律師諱明忍。俊正其字也。出京兆宦族中原氏。權大外記康綱九世孫。父名康雄。事朝爲少内記。母某氏。有淑德。師生于天正丙子四年。天姿穎特。處群童中屹然自異。如穉松挺挺於嵩葭間。父喜其聰慧。特加鍾愛。七歳俾從高雄山僧正晉海公學内外典。伊吾上口。不煩師授。十一歳。父喚回家。卽任少内記而紹其家。師諳韻書。善楷字。毎禁筵聯句會。必命師執筆。揮灑敏捷。四座驚嘆。故有神童之譽。師又留心于纘承家學。官暇則補書舊記。積成數十巻。聲名籍籍起縉紳間。志學之後。升少外記。兼右少史。朝中皆榮之。而師不以爲意。以其嘗聆海公之訓。志在出家。視世間榮名峻秩。特旅中半炊之夢耳。常登高雄。輒留連於山雲水石間。而忘其返。海公憫其志。殷勤而誨之。
慶長元年。竟就海公圓頂相。時年二十有一矣。稟瑜伽法行。晨修夜勤。不敢少懈。至忘寢食。海公指而語人曰。此子吾家之精進幢也。一日師喟然嘆曰。戒乃三學之首。戒既廢。定與慧何自而生。所恨此邦律幢久仆。未有能扶之者。吾儕忝厠緇倫。豈忍坐視乎。遂奮志。徑往南都。覓古聖遺敎。專事紬繹。不翅飢渇之嗜飲食也。但以未得人開導。不能無凝滯焉。因與同志僧慧雲抵西大寺。寺雖已久廢。尚有多聞宿學能說開遮持犯之法。師與雲從而習之。所有凝滯雪融冰釋矣。寺有僧友尊者。亦嗜律學。感二師道誼之篤。其締莫逆之交。
七年師二十七歳。移居高山寺。與雲尊二公同祈好相。依大乘三聚通受法自誓受戒。專勵止作隨行。因與雲倶講行事鈔。幾及周歳。其餘律典及後二戒學。靡不硏覈精微焉。時三大部世未曾刊行。師往名刹借宋刻古本。手自繕寫。以備撿閲。晉海公嘉師興律之志。建廬于槇尾山平等心王院之故址。延師居焉。院乃弘法大師之上足智泉法師之所建也。樂善之徒爲造佛殿僧寮淨廚等屬。蔚爲精藍。結界立法。一式舊制。四方學律之侶。慕風騈臻。海公慮僧糧不給。乃割捨東照神君所賜腴田若干畝。以充之。南京有高珍者。粹篇聚之學。師招之遞相講演。誘訓來學。人皆謂。嘉禎之風再振斯時矣。
律師諱は明忍、俊正は其の字なり。京兆の宦族中原氏の出にして、權大外記康綱の九世孫なり。父の名は康雄、朝に事へて少内記と爲る。母は某氏、淑德有り。 師、天正丙子四年に生れて天姿穎特。群童中に處して屹然として自ら異なること、穉松の嵩葭の間に挺挺とするが如し。父、其の聰慧なることを喜で、特に鍾愛を加ふ。 七歳、高雄山の僧正晉海公に從て内外典を學ばしむ。伊吾口に上り、師授を煩はせず。 十一歳、父喚で家を回し、卽ち少内記を任せて其の家を紹ぐ。師、韻書を諳じて、楷字を善くす。禁筵、聯句會毎に必ず師に命じて執筆せしむ。揮灑敏捷にして、四座驚嘆す。故に神童の譽有り。師、又心を纘承家學に留めて、官の暇に則ち舊記を補書し、積で數十巻と成る。聲名籍籍として縉紳の間に起る。 志學の後、少外記に升て、右少史を兼ぬ。朝中の皆、之を榮れとすれども、師以て意と爲さず。其の嘗て海公の訓を聆くを以て、志出家に在り。世間の榮名峻秩を視て、特だ旅中半炊の夢のみとす。常に高雄に登て、輒ち山雲水石の間に留連して、其の返ることを忘る。海公、其の志を憫て、殷勤に之を誨ふ。
慶長元年、竟に海公に就て頂相を圓にす圓にす。時に年二十有一なり。瑜伽法行を稟け、晨修夜勤すること敢て少しも懈らず、寢食を忘るに至る。海公、指して人に語て曰く、此の子吾家の精進幢なりと。 一日、師喟然として嘆じて曰く、戒は乃ち三學の首なり。戒既に廢れば、定と慧、何より生ぜんや。恨むらくは、此邦の律幢久しく仆れ、未だ能く之を扶ける者有らざることなりと。吾儕、忝くも緇倫に厠る。豈に坐視することを忍ばんやと。 遂に志を奮て、徑ちに南都に往き、古聖の遺敎を覓めて專ら紬繹を事とし、翅だ飢渇之るも飲食を嗜らず。但だ未だ人の開導を得ざることを以て、凝滯無きこと能はず。 因に同志僧慧雲と與に西大寺に抵る。寺已に久しく廢すと雖も、尚ほ多聞の宿學有て能く開遮持犯の法を說く。師、雲と與に從て之に習ふ。所有の凝滯、雪融冰釋す。寺に僧友尊という者有て、亦律學を嗜む。二師の道誼の篤きに感じて、其の莫逆の交りを締ぶ。
七年、師二十七歳、移て高山寺に居し、雲尊二公と同じく好相を祈る。大乘三聚通受法に依て自誓受戒し、專ら止作隨行に勵む。因て雲と倶に行事鈔を講じて、幾ど周歳に及ぶ。其の餘の律典及び後二の戒學、精微を硏覈せずと云ふこと靡し。 時に三大部、世に未だ曾て刊行せず。師、名刹に往て宋刻古本を借り、手自から繕寫して以て撿閲に備ふ。晉海公、師の興律の志を嘉して、廬を槇尾山平等心王院の故址に建て、師を延て居せしむ。院は乃ち弘法大師の上足智泉法師の建つ所なり。樂善の徒、爲に佛殿・僧寮・淨廚等の屬を造り、蔚して精藍と爲す。結界の立法、一に舊制に式る。四方學律の侶、風を慕て騈臻す。海公、僧糧の給はざるを慮て、乃ち東照神君賜る所の腴田若干畝を割捨し、以て之に充つ。 南京に高珍と云ふ者有て、篇聚の學を粹む。師、之を招て遞相講演し、來學を誘訓す。人皆謂ふ、嘉禎の風、再び斯の時に振ふと。
忌み名。実名。古代の支那において人の死後、その実名を口にすることを憚った習慣があったが、それが生前にも適用されるようになったもの。普段は実名(諱)は隠して用いず、仮の名いわば通名を用いた。その習慣が日本にも伝わり、平安後期から鎌倉期頃には僧侶においても一般化した。奈良期、平安初中期の僧にはこの習慣はない。▲
出家した当初、その諱は以白(いはく)といった。その名はおそらく師の晋海の父であった清原枝賢が晩年に出家した際の法名である道白の一字を貰ってのことであったろう。しかし、明忍が自誓受戒して正しく僧(比丘)となったことを契機として明忍とその諱を改めている。その明忍という名も、おそらく彼が深く敬愛した僧の一人であり神護寺にも縁の深かった明恵上人の一字を取ったものであったろう。▲
諱以外に普段用いた名前。僧においてはこれを仮名(けみょう)あるいは房号(ぼうごう)ともいう。たとえば明恵上人高辯や慈雲尊者飲光についていえば明恵や慈雲が字であり、高辯や飲光が諱である。本来、僧の名を呼ぶ際には字を用いて諱は「忌み名」であるから敬して用いないが、近世にはこの区別がもはや付けられぬようになっていたようで、俊正と呼ぶべき所を明忍と称するようになっている。その変わり、その習慣も古来ありはしたが、名を記す時にその一字に同音異字を充てることによって敬意を示すことが多く見られる。▲
平安中期に始まる古い家系で、明経道または明法道を家学とし、大外記あるいは少外記を世襲した地下(ぢげ)の公家。▲
外記は朝廷の太政官に属した官職。四等官のうち少納言配下の主典(さかん)の一。天皇への奏文の作成など事務や、朝廷の儀式の奉行を行い、その先例や故実などの調査に当たった。権とは副あるいは仮の意で、ここでは副官あるいは員数外の官人の意。権大外記の官位は正七位上相当。▲
吉田兼好の『徒然草』に「いみじかりけり」などと称賛されている人。中原康綱流の祖。▲
内記は中務省に属した品官(四等官の体系に属さない官職の総称)。詔勅や位記の起草などの公文書作成、および天皇の行動記録を行った。主に文筆に秀でた者が任命された。少内記の官位は正八位上相当。▲
守理晋海。京都の清原氏(広澄流)出身、清原枝賢の次男。長男は後に清原氏を改め舟橋氏を称してその祖となり、また『慶長日件録』を遺してことでも著名な舟橋秀賢(ひでかた)の父、清原國賢(くにかた)。すなわち、晋海は舟橋秀賢の叔父であった。
当時、多くの公卿の嫡子以外がいずこか仏門に入らされていたように、高尾山法身院に預けられ出家。後に仁和寺第二十世厳島御室任助親王から灌頂を受け、これをまた南御室覚深親王に伝えた。南北朝時代の天文年間〈1532-1555〉に兵火で甚だ荒廃していた高雄山神護寺の復興に尽力するに際しては、徳川家康の帰依を受け寺領千五百町歩(三百戸)を下賜され、また寺の三里四方の山林を伽藍復興の為にと与えられて復興の財とした。神護寺(高雄山寺)の法身院をその居としていたため当時は「法身院」あるいはただ「僧正」と称されている(実際の僧位は権僧正)。天正十六年〈1588〉、大覚寺にて誠仁(さねひと)親王の第二王子、空性法親王(大覚寺宮)の師となって得度授戒している。
清原氏と中原氏とが同格の公家で非常に近い関係にあったこともあってか明忍の幼少期における学問の師であった。明忍の和上となって以降は、むしろ明忍の戒律復興への熱情に影響を受けてその良き理解者で後援者となり、平等心王院の復興に全面的に経済的支援をしている。そして実際に戒律復興に際してはその一員とすらなっていた。明忍が逝去した翌年の慶長十六年三月二日に遷化。
舟橋秀賢『慶長日件録』からは、晋海が非常に頻繁に秀賢宅に出入りし、あるいは秀賢が神護寺を訪れ、しきりに消息のやり取りをしていたことが知られる。秀賢はまた、その次男を晋海に預けている。また他に、慈雲『律法中興縁由記』には「僧正因に云く、予いま大樹君の歸敬ありて世栄分に過ぎ」あるいは「世人上下みな吾僧正の高徳を仰がざるなし」とあり、朝廷との繋がりも深く、また豊臣秀頼や徳川家康との交流があり、その帰依と後援を受けていた当時京都では高名な僧であったという。▲
内典とは仏典。外典とは仏教以外の思想書、特に日本では例えば儒教・道教などの漢籍。当時の知識教養とは、儒教と仏教の典籍に多く目を通していることであり、また和歌を読むことであった。▲
書を読む声。声に出して言うこと。▲
『行状記』には、そもそも明忍には本来その家を継ぐべき兄があったが金銭問題が生じ、また才覚が弟に及ばないために明忍が家を継いだとされている。しかしながら、明忍が元服して任官した際に改めた名は、清原朝臣小内記賢好であり、「中原朝臣」でなく「清原朝臣」である。その故は律師が幼少の頃、清原秀賢の門弟となり、元服に際して清原姓に改めたためであった。当時、秀賢は昇進して昇殿を許されたことを契機に清原姓を改め舟橋姓に変えているが、それによって空いた清原姓の継承を明忍にさせるつもりであったのであろう。▲
漢字を韻によって分類整理した書籍。ここでは特に、虎関師錬(こかんしれん)により作詩のために著されたいわば漢字辞典、『聚分韻略(じゅぶんいんりゃく)』のこと。▲
公家や禅家などの余興で、何か一つの題について複数人で句を連ね、一つの詩として楽しむ会。余興と言っても様々な作法があり、当時の上流階級や有閑富裕層の社交の場であった。▲
身分の高い人。貴人。▲
支那唐代の伝奇小説『枕中記』の故事に基づく語。『枕中記』の主人公盧生は、自身の不遇なる境遇を不満に思い、立身出世を夢見て楚に向かおうとする途上、邯鄲(かんたん)の近くの宿屋で小休止していた。そこで偶然出逢った道士呂翁と自身の不遇など境遇など身上話などして愚痴をこぼしていたところ、急に眠気がさしてきた。すると呂翁は自身の持っていた枕を使えと差し出してきたため、盧生はこれを使って眠りに落ちた。そして盧生は、以降トントン拍子に栄達を極め、幾度の失脚を経験するも再び返り咲くなど、苦しみも経験しつつも大いに栄華を極めついに老衰して死ぬ。と、そこで盧生は眼を覚ます。が、しかしそこは邯鄲の宿屋であって、それまで経験していた栄枯盛衰の長い長い人生は、眠りに落ちる前に炊きかけていた黍飯が炊きあがりもしないごく短い間に見た夢であったことに気づく。つい先程までその不遇を不満に思い立身出世を夢見ていた盧生はしかし、ついに人生の儚さ、栄華の虚しさを悟り、呂翁も深く礼を述べてその場を去る、という話。支那および日本でも非常に知られたいわば人生訓で、「邯鄲の夢」・「邯鄲の枕」として用いられる。▲
髪を剃ること。出家の意。▲
ここで戒山は律師の出家年時を元禄元年としているけれども、そもそも堯遠『行状記』および日政『行業記』では元禄四年(廿四歳)とし、月潭『行業曲記』では元禄二年(廿一歳)とする。まず、出家年代については『行状記』ならびに『行業記』説が正しいと思われるが、ここで戒山が何に基づいて元禄元年出家としたのかは不明。おそらくは月潭に倣って単に二年としようとしたところを誤って元年と記したのであろう。
なお、明忍が出家したのは廿でも廿一でもなく、『行状記』などが伝えるように廿四歳であったと思われる。▲
真言密教。ここではその初歩、入門の修行となる四度加行のこと。もっとも、明忍は自身が晋海のもと修めたそれについて、「十八道ヲ開白シ四度加行セリソレモ猶カタチノミナル有樣ナリ本意ナケレハ」でまったく満足出来るものでなかったと『行状記』に伝えられる。明忍は自身なりに加行を真剣に取り組んだのであろうけれども、それは自身の目指す出離の証果を、その兆しをすらも見出すものでなかったのであろう。もっとも、四度加行が形式的に行われるようになっていたのはおそらく平安後期以来のことであった。そもそも、鎌倉の叡尊が興律を志したのは、持戒を欠いた状態で密教を修めても何ら「仏教として」意味をなさないことについて思い悩み、ついにそれが全く持戒・持律を等閑視したことに起因することを気づいたことによるのであり、この点において明忍は叡尊と同じような軌跡を経ている。▲
戒・定・慧という仏道修業の階梯における三学は、持戒をその基礎とすること。地盤の堅固でないところに、何も建てることは出来ないように、持戒を確立していなければ定も慧も生じ得ないこと。そもそもこれは仏教におけるいわば常識であるが、日本の戒律復興を志した人々はほぼ全く同様の言葉は口にした。▲
出家。緇は墨染(ねずみ色・鈍色)の衣を意味する。▲
明忍と共に近世における戒律復興を果たす僧。諱が慧雲、字は蓼海(りょうかい)。和泉国出身。もと日蓮宗徒。ここに「観行即の慧雲」と称されたとあるが、『律苑僧宝伝』巻十五「慧雲海律師伝」では、観行とは止観のことであって衆中において止観(『摩訶止観』)、すなわち支那の天台教学に最も詳しかったということからかく称されたという。慶長十五年〈1610〉、明忍が対馬において客死した後、平等心王院の第二世住持となる。戒律復興の騎手としてただ明忍のみが著名であるが、実際として明忍が具体的に後進を指導したという実績はほとんどなかった。それはほとんど慧雲が主として担ったのであり、また槇尾山の僧坊としての基礎を築いたのも彼であった。しかし、慧雲もまたその翌十六年三月二日あるいは翌々年の十七年二月二日、高雄山神護寺にて示寂。行年は明らかでない。▲
孝謙天皇開基の和州(奈良)の寺院。平安期に衰退し、鎌倉期叡尊に中興された。以来、律宗(西大寺系)の中心寺院の一つとなるが、室町期には再び頽廃。律の実行は失われてただ教学としての律学をのみ修める場となっていた。▲
律の規定について許されていることと許されていないこと(開遮)、および持戒と犯戒の構成要件。ここでは広く律学の意。▲
明忍・慧雲と共に戒律復興を果たした僧。諱は友尊、字は全空。慧雲に同じく元法華宗の僧であったというが脱宗して西大寺の門に入っていたと言われる。慶長十五年〈1610〉六月二日、明忍律師に先んずることただ五日の日に示寂した。▲
互いの言うことをよく受けれて決して相反しないこと。非常に親しく交際すること。▲
京都嵐山の北西にある寺院。梅尾山高山寺。鎌倉期の昔、明恵上人によって開かれた。明忍の当時、高山寺は高雄山神護寺の管轄下にあった。高山寺が明恵の古跡であることは古来よく知られており、明忍らは明恵上人が勧請したという梅尾山の春日社および住吉社の前において自誓受戒した。▲
好相とは、夢や白昼夢あるいは現実に現れる何か好ましい現象・事象。持戒した上で修禅や礼拝を日々に繰り返す中に見るべきものとされる。ここで何故明忍らが「好相を祈る」、すなわちその好相を得るために修行したのかといえば、『梵網経』や『占察経』に戒を犯した者や戒を失った者、あるいは戒を得ていない者は、まず必ず「好相を得なければならない」と規定されているためであり、そうしなければ受戒は成就しない、とされているためである。実際に叡尊や覚盛らは各々自誓受戒する前に、礼拝・修禅を幾日も繰り返し修め、好相を得ていた。
もっとも、律の観点からすれば、それを正統な手段で受けることが可能な状態であれば「好相を得る」必要など全くなく、そもそも好相などという語自体、一切言及されない。好相とはあくまで大乗にて言われる、しかも極めて限定された中で説かれるものであることに注意。▲
三聚とは、『華厳経』をはじめ『瑜伽師地論』などにて詳説された三聚浄戒の略。三聚浄戒とは、摂律儀戒・摂善法戒・饒益有情戒の三種をいうもので、いわゆる戒と律とを大乗の立場から包摂して説かれたもの。
通受とは、本来は「僧俗が通じて(共通して)受けるもの」という意味であったが、鎌倉期の覚盛により「三聚浄戒を通じて(まとめて)受ける」という意味に変じられ用いられるようになった。ここでいう三聚通受とは、比丘となるための具足戒(律)を三聚のうち摂律儀戒に配し、菩薩戒を後二の戒に当てて、まとめて受けることの意。▲
現前の師を立てず、誰にも依らずして、「自ら戒を受けることを誓う」ことによる受戒法。一般にこれが可能なのは在家の五戒および八斎戒に限られる。しかし、大乗経において、といってもそれはただ『占察善悪業報経(占察経)』(T17. P904c)に限られるのであるけれども、自誓受によっても「正しく受戒」出来ることとされている。
しかしながら『占察経』は、はるか天平の昔に日本仏教界に諍論を生じさせていたものでもあった。その問題とは、鑑真により正規の具足戒がもたらされた際、従来の僧正など官位についていた僧らが、大和上による伝戒とその受戒をいわば拒否したことである。鑑真大和上のもとで具足戒を授戒することについて、彼らはすでに正統な仏教僧であっていまさら具足戒など受ける必要はない、と難色を示したのであった。その根拠としたのが前掲の『占察経』であった。けれども結局、当初反抗の構えを見せていた、それ以前のいわば相似僧らは鑑真に対して一応弟子の礼をとって、その授戒を受け入れた。すなわち、『占察経』に基づく自誓受戒(による比丘としての受戒の正統性)は、いわば天平の昔に否定されていた。ところが、鎌倉期のどうやっても正統な方法で受具することが叶わなくなっていた当時、戒律復興をなんとか果たそうとした覚盛によって、過去に否定されていたはずの『占察経』、および法相の諸典籍を根拠に自誓受具の正当性が主張され、ついに実行された。その自誓受によって戒律復興を果たした四人のうちの一人が叡尊であった。後に覚盛は唐招提寺に、叡尊は西大寺に入り、それぞれ拠点にして新たな律宗の展開をみせる。もっとも、叡尊と覚盛の戒律について見解・見どころはかなり異なっており、それが現代に至るまでの律宗における唐招提寺・東大寺戒壇院・泉涌寺と西大寺の間の軋轢の元の一つとなった。
なお、ここでは自誓受戒をしたのが明忍・慧雲・友尊の三人であったとされているが、実はこれに晋海および玉圓空溪なる僧も加わっており、総勢五人で自誓受戒している(『自誓受具同戒録』西明寺文書)。そもそも三人で自誓受戒というのは道理に合わない。僧伽が成立するには最低四人の比丘がその成員として必要であるから、それは必ず四人以上でなされるべきものである。事実、叡尊らの自誓受戒もはじめ四人によってなされたのである。この四人というのは偶然の数字ではなく、そうでなければならないという背景があった。▲
止作とは止悪、作とは作善の意。随行は実際に戒律に従って生活すること、現実に持戒すること。▲
南山大師道宣によって著された『四分律』の注釈書『四分律刪繁補闕行事鈔』の略。およそ日本において律を学ぶ者は必ず学び、常に参照していた書。明忍と慧雲とが『行事鈔』を講じた場所は、『律苑僧宝伝』巻十五「慧雲海律師伝」では、南都の安養寺・龍徳院・戒蔵院など諸院においてのことであったと伝えられる。▲
三聚浄戒、すなわち摂律儀戒・摂善法戒・饒益有情戒の後二について。叡尊(西大寺系)における、いわゆる法相戒観にもとづく理解では、摂律儀戒に律蔵所説の具足戒(二百五十戒)が当てられ、その律蔵は特に『四分律』に依るもので、その実際にあたっては南山大師道宣の解釈が専ら用いられた。そして摂善法戒と饒益有情戒には、『瑜伽師地論』(『菩薩持地経』)所説の瑜伽戒、および『梵網経』(ならびに『瓔珞本業経』)所説のいわゆる梵網戒が当てられた。ここでは、律儀を『行事鈔』に基づいて理解・実行するだけでなく、後二の瑜伽戒と梵網戒についての研究とその実行にも余念が無かった、との意であろう。
なお、三聚浄戒のそれぞれに何を配当するかの理解は、すでに鎌倉期以来の西大寺系と唐招提寺系とで異なっており、各々がその独自性を過度に主張しだすや、愚かな宗派主義、縄張り根性を発揮して、律とはそもそも何かの本義を忘れ、律の実行すらも廃れていく一大要因となった。近世における戒律復興運動においても同様の事態が発生し、詮無い宗派主義と宗論の基となっていく。▲
道宣による『四分律』の注釈であって南山律宗において最も重要視される三書、『四分律行事鈔』・『四分律羯磨疏』・『四分律戒本疏』。▲
平安初期、智泉により神護寺別院としてに開創された寺院。中世末には衰微し、当時は堂舎などほとんど残されておらず、その一帯は高山寺と共に神護寺の管轄下にあった。▲
空海の甥で弟子であった僧〈789-825〉。空海に十年先んじて逝去しており、その死をひどく悼む空海の達嚫文が伝わっている。▲
精舎・律院内にある厨房と食料貯蔵庫。律の規定により、精舎の結界内(境内)に食料を夜を越えて貯蔵することは出来ないため、厨房の区画はその結界から除外される(これを除地という)。そのように、律の規定上合法とされた厨房・食料貯蔵庫を淨廚という。この場合の「淨」は律に準じていること、すなわち「合法」であることを意味するのであって、物理的に綺麗・汚いあるいは精神的・宗教的に清淨・不清浄を言うものではない。▲
伴って一つに集まること。共に来ること。▲
慶長五年〈1600〉、晋海僧正は徳川家康に「一山三衣にも事欠く有様なれば、願わくは寺領境内地先規の如く返附せられ度云々」とその神護寺の窮乏した状態を訴え、その翌年訴えどおりに寺領千五百町歩が「返還」された。『神護寺文書』によれば、千五百町歩以外にも家康はさらに二百六十石を寺領として付与している。晋海は、その貴重な神護寺の経済基盤となる寺田の幾分かを槇尾寺平等心王院を律院として再興するために分与し、明忍らの活動の経済基盤とした。▲
西大寺の歴代長老の中に高珍の名は見えない。慶長七年の当時、西大寺長老であった者は四十五代高秀栄春であり、これを継いで第四十六代となったのが高久奎玉。鎌倉末期に西大寺長老を勤めた明印高湛以来、「高」の文字を頂く者はほとんど寺内の一、二臘など高位の者に限られていた。今のところ高珍が西大寺の寺僧であったとは史料が無いため言うことは出来ないが、その名からすると西大寺の門徒であったと考えてよく、その中でも上位の学僧であったのであろう。▲
篇聚とは律蔵に説かれる律をその罪の軽重や種類によって分類する「五篇七聚(ごひんしちじゅ)」の略。要するに律学のこと。▲
嘉禎二年〈1203〉、叡尊・覚盛・円晴・有厳の四人により東大寺においてなされた通受自誓受による戒律復興のこと。
明忍らによる慶長の戒律復興以降、持律持戒を志した人々のほとんどは、自身らがその基として興正菩薩叡尊があることを意識していた。
ところで、この慶長七年に通受自誓受してから翌々年の九年まで、明忍や慧雲・友尊らがどこでどうしていたのか、その諸伝記ではすっぽり欠けて記されていない。しかし、その間の消息については、舟橋秀賢『慶長日件録』に若干ながら記述があり、それによれば慶長八年三月に明忍は西大寺にあり、その奥之院および石塔院に滞在していたことが知られる。西大寺の長老および衆僧は「嘉禎」の蹤をまさに踏んでいた明忍らを、それにはまず友尊の存在が不可欠であったろうし高雄の晋海僧正のなんらか口利きもあったであろうけれども、客僧としてではあっても受け入れていたのである。明忍らはここで腰を据えて律学を学びつつ、叡尊や西大寺派所伝の諸著作を筆写していたのであろう。▲