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Dharmacakra
智慧之大海 ―去聖の為に絶学を継ぐ

義浄 『南海寄帰内法伝』 巻四 (抄)

訓読

南海寄歸内法傳なんかいききないほうでん巻第四

唐三藏沙門義淨ぎじょう

三十四西方學法さいほうがくほう

大聖だいしょう一音いっとん、則ち三千さんぜんを貫て總攝そうしょうし、或は機に五道ごどうしたがうて、すなわ七九しちくあらわして弘濟ぐさい七九とは卽ち是れ聲明の中の七轉九例なり。下に略して明すが如し

時に意言いごん法藏ほうぞう有り。天帝てんてい、無説の經を領す。あるた語にしたがうて詮を談ず。支那しな本聲ほんしょうの字を悟る。縁に投じ慧をおこしておのおの虚心にかなはしむることを致す。だ義、わづらいを除き、並に圓寂えんじゃくを凝す。勝義諦しょうぎたいの理に至ては、はるかに名言みょうごんを絶す。覆俗諦ふぞくたいの中、文句もんぐ無きに非ず覆俗諦は舊に世俗諦と云ふ。義、盡きず。意の道く俗事は他の眞理を覆ふ。色、本と瓶に非るを妄りに瓶の解を爲す。聲、歌曲無きを漫に歌の心を作す。又復た識、相ひ生ずる時、體、分別無し。無明に蔽はれて妄りに衆形を起す。自心を了せず、鏡、外に居すと謂ふ。蛇繩、並に繆て、正智斯に淪む。此に由て眞を葢ふ。名て覆俗と爲す。此れ覆卽ち是れ俗なるに據て、名て覆俗と爲す。或は但だ眞諦覆諦と云ふべし

然も則ち古來の譯は梵軌ぼんきかたることまれなり。近日ごんにち傳經でんきょう、但だ初七しょしちを云ふ。知らざるに非ず。やく無しとして論ぜずなり。今ま望くは梵文ぼんもんを總習せば、翻譯のわづらいを勞することなけん。此が爲にいささ節段せちだんを題してあらあら初基をのぶる者か然るに骨崙・速利、尚を能く總て梵經を讚ず。豈に況や天府神州にして其の本説を談ぜず。故に西方、讃して云く、曼殊室利、現に并州に在りと。人皆、福有り。理、欽讃すべし。其の文、既に廣し。此に繁く録せず

夫れ聲明しょうみょうとは、梵には攝拖苾馱しょうだびだ停夜の反と云ふ。攝拖しょうだは是れしょう苾馱びだは是れみょう。卽ち五明論ごみょうろん一明いちみょうなり。五天ごてんの俗書、總じて毗何羯喇拏びかからなと名く。大數だいしゅ、五つ有り。神州じんしゅう五經ごけいに同じ舊には毗伽羅論と云ふ。音訛なり

一には則ち創學そうがく悉談章しっだんしょう。亦は悉地しっぢ羅窣覩らそとと名く。斯れ乃ち小學しょうがく標章ひょうしょうの稱なり。但し成就じょうじゅ吉祥きっしょうを以てしるしと爲す。四十九しじゅうく字有り。共に相ひ乘轉じょうてんして一十八章いちじうはちしょうを成す。總じて一萬餘字有り。合して三百餘頌なり。凡そ一頌と言は乃ち四句有り。一句八字なれば總じて三十二言を成す。更に小頌・大頌有り。具に述すべからず。六歳の童子、之を學ぶ。六月にしてまさおわる。れ乃ち相ひ傳ふ、是れ大自在天だいじじてんの所説なりと。

二には蘇呾囉そたらと謂ふ。卽ち是れ一切聲明の根本經なり。譯して略詮りゃくせん意明いみょうと爲す。略して要義を詮ず。一千頌有り。是れ古の博學の鴻儒こうじゅ波尼你ぱににが造る所なり。大自在天の爲に加被せらる。おもてに三目を現ず。時の人、方に信ず。八歳の童子、八月に誦し了る。

三には馱覩章だとしょうと謂ふ。一千頌有り。專ら字元を明す。功、上の經の如し。

四には三棄攞章さんきらしょうと謂ふ。是れ荒梗こうこうの義。こころ、田夫でんぷの創て疇畎ちゅうけんを開くに比す。應に三荒章さんこうしょうと云ふべし。一には頞瑟吒馱覩あんしっただと一千頌ありと名く。二には文荼もんだ一千頌ありと名く。三には鄔拏地うなぢ一千頌ありと名く。馱覩だととは則ちここ七例しちれいを明し、十羅聲じうらしょうあきらかにして、二九にくいんを述ぶ。七例と言はば、一切の聲の上に皆悉く之れ有り。一一の聲の中に、各三節を分つ。謂く一言いちごん二言にごん多言たごんなり。總て二十一言を成す。男子をぶが如き、一人を補嚕灑ぷるしゃと名け、兩人を補嚕稍ぷるしょうと名け、三人を補嚕沙puruṣāḥと名く。此の中の聲にきゅうじゅうきょうの別有り。七例の外に於て更に呼名こみょうしょう有り。便ち八例を成す。初の句、既に三あり。餘の皆、此にじゅんぜよ。繁を恐れて録せず。蘇盤多聲そばんたしょうと名く總て三八二十四聲有り。十羅聲とは、十種の字有り。一聲を顯す時、便ち三世の異を明す。二九の韻とは、上中下、尊卑、彼此の別を明す。言に十八の不同有り。丁岸哆聲ていがんたしょうと名く。文荼もんだは則ち合して字體じたいじょうず。しばらの一目の如き、梵には苾力叉びりきしゃと云ふ。便ち二十餘句の經文を引て、共に相ひ雜糅ぞうじゅうして、方に一事の號を成す。鄔拏地うなぢ、則ち大に斯の例に同じ。而も廣略、等らざるを以て異と爲す。此の三荒章は、十歳の童子、三年勤學して方に其の義をす。

五には謂く苾栗底蘇呾羅びりていそたら。卽ち是れ前の蘇呾囉そたらの釋なり。乃ち上古に釋を作る、其の類、まことに多し。中に於てたえなる者、十八千頌有り。其の經本をべ、詳に衆義しゅぎを談じ、寰中かんちゅう規矩きくつくし、天人の軌則を極む。十五の童子、五歳にして方に解す。

神州の人、若し西方に向て學問を求めば、かならすべからく此を知て方に餘を習ふべし。如し其れ然らざれば、むなしく自ら勞す。斯れ等の諸書、並に須く暗誦あんじゅすべし。此は上人しょうにんよりて准じて爲す。中下のたぐいは意を以て測るべし。晝夜ちゅうや翹勤ぎょうごんして寧寢ねいしんいとまあらず。孔父こうほ三絶さんぜつに同く、歳釋さいしゃく百遍ひゃくへんに等し。牛毛ごもうは千數、麟角りんかくは唯だ一なり。功を比するに神州の上經を明むると相ひ似り。此は是れ學士、闍耶昳底じゃやてつていの造る所なり。其の人、乃ち器量、弘深にして、文彩、秀發しゅうほつし、一び聞て便ち領すなんぞ再談をからん。敬て三尊をおもんし、多く福業ふくごうを營む。代を沒して今に三十載に向んとす。

斯の釋をならひ已て、方にしょひょう緝綴しゅうていし、詩篇しへんを製造することを學ぶ。おもい因明いんみょうに致し、誠を倶舍くしゃつつしむ。理門論りもんろんを尋て比量ひりょう善く成し、本生貫ほんしょうかんを習て淸才しょうさい秀發しゅうほつす。然して後に函丈かんじょう傳授、三二年を經。多は那爛陀寺ならんだじ中天也に在り。或は跋臘毘ばろうび西天也に居す。斯の兩處は事、金馬きんば石渠せききょ龍門りゅうもん闕里けつりに等し。英彦えいげん、雲の如にあつめて是非を商搉しょうかくす。若し賢明けんめい、善と歎じ、遐邇かじしゅんと稱して、方に始て自ら鋒鍔ほうがくはかり、やいばを王庭に投じ、策を獻じ才を呈して、利用を希望けもうす。談論の處にとどめば、己れ則ち席を重ね奇を表す。破斥はしゃくの場に登ては、ひと乃ち舌を結びはぢを稱す。響き、五山ござんに震ひ、聲、四域しいきに流る。然して後に封邑ほうゆうを受て班を策し、素を高門こうもんに賞し、更に餘業よごうを修す。

復た苾栗底蘇呾羅びりていそたらの議釋有り。朱你しゅにと名く。二十四千頌有り。是れ學士、鉢顛社攞ぱてんしゃらが造る所なり。斯れ乃ち重て前の經を顯て、臂肌ひき、理を分つ。後釋を詳明にして、毫芒ごうぼう剖折ぼうせつす。明經みょうきょう、此を學すこと、三歳にして方に了る。功、春秋しゅんじゅう周易しゅうえきと相ひ似たり。

次に伐致呵利論ばちかりろん有り。是れ前の朱你しゅにの議釋なり。卽ち大學士、伐㨖呵利ばっちかりが造る所なり。二十五千頌有り。斯れ則ち盛に人事聲明の要を談じ、廣く諸家興廢の由を叙じ、深く唯識ゆいしきを明して善く因喩いんゆを論ず。此の學士は乃ち響き五天ごてんに震ひ、德、八極はちきょくに流る。あきらかに三寶さんぼうを信じ、あきらかに二空にくうを想ふ。勝法しょうほうねがうて出家し、纒染てんぜんかわりて便ち俗となる。斯の往復、ず七たび有り。深く因果を信ずるにあらずんば、誰か能く此のごと勤著こんじゃくせん。自らなげく詩に曰く、染に由て便ち俗に歸り、貪を離てくろぎぬを服す。如何いかんんぞ兩種りょうしゅの事、我をろうして嬰兒えいじの若くなると。卽ち是れ護法師ごほうしの同時の人なり。つねに寺内に於て歸俗きぞくに心有て、煩惱にめられ、確爾かくじとして移らざるときは、卽ち學生がくしょうをして輿こし寺外じげに向はしむ。時の人、其の故を問ふ。答て曰く、凡そ是の福地ふくぢと戒行の所居に擬す。我れ既に内に邪心有り。卽ち是れ正教しょうぎょうく。十方の僧地、足を投ずるに處無し。淸信士しょうしんじと爲て身、白衣びゃくえを著し、まさに寺中に入て正法しょうぼうを宣揚す。を捨てて已來このかた、四十年を經たり。

次に薄迦ばか抧也の反論有り。頌、七百有り、釋、七千有り。亦是れ伐㨖呵利ばちかりの造る所なり。聖教量しょうぎょうりょう、及び比量ひりょうの義を叙す。

次に蓽拏ひつな有り。頌、三千有り、釋、十四千頌有り。乃ち伐㨖呵利ばちかりの造る所。釋は則ち護法ごほう論師のつくる所なり。いいつべし、天地の奧祕おうひを窮して人理の精華せいかを極むと。し人と此に至れば、方に善く聲明をげすと曰ふ。九經くけい百家ひゃっかと相ひ似たり。

斯れ等の諸書、法俗悉く皆通學す。如し其れ學ばざれば、多聞たもんの稱を得ず。若し出家の人は則ち遍く毘奈耶びなやを學び、つぶさに經及び論をうたぬ。外道げどうくじくこと中原ちゅうげんの鹿をおうが若く、傍詰ぼうきつを解くこと沸鼎ふっていこおりとかするに同じ。遂に響き贍部せんぶの中に流し、敬て人天の上に受けしむ。佛を助て化を揚げ、廣く羣有ぐんうを導く。此れ則ち奕代えきだい挺生ちょうしょうす。もしは一、若は二、たとえを取て日月にちがつに同じ。きょうを表して之を龍象りゅうぞうに譬ふ。斯れ乃ちとおくは則ち龍猛りゅうみょう提婆だいば馬鳴めみょうの類ひ、なかごろは則ち世親せしん無著むじゃく僧賢そうけん淸辯しょうべんの徒ら、このごろは則ち陳那ぢんな護法ごほう法稱ほうしょう戒賢かいけん、及び師子月ししがつ安惠あんね德惠とくえ惠護えご德光とくこう勝光しょうこうの輩なり。斯れ等の大師、前の内外ないげの衆德を具せずと云ことなけん。おのおの並に少欲知足にして誠に與比よひ無し。俗流ぞくる外道の内、中には此の類、得難し廣は西方十德傳の中に具に述るが如し法稱ほうしょうは則ち重て因明いんみょうを顯し、とくは乃ち再び律藏りつぞうを弘む。德惠とくえは乃ち定門じょうもん、想て澄しめ、惠護えごは則ち廣く正邪しょうじゃを辯ず。方にあらわるに鯨海げいかい巨深こしん名珍みょうちん、彩を現し、香峯こうぶ高峻こうしゅん上藥じょうやく、奇を呈す。是に知ぬ、佛法の含弘、何の納れざる所かあらん。ひびきに應じてへんを成さずと云ことし。寧ろ十四の足をわずらわさんや。百遍を勞すること無く、兩卷ひとたび聞て便ちりょう有る外道、六百頌を造て、來て護法師を難ず。法師、衆に對して一び聞て文義倶に領す

又、五天の地、皆婆羅門ばらもんを以て貴勝きしょうと爲す。およあらゆる座席に並に三姓さんしょうと同く行かず。自外じげ雜類ぞうるい、故に宜く遠くすべし。所尊の典、こう四薜陀しべいだの書有り。十萬頌ばかり。薜陀べいだは是れ明解みょうげの義。先に圍陀いだと云ふはあやまりなり。ことごとく口づから傳授でんじゅして之を紙葉しようしょせず。つね聰明そうめい婆羅門ばらもん有て、斯の十萬を誦す。卽ち西方の如んば、相承して聰明そうめいを學ぶ法有り。一には謂く生覆しょうふ審智しんち。二には則ち字母じも安神あんじん旬月じゅんがつの間に思ひ泉涌せんにゅうの若く、一び聞て便ち領す。再談を假ること無し。したしく其の人をる。まこといつわりに非るのみ。東印度に於て、ひとりの大士だいし有り。名て月官がつかんと日ふ。是れ大才雄だいさいゆう菩薩ぼさつの人なり。じょう到るの日、其の人、を存す。或が之に問て曰く。毒境どくきょう毒藥どくやく、害を爲すこと、いずれが重しと爲る。聲に應じて答て曰く、毒藥と毒境、相ひ去ること實にとおきことを成す。毒藥はさんして方に害し、毒境は念じて便ち燒くと。

又復た騰蘭とうらん、乃ちほう東洛とうらくに震ひ、眞帝しんたい、則ちひびき南溟なんめいに駕す。大德羅什らじゅう德匠とくしょうを他土に致し、法師玄奘げんじょう、師功を自邦じほうに演ぶ。然るに今古の諸師、並に佛日を光傳す。くうひとしく致るときは三藏を習て、以て師と爲し、じょうならべ修すときは七覺しちかくを指してしょうと爲す。其の西方に現在するには、則ち羝羅荼寺ていらだには智月ちがつ法師有り。那爛陀の中には則ち寶師子ほうしし大德、東方には卽ち地婆羯羅蜜呾囉ぢばがらみったら有り。南𮖭なんけいには呾他掲多掲娑たたがたげちば有り。南海なんかい佛誓國ぶっせいこくには則ち釋迦雞栗底しゃかけいりて有り今ま現に佛誓國に在り。五天歴て廣く學ぶ。斯れ並にひづを前賢に比し、あとを往哲に追ふ。因明論いんみょうろんあらわして則ち陳那ぢんななずらうことを思ひ、瑜伽ゆがの宗をあじわいて、實におもい無著むじゃくつくす。空を談ずるとき則ちたくみ龍猛りゅうみょうしるし、有をいうときは則ち妙に僧賢そうけんもととす。此のもろもろの法師、じょうならびに親く筵机えんきならし、微言びごん餐受さんじゅす。新知しんち未聞みもんよろこび、舊解きゅうげ曾得そうとくたづぬ。傳燈でんとう一望いちもうを想て實に朝聞ちょうもんを喜び、蕩塵とうじん百疑ひゃくぎこいねがうて、則分に昏滅こんめつに隨ふ。ねがうて乃ち遺珠ゆいしゅ鷲嶺じゅりょうひろひ、時に其の眞を得。散寶さんぼう龍河りゅうがえらんで、すこぶる其の妙にふ。あおいで三寶の遠被おんぴこうむり、皇澤おうたく遐霑かてんに頼で、遂にきびすを旋じて東歸とうきし、帆を南海に鼓ことを得。耽摩立底たんまりってい國從り已に室利しり佛誓ぶっせいに達す。停住ちょうじゅうすること已に四年を經、留連るれんして未だ歸國に及ばず。

現代語訳

南海寄帰内法伝なんかいききないほうでん巻第四

唐三蔵沙門義浄ぎじょう

三十四西方学法さいほうがくほう

そもそも大聖だいしょうの(説かれる言葉は、たとえ)一音いっとん〈一言〉であって、三千さんぜん世界を貫いて総摂そうしょうし、あるいは(それぞれ生けるものの)機〈状況・能力〉五道ごどう〈地獄・餓鬼・畜生・人・天〉(の異なり)にしたがって、すなわち七九しちくあらわして弘済ぐさい〈広く世の生けるものを救うこと〉する七九とは声明における七転九例である。以下に略して明らかにする通り

ところで、意言いごん法蔵ほうぞう〈仏陀の心中にあって公開されない真理の集積〉がある。天帝てんてい〈Indra. 帝釈天〉は「無説の経」〈いまだ仏陀が説かれていない教え〉あづかっている。あるいはまた言葉にしたがってみちを談じている。そこで支那しなでも本声ほんしょう〈梵文による仏教〉の字を悟るのだ。(仏教に初めて触れる)縁に身を任せて智慧をおこし、各々おのおの虚心に(その実義に)かなわせる。ただその義理は(我々人の)わづらいを除き、いずれも円寂えんじゃく〈涅槃〉を成すのだ。勝義諦しょうぎたいの理ははるかに名言みょうごん〈言語表現〉を絶っている。(しかしながら一方、)覆俗諦ふぞくたいには文句もんぐ〈言説〉が無いことはない覆俗諦は古くは世俗諦といったが、それでは(その)意味を完全に表しえていない。その意は「俗事が他の真理を覆う」というものである。ただ色(物質)であって、元から瓶でないものを妄りに「瓶である」と理解する。ただ声(音)であって、歌曲でないの漫りに「歌である」との思いをいたす。また、識が共に生じる時、その本質としては分別など無いものを、無明に蔽われて妄りに諸々の形があるとの想いを起こす。自らの心を理解せず鏡が外にあると謂う。蛇と繩とを誤認し(また縄が有るなどと思って)いずれも誤って正智はこうして淪む。これに由って真理を葢うことから「覆俗」という。この覆とは俗であることに拠って「覆俗」という。あるいはただ真諦・覆諦と言うべきである

しかも古来の訳〈迦葉摩騰や鳩摩羅什など古訳や旧訳の三蔵〉は、梵軌ぼんき〈印度の学則、または梵語の文法〉かたることはほとんどなかった。近年の伝経でんきょう(の僧は)、ただ初七しょしち〈七転(七例)〉を云ったのみである。(それは彼らが梵語の文法を)知らないからではない。(そうしたところで)やくなど無いと論じないのだ。今、(私が)望むのは、梵文ぼんもんを(支那の仏僧らが)総合的に学んだならば、翻訳のわづらいによって労することがなくなるであろう、ということにある。その為に、いささかながら(「西方学法」という)節段せちだんを題して、粗々あらあらその初基〈基本〉を述べていきたい然るに(蛮夷である)崑崙や速利国でもなお、よく総て梵経を讚歎するのだ。どうして天府の神州たる(支那が)その本説を談じないことがあろうか。故に西方では讃じて云うのだ、「曼殊室利(文殊師利)が現に并州に在る。(支那の)人は皆な福があって、その理は欽讃すべきものである」と。その(印度にて支那を讃嘆する)文は詳細なものである。ここに繁く記録しない

そもそも声明しょうみょうとは、梵語でśabdaシャブダ-vidyāヴィドヤー〈攝拖苾馱〉と云ふ。śabdaシャブダとはしょうvidyāヴィドヤーみょう。すなわち五明論ごみょうろん〈古代印度における伝統的五種の学問〉一明いちみょうである。五天ごてんの俗書では、総じてこれをvyākaraṇaビャーカラナ〈毗何羯喇拏〉という。おおよそその数に五つあって、神州じんしゅうの(儒教における)五経ごけいと同様である古くは『毗伽羅論』と云うが音訛である

その第一はすなわち『創学そうがく悉談章しっだんしょう』、またはSiddhiシッディrastuラストゥ〈悉地羅窣覩〉という。これはすなわち小学しょうがく標章ひょうしょうの称である。ただ(その意図は)「成就じょうじゅ吉祥きっしょう」をもくしたものだ。(梵字には)その根本となるものに四十九しじゅうく字がある。それらを互いに組み合わせて十八章じうはちしょうを形成する。総じて一万余字あって、合わせて三百余頌となる。およそ一頌と言えば四句ある。そして一句は八字であるから、総じて三十二言となる。(しかし、他にも)さらに小頌・大頌があって、具さに述べることはできない。六歳の童子がこれを学び、六ヶ月にしてまさおわる。これは相伝によれば、大自在天だいじじてんの説いたものである、とのことだ。

その第二はSūtraスートラ〈蘇呾囉〉という。すなわちこれが一切声明の根本経である。訳して「略詮りゃくせん意明いみょう」といい、略してその要義をあきらかにするものだ。一千頌ある。これは古の博学の鴻儒こうじゅ〈大学者〉Pāṇiniパーニニ〈波尼你〉が造ったものであり、大自在天〈Maheśvara〉の加護のもとなされた。(大自在天の)かおには三つの目をあると、今の人は信じている。八歳の童子が八ヶ月で誦し了る。

その第三はDhātuダートゥ〈馱覩章〉という。一千頌ある。もっぱら字元〈語根〉を明かしたもの。その功、上述の経に同様である。

その第四はKhilaキラ〈三棄攞章〉といい、これは荒梗こうこう〈荒野〉の義である。そのこころは、田夫でんぷが創めて疇畎ちゅうけんを開墾するのに(童子が学問の道を開いていくのに)比す(題目である)。まさに(漢訳して)「三荒章さんこうしょう」と言うべきもの。(その三とは)一つにはAṣṭadhātuアシュタダートゥ〈頞瑟吒馱覩〉一千頌ありという。二つにはMuṇḍaムンダ〈文荼〉一千頌ありという。三にはUṇādiウナーディ〈鄔拏地〉一千頌ありという。Dhātuダートゥ〈馱覩.Aṣṭadhātu〉とは則ち、そのこころ七例しちれいを明かし、十羅声じうらしょう〈動詞の十種の活用〉あきらかにして、二九にくいん〈動詞を作るために語根に加える十八の人称語尾〉を述べたもの。七例とは、すべての声〈名詞・形容詞〉の上に皆悉くあるもの。一つ一つの声の中に各々三節を分かつ。いわゆる一言いちごん〈単数〉二言にごん〈両数〉多言たごん〈複数〉である。総じて二十一言となる。(例えば)男子〈puruṣa. 男性名詞〉についてこれを言えば、一人をpuruṣaḥプルシャッ〈補嚕灑〉と名け、兩人をpuruṣauプルシャウ〈補嚕稍〉と名け、三人をpuruṣāḥプルシャーッ〈補嚕沙〉とする。この中の声〈発音〉には、きゅうじゅうきょうの別がある。七例の他に、更に呼名こみょうしょう〈呼格.vocative〉がある。すなわち(七例にこれを足して)八例となる。初めの句〈体格.Nominative〉として三〈単数・両数・複数〉を示したが、他のすべて(の名詞・形容詞)もこれにじゅんぜよ。(これ以上は)繁を恐れて録さない。(これを)subantaスバンタ〈蘇盤多聲〉という総じて三八、二十四声がある。「十羅聲」とは十種のla(la)〉があり、一声を顕す時にすなわち(過去・現在・未来の)三世の(時制の)異なりを明らかにするもの。「二九の韻」とは、上中下、尊卑、彼此の別を明らかにするもので、その言に十八の不同がある。これをtiṅanta ティナンタ〈丁岸哆聲〉という。Muṇḍaムンダとは合して字体じたいを成す方法を述べたものである。今仮に「」という一つの語の成立について言えば、梵語ではvṛkṣaヴィリクシャ〈苾力叉〉と云うが、そこで(Pāṇiniパーニニの)二十余句の経文を引きつつ、(vṛkṣaヴィリクシャの語根である√vraścを)互いに相交えて、まさに一事の名詞を形成する(理論と課程を説き示す)。Uṇādiウナーディもすなわち大いにその例〈Muṇḍa〉に同じである。しかし(そこには)広・略あって、同じでないことから(書として)異なったものとしている。この「三荒章」は、十歳の童子が三年勤学してまさにその義をす。

その第五は、謂わくVṛttisūtraヴリッティスートラ〈苾栗底蘇呾羅〉、すなわちこれは前のSūtraスートラ〈蘇呾囉〉の注釈書である。すなわち、上古に注釈書が作られ、その類は実に多かったが、その中でもたえなるもので一万八千頌ある。その経本についてべて詳細にその衆義しゅぎを談じ、寰中かんちゅう〈宇宙〉規矩きくつくし、天人の軌則を極めている。十五の童子が五年をかけ、まさに解す。

神州の人で、もし西方に向かって学問を求めるならば、かならすべからくこれを知ってから、まさに他を習うべきである。もしそうしなければ、むなしく自ら徒労するに終わるであろう。これら等の諸書は、いずれも須く暗誦あんじゅすべきである。(もっとも、)これは上人しょうにん〈機根の優れた人〉に依って准じいったものであり、(その能力が)中・下のたぐいであれば、その(修学期間や方法について)意を測れ。昼夜ちゅうやに精勤して寧寝ねいしん〈静かに寝ること〉するいとまなどない。孔父こうほ三絶さんぜつ〈韋編三絶〉に同じく、歳釋さいしゃく百遍ひゃくへん〈読書百徧にして義、自ら見る〉に等しい。牛毛ごもうは幾千ほどの数はあるが、麟角りんかくはただ一つである。その功を比するとすれば、神州の上経じょうきょう〈『周易』上経三十卦か?〉を明らめるのと相い似たものである。これKāśikāvṛttiは学士、Jayādityaジャヤーディトヤ〈闍耶昳底〉が造ったものである。その人の器量は弘く深くして、その文彩は秀発しゅうほつであり、(何事か)一たび聞いたならばたちまち理解するほどで、どうして再び談らせる必要があったろうか。敬って三尊〈三宝〉おもんじ、多く福業ふくごうを営んだ。その生涯を終えてから、今は三十年にもなろうかとしている。

その注釈をならい終わったならば、まさにしょひょう緝綴しゅうてい〈集めて綴ること〉し、詩篇しへんを(自ら)造ることを学ぶ。おもいを因明いんみょう〈hetu-vidyā. 論理学〉に向け、その誠を倶舍くしゃAbhidharmakośa-bhāṣya. 『阿毘達磨倶舎論』〉に留める。理門論りもんろんNyāyamukha. 『因明正理門論』〉を尋ねて比量ひりょう〈anumāna. 推論〉を善く成し、本生貫ほんじょうかんJātakamālā. 本生譚〉を習って清才しょうさい秀發しゅうほつとする。そうして後に函丈かんじょう〈師に親しく就くこと〉してその伝授をうけること六年を経る。その多くはNālandāならんだじ〈那爛陀寺〉中天也に在る。あるいはValabhīヴァラビー〈跋臘毘国〉西天也に居す。これら両処は、(支那の)金馬きんば石渠せききょ龍門りゅうもん闕里けつりに等しい。英彦えいげん〈英才〉が雲のようにあつまって、(真理についての)是非を商搉しょうかく〈比較し考察すること〉している。もしその賢明けんめいなることが、(周囲から)「善い哉」と歎じられ、遐邇かじ〈遠所と近所〉に「しゅんである」と称賛されたならば、まさに始めて自ら鋒鍔ほうがく〈鋭い刀剣〉(に比せられる智慧)をはかって、そのやいばを王庭〈王宮〉に投じ、策を献じその才を呈して、(智者として)用いられることを希望けもうする。談論の処に坐したならば、自ら席を重ねてその奇才を表す。破斥はしゃく〈論争〉の場に登ったならば、ひとは舌を結んで沈黙し、はじ入るばかりとなる。(その名は高く天下に)響いて五山ござんに震い、その名声は四域しいきに流れる。そうして後に封邑ほうゆう〈領地〉を受けて班〈官位〉を与えられ、素〈平民の出〉ながらも高門こうもん〈名門・名家〉に賞せられ、さらに余業よごうも修めていくのだ。

またVṛttisūtraヴリッティスートラ〈苾栗底蘇呾羅〉にも議釈〈注釈書〉がある。Cūrṇiチュールニ〈朱你〉といって二十四千頌ある。これは学士、Patañjaliパタンジャリ〈鉢顛社攞〉が造ったものである。これはすなわち重ねて前の経〈PāṇiniのSūtra〉を明らかにするものであり、臂肌ひき〈?〉、理を分かっている。後の釈〈vṛttisūtra. 特にKāśikāvṛttiを詳しく明らかにし、毫芒ごうぼう〈極めて微細な点〉をも剖折ぼうせつしている。経を明らかにするためこれを学ぶこと三年にしてまさに了る。その功は、(支那の)『春秋しゅんじゅう』や『周易しゅうえき』と相い似ている。

次にBhartṛhariバルトリハリの論書Mahābhāṣyadīpikā. 伐致呵利論〉がある。これは前のCūrṇiチュールニ〈朱你〉の議釈である。すなわち大学士、Bhartṛhariバルトリハリ〈伐㨖呵利〉が造ったものであり、二万五千頌ある。これはすなわち盛んに人事と声明の要を談じ、広く諸家興廃の由を叙べ、深く唯識ゆいしきを明らかにして善く因喩いんゆを論じている。この学士の名は響いて五天ごてん〈全印度〉に震い、その徳は八極はちきょく〈八方〉に流れている。あきらかに三宝さんぼうを信じ、あきらかに二空にくう〈人法二空。大乗の空〉を想う。勝法しょうほう〈優れた教え. 仏教〉ねがって出家し、しかし纒染てんぜん〈煩悩〉を(捨てきれずに)とどめて還俗した。この(出家と還俗の)往復のかずは七度に至っている。(それはむしろ)深く因果を信ずているのでなければ、誰がよくこのように(出家と在家の二つの世界に)勤著こんじゃくするであろうか。それを自らなげく詩には、「染に由って便ち俗に帰り、貪を離れてくろぎぬ〈袈裟衣〉を服す。どうしたらよいのであろうか、この両種りょうしゅ〈出家と在家〉の事を。私をもてあそぶこと嬰兒えいじのようである」と。すなわちこれ護法ごほう〈Dharmapāla〉と同時の人である。(出家しても)つねに寺の中で帰俗きぞく〈還俗〉への心があって、煩惱にめられ、それが止みがたく確固として移ろわない時には、たちまち(寺の)学生がくしょうに命じて輿こし寺外じげに向かわせた。当時の人が(何故に寺の外に向かうのか)その理由が問うと、(彼が)答えて言うには、「およそこの(出家という)福地ふくぢは元来、戒行の居る所に擬せられている。私はすでに内に邪心がある。すなわち、これは正教しょうぎょういたものである。(そんな私に)十方の僧地で足を投ずる所など無い」とのことであった。(そこで彼は)清信士しょうしんじ〈upāsaka. 優婆塞〉となって、その身に白衣びゃくえをまとい、(そうしたかと思えば、再び)まさに寺中に入て(出家し)正法しょうぼうを宣揚したのである。(彼が没して)を捨てて以来このかた、四十年を経ている。

次にVākyapadīyaヴァーキャパディーヤ〈薄迦論〉があって、その頌に七百がある。その注釈は七千ある。またこれもBhartṛhariバルトリハリ〈伐㨖呵利〉の造ったものである。聖教量しょうぎょうりょう〈聖者・聖典の言葉を事物の本質を知るための根拠とすること〉、及び比量ひりょうの義を叙べたものである。

次にPrakīrṇakaプラキールナカ〈蓽拏〉がある。頌に三千ある。その注釈は一万四千頌ある。すなわちBhartṛhariバルトリハリ〈伐㨖呵利〉の造ったもので、その注釈は護法ごほう論師がつくったものである。うべし、天地の奧祕おうひを窮めて人理の精華せいかを極めたものであると。もし人がこの書にまで(その学問を)至らせたならば、まさに善く声明をしたとされる。(それはあたかも、支那の)九経くけい〈『詩経』・『書経』・『易経』・『儀礼』・『礼記』・『周礼』・『春秋左氏伝』・『春秋公羊伝』・『春秋穀梁伝』〉百家ひゃっか〈多くの学者〉と相い似たものである。

これ等の諸書は、法俗〈出家・在家〉が悉く皆、共通して学ぶ。もしそれを学ばないとしたならば、多聞たもん〈博学・識者〉の称を得ることはない。もし出家の人ならば(先ずは)遍くVinayaヴィナヤ〈毘奈耶.律〉を学び、つぶさに経および論をつ。外道げどうくじくこと、あたかも中原ちゅうげんの鹿をおう〈帝位を巡って戦うこと〉ようなものであり、傍詰ぼうきつ〈批判・論難〉を解くことはあたかも沸鼎ふっていこおりとかすようなものである。遂には(その学徳ある名は)響いて贍部せんぶ〈Jambu-dvīpa. 南瞻部洲。印度亜大陸〉の中に流布し、敬われて人々と神々の上の座を受けることとなる。仏を助けて教化を揚げて、広く群有ぐんう〈衆生・群生〉を導く。それはすなわち奕代えきだい〈歴代〉挺生ちょうしょう〈抜きん出た人として生まれ出ること〉している。(時代時代に現れるのは)もしくは一人、もしくは二人であって、たとえて言うならば日月にちがつのようなもの。その様子を表してこれを龍象りゅうぞう〈nāga〉に譬えられる。それはすなわち、とおく龍猛りゅうみょう〈Nāgārjuna〉提婆だいば〈Āryadeva〉馬鳴めみょう〈Aśvaghoṣa〉の類ひ、なかごろは則ち世親せしん〈Vasubandhu〉無著むじゃく〈Asaṅga〉僧賢そうけん〈Saṃghabhadra〉清弁しょうべん〈Bhāvaviveka〉の徒ら、このごろは則ち陳那ぢんな〈Dignāga〉護法ごほう〈Dharmapāla〉法称ほうしょう〈Dharmakīrti〉戒賢かいけん〈Śīlabhadra〉、及び師子月ししがつ〈Siṃhacandra?〉安惠あんね〈Sthiramati〉德惠とくえ〈Guṅamati〉惠護えご〈未詳〉德光とくこう〈Guṇaprabha〉勝光しょうこう〈未詳〉の輩である。これ等の大師は、前の内外ないげの衆徳を具えていないということは無い。各々おのおのいずれも少欲知足であって、誠に比類ない。俗流ぞくる・外道の内であってもその中にはこの類の人は得難い詳しくは『西方十徳伝』の中にて具さに述べている通り法称ほうしょうはすなわち(陳那の後に)重ねて因明いんみょうを顕わし、徳慧とくえはすなわち再び律蔵りつぞうを弘めている。徳惠とくえはすなわち定門じょうもんを想って(心を)澄ましめ、惠護えごはすなわち広く正邪しょうじゃを弁じている。まさにあらわれるのに鯨海げいかい〈大海〉巨深こしんには名珍みょうちん〈伝説的財宝〉がその輝きを現し、香峯こうぶ〈香酔山〉高峻こうしゅんには上薬じょうやくがその奇瑞を呈する(かのようなものである)。ここに知るのである、仏法とは弘大な(真理の)含蓄であることを。何の納められないものなどあろうか。ひびき〈言葉〉に応じてへん〈書物〉を成さないということなどない。むしろ「十四の足〈何を指したものか不明〉」をわずらわすことがあろうか。(読書すること)百遍の労を経ることなど無く、両卷〈何を指したものか不明〉ひとたび聞けばたちまちわかある外道が「六百頌」を造り、来たって護法師を論難した。法師は衆に対して一たび聞いて、その文も義も倶に領したのである

また、五天の地では皆婆羅門ばらもん〈brāhmaṇa〉をもって貴勝きしょうとする。およあらゆる座席において、どんな他の三姓さんしょう〈Kṣatriya(士族) / Vaiśya(黎民) / Śūdra(奴婢)〉と同く行かず。それ以外の雑類ぞうるい〈avarṇa(不可触賤民)〉は、故に宜く遠ざけなければならない。尊ばれている典誥てんこう〈古典〉に四つのVedaヴェーダ〈薜陀〉という書があって十万頌ほどある。Vedaヴェーダとは「明解みょうげ〈√vid(理解する・知る)〉の義。旧訳で「圍陀いだ」と云うのはあやまりである。みな悉く口づから伝授でんじゅしており、これを紙葉しようしょすことはない。(いつの時代も)つね聰明そうめいなる婆羅門ばらもんがあって、この十万頌を(口承して)誦している。すなわち、西方においては、相承して聰明そうめいたることを学ぶ法がある。一つには謂く「生覆しょうふ審智しんち」。二には則ち「字母じも安神あんじん」である。旬月じゅんがつ〈十日・一月〉の間にその思いは泉が湧くかのようになって一たび聞いてたちまち理解するようになり、再び教わる必要が無い。(私義浄は)実際にその人をたけれども、まこといつわりでなかった。東印度において、ひとりの大士だいしがある。その名を月官がつかんという。それは大才雄だいさいゆう菩薩ぼさつの人であった。じょう〈義浄〉が(彼の地に)到った日、その人はなお存命であった。ある人が彼に問うて言った、「毒境どくきょう〈心に悪をもたらす認識対象。あるいは煩悩に染まった心で対象を認識すること〉毒薬どくやくと、その害をなすことどちらが重いだろうか」と。その声に応じて答えて言うには、「毒薬と毒境とは、互いに(その害の程度という点において)かけ離れたものであること実にはるかである。毒薬は口に入れればば害となるであろうが、毒境は念じるだけでたちまち燒かれるだから」と。

また、騰蘭とうらん〈kāśyapa mātaṅga(迦葉摩騰)と?(竺法蘭)〉は、すなわちその芳名ほうめい東洛とうらく〈洛陽〉に震い、真帝しんたい〈Paramārtha(真諦)〉は則ち(その高名の)ひびき南溟なんめい〈南海〉から運んだ。大徳羅什らじゅう〈Kumārajīva(鳩摩羅什)〉徳匠とくしょうを他土〈支那。羅什の出身は亀茲〉に致し、法師玄奘げんじょうは、師功を自邦じほう〈自国。支那〉に演べた。そこで今古の諸師はいずれも仏法という太陽の光を伝えるのだ。くう〈声聞乗と大乗〉ひとしく学ぶ時は三蔵〈経律論.仏典の総称〉を習って師となし、じょう〈三摩地と智慧.止と観〉とをならべ修めるときは七覚しちかく〈七覚支・七菩提分〉をしてしょうとしている。その西方に現在もあるのは、すなわち羝羅荼寺ていらだ〈原語未詳〉には智月ちがつ〈原名未詳〉法師有り。Nālandāナーランダー〈那爛陀〉の中には則ち宝師子ほうしし〈Ratnasiṃha?〉大徳、東方にはすなわち地婆羯羅蜜呾囉ぢばがらみったら〈Divākaramitra?〉がある。南𮖭なんけいには呾他掲多掲娑たたがたげちば〈Tathāgatagarbha?〉がある。南海なんかい仏誓国ぶっせいこく〈Śrīvijaya〉には則ち釋迦雞栗底しゃかけいりて〈Śākyakīrti?〉がある今現に仏誓国にある。五天竺を遍歴して広く学んでいる。彼らはいずれもその秀才を前賢に比され、そのあとを往哲に追っている。因明論いんみょうろん〈論理学書〉あらわしては、すなわち陳那ぢんな〈Dignāga〉なずらうことを思い、瑜伽ゆがの宗〈瑜伽行唯識〉あじわって、実におもい無著むじゃく〈Asaṅga〉つくす。空を談ずるとき則ちたくみ龍猛りゅうみょう〈Nāgārjuna〉しるし、有をいうときは則ち妙に僧賢そうけん〈Saṃghabhadra〉もととしている。この諸々もろもろの法師は、(私)じょう〈義浄〉がいずれも親しくその講筵に机を並べ、その微妙なる言葉を味わい受けたのだ。新たな知識を得れば、未だ聞いたことないこととよろこび、すでに知る事柄を聴けば、かつてそれを得たときの想いをあたためた。(仏法の)伝灯でんとうという一つの望みを想って、実に「朝聞ちょうもん〈『論語』「朝に道を聞かば夕に死すとも可なり」に基づく表現。後の「昏滅」に掛かる〉を喜び、「蕩塵とうじん百疑ひゃくぎ〈典拠不明。あらゆる疑問を解決すること〉こいねがって、すなわちさだめ昏滅こんめつ〈「夕に死」〉に随うのだ。ねがって、すなわち遺珠ゆいしゅ〈仏陀の遺教〉鷲嶺じゅりょう〈Gṛdhrakūṭa(霊鷲山)〉ひろっては、時にその真を得。散宝さんぼう〈仏陀の遺教〉龍河りゅうが〈Nairañjanā(尼連禅河)〉えらんでは、すこぶるその妙にう。あおいで三宝の遠被おんぴこうむり、皇沢おうたく遐霑かてんに頼んで、遂にきびすを旋らして東帰とうきし、帆を南海〈インド洋から東南アジア沿岸部〉に鼓つことが出来た。耽摩立底たんまりってい〈Tāmralipti〉よりすでに室利しり仏誓ぶっせい〈Śrīvijaya〉に達した。(この地で)停住ちょうじゅうすることすでに四年を経、留連るれんして、いまだ帰国に及ばず。