四分律 卷第三十九 三分之三
姚秦罽賓三藏佛陀耶舍 共竺佛念等譯
衣揵度
爾時世尊。在波羅捺國鹿野苑中。時五比丘往世尊所。頭面禮足却住一面。五人白佛。我等當持何等衣。佛言。聽持糞掃衣及十種衣。拘舍衣劫貝衣欽跋羅衣芻摩衣叉摩衣舍兎衣麻衣翅夷羅衣拘攝羅衣嚫羅鉢尼衣。如是十種衣。應染作袈裟色持。爾時比丘得塚間衣。佛言聽畜。爾時比丘得願衣。佛言聽畜。爾時比丘在道行。去塚不遠。見貴價糞掃衣。畏愼不敢取。佛言聽取
爾時世尊在舍衞國。時有大姓子出家。於市中巷陌糞掃中。拾弊故衣作僧迦梨畜。時波斯匿王夫人見慈念心生。取大價衣破之。以不淨塗棄之於外。爲比丘故。比丘畏愼不敢取。比丘白佛。佛言。若爲比丘者應取。爾時有比丘。大姓出家。於市中巷陌厠上糞掃中。拾弊故衣作僧伽梨畜。時舍衞長者見心生慈愍。以多好衣棄置巷陌若厠上。爲比丘故。使人守護。不令人取。時有諸比丘直視而行。入村時守護衣人語言。大徳。何不左右顧視也。時比丘見畏愼不敢取。諸比丘白佛。佛言。若爲比丘聽取。爾時比丘塹中得死人衣畏愼白佛。佛問言。汝用何心取。答言。以糞掃衣取。不以盜心取。佛言不犯。自今已去。不應取坑塹中死人衣。爾時有居士。浣衣已晒置壁上。時納衣諸比丘。見謂是糞掃衣便取時居士見語言。莫取是我衣。比丘言。我謂是糞掃衣故取耳。便放之而去。彼比丘畏愼白佛。佛言。汝以何心取。答言。糞掃衣取。不以盜心取。佛言無犯。自今已去。不應取在園上若籬上塹中糞掃衣。時有比丘。於大官斷事處前。有死人衣。比丘取此人衣。時大官勅旃陀羅。取死人棄之。旃陀羅言。何不使取衣者棄之。大官問言。何人取衣。答言。是沙門釋子取。諸比丘白佛。佛言。不應在斷事處取死人衣。爾時比丘在道行。去塚不遠。見未壞死人有衣。即取而去。死人即起語言。大徳。莫持我衣去。比丘言。汝死人何處有衣。故持去不止。死人逐比丘。至祇桓門外。脚跌倒地。餘比丘見問此比丘。彼何所説。比丘答言。此死人我取其衣來。諸比丘白佛。佛言。不應取未壞死人衣。爾時有牧牛人。以衣置頭上而眠。時糞掃衣比丘。見謂是死人。彼作如是念。世尊不聽比丘取未壞死人衣。即取死人臂骨打此牧牛人頭破。彼即起語言。大徳。何故見打。答言。我向謂汝死。牧牛人言。汝不別我死生耶。即打比丘次死。諸比丘白佛。佛言。死人未壞不應打令壞。
時六群比丘。畜非衣作鉢嚢革屣嚢針筒。畜錦文臥氈褥枕氍𣯫獺皮。諸比丘白佛。佛言。不應以非衣作鉢嚢及針筒。不應畜錦文臥具氈褥枕𣰽𣯫獺皮。爾時比丘。塚間得錦文臥氈褥枕。諸比丘畏愼不敢取白佛。佛言聽取用。時有比丘。塚間得伊梨延陀耄羅耄耄羅𣰽𣯫。有畏愼不敢取白佛。佛言聽取。却皮却草著餘者。用作地敷畜。時有比丘於塚間得皮繩床木床獨坐床白佛。佛言聽取。却皮十種衣中隨以何衣作聽畜。爾時比丘。在塚間。得繩床木床獨坐床。有畏愼不敢取白佛。佛言聽取。除二種繩。皮繩髮繩。餘者應畜。時比丘在塚間。得輦得蓋得歩挽車。畏愼不敢取白佛。佛言聽取畜。時比丘在塚間。得瓶澡灌得杖扇。畏愼不敢取。白佛。佛言聽取畜。時有比丘在塚間。得钁鈎刀鎌。畏愼不敢取白佛。佛言聽取畜。時有比丘。在塚間得錢自持來。比丘白佛。佛言不應取。彼比丘須銅白佛。佛言。打破壞相。然後得自持去。
時有比丘。得牛嚼衣白佛。佛言聽取用。時有比丘得鼠噛衣白佛。佛言聽取用。有比丘得燒衣白佛。佛言聽取。糞掃衣有十種。牛嚼衣。鼠噛衣。燒衣。月水衣。産婦衣。神廟中衣。若鳥銜風吹離處者塚間衣。求願衣。受王職衣。往還衣。是謂十種糞掃衣。
爾時拘薩羅國波斯匿王。與摩竭提王阿闍世。中間共鬪多人死。時比丘欲往取死人衣白佛。佛言聽往彼。若有人先語取。若無人輒取。爾時阿闍世王。與毘舍離梨奢。中間共鬪多人死。時比丘欲往取彼死人衣白佛。佛言。應往語然後取。若無人輒自取。爾時衆多居士。於塚間脱衣聚置一處埋死人。時糞掃衣比丘。見謂是糞掃衣。取之而去。時諸居士見語言。此是我衣莫持去。比丘言。我謂是糞掃衣。即放地而去。比丘畏愼白佛。佛言汝以何心取。答言。以糞掃衣取。不以盜心。佛言不犯。不應取大聚衣。爾時衆多居士。於塚間燒死人。時糞掃衣比丘。見煙已喚餘比丘。共往塚間取糞掃衣去。彼言可爾。即共往至彼。默然一處住。時居士見。即與比丘一貴價衣。第二比丘言。持來當共汝分。彼言。共何誰分彼自與我。二人共諍。諸比丘白佛。佛言。應還問居士。此衣與誰。若居士言。隨所與者是彼衣。彼若言不知。若言倶與。應分作二分。爾時有比丘。往塚間取糞掃衣。遙見有糞掃衣。一比丘即占言。此是我衣。第二比丘即走往取。二人共諍。各言是我衣。諸比丘白佛。佛言。糞掃衣無主。屬先取者。時有二比丘。倶往塚間取糞掃衣。遙見有衣便占言是我衣。二人倶走往取衣。共諍各言是我衣。比丘白佛。佛言。糞掃衣無主。隨共取分作二分。爾時有衆多居士。載死人置塚間。糞掃衣比丘。見即語餘比丘言。我曹今往取糞掃衣可多得。彼比丘言。汝等自去我不往。比丘即疾往大得糞掃衣。持來至僧伽藍中淨浣治。彼比丘見。語此比丘言。汝作何事。而不共我往取衣。我往取衣大得來。此比丘言。持來共汝分。答言。汝不共我取云何共分。二人共諍。比丘白佛。佛言。屬彼往取者。爾時有衆多糞掃衣比丘。共期要往塚間取糞掃衣。有一比丘得貴價衣。餘比丘言。持來共汝分。彼答言。我得此衣。何故共汝分。多人共諍。比丘白佛。佛言。隨先要所得。多少應共分
爾時佛在舍衞國。時諸居士祖父母父母死。以幡蓋衣物裹祖父母父母塔。糞掃衣比丘見剥取之。諸居士見皆共譏嫌言。沙門釋子無有慚愧。盜取人物。自言我知正法。如今觀之有何正法。我等爲祖父母父母起塔。以幡蓋裹塔供養。彼云何而自剥取。如似故爲沙門釋子裹塔供養。我等實爲祖父母父母。以幡蓋裹覆塔供養。諸比丘白佛。佛言。不得取如是物。若風吹漂置餘處。若鳥銜去著餘處。比丘見畏愼不敢取。 比丘白佛。佛言。若風吹水漂鳥銜著餘處聽取。爾時比丘。見有莊嚴供養塔衣即取。 取已畏愼。比丘白佛。佛言。汝以何心取。答言。以糞掃衣取不以盜心。佛言無犯不應取莊嚴供養塔衣
爾時世尊在王舍城。時毘舍離有婬女。字菴婆羅婆利。形貌端正。有欲共宿者。與五十兩金。晝亦與五十兩金。時毘舍離。以此婬女故。四方人集於毘舍離時國法。以爲觀望極好。時王舍城諸大臣聞毘舍離有婬女。字菴婆羅婆利形貌端正。有欲共夜宿者。與五十兩金。晝亦爾。時毘舍離。以婬女故。四方人集於毘舍離。觀望極好。時大臣往瓶沙王所白言。大王當知。毘舍離國有婬女。字菴婆羅婆利形貌端正。有欲共宿者與五十兩金。晝亦如是。以婬女故。四方人集於毘舍離。觀望極好。王勅諸臣。汝等何不於此安婬女。時王舍城有童女。字婆羅跋提。端正無比。勝於菴婆羅婆利。時大臣即安置此婬女。若有欲共宿者。與百兩金。晝亦如是。時王舍城。以婬女故。四方人集於王舍城觀望極好。時瓶沙王子字無畏。與此婬女共宿。遂便有娠。時婬女勅守門人言。若有求見我者。當語言我病。後日月滿。生一男兒。顏貌端正。時婬女即以白衣裹兒勅婢。持棄著巷中。婢即受勅。抱兒棄之。時王子無畏。清旦乘車往欲見王。遣人除屏道路。時王子遙見道中有白物。即住車問傍人言。此白物是何等。答言。此是小兒。問言死活。答言故活。王子勅人抱取。時王子無畏無兒。即抱還舍與乳母養之。以活故。即爲作字。名耆婆童子。王子所取故名童子。後漸長大。王子甚愛之。爾時王子。喚耆婆童子來語言。汝欲久在王家。無有才技。不得空食王祿。汝可學技術。答言當學。耆婆自念。我今當學何術。現世得大財富而少事。作是念已我今寧可學醫方。可現世大得財富而少事。念言。誰當教我學醫道。時彼聞得叉尸羅國有醫。姓阿提梨。字賓迦羅。極善醫道。彼能教我。爾時耆婆童子。即往彼國。詣賓迦羅所白言。我欲從師受學醫道當教我。彼答言可爾。時耆婆童子。從學醫術。經七年已自念言。我今習學醫術。何當有已。即往師所白言。我今習學醫術。何當有已。時師即與一籠器及掘草之具。汝可於得叉尸羅國面一由旬求覓諸草有非是藥者持來。時耆婆童子。即如師勅。於得叉尸羅國。面一由旬。求覓非是藥者。周竟不得非是藥者。所見草木一切物。善能分別。知所用處無非藥者。彼即空還。往師所白如是言。師今當知。我於得叉尸羅國。求非藥草。面一由旬。周竟不見非藥者。所見草木。盡能分別。所入用處。師答耆婆言。汝今可去。醫道以成。我於閻浮提中。最爲第一。我若死後。次復有汝。時耆婆自念。我今先當治誰。此國既小。又在邊方。我今寧可還本國始開醫道。於是即還歸婆伽陀城。婆伽陀城中有大長者。其婦十二年中常患頭痛。衆醫治之。而不能差。耆婆聞之。即往其家語守門人言。白汝長者。有醫在門外。時守門人即入白。門外有醫。長者婦問言。醫形貌何似。答言是年少。彼自念言。老宿諸醫治之不差。況復年少。即勅守門人語言。我今不須醫。守門人即出語言。我已爲汝白長者。長者婦言。今不須醫。耆婆復言。汝可白汝長者婦。但聽我治。若差者隨意與我物。時守門人復爲白之。醫作如是言。但聽我治。若差隨意與我物。長者婦聞之。自念言。若如是無所損。勅守門人。喚入。時耆婆入。詣長者婦所問言。何所患苦。答言。患如是如是。復問。病從何起。答言。從如是如是起。復問。病來久近。答言。病來爾許時。彼問已語言。我治汝病。彼即取好藥以酥煎之。灌長者婦鼻。病者口中酥唾倶出。時病人即器承之。酥便收取。唾別棄之。時耆婆童子。見已心懷愁惱。如是少酥不淨。猶尚慳惜況能報我。病者見已。問耆婆言。汝愁惱耶。答言實爾。問言。何故愁惱。答言。我自念言。此少酥不淨。猶尚慳惜。況能報我以是故愁耳。長者婦答言。爲家不易。棄之何益。可用然燈。是故收取。汝但治病。何憂如是。彼即治之。後病得差。時長者婦。與四十萬兩金并奴婢車馬。時耆婆得此物已還王舍城。詣無畏王子門。語守門人言。汝往。白王言。耆婆在外。守門人即入白王。王勅守門人喚入。耆婆入已。前頭面禮足在一面住。以前因縁。具白無畏王子言。以今所得物盡用上王。王子言。且止不須。便爲供養已。汝自用之。此時耆婆童子最初治病
四分律卷第三十九
四分律 卷第三十九 三分之三
爾の時、世尊、波羅捺國鹿野苑中に在せり。時に五比丘、世尊の所に往て、頭面に禮足し、却て一面に住せり。五人、佛に白す、我等、當に何等の衣を持すべきやと。佛言く、糞掃衣及び十種衣を持すことを聽す。拘舍衣・劫貝衣・欽跋羅衣・芻摩衣・叉摩衣・舍兎衣・麻衣・翅夷羅衣・拘攝羅衣・嚫羅鉢尼衣なり。是くの如きの十種衣、應に染めて袈裟色に作して持せと。爾の時、比丘、塚間衣を得。佛言く、畜ふことを聽すと。爾の時、比丘、願衣を得。佛言く、畜ふことを聽すと。爾の時、比丘、道に在て行く。塚を去ること遠からずして、貴價の糞掃衣を見。畏愼して敢て取らず。佛言く、取ることを聽すと。
爾の時、世尊、舍衞國に在せり。時に大姓の子有て出家す。市中の巷陌、糞掃の中に於て弊故衣を拾ひ、僧迦梨に作して畜ふ。時に波斯匿王夫人、見て慈念の心生ず。大價衣を取て之を破り、不淨を以て塗り、之を外に棄つ。比丘の爲の故なり。比丘、畏愼して敢て取らず。比丘、佛に白す。佛言く、若し比丘の爲ならば應に取るべしと。爾の時、比丘有り、大姓の出家なり。市中の巷陌・厠上・糞掃の中に於て、弊故衣を拾ひ、僧伽梨に作して畜ふ。時に舍衞長者、見て心に慈愍を生ず。多くの好衣を以て巷陌、若しは厠上に棄て置く。比丘の爲の故に、人をして守護せしめ、人をして取らしめず。時に諸の比丘有り、直視して行く。村に入る時、衣を守護する人、語て言く、大徳、何ぞ左右を顧視せざるやと。時に比丘、見るも畏愼して敢て取らず。諸の比丘、佛に白す。佛言く、若し比丘の爲ならば取ることを聽す。爾の時、比丘、塹の中に死人衣を得。畏愼して佛に白く。佛、問て言く、汝、何の心を用てか取るやと。答へて言く、糞掃衣を以て取る。盜心を以て取らずと。佛言く、不犯なり。自今已去、坑塹の中の死人衣を取るべからずと。爾の時、居士有り。衣を浣ひ已り、晒して壁上に置く。時に納衣の諸の比丘、見て是れ糞掃衣なりと謂て便ち取る。時に居士、見て語て言く、取ること莫れ。是れ我が衣なりと。比丘言く、我は是れ糞掃衣なりと謂へり。故に取るのみと。便ち之を放て去る。彼の比丘、畏愼して佛に白く。佛言く、汝、何の心を以てか取るやと。答て言く、糞掃衣を以て取る。盜心を以て取らずと。佛言く、無犯なり。自今已去、園上、若しは籬上・塹中に在る糞掃衣を取るべからずと。時に比丘有り。大官の斷事處の前に於て、死人衣有り。比丘、此の人の衣を取る。時に大官、旃陀羅に勅し、死人を取て之を棄てしめんとす。旃陀羅言く、何ぞ衣を取る者をして之を棄てしめざるやと。大官、問て言く、何人か衣を取るやと。答て言く、是れ沙門釋子取ると。諸の比丘、佛に白す。佛言く、斷事處に在て死人衣を取るべからずと。爾の時、比丘、道に在て行く。塚を去ること遠からずして、未だ壞せざる死人の衣有るを見、即ち取て去る。死人、即ち起て語て言く、大徳、我が衣を持て去ること莫れと。比丘言く、汝死人、何の處にか衣有らん。故に持て去ると、止めず。死人、比丘を逐て、祇桓の門外に至り、脚跌て地に倒る。餘の比丘、見て此の比丘に問ふ、彼れ何の説く所ぞと。比丘答て言く、此れ死人、我れ其の衣を取て來ると。諸の比丘、佛に白く。佛言く、未だ壞せざる死人の衣を取るべからずと。爾の時、牧牛人有り。衣を以て頭上に置て眠る。時に糞掃衣の比丘、見て是れ死人なりと謂ひ、彼れ是くの如き念を作さく、世尊、比丘、未だ壞せざる死人の衣を取るを聽されずと。即ち死人の臂骨を取て此の牧牛人の頭を打て破る。彼れ即ち起て語て言く、大徳、何ぞ故に見て打つやと。答て言く、我れ向に汝死せりと謂へり。牧牛人言く、汝、我が死生を別たざるやと。即ち比丘を打て次でに死す。諸の比丘、佛に白す。佛言く、死人の未だ壞えざるを、打て壞せしむべからずと。
時に六群比丘、非衣を畜へて鉢嚢・革屣嚢・針筒を作り、錦文の臥氈・褥・枕・氍𣯫・獺皮を畜ふ。諸の比丘、佛に白す。佛言く、非衣を以て鉢嚢及び針筒と作るべからず。錦文の臥具氈・褥・枕・𣰽𣯫・獺皮を畜ふべからずと。爾の時、比丘、塚間に錦文の臥氈・褥・枕を得。諸の比丘、畏愼して敢て取らず。佛に白す。佛言く、取て用ることを聽すと。時に比丘有り。塚間に伊梨延陀の耄羅・耄耄羅・𣰽𣯫を得。畏愼有て敢て取らず。佛に白す。佛言く、取ることを聽す。皮を却け、草を却けて、餘を著くる者は、用て地敷を作て畜へよと。時に比丘有り。塚間に於て皮繩床・木床・獨坐床を得。佛に白く。佛言く、取ることを聽す。皮を却け、十種衣の中、隨て何の衣を以ても作て畜ふことを聽すと。爾の時、比丘、塚間に在て、繩床・木床・獨坐床を得。畏愼有て敢て取らず。佛に白く。佛言く、取ることを聽す。二種の繩を除く。皮繩と髮繩となり。餘は畜ふべしと。時に比丘、塚間に在て、輦を得、蓋を得、歩挽車を得。畏愼して敢て取らず。佛に白く。佛言く、取て畜ふことを聽すと。時に比丘、塚間に在て、瓶・澡灌を得、杖・扇を得。畏愼して敢て取らず。佛に白く。佛言く、取て畜ふことを聽すと。時に比丘に有り、塚間に在て、钁・鈎・刀・鎌を得。畏愼して敢て取らず。佛に白く。佛言く、取て畜ふことを聽すと。時に比丘有り。塚間に在て錢を得、自ら持ち來る。比丘、佛に白く。佛言く、取るべからず。彼の比丘、銅を須ふ。佛に白く。佛言く、打て相を破壞し、然る後に自ら持ち去ることを得と。
時に比丘有り、牛嚼衣を得。佛に白く。佛言く、取て用ふることを聽すと。時に比丘有り、鼠噛衣を得。佛に白く。佛言く、取て用ふることを聽すと。比丘有り、燒衣を得。佛に白く。佛言く、取ることを聽すと。糞掃衣に十種に有り。牛嚼衣、鼠噛衣、燒衣、月水衣、産婦衣、神廟中衣の若しは鳥銜み、風吹いて離處した者、塚間衣、求願衣、受王職衣、往還衣なり。是れを十種糞掃衣と謂ふ。
爾の時、拘薩羅國波斯匿王、摩竭提王阿闍世と、中間に共に鬪ひ、多く人死す。時に比丘、往て死人の衣を取らんと欲して、佛に白す。佛言く、彼に往くことを聽す。若し人有て先に取れと語り、若しは人無ければ、輒ち取れと。爾の時、阿闍世王、毘舍離の梨奢と、中間に共に鬪て多く人死す。時に比丘、往て彼の死人の衣を取らんと欲して、佛に白す。佛言く、應に往て語り、然して後ち取るべし。若し人無くば輒ち自ら取れと。爾の時、衆多の居士、塚間に於て衣を脱し、聚て一處に置て死人を埋む。時に糞掃衣の比丘、見て是れ糞掃衣なりと謂ひ、之を取て去る。時に諸の居士、見て語て言く、此れは是れ我が衣なり。持ち去ること莫れと。比丘言く、我れ是れ糞掃衣なりと謂へりと。即ち地に放て去る。比丘、畏愼して佛に白く。佛言く、汝、何なる心を以て取るやと。答て言く、糞掃衣を以て取る。盜心を以てせずと。佛言く、不犯なり。大聚衣を取るべからずと。爾の時、衆多の居士。塚間に於て死人を燒く。時に糞掃衣の比丘、煙を見已て餘の比丘を、塚間に共に往て糞掃衣を取て去らんと喚ぶ。彼言く、爾るべしと。即ち共に往て彼に至り、默然として一處に住す。時に居士、見て即ち比丘に一の貴價衣を與ふ。第二の比丘言く、持ち來て當に汝と共に分つべしと。彼言く、何ぞ誰と共にか分かつや。彼れ自ら我に與へたりと。二人共に諍ふ。諸の比丘、佛に白く。佛言く、還た居士に問ふべし、此の衣、誰にか與ふと。若し居士、與ふ所に隨ふと言はば、是れ彼の衣なり。彼、若し知らずと言ひ、若し倶に與ふと言はば、應に分て二分に作すべしと。爾の時、比丘有り、塚間に往て糞掃衣を取る。遙に糞掃衣有るを見る。一の比丘、即ち占して言く、此れは是れ我が衣なり。第二の比丘、即ち走り往て取る。二人共に諍て各言く、是れ我が衣なりと。諸の比丘、佛に白く。佛言く、糞掃衣は主無し。先に取る者に屬すと。時に二比丘有り、倶に塚間に往て糞掃衣を取る。遙に衣有るを見て便ち占して言く、是れ我が衣なりと。二人倶に走て往き衣を取る。共に諍て各言く、是れ我が衣なりと。比丘、佛に白く。佛言く、糞掃衣に主無し。共に取る分に隨て二分に作せと。爾の時、衆多の居士有り、死人を載て塚間に置く。糞掃衣の比丘、見て即ち餘の比丘に語て言く、我曹、今往て糞掃衣を取らば多く得べしと。彼の比丘言く、汝等、自ら去れ。我往かずと。比丘、即ち疾く往て大いに糞掃衣を得、持ち來て僧伽藍中に至り、淨く浣治す。彼の比丘、見て此の比丘に語て語く、汝、何事をか作すやと。而も我れと共に往て衣を取らず。我れ往て衣を取り、大いに得て來ると。此の比丘言く、持ち來れ、汝と共に分つべしと。答て言く、汝、我れと共に取らず。云何ぞ共に分つべきと。二人、共に諍ふ。比丘、佛に白く。佛言く、彼の往て取た者に屬すと。爾の時、衆多の糞掃衣の比丘有り、共に期要す、塚間に往て糞掃衣を取んと。一の比丘有て、貴價衣を得。餘の比丘言く、持ち來れ、汝と共に分つべしと。彼、答て言く、我れ此の衣を得。何の故にか汝と共に分つべきと。多人、共に諍ふ。比丘、佛に白く。佛言く、先要の所得に隨へ。多少は共に分つべしと。
爾の時、佛、舍衞國に在せり。時に諸の居士、祖父母・父母死す。幡・蓋・衣物を以て祖父母・父母の塔を裹む。糞掃衣の比丘、見て之を剥ぎ取る。諸の居士、見て皆共に譏嫌して言く、沙門釋子、慚愧有ること無し。人の物を盜取して、自ら我れ正法を知ると言ふ。今の如く之を觀るに何の正法か有らん。我等、祖父母・父母の爲に塔を起ち、幡・蓋を以て塔を裹て供養す。彼れ云何ぞ自ら剥ぎ取るや。故と沙門釋子の、爲に塔を裹て供養するに似るが如し。我等、實に祖父母・父母の爲に、幡・蓋を以て塔を裹覆し供養すと。諸の比丘、佛に白す。佛言く、是くの如き物を取ることを得ず。若しは風吹て漂ひ餘處に置き、若しは鳥銜み去て餘處に著く。比丘、見て畏愼して敢て取らず。 比丘、佛白く。佛言く、若し風吹き、水漂ひ、鳥銜みて餘處に著くをば取ることを聽すと。爾の時、比丘、莊嚴供養の塔衣有るを見て即ち取る。 取り已て畏愼す。比丘、佛に白く。佛言く、汝、何なる心を以てか取るやと。答て言く、糞掃衣を以て取る。盜心を以てせずと。佛言く、無犯なり。莊嚴供養の塔衣を取るべからずと。
爾の時、世尊、王舍城に在せり。時に毘舍離に婬女有り。菴婆羅婆利と字す。形貌端正なり。共に宿せんと欲する者有り、五十兩金を與ふ。晝も亦た五十兩金を與ふ。時に毘舍離、此の婬女を以ての故に、四方の人、毘舍離に集ふ。時に國法、以て觀望極好と爲す。時に王舍城の諸の大臣、毘舍離に婬女有り、菴婆羅婆利と字し、形貌端正にして、共に夜宿するを欲する者有り、五十兩金を與へ、晝も亦た爾なり。時に毘舍離、婬女を以ての故に、四方の人、毘舍離に集り、觀望極好なるを聞く。時に大臣、瓶沙王の所に往て白して言く。大王、當に知るべし、毘舍離の國に婬女有り。 菴婆羅婆利と字づく。形貌端正なり。共に宿せんと欲する者有り、五十兩金を與ふ。晝も亦た是くの如し。婬女を以ての故に、四方の人、毘舍離に集ひて觀望極好なり。王、諸の臣に勅す、汝等、何ぞ此に婬女を安ぜざるやと。時に王舍城、童女有り。婆羅跋提と字づく。端正無比にして、菴婆羅婆利に勝る。時に大臣、即ち此の婬女を安置す。若し共に宿せんと欲する者有らば、百兩金を與ふ。晝も亦た是くの如し。時に王舍城、婬女を以ての故に、四方の人、王舍城に集ひて觀望極好なり。時に瓶沙王の子にして無畏と字す。此の婬女と共に宿す。遂に便ち娠有り。時に婬女、守門人に勅して言く、若し我を見と求むる者有らば、當に語て我れ病なりと言ふべしと。後日、月滿ち、一の男兒を生む。顏貌端正なり。時に婬女、即ち白衣を以て兒を裹て婢に勅す、持て巷中に棄著すべしと。婢、即ち勅を受け、兒を抱て之を棄つ。時に王子無畏、清旦に車に乘て往き王に見んと欲し、人を遣て道路を除屏せしむ。時に王子、遙に道中に白き物有るを見る。即ち車を住めて傍人に問て言く、此の白き物は是れ何等なるぞと。答て言く、此れは是れ小兒なりと。問て言く、死せるや、活けるやと。答て言く、故ほ活くと。王子、人に勅して抱き取る。時に王子無畏に兒無し。即ち抱て舍に還り、乳母に與へて之を養はしむ。活きるを以ての故に即ち爲に字を作して、耆婆童子と名づく。王子取る所の故に童子と名づく。後、漸く長大す。王子、甚だ之を愛す。爾の時、王子、耆婆童子を喚び、來りて語て言く、汝、久しく王家に在らんと欲するも、才技有ること無くんば空しく王祿を食むことを得ず。汝、技術を學ぶべしと。答て言く、當に學すべしと。耆婆、自ら念へらく。我、今當に何の術をか學ぶべき。現世に大財富を得て事少なきをと。是の念を作し已て、我れ今寧ろ醫方を學ぶべし。現世に大いに財富を得て而も事少なしと。念じて言く、誰か當に我に醫道を學ぶことを教ふべきと。時に彼、得叉尸羅國に醫有って、姓は阿提梨、字は賓迦羅、極めて醫道を善くすることを聞く。彼れ能く我に教へん。爾の時、耆婆童子、即ち彼の國に往て、賓迦羅の所に詣て白して言く、我れ師に從て醫道を受學せんと欲す。當に我に教ふべしと。彼答て言く、爾るべしと。時に耆婆童子、從て醫術を學ぶ。七年を經已て自ら念じて言く、我れ今醫術を習學す。何ぞ當に已むべきやと。即ち師の所に往て白して言く、我れ今、醫術を習學す。何ぞ當に已むべきやと。時に師、即ち一の籠器及び掘草の具を與ふ。汝、得叉尸羅國に於て面一由旬に諸の草を求覓し、是れ藥に非ざる者有らば持ち來れと。時に耆婆童子、即ち師勅の如く、得叉尸羅國に於て面一由旬に是れ藥に非ざる者を求覓す。周り竟て是れ藥に非ざる者を得ず。見る所の草木一切物、善く能く分別して所用の處を知らば、藥に非ざる者無し。彼れ即ち空しく還る。師の所に往て、是くの如きの言を白す。師、今ま當に知るべし。我れ得叉尸羅國に於て、非藥草を求めること面一由旬。周り竟て藥に非ざる者を見ず。見る所の草木、盡く能く分別せば所入の用處ありと。師、耆婆に答へて言く、汝、今去るべし。醫道以て成ず。我れ閻浮提の中に於て、最も第一と爲す。我れ若し死せん後は、次に復た汝有りと。時に耆婆、自ら念へらく。我、今先ず當に誰をか治すべきや。此の國既に小にして、又た邊方に在り。我れ今寧ろ本國に還て始めて醫道を開くべしと。是に於て即ち婆伽陀城に還歸す。婆伽陀城中に大長者有り。其の婦、十二年中、常に頭痛を患ふ。衆醫、之を治して、而も差すこと能はず。耆婆、之を聞て、即ち其の家に往き、守門人に語て言く、汝、長者に白せ。醫有て門外に在りと。時に守門人、即ち入て白す、門外に醫有りと。長者の婦、問て言く、醫の形貌、何似と。答へて言く、是れ年少なりと。彼れ自ら念じて言く、老宿の諸醫、之を治すとも差へず。況や復た年少をやと。即ち守門人に勅して語て言く、我れ今、醫を須ひずと。守門人、即ち出で語て言く、我れ已に汝の爲に長者に白す。長者の婦、言く、今醫を須ひずと。耆婆、復た言く、汝、汝の長者の婦に白すべし、但だ我が治を聽せ。若し差へば意に隨て我に物を與へよと。時に守門人、復た爲に之を白す。醫、是くの作きの言を作す、但だ我が治を聽せ。若し差へば意に隨て我に物を與へよと。長者の婦、之を聞きて、自ら念じて言く、若し是くの如くならば損する所無しと。守門人に勅して喚び入らしむ。時に耆婆入り、長者の婦の所に詣て問て言く、何れの所か患苦するやと。答て言く、如是如是を患ふと。復た問ふ、病、何より起るやと。答て言く、如是如是より起ると。復た問ふ、病來ること久しきや近しきやと。答て言く、病來ること爾許の時と。彼問ひ已て語て言く、我れ汝の病を治す。彼れ即ち好藥を取り、酥を以て之を煎じ、長者の婦の鼻に灌ぐ。病者の口中、酥・唾倶に出づ。時に病人、即ち器に之を承け、酥は便ち收め取り、唾は別して之を棄つ。時に耆婆童子、見已て心に愁惱を懷く。是くの如き少酥、不淨なり、猶尚ほ慳惜す。況や能く我に報ひんや。病者、見已て、耆婆に問て言く。汝、愁惱せりやと。答て言く、實に爾なりと。問て言く、何が故に愁惱すと。答て言く、我れ自ら念じて言く、此の少酥、不淨なり。猶尚ほ慳惜す。況や能く我に報ひんやと。是れを以ての故に愁するのみと。長者の婦、答へて言く、家を爲すこと易からず。之を棄てて何の益かある。然燈に用ふべし。是の故に收め取る。汝、但だ病を治せ。何ぞ憂ふること是くの如きと。彼れ即ち之を治す。後、病差ふることを得。時に長者の婦、四十萬兩金、并に奴婢・車馬を與ふ。時に耆婆、此の物を得已て王舍城に還る。無畏王子の門に詣て、守門人に語て言く。汝、往て王に白して言へ、耆婆、外に在りと。守門人、即ち入て王に白す。王、守門人に勅して喚んで入らしむ。耆婆、入り已て、前んで頭面に禮足して一面に在りて住す。前の因縁を以て、具さに無畏王子に白して言く、今得る所の物を以て盡く用て王に上ると。王子言く、且く止みね、須ひずと。便ち爲に供養し已り、汝、自ら之を用ひよと。此の時、耆婆童子、最初の治病なり。
四分律卷第三十九
上座部系の部派の一つ、法蔵部(Dharma-guptaka / 曇無徳部)が護持した律蔵。支那に招聘された僧、仏陀耶舎が暗誦していたのが漢訳されたが、その全体が四分にされ伝えられていたことから『四分律』と称された。現在にまで伝えられる諸々の漢訳律蔵のうち、いま上座部を称する分別説部が伝持する律蔵『パーリ律』に最もその内容と構成とが近似するが、支那で最初に訳された説一切有部の律蔵『十誦律』や、後に法顕により伝えられた大衆部の『摩訶僧祇律』とはその構成が大いに異なる。鑑真ら一行により日本に伝えられた律はもっぱら『四分律』に基づくもので、特にこれを主として律学を大成した南山大師道宣による南山律宗の学系が栄えた。▲
古代支那の五胡十六国の一で、羌族姚氏によって建てられた国。▲
現カシミール。インド亜大陸最北西部。▲
Buddhayaśas. 四、五世紀の印度僧。罽賓(カシミール)出身。非常なる記憶力を有していた優れた学僧であったといい、亀茲国の鳩摩羅什に律および阿毘達磨を教授した人。鳩摩羅什が後秦(姚秦)に入った後、招聘されて長安に来たり、『四分律』および『長阿含経』などを訳出した。生没年不明。▲
前秦・後秦の両朝にわたって訳経に携わった支那僧。涼州(現甘粛武威)出身。印度僧・胡僧の伝えた仏典を可能な限り正確に訳そうと努め、仏陀耶舎と共に『長阿含経』・『四分律』を訳したばかりでなく、他に『法句経』の同系統異本『出曜経』や阿毘達磨の論書などいくつか重要な典籍の漢訳を果たした。▲
[S/P]cīvara. 支伐羅と音写され、衣と漢訳される。仏教僧の着用する衣服(布)。▲
[S]skandhaka / [P]khandhaka. 部分・区分、集まり、章、道を意味するが、ここでは章の意。『四分律』では受戒や安居、薬などそれぞれその主題によって二十の揵度が伝えられている。▲
[S]Bhagavat / [P]Bhagavant. 幸ある人、輝ける人。仏陀の異称、如来の十号の一。▲
[S]Vārāṇasī / [P]Bārāṇasī. インドはガンジス川中流に位置する都市。古代国家[S]Kāśī / [P]Kāsi(迦尸)の首都。▲
[S]Mṛgadāva / [P]Migadāya. カーシーはヴァーラーナシーの北方二里強(現サールナート)に位置した園林。釈尊が成道後、最初に説法(初転法輪)された地。▲
かつて釈尊と共に六年にわたる苦行を共にした後に袂を分かち、しかし鹿野園における初転法輪の場にて釈尊の対象として選ばれた修行者にして、最初に出家の仏弟子となった五人。すなわちKauṇḍinya(憍陳如)・Aśvajit(阿說示)・Bhadrika(婆提)・Daśabala-Kāśyapa(十力迦葉)・Mahānāman(摩訶男)。
比丘とは[S]bhikṣu / [P]bhikkhuの音写で(食を)乞う者を意味し、仏教の正式な男性出家修行者を言う。比丘に同じ。新訳家は苾芻と音写する。▲
自らの頭頂あるいは顔面をもって対象者の足に触れさせる、印度における最も敬意を表す礼法。いわゆる五体投地に同じ。▲
[S/P]Buddhaの音写、佛陀の略。そもそもBuddhaとは、その語源が√bud(目覚める)+ta(過去分詞)→連声→buddhaであって「目覚めた人」の意。(それまで知られなかった真理に)目覚めた人、悟った者であるからBuddhaという。仏陀とはあくまで人であった。
支那にとって外来語であったBuddhaは当初「浮屠」・「浮図」などとも音写されたが、後にBudhに「佛」の字が充てられ「佛陀」あるいは「佛駄」との音写も行われ、やがて略して「佛」の一文字で称するようになって今に至る。それら音写のいずれにも「屠」や「駄」・「陀」など、いわば好ましからざる漢字が当てられている。そこには当時の支那人における外来の文物を蔑視し、矮小化しようとする意図が明らかに現れている(この傾向はその後も比較的長く見られる)。 そもそも「佛」という一文字からも、当時の支那人におけるいわば「Buddha観」を見ることが出来る。『説文解字』では「佛」とは「見不審也(見るに審らかならず)」の意とする。また「佛」とは「人+弗」で構成されるが、それは「人にあらざるもの」・「人でないもの」を意味する。ここからも、当時の支那人にはBuddhaをして「人ではない」とする見方があったことが知られる。事実この『四十二章経』の序文にて「神人」と表現されているように、往時の彼らにとって佛とはあくまで超常的存在であって人ならざるものであった。
なお、日本で「佛(仏)」を「ほとけ」と訓じるのは、「ふと(浮屠)」または「没度(ぼだ)」の音変化した「ほと」に、接尾辞「け」が付加されたものである。この「け」が何を意味するかは未確定で、「気」または「怪」あるいは「異」が想定される。それらはいずれもおよそ明瞭でないモノ、あるいは特別なモノを指すに用いられる点で通じている。日本語の「ほとけ」という語にも、漢字の「佛」に潜む不明瞭なものとする理解が含まれているのだ。▲
[S]pāṃsu-kūla cīvara / [P]paṃsu-kūla cīvara. pāṃsu(ゴミ)のkūla(集積・集まり)から得たcīvara(衣)。
一般に音写の「糞掃」を漢語として、すなわち「糞尿など排泄物の清掃に用いたもの」と早合点し、理解・説明する者が非常に多くあるが誤解。▲
比丘の衣として用いることが許された素材(衣材)の十種。
『パーリ律』ではただ六種が挙げられる。▲
[S]kauśeya / [P]Koseyya. 絹(の衣)。拘奢衣・憍施耶衣・憍奢耶衣とも。▲
[S]karpāsa / [P]kappāsika. 木綿(の衣)。▲
[S/P]kambala. 毛織物(の衣)。▲
[S]kṣauma / [P]khoma. 亜麻(の衣)。▲
[S]śāṇa / [P]sāṇa. 大麻(の衣)。▲
原語未詳。▲
原語未詳。すでに亜麻および大麻の衣が挙げられているため、それ以外の苧麻(ラミー)もしくは黄麻(ジュート)の衣であろう。いずれも古代印度に自生し利用された植物繊維による布。▲
原語未詳。一説に羽毛(の衣)。▲
原語未詳。▲
原語未詳。▲
袈裟は[S]kāṣāya / [P]kāsāyaの音写で赤褐色を意味する。日本では一般に、袈裟とは仏教僧の衣装の称とされるが本来は色、特に古代印度で最下層民の着する衣服で用いられた下等な色を意味する語。その故に支那では、袈裟あるいは袈裟色とは壊色と漢訳された。▲
ここで「塚」とは古代印度における墓場と言うにも値しない死体を遺棄する風葬の場。塚間衣とはそのような遺体が放置された地にて遺体を包んでいた、あるいは遺体が纏っていた衣服あるいは布で、風や動物によって剥がれ散乱したもの。▲
制底(cetiya / 祠・廟)などでない荒野や水辺において、人が神霊などに願を掛けて捧げ、その場に打ち捨てた衣服あるいは布。▲
[P]Sāvatthī / [S]Śrāvastī. 北印度のガンジス川中流域(現インドのウッラルプラデーシュ州北東部)に栄えた古代国[S/P]Kosala(憍薩羅)の首都。
釈尊在世当時のコーサラ国王[S]Prasenajit / [P]Pasenadi(波斯匿)は、釈尊の最大の外護者の一人であったとされる。しかし、仏陀ご在世中、この王が死んで王位を継承したその子[S]Virūḍhaka / [P]Viḍūḍabha(毘瑠璃)により仏陀の一族たる釈迦族はほとんど皆殺しにされ、仏陀の故国は滅びる。そしてそれからまもなく、そのコーサラ国自体も同じく北インドで覇権を競っていたMagadha(摩掲陀)国によって滅ぼされた。▲
ちまた。市街の道。一般に「こうはく」と読む。▲
使い古され傷んだ衣服、あるいは布。▲
[S]saṃghāṭi / [P]saṅghāṭiの音写。大衣・重衣・外衣、あるいは入王宮聚落衣と漢訳される。比丘が精舎から外出し、王城や村落に入る時に必ず着用すべき衣。支那および日本では一般に、九から二十五の奇数条にて作られるべきものとされる。しかしながら『四分律』では大衣は九条から十九条までとされ、『四分律』に依るのであれば二十条以上の大衣はありえない。▲
[S]Prasenajit / [P]Pasenadi. [S/P]Kosala(憍薩羅 / 拘薩羅)国の王。仏陀の強力な庇護者の一人であってしばしばその教えを請うた人。肥満体であったたため、それを仏陀からたしなめられ痩せるべきことを勧められたと伝えられる。▲
葬送時に死体が纏わせていた、または包んでいた衣服あるいは布。腐敗し、あるいは白骨化した遺体にまつわるもの。▲
死刑場。▲
[S/P]caṇḍāla. チャンダーラ。古代印度において成立した四姓制度(ヴァルナ、ジャーティ)の最下層、あるいはその範疇外とされた賤民。処刑や狩猟・屠殺、清掃など穢れとみなされる行為にまつわる職業に就くことを強いられ、またその生活する場も他と異なる悪しき場所とされた人々。▲
いまだ腐敗していない、死んで間もない遺体。もっとも、ここでは息を吹き返して動いていることから未だ死んでいなかった者ということであり、一見して死んでいるようであっても死亡しているのが不確かな者を言ったものであろう。▲
[S]Jetavana Anāthapiṇḍadārāma / [P]Jetavana Anāthapiṇḍikārāma. Anāthapiṇḍada(給孤獨)は、当時舍衛城に住んでいたSudatta(須達)なる豪商が、常に貧しく孤独な孤児や人々に衣食を分け与えていたことに基づく通称。須達はコーサラ国の王子Jeta(祇陀)が所有していた森林を譲り受け、仏陀に寄進して精舎としたことから祇樹給孤独園(ぎじゅきっこどくおん)、略して祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)または祇桓と称されるようになった。以降今に至るまで、印度における精舎として最も著名な寺院の一つ。現在もその遺構が同地に保存されている。▲
比丘として為すべきでないとされた行為の禁則、すなわち律儀(学処)の制定される多くの原因となった品行不方正なる六比丘。『四分律』では六群比丘の名を総じて挙げておらず不明瞭であり、その具体名には諸説あるが、一説にNanda(難陀)・Upananda(跋難陀)・Aśvaka(阿說迦)・Punarvasu(弗那跋)・Chanda(闡那)・Kālôdayin(迦留陀夷)の六人。▲
非衣が具体的に何を意味するか必ずしも明瞭でないが、先の十種衣の範疇にないものと理解して大過ないか。▲
比丘が乞食および僧食時に用いる鉄鉢を、遊行時などに収めて携行するための袋。▲
比丘は原則としていかなる時も素足であって履き物を用いることは許されないが、礫が多い荒れ地など辺地を行くときは革製の履き物を用いることが許されている。そのような地を行く場合に備えて比丘が携行する革屣を入れる袋。▲
袈裟衣を新たに仕立て、あるいは補修する場合に用いる針を収納するための筒。▲
様々な文様、柄などが織り込まれた敷物。この「錦文」は以下の褥・氍𣯫・獺皮にかかっており、いずれも何か模様が入ったものや意匠の凝らされたものを所持することを禁じている。▲
坐臥する場に敷く物。▲
長毛の敷物。▲
カワウソの皮。▲
[S]aiṇeya. インドカモシカ(印度亜大陸では絶滅)自体、あるいはその皮革。▲
未詳。道宣は『量処軽重儀』にてこの語について「耄羅耄耄羅並是獸名。状如虎兕。豹貊之屬。皮厚毛軟。而可坐之。余曾以事問諸梵僧。此二獸皮于遁已西諸國並有。神州既無其物。隨彼本土之音」と説明しているがその真偽は定かでない。道宣は梵語を解せなかった人であり、梵僧にこれについて尋ねたと自ら言っているが充分な意思疎通が成立していなかった可能性がある。
あるいはこれらの語は、この語の後に先に挙げられた氍𣯫が挙げられていることからも、「伊梨延陀」の掛かるものであって「伊梨延陀の毛皮」ということであろう。漢語で「耄」は老い、「羅」は網もしくは敷くものを意味することから、ただの毛皮でなく、特に老鹿の長い毛皮の敷物でなかったか。▲
何等か動物の皮革を編んだ縄を網状にして座面とした椅子もしくは寝台。縄床は現在の印度においても、特に裕福でない庶民が坐臥するのに用いられている。▲
座面が木製の椅子もしくは寝台。▲
一人掛けの椅子であろう。▲
先に皮繩床を所持することを許しているが、ここでは塚間(墓場)にて得た皮縄の所得を禁じている。併せて髪縄を禁じていることから、ここに言う皮は人皮を意図したものであろうか。▲
腰掛けの輿。人を運搬するための具。▲
傘。日差しや雨を避けるためのもの。▲
手押し車、あるいは大八車の類。▲
洗い桶。▲
牛が噛んで傷んだ衣服あるいは布。▲
鼠が噛んで傷んだ衣服あるいは布。▲
火で焼かれて傷んだ衣服あるいは布。▲
生理の経血で汚れた衣服あるいは布。女性の生理時に用いた布をいうものであろう。▲
出産時に用いて羊水や血、汚物で汚れた衣服あるいは布。▲
神廟すなわち神霊などが祀られた制底(cetiya / 祠)の地に散乱する衣。神像や霊木などに捧げてこれを包みあるいはまとわせていた布で、鳥や風によって剥がれ落ちてその元から離れた衣服あるいは布。▲
王太子が王位を継ぐ儀式(灌頂)において用い、その後に廃棄された衣服あるいは布。灌頂衣とも。▲
死者を塚間まで輿や車などに載せ運搬する際、遺骸を包んでいた衣服あるいは布で、その後に打ち捨てられたもの。▲
先に挙げられた「十種衣」は僧衣として用いても良いその素材について言及されたものであり、「十種糞掃衣」は各目的に用いられた後に遺棄され、あるいは毀損して誰か人に所有権が属さない十種の布を用いて僧衣とすることを許可したのを言われたものであって、相違することに注意。▲
[S]Ajātaśatru / [P]Ajātasattu. Magadha(摩竭提)国王。父王[S/P]Bimbisāraを殺害し王位を簒奪したが、後に悔恨して仏陀に帰依したとされる。▲
[S]Vaiśālī / [P]Vesālī. [S]Vṛji / [P]Vajji国にあった共和制によって自治されていた都市。吠舎離とも。▲
[P]Licchavī. 毘舍離(Vaiśālī)における共和制の一角を担った八氏族のうちの一つ。▲
意味するところが不明瞭であるが、その文脈から一度に多くの遺体が打ち捨てられた墓地における死人衣ということであろう。
それは戦争によって多くの戦士を失った人々の神経を逆撫でする行為であった、ということであろうか。▲
[S]saṁghārāma / [P]saṅghārāma. saṁgha(僧伽)のārāma(園)すなわち精舎の意。いわゆる仏教寺院・僧院。▲
『四分律』には塔に関する記述、規定(学処)が多くあることが知られるが、この記述から少なくとも法蔵部が拠点とした地において、仏陀や阿羅漢など高徳の仏弟子・聖者のためだけでなく、その父母などの死後にも塔を建て、その塔に布を巻き付けて敬意を表す習慣があったことが知られる。そしてそれはまさに仏陀や仏弟子に対するそれを模倣し、巷間にても行われ始めたものであったことが続く一節から知られよう。▲
[S]Rājagṛha / [P]Rājagaha. 古代印度の王国Magadha(摩竭提 / 摩訶陀)の首都。その四方を山に囲まれた天然の要害であり、その周囲は荒涼とした乾燥地帯であるのに比して緑豊かな地。▲
娼婦、売春婦。▲
[S]Āmrapālī / [P]Ambapālī. 絶世の美女であったと云われる高級娼婦。彼女があることによって街に人があつまり、その経済が潤ったとされる。釈尊に帰依してしばらくの後、自らも出家して比丘尼となり、やがて阿羅漢果を得たと伝えられる。▲
[S]Vimbisāra / [P]Bimbisāra. 頻婆娑羅とも。軍事・外交・内政に優れ、Magadha(摩竭提)を強国へと発展させた人。仏陀だけでなくマハーヴィーラなど沙門の庇護を行ったが、子の[S]Ajātaśatru(阿闍世)に幽閉されついに殺されたとされる。
先に阿闍世を王として出しながらここで瓶沙を王としてまた出すことは、時系列として前後倒錯したものとなっていることに注意。▲
[P]Sālavatī. Āmrapālī(菴婆羅婆利)より若く、それに比して勝るとも劣らない美貌を誇ったといわれる女性。Vaiśālī(毘舎離)にあったĀmrapālīに対し、Rājagṛha(王舎城)を拠点とした高級娼婦として名を馳せたという。後述する耆婆の母親。▲
[S/P]Abhaya. [S]Vimbisāra(瓶沙)王の子で、[S]Ajātaśatru(阿闍世)の弟。『四分律』では耆婆の実父でありながら、我が子とは知らず養子として引き取り養育したとして伝える。▲
[S/P]Jīvaka. ジーヴァカ。古代印度における伝説的名医。阿闍世により拾われ養育された後、医師となってからは外科的開腹・開頭手術を行い数々の難病を癒やしたと伝えられる。その優れた医術によって王族・豪族らに重宝され、当時相当な富豪となっていたと思われる。釈尊に帰依した後は僧伽に属する比丘らの治療に携わった。
「耆婆童子」との名について、特に年若いものであることは意味されない。『四分律』において、耆婆が何故「童子」と称されたかは「王子所取故名童子(王子取る所の故に童子と名づく)」と、子の無かった無畏王子が拾って養育することに決めたことによるとされる。そこで「童子」の原語は[S/P]kumāraが想定されるであろう。実際、『長阿含経』「沙門果経」の同系統異本、パーリ三蔵の長部に収録されるSamaññaphala Suttaでは、耆婆は「komārabhacca」とされる。この語を小児科医とする解釈があるが、その行業と撞着するため不適。これは『四分律』や『パーリ律』の所伝に従い、「(王子に)養育された童子」と解するのが妥当であろう。▲
[S]Takṣaśilā / [P]Takkasilā. 印度西北部(現パキスタン・パンジャーブ州)、いわゆる[S]Gāndhāra(ガンダーラ)王国にあった古代都市。仏在世当時、すでにバクトリア(現アフガニスタン)など西アジアからガンジス川中流域から印度洋に抜ける交易路が確立されており、史上最初の仏教徒とされる二人の商人は、ガンダーラよりさらに遠くバクトリア出身の人であったとされる。したがって耆婆が故国を遠く離れた地に遊学したとされる伝承は、当時の事情からして充分にあり得る。▲
由旬は[S/P]yojana. 牛車で一日で行動し得る最長距離とされ、メートル法で言えば一般に11km強とされる。▲
[S]Jambu-dvīpaが胡語などに転訛した語の音写。新訳家は「瞻部」と訂する。古代印度、特に仏教における世界観で須弥山を中心とした宇宙の南側に位置する大陸、すなわち印度亜大陸の名。▲
『パーリ律』に[P]Sāketaとあり、他に律にて該当する都市の名の言及が無いことから「婆」は娑の誤写、誤伝であり、すなわち「娑伽陀」が正しいであろう。すなわち後に[S]Ayodhyā(アヨーディヤー)といわれた[S/P]Kosala(拘薩羅)国の旧都。▲
牛乳を原料として得られる乳製品。いわゆるチーズであるが、文脈から液体状の極柔らかなものであろう。五味の一。▲