『槇尾平等心王院俊正忍律師伝』(以下、『律師伝』)は、近世における日本仏教史に短いながらも重大な足跡を残した人、俊正明忍(以下、明忍)の没後七十九年に著された伝記です。
その著者は戒山慧堅。明忍の法孫であり、槇尾山から出て河内野中寺を中興して律院とする基を築いた慈忍慧猛の三傑といわれた高弟の一人です。
『律師伝』はそれ単体として著されたのでなく、戒山が野中寺第三世を辞して近江安養寺を中興してあるときに編纂され、元禄二年〈1689〉に刊行された『律苑僧宝伝』に収録されたものです。『律苑僧宝伝』とは、特に支那および日本において伝律に関わった僧361人(支那227名・日本134名)の僧伝の集成です。日本の僧伝は唐招提寺の鑑真に始まり神鳳寺の真政円忍に終わります。『律苑僧宝伝』は、日本において三学の階梯の初めである戒律に対する知見を広め、ついには菩提を得るための基となることを期して著されたものであるため、日本の伝律伝戒の諸師に関する僧伝は自ずと力の込められたものとなっています。
当時、明忍伝は寛文四年〈1652〉に元政『槙尾平等心王院興律始祖明忍律師行業記』(以下、『行業記』)が成立し、貞享五年〈1703〉には月潭『槇尾平等心王院故弘律始祖明忍和尚行業曲記』(以下、『行業曲記』)が成立(元禄十六年〈1703〉に刊行)していました。これらは今、諸々の明忍伝のうち主要な二本となっています。また『律苑僧宝伝』が刊行される前年の貞享五年〈1703〉に明から渡来した黄檗僧、高泉性潡による『東国高僧伝』にも「槙尾山明忍律師伝」が収録されていますが、これは『行業記』と『行業曲記』の双方を参照して極略したものです。そこで、戒山は月潭と高泉の両者と親交があったのですが、それら三本を参照・踏襲して『律師伝』を編じています。
近世中期に編纂・刊行されたものとはいえ『律苑僧宝伝』の価値は大きく、今はここにしか収録されない僧伝もあるなど貴重なものです。また、これは直接的には師の慈忍からの影響が強く表れたものであり、遠くは明忍ら戒律復興の同志らが目指したあり方に基づいたものと思われますが、特定の宗旨宗派にまったく限られず、広く伝律・伝戒に関わった僧の伝記を集成した点においても、その精神を今に伝える極優れたものです。
「律師伝」の編者戒山慧堅は、慶安二年十二月十八日〈1650〉に、筑後の御井郡久留米の江上氏の子として生を受けた人です。戒山は自らは出家した者であるからとして、その俗名も字も人に伝えていません。
志学の頃、郷里の禅寺、千栄寺に出されて学問を修めています。十七歳の時、山本郡の千光寺に鉄眼道光が来たって『大乗起信論』の講筵を開いていたのに参加して発心し、ついにその元で出家。その後、千光寺の巌宗なる禅僧の元で受業し、禅を学んでいました。しかしある時、仏僧としての要は戒律にあることに気づき、その師を求めて京都に向かったのでした。京に向かう途上、摂津(大阪)の法巌寺にて桃水雲渓(洞水雲渓)と出逢い、当代一の律僧として名高かった慈雲の元に行くよう勧められています。
そこで戒山は、当時宇治田原の巌松院にあった慈忍の元に参じて閲すると、たちまちその機を見抜かれて出家を許され、あらためて息慈(沙弥)となったのでした。その後、戒山は慈忍に従って巌松院を出て野中寺に入り、野中寺において通受自誓受により具足戒を受け比丘となっています。それは寛文十年十二月二十八日〈1671〉、ちょうど戒山が生まれて二十一年、戒山二十二歳のことです。
戒山は慈忍の門下としては最も長く側仕えた人でしたが、槇尾山衆徒であったのが慈忍の門弟となった慈門信光が法臈は上でした。したがって、慈忍が野中寺にて没した跡は慈門が継いでおり、戒山は野中寺を出て諸方を遊行しています。そのしばらく後、慈真から野中寺に呼び戻され、慈忍が西大寺の高喜長老から相承した菩薩流(松橋流)を慈門より受けその正嫡となっています。
戒山は慈忍の弟子となり律僧となった後も、初め出家の縁を受けた黄檗の鉄眼や筑後の巌宗など臨在(黄檗)や曹洞の人との繋がりは切れておらず、密なる交流を続けていました。先に述べたように、黄檗関係では月潭や渡来僧高泉と交通があったこともよく知られています。
その後、戒山に帰依していた京都の樋口正信(蘭軒)の没後、その遺産をもって江州の安養寺を復興。以降はここを本拠として活動を続け、特に他宗派の持律を志す人々が自誓受戒するにあたってその証明師となっています。また安養寺においては密教の伝授にも力を尽くし、僧俗の徒にこれを伝えています。戒山の特に優れた弟子に樋口氏出身の湛堂慧淑がありましたが、戒山に同じく文筆に優れ、共に安養寺にあっていくつか貴重な著作を今に伝えています。『律苑僧宝伝』はこの頃著され、刊行されたものです。
元禄十二年〈1699〉秋、戒山は安養寺の席を湛堂に譲り、自らは退耕道人と称して京に浄慈庵と名づけた庵を設けて隠棲。隠棲した後も弟子の請いによって灌頂を修し、あるいは肥後に下って教化活動など行っています。
その後しばらくの元禄十六年〈1703〉秋、法兄慈門から野中寺の席を譲られてその第三世となっていますが、戒山からするとこれは不本意なことであったといいます。実際、その席も名目ばかりのもので、戒山はほとんど浄慈庵にあったようです。果たしてその翌十七年〈1604〉初春、浄慈庵にあった戒山は、先からの病が急に悪化してその死期の来たったことを悟り、後事を弟子たちに託すなどその最後に備えています。そして仏前に坐して手に密印を結びつつ口に笑みを浮かべて遷化。時に三月四日のことです。行年五十六、夏臈三十三。
戒山もまた明忍と同様、律学を修めて持戒を厳にし、また密教を修して今世の証果を求めつつ、大智律師元照の先蹤を踏んで浄土に想いを掛けています。
戒山の当時、槇尾山から端を発した興律の動きは諸宗に伝播し、律学に触れる者も少なからず現れていましたが、同時にただ名目ばかり、形ばかりの律僧も多く現れ、また互いに派閥を形成して争い合うなどすでに頽廃の影が色濃く見えていたようです。それは明忍らが没してから百年も経ていない頃のことで、現代しばしば近世における諸宗の持戒持律の活動についてアレコレいわれますが、それは決して芳しいものとはなっていませんでした。
そしてそのような状況を戒山は嘆き、その全く非なることを弟子に訓戒していたようです。戒山没後、その状況はますます酷くなる一方であったのですが、しかし、戒山と師を共にした法弟の洪善普摂の法孫に慈雲飲光が出、戒山の嘆きを払うかのように畿内を中心とした戒律復興、いや、仏教復興運動を展開して大きな功績を遺しています。
実際、享和二年三月四日、安養寺第七世奇円慧鐙の代に戒山の百年忌が安養寺にて行われていますが、その席に慈雲が招かれ、また慈雲を阿闍梨として菩薩流の灌頂が開かれています。まず奇円は慈雲の弟子であり、また慈雲は戒山のことをよくよく承知していたからこそのことっだのでしょう。今も慈雲に関わる写本や書などが安養寺に伝わっています。
愚衲覺應 拝記