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Dharmacakra
智慧之大海 ―去聖の為に絶学を継ぐ

四念住(四念処) ―Smṛtyupasthāna / Satipaṭṭhāna

嗚呼、浪漫佛教

自灯明法灯明

画像:嗚呼、浪漫仏教

仏陀の遺教ゆいきょうの中、そのすぐれた由縁ゆえんを示すものとして、世間に非常によく知られた言葉の一つに、「自己を灯明とうみょうとして法を灯明とし、他を灯明とせざれ。自己に帰依きえし、法に帰依して、他に帰依することなかれ」というものがあります。これは今、世間で「自灯明じとうみょう法灯明ほうとうみょう 自帰依じきえ法帰依ほうきえ」との表現をもってされる説示です。

先ず、そもそものことを言っておくと、「自灯明法灯明」とは仏典にある言葉ではなく、また伝統的に須いられてきた文句でもありません。第一、それは漢文としても何やらおかしく、文法的にも正しいものではない。誰がこれを最初に言い出したか知れませんが、現代の漢文を読めず書けない人、あるいは誰か学者が恣意しい的にこしらえた言葉であったのでしょう。しかしながら現在、およそ仏教を学び、知る人であるならば、その誰もがきっと知るであろう言葉となっています。それは仏教が俎上そじょうに載せられる時には、必ず誰かに語かれるであろう文句の一つです。そこでここでも「自灯明法灯明」なる表現を、今一応仮に用います。

とはいえ世間では、「自灯明法灯明」という言葉、その文句のみが取り沙汰され、独り歩きして、肝心かなめのその中身、「それは具体的にどのようなことか」がすっかり等閑視とうかんしされ、あるいは無視され、ほとんど理解されていません。それは、聞こえが良くイメージとしてなんとなく良く思えるような、しかしながらからきし中身の無い、ただの惹句じゃっく化してしまっているのです。仏教自体などでは到底なく、むしろ空空漠漠くうくうばくばくとした「仏教に対する私的妄想」を虚飾するための道具になっている、とすら思えることがあります。

なにより痛々しいのは、この一説について牽強付会けんきょうふかいの説を堂々と振るう仏教者が、しかもかなり多くあることです。例えばこの一節を頼りとし、なんらの根拠もなく、ただ自分勝手な思いつきで以下のような珍説を様々に披露する人らが極めて多くあるのです。

「釈尊は『自灯明』ということをおっしゃられた。我をこそ頼りとし、己の心に従い、自由闊達じゆうかったつに生きることが仏教である」

「『自灯明法灯明』の説示に明らかなように、釈尊はヒューマニズムを説く先駆者であった。人間主義、自己実現を説かれた最初の人であったのだ」

「『自灯明』、それは我が内なる聖性ともうしましょうか霊性と言いましょうか、そのような尊い人間性を頼りとせよという意であり、また『法灯明』とはその聖性を明らかにした仏陀の教え、すなわち法を頼りとせよという、まこと深い意味がこめられている言葉です」

「『自灯明法灯明』とは、自己の内奥に潜む仏性を知り、その自我の本性であるところの仏性と、ダルマという仏性と同質なる絶対真理をこそ頼りとせよという意味である」

「他人の意見や動向にフラフラと迷うことない自己を確立せよ、というのが自己を灯明ととすることの意味であり、すべては無常であるという法すなわち真理を頼りとせよというのが、法を灯明とすることの意味なのであります。嗚呼ああ、ありがたや。ではご一緒に。ナンマイダァ」

「最初に『法灯明』ではなく『自灯明』が説かれるのは、法という取り決めに形式的に従うのではなく、まず己が心の声に耳を傾けてそれに従うことが大事ということ。かといって、やはり人間だもの。法がなければ道を誤ってしまうこともある。そこで次にそのしるべとして法灯明が説かれるのだ」

これと似たような言葉を諸君もきっと聞いたことがあるに違いない。それは総じて、仏教についてほとんど知らない人からすれば「なるほど、そうか」・「ほぉ、仏教というのはそういうものであったか」などと感想し得る、まことしやかに聞こえるものであるかもしれない。しかしながら、実はこの類の主張は徹頭徹尾、どこまでも嘘八百の説。根拠などまるでない、市井しせいの人による思いつきの戯言ざれごとに過ぎません。

誠に似たる空言は言うべからず

画像:WTF

それにしても、それほど有名な一節でありながら、まともに理解している者がほとんど無い、というのは一体どういうことでありましょうか。以上のような理解を自らするばかりでなく、あまつさえそれを堂々と他に説いて「これぞ仏教」としたり顔する人々は、一体どうしてそうするに至ったのか。

しかもそれがまったくの門外漢ではなくて、一寺院の住職として食を得ている日本の僧職者や比較的著名な仏教著述家、あるいは時に仏教系大学の教授や講師、研究者など仏教学者によってすらなされ、その講義や著書などで恥ずかしげもなく開陳されているため始末に終えません。

はなはだしいのになると、「釈尊の遺された教えである自灯明法灯明の教えのうち、灯明とすべきその法とは、まさしくホケキョ―の教えを指したものであります」などという噴飯物ふんぱんものの説を、もっともらしく発表する頓珍漢もあります。けれども言われた方は何が正しいかなど知る由もありませんからそれで納得してしまうでしょう。なんとも罪作りなことです。

およそ仏教では通じて、人としての生を受けることが真に得難いことであり、さらに仏教に触れることはより一層難しいことである、と云われます。日本でよく知られているものとして、例えば中世の日本ばかりでなく宋代の支那にすら大きな影響を与え、後に浄土教が流行する契機を作った『往生要集おうじょうようしゅう』の中で、源信げんしん〈平安中期の天台僧.恵心僧都〉は以下のように書き述べています。

我等未曾修道。故徒歴無邊劫。今若不勤修。未來亦可然。如是無量生死之中。得人身甚難。縱得人身。具諸根亦難。縱具諸根。遇佛教亦難。縱遇佛教。生信心亦難。故大經云。生人趣者。如爪上土。墮三途者。如十方土。法華經云。無量無數劫。聞是法亦難。能聽是法者。此人亦復難。
私達はいまだかつて道を修めず、その故にいたずらに無辺のこう〈kalpa. 劫波.一つの宇宙が生まれてから滅びるまでの時間〉歴巡へめぐってきた。今もし(道を)勤め修さめなければ、未来もまた同様であろう。このように無量の生死しょうじの中、人の身を得ることは甚だ難しい。たとえ人の身を得たとしても、諸根を具えている〈五体満足であること 〉ことがまた難しい。そしてたとえ諸根を具えていたとしても、仏の教えに遇うことがまた難しい。たとえ仏の教えに遇えたとしても、信心を生じることがまた難しいことである。故に『大般涅槃経だいはつねはんぎょう〈(北本)巻三十三・(南本)巻三十一〉では「人趣にんしゅ〈人界〉に生まれる者は、爪の先の土のようなもの。三途さんず〈地獄・餓鬼・畜生〉に墮する者は、十方じっぽうの土のようなものである」と説かれ、『法華経』〈巻一「方便品」第二〉では「無量無数むりょうむしゅの劫においても、この法を聞くことがまた難しい。よくこの法を聴く者、そのような人もまた(あることが)難しい」と説かれている。

源信『往生要集』巻上(T84, p.39c)

そのように、せっかく仏陀の教説に触れる得難い機会が得ながら、一知半解いっちはんげと言うにすら及ばないお粗末な理解で済ましてしまうのは、いかにも勿体ない。ただ自らその生を浪費するばかりでなく、そのような誤解を世人に撒き散らし、またその様をただ傍観するだけならば、遺憾の極みというもの。

なぜ今の人、特に僧職者らが勝手気ままにアレコレ珍妙な説をまき散らかしているかは、誰ぞが書いた概説本をすら拾い読みし、あるいは講話などを聞きかじり、そもそも仏典などまるで読むことが無いことによります。そしてそれは、日本仏教各宗派で行われている教育が伝統的な過程を全く失い、まともに経論を始終通して学ばせることもなく、ただその祖師らについてすらかいつまんで少しばかり教えるのみの、独善的でおざなりなものとなって久しくなっていることにある。また、そのようなのでも仏教などほとんど全く関係の無い祖霊信仰の装置としてのボーサン稼業は問題なく出来るという、社会構造に現代なっていることに基づきます。

空言そらごとに似たる誠は言うとも、誠に似たる空言は言うべからず

「論語読みの論語知らず」ということわざがありますが、この場合は「論語読まずの論語語り」となっているのです。こんな馬鹿な話はありません。

さても失笑、極まりなし。

百聞は一見に如かず。まずはその教示がなされている一節を、漢訳経典ならびにパーリ語経典とを示し、それがどのように経典に説かれ、またどのような意味内容のものと詳しくされているかを明らかにします。

諸比丘。汝等當自熾燃熾燃於法。勿他熾燃。當自歸依歸依於法。勿他歸依。云何比丘。當自熾燃熾燃於法。勿他熾燃。當自歸依歸依於法。勿他歸依。於是比丘内身身觀。精勤無懈憶念不忘。除世貪憂。外身身觀。内外身身觀。精勤無懈憶念不忘。除世貪憂。受意法觀亦復如是。是爲比丘自熾燃熾燃法。不他熾燃。自歸依歸依於法。不他歸依。如是行者魔不能嬈。功徳日増。
「比丘たちよ、汝らはまさに自己を熾燃しねん〈灯明〉とし、法を熾燃として、他を熾燃とすることなかれ。まさに自己に帰依きえし、法に帰依して、他に帰依することなかれ。では、どのようなことを『比丘が自らを熾燃とし、法を熾燃として、他を熾燃とすること無く、まさに自らに帰依し、法に帰依して、他に帰依することが無い』と云うのあろうか。ここに比丘あって内身を身観しんかんし、勤め励んで怠らず、よく気をつけて忘れることがなければ、彼はこの世の貪欲とんよくと憂いを除く。外身げしんを身観し、勤め励んで怠らず、よく気をつけて忘れることがなければ、彼はこの世の貪欲と憂いを除く。受・心・法とを観じることもまた、同様である。これを、『比丘が自己を熾燃しねんとし、法を熾燃として、他を熾燃とすること無く、自己に帰依し、法に帰依して、他に帰依することが無い』と言うのである。このような修行者は、魔の惑わしえるものでなく、その徳はいや増していくであろう」

佛陀耶舍訳『長阿含経』巻六 「転輪聖王修行経」 (T1, p.39a-b)

また、これは仏陀世尊が亡くなる直前、特に悲しみにくれる阿難尊者に対し、仏陀が重ねて全てが無常であることを説かれる小経にある一節です。

汝今阿難。如我先説。所可愛念。種種適意之事。皆是別離之法。是故汝今莫大愁毒。阿難當知。如來不久。亦當過去。是故阿難。當作自洲而自依。當作法洲而法依。當作不異洲不異依。阿難白佛。世尊。云何自洲以自依。云何法洲以法依。云何不異洲不異依。佛告阿難。若比丘身身觀念處。精勤方便。正智正念。調伏世間貪憂。如是外身内外身受心法法觀念處。亦如是説。阿難。是名自洲以自依。法洲以法依不異洲不異洲依。
阿難あなん〈Ānanda〉よ、私は以前このように説いたではないか。『愛すべきもの、種々の喜ばしい物事は、すべて別れ離れる定めのものである』と。故に(私の死が間もないからといって)嘆き悲しむ事なかれ。阿難よ、まさに知るべきである。如来もまた久しからず、まさに滅び往くべきものであると。故に阿難よ、まさに自らをしまとし、自らを拠り所とするべきである。まさに法を洲とし、法を拠り所とするべきである。他を洲とせず、他を拠り所とせずにあれ」
阿難は仏陀に申し上げた。
「世尊よ、どのようなことを『自らを洲とし自らを拠り所として、法を洲とし法を拠り所として、他を洲とせず他を拠り所とせずにある』ということでしょうか?」
仏陀は阿難に告げられた。
「もし比丘が身についての身観念処しんかんねんじょを、勤め励んで行い、正しく知り〈正智〉、正しく気をつけた〈正念〉ならば、この世の貪欲と憂いとを制する。そのように、外身げしん内身ないしんと、また受・心・法と法観念処についてもまた、同様に説く。阿難よ、これを名づけて『自らを洲とし自らを拠り所として、法を洲とし法を拠り所として、他を洲とせず他を拠り所とせずにあれ』という」

求那跋陀羅訳『雑阿含経』巻廿四(T2, p.177a)

パーリ仏典の長部にあるMahāparinibbānasuttaマハーパリニッバーナ・スッタ(パーリ語の『大般涅槃経だいはつねはんぎょう』)では、上に引いた『雑阿含経ぞうあごんきょう』と同様、仏陀がまもなく死を迎えられる場面での、阿難あなん尊者への説法がなされる中にて説かれています。

tasmātihānanda, attadīpā viharatha attasaraṇā anaññasaraṇā, dhammadīpā dhammasaraṇā anaññasaraṇā. kathañcānanda, bhikkhu attadīpo viharati attasaraṇo anaññasaraṇo, dhammadīpo dhammasaraṇo anaññasaraṇo? idhānanda, bhikkhu kāye kāyānupassī viharati atāpī sampajāno satimā, vineyya loke abhijjhādomanassaṃ. vedanāsu ... pe ... citte ... pe ... dhammesu dhammānupassī viharati ātāpī sampajāno satimā, vineyya loke abhijjhādomanassaṃ. evaṃ kho, ānanda, bhikkhu attadīpo viharati attasaraṇo anaññasaraṇo, dhammadīpo dhammasaraṇo anaññasaraṇo. ye hi keci, ānanda, etarahi vā mama vā accayena attadīpā viharissanti attasaraṇā anaññasaraṇā, dhammadīpā dhammasaraṇā anaññasaraṇā, tamatagge me te, ānanda, bhikkhū bhavissanti ye keci sikkhākāmā”ti.
「その故に、アーナンダ〈Ānanda〉よ、自己をしまとし〈attadīpā〉自己をり所として〈attasaraṇā〉、他を拠り所とすることなく〈anaññasaraṇā〉、法を洲とし〈dhammadīpā〉法を拠り所として〈dhammasaraṇā〉、他を拠り所とすることなく住せよ。ではアーナンダよ、比丘はどのようにして、自己を洲とし自己を拠り所として、他を拠り所とすることなく、法を洲とし法を拠り所として、他を拠り所とすることなく住するのであろうか?」
「アーナンダよ、ここに比丘あって、身体〈kāya〉について身随念しんずいねん〈kāyānupassī〉に住して、熱心に〈atāpī〉、確かに意識し〈sampajāno〉、よく気をつけて〈satimā〉、この世の貪欲〈abhijjhā〉と憂い〈domanassa〉とを除く〈vineyya loke abhijjhādomanassaṃ〉。諸々の受〈vedanā〉について、乃至、心〈citta〉について、乃至、諸々の法〈dhamma〉について法随念ほうずいねん〈dhammānupassī〉に住し、熱心に、確かに意識しよく気をつけて、この世の貪欲と憂いとを除く」
「実に、アーナンダよ、このように比丘は自己を洲とし自己を拠り所として、他を拠り所とすることなく、法を洲とし法を拠り所として、他を拠り所とすることなく住する。アーナンダよ、誰であれ、今あるいは私の亡き後、自己を洲とし自己を拠り所として、他を拠り所とすることなく、法を洲とし法を拠り所として、他を依り所とすることなく住することにより、アーナンダよ、我が比丘たちの中において、そのような彼らは最上者となるであろう。もし彼らが(それを)学ばんと望ぶならば」

Mahāparinibbānasutta, Veḷuvagāmavassūpagamana

以上のように、この教示が行われた状況と対象とを若干こと にしたものも伝わっていますが、内容としては皆同じです。もっとも、これらの経文にて、いわゆる「自灯明法灯明 自帰依法帰依」の意味することとして説かれている内容、その言葉について不案内でまるでついていけない、と感じられる人が多くあることでしょう。

たとえば『雑阿含経』における「身についての身観念処を、勤め励んで行い、正しく知り、正しく気をつけたならば、この世の貪欲と憂いとを制する。そのように、外身と内身と、また受・心・法と法観念処についてもまた、同様に説く」だとか、Mahāparinibbāna-suttaマハーパリニッバーナ・スッタにおける「身体について身随念に住して、熱心に、確かに意識し、よく気をつけて、この世の貪欲と憂いとを除く。諸々の受について、乃至、心について、乃至、諸々の法について法随念に住し、熱心に、確かに意識しよく気をつけて、この世の貪欲と憂いとを除く」といった一節です。

これではいくらその具体が示されているとはいえ、それがチンプンカンプンであることからも、それ以上追求せず理解することを放棄し、ためにさっさと自己勝手流の「自灯明法灯明」を開始してしまうのかもしれません。しかし、これは仏教の修道において決して欠くことの出来ない、極めて重要なことが説かれたものです。それは「四念住しねんじゅう四念処しねんじょ)」という仏教における修習の核心、いわゆる瞑想法の大きな枠組を意味したものです。

熾燃(灯明)と洲(島)

画像:灯明と島

ところで、四念住とは何かを明らかにする前に、補足して述べておくべきことを言います。今挙げた漢訳経典では、自己と法とを「熾燃しねん(灯明)」とせよというのと「しま(島)」とせよとの二種の訳があり、またパーリ経典ではただ「しま」としてあって異なっています。

何故か。それはまず、その原語となるパーリ語のdīpaディーパという言葉に、灯明、洲(島)、拠り所(支え)という三つの意味がある為です。そこで上座部(分別説部ふんべつせつぶ)では古来、この説示におけるdīpaディーパは、洲の意であるとのみ解されているのです。

それに対し、実はサンスクリットにおいてはdīpaディーパはただ灯明、光を意味する語であるのですが、音のよく似たものでdvīpaドヴィーパという言葉があります。この語は洲・半島、あるいは拠り所や避難所を意味します。そして、なんとそれらサンスクリットのdīpaディーパdvīpaドヴィーパという二つの語は、パーリ語ではどちらもdīpaディーパという同音異義語となるのです。

サンスクリットのdīpaとdvīpa、そしてパーリ語のdīpa。経文を伝承する過程でそれら似た言葉同士の混乱が起こったのか、もしくは支那に経典を伝来された持経僧や訳経に従事した三蔵などが誤った、ということがあったのかもしれません。しかしながら、全く学術的・文献学的に仏教を云々する人の場合はともかくとして、dīpaという語を灯明であろうが洲であろうがそのどちらの意味で採っても、イメージされる情景はまったく異なるであろうとはいえ、この教示の意図するところに変わりはありません。

ここで肝要であるのは、その「自灯明法灯明 自帰依法帰依」の教示の内容が、四念住の修習であると明示されていることです。したがって、熾燃(灯明)であるか洲(島)であるかなど、ごく些末なことであってここに拘泥する意味などありません。そしてそれは勿論、今の世間における「趣味仏教愛好家(浪漫仏教家)」とでも言うような人々の口からしばしば聞かれる、ご都合主義的な「この私をこそ依るべとして」とか「如是我思(こんなふうに、僕ぁ、思うんだなぁ~)」などとでも表現したら良いような、ポワ~っとした「自己流ブッキョー解釈」でもっともらしいことを好き勝手にアレコレ云われるような、曖昧模糊あいまいもことしたシロモノでも決してない。

先に述べたように、世間では、このいわゆる「自灯明法灯明」の説示について十人十色の、すなわち自分勝手で無根拠なる諸解釈が行われ、時にそのような解釈がさも真であるかのように言い立てられています。けれども、また改めてここに繰り返しますが、「自灯明法灯明とは四念住を修習すること」に他なりません。

諸経において以上のように明示されている以上、そこに牽強付会けんきょうふかいの説、奇妙奇天烈な個人の珍解釈を持ち込む余地はまったくありません。四念住を修習する者が「自灯明法灯明」という仏陀の遺教の実践者です。