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Dharmacakra
智慧之大海 ―去聖の為に絶学を継ぐ

円珍 『些些疑文』 巻上 (抄)

原文

些些疑文 巻上 卍目録文作向亦云一巻

《中略》

○字輪是法身曼荼羅。最是傳敎者事業。云々 頂戴受持此誨無任感惕之至。但眞言文字是梵王言詞。可謂隨方文字法身無言權託示理。何言法然道理所成文字。又淨名中娑婆世界以音聲爲佛事。豈非持念宗觀文字顯理耶。若爾隨方言辭何爲法然乎。

○十二轉表十二分敎者爲通漫説歟。爲復敵對。若爾對之如何。

○又約祕密宗有十二分敎否。幸垂細示。

○從阿阿迄暗惡都十六字。而大圓寂經云十四音。或云。暗惡是字界緣故不入數。此説如何。

○又阿字三昧聲幷十二轉如何。

○凡一切字皆具十四音不。此表顯何義理。四之與六増減其義如何。

○從伊縊迄塢奧一十二字屬何字耶。或云此阿字之轉者是非如何。

○若字字必十四音十六音者。何以迦等唯有十二。

○又阿等十六字迦等三十四字其義綴而可見。句義至難。伏垂解説。

○此十二字一一字義如何。初後四字似可見。中間八字未有説處。又分句者爲幾句。其義如何。

○第三與四以一畫。左右之第六又加一點。此等三畫其名如何。義意如何。

○第七左角加畫。第八更加長畫。其名與義亦如何。

○如大空一三昧二行三涅槃四點等義亦如何。

○又空點唯一。涅槃二點。重疊其義如何。

○此等五箇每眞言頭幷尾皆有之。其名及義如何。何由置之。

○一轉四百十二。二轉一萬三千九百六十八。三轉一萬三千六十八。四轉一萬三千九百六十八。計三萬九千六百十六字。今疑二三兩轉何以數同。凡此等轉字樣圖如何。

○山陰智廣悉曇字記説生字數與今不同。一一垂誨。

○凡悉曇章人人將來多有不同。増減亦異。山陰記云。悉曇有十八章。又他師同之。今請興善三藏具本又垂分付。

○悉曇釋文。賁法師仁王疏云。西方梵字有界有緣。其意義如何。且以何字爲界及緣。

○又眞言中多有不讀而空留着字不。且如四禮明中阿字或讀之或空抛之。今師有斯樣不。若爾其意義如何。

○凡圓寂經意小乘爲半字大乘爲滿字者爲此一往説爲復究竟説今撿大乘眞言中多有半音。爲是小乘不。

○百論云。爲對破外道阿䧢。云々 今疑外道阿字等其樣如何。諸字多有此畫其名如何。義亦如何。

○又阿字爲是單字爲復二合字。

○凡二合三合四合意義如何。若有五合六合乃至十二合否。

○又若漢字例於梵字有轉生及字母等不。若有之垂示其趣。

底本:『日本大蔵経』第八十巻

訓読

些些(ささ)疑文(ぎもん) 巻上 卍目録には文を向に作る。亦云く一巻と。

《中略》

○字輪(じりん)は是れ法身(ほっしん)の曼荼羅(まんだら)、最も是れ傳敎者(でんきょうしゃ)の事業(じごう)と云々 頂戴して此の誨(おしえ)を受持し、感惕(かんてき)の至りに任(たう)ること無し。但だ眞言の文字(もんじ)は是れ梵王(ぼんのう)の言詞(ごんじ)、謂つべし隨方(ずいほう)の文字(もんじ)と。法身、言無く、權(かり)に託して理を示す。何ぞ法然(ほうねん)の道理所成(しょじょう)の文字と言んや。又た淨名(じょうみょう)の中、娑婆(しゃば)世界、音聲(おんじょう)を以て佛事と爲すと云ふ。豈(あ)に持念、觀を宗(しゅう)とし、文字、理を顯(あらわ)すに非ざるや。若し爾らば隨方の言辭(ごんじ)、何ぞ法然たるや。

○十二轉(じうにてん)は十二分敎(じうにぶんきょう)を表すは、通漫(つうまん)の説と爲すか。復(ま)た敵對(ぢゃくたい)と爲さんや。若(も)し爾(しか)らば之に對せんこと如何(いかん)。

○又た祕密宗(ひみつしゅう)を約するに十二分敎有りや否(いな)や。幸(ねがわく)は細示(さいじ)を垂れ玉ヘ。

○阿(a)・阿(ā)より暗(aṃ)・惡(aḥ)まで都(すべ)て十六字(じうろくじ)。而(しこう)して大圓寂經(だいえんじゃくきょう)に十四音(じうしおん)と云ふ。或が云く、暗・惡は是れ字界(じかい)の緣(えん)の故に數に入れずと。此の説、如何(いかん)。

○又た阿字の三昧聲(さんまいしょう)、幷(ならび)に十二轉(じうにてん)、如何。

○凡(およ)そ一切の字、皆な十四音を具するや不や。此れ何の義理を表顯(ひょうけん)する。四(し)と六(ろく)の増減(ぞうげん)、其の義、如何。

○伊(i)・縊(ī)より塢(u)・奧(au)まで一十二字、何字に屬するや。或る人、此れ阿字の轉と云ふ。是非(ぜひ)、如何。

○若し字字に必ず十四音・十六音を具さば、何を以てか迦(ka)等は唯(た)だ十二有るのみ。

○又た阿(a)等の十六字、迦(ka)等の三十四字、其の義・綴、見るべきも、句義(くぎ)、至難(しなん)なり。伏して解説(げせつ)を垂れ玉へ。

○此の十二字、一一の字義、如何。初後(しょぐ)の四字、見るべきに似たれども、中間(ちゅうげん)の八字、未だ説處(せっしょ)有らず。又た句を分つは幾句と爲さんや。其の義、如何。

○第三(だいさん)・四(し)と、以て一畫(いちが)として之に左右(さう)す。第六(だいろく)、又た一點(いってん)を加ふ。此れ等の三畫(さんが)、其の名、如何。義意、如何。

○第七(だいしち)、左角に畫を加ふ。第八(だいはち)、更に長畫(じょうが)を加ふ。其の名と義、亦た如何。

○大空(だいくう)一三昧(さんまい)二行(ぎょう)三涅槃(ねはん)四點(てん)等の如き義、亦た如何。

○又た空點(くうてん)は唯一、涅槃(ねはん)は二點。重疊(じゅうじょう)、其の義、如何。

○此れ等の五箇(ごか)、眞言の頭(かみ)幷びに尾(すそ)每に皆之れ有り。其の名及び義、如何。何が由に之を置くや。

○一轉四百十二、二轉一萬三千九百六十八、三轉一萬三千六十八、四轉一萬三千九百六十八、計三萬九千六百十六字。今ま疑ふ、二・三の兩轉、何を以て數(かず)同となるや。凡そ此等の轉字(てんじ)の樣圖(ようず)、如何。

○山陰(さんいん)の智廣(ちこう)の悉曇字記(しったんじき)、生字(しょうじ)の數を説て今と同じからず。一一誨(おしえ)を垂れ玉へ。

○凡そ悉曇章(しったんしょう)、人人(にんにん)將來多く不同有り、増減(ぞうげん)亦た異る。山陰(さんいん)の記に云く、悉曇(しったん)に十八章(じうはっしょう)有りと。又た他師(たし)、之に同じ。今ま興善(こうぜん)三藏の具本を請ふ。又た分付(ぶんぷ)を垂れ玉へ。

○悉曇の釋文(しゃくもん)、賁(び)法師の仁王疏(にんのうしょ)に云く、西方(さいほう)の梵字、界(かい)有り、緣(えん)有りと。其の意義、如何。且(か)つ何字を以て界及び緣と爲さんや。

○又た眞言の中、多く讀まずして空(むな)しく留着(るちゃく)する字有りや不や。且(しばら)く四禮(しらい)の明(みょう)の中の阿字の如く、或(ある)は之を讀み、或は空しく之を抛(なげう)つ。今ま師、斯樣(かよう)有るや不や。若し爾(しか)らば其の意義、如何。

○凡そ圓寂經(えんじゃくきょう)の意、小乘を半字(はんじ)と爲し、大乘を滿字(まんじ)と爲すは、此れ一往(いちおう)の説と爲すや、復た究竟(くきょう)の説と爲すや。今ま大乘眞言の中を撿(けん)するに、多く半音有り。是れ小乘と爲さんや不や。

○百論(ひゃくろん)に云く、外道(げどう)の阿䧢(あく)を對破(たいは)すと爲すと云々。今ま疑ふ、外道の阿字等、其の樣、如何。諸字多く此の畫有り。其の名、如何。義、亦た如何。

○又た阿字は是れ單字(たんじ)と爲すや復(ま)た二合(にごう)の字と爲すや。

○凡そ二合(にごう)・三合(さんごう)・四合(しごう)の意義、如何。若し五合(ごごう)・六合(ろくごう)、乃至、十二合(じうにごう)有りや否や。

○又た若し漢字を梵字に例するに、轉生(てんしょう)及び字母(じも)等、有りや不や。若し之れ有らば其の趣(おもむき)を垂示し玉へ。

脚註

  1. 些些(ささ)疑文(ぎもん)

    円珍が入唐から帰朝して二十三年を経、貞観十年〈868〉に比叡山座主となってからも久しい元慶六年〈882〉に著されたものであるという、円珍がおそらくは入唐以前そして入唐中に抱えていた、主として密教についての数々の疑問を箇条書きに記した書。入唐求法により円珍の疑問がすべて解消されていたかは不明。ここでは本書のうち、円珍が梵字悉曇について理解していなかった、あるいは疑問に思っていた点についてのみの抄出。▲

  2. 字輪(じりん)

    或る一つの梵字一字から異なる字を展開したもの。五字輪・百字輪など。その字一一の字義を観じることを字輪観といい、密教の事相(三密瑜伽法)におけるその核心となる行法。▲

  3. 法身(ほっしん)

    時の去・來・現を問わず万物に普遍たる本不生、無自性空たる真理そのもの。▲

  4. 梵王(ぼんのう)の言詞(ごんじ)

    真言の文字すなわち梵字は大梵天王によって創造された、と印度においてされていること。
    玄奘『大唐西域記』巻二「詳其文字。梵天所製原始垂則。四十七言也」(T51, p.876c)▲

  5. 隨方(ずいほう)の文字(もんじ)

    土地土地にて異なる文字。ここで円珍は、印度(天竺)という一地方・国において用いられる文字体系にすぎないものとして、梵字をみなしている。そしてそれは『大日経疏』にある説に則ったものであろう。▲

  6. 權(かり)

    この世に縁起して生じる諸々の事象・現象一切の仮初なる有り様。あるいは、ここで円珍は言葉をして権(仮)と言ったか。▲

  7. 法然(ほうねん)の道理所成(しょじょう)の文字

    玄奘などが伝えた「梵字とは梵天によって作られた文字である」という印度における伝承を否定し、「自然道理の所作」すなわち誰か人天などによって作られたものでなく、無始の昔より自ずから存在していた文字であるという空海(『梵字悉曇字母井釈義』)による説を意図したもの。ここで円珍は、そのような空海の主張に疑義を呈し、むしろ否定している。実際、空海の斯様な主張は『大日経』および『大日経疏』を誤読したことによる完全な誤ったものであった。そして、空海がこれを主張した直後にその説が仏教として無根拠なものでありまた不合理である、と法相宗の徳一によって批判されていた。
    空海『梵字悉曇字母并釈義』「此是文字者自然道理之所作也。非如来所作亦非梵王諸天之所作」▲

  8. 淨名(じょうみょう)

    淨名は維摩詰(Vimalakīrti)の漢訳名。ここでは『維摩詰所説経』の所説。
    「有以音聲語言文字而作佛事」(T14, p.553c)▲

  9. 娑婆(しゃば)

    [S]sahāの音写。耐えること、忍ぶこと。生とはその本質として諸々の苦しみに耐えなければならないものであることから、この世界を娑婆世界と一般にいう。▲

  10. 十二轉(じうにてん)

    梵字とは現代の言語学で言われるアブギダ(abugida)であり、その子音を著す文字は基本的に常に母音aを伴う古代印度の文字。その字を体文または字母という。また梵字には十二あるいは十六の母音があって、a以外の母音十一韻を子音に接続させることによって、原則として一つの子音字が十二種に展開する(後述)。これを十二転という。そのように何等かa以外の母音を付する場合には摩多といわれる十一種の記号を体文に付すが、その記号を摩多点などと称する。▲

  11. 十二分敎(じうにぶんきょう)

    仏陀の教えをその性質・内容によって十二に分類した称。十二部教とも。
    修多羅(契経)・祇夜(応頌)・伽陀(諷誦/偈頌)・尼陀那(因縁)・伊帝目多伽(如是語)・闍陀伽(本生)・阿浮陀達磨(未曾有)・阿波陀那(譬喩)・優婆提舎(論義)・優陀那(自説)・毘仏略(方等/方広)・和伽羅那(授記)の十二。▲

  12. 通漫(つうまん)

    一般的、あるいは抽象的であやふやな説。▲

  13. 敵對(ぢゃくたい)

    明確な対象をもっていること。それぞれ対応する具体を有した説。適対。▲

  14. 祕密宗(ひみつしゅう)

    密教。▲

  15. 十六字(じうろくじ)

    梵語における母音とされる十六韻を表する梵字十六字(狭義にはそれら十六字のみを限定して悉曇という)。
    a・ā・i・ī・u・ū・ṛ・ṝ・ḷ・ḹ・e・ai・o・au・aṃ・aḥ
    このうち、a・ā・i・ī・u・ū・e・ai・o・au・aṃ・aḥを通摩多と言い、ṛ・ṝ・ḷ・ḹを別摩多と云う。
    ただし、典籍によって別摩多を挙げる位置、字の順が異なり、
    a・ā・i・ī・u・ū・e・ai・o・au・aṃ・aḥ・ṛ・ṝ・ḷ・ḹ
    とする場合もある。ここで円珍が意図しているのは前者であろう。▲

  16. 大圓寂經(だいえんじゃくきょう)

    『大般涅槃経』(『涅槃経』)の別称。圓寂は涅槃の意。この漢訳に法顕・覚賢訳『大般泥洹経』六巻、曇無讖訳『大般涅槃経』四十巻、慧厳等訳『大般涅槃経』三十六巻おの三本あり、後の二本の前者を北本、後者を南本と一般にいう。
    曇無讖訳『大般涅槃経』(北本)第八 如来性品「迦葉菩薩白佛言。世尊。云何如來説字根本。佛言。善男子。説初半字以爲根本。持諸記論呪術文章諸陰實。法凡夫之人學是字本。然後能知是法非法迦葉菩薩復白佛言。世尊。所言字者其義云何。善男子。有十四音名爲字義。所言字者名曰涅槃。常故不流。若不流者則爲無盡。夫無盡者即是如來金剛之身。是十四音名曰字本」(T12, p.413a)▲

  17. 十四音(じうしおん)

    ただ純然たる母音をいうものであれば、前述の十六字(十六音)のうちaṃ・aḥの二字(二音)を除いた十四字(十四音)。というのも、これら除かれる二音は正しく母音でなく、単独で存在し得ない鼻音と気息音であり、その記号であるためである。しかし、伝統的には十四母音の最期にaに付して示され、仮に母音の一として数えられ、それを通摩多と一般にいう。
    智廣は『悉曇字記』においてその点について触れており、「舊云十四音者即於悉曇十二字中甌字之下次有ṛ紇里ṝ紇梨ḷ里ḹ梨四字即除前悉曇中最後兩字謂之界畔字也餘則爲十四音今約生字除紇里等四字也」と注記している。円珍も『悉曇字記』を当然読んでいたが、ここでこのような疑問を有しているということは、この一節を読み落としているのか理解していなかったのであろう。
    しかし確かに、『涅槃経』では「初め十四音を名けて字本と爲す」といいながら、その直後に示すのはただ十二字であり、しかもそれはいわゆる通摩多の十二字であって、別摩多を含めぬ不合理な、そして前後撞着した説となっているのは事実である。
    ▲

  18. 字界(じかい)の緣(えん)

    伝統的にaṃ・aḥは梵字における母音の一つとして挙げられるが、実際はただ鼻音と気息音を付加させるための記号ṃ・ḥを、母音を示す最後に例として示されたに過ぎない。『悉曇字記』(後述)では、それが梵字の字表において母音(悉曇)と子音(体文)の間に示される字であることから「界畔字」と云うとされる。
    円珍は界畔字がいわゆる母音ではないことを理解出来ず、その上で『涅槃経』の説の前後撞着している点について支那でそれらは母音から除いて数えるべきであると解釈する者があることについて、不審であったのであろう。▲

  19. 三昧聲(さんまいしょう)

    或る梵字の字義に対応する三昧(samādhi)。▲

  20. 四(し)と六(ろく)

    梵字の悉曇のうちaṃ・aḥを除いた十四字と、除かない十六字。
    円珍はどうしても母音の数え方に違いがあること、その理由を理解出来なかった。そして円珍は、その違いの裏には何やら仏教的または密教的理由があるのでなかろうかと考えていたため、先と同様、ここでも同様の疑問を挙げたのであろう。▲

  21. 伊(i)・縊(ī)より塢(u)・奧(au)まで一十二字

    i・ī・u・ū・ṛ・ṝ・ḷ・ḹ・e・ai・o・auの十二字。
    ここで円珍は、これら十二字がなんらか他の字に属するものかとの疑問を呈しているが、それは彼が梵字の基本構造をまったく理解出来ていなかった証であろう。▲

  22. 迦(ka)等は唯(た)だ十二有る

    「唯だ十二」とは、迦字すなわちka(など体文)は、本より備わっているaを含めた十二の母韻(十二摩多)を点じたことによって十二字が生じること。すなわち、(ka)・(kā)・(ki)・(kī)・(ku)・(kū)・(ke)・(kai)・(ko)・(kau)・(kaṃ)・(kaḥ)の十二字。
    ここで円珍は、当時、すべての体文には(梵字の母音)十四あるいは十六音が備わっているなどと言われているのに、実際には十二摩多を具した字しか悉曇章には示されておらず、またそれ以外に示されていないことに疑問を呈している。▲

  23. 迦(ka)等の三十四字

    梵字における(ka)に始まる五類声二十五字と、九字からなる遍口声など体文(子音字)のすべて。▲

  24. 句義(くぎ)、至難(しなん)なり

    字としては読み書き出来、理解することは出来ても、その文字・音から構成される梵語の単語そして文章となると、円珍にとって到底手の及ぶものでなかった。円珍はそれを理解しようと欲していたことがここから知られるが、梵字字体の理解がまったく不完全であった状態では、その願いを果たし得なかったであろう。また、唐に印度からの渡来僧があったとしても、それを実現し得る程の漢語力を円珍が有していたかも甚だ怪しまれる。▲

  25. 初後(しょぐ)の四字

    梵字の悉曇(通摩多)における最初の二字(a)・(ā)と最後の二字(aṃ)・(aḥ)に該当する摩多(韻を表する点・画)、(-a)・(-ā)・(-ṃ)・(-ḥ)。▲

  26. 中間(ちゅうげん)の八字、未だ説處(せっしょ)有らず

    梵字の悉曇(通摩多)十二字における最初と最後の各二文字を除いた八字に該当する摩多に、何等の意義付けもなされておらず、それを説く仏典がないこと。
    円珍にとって、母韻十二摩多のうち四つに特に名称が与えられ、また意義付けがなされているならば、屹度他の八点にも何等か名称・意義が付されていなければおかしい、もし付されていないとしたらそれは何故か、という疑問があったことが知られる。それらは仏教的に梵字に附会されたものであって梵語本来のものではないため、無くてもなんらおかしいものでなかった。しかし、普通の人は「そういうものだ」と取り沙汰しないであろうが、そのような点まで疑問に思うほど、円珍はこれを真剣に考究しようとしていた。▲

  27. 第三(だいさん)・四(し)

    悉曇(通摩多)の第三番目の母音字iに対応する摩多(-i)と第四īに対応する摩多(-ī)。▲

  28. 第六(だいろく)、又た一點(いってん)を加ふ

    悉曇(通摩多)の第六番目の母音字ūに対応する摩多(-ū)は、第五の摩多(-u)の右に一点を付すだけのものであること。(第五・第六摩多には体文の字形によっていくつかの形があってここに挙げたのはその一例。ただし、その違いはやはり第五摩多に一点を加えるだけのもの。)▲

  29. 第七(だいしち)

    悉曇(通摩多)の第七番目の母音字eに対応する摩多eのこと。▲

  30. 第八(だいはち)

    悉曇(通摩多)の第八番目の母音字aiに対応する摩多aiのこと。▲

  31. 大空(だいくう)一三昧(さんまい)二行(ぎょう)三涅槃(ねはん)四點(てん)

    先に円珍のいった「初後の四字」は、『大日経』あるいは『大日経疏』などにおいて大空点・三昧点・行点・涅槃点などと云われ、ある字にそれらを付すことによる意義付けがなされている。したがって、円珍によるここでの問いは、それら典籍を読むことに因って解消されるべきもの。
    なお、伝統的一般的にはそれら四つの摩多は発心・修行・菩提・涅槃を表するものと云われる。▲

  32. 空點(くうてん)は唯一

    密教にて空点(大空点・菩提点)といわれるanusvāra(-ṃ)が、ただ一点をのみ字形の上に加えたものであること。
    円珍は梵語そのものを理解する能力も機会もなかったであろうことから、いきおいその興味と関心事はその字形という外形的・表層的なものに集中され、このような問いを発することになったのであろう。▲

  33. 涅槃(ねはん)は二點

    密教にて涅槃点といわれるvisarjanīya(visarga)(-ḥ)が、空点が一つの点であるのに対してなぜ二つの点であるのか、そこに屹度理由があるに違いないと円珍は考え、このようないわば愚問を発したのであろう。▲

  34. 五箇(ごか)

    円珍が何を意味したものか不明。あるいは『大日経疏』の説に基づく五点(五転)を意図したか?▲

  35. 山陰(さんいん)の智廣(ちこう)の悉曇字記(しったんじき)

    唐代の北支の学僧、智廣により五台山にて著されたと思われる悉曇についての書。他多く支那にて著された、あるいは印度からもたらされた『悉曇章』に比して最も整理してこれを解説したもの。詳しくは別項「智廣『悉曇字記』」を参照のこと。▲

  36. 生字(しょうじ)

    梵字の体文、二つ以上を組み合わせ(切り継ぎ)して出来た(生じた)文字。たとえばnaで、これはka字とna字の二つの字が結合した文字。二字の結合文字の場合、二合といい、三字・四字ならば三合・四合という。しかし、体文にはそれぞれ決して組み合わせることが出来ない、すなわち梵語としてあり得ない音を表する文字となるものがあり、それを非字と云う。▲

  37. 人人(にんにん)將來多く不同有り、増減(ぞうげん)...

    史書にて確認しえる範囲で最初に日本に「悉曇章」をもたらした人は、菩提僊那に南天竺にて師事し、共に唐に渡って後に道璿ら共に日本に渡来した林邑僧、仏哲。仏哲自らが著したものかただもたらしたものかは判然とせぬものの、それは十四章からなるものであったと安然『悉曇蔵』において記されており、これが日本の明治維新前後まで伝えられていたが散失して現存しない。他にも入唐八家がそれぞれいくつかの「悉曇章」をもたらしていたが、円珍が入唐時に携えていたのは常暁がもたらしたものであったというが現存しない。▲

  38. 他師(たし)

    義浄であろう。
    義浄『南海寄帰内法伝』「一則創學悉談章亦名悉地羅窣覩斯乃小學標章之稱但以成就吉祥爲目本有四十九字共相乘轉成一十八章」(T54, p.228b) ▲

  39. 興善(こうぜん)三藏

    不空金剛(Amoghavajra)。大興善寺に起居し数々の訳経に従事した。▲

  40. 賁(び)法師

    良賁。青龍寺あるいは安国寺に住し、法相教学に通じていたという不空三蔵の弟子。不空による新たな漢訳『仁王護国般若波羅蜜多経』を注釈して『仁王護国般若波羅蜜多経疏』を著した。▲

  41. 西方(さいほう)の梵字、界(かい)有り、緣(えん)有り

    梵語が、界(dhātu)と云われる語根に、名詞の場合はその人称・性・数、動詞の場合はその格などに、それらを「縁」といったのであろう、応じた語幹や語尾を作って展開する言語であること。▲

  42. 四禮(しらい)の明(みょう)

    金剛界の瑜伽法において四方の四仏を各別に礼拝する真言。▲

  43. 圓寂經(えんじゃくきょう)

    『大般涅槃経』。▲

  44. 半字(はんじ)

    字義(の理解)を伴わない、世間で用いられる単なる表音文字としての梵字。特に『涅槃経』において説かれた概念。字義とは、梵字の短阿(a)字は「吉(原語未詳)」または「不破壞(abhaṅgya?)」を意味するものとし、ひいてはそれが「三宝」を表するとするなど、梵字の母音・子音の一々には付された意味。世間一般で用いられる文字は、そのような理解を欠いているものとし、それが半字であるとされる。そこで半字は「諸の經書・記論・文章に於て而も根本となす」とされ、また「煩惱の言説の本」であるとされる。ただし、そのような字義を欠いた「煩悩の言説の本」であっても、そのような音・文字によってこそ人は彼此の差別、是法・非法の分別をなし得るものであり、ひいては智慧を得ることも出来ようものであることから、半字が否定されることはない。そしてまた、半字の根本は十四の音あるいは字、すなわち悉曇(梵字の母音字)であると『大般泥洹経』において説かれる。▲

  45. 滿字(まんじ)

    世間一般にて通用する、単なる表音文字としての梵字ではなく、それぞれが有する字義を伴って理解され用いられる梵字。『涅槃経』は各字に備わる字義の理解をもって用いられる梵字を「一切善法の言説の根本」とする。
    ここで円珍は「小乗を半字と爲し、大乗を満字と爲す」とする説についての問いを発しているが、それは『涅槃経』において説かれたものでなく、『涅槃論』などその注釈書において作されたものであり、またそれを承けた天台の学僧らによる諸疏において展開された論述に基づくもの。▲

  46. 百論(ひゃくろん)

    鳩摩羅什訳 『百論』。龍樹『中論』などに基づき、その弟子提婆が空の理を様々に解き明かした論書。
    本書で言及される一節に該当する箇所を今のところ見いだせない。▲

  47. 單字(たんじ)

    それ自身として独立した文字。阿字は悉曇(母音字)であってその最初に挙げられる文字である。ここで円珍は阿字を何か別の音にさらに分解し得るものであるかどうか疑問に思っている。そのことはしかし、円珍がこの程度のことすら理解できておらず、すなわち梵語を言語としてまったく把握できていなかったことを意味する。▲

  48. 二合(にごう)

    体文を二つ切り継ぎ(結合)して成立している文字。体文三つの切り継ぎを三合、四つの切り継ぎを四合という。五合以上は梵語としてあり得ない。▲

  49. 轉生(てんしょう)及び字母(じも)

    漢字が梵字のように語根あるいは語幹から展開するものであるのか、あるいは梵字のような字母(子音)のようなものがあって他の文字と結合して新たな一字を生み出し得るものか聞いている。漢字が偏と旁のように、他の字との組み合わせで新たな字を生じていく点においては、他の文字と結合して新たな字を生じる梵字と共通すると見ることは可能であろう。しかし、そもそも漢字は象形文字であり、梵字は表音文字であって、本質的に全く異なる文字でありまた言語体系である。けれども円珍は、いずれもただ異国語であるという括りでしか捉えることが出来なかったのであろう。円珍における漢語理解の程度も推して知るべきである。▲

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