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Dharmacakra
智慧之大海 ―去聖の為に絶学を継ぐ

戒山『霊嶽山圓通寺賢俊永律師伝』

原文

湖東安養寺後学釋慧堅 撰

律師名良永。字賢俊。姓添氏。對州刺史之子也。玅年爲僧于高野山。挺然有英氣。及長居中性院。窮密乘之旨趣。而雅志毘尼之道。偶以事歸對州。時明忍律師欲入支那。駐錫其地。師乃謁啓之曰。某聞。法門三學以戒爲首。能戒然後能定。能定然後能慧。苟戒根不固。定慧自何而生。三學既廢。不能抵敵生死。願律師授我戒法。忍曰。汝志固可嘉矣。京之槇尾山。是予興律之場也。汝當到彼遂所願。師聞誨而往。謁慧雲友尊二師。二師嘉其誡懇。遂命隸名于寺。慶長十五年。從雲師稟沙彌戒。明年三月自誓受具。諮學毘尼。文理通達。後有故隠高野山。以道自適。與世相忘。

有山口修理公者。寓東南院。一見師如平生驩。爲創一寺請擇地。師擬山内極幽邃處。東大寺重源法師是其隠處。乃就其地榮建。不久而成。公以師爲開山。師名其山曰靈嶽。寺曰圓通。安衆講道。蔚成律社。卽新別處是也。黒白侁侁以承教戒。而聲譽益著。師常曰。方土雖淨非吾所願。常生娑婆五濁惡世。作大導師。令一切群生倶登聖域。如有不幸遂入三途者。我願代彼受苦。故生平汲汲以濟人利物爲己任。値飢者輒與以食。遇病者輒施以藥。一日有癩者至。白師曰。我以夙業故罹此病。爲人厭惡。不知以何得免。師曰。汝歸三寳。庶幾脱夙殃。我當授三歸。乃命上席。癩者辭不肯上。師曰。沙門以等慈爲本。吾豈以淨穢二其心耶。遂授畢。癩者感泣而去。又有盗闞師之亡入室。竊衣物而出。師遇諸塗盗捨亡。師曰。一任汝持去。我不嗇也。遂咸以與之。

嘗修法時。感神童現身授以祕法。又一夜夢。神僧謂曰。他後必生安養。師曰。與一切衆生同生乎。曰否。師曰。然則吾不欲也。曰以如是心故可得生耳。偶外出。有牧童。推師入泥淖。師無所怒。但湔衣待乾而已。里人目擊其事。感嘆以爲。眞沙門那也。乃延入家供養。某年間。至河之磯長山睿福寺。見佛塔毀壞。爲之修治。庶民效子來之助。不日告成。蓋以其戒德高玅。坐就巧業如此。正保四年。乃終于茲。壽六十有三。臘三十又六。門人奉遺軀。窆于圓通。嗣法弟子眞政忍等若干人。而黒白男女受歸戒者難以數記。

訓読

湖東安養寺後学釋慧堅えけん

律師の名は良永りょうえいあざな賢俊けんしゅん。姓はそう、對州刺史ししの子なり。玅年びょうねん、高野山において僧と爲る。挺然として英氣有り。長ずるに及で中性院ちゅうしょういんに居す。密乘の旨趣を窮めて、雅に毘尼びにの道を志す。偶ま事あるを以て對州に歸る。時に明忍みょうにん律師、支那に入んと欲して、其の地に駐錫す。師乃ち謁し、啓して之に曰く。某聞く、法門三學さんがくは戒を以てはじめと爲す。戒を能くして然る後に定を能くし、定を能くして然る後に慧を能くす。苟も戒根固かざれば、定慧何よりして生ぜんや。三學既に廢すれば、生死に抵敵すること能はずと。願くは律師、我に戒法を授けたまへと。忍曰く、汝の志、固より嘉すべし。京の槇尾山まきおさん、是れ予が興律の場なり。汝、當に彼に到て所願を遂くべしと。師、誨へを聞て往き、慧雲えうん友尊ゆうそん二師に謁す。二師、其の誡懇ろなることを嘉し、遂に命じて名を寺に隸す。慶長十五年、雲師に從て沙彌戒しゃみかいを稟く。明年三月、自誓受具じせいじゅぐし、毘尼を諮學して、文理通達す。後に故あっ高野山こうやさんに隠る。道を以て自適し、世と相忘る。

山口修理やまぐちしゅりといふ者有り、東南院とうなんいんに寓す。師を一見するに平生驩へいぜいかんの如し。爲に一寺を創るに請ふて地を擇ばしむ。師、山内の極めて幽邃處を擬す。東大寺重源ちょうげん法師、是れ其の隠るる處なり。乃ち其の地に就て榮建し、久しからずして成る。公、師を以て開山と爲す。師、其の山を名て靈嶽と曰ひ、寺を圓通えんつうと曰ふ。衆を安じて道を講じ、蔚して律社と成る。卽ち新別處是れなり。黒白こくびゃく侁侁として以て教戒を承け、聲譽益す著し。師常に曰く、方土ほうど淨なりと雖も吾が所願に非ず。常に娑婆しゃば五濁惡世ごじょくあくせに生じて、大導師と作り、一切群生倶に聖域に登らしめん。如し不幸にして三途に遂入する者有らば、我れ願くは彼にかわって苦を受けんと。故に生平、汲汲として濟人利物を己が任と爲し、飢者に値へば輒ち食を以て與へ、病者に遇へば輒ち藥を以て施す。一日、癩者らいしゃ有て至る。師に白して曰く、我夙業しゅくごうを以ての故に此の病に罹り、人の爲に厭惡せらる。知らず、何を以て免ることを得るかを。師曰く、汝、三寳に歸し、夙殃を脱せんことを庶幾せよ。我、當に三歸を授くべしと。乃ち命じて席に上らせしむ。癩者辭して肯上せず。師曰く、沙門しゃもん等慈とうじを以てもとと爲す。吾、豈に淨穢を以て其の心を二つするや。遂に授け畢る。癩者、感泣して去る。又、盗有て師の亡に闞で室に入り、衣物を竊して出る。師、諸に塗に遇ふに、盗、捨て亡げる。師曰く、汝の持ち去るに一任す。我、嗇しからずと。遂に咸以て之に與ふ。

嘗て修法の時、神童身を現じて授るに祕法を以てすることを感ず。又、一夜の夢に、神僧謂て曰く、他後必ず安養あんにょうに生ぜんと。師曰く、一切衆生と同生なりやと。曰く否なりと。師曰く、然れば則ち吾れ欲せずと。曰く、是の如き心を以ての故に生ずることを得べきのみと。偶ま外出するに、牧童有り。師を推して泥淖に入らしむ。師、怒る所無く、但だ衣を湔て乾くを待つのみ。里人、其の事を目擊して、感嘆して以て爲す、眞沙門那さもななりと。乃ち延て家に入れ供養す。某年間、河の磯長山しながさん睿福寺えいふくじに至る。佛塔の毀壞するを見て、之の爲に修治す。庶民、子來しらいの助けを效し、日ならずして告成す。蓋し其の戒德高玅なるを以て、坐して巧業を就くこと此の如し。正保四年、乃ち茲に終る。壽六十有三、ろう三十又六。門人、遺軀を奉て、圓通に窆る。嗣法の弟子に眞政忍しんしょうにん等若干人あり。而して黒白の男女の歸戒を受くる者は數記を以てすること難し。

脚註

  1. 慧堅えけん

    戒山慧堅。恵堅とも。慈忍慧猛の弟子。慈忍には十人あまりの弟子があったとされるが、その高弟三人のうちの一人。戒山は筑後の人で、地元に鉄眼道光が来たって『大乗起信論』の講筵の席に参加して発心し、その元で出家した臨済宗黄檗派の禅僧であった。しかし、修行を進めるうちに持戒の必須であることに気づいて、律学の師を求め上京。その途上、摂津の法巌寺にて桃水雲渓(洞水雲渓)に出逢って宇治田原の巌松院にあった慈忍律師の元に参じることを勧められ、その元に参じて長らく仕えた。戒山が受具したのは、野中寺に移住した寛文十年〈1671〉の冬十二月廿八日。なお、戒山の出家の師であった鉄眼は寛文九年〈1669〉、ようやく粗末な小堂が建てられたに過ぎない野中寺を訪れ、慈忍の元で菩薩戒を受けている。
    慈忍亡き後、戒山は諸方を遊行し、廃れていた湖東安養寺に入ってこれを中興。その第一世となった。安養寺に入って後には、律法の興隆を期して支那および日本の律僧三百六十餘人の伝記集成である『律苑僧宝伝』を著す。この著はいわば律宗および律学を広めるための大きな力、いわば啓蒙書として重要なものとなった。その後、慈門信光に次いで野中寺を継ぎその第三世となっているが、それはほとんど名目上のことであったという。
    戒山の優れた弟子に湛堂慧淑律師があり、彼もまた師の慧堅に倣って諸々の律僧の略伝の集成『律門西生録』を著した。その特筆すべき行業は、それまでのように律宗・真言宗・禅宗だけではなく、天台宗・浄土宗などさらに多くの宗派の僧らに戒律復興を波及させる一大立役者となったことにある。

  2. 良永りょうえい

    『西明寺沙弥名籍』には「賢俊名頼永十五年入衆」とある。この記述から、彼が平等心王院において改めて出家した際の名(諱)は頼永(らいえい)であったが、後に良永と改めたことが知られる。

  3. あざな

    実名。往古の支那において、人の死後にその実名を口にすることを憚ったが、それが生前にも適用されるようになった習慣。普段は実名(諱)は隠して用いず、仮の名いわば通名・あだ名を用いた。その習慣が古代日本に伝わり、平安中後期頃から僧侶においても一般化した。奈良期、平安初期の僧侶にはこの習慣はない。

  4. そう

    添は宗の借字。賢俊良永は、対州すなわち対馬の守護代であった宗家の庶子であった。もっとも、宗家の誰を父として生を受けたかは未詳。いずれにせよ賢俊は宗氏の嫡男でなく、ために早くから出家とするべく寺に出されていたのであろう。

  5. 刺史しし

    地方長官(州長官)の支那における称。日本における守護代のこと。

  6. 中性院ちゅうしょういん

    高野山金剛峯寺の子院の一。鎌倉期には頼瑜が住していたことで知られる。現在はただその名前のみ残って院自体は併合されて無い。これを中蔵院の誤記・誤写であるとする学者があるが、中性院で間違いなく正しい。

  7. 毘尼びに

    [S/P]vinayaの音写。律はその漢訳。正式の仏教僧すなわち比丘となるためには必ず受持しなければならない、僧伽を運営し、その修業の根幹を確保するための諸規定。伝統的に律とは調伏の意とされるが、これは原語vinayaがvineti(取り除く)に由来する名詞であって、それはvi(別々に)+√ni(導く)という語根に基づくため。

  8. 明忍みょうにん律師

    慶長七年、近世における戒律復興の主導的人物。その戒律復興は中世の叡尊の遺跡を踏んで通受自誓受により、明忍他四人の僧によってなされた。しかし明忍は本来的ではない受法である自誓受に満足せず、本来の別受従他受による受戒を求めて支那に渡ろうと対馬に渡るが、ついに果たせず客死した。詳しくは別項「玄政『槙尾平等心王院興律始祖明忍律師行業記』」等その伝記を参照のこと。

  9. 三學さんがく

    仏道修行の三つの階梯。戒学(増上戒学)・定学(増上意学)・慧学(増上慧学)。諸々の学処を受け修めることによって身語の行いを制して戒を成就し、その上で定を修めることによって心を鎮め陶冶し、そうした心にモノの無常・苦・空・無我なる真の有り様を知り抜く智慧を育むこと。

  10. 槇尾山まきおさん

    明忍がその師晋海の後援によって復興し僧坊とした地。平等心王院(後の西明寺)。

  11. 慧雲えうん

    明忍らと共に戒律復興を果たした僧。諱が慧雲、字は蓼海。和泉国出身。もと日蓮宗徒。ここに「観行即の慧雲」と称されたとあるが、『律苑僧宝伝』巻十五「慧雲海律師伝」では、観行とは止観のことであって、衆中において止観に最も詳しかったということからかく称されたという。慶長十五年〈1610〉明忍律師が対馬において客死した後、平等心王院の第二世住持となる。しかし、慧雲もまたその翌十六年、高雄山神護寺にて示寂。行年は明らかでない。

  12. 友尊ゆうそん

    明忍・慧雲らと共に戒律復興を果たした僧。諱が友尊、字は全空。もと西大寺僧であるが、そのさらに以前は日蓮宗僧であったと言われる。慶長十五年〈1610〉六月二日、明忍律師に先んずることただ五日、示寂。

  13. 沙彌戒しゃみかい

    沙彌とは[S]Śrāmaṇeraあるいは[P]Sāmaṇeraの音写で、求寂あるいは息慈などと漢訳される、原則として数えで齢十三から二十未満の見習い出家者。その師から十戒を受けることによってなることが出来る。出家ではあるけれども僧伽の成員には数えられない。沙彌および十戒については別項「沙弥」および「十戒」を参照のこと。
    賢俊は高野山ですでに出家していたにも関わらず、ここで改めて沙弥出家しなければならない理由は、宗派・門流が異なるからそうしなければならないのではなく、そもそも正しく比丘たる人の元でなければ出家して沙弥となることは出来ないためであり、高野山にはそのような人は無いためである。戒律復興とは、従前の僧の正統性を否定する側面を有するものであり、したがってそれまで僧と称していた者は戒律復興によって正しく出家者(比丘)となった者の下で改めて正しく出家しなければならない。
    この伝記の記述からは、賢俊が明忍の勧めによってただちに槇尾山にて出家したように思われかもしれないけれども、彼が実際に出家したのは明忍没後のことであり、それは慶長十五年十月のことであった。おそらく、これは当然予想されることであるけれども、それ以前に槇尾山を訪れて入門の可否を問うその許可は得ていたのであろう。賢俊自身もまた高野山を出るための処理等も必要であったためのことであろう。あるいは明忍律師が没したことを契機に、その時期を早めたのかもしれない。なお、賢俊と同時に沙弥出家したのは明忍の対馬行きに唯一人(浄人として)随行し、その最後を看取った道依明全であった。

  14. 自誓受具じせいじゅぐ

    現前の十師等を立てず、誰にも依らずして、「自ら戒を受けることを誓う」ことによる受戒法。一般にこれが可能なのは五戒に限られる。しかしながら、大乗経において、といってもそれはただ『占察善悪業報経(占察経)』に限られるが、以下のように自誓受によって「(比丘として)受戒」出来るとされている。「復次未來之世。若在家若出家諸衆生等。欲求受清淨妙戒。而先已作増上重罪不得受者。亦當如上修懺悔法。令其至心得身口意善相已。即應可受。若彼衆生欲習摩訶衍道。求受菩薩根本重戒。及願總受在家出家一切禁戒。所謂攝律儀戒。攝善法戒。攝化衆生戒。而不能得善好戒師廣解菩薩法藏先修行者。應當至心於道場内恭敬供養。仰告十方諸佛菩薩請爲師證。一心立願稱辯戒相。 先説十根本重戒。次當總擧三種戒聚自誓而受。此亦得戒。復次未來世諸衆生等。欲求出家及已出家。若不能得善好戒師及清淨僧衆。其心疑惑不得如法受於禁戒者。但能學發無上道心。亦令身口意得清淨已。其未出家者。應當剃髮被服法衣如上立願。自誓而受菩薩律儀三種戒聚。則名具獲波羅提木叉。出家之戒名爲比丘比丘尼。即應推求聲聞律藏。及菩薩所習摩徳勒伽藏。受持讀誦觀察修行」(T17, p.904c)。けれども『占察経』は、天平の昔、日本仏教界に問題を生じさせていたものでもあった。その問題とは、鑑真によって正規の具足戒がもたらされた際、従来の僧らが、鑑真による伝戒とその受戒をいわば拒否したことである。鑑真のもとで具足戒を授戒することについて、彼らはすでに正統な仏教僧であっていまさら具足戒など受ける必要はないと拒否したのであった。その根拠としたのが『占察経』であった。彼らが反抗したのには政治的・経済的理由もあったであろう。なんとなれば、彼ら自身の「(占察経による)受戒」を否定してしまうことは則ち、彼らの既存の立場・既得権の消失を意味するのであるから。けれども結局、普照の説得によって反抗の構えを見せていたそれら僧は鑑真に対して弟子の礼をとって授戒を受け入れた。要するに、『占察経』による自誓受戒(による比丘としての受戒の正統性)は、天平の昔に否定されていたのである。
    なお、ここで自誓受戒をしたのは賢俊だけではなくそれ以外に十人があり、それは槇尾山にて明忍らによって最初に行われた九年後の、第二回目に行われた自誓受戒であった(『自誓受具同戒録』西明寺文書)。

  15. 後に故あっ高野山こうやさんに隠る

    賢俊は平等心王院にてただ一度の安居を過ごした後、どうしたわけか高野山に帰りたい旨を衆僧に申し出た。しかし、これに衆僧は反対して争議となったが、衆僧が反対するにはその理由があった。というのは、人が比丘となって最低でも五度の安居を過ごす間は、必ずその比丘個人の師僧(和上)もしくは法臘十年以上で諸経律に通じた持律の僧(依止阿闍梨・依止師)の元で、比丘として様々な基礎的知識・作法・行儀を学ばなければならない、と諸々の律蔵通じて定められているためである。しかし、賢俊はこの定めを破って自己の主張を押し通そうとした結果、ついに幕府取り扱いの訴訟となった。結果、彼は「政治的に」五夏を過ごすこと無く一夏であっても高野山に帰ることを例外的に許され、また槇尾山には以降にそこで比丘となった者は例外なく必ず五夏を過ごさなければならない規則を寺として課すこととなった。
    賢俊が何故高野山に一年も経たぬ間に帰ることを強引に主張し、公儀まで引っ張り出す訴訟となったのかの理由は不明である。その背景が知られないため、その主張の是非についての判断はひとまず保留すべきであろう。しかし、それを顧慮しないのであれば、彼自身がそもそも「律を受けてそれを厳守するため」として槇尾山に入ったにも関わらず、訴訟にまで発展させて自己の都合を押し通させたのは、これを結果論として評価する学者腹もあるけれども、普通に見れば本末転倒の暴挙であったと評すべきものである。なんとなれば、彼のその主張と行動を正当化させる根拠が無いためである。彼のその行動は紛れもなく非法とされるべきものであった。ただし、この争議によって賢俊は槇尾山から出たものの、それで同門の槇尾山衆徒らと完全に断絶したということは無かった。例えば同時に自誓受戒した十一人の中の了性明空は、五夏の後に法隆寺北室院に入って賢俊と共に律幢を挙げて律院とし、その第二世となっている。そしてその第三世として、賢俊の弟子真政圓忍を指名して継がせている。
    賢俊は、高野山に帰って後に幾人かの優れた弟子を排出しているが、その中の一人真政圓忍の弟子快圓恵空は泉州堺に大鳥山神鳳寺を僧坊として開いた。しかし皮肉なことに、というよりも当然の帰結であると言うべきか、快圓は受具後に一夏であっても師の元を離れて良いとした賢俊のそれを非であるとし、やはり神鳳寺にて受具したものは必ずそこで五夏を過ごさなければならないとした。
    なお、人が受具して後、最低でも五夏を和上あるい阿闍梨などに依止して過ごさなければならない、という律の規定は、あくまで「和上または阿闍梨の元において」ということであって「受具した場所において」ではない。また、自誓受という特殊な受戒を取るが故の事情となるが、そもそもその最初期の人すなわち明忍らには依止すべき上座比丘自体が一人も存在しなかった。これは鎌倉期の叡尊らにも全く同様であったが、彼らがこれをどのように理解し、また問題視していたのかは管見にして知らない。もっとも、明忍は慶長七年に槇尾山で自誓受し、同十一年に対馬へと出立しているが、あるいはこれは五夏を槇尾山にて過ごすことを待ってのことであったのかもしれない。

  16. 山口修理やまぐちしゅり

    山口重政。この時、重政は子息の婚姻に関して幕府の許可を得ず勝手に行ったため改易せられ、高野山東南院にて蟄居させられていた。修理とは、建築を司る令外官の職位の一つで、重政はその第二位である修理亮を称していた。

  17. 東南院とうなんいん

    高野山の子院の一。現在はその名前のみ残り、院自体は統廃合されて無い。

  18. 平生驩へいぜいかん

    常日頃から親しく交わっていること。

  19. 重源ちょうげん法師

    俊乗重源。平安末期から鎌倉初期にかけて活躍した真言僧。宋代の支那に三度渡った入宋僧で、同じく入宋して初めて臨在禅を日本に伝えた栄西とも親交があった。以仁王の挙兵に対して平重衡が南都焼討し、東大寺が大仏殿を含むその多くを消失した際は、その再建のための勧進職となってその資金資材集めに奔走した。法然が大原勝林院にて天台や真言・法相・三論など諸宗の僧を相手に浄土教の念仏についての問答をした際にはそれに参加しており、結果として法然に帰依したと伝説される。その後、高野山にて特に念仏を修めるための区域・道場、すなわち別所を七箇所開いた。

  20. 圓通えんつう

    霊嶽山圓通寺。高野山の山間にある幽邃な地に建つ。空海の甥でもあった智証大師円珍が開創した地と伝説されるが、重源が開いた七箇所の別所のうちの一つでもあり、新別所(真別処)と呼称されていた地。ここに賢俊は寺院を開いて圓通寺と名付け、律学の道場とした。
    江戸末期、円通寺八世となった恵深妙瑞は、ここをそれまでの四分律ではなく有部律の道場とすると主張して独自の行儀を開始した。現在は僧坊・律院でなくなり、高野山真言宗の僧職となるため課せられている四度加行等を修めるための道場「高野山事相講伝所」として機能している。

  21. 黒白こくびゃく

    出家と在家。黒は鈍色(いぶ色・ねずみ色・墨染)で出家者が多く着用していた袈裟衣の色、白はそのまま白色で在家信者の多く着用した服の色であることから、黒白といった。玄人・素人も、これと全く同じ意味で出家と在家を表した語であるが、玄人は道教に由来する語であるという。

  22. 方土ほうど

    方は報の借字で報土のこと。報土とは阿弥陀仏や薬師仏など報化身が、菩薩の時にその誓願を成就したことによって作られたとされる浄土のこと。あるいは自身の業果として、次の世に生を受ける国土のこと。

  23. 娑婆しゃば

    [S/P]sahāの音写で、その意は「耐え忍ぶべき」。忍土と漢訳される。我々の住む、人や神々、諸々の生き物と共なるこの世界のこと。

  24. 五濁惡世ごじょくあくせ

    五濁とは、世界が衰亡に向かう時代(悪世)となるに従って生じてくる五つの汚れの意。その五つとは、劫濁(戦乱・飢饉。あるいは末世になると見られる以下の四濁の総称)・煩悩濁(人の煩悩がさらに強くなる)・衆生濁(人の身心共に弱く、薄弱となる)・見濁(悪しき見解がはびこる)・命濁(寿命が次第に短くなり、最終的には十歳となる)。『華厳経』・『法華経』・『宝積経』等に説かれる。

  25. 彼にかわって苦を受けん

    因果応報・自業自得を大原則とする仏教において「彼に代て苦を受け」ることは事実上不可能であるが、そのような志を持つことが大乗では理想とされる場合がある。それが現実にはありえないことであっても、しかしそれを自身の心地の柱としてもつことによって、その人の行業や徳が高まるということは確かにあるであろう。

  26. 癩者らいしゃ

    癩病患者。当時、癩病(今で言うハンセン病)は不治の病であり、またその症状が進行した場合は非常に外見が醜悪な状態を呈して人から忌み嫌われるため、業病と見なされていた。
    これは中世以来のことであるが、癩病患者は必ずしも癩病に罹患した者で無く、ただその他の皮膚病を患った者も多くその中に含まれていたが、社会から差別され一定程度隔離されていた。鎌倉期、これを特に救おうと活動した人の中に大悲菩薩忍性ら律僧があった。彼らに食や医薬を与え、行水させ、またその職を与えた結果、中には癩病を完治させる者が出たという。もちろん、その者は最初から癩病ではなく、その他の皮膚病であったのであろうが、それを治癒しえたのは律僧らの功徳、戒徳に依るものであると信じられた。

  27. 夙業しゅくごう

    夙は宿の借字で、宿業のこと。自身が為した、前世・宿世の善業あるいは悪業の果報として、現世において安楽あるいは苦しみの結果を受けるとする、仏教における因果応報の理のこと。ここでわざわざ夙としているのは、その業の悪しきことを表するためであろう。

  28. 沙門しゃもん等慈とうじを以てもとと爲す

    等慈とは、あらゆる生けるものを等しく慈しむこと。沙門の本分とは世間の喧騒・争いを離れ、心に四無量心を育むべきものとされる。例えば具体的に等慈など四無量心を育むべきかの術は、例えば『倶舎論』などに詳細に説かれる。

  29. 安養あんにょう

    阿弥陀仏の報土とされる極楽浄土の別称。

  30. 沙門那さもな

    [S]śramaṇaあるいは[P]samaṇaの音写で、努める人の意。一般に仏教僧のこと。音写には他に、桑門・喪門・娑門などあるが、一般的には沙門が用いられる。

  31. 磯長山しながさん睿福寺えいふくじ

    大阪南河内にある古刹。推古天皇創建と伝説され、聖徳太子の墓と伝えられる古墳があることから、古来多くの僧や天皇・公家、豪族などが参詣した。

  32. 子來しらいの助け

    子来とは、子が親を慕って来るように、徳の高い者のところに人々が集ってくること。

  33. ろう

    比丘となってからの年数。何回、安居を過ごしたかの数。これを法臘(法臈)あるいは夏臘(夏臈)、夏坐等という。比丘としての席次、その上下はただその人の出自や年齢ではなく、この法臘の多少によってのみ決定される。沙弥となってからの年数を法臘とは言わないが、しばしば誤用される。

  34. 眞政忍しんしょうにん

    真政圓忍。加賀国の窪田氏出身。十五歳で出家し、高野山に登って密教を学んだ。賢俊が槇尾山で自誓受して比丘となり、高野山に帰って円通寺を開いて律を講じるなか、その名声を聞いて門を叩き弟子となった。正保二年〈1645〉に円通寺にて自誓受して比丘となり、その二年後に賢俊が没したため跡を継いで円通寺第二世となった。後に法隆寺北室院第三世を継ぐ。晩年は和州法起寺に隠れてその生を終えた。弟子に圓通寺第三世として継がせた快圓恵空があるが、延宝元年〈1673〉その請によって泉州堺の大鳥山神鳳寺を四方僧坊として中興し、その第一世となった。近世の日本にて四方僧坊が結成されるのは、神鳳寺が槇尾山平等心王院についで二番目であった。

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