湖東安養寺後学釋慧堅撰
律師の名は良永、字は賢俊。姓は添氏、對州刺史の子なり。玅年、高野山において僧と爲る。挺然として英氣有り。長ずるに及で中性院に居す。密乘の旨趣を窮めて、雅に毘尼の道を志す。偶ま事あるを以て對州に歸る。時に明忍律師、支那に入んと欲して、其の地に駐錫す。師乃ち謁し、啓して之に曰く。某聞く、法門三學は戒を以て首と爲す。戒を能くして然る後に定を能くし、定を能くして然る後に慧を能くす。苟も戒根固かざれば、定慧何よりして生ぜんや。三學既に廢すれば、生死に抵敵すること能はずと。願くは律師、我に戒法を授けたまへと。忍曰く、汝の志、固より嘉すべし。京の槇尾山、是れ予が興律の場なり。汝、當に彼に到て所願を遂くべしと。師、誨へを聞て往き、慧雲・友尊二師に謁す。二師、其の誡懇ろなることを嘉し、遂に命じて名を寺に隸す。慶長十五年、雲師に從て沙彌戒を稟く。明年三月、自誓受具し、毘尼を諮學して、文理通達す。後に故有て高野山に隠る。道を以て自適し、世と相忘る。
山口修理公といふ者有り、東南院に寓す。師を一見するに平生驩の如し。爲に一寺を創るに請ふて地を擇ばしむ。師、山内の極めて幽邃處を擬す。東大寺重源法師、是れ其の隠るる處なり。乃ち其の地に就て榮建し、久しからずして成る。公、師を以て開山と爲す。師、其の山を名て靈嶽と曰ひ、寺を圓通と曰ふ。衆を安じて道を講じ、蔚して律社と成る。卽ち新別處是れなり。黒白侁侁として以て教戒を承け、聲譽益す著し。師常に曰く、方土淨なりと雖も吾が所願に非ず。常に娑婆五濁惡世に生じて、大導師と作り、一切群生倶に聖域に登らしめん。如し不幸にして三途に遂入する者有らば、我れ願くは彼に代て苦を受けんと。故に生平、汲汲として濟人利物を己が任と爲し、飢者に値へば輒ち食を以て與へ、病者に遇へば輒ち藥を以て施す。一日、癩者有て至る。師に白して曰く、我夙業を以ての故に此の病に罹り、人の爲に厭惡せらる。知らず、何を以て免ることを得るかを。師曰く、汝、三寳に歸し、夙殃を脱せんことを庶幾せよ。我、當に三歸を授くべしと。乃ち命じて席に上らせしむ。癩者辭して肯上せず。師曰く、>沙門は等慈を以て本と爲す。吾、豈に淨穢を以て其の心を二つするや。遂に授け畢る。癩者、感泣して去る。又、盗有て師の亡に闞で室に入り、衣物を竊して出る。師、諸に塗に遇ふに、盗、捨て亡げる。師曰く、汝の持ち去るに一任す。我、嗇しからずと。遂に咸以て之に與ふ。
嘗て修法の時、神童身を現じて授るに祕法を以てすることを感ず。又、一夜の夢に、神僧謂て曰く、他後必ず安養に生ぜんと。師曰く、一切衆生と同生なりやと。曰く否なりと。師曰く、然れば則ち吾れ欲せずと。曰く、是の如き心を以ての故に生ずることを得べきのみと。偶ま外出するに、牧童有り。師を推して泥淖に入らしむ。師、怒る所無く、但だ衣を湔て乾くを待つのみ。里人、其の事を目擊して、感嘆して以て爲す、眞沙門那なりと。乃ち延て家に入れ供養す。某年間、河の磯長山睿福寺に至る。佛塔の毀壞するを見て、之の爲に修治す。庶民、子來の助けを效し、日ならずして告成す。蓋し其の戒德高玅なるを以て、坐して巧業を就くこと此の如し。正保四年、乃ち茲に終る。壽六十有三、臘三十又六。門人、遺軀を奉て、圓通に窆る。嗣法の弟子に眞政忍等若干人あり。而して黒白の男女の歸戒を受くる者は數記を以てすること難し。
湖東安養寺後学釋慧堅 撰
律師の名は良永、字は賢俊、本姓は添氏〈宗氏〉。対州刺史〈守護代〉の子である。うら若い頃、高野山において僧となる。他に抜きん出た才能があった。成長してからは(金剛峯寺の子院の一つ)中性院にて居住した。密乗の趣旨を窮め、常に毘尼〈vinaya. 律〉の道を志していた。偶々、ある事情で対州に帰っていた時、明忍律師が支那に渡ろうとしてその地に駐錫されていた。そこで師は(明忍に)謁し、
「私は『法門三学は戒をその首とする。戒を能くして後に定を能くし、定を能くして後に慧を能くする。もし戒という根が堅固でなければ定・慧は何から生じ得るであろうか。三学を廃してしまったならば、生死流転という敵に抗うことなど出来ない』と聞いております。どうか律師、私に戒法を授けてくださいますように」
と申し上げた。すると明忍が言われるには、
「あなたの志は、いうまでもなく称えられるべきものである。京の槇尾山は私が興律した地である。あなたは彼の地に往て、その所願を遂ぐのがよいであろう」
とのことであった。そこで師はその誨えを聞いて(槇尾山に)往き、慧雲・友尊の二師に謁した。二師は、師の決意の非常なることを称え、ついに師を寺に受け入れた。慶長十五年〈1610〉、慧雲師に従って沙彌戒を受ける。明年〈1611〉三月、自誓受具。毘尼を熱心に学んで、その文理に通達する。しかし後、ある事情から(槇尾山を離れ)高野山に隠れることとなる。とはいえ、(高野山においても律を捨てることなく)仏道に従いつつも自適し、俗世から離れた生活を送った。
山口修理
公〈山口重政〉という者があって東南院に寓居していた。師を一見するに常日頃から親しく交わっていたかのような親しみを覚えた。そこで(師の為に)一寺を創建することを思い立ち、その地を択ぶよう請うた。師は高野山内の極めて幽邃なる処とした。そこは東大寺の重源法師が隠れた処であった。そこでその地に建立する運びとなり、久しからずして完成した。山口公は師をもって開山とした。師はその山を霊嶽と名づけ、寺を圓通とした。そして衆徒を安じて道を講演するようになり、隆盛してついに律学の拠点となった。それが新別処である。黒白〈僧俗〉は先を争ってその教戒を受け、その名声は日々高まっていった。師は常々、「方土〈報土〉は浄いものであるとはいえ(そこに往生することは)私の所願ではない。常に娑婆・五濁悪世に転生してその大導師となり、全ての生けるものら皆を聖域に導きたいと思う。もし、不幸にして三途に墜ち入る者があったならば、私は出来ることならその者に代ってその苦しみを受けたい」と言われていた。そのようなことから日頃、何はさておき人々を済人利物を己が任とし、飢えた者に会ったならば食事を与え、病気の者に遇ったならば医薬を施した。ある日、癩病の者が訪ねてき、師に
「私は夙業の故にこの病に罹り、人から嫌悪されています。一体どうしたらこの(宿業による忌まわしき苦しみから)免れることが出来るのかわかりません」
と申し上げた。そこで師は、
「あなたは三宝に帰依し、夙殃から脱することを庶幾しなさい。私が今から三帰依を授けよう」
と答えた。そこで彼に命じて席に上らせようとすると、癩病の者は固辞して上がらなかった。すると師は、
「沙門とは等慈をもって本分とするものだ。その私がどうして(人の)浄・穢を分かって、その心に違背することがあろうか」
と言われ、遂に(三帰依を)授けた。癩病の者は感動にむせび泣き、去っていった。またある日、盗人が師が留守の隙にその部屋に侵入し、衣物を盗んで出た。師がそこに偶々出くわすと、盗人は(盗んだ物を)捨てて逃げようとした。すると師は、
「あなたは(その捨てた衣物を)持って去るのが良いであろう。私には何も惜しいことはない」
と言われ、遂にそれらすべてを彼に与えてしまった。
かつて修法している時、神童がその身を現して(師に)祕法を授けるということがあった。また、ある夜の夢に神僧が現れ、
「来世は必ず安養〈極楽浄土〉に生ずるであろう」
と言った。そこで師は
「一切衆生と共に(安養に)生まれるのでしょうか」
と聞くと、
「否なり」
との答えであった。すると師が
「それならば私は(安養に生まれ変わることを)欲しはしません」
と言うと、
「そのような心持ちであるからこそ、(安養に)生まれ変わることが出来るのだ」
との答えであった。たまたま外出していた際、ある牧童が師をぬかるみに押し倒すということがあった。しかし師は、まるで怒ることなどなく、ただ衣を洗ってその乾くのを待つだけであった。ある里人はその様子を目撃しており、「まことの沙門那〈沙門.仏教僧〉である!」と感嘆した。そこで(彼は、師を)招いて家に入れて供養した。某年間、河内の磯長山睿福寺を訪れた。そこで仏塔が損壊しているのを見て、これを修理しようと思い立った。すると庶民らは子来の助けを效し、それほど日を経ずしてこれを成し遂げることが出来た。まさにその戒徳の高妙であることによって、労せずして巧みに事業を成し遂げるのは、そのようなものである。正保四年〈1647〉、ここにその生涯を終えた。世壽六十三、法臘三十六であった。門人らは、その遺体を奉って圓通寺に葬った。嗣法の弟子には眞政圓忍など若干人がある。しかし黒白の男女で、師から三帰依・戒を受けた者は(あまりに多く、)その正確な数を挙げることは困難である。