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Dharmacakra
智慧之大海 ―去聖の為に絶学を継ぐ

戒山 「槇尾平等心王院俊正忍律師伝」

訓読

十一年、師年三十一、自ら思て曰く、吾、通受自誓の願ひを遂ぐと雖も、尚ほ未だ別受相承べつじゅそうじょうの望みを果たせず。仄聞そくぶんす、大唐・三韓、佛法現住して名師・碩匠、遞代ていだい乏しからずと。ああ、古人法を求めて海をわたり山をはしごして艱辛かんしんを憚らず。吾、何人ぞ。斯に敢て武を躡み芳を繼がざらんや。是に於て高雄に登り、弘法大師像の前に於て護摩法ごまほうを修すこと百座。又みずから伊勢・八旛・春日の三神祠に詣て、其の冥護を祈る。 既にして雲尊二公に囑して徒衆を管御かんぎょせしめ、孤錫翩然こしゃくへんぜんとして直に海西に赴く。道依、ふくはさんで之に從ふ。

初め平戸津ひらどのつに抵り、次で對馬州に到る。柰せん國禁森嚴こっきんしんげんにして渡唐を許さず。然も師、心息めず。府内宮谷ふない みやだに寓居ぐうきょすること久しくして人緣稍譁ややかまびすしきを厭ひ、又茅壇かやだんに移る。府治の西南夷崎いさきの山水奇絶を愛して、其の間に經行す。鄕人、其の名を知らず。但だ京都の道者どうしゃぶのみ。海岸精舎かいがんしょうじゃの主僧智順ちじゅん、師の戒行を欽んで往來密邇す。

師は日常、緣に隨て更に他營無く、偊を擎て食を蜑ひ、衣を補て形を蔽ふ。是の如きこと數歳、備さに百苦をむと雖も志益々ますます堅し。手に經律の要文を錄して、以て考證に備ふ。其の精勤なること此の如し。毎便、書を慧雲及び合山徒衆にたまふ。其の叮嚀の委囑、軀を忘れて此の道を弘持するに在り。未だ嘗て一句も言て他事に及ぶこと有らず、言多く載せず。

會て鄕母きょうぼの書を得るも、すなわ慇勤いんぎんに頂戴し、之を谿流に投じて展視せず。此れ以て其れ親愛を捨て道業に純ずと見るに足る。 俄にして疾に寢る。經ること久しくして愈へず、自ら起てざることを知る。乃ち書を作て以て海公にる。手に短杖を執て坐席をたたき、しばしば佛號を唱て、安養に生ずることを願ふ。忽ち紫雲靉靆あいたいして寶華繽紛ほうけひんぷんせるを見。すなわち筆を呼で書して曰く、我が此の病苦は須臾しゅゆの事。彼の淸凉雲中に諸聖衆と相交はれば、則ち豈に大快樂ならずや。八功德水の七寶蓮池、是れ我が所歸の處なりと。書畢て加趺かふして逝く。 時に慶長十五年六月初七日なり。閲世えつせ三十有五、坐若干夏ざじゃっかんげ溽暑じょくしょに當ると雖も、容色ようしき變ぜず。道依、荼毘法を用て從事して靈骨を收め、道具を擔て、棲棲せいせいとして京にめぐる。槇阜まきのおの一衆、訃を聞て哀慟すること所親を喪するが如し。海公、書に接して泫然涙下げんぜんるいかし、和歌わかして之をいたむ。道依どうえ、衆を同じくして本山に就て塔を建つ。

師、平常淨域じょういきに繫念す。講のいとまに喜で信師の往生要集おうじょうようしゅうを閲す。嘗て自誓受戒血脈圖じせいじゅかいけちみゃくずを製し、興正の下に讚辭をつらねて曰く、三聚を幷呑して戒身を長養す。法を耀かがやかして生を利す。千古未だ聞かずと。 師在し日に僧有て、曼殊洛叉まんじゅらくしゃの法を修す。一夕、假寐の間の夢に、大士之に告て曰く、儞、我が生身を見ることを願はば、卽ち高雄法身院俊正しゅんしょう是れなりと。 師の寂後、相繼ぎ其の門を出る者はなはだ多し。佛國高泉禪師ぶっこく こうせんぜんじ、師の爲に塔上の銘をせんす。

贊して曰く、嗚呼、忍師の若きは、豈に難しと爲さざらんや。通受法の久しく行はれざるによって、化敎けきょうの學を幾て寰海かんかいに徧す。行宗ぎょうしゅうの一門老死して其の名を聞かざる者有るに至て、忍師、の會を崛起くっきし嘉禎の蹤を追ふ。力を其の宗の將に墜ちんとするに振て、是に何ぞ及ぶべきなり。嗚呼、忍師の若きは、豈に難しと爲さざらんや。別受の法を萬里に求め欲すに至る。又人の能ひ難しとする所は、馬島に僑寓きょうぐうして數寒暑のけみし、風飡露宿ふうさんすいしゅくして備に百苦を嘗むにあり。其の軀を輕くして法を重くするの風、眞に以て頑を廉くして懦きを立つるに足る。之て古聖賢をはかるに、何ぞ多く譲らんや。おしむらくは福、慧におよばず、出世未だ幾ならずして化すことなり。然りと雖も其の子孫相繼で斷ぜず。律道日に行じて、天下戶知る。師の德澤とくたく及ぶ所、亦た遠からず。

現代語訳

慶長十一年〈1606〉、師三十一歳の時のことである。自ら、
「私は通受自誓受の願いを遂げたけれども、しかしなお未だ別受相承べつじゅそうじょうの望みを果たせていない。伝え聞くに、大唐〈支那〉三韓〈朝鮮〉には仏法は今も善く伝えられ、行われており、名僧・碩学あって、その伝統は途絶えていないという。ああ、古人は法を求めて海を渡り山に登るなど艱難辛苦を厭うことなどなかった。私など取るに足らない者である。ここで敢えて勇ましく歩みを進め(古の大徳らの成した)芳蹤ほうしょうを継がないことがあろうか」
と思い至った。そこで高雄山に登り、弘法大師の像の前にて護摩法を修すこと百座。さらに自ら伊勢・八幡・春日の三神の祠に詣でてその冥護を祈った。その後、慧雲・友尊の二公に後を託して(平等心王院に入門した新学の)徒衆の教導を委ね、ただ一人颯爽として海の西へと旅立っていった。ただ道依のみ、複子〈旅包み.旅に必要な物品〉を挟んで師に從った。

初め平戸津を訪れ、次で対馬州に到った。ところが、如何ともし難いことに、国禁森厳こっきんしんげん〈国家の法律が非常に厳しいこと〉であって海を渡ることは許されなかった。しかしながら師は(求法の)志を失うことはなかった。(対馬は)府内〈現:厳原〉宮谷みやだに〈清水山城東側〉にしばらく寓居していたが、人の多くやや騒がしいことを厭い、茅壇かやだん〈有明山東側中腹〉に移った。師は府治の西南にある夷崎いさき〈海岸寺の下方、海辺にやや伸びた崎〉の山水奇絶を愛して、その間を経行した。(対馬の)郷人は、師の名を知らず、ただ「京都の道者」と呼んでいた。海岸精舎かいがんしょうじゃ〈海岸寺〉の主である僧智順ちじゅんは師の戒行に随喜し、しばしば往来して親しく接していた。

師は日常、(日々起こる出来事の)縁に従う他に世事には就かず、鉢を携えて食を乞い、衣を繕ってその身を覆うのみであった。そのようにしてあること数年、まさに百苦を舐める日々を送っていながら、その志はますます堅固となっていた。筆を執って経律の要文を書き留めるなどして、その後の考証に備えた。師の勤め励む姿はまさにその様であった。船便のある度に書を慧雲及び平等心王院の山衆に贈っていた。その丁寧なる委嘱の内容は、(孤独で貧しき最中にあった)自らの事など脇において(持律持戒を旨とする)仏道を弘め護持することにあった。未だかつて一言としてその他の事に言及したことなどなく、言葉も多く記していることはなかった。

かつて郷里の母から手紙を得たことがあった。しかし、師は慇懃に頂戴してからそれを渓流に投じて、開き見もしなかった。それは(捨て難き)親の愛を捨て、道業にひたすら身を投じた決意の表れと見て取れる所行であった。そんな中、突如として病に倒れたのである。しばらくしても一向に癒えることはなく、自らもはや病床から立てることはないことを知る。そこで書〈末後状「止観文」。西明寺に現存〉をしたためて晋海公に送った。そして手に短杖を執って坐席を叩きつつ、しばしば仏号〈阿弥陀仏名〉を唱えて、安養〈極楽浄土〉に往生することを願った。その時、たちまち紫雲がたなびき、多くの宝華が乱れ落ちてくる様を見たのである。そこで師は筆を執って書いた手紙にはこうある、
「我がこの病苦など須臾しゅゆ〈わずかの間〉の事に過ぎない。あの清涼なる雲の中に諸々の聖衆と相い交わることが出来れば、どれほどの大快楽であろうか。八功徳水の満ちる七宝の蓮池こそ、私が生まれ変わる処である」
と。そう書き終わって結跏趺坐して逝去した。時に慶長十五年〈1610〉六月七日のことである。閲世えつせ〈世寿〉三十五歳、坐〈夏坐・法臘〉若干夏。溽暑じょくしょ〈蒸し暑い時期〉の最中のことであったけれども、(遺骸の)容子は(腐って)変わることはなかった。道依は荼毘に付した後にその霊骨を収め取り、(師の生前所用の衣鉢など)道具を担いで慌ただしく京へと帰った。槇尾山の衆徒はその訃報を聞いて哀慟すること、あたかも親を亡くしたかのようであった。晋海公は、(師がその末後にしたためた)書に接してさめざめと涙を流し、和歌を詠んでその死を悼んだ。道依は(出家して)平等心王院の衆徒らと共に、山に律師の塔を建てた。

師は平生、淨域〈浄土〉に繫念していた。講律の暇に好んで恵心僧都源信師の『往生要集』を読んでいた。また、かつて『自誓受戒血脈図』を作り、興正菩薩の下に讃辞を連ねて、「三聚を并呑して戒身を長養す。法を耀かがやかして生を利す。千古未だ聞かず」 と書している。師の在りし日、ある僧が文殊洛叉の法〈文殊菩薩の真言を十万返念誦する密教の修習法〉を修した。ある日の夕べ、うたた寝している間の夢で菩薩が現れて、彼に
「汝が私の生身を見ることを願うならば、それは高雄法身院にある俊正である」
と告げて言ったのだという。

師の入寂の後、相継ぎ(平等心王院に端を発する)律門から輩出された者は甚だ多い。仏国高泉性潡ぶっこく こうせんしょうとん禅師は師の為に墓塔の銘を譔した。

賛じて曰く、
嗚呼、明忍師はどうして困難であると思わなかったのであろうか。通受自誓受法が久しく行われなくなっていたことにより、化敎けきょう〈定学と慧学〉の学を願い求めて環海を諸方に尋ね、行宗〈南山律宗〉の一門は皆老死してその名をさえ聞いたことの無い者がある時代となって、明忍師はこの法を崛起して嘉禎の蹤〈興正菩薩らによる戒律復興の昔〉を迫ったのである。その力を律宗がまさに滅びようとする時代に振るったのである。この行跡に及びえるものなど何があるであろうか。
嗚呼、明忍師はどうして困難であると思わなかったのであろうか。別受従他受の法を万里の遠きに求め欲したのである。また人の成し難いことは、対馬島に僑寓〈仮住まい〉して幾度の寒暑を経、風飡露宿ふうさんすいしゅく〈風餐露宿。野宿すること〉して文字通り百苦を経験したことである。自らの身命を軽くして法を重んじたその風儀は、真に難きを易くして弱き者を奮い立たせるものであった。(師の行業は)古の聖者・賢者のそれと比べて、何ら遜色ないものであろう。
惜しいことに(師の)福徳がその智慧には及ばず、世に生まれてから幾許にもならずして遷化したことである。しかしながら、(師が律を復興して平等心王院から輩出された、その)法孫は相継いで断えることがなく律道は日に行ぜられ、天下の人々は知ったのである、師の徳沢〈恵み・恩恵〉が及ぶのは、どこか(自身らを離れた)遠くではないことを。