ポーランドの友人が彼の地では比丘を続けることがどうしても出来ず、還俗するからその前に来ないか、というので彼の地を訪れたのが2011年。旧社会主義国を訪れるのは初めてのことだった。観光地として保存されている旧市街地の美しさに対比して、日本とも東南アジアとも、アメリカや西欧とも全然異なる、暗くすすけて鬱屈とした新市街地の町並み、その町や人の雰囲気には、新鮮な驚きの連続でむしろ楽しいものであった。
なんとなくどんより暗く、いわゆるブルータリズムに溢れた市街地。街中や広々とした郊外に突如として現れる闇雲に大きく、グロテスクな建造物。まさに東西冷戦時に思い描いていた社会主義の街、それがしかし自由主義の国となって二十年以上を経てなおその面影を色濃く遺して眼前にあり、その地の空気に自ら触れるというのは、私のような異邦人にとっては愉快な経験である。
ポーランドにつくとすぐ彼が出たワルシャワ大学を案内してくれた。ワルシャワ大学といえばポーランドで一、二を争う名門だという。私のような愚昧と異なり、友人は俊才である。大学構内をアレコレ一通り見せてもらった後、またコペルニクスやショパンの故地に連れられた。偉大な人に 縁の地を巡り、その昔と徳とを想うのは実に楽しい。それから、これはきっとワルシャワではお決まりのことなのであろう、ポーランドにおけるスターリン様式の代表的建築物、文化科学宮殿を披露してくれた。ポーランドの高層ビルと言えばそれ一つだけなのであるという。その帰途、ロシア製の戦闘機Su-27がその美しい羽で空を切り裂いていくのを見た。
ポーランドは非常に熱心なキリスト教国で、さすがかのヨハネ・パウロ二世の出身地。その大多数がローマン・カソリックの信者である。しかしそれが故に、むしろカソリックに基づく極めて保守的な価値観や社会制度への反発が現代の若い世代に強くあるらしく、その友人のように仏教を信仰する者が次第に増え、特に自らその真実であることを確かめることが出来る瞑想に興味を持っているのだという。
どうやら西洋で七十年代頃から行われ初め、二十一世紀となって世界的にもよく流行した「マインドフルネス」、特にそれで欧米で著名となったゴエンカのリトリート(瞑想会)に参加したのをきっかけとして仏教に興味を持った者も多いと聞く。そりゃそうであろう。マインドフルネスとは仏教の修習を元とし、しかし仏教であることを隠し、あるいは外的には仏教であることを排除して言い出されたものであるのだから。
実際、ポーランドにおいて仏教を信仰する、あるいは興味を持つ人たちと会って話をする機会があった。キリスト教的価値観への強い反発・反動をその背景としている人は、仏教においてもあらゆる教会的・儀礼的なものを夾雑物であると徹底して排除しようとし、仏教は純粋で高尚な哲学であると捉えている傾向にある。そうかと思えば、特にチベット密教の背後に控える高度な論理学に裏打ちされた教義よりも、むしろ荒々しく、また美しい儀礼とその神秘性に憧れ、それを強く信じる人もある。また、どういうわけか日本の浄土真宗とつながりがあって、本願寺に招待されたことのある人もあった。とはいえ、それもポーランド全体からみれば極少数のことで、大方五十から四十代以下の比較的若い年齢層に限られている。
道を歩いていると、私が東洋人だからであろう、ポーランドの友人でなく、私がしばしば「道」を聞かれる。そうかと思えば、ソルトレークから派遣されたモルモンの若いヘルメットを被った自転車二人組にも声を掛けられる。彼らはポーランドではほとんど眼にすることのない仏教僧を見て好奇心から声を掛けてきたのだ。そして仏教とは何かを聞いてきた。私がどう言おうか躊躇していると、たちまち友人はいわゆる「七仏通戒偈」を英語で立て板に水のごとくスラスラと口にする。
Commit no evil, do all the good acts, and purify one's own mind. This is the teaching of Buddhas.
諸々の悪を為すことなく、種々の善を作し、自らの心を清める。これが諸々の仏陀の教えである。
これは仏教とは何かを端的に顕す言葉として、往古からサンスクリットやパーリ語、そして漢語などで伝えられてきた偈文であり、その英訳である。聞けば友はこういうときの為にアレコレ偈文を英語で暗誦しているのだという。愚鈍な私は咄嗟の時に仏教を説明する定型句的言葉を英語で用意していなかった。なんでも準備はしておくものだ。
この答えを聞いたヘルメットの二人組は、そうか、そういうもんかと納得した様子であった。が、白居易がこの偈を聞いたときの話とは違うけれども、この言葉だけでわかる筈もなかろう。一人はテキサスから、もう独りはアイダホから来ているのだという。彼らのミッション(伝道)が上手くいくとはとても思われない土地柄であるが、成功していると言った。
また、どう判断したのか知らないけれども私を日本人だと見定め、ポーランドに居住する内気な日本人女性があって打ち解けたいからその方法を教えてくれ、と道端で突然話しかけてねだってきた男があった。さすがにそんなことを僧侶に聞くのは失礼である、と友人がポーランド語でたしなめたらしい。けれども結局、私は一般論としての日本女性の態度を彼に話さなければならないことになった。それは彼の役に立つものでは決してなかったであろう。
ポーランドにおけるキリスト教の中心地とでも云うべきチェンストホバに連れ立って訪れ、その最も高名なヤスナ・グラ修道院を見学しようとした時、友人はそこに入るのをずいぶん嫌がっていた。ここはポーランドでも保守的カトリックの本山のようなもので、我々のような「異形 の異教徒」を受け入れないのではないか、というのだ。私は当地の事情を知らないものだから平気なものである。結局二人して修道院に入っていった。すると、これはあちこちに教会や修道院が立ち並ぶその街を歩いていたときから感じていたことであったけれども、その修道院でも神父と修道女(シスター)とで我々を目にしたときの反応がまるで違うことは実に面白いことであった。
大抵の神父は我々の存在に気づいても見て見ぬふりをして目を決して合わさない。ところが修道女の多くは我々を凝視、むしろ見らめつけてくる。友人の彼は冗談めかし、彼女たちの眼は「我が神聖なるこの地に、何故おまえらのようなペイガン(異教徒)どもが侵入しているのか」と語っているのだ、という。その真偽は兎も角、それが好意的な眼差しでないことは確かであった。しかしヤスナ・グラ修道院の正門を出ようとした時、我々の姿がすこぶる珍しいからに違いないが、その参拝者の多くから一緒に教会を背にして写真を取ってくれと列をなされ、しばらく帰ることが出来なかった。
そんなことがあったのを友人の知人や家族らに話すと「そりゃそうだ。修道女というのはそういうもんだ」という。伝統的キリスト教圏では修道女に対する否定的見方が多いように思う。映画『サウンド・オブ・ミュージック』で描かれる修道女達は非現実的で、むしろ『ブルース・ブラザーズ』に出てくる修道女が現実的らしい。参拝者から随分写真を撮られて閉口したことについても、「まぁ、私でも教会で仏教僧を見たら多分撮るね」というから仕方ない。
それからも彼の家族と共にワルシャワを離れ、ポーランド各地の有名な地をあますことなく見せてくれたのにはもはや恐縮するばかりで、しかし望外の喜びであった。南部の美しい古都、クラクフに滞在していた時、友人は還俗する前に東欧を共に旅しよう、ということになった。いや、ワルシャワを発つ前からそういう算段であったのかもしれないが、もう忘れてしまった。
彼の家族らと別れて西に向かい、アウシュヴィッツ・ビルケナウ博物館を訪れた。中学生の頃読んだヴィクトール・フランクルの『夜と霧』に克明に描かれた場所、この世の地獄がまさに現出した地が保存され、その昔の地獄を人々に想起させていた。やはり本を読み、写真を見るだけと、現場を訪れるのでは違う。ただし、ビルケナウ博物館がそうであるように、世界各地で悲劇の保存と展示が行われているが、当時の緊張感や匂い、音は無く、同じようでもまるで異なったものであろう。そういうものを私は見て、しかしそれでもその保存された静かな恐怖の断片、染み付いた叫びに心がひどく沈んだ。
当地を訪れる人の反応はまちまちで、薄ら笑いを浮かべてむしろ楽しみつつ徘徊する者、展示の一々を見て怒りに身を震わせている者、茫然自失としている者など多様であった。
実に暗い気持ちになった我々は、それから南下し国境を超えた。そしてあちこち東欧諸国を当て所もなく経巡った。東欧において仏教僧を街で目にすることはまずない。しかも白人と東洋人の二人で袈裟色(赤褐色)の衣に身を包んだ者ならなおさらである。どこでもひどく目立ち、好奇の目に晒された。しかし、仏教とは何かなど知らなくともダライ・ラマ14世の知名度と好感度は非常に高いらしく、我々はチベット僧ではないけれども、各地の人々は好意的に受け入れてくれた。
時には、おそらく東南アジアをよく知る人なのであろう、見知らぬ人から立ち寄った街で食事の供養を受けることもあった。
そんな中、ちょうどコソボを抜けてモンテネグロのアドリア海沿岸部にあるブドヴァという小さな街に滞在していた時、ふいに印度旅行を共にしたスペインの友人から連絡があった。
彼とは印度で出逢って意気投合し、各地を共に旅することになって以来の友人で、帰国後はGamesaというスペインの風力発電大手に技術者として入社し、その後すぐギリシャに派遣されて数年間彼の地にあった。当時、私はギリシャにあることを知らずに欧州各国を独り旅していたが、やはり同じように突然連絡があって今ギリシャにいるから来いと誘われた。私は彼との再開を喜び、彼のところで数週間世話になって、休日のたびにギリシャ各地を旅した。
そんな彼はなんでもエジプトで仕事をしており、今そちらはどこでどうしている?と、前回同様、ただ何と無しに聞いてよこしたのだ。そこで私は今東欧を旅していてモンテネグロにいる、と返したところ、なんだそんな近くにいるなら是非会いたい、という。こちらはポーランドの友人と旅をしているものだから、距離としてはそれほど遠くはなくとも、そんなすぐ行くわけにはいかない、と答えた。すると、そんなのはかまわない、しかしせっかく東欧にいるならポーランドから東南アジアに帰る前に必ず来い、ということであった。結局、ならば行く、と返事したのである。モンテネグロは極小さい国であるけれども、アドリア海のどこまでも深い群青色のように静かで落ち着いた、本当に美しい国であった。
それから結局、当初はアルバニアとマケドニアにも行くつもりであったけれども、不潔で剣呑な国であるからいかぬ方がよい、との忠告が周囲からあったためこれを諦めた。そこで仕方なく、ずいぶん時間を掛けて美しいアドリア海沿岸の諸国を北上し、オーストリアとチェコを抜けてポーランドに再び帰ってきた。そしてついに友人は還俗したのである。
仏教僧となるための得度式は様々な手順を規定通りに行わなければならない。ましてや比丘となるための受具足戒ともなると、小一時間を要する。けれども還俗は式というにも及ばない、ごく簡単なものである。「三宝を捨てる」「比丘性を捨てて俗に帰る」などと、その語の意を解する別の出家者に対して言い、袈裟衣を脱ぐのみだ。彼は「三宝を捨てる」ということはついに出来ず、けれども「比丘性を捨てて、在俗者となる」と言った。彼の身体から袈裟衣を取り去るのは私の役目であった。
旅の途中、彼がどうして還俗することを決意することに至ったか、家族のこと、国の習俗・文化のこと、そして人生についてなど、ビルマやスリランカにいる時は聞かされなかったことを随分話してくれた。彼がビルマで出家しようと決意したその意志は、当然ながら非常に確固たるものであったに違いない。こうしてポーランドにきてみてわかったことであるが、それは彼にとってカトリックの伝統を根強く保持する社会や家族関係など、諸々の因習から逃れる術でもあったろう。
東南アジアには一時出家の習慣があって半ば男子の義務、当然のこととして行われている。けれども、その文化や信仰、習俗を共有しない日本人や西洋人など異邦の者には、少しばかり体験したい、どれ一つ出家の世界を垣間見てみるか、などといった調子で面白半分に出家するのが沢山ある。実際、私もそういう類を多く見てきた。その手合は短ければ一週間、長くとも2、3年で還俗し、故国に帰って自慢げにその体験をしたり顔で周囲に吹聴するばかり。あまつさえその底の浅い体験を出版しようとするのが常である。
けれども、話を聞く分には彼が出家した動機や意志はそのような軽薄なものでなかった。それだけに還俗を決意するに至るまでの想い、悩みは深く、辛いものであったろう。しかし、これは西洋の仏教徒によく見られることであるけれども、仏教の僧伽というものをあたかもユートピアの如きものとして憧れ、仏典にある通りの世界が今もその通りに行われている、あるいは南アジアや東南アジアならばそのままに実現出来るものと信じていた節が彼にもあった。私はそれ以上、深くあれこれ聞くことはしなかった。
彼は俗服に着替ると、「こうして還俗した以上はFilthy capitalist(汚らわしい資本主義者)になるのだ」と言った。やはり還俗するのは彼にとって不本意で悔しいことであったに違いない。
幾日か休んだ後、三週間ほどでポーランドに戻ってくることを伝えてエジプトに向かった。