南海寄歸内法傳巻第四
唐三藏沙門義淨撰
三十四西方學法
夫れ大聖の一音、則ち三千を貫て總攝し、或は機に五道に隨て、乃ち七九を彰して弘濟す七九とは卽ち是れ聲明の中の七轉九例なり。下に略して明すが如し。
時に意言の法藏有り。天帝、無説の經を領す。或は復た語に順て詮を談ず。支那、本聲の字を悟る。縁に投じ慧を發して各虚心に稱はしむることを致す。唯だ義、煩を除き、並に圓寂を凝す。勝義諦の理に至ては、逈かに名言を絶す。覆俗諦の中、文句無きに非ず覆俗諦は舊に世俗諦と云ふ。義、盡きず。意の道く俗事は他の眞理を覆ふ。色、本と瓶に非るを妄りに瓶の解を爲す。聲、歌曲無きを漫に歌の心を作す。又復た識、相ひ生ずる時、體、分別無し。無明に蔽はれて妄りに衆形を起す。自心を了せず、鏡、外に居すと謂ふ。蛇繩、並に繆て、正智斯に淪む。此に由て眞を葢ふ。名て覆俗と爲す。此れ覆卽ち是れ俗なるに據て、名て覆俗と爲す。或は但だ眞諦覆諦と云ふべし。
然も則ち古來の譯は梵軌談ること罕なり。近日の傳經、但だ初七を云ふ。知らざるに非ず。益無しとして論ぜずなり。今ま望くは梵文を總習せば、翻譯の重を勞すること無ん。此が爲に聊か節段を題して粗初基を述る者か然るに骨崙・速利、尚を能く總て梵經を讚ず。豈に況や天府神州にして其の本説を談ぜず。故に西方、讃して云く、曼殊室利、現に并州に在りと。人皆、福有り。理、欽讃すべし。其の文、既に廣し。此に繁く録せず。
夫れ聲明とは、梵には攝拖苾馱停夜の反と云ふ。攝拖は是れ聲、苾馱は是れ明。卽ち五明論の一明なり。五天の俗書、總じて毗何羯喇拏と名く。大數、五つ有り。神州の五經に同じ舊には毗伽羅論と云ふ。音訛なり。
一には則ち創學悉談章。亦は悉地羅窣覩と名く。斯れ乃ち小學標章の稱なり。但し成就吉祥を以て目と爲す。本と四十九字有り。共に相ひ乘轉して一十八章を成す。總じて一萬餘字有り。合して三百餘頌なり。凡そ一頌と言は乃ち四句有り。一句八字なれば總じて三十二言を成す。更に小頌・大頌有り。具に述すべからず。六歳の童子、之を學ぶ。六月にして方に了る。斯れ乃ち相ひ傳ふ、是れ大自在天の所説なりと。
二には蘇呾囉と謂ふ。卽ち是れ一切聲明の根本經なり。譯して略詮意明と爲す。略して要義を詮ず。一千頌有り。是れ古の博學の鴻儒、波尼你が造る所なり。大自在天の爲に加被せらる。面に三目を現ず。時の人、方に信ず。八歳の童子、八月に誦し了る。
三には馱覩章と謂ふ。一千頌有り。專ら字元を明す。功、上の經の如し。
四には三棄攞章と謂ふ。是れ荒梗の義。意ろ、田夫の創て疇畎を開くに比す。應に三荒章と云ふべし。一には頞瑟吒馱覩一千頌ありと名く。二には文荼一千頌ありと名く。三には鄔拏地一千頌ありと名く。馱覩とは則ち意ろ七例を明し、十羅聲を曉して、二九の韻を述ぶ。七例と言はば、一切の聲の上に皆悉く之れ有り。一一の聲の中に、各三節を分つ。謂く一言・二言・多言なり。總て二十一言を成す。男子を喚ぶが如き、一人を補嚕灑と名け、兩人を補嚕稍と名け、三人を補嚕沙と名く。此の中の聲に呼・噏・重・輕の別有り。七例の外に於て更に呼名の聲有り。便ち八例を成す。初の句、既に三あり。餘の皆、此に准ぜよ。繁を恐れて録せず。蘇盤多聲と名く總て三八二十四聲有り。十羅聲とは、十種の羅字有り。一聲を顯す時、便ち三世の異を明す。二九の韻とは、上中下、尊卑、彼此の別を明す。言に十八の不同有り。丁岸哆聲と名く。文荼は則ち合して字體を成ず。且く樹の一目の如き、梵には苾力叉と云ふ。便ち二十餘句の經文を引て、共に相ひ雜糅して、方に一事の號を成す。鄔拏地、則ち大に斯の例に同じ。而も廣略、等らざるを以て異と爲す。此の三荒章は、十歳の童子、三年勤學して方に其の義を解す。
五には謂く苾栗底蘇呾羅。卽ち是れ前の蘇呾囉の釋なり。乃ち上古に釋を作る、其の類、寔に多し。中に於て妙なる者、十八千頌有り。其の經本を演べ、詳に衆義を談じ、寰中の規矩を盡し、天人の軌則を極む。十五の童子、五歳にして方に解す。
神州の人、若し西方に向て學問を求めば、要ず須く此を知て方に餘を習ふべし。如し其れ然らざれば、空く自ら勞す。斯れ等の諸書、並に須く暗誦すべし。此は上人に據て准じて爲す。中下の流は意を以て測るべし。晝夜に翹勤して寧寢に遑あらず。孔父の三絶に同く、歳釋の百遍に等し。牛毛は千數、麟角は唯だ一なり。功を比するに神州の上經を明むると相ひ似り。此は是れ學士、闍耶昳底の造る所なり。其の人、乃ち器量、弘深にして、文彩、秀發し、一び聞て便ち領す詎ぞ再談を假ん。敬て三尊を重し、多く福業を營む。代を沒して今に三十載に向んとす。
斯の釋を閑ひ已て、方に書・表を緝綴し、詩篇を製造することを學ぶ。想を因明に致し、誠を倶舍に虔む。理門論を尋て比量善く成し、本生貫を習て淸才秀發す。然して後に函丈傳授、三二年を經。多は那爛陀寺中天也に在り。或は跋臘毘國西天也に居す。斯の兩處は事、金馬・石渠・龍門・闕里に等し。英彦、雲の如に聚て是非を商搉す。若し賢明、善と歎じ、遐邇、儁と稱して、方に始て自ら鋒鍔を忖り、刃を王庭に投じ、策を獻じ才を呈して、利用を希望す。談論の處に坐めば、己れ則ち席を重ね奇を表す。破斥の場に登ては、他乃ち舌を結び愧を稱す。響き、五山に震ひ、聲、四域に流る。然して後に封邑を受て班を策し、素を高門に賞し、更に餘業を修す。
復た苾栗底蘇呾羅の議釋有り。朱你と名く。二十四千頌有り。是れ學士、鉢顛社攞が造る所なり。斯れ乃ち重て前の經を顯て、臂肌、理を分つ。後釋を詳明にして、毫芒を剖折す。明經、此を學すこと、三歳にして方に了る。功、春秋・周易と相ひ似たり。
次に伐致呵利論有り。是れ前の朱你の議釋なり。卽ち大學士、伐㨖呵利が造る所なり。二十五千頌有り。斯れ則ち盛に人事聲明の要を談じ、廣く諸家興廢の由を叙じ、深く唯識を明して善く因喩を論ず。此の學士は乃ち響き五天に震ひ、德、八極に流る。徹かに三寶を信じ、諦かに二空を想ふ。勝法を希て出家し、纒染を戀て便ち俗となる。斯の往復、數ず七たび有り。深く因果を信ずるにあらずんば、誰か能く此の若く勤著せん。自ら嗟く詩に曰く、染に由て便ち俗に歸り、貪を離て還た緇を服す。如何んぞ兩種の事、我を弄して嬰兒の若くなると。卽ち是れ護法師の同時の人なり。每に寺内に於て歸俗に心有て、煩惱に逼められ、確爾として移らざるときは、卽ち學生をして輿を寺外に向はしむ。時の人、其の故を問ふ。答て曰く、凡そ是の福地は本と戒行の所居に擬す。我れ既に内に邪心有り。卽ち是れ正教を虧く。十方の僧地、足を投ずるに處無し。淸信士と爲て身、白衣を著し、方に寺中に入て正法を宣揚す。化を捨てて已來、四十年を經たり。
次に薄迦抧也の反論有り。頌、七百有り、釋、七千有り。亦是れ伐㨖呵利の造る所なり。聖教量、及び比量の義を叙す。
次に蓽拏有り。頌、三千有り、釋、十四千頌有り。乃ち伐㨖呵利の造る所。釋は則ち護法論師の製る所なり。謂つべし、天地の奧祕を窮して人理の精華を極むと。若し人と此に至れば、方に善く聲明を解と曰ふ。九經百家と相ひ似たり。
斯れ等の諸書、法俗悉く皆通學す。如し其れ學ばざれば、多聞の稱を得ず。若し出家の人は則ち遍く毘奈耶を學び、具に經及び論を討ぬ。外道を挫くこと中原の鹿を逐が若く、傍詰を解くこと沸鼎の凌を銷するに同じ。遂に響き贍部の中に流し、敬て人天の上に受けしむ。佛を助て化を揚げ、廣く羣有を導く。此れ則ち奕代挺生す。若は一、若は二、喩を取て日月に同じ。況を表して之を龍象に譬ふ。斯れ乃ち遠は則ち龍猛、提婆、馬鳴の類ひ、中は則ち世親、無著、僧賢、淸辯の徒ら、近は則ち陳那、護法、法稱、戒賢、及び師子月、安惠、德惠、惠護、德光、勝光の輩なり。斯れ等の大師、前の内外の衆德を具せずと云こと無ん。各並に少欲知足にして誠に與比無し。俗流外道の内、中には此の類、得難し廣は西方十德傳の中に具に述るが如し。法稱は則ち重て因明を顯し、德は乃ち再び律藏を弘む。德惠は乃ち定門、想て澄しめ、惠護は則ち廣く正邪を辯ず。方に驗るに鯨海の巨深、名珍、彩を現し、香峯の高峻、上藥、奇を呈す。是に知ぬ、佛法の含弘、何の納れざる所かあらん。響に應じて篇を成さずと云こと莫し。寧ろ十四の足を煩んや。百遍を勞すること無く、兩卷一び聞て便ち領す有る外道、六百頌を造て、來て護法師を難ず。法師、衆に對して一び聞て文義倶に領す。
又、五天の地、皆婆羅門を以て貴勝と爲す。凡そ有る座席に並に餘の三姓と同く行かず。自外の雜類、故に宜く遠くすべし。所尊の典、誥に四薜陀の書有り。十萬頌ばかり。薜陀は是れ明解の義。先に圍陀と云ふは訛なり。咸な悉く口づから相ひ傳授して之を紙葉に書せず。每に聰明の婆羅門有て、斯の十萬を誦す。卽ち西方の如んば、相承して聰明を學ぶ法有り。一には謂く生覆審智。二には則ち字母安神。旬月の間に思ひ泉涌の若く、一び聞て便ち領す。再談を假ること無し。親く其の人を覩る。固に虚に非るのみ。東印度に於て、一りの大士有り。名て月官と日ふ。是れ大才雄の菩薩の人なり。淨到るの日、其の人、尚を存す。或が之に問て曰く。毒境と毒藥、害を爲すこと、誰れが重しと爲る。聲に應じて答て曰く、毒藥と毒境、相ひ去ること實に遙ことを成す。毒藥は餐して方に害し、毒境は念じて便ち燒くと。
又復た騰蘭、乃ち芳を東洛に震ひ、眞帝、則ち響を南溟に駕す。大德羅什、德匠を他土に致し、法師玄奘、師功を自邦に演ぶ。然るに今古の諸師、並に佛日を光傳す。有・空、齊く致るときは三藏を習て、以て師と爲し、定・慧雙べ修すときは七覺を指して匠と爲す。其の西方に現在するには、則ち羝羅荼寺には智月法師有り。那爛陀の中には則ち寶師子大德、東方には卽ち地婆羯羅蜜呾囉有り。南𮖭には呾他掲多掲娑有り。南海の佛誓國には則ち釋迦雞栗底有り今ま現に佛誓國に在り。五天歴て廣く學ぶ。斯れ並に秀を前賢に比し、蹤を往哲に追ふ。因明論を曉て則ち陳那に擬ことを思ひ、瑜伽の宗を味て、實に懷を無著に罄す。空を談ずるとき則ち巧に龍猛に符し、有を論ときは則ち妙に僧賢に體とす。此の諸の法師、淨、並に親く筵机に狎し、微言を餐受す。新知を未聞に慶び、舊解を曾得に温ぬ。傳燈の一望を想て實に朝聞を喜び、蕩塵の百疑を冀て、則分に昏滅に隨ふ。尚て乃ち遺珠を鷲嶺に拾ひ、時に其の眞を得。散寶を龍河に擇で、頗る其の妙に逢ふ。仰で三寶の遠被を蒙り、皇澤の遐霑に頼で、遂に踵を旋じて東歸し、帆を南海に鼓ことを得。耽摩立底國從り已に室利佛誓に達す。停住すること已に四年を經、留連して未だ歸國に及ばず。
南海寄帰内法伝巻第四
唐三蔵沙門義浄撰
三十四西方学法
そもそも大聖の(説かれる言葉は、たとえ)一音〈一言〉であって、三千世界を貫いて総摂し、あるいは(それぞれ生けるものの)機〈状況・能力〉の五道〈地獄・餓鬼・畜生・人・天〉(の異なり)にしたがって、すなわち七九を彰して弘済〈広く世の生けるものを救うこと〉する七九とは声明における七転九例である。以下に略して明らかにする通り。
ところで、意言の法蔵〈仏陀の心中にあって公開されない真理の集積〉がある。天帝〈Indra. 帝釈天〉は「無説の経」〈いまだ仏陀が説かれていない教え〉を領っている。あるいはまた言葉に順って詮を談じている。そこで支那でも本声〈梵文による仏教〉の字を悟るのだ。(仏教に初めて触れる)縁に身を任せて智慧を発し、各々虚心に(その実義に)称わせる。ただその義理は(我々人の)煩を除き、いずれも円寂〈涅槃〉を成すのだ。勝義諦の理は逈かに名言〈言語表現〉を絶っている。(しかしながら一方、)覆俗諦には文句〈言説〉が無いことはない覆俗諦は古くは世俗諦といったが、それでは(その)意味を完全に表しえていない。その意は「俗事が他の真理を覆う」というものである。ただ色(物質)であって、元から瓶でないものを妄りに「瓶である」と理解する。ただ声(音)であって、歌曲でないの漫りに「歌である」との思いをいたす。また、識が共に生じる時、その本質としては分別など無いものを、無明に蔽われて妄りに諸々の形があるとの想いを起こす。自らの心を理解せず鏡が外にあると謂う。蛇と繩とを誤認し(また縄が有るなどと思って)いずれも誤って正智はこうして淪む。これに由って真理を葢うことから「覆俗」という。この覆とは俗であることに拠って「覆俗」という。あるいはただ真諦・覆諦と言うべきである。
しかも古来の訳〈迦葉摩騰や鳩摩羅什など古訳や旧訳の三蔵〉は、梵軌〈印度の学則、または梵語の文法〉を談ることはほとんどなかった。近年の伝経(の僧は)、ただ初七〈七転(七例)〉を云ったのみである。(それは彼らが梵語の文法を)知らないからではない。(そうしたところで)益など無いと論じないのだ。今、(私が)望むのは、梵文を(支那の仏僧らが)総合的に学んだならば、翻訳の重によって労することがなくなるであろう、ということにある。その為に、聊かながら(「西方学法」という)節段を題して、粗々その初基〈基本〉を述べていきたい然るに(蛮夷である)崑崙や速利国でもなお、よく総て梵経を讚歎するのだ。どうして天府の神州たる(支那が)その本説を談じないことがあろうか。故に西方では讃じて云うのだ、「曼殊室利(文殊師利)が現に并州に在る。(支那の)人は皆な福があって、その理は欽讃すべきものである」と。その(印度にて支那を讃嘆する)文は詳細なものである。ここに繁く記録しない。
そもそも声明とは、梵語でśabda-vidyā〈攝拖苾馱〉と云ふ。śabdaとは声、vidyāは明。すなわち五明論〈古代印度における伝統的五種の学問〉の一明である。五天の俗書では、総じてこれをvyākaraṇa〈毗何羯喇拏〉という。おおよそその数に五つあって、神州の(儒教における)五経と同様である古くは『毗伽羅論』と云うが音訛である。
その第一はすなわち『創学悉談章』、またはSiddhirastu〈悉地羅窣覩〉という。これはすなわち小学標章の称である。ただ(その意図は)「成就吉祥」を目したものだ。(梵字には)その根本となるものに四十九字がある。それらを互いに組み合わせて十八章を形成する。総じて一万余字あって、合わせて三百余頌となる。およそ一頌と言えば四句ある。そして一句は八字であるから、総じて三十二言となる。(しかし、他にも)さらに小頌・大頌があって、具さに述べることはできない。六歳の童子がこれを学び、六ヶ月にして方に了る。これは相伝によれば、大自在天の説いたものである、とのことだ。
その第二はSūtra〈蘇呾囉〉という。すなわちこれが一切声明の根本経である。訳して「略詮意明」といい、略してその要義を詮かにするものだ。一千頌ある。これは古の博学の鴻儒〈大学者〉、Pāṇini〈波尼你〉が造ったものであり、大自在天〈Maheśvara〉の加護のもとなされた。(大自在天の)面には三つの目をあると、今の人は信じている。八歳の童子が八ヶ月で誦し了る。
その第三はDhātu〈馱覩章〉という。一千頌ある。もっぱら字元〈語根〉を明かしたもの。その功、上述の経に同様である。
その第四はKhila〈三棄攞章〉といい、これは荒梗〈荒野〉の義である。その意は、田夫が創めて疇畎を開墾するのに(童子が学問の道を開いていくのに)比す(題目である)。まさに(漢訳して)「三荒章」と言うべきもの。(その三とは)一つにはAṣṭadhātu〈頞瑟吒馱覩〉一千頌ありという。二つにはMuṇḍa〈文荼〉一千頌ありという。三にはUṇādi〈鄔拏地〉一千頌ありという。Dhātu〈馱覩.Aṣṭadhātu〉とは則ち、その意は七例を明かし、十羅声〈動詞の十種の活用〉を曉にして、二九の韻〈動詞を作るために語根に加える十八の人称語尾〉を述べたもの。七例とは、すべての声〈名詞・形容詞〉の上に皆悉くあるもの。一つ一つの声の中に各々三節を分かつ。いわゆる一言〈単数〉・二言〈両数〉・多言〈複数〉である。総じて二十一言となる。(例えば)男子〈puruṣa. 男性名詞〉についてこれを言えば、一人をpuruṣaḥ〈補嚕灑〉と名け、兩人をpuruṣau〈補嚕稍〉と名け、三人をpuruṣāḥ〈補嚕沙〉とする。この中の声〈発音〉には、呼・噏・重・軽の別がある。七例の他に、更に呼名の声〈呼格.vocative〉がある。すなわち(七例にこれを足して)八例となる。初めの句〈体格.Nominative〉として三〈単数・両数・複数〉を示したが、他のすべて(の名詞・形容詞)もこれに准ぜよ。(これ以上は)繁を恐れて録さない。(これを)subanta〈蘇盤多聲〉という総じて三八、二十四声がある。「十羅聲」とは十種の羅字〈(la)〉があり、一声を顕す時にすなわち(過去・現在・未来の)三世の(時制の)異なりを明らかにするもの。「二九の韻」とは、上中下、尊卑、彼此の別を明らかにするもので、その言に十八の不同がある。これをtiṅanta 〈丁岸哆聲〉という。Muṇḍaとは合して字体を成す方法を述べたものである。今仮に「樹」という一つの語の成立について言えば、梵語ではvṛkṣa〈苾力叉〉と云うが、そこで(Pāṇiniの)二十余句の経文を引きつつ、(vṛkṣaの語根である√vraścを)互いに相交えて、まさに一事の名詞を形成する(理論と課程を説き示す)。Uṇādiもすなわち大いにその例〈Muṇḍa〉に同じである。しかし(そこには)広・略あって、同じでないことから(書として)異なったものとしている。この「三荒章」は、十歳の童子が三年勤学してまさにその義を解す。
その第五は、謂わくVṛttisūtra〈苾栗底蘇呾羅〉、すなわちこれは前のSūtra〈蘇呾囉〉の注釈書である。すなわち、上古に注釈書が作られ、その類は実に多かったが、その中でも妙なるもので一万八千頌ある。その経本について演べて詳細にその衆義を談じ、寰中〈宇宙〉の規矩を盡し、天人の軌則を極めている。十五の童子が五年をかけ、まさに解す。
神州の人で、もし西方に向かって学問を求めるならば、要ず須くこれを知ってから、まさに他を習うべきである。もしそうしなければ、空く自ら徒労するに終わるであろう。これら等の諸書は、いずれも須く暗誦すべきである。(もっとも、)これは上人〈機根の優れた人〉に依って准じいったものであり、(その能力が)中・下の流であれば、その(修学期間や方法について)意を測れ。昼夜に精勤して寧寝〈静かに寝ること〉する遑などない。孔父の三絶〈韋編三絶〉に同じく、歳釋の百遍〈読書百徧にして義、自ら見る〉に等しい。牛毛は幾千ほどの数はあるが、麟角はただ一つである。その功を比するとすれば、神州の上経〈『周易』上経三十卦か?〉を明らめるのと相い似たものである。これ〈Kāśikāvṛtti〉は学士、Jayāditya〈闍耶昳底〉が造ったものである。その人の器量は弘く深くして、その文彩は秀発であり、(何事か)一たび聞いたならばたちまち理解するほどで、どうして再び談らせる必要があったろうか。敬って三尊〈三宝〉を重じ、多く福業を営んだ。その生涯を終えてから、今は三十年にもなろうかとしている。
その注釈を閑い終わったならば、まさに書・表を緝綴〈集めて綴ること〉し、詩篇を(自ら)造ることを学ぶ。想いを因明〈hetu-vidyā. 論理学〉に向け、その誠を倶舍〈Abhidharmakośa-bhāṣya. 『阿毘達磨倶舎論』〉に留める。理門論〈Nyāyamukha. 『因明正理門論』〉を尋ねて比量〈anumāna. 推論〉を善く成し、本生貫〈Jātakamālā. 本生譚〉を習って清才を秀發とする。そうして後に函丈〈師に親しく就くこと〉してその伝授をうけること六年を経る。その多くはNālandā〈那爛陀寺〉中天也に在る。あるいはValabhī国〈跋臘毘国〉西天也に居す。これら両処は、(支那の)金馬・石渠・龍門・闕里に等しい。英彦〈英才〉が雲のように聚って、(真理についての)是非を商搉〈比較し考察すること〉している。もしその賢明なることが、(周囲から)「善い哉」と歎じられ、遐邇〈遠所と近所〉に「儁である」と称賛されたならば、まさに始めて自ら鋒鍔〈鋭い刀剣〉(に比せられる智慧)を忖って、その刃を王庭〈王宮〉に投じ、策を献じその才を呈して、(智者として)用いられることを希望する。談論の処に坐したならば、自ら席を重ねてその奇才を表す。破斥〈論争〉の場に登ったならば、他は舌を結んで沈黙し、愧入るばかりとなる。(その名は高く天下に)響いて五山に震い、その名声は四域に流れる。そうして後に封邑〈領地〉を受けて班〈官位〉を与えられ、素〈平民の出〉ながらも高門〈名門・名家〉に賞せられ、さらに余業も修めていくのだ。
またVṛttisūtra〈苾栗底蘇呾羅〉にも議釈〈注釈書〉がある。Cūrṇi〈朱你〉といって二十四千頌ある。これは学士、Patañjali〈鉢顛社攞〉が造ったものである。これはすなわち重ねて前の経〈PāṇiniのSūtra〉を明らかにするものであり、臂肌〈?〉、理を分かっている。後の釈〈vṛttisūtra. 特にKāśikāvṛtti〉を詳しく明らかにし、毫芒〈極めて微細な点〉をも剖折している。経を明らかにするためこれを学ぶこと三年にしてまさに了る。その功は、(支那の)『春秋』や『周易』と相い似ている。
次にBhartṛhariの論書〈Mahābhāṣyadīpikā. 伐致呵利論〉がある。これは前のCūrṇi〈朱你〉の議釈である。すなわち大学士、Bhartṛhari〈伐㨖呵利〉が造ったものであり、二万五千頌ある。これはすなわち盛んに人事と声明の要を談じ、広く諸家興廃の由を叙べ、深く唯識を明らかにして善く因喩を論じている。この学士の名は響いて五天〈全印度〉に震い、その徳は八極〈八方〉に流れている。徹かに三宝を信じ、諦かに二空〈人法二空。大乗の空〉を想う。勝法〈優れた教え. 仏教〉を希って出家し、しかし纒染〈煩悩〉を(捨てきれずに)恋て還俗した。この(出家と還俗の)往復の数は七度に至っている。(それはむしろ)深く因果を信ずているのでなければ、誰がよくこのように(出家と在家の二つの世界に)勤著するであろうか。それを自ら嗟く詩には、「染に由って便ち俗に帰り、貪を離れて還た緇〈袈裟衣〉を服す。どうしたらよいのであろうか、この両種〈出家と在家〉の事を。私を弄ぶこと嬰兒のようである」と。すなわちこれ護法師〈Dharmapāla〉と同時の人である。(出家しても)每に寺の中で帰俗〈還俗〉への心があって、煩惱に逼められ、それが止みがたく確固として移ろわない時には、たちまち(寺の)学生に命じて輿を寺外に向かわせた。当時の人が(何故に寺の外に向かうのか)その理由が問うと、(彼が)答えて言うには、「およそこの(出家という)福地は元来、戒行の居る所に擬せられている。私はすでに内に邪心がある。すなわち、これは正教を虧いたものである。(そんな私に)十方の僧地で足を投ずる所など無い」とのことであった。(そこで彼は)清信士〈upāsaka. 優婆塞〉となって、その身に白衣をまとい、(そうしたかと思えば、再び)まさに寺中に入て(出家し)正法を宣揚したのである。(彼が没して)化を捨てて以来、四十年を経ている。
次にVākyapadīya〈薄迦論〉があって、その頌に七百がある。その注釈は七千ある。またこれもBhartṛhari〈伐㨖呵利〉の造ったものである。聖教量〈聖者・聖典の言葉を事物の本質を知るための根拠とすること〉、及び比量の義を叙べたものである。
次にPrakīrṇaka〈蓽拏〉がある。頌に三千ある。その注釈は一万四千頌ある。すなわちBhartṛhari〈伐㨖呵利〉の造ったもので、その注釈は護法論師が製ったものである。謂うべし、天地の奧祕を窮めて人理の精華を極めたものであると。もし人がこの書にまで(その学問を)至らせたならば、まさに善く声明を解したとされる。(それはあたかも、支那の)九経〈『詩経』・『書経』・『易経』・『儀礼』・『礼記』・『周礼』・『春秋左氏伝』・『春秋公羊伝』・『春秋穀梁伝』〉の百家〈多くの学者〉と相い似たものである。
これ等の諸書は、法俗〈出家・在家〉が悉く皆、共通して学ぶ。もしそれを学ばないとしたならば、多聞〈博学・識者〉の称を得ることはない。もし出家の人ならば(先ずは)遍くVinaya〈毘奈耶.律〉を学び、具に経および論を討つ。外道を挫くこと、あたかも中原の鹿を逐〈帝位を巡って戦うこと〉ようなものであり、傍詰〈批判・論難〉を解くことはあたかも沸鼎が凌を銷すようなものである。遂には(その学徳ある名は)響いて贍部〈Jambu-dvīpa. 南瞻部洲。印度亜大陸〉の中に流布し、敬われて人々と神々の上の座を受けることとなる。仏を助けて教化を揚げて、広く群有〈衆生・群生〉を導く。それはすなわち奕代〈歴代〉に挺生〈抜きん出た人として生まれ出ること〉している。(時代時代に現れるのは)もしくは一人、もしくは二人であって、喩えて言うならば日月のようなもの。その様子を表してこれを龍象〈nāga〉に譬えられる。それはすなわち、遠は龍猛〈Nāgārjuna〉、提婆〈Āryadeva〉、馬鳴〈Aśvaghoṣa〉の類ひ、中は則ち世親〈Vasubandhu〉、無著〈Asaṅga〉、僧賢〈Saṃghabhadra〉、清弁〈Bhāvaviveka〉の徒ら、近は則ち陳那〈Dignāga〉、護法〈Dharmapāla〉、法称〈Dharmakīrti〉、戒賢〈Śīlabhadra〉、及び師子月〈Siṃhacandra?〉、安惠〈Sthiramati〉、德惠〈Guṅamati〉、惠護〈未詳〉、德光〈Guṇaprabha〉、勝光〈未詳〉の輩である。これ等の大師は、前の内外の衆徳を具えていないということは無い。各々いずれも少欲知足であって、誠に比類ない。俗流・外道の内であってもその中にはこの類の人は得難い詳しくは『西方十徳伝』の中にて具さに述べている通り。法称はすなわち(陳那の後に)重ねて因明を顕わし、徳慧はすなわち再び律蔵を弘めている。徳惠はすなわち定門を想って(心を)澄ましめ、惠護はすなわち広く正邪を弁じている。まさに験れるのに鯨海〈大海〉の巨深には名珍〈伝説的財宝〉がその輝きを現し、香峯〈香酔山〉の高峻には上薬がその奇瑞を呈する(かのようなものである)。ここに知るのである、仏法とは弘大な(真理の)含蓄であることを。何の納められないものなどあろうか。響〈言葉〉に応じて篇〈書物〉を成さないということなどない。むしろ「十四の足〈何を指したものか不明〉」を煩すことがあろうか。(読書すること)百遍の労を経ることなど無く、両卷〈何を指したものか不明〉、一び聞けばたちまち領るある外道が「六百頌」を造り、来たって護法師を論難した。法師は衆に対して一たび聞いて、その文も義も倶に領したのである。
また、五天の地では皆婆羅門〈brāhmaṇa〉をもって貴勝とする。凡そ有る座席において、どんな他の三姓〈Kṣatriya(士族) / Vaiśya(黎民) / Śūdra(奴婢)〉と同く行かず。それ以外の雑類〈avarṇa(不可触賤民)〉は、故に宜く遠ざけなければならない。尊ばれている典誥〈古典〉に四つのVeda〈薜陀〉という書があって十万頌ほどある。Vedaとは「明解」〈√vid(理解する・知る)〉の義。旧訳で「圍陀」と云うのは訛である。みな悉く口づから相い伝授しており、これを紙葉に書すことはない。(いつの時代も)毎に聰明なる婆羅門があって、この十万頌を(口承して)誦している。すなわち、西方においては、相承して聰明たることを学ぶ法がある。一つには謂く「生覆審智」。二には則ち「字母安神」である。旬月〈十日・一月〉の間にその思いは泉が湧くかのようになって一たび聞いてたちまち理解するようになり、再び教わる必要が無い。(私義浄は)実際にその人を覩たけれども、固に虚でなかった。東印度において、一りの大士がある。その名を月官という。それは大才雄の菩薩の人であった。浄〈義浄〉が(彼の地に)到った日、その人はなお存命であった。ある人が彼に問うて言った、「毒境〈心に悪をもたらす認識対象。あるいは煩悩に染まった心で対象を認識すること〉と毒薬と、その害をなすことどちらが重いだろうか」と。その声に応じて答えて言うには、「毒薬と毒境とは、互いに(その害の程度という点において)かけ離れたものであること実に遙である。毒薬は口に入れればば害となるであろうが、毒境は念じるだけでたちまち燒かれるだから」と。
また、騰蘭〈kāśyapa mātaṅga(迦葉摩騰)と?(竺法蘭)〉は、すなわちその芳名を東洛〈洛陽〉に震い、真帝〈Paramārtha(真諦)〉は則ち(その高名の)響を南溟〈南海〉から運んだ。大徳羅什〈Kumārajīva(鳩摩羅什)〉、徳匠を他土〈支那。羅什の出身は亀茲〉に致し、法師玄奘は、師功を自邦〈自国。支那〉に演べた。そこで今古の諸師はいずれも仏法という太陽の光を伝えるのだ。有・空〈声聞乗と大乗〉と斉く学ぶ時は三蔵〈経律論.仏典の総称〉を習って師となし、定・慧〈三摩地と智慧.止と観〉とを双べ修めるときは七覚〈七覚支・七菩提分〉をして匠としている。その西方に現在もあるのは、すなわち羝羅荼寺〈原語未詳〉には智月〈原名未詳〉法師有り。Nālandā〈那爛陀〉の中には則ち宝師子〈Ratnasiṃha?〉大徳、東方にはすなわち地婆羯羅蜜呾囉〈Divākaramitra?〉がある。南𮖭には呾他掲多掲娑〈Tathāgatagarbha?〉がある。南海の仏誓国〈Śrīvijaya〉には則ち釋迦雞栗底〈Śākyakīrti?〉がある今現に仏誓国にある。五天竺を遍歴して広く学んでいる。彼らはいずれもその秀才を前賢に比され、その蹤を往哲に追っている。因明論〈論理学書〉を曉しては、すなわち陳那〈Dignāga〉に擬ことを思い、瑜伽の宗〈瑜伽行唯識〉を味って、実に懐を無著〈Asaṅga〉に罄す。空を談ずるとき則ち巧に龍猛〈Nāgārjuna〉に符し、有を論ときは則ち妙に僧賢〈Saṃghabhadra〉に体としている。この諸々の法師は、(私)淨〈義浄〉がいずれも親しくその講筵に机を並べ、その微妙なる言葉を味わい受けたのだ。新たな知識を得れば、未だ聞いたことないことと慶び、すでに知る事柄を聴けば、かつてそれを得たときの想いを温めた。(仏法の)伝灯という一つの望みを想って、実に「朝聞」〈『論語』「朝に道を聞かば夕に死すとも可なり」に基づく表現。後の「昏滅」に掛かる〉を喜び、「蕩塵の百疑」〈典拠不明。あらゆる疑問を解決すること〉を冀って、すなわち分て昏滅〈「夕に死」〉に随うのだ。尚って、すなわち遺珠〈仏陀の遺教〉を鷲嶺〈Gṛdhrakūṭa(霊鷲山)〉に拾っては、時にその真を得。散宝〈仏陀の遺教〉を龍河〈Nairañjanā(尼連禅河)〉に択んでは、頗るその妙に逢う。仰で三宝の遠被を蒙り、皇沢の遐霑に頼んで、遂に踵を旋らして東帰し、帆を南海〈インド洋から東南アジア沿岸部〉に鼓つことが出来た。耽摩立底国〈Tāmralipti〉よりすでに室利仏誓〈Śrīvijaya〉に達した。(この地で)停住することすでに四年を経、留連して、いまだ帰国に及ばず。