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Dharmacakra
智慧之大海 ―去聖の為に絶学を継ぐ

戒山『慧雲海律師伝』

訓読

湖東安養寺後学釋慧堅えけん

律師のいみなは寥海、あざなは慧雲。泉州の人なり。本法華宗ほっけしゅうの徒に係る。幼より脱白して智解嶄然たり。尤も止觀しかんに精し。人皆な觀行卽の慧雲と稱す。師、常に世の贋浮屠にせふとの佛法にかり貴富きふむさぼる者を視て、此の輩と頡頏きっこうするを願はず。輒ち跡を丹波の山中に遯し蕨を採て饑に充て、蒲を編で業と爲し淸淨自活しょうじょうじかつして積で年有り。

一日偶ま古蹟を訪れて錫を和陽に飛し、明忍律師に三輪山みわやまの下にて邂逅す。ひとつかさを傾けるあいだ、恍すること夙契の若し。素志に潭し及んで鍼芥相投しんかいそうとうす。遂に偕に西大寺さいだいじに入て律學を稟く。

慶長七年、高山寺こうざんじに入て自誓受具じせいじゅぐす。九年、南都の安養あんにょう龍德りゅうとく戒藏かいぞうの諸院に於て忍師と行事鈔ぎょうじしょうを輪講す。佛涅槃の前四日より肇て臘月二十日に至て講已徹す。忍師にんし入唐求法にっとうぐほうせられるに及で、師槇峰まきみねに住して徒侶を攝受す。淸規しんぎ凛然たり。以故四方の學士は皆な、師に依て傅戒でんかい受學じゅがくす。終南しゅうなんの風敎、是に於て大揚たり。

十六年、疾を高雄山たかおさんに示す。臨行、佛號を連稱れんしょうし、恰然こうねんとしてす。壽、未だ詳からず。

現代語訳

湖東安養寺後学釋慧堅 撰

律師の諱は寥海、字は慧雲。泉州〈和泉国〉の人である。元は法華宗〈日蓮宗〉の徒であった。幼少から脱白〈出家〉しており、その智慧と理解力とが抜きん出て優れていた。最も止観〈灌頂や湛然などの天台教学〉に通じていたことから、人々は皆、「観行即の慧雲〈観行といえば慧雲である〉」と称賛していた。師は、常に世の贋浮屠にせふと〈無戒・破戒の相似僧、似非僧〉が仏法を商いの道具として貴富を貪る様を見て、そのような輩らと頡頏きっこう〈拮抗。状態・勢力の等しい様〉することを良しとしなかった。そこで跡を丹波の山中にくらまし、蕨を採って餓えを凌ぎ、蒲を編んで収入を得つつ、(仏法を生業にすることなく、むしろ在家の隠者の如き生活を送って)清浄に自活して年月を重ねていた。

ある日、たまたま古蹟を訪れようと和陽〈大和国。奈良〉を巡方している時、明忍律師に三輪山の麓にて邂逅した。たまたま初めて出会って言葉を交わした時、知己の親友であったかのように感ぜられたのは、あたかも宿世の因縁に由るかのようであった。そして(仏法についての)それぞれの日頃からの思いに話が及ぶと、たちまち鍼芥相投〈磁石が惹かれ合うように意気投合すること〉した。そこで共に西大寺に入って律学を受けたのである。

慶長七年〈1602〉、高山寺に入って自誓受具した。同九年〈1604〉、南都の安養・龍徳・戒蔵など諸寺院にて、明忍師と道宣『行事鈔ぎょうじしょう』の輪講を開始。仏涅槃〈二月十五日〉の前四日より初めて臘月〈十二月〉二十日に閉講した。(同十一年〈1611〉)明忍師が入唐求法せんとし(対馬に渡っ)た際、慧雲師は槇尾山に住して(新たに律を受法する)徒侶を攝受することとなった。その(槇尾山における)清規〈寺院独自の規則。戒律とは異なる〉は凛然〈厳しい様〉たるものであった。そのようなことから、四方から(持律の比丘たらんとして槇尾山に)参集してきた学士は皆、慧雲師に依って伝戒受学したのである。(唐代の南山律宗祖道宣が住した)終南山の風儀〈古の南山律宗の持律峻厳なる風儀〉は、この槇尾山にて大いに顕揚された。

同十六年〈1611〉、高雄山にて病の兆候が現れた。その臨終にては、仏陀の名号を連称され、恰然として遷化せられた。(法臘は九年であったが、)その世壽については未だ明らかでない。