阿字観に連なる修習に、日本で月輪観といわれるものがあります。満月に見立てた白い円形を、それはやはり自らの浄菩提心を象徴したものですが、その色と形とを対象として集中し、三昧を深めていく瑜伽法の一つです。
最初は軸に描かれた図像を見つめて修めるのですが、やがては目を閉じてもその形と色とを意識にありありと保持出来るようにしなければなりません。そしてそれが意識のうちで明らかな輝きを持つようになったならば、これを最大限拡張し、その後はまた収斂させていくべきものとされます。
もっとも、特定の修習として説かれ「月輪観」と称されるものは直接経説に基づいたものではなく、八世紀頃の印度から支那に密教をもたらした大阿闍梨の一人とされる善無畏が密教における授戒の次第を説いたものであり、また簡略に密教の修禅の術が伝えられた『無畏三蔵禅要』に基づいたものです。
善無畏三蔵は特に『大日経』系の密教の相承者であったと言われ、実際『無畏三蔵禅要』でも『大日経』および『大日経疏』に基づいた事項を多数説いています。とはいえ、善無畏三蔵が『金剛頂経』系の密教と没交渉であったということはありません。実際、心に観想した月輪を拡大・収縮させるという法に関しては、『大日経』ではなく『金剛頂経』系の経軌の所々に説かれたものです。
ところで、先にも少し言及したことですが、そのように図形を対象として三昧すなわち定を深めようとするのは、例えば分別説部における止の業処を用いた瑜伽法に類する修習でもあります。
以下に延べることは上記の書典などに説き示されたことではなく、仏教者として、あるいは瑜伽行者としての常識的な話として言うことであり、実際に瑜伽を自ら修めてみればたちまち理解できることですが、いきなり「心とは満月のようであって円満にしてそれは輝いている。最初は現前にある満月の図像を対象としても良いけれども、最終的には目を閉じても明瞭に光り輝く満月輪をありありと我が意識のうちに観想し、それを保持せよ」などと言われても、それを全く受け入れることは困難であり、また言われたとおりたやすく出来ることではありません。いや、そんなことはいきなり出来ない。
これは「阿字とは本不生を意味する」等といったことを理解する以前の問題で、我々人の普段の意識というものは、まったく落ち着き無くせわしく飛び回っており、世間でいかに生き抜くか、世間における諸欲をどれほど享受するかに汲々としています。しかし、そんな状態のままでは到底、もちろん自らを含めたあらゆる事物の「本不生」であるとか「不生不滅」、「縁起生」であるという真理を如実に知見することなど出来ようはずもないことです。
そこでまた、「物事には原因と結果がある」・「生命や事物には始めと終りがある。生まれたならば、いつか必ず死がある」などと言われても、そんなことは「わかりきったことで、殊更に言うまでもないこと」というのが普通の感覚でありましょう。それを知ること・言うことは、普段の意識でもなんら支障ないことであるでしょう。しかし、そのような見方もまた、縁起や本不生ということを如実に知ることへの障害となります。
実は釈尊は成道された直後、その悟られた法すなわち縁起法を、世間に開示することをためらわれています。何故か。それは縁起法が甚深微妙であってまことに見難く、いくらこれを説いたところで人は理解し得ず、ただ疲労困憊するのみであろう、と仏陀は考えられたからであると言われます。
adhigato kho myāyaṃ dhammo gambhīro duddaso duranubodho santo paṇīto atakkāvacaro nipuṇo paṇḍitavedanīyo. ālayarāmā kho panāyaṃ pajā ālayaratā ālayasammuditā. ālayarāmāya kho pana pajāya ālayaratāya ālayasammuditāya duddasaṃ idaṃ ṭhānaṃ yadidaṃ idappaccayatāpaṭiccasamuppādo.
私が得たこの真理は深遠で、見がたく、解しがたく、静謐で、極妙であり、推量の域を超え、微妙であり、賢者によって知られるものである。しかしながら、人々は執着することを喜び、執着することを楽しみ、執着することを享受している。そこで、人々は執着することを喜び、執着することを楽しみ、執着することを享受しているが故に、(人々には)此縁性〈idappaccayatā〉すなわち縁起〈paṭiccasamuppāda〉は見がたい。
SN. Sagāthāvagga, Brahmāyācanasutta (6.1.1)
しかし、そのように考えられていた仏陀のもとに、当時のインドでは宇宙の創造神にして最高神として信仰されていた梵天という神が現れて最上の敬意をもって礼拝し、「世間にも少数とは言えこれを理解する眼あり耳あるものがあって、そのような人々のために是非とも法を説いて欲しい」との懇請があります。
そこで、釈尊があらためて世を見渡してみた結果、確かにそのような人々があり、「ではそのような人々のためにこそ法を説こう」と決意されたと言われます。梵天勧請といわれる説話です。仏陀がひるまれたほどに、人をして理解困難なる真理、それが縁起法です。例えば、釈尊の随行を務められていた阿難尊者ですら、ある時このような思いが起こったことを経典は伝えています。
āyasmā ānando bhagavantaṃ etadavoca — “acchariyaṃ, bhante, abbhutaṃ, bhante. yāva gambhīro cāyaṃ, bhante, paṭiccasamuppādo gambhīrāvabhāso ca, atha ca pana me uttānakuttānako viya khāyatī”ti. “mā hevaṃ, ānanda, avaca, mā hevaṃ, ānanda, avaca. gambhīro cāyaṃ, ānanda, paṭiccasamuppādo gambhīrāvabhāso ca. etassa, ānanda, dhammassa ananubodhā appaṭivedhā evamayaṃ pajā tantākulakajātā gulāgaṇṭhikajātā muñjapabbajabhūtā apāyaṃ duggatiṃ vinipātaṃ saṃsāraṃ nātivattati.
阿難尊者は世尊にこのように言われた。
「不可思議なものです、大徳よ!驚くべきものです、大徳よ!この縁起法とはなんと深遠であり、その相もまた深遠なることは。けれどもしかし、私には(縁起法とは)一目瞭然の(わかりきった)もののように思われます」
と。(すると世尊は答えられた。)
「阿難よ、そのように言ってはならない。阿難よ、そのように言ってはならない。この縁起法は深遠であり、その相もまた深遠なるものである。阿難よ、この真理に対する無知と無理解によって、人は、糸がもつれ絡まったかのように、腫れ物に覆われたように、ムンジャ草やパッバジャ草のように、悪趣〈apāya〉・苦界〈duggati〉・堕処〈vinipāta〉への輪廻〈saṃsāra〉を超えることが出来ないのだ」
DN, Mahāvagga, Mahānidānasutta
阿難尊者は、ひとまず仏陀の説かれた縁起法を賛嘆しておきながら、しかし縁起法がそれほどまでに難解なものなどとは思われないとの感想を、実に率直に釈尊に述べています。けれども、釈尊はこれを「そのように言ってはならない」とたしなめられ、その理由について、あらためて十二縁起の一一を然々と、阿難尊者に説かれています。この時、阿難尊者は未だ阿羅漢果に達しておらず、したがって縁起法の実義を理解していませんでした。そんな阿難尊者が苦しみぬいて諦めかけた瞬間、ついに阿羅漢果を得て無学位に昇るのは、仏陀滅後まもなく開かれた第一結集の日の早暁のことです。
大乗における無自性空と同義とされる縁起とは、十二縁起における縁起よりさらに深淵なものであるとされるため、なおさら本不生ということは、そんな表層のことでも単純なことでもありません。それはまさしく捉え難く知り難い、微妙であり微細なる真理です。
故にまず、人はその普段の意識を沈め穏やかにしなければならない。それは同時に、自らの念〈smṛti. 注意力・把持力〉と定〈samādhi. 集中力〉との力を強め深めなければならないということです。それにはやはり、清潔な閑所においてじっくりと自らを陶冶する時間を設けなければなりません。
それまで音楽など全く縁遠かった者で鍵盤になど触れたこともなかった者が、何かピアノのクラッシクの名曲を弾きたくなってピアノを始めたとして、いきなりそれを流麗に弾くことなど誰であっても決して出来はしません。音符の読み方、そして楽譜の見方、基本的な運指や姿勢をまず学び、実際にごく簡単な練習曲から次第に難解な曲へと修練に修練を重ね、初めてある程度ピアノが弾けるようになり、模倣に模倣を重ねてやがてみずから個性というべき味を出せるようになることでしょう。その上達までの遅速はもちろん、才能に左右されるものでもあるでしょうが、なによりもまずは本人の意思が第一です。
いわゆる瞑想、瑜伽を行じることも全く同様です。仏教における瑜伽、すなわちいわゆる瞑想とは、我が心を耕し育むこと、陶冶することを目的とするものです。
月輪観(阿字観)を修する際は、月輪が(心の正体とは本不生なるものであるという)菩提心の象徴であるという意義から先ずは一旦全く離れ、我が念力と定力とを強めるための通仏教的な術として始めなければならない。やがて我が心に念と定とを十分に備えることが出来たならば、その時には我が心とは満月輪のように文字通り光り輝くものであることを自ずから体験することになる。そのような体験は、必ず月輪を観想の対象としてこそ得られるものではなく、術として安般念であっても何でも得うるもので、それはまさに禅定〈初禅〉に(もう少しで)達することの証です。
しかし、そのような光明を経験したからといって舞い上がってはいけない。それはもちろん物理的な光ではなく、禅定を得た者であれば誰でもが「必ず」経験する、ただ意識の上での一現象に過ぎません。それは確かにすこぶる非日常なる、いわば衝撃的な体験になりうるものですが、それを経験することが目的などではもちろん無い。
(とはいえ、このように事前に「光明を必ず経験する」などと初心の人に述べてしまうと、その者はそれを意識的に目的化してはいないなどと云いながらも、それをまさに一つの指標や目処として目標化してしまいます。そして、光明の体験を過度に求め、また期待する者が続出します。結果としてそのような者らは、何ら体験することも証果を得ることも出来ず、往々にして挫折します。中世、明恵上人や禅僧らが口にした「徒者になるべし」とは、その類の者らはなんら結果やその経過を期待せず修行・修禅に励むべきとする、戒めの言葉です。)
そこで行者がそのような状態に至った意識において、無自性空なる心の正体としての菩提心を自ら観ること、すなわち「如実知自心」に到ることが、その目的の達成となります。
次應修三摩地。所言三摩地者。更無別法。直是一切衆生自性清淨心。名爲大圓鏡智。上自諸佛下至蠢動。悉皆同等無有増減。但爲無明妄想客塵所覆。是故流轉生死不得作佛。行者應當安心靜住。莫縁一切諸境。假想一圓明猶如淨月。去身四尺。當前對面不高不下。量同一肘圓滿具足。其色明朗内外光潔。世無方比。初雖不見久久精研尋當徹見已。即更觀察漸引令廣。或四尺。如是倍増。乃至滿三千大千世界極令分明。將欲出觀。 如是漸略還同本相。初觀之時如似於月。遍周之後無復方圓。作是觀已。即便證得解脱一切蓋障三昧。得此三昧者。名爲地前三賢。依此漸進遍周法界者。如經所説名爲初地。所以名初地者。爲以證此法昔所未得。而今始得生大喜悦。是故初地名曰歡喜。亦莫作解了。即此自性清淨心。以三義故。猶如於月。一者自性清淨義。離貪欲垢故。二者清涼義。離瞋熱惱故。三者光明義。離愚癡闇故。又月是四大所成究竟壞去。是以月世人共見。取以爲喩令其悟入。行者久久作此觀。觀習成就不須延促。唯見明朗更無一物。亦不見身之與心。萬法不可得。猶如虚空。亦莫作空解。以無念等故説如虚空非謂空想。久久能熟。行住坐臥。一切時處。作意與不作意。任運相應無所罣礙。一切妄想。貪瞋癡等一切煩惱。不假斷除。自然不起。性常清淨。依此修習。乃至成佛。唯是一道更無別理。此是諸佛菩薩内證之道。非諸二乘外道境界。作是觀已。一切佛法恒沙功徳。不由他悟。以一貫之。自然通達。能開一字演説無量法。刹那悟入於諸法中。自在無礙。無去來起滅。一切平等。行此漸至昇進之相久自證知。非今預説所能究竟。
次にまさに三摩地〈samādhi. 三昧・定、いわゆる集中した心の状態。ただし、ここでは特に「心の本質としての浄菩提心(を知るための瑜伽法)」の意〉を修めよ。ここでいう三摩地とは、これ以外に別の法など無いもので、これこそ一切衆生の自性清淨心である。これを名付けて大円鏡智という。上は諸々の仏陀より、下はごく小さな虫などに至るまで、(本性としては)それらは悉く全て平等であって優劣など無い。ただし(諸仏以外のものは)無明や妄想という客塵煩悩によって覆われている。その為に生死流転して作仏〈無上菩提を得ること。解脱すること〉出来ないのである。行者はまさに心を安んじて、定にとどまれ。(色・声・香・味・触・法という)すべての認識対象に心を奪われることなかれ。
仮に、満月のように明るい円を観想せよ。(その位置は)身体から四尺〈約120cm〉ばかり前方に高からず低からず、その大きさは一肘〈約45cm〉ほどの円形である。その色は明朗であって内外ともに一点のくもり無く、世に比較できるものがないほどである。初めはうまく観想出来くとも、継続して日々研鑽したならば、徐々にアリアリと現前するかのようになるであろう。(そのように出来たならば)更に観想し続け、次第にその大きさを広げよ。あるいは四尺ほどまで次第に広げ続け、ついには三千大千世界に遍く広げていくのを、極めてアリアリと観想しなければならない。観想を終える際には、(拡張したときと)同じように徐々に収斂させていき、最終的には最初の一肘ほどまでにせよ。
最初は満月のようなものを観想するが、遍く広げていった時には方形・円形などの形を意識する必要はない。この観想を成就したならば、それが解脱一切蓋障三昧の証得である。この三昧を得た者を地前の三賢〈十住・十行・十廻向〉という。
これからまた漸進して法界にまで遍からしめた者を、経説のとおり初地〈十地(十聖)の最初の位〉というのである。初地といわれる所以は、この法を証して未だかつて得たことの無い境地を、今初めて得たことによって大なる喜悦を生じるためである。このようなことから初地を名づけて歓喜地と言う。しかし、(もし三昧を成就し初地に至ったとしても)「私は悉地を得た。全く理解した」などと思ってはならない。
この自性清浄心には三つの意義があることから、あたかも月のようなものである。一つは自性清浄の義。貪欲という垢から離れているからである。二つには清涼の義。瞋恚という熱悩から離れているからである。三つには光明の義。愚痴という闇から離れているからである。また、月とは(地大・水大・火大・風大の)四大からなるもので遂には壊れゆくものであるけれども、月は世の人々皆が見るものであるから、これを以て喩えとし、それ〈自性清浄心〉に悟入させようとするのである。
行者が久しくこの観法を行じて観習成就したならば、(時間の)長短もおぼえず、ただありありと(心が満月輪のように輝くのを)見ることだけがあって、他に何も(意識に)生じることはない。また(自らの)身体と心とをすら認識することもなくなるであろう。万法〈あらゆる事象・事物〉は不可得〈無自性空・中道・仮名〉であって、さながら虚空のようである。ただしここで空解〈虚無主義的理解に執着すること〉をおこしてはならない。(そのような境地においては)なんら認識することすら出来ない等となるために虚空のようであると云いはするけれども、空想〈虚無主義〉を説いているわけではない。永くよく(この観法に)習熟したならば、行住坐臥のすべての時と場所において、意識的・無意識的にただ行なうままに行いながら、しかし障碍となるものも無いであろう。すべての妄想、貪・瞋・癡などすべての煩悩は、強いて制し断ずる必要が無くなり、自然に起こることもない。(行者の)心性は常に清淨となる。
この修習によって、ついには成仏に至るであろう。ただこれこそ一道であって、さらに別の理など無い。これは諸仏諸菩薩の内証の道であって、諸々の二乗や外道らの境界ではない。この観法を修し終わったならば、すべての仏法の無量の功徳を、他に依ることなく悟るであろう。ただ専心にこれを貫徹したならば、自ずから通達するであろう。(梵字)一字が有する意義を敷衍して無量の法を説き示し、たちまちに諸法の中に悟入して、自在無礙である。(諸法は)去ることも・来ること・起こること・滅することも無い、すべて(畢竟して無自性空であるという点において)平等である。これを行じて漸く(悉地へと)至る際には、(自身の境地が)昇進したその徴を、久しく時を経て自ずから証知するであろう。それは今このように説いたからといって、それで完結するものではない。(自らが実際に精進して修め、自ら実際に体験しなければならないことである。)
善無畏『無畏三蔵禅要』(T18, p.945b-c)
以上のように見たならば、先に月輪観をもって「阿字観に連なる修習」などと述べはしましたが、月輪観とは止と観との双方の修習を備えた、それ自体で完結した優れたものである、ということが理解出来たことでしょう。いや、先に同じく「必ずしも阿字観とはअ字・月輪・蓮華の全てを観想し、そのそれぞれが示す意義を逐一観察する必要は無い」ものだと指摘し、その根拠も併せて示しておきましたが、そのようなことからすると、まさに「月輪観とは阿字観である」と言って何等差し支えありません。
なんとなれば、月輪も阿字と全く同様、紛れもなく諸法の、特には心の本不生・無自性空なることを示したものであり、事実『阿字観用心口訣』において阿字観としてただ月輪のみを観じることも可であるとされているのだから。