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Dharmacakra
智慧之大海 ―去聖の為に絶学を継ぐ

雲路回想

母の死

東南アジアから日本に帰国した日のことであった。いつもであれば入国審査を終えて到着口を出るとおおよそ午前八時頃となる。しかし、その日はどういうわけか諸々の手続きも荷物の受取も滞りなく進み、七時過ぎには到着口を出ることが出来た。普段は電話でも手紙でも滅多に母に連絡することなどない。けれども、海外から帰国した時は母に電話で短くも空港に無事着いたことの一報を入れるのが常であった。私は少し早い時間だからと電話せず、明日にでもすれば良い、そう思って連絡しなかった。

けれども、その明日が来ることはなかった。

空港からはいつも帰国時に世話になっている寺に向かい、そのまま一日を過ごして夜を迎えた。床に入ってすぐまどろんでいると携帯電話に一件のメールが届いて、暗い一室を照らした。それは今まで連絡などしたことのない末の弟の嫁からのもので、そこには「ママさんが倒れた」とだけある。はて、ママさんとは一体誰のことであろう、といぶかしんだが、そのまま眠りについた。

翌朝、早暁の読経を終えて本堂から自室に戻ると、昨晩メールのあったことを思い出し、兎も角、弟のところで何かあったのであろうと彼女に電話をしてみる。すると彼女は電話に出た途端、間髪を入れずに言った。
「義兄さん大変。昨日の夜、ママさんが倒れた」
「ママさんとは?」
「お母さん、義兄さんのお母さん!」
「…え!?」
嗚呼、そうか、我が母のことであったか。瞬間、全身に恐ろしい衝撃が走った。心臓が一瞬止まったかのようになり、かと思えばたちまち鼓動を早める。母が倒れたのは昨晩。それとは知らぬ間、私は能天気に寺で過ごしていた。巷間、なにか凶報を聞いた時に、眼の前が暗くなるなどとよく言われる。けれども、私は暗くなると云うより世界がむしろ白けたように浮ついたものとなり、脈打つ心臓は何者かに握りつぶされているような感覚となった。しかし、まだ何があったのかわからない。
「どうして倒れたのかわかる?容態は?」
「脳卒中!間脳の脳溢血だって…。意識は無くって、集中治療室に入っています」
その言葉を聞いて、たちまち私自身の愚かさをひどく悔いた。そしてその悔いは私が死ぬまで抱えなければならない、多くの悔いの一つとなることを痛感して余りあるほどであった。もう意識ある母と会い、言葉を交わすことは出来ないであろう。一体どうして、私は昨日の朝に電話しなかったのか。実に詮無い問いであり、悔いである。けれどもそう思わずにいられなかった。弟の嫁に「今からすぐそちらに行く」といい、寺の住職に母が倒れたとの火急の報せがあったことを伝え、その元を辞した。

一昔前ならばその凶報を電報で知り、同じような気持ちを抱えて、人は飛び乗ったことであろう。

母は高知にある。飛行機はとれなかった。高知へはどう急いでも電車を乗り継いで六時間半はかかる。私はすでに急いだところで大した意味など無いことを思いつつ、しかしどうにもやまない焦燥感を抑えることも出来ず、ただ電車に揺られた。流れる日本の町並みを車窓に見ながら、異国の地にあった数年間の修行など空虚なものであったと己を深く恥じた。連絡など明日すれば良いとたかを括って済ました昨日の私はなんだ。いくら幾多の経典・論書を学び、長時間の修禅に打ち込んできたとて、今のこの自分のザマはどうだ。いい面の皮である。

間脳の脳溢血…。おそらくは人工呼吸器に繋がれ、強いて命を永らえさせているに過ぎない状態であろう。もはや母の死は避けられない、そう覚悟を決めていた。私はただその最期を見届けるためだけに向かっている。思えばその死に目に会うことが出来るだけでも幸いだ。それにしても何故、私は昨日、電話の一本でもかけなかったのか。心中、独りあれこれ考えながら、そんな虚しい自問自答を繰り返した。

「誰であれ死は避けられない。老少不定、それは突如としてやってくる。だからそれを憶念して備えなければならない」

私は東南アジアに発つ前、寺に来る参拝者や巡礼の先達として付き合わされた時、私よりずっと高齢の人々に向かって得得と話していた。また、東南アジアでも、その母親の死について「あの時、なぜああしなかったのか」、「医者があの時もう少し真剣に見ていれば死ななかったであろうのに」などと思い悩み、ともすると医者や看護師らを恨みすらしている女性信者の姉妹に対し、多くの場合、死は突然やってくるもので、その後悔と恨みとが無益なことを滔々と説いていた。その自分が、帰国したその日の夜に母が倒れ、その迫りくる死に驚きあわて、平静でいられなくなっている。私は何も知らなかった。一つとしてわかっていなかった。ただ自らわかったつもりで、知ったふうなことを人に言っていたに過ぎない。慙愧の念に堪えない、とはまさにこのことである。

幾つか電車を乗り継ぎ、母のある病院に着いたのは、もう夕方近くのことであった。まず弟とその嫁に会い、母が倒れた状況などを聞いた。弟が母の営む店に夜なにか用事で立ち寄り、床に倒れひどく痙攣しているのを発見したのは本当に偶然のことであったという。すぐ駆けつけた救急隊員がその瞳孔を確認したときピンホール、すなわち極度に瞳孔が収縮した状態であって、隊員の顔がすぐに曇ったのを弟は認めたという。もし弟が夜、店に寄っていなければ、必ず朝には床で冷たくなっていたに違いない。そんな母を発見したときの弟の気持ちを察すると胸が傷んだ。また心に深く弟に謝したがそれを言葉にはしなかった。

その病院は昔父が勤めていた病院で、母がその元妻であることはもちろん知られていた。集中治療室にある母は、やはり人工呼吸器など多くの医療機器の力によって生かされているに過ぎない状態であった。無論、意識など無く、その顔も健全であったときの面影など無い。もはや母と最後の言葉を交わすことも出来ない。病床にある母と対面してその現実を目の当たりにした時、報せを聞いた際の焦燥感はもう無かった。ただ、なんとも言い難い感情が胸に去来するだけである。

末弟は母が危篤であることの報せをすでに諸方面に伝えており、あとは姉弟らが来るのを待つばかりであった。程なくして姉を除いた次男や妹の皆が揃うと、担当医から一室に呼ばれた。そこで担当医はMRI画像を示しながら、もはや回復の見込みのない深刻な容態であることを、気を使ってのことであろうが、ずいぶん迂遠な表現でもって説明した。母は生前から人工呼吸器や胃瘻いろう等による強制的な延命は絶対にするべきでない、と言っており、また姉弟にも医療従事者が多いことから、最初からその選択肢は無かった。それを医師に伝えると、その翌日に装置を外すことが決まった。

こういう時はむしろ事務的に今後どのように事を進めるべきかを話し合わなければならない。手短にそれを皆で話し合い、その日は帰ることとなった。集中治療室にいつまでもいるわけにはいかない。妹は集中治療室に横たわる母の手と足を擦りながら、「また明日来るからね、お母さん」と言ってホテルに戻った。私は弟夫婦の家に泊まることとなった。母の飼っている犬と弟の飼っている犬は久しぶりの客人を迎えて嬉しそうにはしゃぎ回っていた。

翌朝、父が東京から母の最期を見届けるためにやってきた。妹らがしつこく連絡したらしいけれども、ついに姉は来なかった。父は意識無く病床に横たわる母の姿を見て少し涙を見せた後、突然、
「こういう状態ならばもう完全に意識も無いし、話しかけても聞いてない。ほら、採尿バッグにコーヒーというかチョコレート状の血が混じってるだろ?これは脳溢血の時に見られる典型的な…」
と自身が少し動転したのを隠すためであろう、不自然になにやら解説し始めた。我々は父と母とが病室で二人だけとなる時間を作った。それから再び皆で母を囲んで見守る中、担当医が人工呼吸器を外した。程なくしてその心臓は止まり、母は死んだ。私は母の死を極めて静かに迎えさせたかった。私は家族の前で泣くこと、一つの涙も流すことも見せるまいとした。しかし、他の者にそんな静止をする間もなく、弟や妹たちは声を挙げて泣いた。

臨終の告知を聞くと、私は静かに病室から少し離れた誰もいないトイレの個室にこもった。そして声を押し殺して泣いた。大の大人であるはずなのに、どうしようもないほどに涙がポロポロポロポロ溢れ続けた。胸に穴があく。そんな表現をよく耳にしたことはあったが、まさしく胸にポッカリと空虚で大きな、そして暗い穴があいた。 そうか。胸に穴があくとは本当のことであったか。そして、母の死というものが、これほどまでに苦しいものであるとは思いもよらなかった。救いがたい愚か者である。

そうして泣いていたのがどれほどの時間であったかわからない。まったくバカバカしいことであるが、誰も私のことなど気にしている筈もないのに、泣いていたことを誰にも悟られぬまいと顔を洗い、皆のところに戻った。 そして家族皆で、伝えるべき人に母の亡くなったことの連絡をつけた。そうこうするうち、妹などからの度重なる報せに何の返事もしなかったという姉が、何やら怒ったような顔をしてようやくやってきた。そして病室にある母の遺骸を見るなりワーワー泣き叫んだ。

それから遺体の搬送先など葬儀の算段など淡々と事務的に行わなければならなかった。喪主は私が務めることとなる。こうなると母の死を皆で悲しみ、落ち込んで悲嘆に暮れてなどいられない。

母は生前、店のすぐ近くにある小さな葬儀会社の社長と客として付き合いがあった。そこで、その葬儀屋に頼むこととなり、末の弟と共に向かった。南方に行く前、すでに日本仏教の僧侶を長くしているうちに葬儀の導師や助法はしたことがあっても、喪主となることはそれが初めてである。そこで話には聞いていた日本の葬儀における諸々の不合理を、自ら思い知ることとなった。

祭壇の使用料が最低十万円から百数十万円、遺体を入れてもすぐ燃やして灰になる棺桶もまた最低十万円から百数十万円で、その他諸々葬儀に用いる物品の程度、すなわち値段の選別をしなければならない。葬儀屋の商品が並んだいくつかのパンフレットを見せられながら、まず棺桶についてどれにするかと聞かれた。そこでそれは最も安いので充分であると言った。
「では祭壇はどうしますか」
と葬儀屋の社長は聞いてくる。私はいつも組み立て式の使いまわし祭壇が、何故にあれほど高額なのかとの憤懣を嫌というほど人から聞き、私自身も葬儀などで眼にするそれをおかしいと思っていたものであるから、
「それも一番安いので良い」
と一応ひと通り見終わった後に答えた。最も安いのは、わざとそういうふうに作らせているのではないかと思えるほど、確かにいかにもみすぼらしい、何の飾りもないごく小さなものである。すると、そのパンフレットに眼を落としながらアレコレ説明していた社長は顔を一瞬上げ、上目遣いに私のことをひどく軽蔑して呆れたような顔つきで見てきたことを見逃さなかった。その眼は「坊主のくせに母親の葬儀でマトモな祭壇もつかわないとは何事であるか」と言わんばかりのものであった。しかし、私は気にせず遺影もこちらで引き伸ばしたのを用意すること、無駄な飾り、彼らの勧める「オプション」の類は一切無用とした。

それでも結局、彼らの出してくる見積もり計算書なるものをみると相当な金額となっている。なるほど、これにまた戒名料だの導師料だの、大した付き合いもなく、信頼も信仰もしていない坊さんを呼んで、さらに結構な金額を理由もわからず払わなければならないとなれば、今の人が寺にも葬儀屋にも不満を感じ、葬式無用と言い、直送で良いと言い出すのも無理からぬ話であろう。

それで世には「戒名は自分でつける」などと言う者がある。しかしそれも誠に愚かな話だ。そういうものに反対するならば、戒名などというもの自体を無要とし、堂々と俗名でもって葬儀に望み、墓にその名を刻みつければ良い。耶蘇教はそれでやっている。明らかに自分でつけたであろう、奇怪な文字の並んだ「戒名なるもの」で法事をしろ、と言ってきた老人を幾人か知っている。命名にはそれを付けた者の教養が出る。漢文どころか日本語すら怪しく、なんら古典の素養も有しない者が付けた「戒名なるもの」は、世間でいうところのキラキラネームに同じ失笑せざるを得ないものであった。人に死んでなお恥を晒すばかりの名を施すとは、まったく罪作りなことである。

そもそも、死んで物言わぬ者に葬式の場で戒を与えたことにし、もはや何もすることも出来ぬ戒名あるいは法名なるものを付しても、仏教としての意味など全く無い。もしどうしても欲しいというのであれば、死後の名前としてで無く、自ら戒を受けた証として生前に受けたら良い。母には生前、私が与えた名があった。しかし、親族の葬式の導師を私がやるわけにはいかない。そこで高校時代の先輩で寺の住職があったから、彼に連絡してその導師を頼んだところ、快く引き受けてくれた。そこで通夜と葬式の日取りも決まった。

そうこうするうち、葬儀屋の二階にある通夜室に病院から母の遺骸が移された。私は母の店で弟がもつアルバムからその遺影を選び、また母の戒名を書くなど葬儀の準備をした。そこで妹たちは母に化粧を施すなどと通夜室に行って帰ってこなかった。皆がいなくなった母の店で、私は何回も悲しみの波を押し留めることが出来ず、やはりトイレにこもって独り泣いた。誰かが突然来たとしても、泣いている姿を決して見られまいとする愚かな意地のためであった。

私は結局、病院から移された母の遺骸のある葬儀屋に行くことは通夜の日まで行くことは無かった。記憶が定かでないけれども、母の通夜はその死から三日目のことだったと思う。何故母に会いに通夜室に来ないんだ、どうして母に会いに来ないんだ、と姉弟たちが云うのに対し、私は色々やることがあるから、と決して行かなった。私にとってそこにあるのは母であって母でなく、母のむくろでしかない。骸を見ることは母と会うことではない、と考えていた。しかし、今にして思えば、それは私が母の死に向き合うことが出来なかったことも大きい。私は臆病者であった。

実は母の死んだ日から私の身体は変調をきたしていた。どうにも鈍い頭痛がして熱っぽく、身体が重く痛んだ。最初は37度4分ほどであった熱が次第にあがっていき、ついに38度5分を超えた。姉は母の死によるヒステリー症状だと意地の悪い顔をしながら言い捨てた。そうではない。その辛さから、どうやらインフルエンザに かかったように私は思った。通夜には喪主としてどうしても出なければならない。そこで私が借りて住んでいた小さな家で寝込み、なんとか身体を休ませて通夜に備えることにした。

母は弟が結婚してから、そこに小さな犬と一緒に独りで暮らしていた。母の家は、当たり前であるがつい先日まで暮らしていた生活の跡が生々しく、いや、凍りついたように残っている。私はその母の一室に入った時、またどうにも仕様のない寂しさに襲われた。母の生活した様子を留めたそこにあるすべての品々を眼にすることが辛かった。その部屋に留まった生活感が、私をどうしようもなく苦しめ、恐ろしく悲しくさせた。ああ、そうか…、寂しさというものはこういうものか。これほど苦しいことであったか。この歳となって今更ながらそれを知るとは。

私は今まで「寂しい」という気持ちを味わったことが無かった。何か格好をつけてそのようにいうのではない。本当に「寂しい」ということがどういうことかわからなかった。自分の好きなように奔放に、自分勝手に私は生きてきた。日本のどこか、あるいは遠く海外でたった独りであっても寂しいとも誰かに会いたいとも思ったことは無かった。母に便りを出すことも電話をして近況を知らせることなどまずなく、南方の僧院にある時、母に初めて手紙を書いたがそれも四、五度ばかりである。そんな私を母はどれほど心配していたであろうか。孝行などした憶えは無い。むしろ親不孝の連続であった。

私は熱のせいで殊更に寒気を感じて震え、またひどい頭痛で寝ることも出来なかった。解熱鎮痛剤をいくら飲んでもまったく効かない。ますます熱はあがるばかりで、もはや39度にも達しようとしていた。これはまずいことになった。これではとても通夜で喪主を務められない。流石に医者に行くべきであろう。

母のあったその部屋の、母が起居していたその布団の上に横たわり、部屋の天井をボウっと見ながら私は無益に過去を悔い、また肩を震わせ独り泣いた。声を出して泣いた。寂しい、また、もう一度でも会えたら良いのに。けれども、もういくら会いたくとも決して二度と会うことなど出来はしない。私はいろんなものに甘えていたのだ。そしてやはり、何もわかってなどいなかった。母の死により、私は私というものをまた少し知った。恥がましいことである。

まだ肌寒い、三月半ばのことであった。

想うことども

  • 母の死
  • 万死の床に臥して
  • 癌に罹った耶蘇教の叔母
  • 癌で死んだ叔父
  • 癌に倒れた父
  • 日本仏教における葬儀について
  • 仏教的葬儀のススメ

雲路回想