッ)〈補嚕灑〉と名け、兩人をpuruṣau(プルシャウ)〈補嚕稍〉と名け、三人をpuruṣāḥ(プルシャーッ)〈補嚕沙〉とする。この中の声〈発音〉には、呼(こ)・噏(きゅう)・重(じゅう)・軽(きょう)の別がある。七例の他に、更に呼名(こみょう)の声(しょう)〈呼格.vocative〉がある。すなわち(七例にこれを足して)八例となる。初めの句〈体格.Nominative〉として三〈単数・両数・複数〉を示したが、他のすべて(の名詞・形容詞)もこれに准(じゅん)ぜよ。(これ以上は)繁を恐れて録さない。(これを)subanta(スバンタ)〈蘇盤多聲〉という総じて三八、二十四声がある。「十羅聲」とは十種の羅(ら)字〈la(la)〉があり、一声を顕す時にすなわち(過去・現在・未来の)三世の(時制の)異なりを明らかにするもの。「二九の韻」とは、上中下、尊卑、彼此の別を明らかにするもので、その言に十八の不同がある。これをtiṅanta (ティナンタ)〈丁岸哆聲〉という。Muṇḍa(ムンダ)とは合して字体(じたい)を成す方法を述べたものである。今仮に「樹(き)」という一つの語の成立について言えば、梵語ではvṛkṣa(ヴィリクシャ)〈苾力叉〉と云うが、そこで(Pāṇini(パーニニ)の)二十余句の経文を引きつつ、(vṛkṣa(ヴィリクシャ)の語根である√vraścを)互いに相交えて、まさに一事の名詞を形成する(理論と課程を説き示す)。Uṇādi(ウナーディ)もすなわち大いにその例〈Muṇḍa〉に同じである。しかし(そこには)広・略あって、同じでないことから(書として)異なったものとしている。この「三荒章」は、十歳の童子が三年勤学してまさにその義を解(げ)す。

その第五は、謂わくVṛttisūtra(ヴリッティスートラ)〈苾栗底蘇呾羅〉、すなわちこれは前のSūtra(スートラ)〈蘇呾囉〉の注釈書である。すなわち、上古に注釈書が作られ、その類は実に多かったが、その中でも妙(たえ)なるもので一万八千頌ある。その経本について演(の)べて詳細にその衆義(しゅぎ)を談じ、寰中(かんちゅう)〈宇宙〉の規矩(きく)を盡(つく)し、天人の軌則を極めている。十五の童子が五年をかけ、まさに解す。

神州の人で、もし西方に向かって学問を求めるならば、要(かなら)ず須(すべから)くこれを知ってから、まさに他を習うべきである。もしそうしなければ、空(むなし)く自ら徒労するに終わるであろう。これら等の諸書は、いずれも須く暗誦(あんじゅ)すべきである。(もっとも、)これは上人(しょうにん)〈機根の優れた人〉に依って准じいったものであり、(その能力が)中・下の流(たぐい)であれば、その(修学期間や方法について)意を測れ。昼夜(ちゅうや)に精勤して寧寝(ねいしん)〈静かに寝ること〉する遑(いとま)などない。孔父(こうほ)の三絶(さんぜつ)〈韋編三絶〉に同じく、歳釋(さいしゃく)の百遍(ひゃくへん)〈読書百徧にして義、自ら見る〉に等しい。牛毛(ごもう)は幾千ほどの数はあるが、麟角(りんかく)はただ一つである。その功を比するとすれば、神州の上経(じょうきょう)〈『周易』上経三十卦か?〉を明らめるのと相い似たものである。これ〈Kāśikāvṛtti〉は学士、Jayāditya(ジャヤーディトヤ)〈闍耶昳底〉が造ったものである。その人の器量は弘く深くして、その文彩は秀発(しゅうほつ)であり、(何事か)一たび聞いたならばたちまち理解するほどで、どうして再び談らせる必要があったろうか。敬って三尊〈三宝〉を重(おもん)じ、多く福業(ふくごう)を営んだ。その生涯を終えてから、今は三十年にもなろうかとしている。

その注釈を閑(なら)い終わったならば、まさに書(しょ)・表(ひょう)を緝綴(しゅうてい)〈集めて綴ること〉し、詩篇(しへん)を(自ら)造ることを学ぶ。想(おも)いを因明(いんみょう)〈hetu-vidyā. 論理学〉に向け、その誠を倶舍(くしゃ)〈Abhidharmakośa-bhāṣya. 『阿毘達磨倶舎論』〉に留める。理門論(りもんろん)〈Nyāyamukha. 『因明正理門論』〉を尋ねて比量(ひりょう)〈anumāna. 推論〉を善く成し、本生貫(ほんじょうかん)〈Jātakamālā. 本生譚〉を習って清才(しょうさい)を秀發(しゅうほつ)とする。そうして後に函丈(かんじょう)〈師に親しく就くこと〉してその伝授をうけること六年を経る。その多くはNālandā(ならんだじ)〈那爛陀寺〉中天也に在る。あるいはValabhī(ヴァラビー)国〈跋臘毘国〉西天也に居す。これら両処は、(支那の)金馬(きんば)・石渠(せききょ)・龍門(りゅうもん)・闕里(けつり)に等しい。英彦(えいげん)〈英才〉が雲のように聚(あつま)って、(真理についての)是非を商搉(しょうかく)〈比較し考察すること〉している。もしその賢明(けんめい)なることが、(周囲から)「善い哉」と歎じられ、遐邇(かじ)〈遠所と近所〉に「儁(しゅん)である」と称賛されたならば、まさに始めて自ら鋒鍔(ほうがく)〈鋭い刀剣〉(に比せられる智慧)を忖(はか)って、その刃(やいば)を王庭〈王宮〉に投じ、策を献じその才を呈して、(智者として)用いられることを希望(けもう)する。談論の処に坐したならば、自ら席を重ねてその奇才を表す。破斥(はしゃく)〈論争〉の場に登ったならば、他(ひと)は舌を結んで沈黙し、愧(はじ)入るばかりとなる。(その名は高く天下に)響いて五山(ござん)に震い、その名声は四域(しいき)に流れる。そうして後に封邑(ほうゆう)〈領地〉を受けて班〈官位〉を与えられ、素〈平民の出〉ながらも高門(こうもん)〈名門・名家〉に賞せられ、さらに余業(よごう)も修めていくのだ。

またVṛttisūtra(ヴリッティスートラ)〈苾栗底蘇呾羅〉にも議釈〈注釈書〉がある。Cūrṇi(チュールニ)〈朱你〉といって二十四千頌ある。これは学士、Patañjali(パタンジャリ)〈鉢顛社攞〉が造ったものである。これはすなわち重ねて前の経〈PāṇiniのSūtra〉を明らかにするものであり、臂肌(ひき)〈?〉、理を分かっている。後の釈〈vṛttisūtra. 特にKāśikāvṛtti〉を詳しく明らかにし、毫芒(ごうぼう)〈極めて微細な点〉をも剖折(ぼうせつ)している。経を明らかにするためこれを学ぶこと三年にしてまさに了る。その功は、(支那の)『春秋(しゅんじゅう)』や『周易(しゅうえき)』と相い似ている。

次にBhartṛhari(バルトリハリ)の論書〈Mahābhāṣyadīpikā. 伐致呵利論〉がある。これは前のCūrṇi(チュールニ)〈朱你〉の議釈である。すなわち大学士、Bhartṛhari(バルトリハリ)〈伐㨖呵利〉が造ったものであり、二万五千頌ある。これはすなわち盛んに人事と声明の要を談じ、広く諸家興廃の由を叙べ、深く唯識(ゆいしき)を明らかにして善く因喩(いんゆ)を論じている。この学士の名は響いて五天(ごてん)〈全印度〉に震い、その徳は八極(はちきょく)〈八方〉に流れている。徹(あきら)かに三宝(さんぼう)を信じ、諦(あきら)かに二空(にくう)〈人法二空。大乗の空〉を想う。勝法(しょうほう)〈優れた教え. 仏教〉を希(ねが)って出家し、しかし纒染(てんぜん)〈煩悩〉を(捨てきれずに)恋(とどめ)て還俗した。この(出家と還俗の)往復の数(かず)は七度に至っている。(それはむしろ)深く因果を信ずているのでなければ、誰がよくこのように(出家と在家の二つの世界に)勤著(こんじゃく)するであろうか。それを自ら嗟(なげ)く詩には、「染に由って便ち俗に帰り、貪を離れて還(ま)た緇(くろぎぬ)〈袈裟衣〉を服す。どうしたらよいのであろうか、この両種(りょうしゅ)〈出家と在家〉の事を。私を弄(もてあそ)ぶこと嬰兒(えいじ)のようである」と。すなわちこれ護法(ごほう)師〈Dharmapāla〉と同時の人である。(出家しても)每(つね)に寺の中で帰俗(きぞく)〈還俗〉への心があって、煩惱に逼(せ)められ、それが止みがたく確固として移ろわない時には、たちまち(寺の)学生(がくしょう)に命じて輿(こし)を寺外(じげ)に向かわせた。当時の人が(何故に寺の外に向かうのか)その理由が問うと、(彼が)答えて言うには、「およそこの(出家という)福地(ふくぢ)は元来、戒行の居る所に擬せられている。私はすでに内に邪心がある。すなわち、これは正教(しょうぎょう)を虧(か)いたものである。(そんな私に)十方の僧地で足を投ずる所など無い」とのことであった。(そこで彼は)清信士(しょうしんじ)〈upāsaka. 優婆塞〉となって、その身に白衣(びゃくえ)をまとい、(そうしたかと思えば、再び)まさに寺中に入て(出家し)正法(しょうぼう)を宣揚したのである。(彼が没して)化(け)を捨てて以来(このかた)、四十年を経ている。

次にVākyapadīya(ヴァーキャパディーヤ)〈薄迦論〉があって、その頌に七百がある。その注釈は七千ある。またこれもBhartṛhari(バルトリハリ)〈伐㨖呵利〉の造ったものである。聖教量(しょうぎょうりょう)〈聖者・聖典の言葉を事物の本質を知るための根拠とすること〉、及び比量(ひりょう)の義を叙べたものである。

次にPrakīrṇaka(プラキールナカ)〈蓽拏〉がある。頌に三千ある。その注釈は一万四千頌ある。すなわちBhartṛhari(バルトリハリ)〈伐㨖呵利〉の造ったもので、その注釈は護法(ごほう)論師が製(つく)ったものである。謂(い)うべし、天地の奧祕(おうひ)を窮めて人理の精華(せいか)を極めたものであると。もし人がこの書にまで(その学問を)至らせたならば、まさに善く声明を解(げ)したとされる。(それはあたかも、支那の)九経(くけい)〈『詩経』・『書経』・『易経』・『儀礼』・『礼記』・『周礼』・『春秋左氏伝』・『春秋公羊伝』・『春秋穀梁伝』〉の百家(ひゃっか)〈多くの学者〉と相い似たものである。

これ等の諸書は、法俗〈出家・在家〉が悉く皆、共通して学ぶ。もしそれを学ばないとしたならば、多聞(たもん)〈博学・識者〉の称を得ることはない。もし出家の人ならば(先ずは)遍くVinaya(ヴィナヤ)〈毘奈耶.律〉を学び、具(つぶさ)に経および論を討(う)つ。外道(げどう)を挫(くじ)くこと、あたかも中原(ちゅうげん)の鹿を逐(おう)〈帝位を巡って戦うこと〉ようなものであり、傍詰(ぼうきつ)〈批判・論難〉を解くことはあたかも沸鼎(ふってい)が凌(こおり)を銷(とか)すようなものである。遂には(その学徳ある名は)響いて贍部(せんぶ)〈Jambu-dvīpa. 南瞻部洲。印度亜大陸〉の中に流布し、敬われて人々と神々の上の座を受けることとなる。仏を助けて教化を揚げて、広く群有(ぐんう)〈衆生・群生〉を導く。それはすなわち奕代(えきだい)〈歴代〉に挺生(ちょうしょう)〈抜きん出た人として生まれ出ること〉している。(時代時代に現れるのは)もしくは一人、もしくは二人であって、喩(たと)えて言うならば日月(にちがつ)のようなもの。その様子を表してこれを龍象(りゅうぞう)〈nāga〉に譬えられる。それはすなわち、遠(とおく)は龍猛(りゅうみょう)〈Nāgārjuna〉、提婆(だいば)〈Āryadeva〉、馬鳴(めみょう)〈Aśvaghoṣa〉の類ひ、中(なかごろ)は則ち世親(せしん)〈Vasubandhu〉、無著(むじゃく)〈Asaṅga〉、僧賢(そうけん)〈Saṃghabhadra〉、清弁(しょうべん)〈Bhāvaviveka〉の徒ら、近(このごろ)は則ち陳那(ぢんな)〈Dignāga〉、護法(ごほう)〈Dharmapāla〉、法称(ほうしょう)〈Dharmakīrti〉、戒賢(かいけん)〈Śīlabhadra〉、及び師子月(ししがつ)〈Siṃhacandra?〉、安惠(あんね)〈Sthiramati〉、德惠(とくえ)〈Guṅamati〉、惠護(えご)〈未詳〉、德光(とくこう)〈Guṇaprabha〉、勝光(しょうこう)〈未詳〉の輩である。これ等の大師は、前の内外(ないげ)の衆徳を具えていないということは無い。各々(おのおの)いずれも少欲知足であって、誠に比類ない。俗流(ぞくる)・外道の内であってもその中にはこの類の人は得難い詳しくは『西方十徳伝』の中にて具さに述べている通り。法称(ほうしょう)はすなわち(陳那の後に)重ねて因明(いんみょう)を顕わし、徳慧(とくえ)はすなわち再び律蔵(りつぞう)を弘めている。徳惠(とくえ)はすなわち定門(じょうもん)を想って(心を)澄ましめ、惠護(えご)はすなわち広く正邪(しょうじゃ)を弁じている。まさに験(あらわ)れるのに鯨海(げいかい)〈大海〉の巨深(こしん)には名珍(みょうちん)〈伝説的財宝〉がその輝きを現し、香峯(こうぶ)〈香酔山〉の高峻(こうしゅん)には上薬(じょうやく)がその奇瑞を呈する(かのようなものである)。ここに知るのである、仏法とは弘大な(真理の)含蓄であることを。何の納められないものなどあろうか。響(ひびき)〈言葉〉に応じて篇(へん)〈書物〉を成さないということなどない。むしろ「十四の足〈何を指したものか不明〉」を煩(わずらわ)すことがあろうか。(読書すること)百遍の労を経ることなど無く、両卷〈何を指したものか不明〉、一(ひとた)び聞けばたちまち領(わか)るある外道が「六百頌」を造り、来たって護法師を論難した。法師は衆に対して一たび聞いて、その文も義も倶に領したのである。

また、五天の地では皆婆羅門(ばらもん)〈brāhmaṇa〉をもって貴勝(きしょう)とする。凡(およ)そ有(あらゆ)る座席において、どんな他の三姓(さんしょう)〈Kṣatriya(士族) / Vaiśya(黎民) / Śūdra(奴婢)〉と同く行かず。それ以外の雑類(ぞうるい)〈avarṇa(不可触賤民)〉は、故に宜く遠ざけなければならない。尊ばれている典誥(てんこう)〈古典〉に四つのVeda(ヴェーダ)〈薜陀〉という書があって十万頌ほどある。Veda(ヴェーダ)とは「明解(みょうげ)」〈√vid(理解する・知る)〉の義。旧訳で「圍陀(いだ)」と云うのは訛(あやまり)である。みな悉く口づから相(あ)い伝授(でんじゅ)しており、これを紙葉(しよう)に書(しょ)すことはない。(いつの時代も)毎(つね)に聰明(そうめい)なる婆羅門(ばらもん)があって、この十万頌を(口承して)誦している。すなわち、西方においては、相承して聰明(そうめい)たることを学ぶ法がある。一つには謂く「生覆(しょうふ)審智(しんち)」。二には則ち「字母(じも)安神(あんじん)」である。旬月(じゅんがつ)〈十日・一月〉の間にその思いは泉が湧くかのようになって一たび聞いてたちまち理解するようになり、再び教わる必要が無い。(私義浄は)実際にその人を覩(み)たけれども、固(まこと)に虚(いつわり)でなかった。東印度において、一(ひと)りの大士(だいし)がある。その名を月官(がつかん)という。それは大才雄(だいさいゆう)の菩薩(ぼさつ)の人であった。浄(じょう)〈義浄〉が(彼の地に)到った日、その人はなお存命であった。ある人が彼に問うて言った、「毒境(どくきょう)〈心に悪をもたらす認識対象。あるいは煩悩に染まった心で対象を認識すること〉と毒薬(どくやく)と、その害をなすことどちらが重いだろうか」と。その声に応じて答えて言うには、「毒薬と毒境とは、互いに(その害の程度という点において)かけ離れたものであること実に遙(はるか)である。毒薬は口に入れればば害となるであろうが、毒境は念じるだけでたちまち燒かれるだから」と。

また、騰蘭(とうらん)〈kāśyapa mātaṅga(迦葉摩騰)と?(竺法蘭)〉は、すなわちその芳名(ほうめい)を東洛(とうらく)〈洛陽〉に震い、真帝(しんたい)〈Paramārtha(真諦)〉は則ち(その高名の)響(ひびき)を南溟(なんめい)〈南海〉から運んだ。大徳羅什(らじゅう)〈Kumārajīva(鳩摩羅什)〉、徳匠(とくしょう)を他土〈支那。羅什の出身は亀茲〉に致し、法師玄奘(げんじょう)は、師功を自邦(じほう)〈自国。支那〉に演べた。そこで今古の諸師はいずれも仏法という太陽の光を伝えるのだ。有(う)・空(くう)〈声聞乗と大乗〉と斉(ひとし)く学ぶ時は三蔵〈経律論.仏典の総称〉を習って師となし、定(じょう)・慧(え)〈三摩地と智慧.止と観〉とを双(なら)べ修めるときは七覚(しちかく)〈七覚支・七菩提分〉をして匠(しょう)としている。その西方に現在もあるのは、すなわち羝羅荼寺(ていらだ)〈原語未詳〉には智月(ちがつ)〈原名未詳〉法師有り。Nālandā(ナーランダー)〈那爛陀〉の中には則ち宝師子(ほうしし)〈Ratnasiṃha?〉大徳、東方にはすなわち地婆羯羅蜜呾囉(ぢばがらみったら)〈Divākaramitra?〉がある。南𮖭(なんけい)には呾他掲多掲娑(たたがたげちば)〈Tathāgatagarbha?〉がある。南海(なんかい)の仏誓国(ぶっせいこく)〈Śrīvijaya〉には則ち釋迦雞栗底(しゃかけいりて)〈Śākyakīrti?〉がある今現に仏誓国にある。五天竺を遍歴して広く学んでいる。彼らはいずれもその秀才を前賢に比され、その蹤(あと)を往哲に追っている。因明論(いんみょうろん)〈論理学書〉を曉(あらわ)しては、すなわち陳那(ぢんな)〈Dignāga〉に擬(なずらう)ことを思い、瑜伽(ゆが)の宗〈瑜伽行唯識〉を味(あじわ)って、実に懐(おもい)を無著(むじゃく)〈Asaṅga〉に罄(つく)す。空を談ずるとき則ち巧(たくみ)に龍猛(りゅうみょう)〈Nāgārjuna〉に符(しる)し、有を論(いう)ときは則ち妙に僧賢(そうけん)〈Saṃghabhadra〉に体(もと)としている。この諸々(もろもろ)の法師は、(私)淨(じょう)〈義浄〉がいずれも親しくその講筵に机を並べ、その微妙なる言葉を味わい受けたのだ。新たな知識を得れば、未だ聞いたことないことと慶(よろこ)び、すでに知る事柄を聴けば、かつてそれを得たときの想いを温(あたた)めた。(仏法の)伝灯(でんとう)という一つの望みを想って、実に「朝聞(ちょうもん)」〈『論語』「朝に道を聞かば夕に死すとも可なり」に基づく表現。後の「昏滅」に掛かる〉を喜び、「蕩塵(とうじん)の百疑(ひゃくぎ)」〈典拠不明。あらゆる疑問を解決すること〉を冀(こいねが)って、すなわち分(さだめ)て昏滅(こんめつ)〈「夕に死」〉に随うのだ。尚(ねが)って、すなわち遺珠(ゆいしゅ)〈仏陀の遺教〉を鷲嶺(じゅりょう)〈Gṛdhrakūṭa(霊鷲山)〉に拾(ひろ)っては、時にその真を得。散宝(さんぼう)〈仏陀の遺教〉を龍河(りゅうが)〈Nairañjanā(尼連禅河)〉に択(えら)んでは、頗(すこぶ)るその妙に逢(あ)う。仰(あおい)で三宝の遠被(おんぴ)を蒙(こうむ)り、皇沢(おうたく)の遐霑(かてん)に頼んで、遂に踵(きびす)を旋らして東帰(とうき)し、帆を南海〈インド洋から東南アジア沿岸部〉に鼓つことが出来た。耽摩立底(たんまりってい)国〈Tāmralipti〉よりすでに室利(しり)仏誓(ぶっせい)〈Śrīvijaya〉に達した。(この地で)停住(ちょうじゅう)することすでに四年を経、留連(るれん)して、いまだ帰国に及ばず。