VIVEKA For All Buddhist Studies.
Dharmacakra
智慧之大海 ―去聖の為に絶学を継ぐ

『雑阿含経』 巻二十九 ―安般念の修習

訓読

《No.814》

かくごとけり。一時いちじ、佛、舍衛國しゃえいこく祇樹給孤獨園ぎじゅきっこどくおんに住しき。の時、世尊せそんもろもろの比丘に告げたまはく。當に安那般那念あんなぱんなねんを修すべし。安那般那念を修して多く修習しゅじゅうし已らば、疲倦ひけんせず。眼も亦た患樂げんぎょうせず、かん随順ずいじゅんして樂に住し、覺知かくちして樂に染著ぜんじゃくせず。云何いかんが安那般那念を修するに、身疲倦せず、眼も亦た患樂せず、觀に随て樂に住し、覺知して樂に染著せざる。是の比丘、聚樂じゅらく依止えじし、乃至ないしめつにおいて出息しゅっそくするを觀ずる時、滅において出息する如くに學す。是を名づけて、安那般那念を修して、身疲倦せず、眼も亦た患樂せず、觀に随て樂に住し、覺知して樂に染著せずとなす。是の如く安那般那念を修さば、大果・大福利を得。是の比丘、よくあく不善法ふぜんほうより離れ、かく有り、かん有り、離生りしょうらくある初禪しょぜんを具足して住するを欲求よくぐせば、是の比丘、當に安那般那念を修すべし。是の如く安那般那念を修さば、大果・大福利を得。是の比丘、第二・第三・第四禪、しゃ空入處くうにゅうしょ識入處しきにゅうしょ無所有入處むしょうにゅうしょ非想非非想入處ひそうひひそうにゅうしょを具足し、三結さんけつ盡きて須陀洹しゅだおん果を得、三結盡きてとん薄らぎ、斯陀含しだごん果を得、五下分結ごげぶんけつ盡きて阿那含あなごん果を得、無量種の神通力、天耳てんに他心智たしんつう宿命智しゅくみょうち生死智しょうじち漏盡智ろじんちを得ることを欲求せば、是の如く比丘、當に安那般那念を修すべし。是の如く安那般那念は、大果・大福利を得。佛、此の經を説き已て、諸の比丘、佛の所説を聞きて、歡喜かんぎ奉行ぶぎょうしき。

《No.815》

是の如く我れ聞けり。一時、佛、舍衛國は祇樹給孤獨園に住して夏安居げあんごしたまへり。爾の時、衆多しゅた上座じょうざ聲聞しょうもん、世尊の左右の樹下、窟中くっちゅうに於て安居あんごせり。時に衆多の年少ねんしょう比丘びく有て佛の所に詣りて、佛の足に稽首けいしゅし、退きて一面に坐せり。佛、諸の年少比丘の為に種種しゅじゅに説法し、示教・照喜したまへり。示教・照喜し已て、黙然もくねんとして住したまへり。諸の年少比丘、佛の所説を聞きて、歡喜随喜し、座より起て禮を作して去れり。諸の年少比丘、上座比丘の所に往詣して、諸の上座の足にらいおわり、一面に坐せり。諸の上座比丘、是の念を作す。我ら當に此の諸の年少比丘を攝受しょうじゅすべし。あるは一人にて一人を受け、或は一人にて二・三・多人を受けんと。是の念を作し已て、即便すなはち攝受し、或は一人にて一人受け、或は二・三・多人を受け、或は上座の、乃至ないし、六十人を受くる有り。爾の時、世尊、十五日布薩ふさつ時、大衆だいしゅの前に於て座をきて坐したまへり。爾の時、世尊、諸の比丘を觀察かんざつし已て、比丘に告げたまはく。善哉よいかな善哉よいかな、我れ今、諸の比丘の諸の正事しょうじを行ずるを喜ぶ。是の故に比丘、當に勤めて精進すべし。此の舎衛國に於て、迦低かてい月を滿たせ。諸處の人間にんげん比丘びく、世尊の舎衛國に於て安居したまへるを聞けり。迦低月滿つ。滿ち已て、ころもを作りおわり、衣鉢えはつを持し、舎衛國の人間に於て遊行し、ようやく舎衛國に至れり。衣鉢を挙げ、足を洗い已て、世尊の所に詣で稽首禮足し已て、退いて一面に坐せり。爾の時、世尊、人間比丘の為に種種に説法し、示教・照喜し已て、黙然として住したまへり。爾の時、人間比丘、佛の説法を聞きて歡喜・随喜し、座より起て禮を作して去り、上座比丘の所に往詣して稽首禮足し、退いて一面に坐せり。時に諸の上座、是の念を作せり。我ら、當に此の人間比丘を受くべし。或は一人にて一人、或は二・三、乃至ないし、多人を受けん。即便ち是を受け、或は一人にて一人を受け、或は二・三、乃至ないし、六十人を受くる者有り。彼の上座比丘、諸の人間比丘を受け教誡きょうかい教授きょうじゅすること、善く先後の次第しだいを知れり。爾の時、世尊、月十五日布薩時、大衆の前に於て座を敷きて坐したまひ、諸の比丘衆を觀察して諸の比丘に告げたまはく。善哉、善哉、諸の比丘、我れ汝ら所行の正事をよろこび、汝らの所行の正事なることをねがふ。諸の比丘、過去の諸佛も亦た、比丘衆びくしゅ有て所行の正事なること、今の此の衆の如し。未来の諸佛も諸衆有て、亦た當に是の如く所行の正事なること今の此の衆の如くなるべし。所以者何ゆえいかんとならば、今ま此の衆の中の諸長老比丘、初禪・第二禪・第三禪・第四禪、慈・悲・喜・捨、空入處・識入處・無所有入處・非想非非想處を得、具足して住する有り。比丘の三結盡て、須陀洹しゅだおんを得、悪趣法あくしゅほうせず、決定けつじょうして正しく三菩提さんぼだいに向かひ、七たび天・人に往生おうじょうすること有て、苦邊くへん究竟くきょうせるもの有り。比丘の三結盡て、貪・恚・癡薄ぎて斯陀含しだごんを得るもの有り。比丘の五下分結ごげぶんけつ盡て、阿那含あなごん生般涅槃しょうはつねはんを得、復た此の世に還生げんしょうせざるもの有り。比丘の無量の神通境界じんつうきょうがい天耳てんに他心智たしんち宿命智しゅくみゅうち生死智しょうじち漏盡智ろじんちを得るもの有り。比丘の不淨觀ふじょうかんしゅして貪欲とんよくを斷じ、慈心じしんを修して瞋恚しんにを斷じ、無常想むじょうそうを修して我慢がまんを斷じ、安那般那念あんなぱんなねんを修して覺想かくそうを斷ずるもの有り。云何いかんが比丘の安那般那念を修して覺想を斷ずるや。是の比丘、聚樂じゅらくに依止し、乃至ないし、滅を觀じて出息するに、滅を觀じて出息する如くに學す。是を安那般那念を修して覺想を斷ずと名づく。佛、此の經を説き已りたまひしに、諸の比丘、佛の所説を聞きて、歡喜かんぎ奉行ぶぎょうしき。

現代語訳

《No.814》

このように私は聞いた。ある時、仏陀は舍衛国しゃえいこく祇樹給孤独園ぎじゅきっこどくおん〈祇園精舎〉に留まっておられた。その時、世尊せそんは告げられた。
「まさに安那般那念あんなぱんなねん修習しゅじゅうすべきである。安那般那念を修習して習熟すれば、身体は疲倦ひけんせず、眼もまた患楽げんぎょうすることがなく、観に随順ずいじゅんして楽に住し、(諸々の事象・刺激を)覚知して楽に執着することがない。ではどのようなことが、安那般那念を修習して習熟すれば、身体は疲倦せず、眼もまた患楽することがなく、観に随順して楽に住し、(それを)覚知して楽に執着することがないというのであろうか。比丘が、村落に留まり、乃至ないし、滅において出息しゅっそくしているのを観じている時、滅において出息しているままに学ぶ。これを名付けて『安那般那念を修習して習熟すれば、身体は疲倦せず、眼もまた患楽することがなく、観に随順して楽に住し、覚知して楽に執着することがない』と云う。そのように安那般那念を修習したならば、大果・大福利を得る。その比丘が、よくあく不善法ふぜんほうより離れ、尋〈[P]vitakka. 粗雑な思考〉あり、伺〈[P]vicārā. 微細な思考〉あり、離生の〈[P]pīti〉らく〈[P]sukha〉ある初禅(の境地)を得て住することを欲し求めるならば、その比丘は、まさに安那般那念を修すべきである。そのように安那般那念を修習したならば、大果・大福利を得る。その比丘が、第二禅・第三禅・第四禅、しゃ空入処くうにゅうしょ識入処しきにゅうしょ無所有入処むしょうにゅうしょ非想非非想入処ひそうひひそうにゅうしょを得、三結さんけつを尽くして須陀洹しゅだおん果を得、三結を尽くしてとん〈[P]lobha〉〈[P]dosa〉〈[P]moha〉が薄らぎ、斯陀含しだごん果を得、五下分結ごげぶんけつを尽くして阿那含あなごん果を得、無量種なる神通力である、天耳てんに他心智たしんつう宿命智しゅくみょうち生死智しょうじち漏尽智ろじんちを得ることを欲し求めるならば、その比丘は、まさに安那般那念を修すべきである。そのように安那般那念は大果・大福利をもたらす」
仏陀がこの経を説き終わられたとき、諸々の比丘は、仏陀の所説を聞いて歓喜かんぎ奉行ぶぎょうした。

《No.815》

このように私は聞いた。ある時、仏陀は舍衛国しゃえいこく祇樹給孤独園ぎじゅきっこどくおんに留まり、夏安居げあんご〈[P]vassa〉されていた。その時、衆多しゅた上座じょうざ声聞しょうもんたちは、世尊の左右にある樹下や洞窟の中において安居あんごを過ごしていた。ある時、衆多の年少ねんしょう比丘びくがあって、仏陀のところに詣り、仏陀の足を礼拝して、少し退いてから傍らに坐した。仏陀は、諸々の年少ねんしょう比丘びくのために様々に説法され、教えを示されて喜ばせた。教えを示されてのち、(仏陀は)黙然として住された。諸々の年少比丘は、仏陀の説法を聞いて喜びに溢れ、座より立って礼拝をなして去った。諸々の年少比丘は、上座比丘のところに往詣し、諸々の上座比丘の足を礼拝してから傍らに坐した。(そこで)諸々の上座の比丘はこのように考えた。「我々は、これら年少比丘らを指導しなければならない。あるいは一人が一人を受け持ち、あるいは一人でニ、三人、それ以上を受け持とう」と。このように考えてから、実際に指導しはじめたが、あるいは一人で一人を受け持ち、あるいは一人で二、三人、それ以上を受け持ち、ある上座は、乃至ないし、六十人を受け持つ者があった。その時、世尊は十五日の布薩の時、大衆の前に座を敷かれて坐された。その時、世尊は、諸々の比丘(の様子)を観察されてから、比丘に告げられた。
かなかな。私は今、諸々の比丘が様々に正しく行事をなしているのを嬉しく思う。その故に、比丘たちよ、これからも努めて精進すべきである。この舎衛国にて迦低かていの満月の日を迎えよう」
集落の比丘たちは、世尊が舎衛国で安居されているのを聞いた。迦低月が満ちた。満ち終わって衣を縫い竟り、衣と鉢を持って、舎衛国の集落を遊行し、ようやく舎衛国に至った。衣と鉢を片付け、足を洗ってから、世尊のところに詣でて稽首礼足し、少し退いて傍らに坐した。そこで、世尊は集落の比丘の為に様々に説法された。教えを示されて喜ばせてのち、黙然として住されていた。その時、集落の比丘は、仏陀の説法を聞いて喜びに溢れ、座より立って礼拝をなしてから去り、上座比丘のところに往詣して稽首礼足し、少し退いてから傍らに坐した。そこで諸々の上座は、このように考えた。「我々はこれら集落の比丘を指導しなければならない。あるいは一人が一人を、あるいは一人でニ、三人、それ以上を受け持とう」と。そこで(上座比丘たちは)実際に(集落の比丘らを)受け持ち、あるいは一人が一人を受け持ち、あるいは二、三人、乃至ないし、六十人を受け持つ者があった。それら上座比丘は、諸々の集落の比丘を受け持って教誡教授するのに、善くその先後の順序を知った(優れた指導力を発揮した)ものであった。その時、世尊が月の十五日の布薩の時、大衆の前にて座を敷いて坐され、諸々の比丘の様子を観察されてから、諸々の比丘に告げられた。
「善い哉、善い哉。比丘たちよ、私は汝らが正しく行事をなしているのを喜び、汝らの行うところが(これからも)正しいものであることを願う。比丘たちよ、過去の諸仏にもまた比丘衆があって、その行うところが正しいものであったことは、今のこの衆と同様であった。未来の諸仏にも諸衆あって、その行うところが正しいものであるのは、今のこの衆と同様のものであろう。その所以は何かと言えば、今のこれら衆の中にある諸々の長老比丘は、初禅・第二禅・第三禅・第四禅、慈・悲・喜・捨、空入処・識入処・無所有入処・非想非非想処を得て、身に備えて住している者が有るためである。比丘の中には、三結を尽くして須陀洹を得て悪趣の法に堕すことなく、決定してただしく三菩提に向かい、七たび天もしくは人に往生すること有って、苦なるあり方を究竟する者が有るためである。比丘の中に、三結を尽くして貪・瞋・痴の勢力が薄らぎ、斯陀含を得ている者があるためである。比丘の中に、五下分結を尽くして阿那含の生般涅槃を得、ふたたびこの世に生まれ変わることのない者があるためである。比丘の中に、無量の神通力の境界を得て、天耳・他心智・宿命智・生死智・漏盡智を得ている者があるためである。比丘の中に、不浄観を修習して貪欲を断じ、慈心を修して瞋恚を断じ、無常観を修して我慢を断じ、安那般那念を修習して覚想を断じている者がある為である。どのようなことを、比丘が安那般那念を修習して覚想を断じると言うのであろうか。比丘が村落に留まり、乃至ないし、滅を観察して出息するに、滅を観じて出息しているままに学ぶ。これを、『安那般那念を修して覚想を断じること」と云う」
仏陀がこの経を説き終わられたとき、諸々の比丘は、仏陀の所説を聞いて歓喜かんぎ奉行ぶぎょうした。