南海寄歸内法傳巻第四
唐三藏沙門義淨撰
三十四西方學法
夫大聖一音則貫三千而總攝或隨機五道乃彰七九而弘濟七九者卽是聲明中七轉九例也如下略明耳
時有意言法藏天帝領無説之經或復順語談詮支那悟本聲之字致使投縁發慧各稱虚心唯義除煩並凝圓寂至於勝義諦理逈絶名言覆俗道〈諦の誤写〉中非無文句覆俗諦者舊云世俗諦義不盡也意道俗事覆他眞理色本非瓶妄爲瓶解聲無歌曲漫作歌心又復識相生時體無分別無明所蔽妄起衆形不了自心謂鏡居外蛇繩並繆正智斯淪由此葢眞名爲覆俗矣此據覆卽是俗名爲覆俗或可但云眞諦覆諦
然則古來譯者梵軌罕談近日傳經但云初七非不知也無益不論今望總習梵文無勞翻譯之重爲此聊題節段粗述初基者歟然而骨崙速利尚能總讚梵經豈況天府神州而不談其本説故西方讃云曼殊室利現在并州人皆有福理應欽讃其文既廣此不繁録
夫聲明者梵云攝拖苾馱停夜反 攝拖是聲苾馱是明卽五明論之一明也五天俗書總名毗何羯喇拏大數有五同神州之五經也舊云毗伽羅論音訛
一則創學悉談章亦名悉地羅窣覩斯乃小學標章之稱但以成就吉祥爲目本有四十九字共相乘轉成一十八章總有一萬餘字合三百餘頌凡言一頌乃有四句一句八字總成三十二言更有小頌大頌不可具述六歳童子學之六月方了斯乃相傳是大自在天之所説也
二謂蘇呾囉卽是一切聲明之根本經也譯爲略詮意明略詮要義有一千頌是古博學鴻儒波尼你所造也爲大自在天之所加被面現三目時人方信八歳童子八月誦了
三謂馱覩章有一千頌專明字元功如上經矣
四謂三棄攞章是荒梗之義意比田夫創開疇畎應云三荒章一名頞瑟吒馱覩一千頌 二名文荼一千頌 三名鄔拏地一千頌 馱覩者則意明七例曉十羅聲述二九之韻言七例者一切聲上皆悉有之一一聲中各分三節謂一言二言多言總成二十一言也如喚男子一人名補嚕灑兩人名補嚕稍三人名補嚕沙此中聲有呼噏重輕之別於七例外更有呼名聲便成八例初句既三餘皆准此恐繁不録名蘇盤多聲總有三八二十四聲十羅聲者有十種羅字顯一聲時便明三世之異二九韻者明上中下尊卑彼此之別言有十八不同名丁岸哆聲也文荼則合成字體且如樹之一目梵云苾力叉便引二十餘句經文共相雜糅方成一事之號也鄔拏地則大同斯例而以廣略不等爲異此三荒章十歳童子三年勤學方解其義
五謂苾栗底蘇呾羅卽是前蘇呾囉釋也乃上古作釋其類寔多於中妙者有十八千頌演其經本詳談衆義盡寰中之規矩極天人之軌則十五童子五歳方解
神州之人若向西方求學問者要須知此方可習餘如其不然空自勞矣斯等諸書並須暗誦此據上人爲准中下之流以意可測翹勤晝夜不遑寧寢同孔父之三絶等歳釋之百遍牛毛千數麟角唯一比功與神州明上經相似此是學士闍耶昳底所造其人乃器量弘深文彩秀發一聞便領詎假再談敬重三尊多營福業沒代于今向三十載矣
閑斯釋已方學緝綴書表製造詩篇致想因明虔誠倶舍尋理門論比量善成習本生貫淸才秀發然後函丈傳授經三二年多在那爛陀寺中天也 或居跋臘毘國西天也 斯兩處者事等金馬石渠龍門闕里英彦雲聚商搉是非若賢明歎善遐邇稱儁方始自忖鋒鍔投刃王庭獻策呈才希望利用坐談論之處己則重席表奇登破斥之場他乃結舌稱愧響震五山聲流四域然後受封邑策班賞素高門更修餘業矣
復有苾栗底蘇呾羅議釋名朱你有二十四千頌是學士鉢顛社攞所造斯乃重顯前經臂〈擘の誤写?〉肌分理詳明後釋剖折毫芒明經學此三歳方了功與春秋周易相似
次有伐致呵利論是前朱你議釋卽大學士伐㨖呵利所造有二十五千頌斯則盛談人事聲明之要廣叙諸家興廢之由深明唯識善論因喩此學士乃響震五天德流八極徹信三寶諦想二空希勝法而出家戀纒染而便俗斯之往復數有七焉自非深信因果誰能若此勤著自嗟詩曰由染便歸俗離貪還服緇如何兩種事弄我若嬰兒卽是諸〈護の誤写〉法師之同時人也每於寺内有心歸俗被煩惱逼確爾不移卽令學生輿向寺外時人問其故答曰凡是福地本擬戒行所居我既内有邪心卽是虧乎正教十方僧地無處投足爲淸信士身著白衣方入寺中宣揚正法捨化已來經四十年矣
次有薄迦抧也反 論頌有七百釋有七千亦是伐㨖呵利所造叙聖教量及比量義
次有蓽拏頌有三千釋有十四千頌乃伐㨖呵利所造釋則護法論師所製可謂窮天地之奧祕極人理之精華矣若人學至於此方曰善解聲明與九經百家相似斯等諸書法俗悉皆通學如其不學不得多聞之稱若出家人則遍學毘奈耶具討經及論挫外道若中原之逐鹿解傍詰同沸鼎之銷淩〈凌の誤写〉遂使響流贍部之中受敬人天之上助佛揚化廣導羣有此則奕代挺生若一若二取喩同乎日月表況譬之龍象斯乃遠則龍猛提婆馬鳴之類中則世親無著僧賢淸辯之徒近則陳那護法法稱戒賢及師子月安惠德惠惠護德光勝光之輩斯等大師無不具前内外衆德各並少欲知足誠無與比俗流外道之内中此類而難得廣如西方十德傳中具述法稱則重顯因明德光乃再弘律藏德惠乃定門澄想惠護則廣辯正邪方驗鯨海巨深名珍現彩香峯高峻上藥呈奇是知佛法含弘何所不納莫不應響成篇寧煩十四之足無勞百遍兩卷一聞便領有外道造六百頌來難護法師法師對衆一聞文義倶領
又五天之地皆以婆羅門爲貴勝凡有座席並不與餘三姓同行自外雜類故宜遠矣所尊典誥有四薜陀書可十萬頌薜陀是明解義先云圍陀者訛也咸悉口相傳授而不書之於紙葉每有聰明婆羅門誦斯十萬卽如西方相承有學聰明法一謂生覆審智二則字母安神旬月之間思若泉涌一聞便領無假再談親覩其人固非虚耳於東印度有一大士名日〈曰の誤写〉月官是大才雄菩薩人也淨到之日其人尚存或問之曰毒境與毒藥爲害誰爲重應聲答曰毒藥與毒境相去實成遙毒藥餐方害毒境念便燒
又復騰蘭乃震芳於東洛眞帝則駕響於南溟大德羅什致德匠於他土法師玄奘演師功於自邦然今古諸師並光傳佛日有空齊致習三藏以爲師定慧雙修指七覺而爲匠其西方現在則羝羅荼寺有智月法師那爛陀中則寶師子大德東方卽有地婆羯羅蜜呾囉南𮖭有呾他掲多掲娑南海佛誓國則有釋迦雞栗底今現在佛誓國歴五天而廣學矣 斯並比秀前賢追蹤往哲曉因明論則思擬陳那味瑜伽宗實罄懷無著談空則巧符龍猛論有則妙體僧賢此諸法師淨並親狎筵机餐受微言慶新知於未聞温舊解於曾得想傳燈之一望實喜朝聞冀蕩塵之百疑則分隨昏滅尚乃捨〈拾の誤写〉遺珠於鷲嶺時得其眞擇散寶於龍河頗逢其妙仰蒙三寶之遠被頼皇澤之遐霑遂得旋踵東歸鼓帆南海從耽摩立底國已達室利佛誓停住已經四年留連未及歸國矣
底本:嘉興蔵
南海寄歸内法傳巻第四
唐三藏沙門義淨撰
三十四西方學法
夫れ大聖の一音、則ち三千を貫て總攝し、或は機に五道に隨て、乃ち七九を彰して弘濟す七九とは卽ち是れ聲明の中の七轉九例なり。下に略して明すが如し。
時に意言の法藏有り。天帝、無説の經を領す。或は復た語に順て詮を談ず。支那、本聲の字を悟る。縁に投じ慧を發して各虚心に稱はしむることを致す。唯だ義、煩を除き、並に圓寂を凝す。勝義諦の理に至ては、逈かに名言を絶す。覆俗諦の中、文句無きに非ず覆俗諦は舊に世俗諦と云ふ。義、盡きず。意の道く俗事は他の眞理を覆ふ。色、本と瓶に非るを妄りに瓶の解を爲す。聲、歌曲無きを漫に歌の心を作す。又復た識、相ひ生ずる時、體、分別無し。無明に蔽はれて妄りに衆形を起す。自心を了せず、鏡、外に居すと謂ふ。蛇繩、並に繆て、正智斯に淪む。此に由て眞を葢ふ。名て覆俗と爲す。此れ覆卽ち是れ俗なるに據て、名て覆俗と爲す。或は但だ眞諦覆諦と云ふべし。
然も則ち古來の譯は梵軌談ること罕なり。近日の傳經、但だ初七を云ふ。知らざるに非ず。益無しとして論ぜずなり。今ま望くは梵文を總習せば、翻譯の重を勞すること無ん。此が爲に聊か節段を題して粗初基を述る者か然るに而骨崙速利、尚を能く總て梵經を讚ず。豈に況や天府神州にして其の本説を談ぜず。故に西方、讃して云く、曼殊室利、現に并州に在りと。人皆、福有り。理、欽讃すべし。其の文、既に廣し。此に繁く録せず。
夫れ聲明とは、梵には攝拖苾馱停夜の反と云ふ。攝拖は是れ聲、苾馱は是れ明。卽ち五明論の一明なり。五天の俗書、總じて毗何羯喇拏と名く。大數、五つ有り。神州の五經に同じ舊には毗伽羅論と云ふ。音訛なり。
一には則ち創學悉談章。亦は悉地羅窣覩と名く。斯れ乃ち小學標章の稱なり。但し成就吉祥を以て目と爲す。本と四十九字有り。共に相ひ乘轉して一十八章を成す。總じて一萬餘字有り。合して三百餘頌なり。凡そ一頌と言は乃ち四句有り。一句八字なれば總じて三十二言を成す。更に小頌・大頌有り。具に述すべからず。六歳の童子、之を學ぶ。六月にして方に了る。斯れ乃ち相ひ傳ふ、是れ大自在天の所説なりと。
二には蘇呾囉と謂ふ。卽ち是れ一切聲明の根本經なり。譯して略詮意明と爲す。略して要義を詮ず。一千頌有り。是れ古の博學の鴻儒、波尼你が造る所なり。大自在天の爲に加被せらる。面に三目を現ず。時の人、方に信ず。八歳の童子、八月に誦し了る。
三には馱覩章と謂ふ。一千頌有り。專ら字元を明す。功、上の經の如し。
四には三棄攞章と謂ふ。是れ荒梗の義。意ろ、田夫の創て疇畎を開くに比す。應に三荒章と云ふべし。一には頞瑟吒馱覩一千頌ありと名く。二には文荼一千頌ありと名く。三には鄔拏地一千頌ありと名く。馱覩とは則ち意ろ七例を明し、十羅聲を曉して、二九の韻を述ぶ。七例と言はば、一切の聲の上に皆悉く之れ有り。一一の聲の中に、各三節を分つ。謂く一言・二言・多言なり。總て二十一言を成す。男子を喚ぶが如き、一人を補嚕灑と名け、兩人を補嚕稍と名け、三人を補嚕沙と名く。此の中の聲に呼・噏・重・輕の別有り。七例の外に於て更に呼名の聲有り。便ち八例を成す。初の句、既に三あり。餘の皆、此に准ぜよ。繁を恐れて録せず。蘇盤多聲と名く總て三八二十四聲有り。十羅聲とは、十種の羅字有り。一聲を顯す時、便ち三世の異を明す。二九の韻とは、上中下、尊卑、彼此の別を明す。言に十八の不同有り。丁岸哆聲と名く。文荼は則ち合して字體を成ず。且く樹の一目の如き、梵には苾力叉と云ふ。便ち二十餘句の經文を引て、共に相ひ雜糅して、方に一事の號を成す。鄔拏地、則ち大に斯の例に同じ。而も廣略、等らざるを以て異と爲す。此の三荒章は、十歳の童子、三年勤學して方に其の義を解す。
五には謂く苾栗底蘇呾羅。卽ち是れ前の蘇呾囉の釋なり。乃ち上古に釋を作る、其の類、寔に多し。中に於て妙なる者、十八千頌有り。其の經本を演べ、詳に衆義を談じ、寰中の規矩を盡し、天人の軌則を極む。十五の童子、五歳にして方に解す。
神州の人、若し西方に向て學問を求めば、要ず須く此を知て方に餘を習ふべし。如し其れ然らざれば、空く自ら勞す。斯れ等の諸書、並に須く暗誦すべし。此は上人に據て准じて爲す。中下の流は意を以て測るべし。晝夜に翹勤して寧寢に遑あらず。孔父の三絶に同く、歳釋の百遍に等し。牛毛は千數、麟角は唯だ一なり。功を比するに神州の上經を明むると相ひ似り。此は是れ學士、闍耶昳底の造る所なり。其の人、乃ち器量、弘深にして、文彩、秀發し、一び聞て便ち領す。詎ぞ再談を假ん。敬て三尊を重じ、多く福業を營む。代を沒して今に三十載に向んとす。
斯の釋を閑ひ已て、方に書・表を緝綴し、詩篇を製造することを學ぶ。想を因明に致し、誠を倶舍に虔む。理門論を尋て比量善く成し、本生貫を習て淸才秀發す。然して後に函丈傳授、三二年を經。多は那爛陀寺中天なりに在り。或は跋臘毘國西天なりに居す。斯の兩處は事、金馬・石渠・龍門・闕里に等し。英彦、雲の如に聚て是非を商搉す。若し賢明、善と歎じ、遐邇、儁と稱して、方に始て自ら鋒鍔を忖り、刃を王庭に投じ、策を獻じ才を呈して、利用を希望す。談論の處に坐めば、己れ則ち席を重ね奇を表す。破斥の場に登ては、他乃ち舌を結び愧を稱す。響き、五山に震ひ、聲、四域に流る。然して後に封邑を受て班を策し、素を高門に賞し、更に餘業を修す。
復た苾栗底蘇呾羅の議釋有り。朱你と名く。二十四千頌有り。是れ學士、鉢顛社攞が造る所なり。斯れ乃ち重て前の經を顯て、擘肌、理を分つ。後釋を詳明にして、毫芒を剖折す。明經、此を學すこと、三歳にして方に了る。功、春秋・周易と相ひ似たり。
次に伐致呵利論有り。是れ前の朱你の議釋なり。卽ち大學士、伐㨖呵利が造る所なり。二十五千頌有り。斯れ則ち盛に人事聲明の要を談じ、廣く諸家興廢の由を叙じ、深く唯識を明して善く因喩を論ず。此の學士は乃ち響き五天に震ひ、德、八極に流る。徹かに三寶を信じ、諦かに二空を想ふ。勝法を希て出家し、纒染を戀て便ち俗となる。斯の往復、數ず七たび有り。深く因果を信ずるにあらずんば、誰か能く此の若く勤著せん。自ら嗟く詩に曰く、染に由て便ち俗に歸り、貪を離て還た緇を服す。如何んぞ兩種の事、我を弄して嬰兒の若くなると。卽ち是れ護法師の同時の人なり。每に寺内に於て歸俗に心有て、煩惱に逼められ、確爾として移らざるときは、卽ち學生をして輿を寺外に向はしむ。時の人、其の故を問ふ。答て曰く、凡そ是の福地は本と戒行の所居に擬す。我れ既に内に邪心有り。卽ち是れ正教を虧く。十方の僧地、足を投ずるに處無し。淸信士と爲て身、白衣を著し、方に寺中に入て正法を宣揚す。化を捨てて已來、四十年を經たり。
次に薄迦抧也の反論有り。頌、七百有り、釋、七千有り。亦是れ伐㨖呵利の造る所なり。聖教量、及び比量の義を叙す。
次に蓽拏有り。頌、三千有り、釋、十四千頌有り。乃ち伐㨖呵利の造る所。釋は則ち護法論師の製る所なり。謂つべし、天地の奧祕を窮して人理の精華を極むと。若し人と此に至れば、方に善く聲明を解と曰ふ。九經百家と相ひ似たり。
斯れ等の諸書、法俗悉く皆通學す。如し其れ學ばざれば、多聞の稱を得ず。若し出家の人は則ち遍く毘奈耶を學び、具に經及び論を討ぬ。外道を挫くこと中原の鹿を逐が若く、傍詰を解くこと沸鼎の凌を銷するに同じ。遂に響き贍部の中に流し、敬て人天の上に受けしむ。佛を助て化を揚げ、廣く羣有を導く。此れ則ち奕代挺生す。若は一、若は二、喩を取て日月に同じ。況を表して之を龍象に譬ふ。斯れ乃ち遠は則ち龍猛、提婆、馬鳴の類ひ、中は則ち世親、無著、僧賢、淸辯の徒ら、近は則ち陳那、護法、法稱、戒賢、及び師子月、安惠、德惠、惠護、德光、勝光の輩なり。斯れ等の大師、前の内外の衆德を具せずと云こと無ん。各並に少欲知足にして誠に與比無し。俗流外道の内、中には此の類、得難し廣は西方十德傳の中に具に述るが如し。法稱は則ち重て因明を顯し、德は乃ち再び律藏を弘む。德惠は乃ち定門、想て澄しめ、惠護は則ち廣く正邪を辯ず。方に驗るに鯨海の巨深、名珍、彩を現し、香峯の高峻、上藥、奇を呈す。是に知ぬ、佛法の含弘、何の納れざる所かあらん。響に應じて篇を成さずと云こと莫し。寧ろ十四の足を煩んや。百遍を勞すること無く、兩卷一び聞て便ち領す有る外道、六百頌を造て、來て護法師を難ず。法師、衆に對して一び聞て文義倶に領す。
又、五天の地、皆婆羅門を以て貴勝と爲す。凡そ有る座席に並に餘の三姓と同く行かず。自外の雜類、故に宜く遠くすべし。所尊の典誥に四薜陀の書有り。十萬頌ばかり。薜陀は是れ明解の義。先に圍陀と云ふは訛なり。咸な悉く口づから相ひ傳授して之を紙葉に書せず。每に聰明の婆羅門有て、斯の十萬を誦す。卽ち西方の如んば、相承して聰明を學ぶ法有り。一には謂く生覆審智。二には則ち字母安神。旬月の間に思ひ泉涌の若く、一び聞て便ち領す。再談を假ること無し。親く其の人を覩る。固に虚に非るのみ。東印度に於て、一りの大士有り。名て月官と曰ふ。是れ大才雄の菩薩の人なり。淨到るの日、其の人、尚を存す。或が之に問て曰く。毒境と毒藥、害を爲すこと、誰れが重しと爲る。聲に應じて答て曰く、毒藥と毒境、相ひ去ること實に遙ことを成す。毒藥は餐して方に害し、毒境は念じて便ち燒くと。
又復た騰蘭、乃ち芳を東洛に震ひ、眞帝、則ち響を南溟に駕す。大德羅什、德匠を他土に致し、法師玄奘、師功を自邦に演ぶ。然るに今古の諸師、並に佛日を光傳す。有・空、齊く致るときは三藏を習て、以て師と爲し、定・慧、雙べ修すときは七覺を指して匠と爲す。其の西方に現在するには、則ち羝羅荼寺には智月法師有り。那爛陀の中には則ち寶師子大德、東方には卽ち地婆羯羅蜜呾囉有り。南𮖭には呾他掲多掲娑有り。南海の佛誓國には則ち釋迦雞栗底有り今ま現に佛誓國に在り。五天歴て廣く學ぶ。斯れ並に秀を前賢に比し、蹤を往哲に追ふ。因明論を曉て則ち陳那に擬ことを思ひ、瑜伽の宗を味て、實に懷を無著に罄す。空を談ずるとき則ち巧に龍猛に符し、有を論ときは則ち妙に僧賢に體とす。此の諸の法師、淨、並に親く筵机に狎し、微言を餐受す。新知を未聞に慶び、舊解を曾得に温ぬ。傳燈の一望を想て實に朝聞を喜び、蕩塵の百疑を冀て、則分に昏滅に隨ふ。尚て乃ち遺珠を鷲嶺に拾ひ、時に其の眞を得。散寶を龍河に擇で、頗る其の妙に逢ふ。仰で三寶の遠被を蒙り、皇澤の遐霑に頼で、遂に踵を旋じて東歸し、帆を南海に鼓ことを得。耽摩立底國從り已に室利佛誓に達す。停住すること已に四年を經、留連して未だ歸國に及ばず。
義浄による紀行録。印度および東南アジアにて二十五年間過ごし見聞した各地の記録。天授二年〈691〉成立。▲
支那唐代の僧[635-713]。過去、渡天を果たした法顕や玄奘への憧憬を抱き、また律儀の印度における実際を知るため、三十七歳から海路印度に渡り二十五年の長きを各地巡ってその実際を見聞。帰国に際して多くの梵本を支那にもたらし、その翻訳に従事した。後には印度と南海における仏教、中でも僧院生活の実際を詳細に記した『南海寄帰内法伝』を著した。▲
釈尊。▲
仏陀による端的な説法。そのただ一言には、聞く者それぞれが各自の分際で適切に理解するなど、種々様々の意味が含まれた力あるものだ、との理解を表した語。
『大宝積経』巻六十二「佛以一音演説法 種種隨心各皆解 世尊説應衆生機 斯則如來不共相 佛以一音演説法 衆生隨類各得解 稱意所欲知其義 斯則如來不共相 佛以一音演説法 或有修進或調伏 或有獲得無學果 斯則如來不共法」等(T11, p.361b)▲
三千大千世界。仏教の世界観から全宇宙を示す語。▲
地獄・餓鬼・畜生・人間・天上。五種の生命のありかた。解脱しない限り、いずれかに転生して果てることがない苦しみの境涯。▲
七転九例の略。七転は梵語の名詞・形容詞の七種の格変化、九例は動詞の九種の活用。
義浄は自註にて七九を七転九例としながら、後にはその七転を七例と言い換えていることに注意。▲
「意言」は心の声、心中における言葉。「法蔵」は真理の集積。慈雲はこれを『般若経』等を意味したものと理解している。▲
帝釈天。[S]Indra. ▲
紀元前三世紀〈221〉に初めて国を統一した秦の名が古代印度に伝えられcīnaまたはchīnaなどと呼称されていたのが、また逆輸入され音写された語。同様の語として震旦(chīna-sthāna)すなわち「支那の地」があり、よく支那および日本でも用いられた。▲
「本聲(本声)」は梵語(サンスクリット)、あるいは梵語による仏の教え。「本聲の字」は未だ翻訳されていない仏教の梵文。
古来、支那では仏陀釈尊はあくまで梵語によって説法され、その説は梵語によって伝承され記述されていたと信じられた。それは後述する仏教詩人としても名高い馬鳴により、しかも月支国にあって仏典の梵語化が促進された結果でもあったろう。▲
涅槃。▲
[S]paramārtha-satya. 絶対の真理。世俗(一般・常識)で承認されているのとは異なる究極の真理。第一義諦とも。▲
[S]saṃvṛti-satya. 底本は「諦」を「道」に作るが写誤であろう。道もsatyaの訳とされ得るであろうが義浄の自註から、本来は「覆俗諦」であったろう。勝義諦に対置される一般的に承認される真理。世俗諦に同じ。▲
「古來の譯」は迦葉摩騰や竺法蘭などから鳩摩羅什や菩提流志などいわゆる古訳から旧訳の訳経僧。「梵軌談ること罕なり」の「梵軌」とは印度における学則、または梵語の文法。「談ること罕なり」は、従来の訳経僧が梵語の文法について述べ、その詳細を説明したことがほとんど無かったこと。▲
義浄の当時、印度から支那に仏典を伝えた印度あるいは支那の僧、およびその仏典の翻訳に従事した訳経僧。特に玄奘を意図した語であろう。▲
梵語の名詞・形容詞の七種の格変化。七例に同じ。
①主格(体・Nominative)
②業格(所作業・Accusative)
③具格(作具・Instrumental)
④爲格(所爲具・Dative)
⑤従格(所因事・Ablative)
⑥属格(所属事・Genetive)
⑦依格(所依事・Locative) ▲
梵語の文法および音韻学。▲
[S]śabda-vidyā. ▲
印度古来の伝統的五種の学問。声明・工明・医方明・呪術明・符印明の五つ。ただし、仏教では独自に声明・工巧明・医方明・因明・内明と挙げ、前者を外五明とし後者を内五明とする。印度で一般的であるのは前者。▲
全印度。印度を東・西・南・北・中に分けて云った称。▲
[S]vyākaraṇa. 文法。▲
往古の支那人が国を誇っていった自称。▲
支那の儒家が信奉した五種の経典『易』・『書』・『詩』・『礼』・『春秋』。▲
声明を学ぶに以前、「創学」すなわち先ず手掛けるべきその文字を習うための書。▲
siddhirastu. ▲
玄奘『大唐西域記』は「詳其文字。梵天所製原始垂則。四十七言也」とするがここで義浄は「四十九字」という。これは両者の知る文字に過不足があったとか、見立てが異なったという話でなく、その「イロハ」を記した『悉曇章』にて基本として示す子音(体文)に相違があるというに過ぎない。詳しくは智廣『悉曇字記』あるいは空海『梵字悉曇字母并釈義』を参照のこと。▲
半世紀前に印度を旅した玄奘『大唐西域記』は「而開蒙誘進先導十二章。七歳之後漸授五明大論」として『悉曇章』は「十二章」であるとするが、ここで義浄は「十八章」あるとする。これは字を教える教科書『悉曇章』は、印度でも時代と場所によってその章立てを異にしていたことによる。日本に伝えられた諸々の『悉曇章』にも十二章立てや十四章立てのものがあったが、空海が『悉曇字記』をもたらして以降は、日本で梵字を学ぶのには十八章立てをもってすることが標準となった。▲
[S]Maheśvara. 摩醯首羅天。いわゆるシヴァ神。▲
[S]sūtra. 原意は「糸」・「線」で、一般に経典の意。ここでは特に後述するPāṇiniのAṣṭādhyāyīを云ったものか。▲
原義は大儒者であるが、転じて広く大学者の意として用いられる。▲
Pāṇini(パーニニ). 古代インド(前5-4世紀)の文法学者。それまで聖典語として用いられたヴェーダ語を範として、その文法の規則を完成させたAṣṭādhyāyīを著し、まさにsaṃskṛta(完成されたもの)としてのサンスクリットを大成した人。
慧立『慈恩寺三蔵法師伝』巻三は「昔成劫之初梵王先説。具百萬頌。後至住劫之初。帝釋又略爲十萬頌。其後北印度健馱羅國婆羅門覩羅邑波膩尼仙。又略爲八千頌。即今印度現行者是」と、彼についてその出身地(Śalātura)にも言及するなど比較的詳細に伝えている。▲
馱覩はdhātuの音写で成分・基体の意。一般に「界」と漢訳される。馱覩章は梵語の語根(字元)をまとめた書。 ▲
棄攞はkhilaの音写で荒野の意、特に耕作地と原野の中間地点。学問を創めた幼少の者に対する三つの入門書であることから三棄攞と称していたようである。▲
荒れて塞がれた地。▲
aṣṭadhātu. aṣṭaは八、dhātuは成分・基体で「八界」。『慈恩寺三蔵法師伝』には「八界論」として言及されている。その内容がいかなるものであったかは以下に述べられる。▲
muṇḍa (muṇḍaka). 語根の合成法について述べられた書、あるいは章。『慈恩寺三蔵法師伝』では「聞擇迦」と音写されている。▲
uṇādi. muṇḍaに同じく語根の合成法について述べられた書、あるいは章。『慈恩寺三蔵法師伝』では「温那地」と音写されている。▲
ここでは先の「馱覩章」ではなく「頞瑟吒馱覩」、すなわち「八界論」を指す。▲
梵語における動詞の十種の活用、すなわち六つの《Kāla・時制》と四つの《Artha・法》の総称。それらを示す語の頭文字がすべて「l」であることから十羅声という。
《Kāla・時制》
①laṭ(現在)
②laṅ(過去)
③liṭ(完了)
④luṅ(アオリスト)
⑤luṭ(複合未来)
⑥lṛṭ(単純未来)
《Artha・法》
①loṭ(命令法)
②liṅ(願望法)
③lṛṅ(条件法)
④leṭ(接続法) ▲
梵語で動詞を作るために語根に加える十八(2×9)の人称語尾。▲
一言は単数、二言は両数、多言は複数。梵語の名詞・形容詞には七例の格変化があり、数には以上の三種がある(3×7)ため二十一言となる。▲
[S]puruṣa. 人、特に男性の意。男性名詞。以下にこの語を例えとして如何に格変化するかをわずかばかり示す。▲
puruṣaḥ. puruṣaの主格単数。▲
puruṣau. puruṣaの主格両数。▲
puruṣāḥ. puruṣaの主格複数。▲
七例以外の格、いわゆる呼格(Vocative)。七例にこれを加え八例となる。▲
[S]subanta (sup+anta). 梵語における名詞・形容詞の格変化の称。▲
[S]tiṅanta (tiṅ+anta). 梵語における動詞の活用の称。▲
[S]vṛkṣa. 樹木、または木の幹の意。▲
vṛttisūtra. ここで苾栗底(vṛtti)は註釈の意で、特にパーニニのSūtraに対する註釈書。▲
寰は王者の支配領域、畿内の意。転じて世界・宇宙を指す。▲
孔子がその晩年、『易』を幾度も繰り返し読むあまりにその綴じ紐が切れ、これを綴じ直すこと三度に至ったという『史記』「孔子世家」にある故事。「韋編三絶」に同じ。▲
『魏志』「王粛伝」の註に『魏略』「人有従学者、遇不肯教而云、必当先読百徧、言読書百徧而義自見(人、従い学ぶ者有り。遇、肯て教えずして云う、必ず当に先ず読むこと百徧なるべしと。言く、読書百徧にして義、自ら見る)」に依った一節。▲
孔子が韋編三絶した『周易』の上経三十卦の意か?▲
Jayāditya(ジャヤーディトヤ). 七世紀の人でパーニニのAṣṭādhyāyīに対する詳細な註釈KāśikāvṛttiをVāmana(ヴァーマナ)と共に著した。▲
[S]hetu-vidyā. あるいはniyāyaとも。五明(内五明)の一つで論理学。▲
Abhidharmakośa-bhāṣya. 四、五世紀にVasubandhu(ヴァスバンドゥ・世親)により著された説一切有部の教学を批判的に概説した綱要書。『阿毘達磨倶舎論』はその漢訳。説一切有部の論書としてだけでなく、大乗諸派でもその基本、必須の書として学ばれた。▲
Nyāyamukha. 五、六世紀にDignāga(陳那)によって著された仏教論理学の新機軸となった書。『因明正理門論』はその玄奘による漢訳。▲
[S]anumāna. 因明(仏教論理学)において既知の事物を元に未知の事物について推論し判断すること。▲
Jātakamālā. 34話からなる釈迦牟尼仏の前世物語。前生譚・本生譚。▲
ここでは師の元に就くことの意。『礼記』曲礼上の「若非飲食之客則布席席間函丈」に基づく語で、師に対する敬意から一丈ほどの距離を置いて坐ざすべきこと、あるいはその距離を云ったが、転じて師を謂う語ともなった。▲
Nālandā. 五世紀から十二世紀、仏教がイスラム教徒により滅ぼされるまで中天竺(実際は北インド)にて最も著名であった大学問寺。玄奘が五年滞在して法相唯識および阿毘達磨を学んだことが知られる。▲
Valabhī. 西印度のカーティヤワール半島にあった国。▲
特に優れた男性。英俊。▲
比較し考察すること。商は量る、搉は考えるの意。▲
遠方と近所。遠近。▲
優れた人。英才。▲
慈雲は摩伽陀の王舎城を囲む霊鷲山などの五山であると解している。▲
東西南北の四方。▲
Cūrṇi. Vṛttisūtraの註釈書。▲
Patañjali(パタンジャリ). 紀元前二世紀頃の文法学者。先行する前三世紀頃の文法学者Kātyāyana(カーティヤーヤナ)に続き、パーニニのAṣṭādhyāyīなどに詳細な註釈を施したことで知られる。▲
支那の儒教における聖典、五経の二書。『春秋』は魯の隠公から哀公までの十二公、242年間の年代記。『周易』は周代に成立したとされる当時の卜占を記した『易』。▲
伐致呵利はBhartṛhari(バルトリハリ)の音写で、 五世紀頃の文法学者。その論とは、パタンジャリのCūrṇi(朱你)に対する註釈書Mahābhāṣyadīpikā。▲
[S]vijñapti-mātratā. 我々の認識する世界はすべて心(識)の所現であり、真に実在するものは阿頼耶識という深層意識しかないとする見解を宗義とする大乗における有力な一学派。支那では印度から唐に帰った玄奘の弟子、基により唯識説を奉じる法相宗となり日本にも伝えられた。
ここで義浄はバルトリハリを仏教徒であり、また唯識を奉じる人であったとの認識を示している。今、バルトリハリは印度正統哲学のヴェーダンタ学派の人であったことが知られるが、それ以前はここで義浄がいうように七度も出家と還俗を繰り返した人であったか。実際、そのような伝承が当時の印度にあったのであろう。▲
東西南北の四方と乾坤艮巽の四隅。あらゆる方向。▲
仏教を構成し、またその故にこの世でもっとも貴ぶべきとされる三つの対象、仏陀・仏法・僧伽。いわゆる仏法僧。▲
人(魂)と法(事物)のいずれもが恒常普遍でなく無常であり無自性であって、そのいずれもが空であるとする大乗の見解を表する語。▲
優れた法。仏教。
あるいは特に[S]abhidharma. abhi(優れた)+ dharma(教え)。abhidharmaはまた「対法」とも漢訳される。▲
出家者。緇はもと黒い絹糸。特に支那の一部において五、六世紀頃からか出家者が緇で作った衣、すなわち鈍色(にぶいろ)の衣を身につけるようになり、転じて出家者を指すようになった。▲
底本は「諸法師」と作るが「諸」は「護」の写誤。護法はDharmapāla(ダルマパーラ)の音写。六世紀の印度僧。アサンガ(無著)ならびにヴァスバンドゥ(世親)の唯識説を継承・発展させた大学匠の一人。ここで義浄が言うようにダルマパーラはバルトリハリとほぼ同時期の人で、若くして那爛陀寺の学頭となった。玄奘が那爛陀寺で師事した戒賢はその直接の弟子。▲
在家者。在家信者は特に白色の衣を着、対して出家者は白を壊色(特に赤黒色)に染めた衣を着たことから、転じて在家者を指す語となった。▲
Vākyapadīya. vākya(説・論)+padīya(跡・足・言葉)で「言葉についての論書」の意。バルトリハリの主著。言葉こそが存在の本質であり、世界であり、ブラフマンであると主張した書。▲
事物の本質を知るその根拠・方法として、聖者の発した言葉・遺した言葉をもってすること。▲
Prakīrṇaka. バルトリハリによる著作の一。現在はVākyapadīyaの第三章として収録されているが、元は独立した一書であったことがこの義浄の一節から知られる。▲
九経は支那(儒教)において重んじられる九つの経書、『詩経』・『書経』・『易経』・『儀礼』・『礼記』・『周礼』・『春秋左氏伝』・『春秋公羊伝』・『春秋穀梁伝』、百家は多くの学者。儒教における数多の学者の意。▲
博学・博識。▲
[S]vinaya. 調伏が原意ながら、特に出家者(僧伽)における規則規定。律・律儀。▲
仏教外の思想・宗教。▲
帝位を巡って戦うこと。ここでは外道を伏して仏教の正義を表すこと。『史記』淮陰侯伝の「秦失其鹿天下共逐之」の故事に基づく表現。▲
底本は「凌」を「淩」に作るが誤写。「沸鼎」は煮えたぎった湯で満たされた鼎。そこに「凌」すなわち氷を入れたならばたちまち溶けて消えるのを、外道の論難をたちどころに打破して挫くことに喩えた一節。▲
Jambuの音写。旧訳では閻浮提。正しくはJambu-dvīpaといい、仏教の世界観において須弥山を取り巻く四洲のうち南に位置する島。Jambuという大樹が生えていることからかくいう。瞻部洲あるいは南瞻部洲とも。▲
歴代。代々。▲
[S]nāga. 高僧。印度以来の優れた僧・徳ある僧を龍や象に比す表現。nāgaは龍(大蛇)あるいは象の意。▲
Nāgārjuna. ナーガールジュナ。二世紀中頃から三世紀中頃の印度僧。大乗における最大の功労者。龍樹に同じ。南印度の出身。主著に『中論』を初め『十二門論』・『廻諍論』等があり、特に空観を打ち立てた書として最も重要。また支那および日本では『大智度論』『十住毘婆沙論』がその著として必読とされる。▲
Āryadeva. アールヤデーヴァ。二世紀中頃から三世紀中頃のセイロン島の王族ながら印度にて出家した僧。龍猛(龍樹)の弟子。師説の空観を継ぎ発展させ、後代の中観派の礎を築いた人。主著『四百論』。他に『百論』などが重要。外道の説を破折すること鋭く、ために恨みを買って殺されたといわれる。▲
Aśvaghoṣa. アシュヴァゴーシャ。二世紀頃の印度僧。中印度の出身で仏教を論難する婆羅門であったが回心して出家。Kuṣāṇa(クシャーナ)朝のKaniṣka(カニシカ)王の帰依を受け、その都としたGandhāra(ガンダーラ)にて仏教を広めた。正規の梵語をよくし、詩文・音楽に秀ででた詩人でもあり、流麗なカーヴィヤ体で仏陀やその弟子を讚歎する著作を遺した。中でもBuddhacarita(『仏所行讃』はその漢訳)が著名であり、また『犍稚梵讃』・『大荘厳論経』が広く知られる。支那では、漢訳のみ伝わる『大乗起信論』の著者とされる。▲
Vasubandhu. ヴァスバンドゥ。天親とも。五世紀の印度僧。生地はガンダーラのプルシャプラで、婆羅門の出身。説一切有部にて出家し、その教義を批判的に概説したAbhidharmakośa-bhāṣya(『阿毘達磨倶舎論』)を著した後、実兄のAsaṅga(アサンガ・無著)に誘われて大乗に転向。特に唯識説を奉じて兄と共にその大成者となった。大乗に転向して後の著作としてViṃśatikā-vijñapti-mātratā-siddhi(『唯識二十論』)およびTriṃśikā-vijñapti-mātratā(『唯識三十頌』)があり、唯識学派における主要な典籍として今に伝えられる。▲
Asaṅga. アサンガ。 五世紀の印度僧。生地はガンダーラのプルシャプラで、婆羅門の出身。ヴァスバンドゥ(世親)の実兄。説一切有部(『婆藪築豆法師伝』説)あるいは化地部(『大唐西域記』説)にて出家するも、後に中印度にあった時に大乗に転向。Maitreya(マイトレーヤ・弥勒)から唯識説を聞いてその信奉者となったという。実弟のヴァスバンドゥを誘って大乗に転向させ、共に唯識の大論師となった。Mahāyāna-saṃgraha(『摂大乗論』)およびMahāyānâbhidharma-samuccaya(『阿毘達磨集論』)などを著した。▲
Saṃghabhadra. サンガバドラ。 衆賢あるいは僧伽跋陀羅とも。五世紀頃の印度僧。ヴァスバンドゥ(世親)が説一切有部の教義に対し批判的に論説した『倶舎論』に反駁して、説一切有部の正統説を顕彰した『阿毘達磨順正理論』を著した。▲
Bhāvaviveka. バーヴァヴィヴェーカ。Bhavya(バヴィヤ)とも。五世紀から六世紀頃の印度僧。ナーガールジュナ(龍猛)の空思想を、Dignāga(ディグナーガ・陳那)の因明説に基づいて論証するべきことを主張した論師。『中論』の註釈書Prajñāpradīpa(『般若灯論』)や『大乗掌珍論』などの著者としてで知られる。▲
Dignāga. ディグナーガ。五世紀から六世紀頃の印度僧。その主著『因明正理門論』および『集量論』において、旧来の仏教論理学説を排し、新因明といわれる新たな論理学説を打ち立てた。▲
Dharmakīrti. ダルマキールティ。七世紀の印度僧。ディグナーガ(陳那)の説を継承・発展させた論理学者で、その大論師。▲
Śīlabhadra. シーラバドラ。六世紀から七世紀の印度僧。護法の弟子で那爛陀寺学頭の席を継いだ学僧。玄奘が那爛陀寺に入ったとき師事した人で、その齢は当時106であったという。支那で開かれ、日本に伝えられた法相宗はダルマキールティ(護法)およびシーラバドラ(戒賢)の法系。▲
Siṃhacandra? / Candrasiṃha? シンハチャンドラ(チャンドラシンハ)? 未詳。玄奘が那爛陀寺滞在中に出逢っていたという唯識学派を論難した中観派の学僧、師子光か?(『大唐大慈恩寺三蔵法師伝』巻四)。▲
Sthiramati. スティラマティ。安慧あるいは堅慧とも。六世紀の印度僧。唯識学派の学匠の一人。唯識の重要典籍に対する註釈書を数多く遺した人。▲
Guṅamati. グナマティ。六世紀の印度僧。スティラマティ(安惠)の師。唯識学派の学匠。▲
未詳。▲
Guṇaprabha. グナプラバ。『大唐大慈恩寺三蔵法師伝』巻二にある瞿拏鉢剌婆か?しかしながら、ここで義浄は近年の人としてこれを挙げていることから、おそらく別人であろう。▲
未詳。▲
大海。▲
Gandhamādana. 香酔山。南瞻部洲の真北にあるという伝説的山。古代印度の大叙事詩Mahābhārata(『マハーバーラタ』)にも登場する。▲
[S]brāhmaṇa. 印度におけるvaṇra(ヴァルナ)、いわゆる四姓制度(カースト)の最上位に位置する司祭者階級。梵天の口から生じた種族の末裔とされる。▲
婆羅門の下部の三つの階級。上から順にKṣatriya(王族・氏族)、Vaiśya(庶民・黎民)、Śūdra(従僕・奴婢)。▲
[S]aspṛśya / avarṇa. 不可触民。印度において四姓の中にも位置づけられなかった人々。その階層の外に置かれた最下層民。アウトカースト。▲
古典。▲
薜陀はVedaの音写で印度最古の聖典群の総称。その代表的な主要のものとしてṚgveda(『リグ・ヴェーダ』)・Yajurveda(『ヤジュル・ヴェーダ』)・Sāmaveda(『サーマ・ヴェーダ』)・Atharvaveda(『アタルヴァ・ヴェーダ』)の四つを四薜陀という。vedaとは知識の意であり、その語根は「知る」・「理解する」を意味する√vid。▲
ヴェーダなど印度古来の学問・思想は、長らく文字に書かれた文献としてでなく、口授口承によって伝えられた。仏教もまたその当初、仏滅後五世紀程は口伝によって経律論を伝えた。▲
義浄が印度を訪ねたとき、彼の地でよく知られた人であったのであろうが未詳。▲
義浄自身。▲
支那に仏教を初めて伝えたとされる印度僧、迦葉摩騰と竺法蘭の二人。『四十二章経』の訳者として知られる。▲
洛陽。▲
Paramārtha. パラマールタ。真諦。六世紀の印度僧。扶南(現カンボジア)を経て梁代の支那を訪れ、特に唯識学派に属する多くの経論を訳出した。▲
南方の海。南海に同じ。東南アジア。▲
Kumārajīva. クマーラジーヴァ。鳩摩羅什。四世紀から五世紀のKucha(亀茲国)出身の僧。四世紀末期、前秦王苻堅が亀茲を攻略した際に捉えられ、支那に招き寄せられた。後、後秦王姚興に厚遇されて国師として長安に迎えられ、数多くの仏典を訳出した。その訳文は、原文にない文言を加えるなど翻訳として問題の多いものであったが漢文として流麗であり今もその漢訳本の多くが支那および日本で用いられている。▲
七世紀の支那僧。河南洛州緱氏県出身。若くして出家し学問を積むも向学求法の志やまず、特に唯識と阿毘達磨の法を求め国禁を犯して貞観三年〈629〉に出奔。いわゆるシルクロードを経由し中央アジア諸国を経巡り、四年の歳月をかけて中印度(摩伽陀国)に入った。以降、印度各地の事情をつぶさに観察記録しつつ、特に那爛陀寺にてシーラバドラ(戒賢)に師事して長く滞在。目的であった唯識と阿毘達磨を受法した。故国を離れること十七年にして帰った後は、もたらした膨大な量の仏典の翻訳事業に携わり、また中央アジアおよび印度の紀行録『大唐西域記』を著した。漢訳に際して羅什などによる旧来の翻訳を非とし、五種不翻など新たな指針を打ち立て、極力梵文に忠実な翻訳を目指した。玄奘の説を受けた高弟の基により法相宗が形成された。▲
「有」は説一切有部に代表される声聞乗の教義、「空」は大乗の教義。▲
三摩地(samādhi)と智慧(prajñā)。止と観。▲
[S]sapta-bodhy-aṅga. 七覚支・七菩提分とも。四念住(四念処)すなわち止観を修めたことによって得られる菩提の七つの構成要素、すなわち念・択法・精進・軽・喜・定・捨。▲
原語未詳。ここで義浄は西方にあるものとして出していることから、義浄『大唐西域求法高僧伝』巻下に無行禅師が陳那と法称の因明を学んだ寺として出る、那爛陀寺の比較的近くにあったとされる同名の寺とは異なるであろうか。▲
義浄が在天時にその名を馳せていた学匠であろうが未詳。▲
義浄『大唐西域求法高僧伝』巻上に、玄照法師が那爛陀寺に三年留まる間に「瑜伽十七地を受けた」とされる人。▲
未詳。おそらくはDivākaramitraの音写名。▲
未詳。おそらくはTathāgatagarbhaの音写名。▲
Śrīvijaya. 室利仏逝または三仏斉に同じ。スマトラ島のパレンパンを中心としてかつてあった海洋国。▲
未詳。おそらくはŚākyakīrtiの音写名。▲
[S]Yoga. ここでは特に瑜伽行唯識学派の意。▲
『論語』里仁「朝聞道夕死可也(朝に道を聞かば夕に死すとも可なり)」に基づく表現。▲
Gṛdhrakūṭa. 霊鷲山に同じ。摩伽陀国の王舎城を取り巻く五山の一峰。釈尊がここを舞台にしばしば説法をされたことから、霊山としても信仰される。▲
Nairañjanā. 尼連禅河。現在のブッダガヤー東を流れるファルグ川。▲
Tāmralipti. ダーモーダル川の河口部に位置した都市国家。現在の西ベンガル州南部にある港湾都市タムルク。▲