些些疑文 巻上 卍目録文作向亦云一巻
《中略》
○字輪は是れ法身の曼荼羅、最も是れ傳敎者の事業と云々 頂戴して此の誨を受持し、感惕の至りに任ること無し。但だ眞言の文字は是れ梵王の言詞、謂つべし隨方の文字と。法身、言無く、權に託して理を示す。何ぞ法然の道理所成の文字と言んや。又た淨名の中、娑婆世界、音聲を以て佛事と爲すと云ふ。豈に持念、觀を宗とし、文字、理を顯すに非ざるや。若し爾らば隨方の言辭、何ぞ法然たるや。
○十二轉は十二分敎を表すは、通漫の説と爲すか。復た敵對と爲さんや。若し爾らば之に對せんこと如何。
○又た祕密宗を約するに十二分敎有りや否や。幸は細示を垂れ玉ヘ。
○阿・阿より暗・惡まで都て十六字。而して大圓寂經に十四音と云ふ。或が云く、暗・惡は是れ字界の緣の故に數に入れずと。此の説、如何。
○又た阿字の三昧聲、幷に十二轉、如何。
○凡そ一切の字、皆な十四音を具するや不や。此れ何の義理を表顯する。四と六の増減、其の義、如何。
○伊・縊より塢・奧まで一十二字、何字に屬するや。或る人、此れ阿字の轉と云ふ。是非、如何。
○若し字字に必ず十四音・十六音を具さば、何を以てか迦等は唯だ十二有るのみ。
○又た阿等の十六字、迦等の三十四字、其の義綴、見るべきも、句義、至難なり。伏して解説を垂れ玉へ。
○此の十二字、一一の字義、如何。初後の四字、見るべきに似たれども、中間の八字、未だ説處有らず。又た句を分つは幾句と爲さんや。其の義、如何。
○第三・四と、以て一畫として之に左右す。第六、又た一點を加ふ。此れ等の三畫、其の名、如何。義意、如何。
○第七、左角に畫を加ふ。第八、更に長畫を加ふ。其の名と義、亦た如何。
○大空一三昧二行三涅槃四點等の如き義、亦た如何。
○又た空點は唯一、涅槃は二點。重疊、其の義、如何。
○此れ等の五箇、眞言の頭幷びに尾每に皆之れ有り。其の名及び義、如何。何が由に之を置くや。
○一轉四百十二、二轉一萬三千九百六十八、三轉一萬三千六十八、四轉一萬三千九百六十八、計三萬九千六百十六字。今ま疑ふ、二・三の兩轉、何を以て數同となるや。凡そ此等の轉字の樣圖、如何。
○山陰の智廣の悉曇字記、生字の數を説て今と同じからず。一一誨を垂れ玉へ。
○凡そ悉曇章、人人將來多く不同有り、増減亦た異る。山陰の記に云く、悉曇に十八章有りと。又た他師、之に同じ。今ま興善三藏の具本を請ふ。又た分付を垂れ玉へ。
○悉曇の釋文、賁法師の仁王疏に云く、西方の梵字、界有り、緣有りと。其の意義、如何。且つ何字を以て界及び緣と爲さんや。
○又た眞言の中、多く讀まずして空しく留着する字有りや不や。且く四禮の明の中の阿字の如く、或は之を讀み、或は空しく之を抛つ。今ま師、斯樣有るや不や。若し爾らば其の意義、如何。
○凡そ圓寂經の意、小乘を半字と爲し、大乘を滿字と爲すは、此れ一往の説と爲すや、復た究竟の説と爲すや。今ま大乘眞言の中を撿するに、多く半音有り。是れ小乘と爲さんや不や。
○百論に云く、外道の阿䧢を對破すと爲すと云々。今ま疑ふ、外道の阿字等、其の樣、如何。諸字多く此の畫有り。其の名、如何。義、亦た如何。
○又た阿字は是れ單字と爲すや復た二合の字と爲すや。
○凡そ二合・三合・四合の意義、如何。若し五合・六合、乃至、十二合有りや否や。
○又た若し漢字を梵字に例するに、轉生及び字母等、有りや不や。若し之れ有らば其の趣を垂示し玉へ。
些些疑文 巻上 卍目録文作向亦云一巻
《中略》
○字輪とは法身の曼荼羅であって、伝教者の事業として最たるものである、という。頂戴してこの誨を受持し、感惕の至りに任ることが出来ない。ただし、真言の文字とは梵王の言詞であって、いわゆる隨方の文字であろう。(そもそも)法身とは、(何をか自ら)語るものではなく、権に(あらゆる現象によって、その真を)託して理を示すものである。それが何故に(空海が主張したように、)法然の道理所成の文字と言えるであろうか。また淨名〈『維摩詰所問経』〉の中で、「娑婆世界は、音声を以って仏事である」と説かれている。どうして持念とは「観」を宗とするものであり、文字とは理を顕すものでないであろうか。もしそうであるならば、隨方の言辞がどうして法然であろうか。(いや、そんな筈はないのだ。)
○十二転とは十二分教を表すものであるというのは、通漫〈抽象的・漠然〉の説であろうか。また適対〈明確な対象・意義あるもの〉(の説)であろうか。もしそうであるならば、これ〈十二分教〉に(それぞれどのように)対応したものであるのか。
○また祕密宗〈密教〉を約するに十二分教が有るのか無いのか。幸は細示を垂れたまえ。
○(梵字の母音には)阿・阿より暗・惡まで都て十六字がある。しかしながら、『大円寂経』〈『大般涅槃経』〉には十四音と云われている。ある者は「暗・悪は字界の縁であるから(母音の)数に入れない」と云う。この説はどういうことであろうか。
○また阿字の三昧声ならびに十二転とはどのようなものであろうか。
○およそ(梵字の)一切の字はすべて十四音を具えるのか、具えないのか。それはどのような義理を表顕するのか。(梵字の母音として数えられる)十四と十六の増減、その意義はどのようなものであろう。
○(梵字の)伊・縊より塢・奧までの十二字は、何字に属するのか。ある人は「これらは阿字の転である」と云う。その是非はどうか。
○もし字字が必ず十四音・十六音を具すのであれば、どのような理由から迦等(の体文)は唯だ十二音が有るのみなのか。
○また(悉曇の)阿等の十六字、(体門の)迦等の三十四字は、その(一々の字について密教が説く)義綴は明白であるものの、(それら字によって構成される梵語の)句義〈文章〉となると至難である。どうか(私でも理解し得るよう)解説を垂れたまえ。
○この(一一の体文に摩多を付して成立する)十二字の一一の字義はどのようなものか。(それら十二字のうち)初後の四字は明白であるように思われるが、その中間の八字については未だ説処〈その字義・意義について説く典籍〉が無い。また、(十二字を)句に分けたならば幾句となるだろう。(そして)その義は、どのようなものか。
○(摩多の)第三・第四とは、以て一画としてこれ〈体文〉の左右に付する。第六(の摩多)は、また一点を加えるものだ。これ等の三画の名称はどのようなものか。(そして、その)義意はどのようなものか。
○第七(の摩多)は、(体文の)左角に画を加える。第八(の摩多)は、更に(その右側、体文の上部に)長画を加える。その名称と義は、またどのようなものか。
○(十二字を構成する前後四字の摩多の称とされる)大空一・三昧二・行三・涅槃四点などの義は、またどのようなものか。
○また空点〈anusvāra〉は唯一であるのに対し、涅槃〈visarjanīya〉は二点である。(涅槃点が点を)重疊したものであるその義はどのようなものか。
○これ等の五箇〈円珍が何を意図したか不明〉は、真言の頭ならびに尾ごとにすべて有る。その名称及び義はどのようなものか。何が故にこれを置くのか。
○(『悉曇章』において)一転四百十二、二転一万三千九百六十八、三転一万三千六十八、四転一万三千九百六十八、計三万九千六百十六字。今疑うに、二と三の両転は、どのようなことから数が同じとなるのか。およそこれ等の転字の様図は、どのようなものか。
○山陰の智廣による『悉曇字記』にて生字の数を説いているが、今の(私が知る説)とは同じでない。(その理由について)一一、誨を垂れたまえ。
○およそ悉曇章とは、人人が(唐から日本へ)将来すること多く、それらの間には不同があって、(そこで示される字数の)増減があるなどまた異っている。『山陰の記』〈『悉曇字記』〉には、「悉曇に十八章あり」と説かれるが、また他師〈義浄など〉もその説に同じである。そこで今、興善三蔵〈不空金剛〉の(悉曇についての)本を請う。また分付〈その写本を分け与えること〉を垂れたまえ。
○悉曇についての釈文〈解説する文章〉で、良賁法師による『仁王経疏』には、「西方〈印度〉の梵字には、界〈dhātu. 語根〉があり、縁〈人称・数・性などによる活用〉がある」と説かれている。その意義はどのようなものか。かつ何字を以って界及び縁としているのだろうか。
○また真言の中には、多く読まずに空しく留着する字が有るであろうか、無いか。例えば四礼の明〈金剛界の四仏を礼拝する真言〉の中の阿字のように、ある場合は読み、ある場合は空しくこれを抛っている。今の師にも斯様なのは有るのか無いのか。もしそうであれば、(読む場合と読まない場合と、)その意義はどのようなものであろう。
○およそ『円寂経』にて、小乗を半字〈摩多を欠いて子音のみを表する梵字として不完全・不本来の字〉とし、大乗を満字〈摩多と伴なる梵字として本来の字〉とされるのは、これ一往〈あくまでも譬え〉の説であろうか、また究竟の説であろうか。今、大乗の真言の中を見渡したならば、多く半音がある。(もし究竟の説であるならば、真言とは)これ小乗のものとするのか、そうでないのか。
○(鳩摩羅什の漢訳による提婆の)『百論』に、「外道の阿䧢を對破する」とある〈該当箇所不明〉。いま疑うに、外道の阿字等とは、その樣はどのようなものか。諸字に多くこの画がある。その名称はどのようなものか。義もまたどのようなものか。
○また阿字とは(他の字音の複合文字でない)単字であるのか。また(他の二つの字音の組み合わせである)二合の字であるのか。
○およそ(体文を組み合わせて出来る、いわゆる生字の)二合・三合・四合の意義はどのようなものか。もし五合・六合、乃至、十二合の(文字は梵字に)有るのか無いのか。
○また、もし漢字を梵字に例えたとして、(梵字のように摩多を加える)転生や字母等というものが、有るのか無いのか。もしそれが有るならばその趣を垂示したまえ。