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Dharmacakra
智慧之大海 ―去聖の為に絶学を継ぐ

月潭『槇尾山平等心王院故弘律始祖明忍和尚行業曲記』

訓読

律師法諱ほうい明忍みょうにん、初の名は以白いはく俊正しゅんしょうは其あざななり。平安城の中原氏なかはらうじに產す。よよ宦族たり。師は乃ち權大外記ごんだいげき康綱やすつな九葉くようの孫なり。父の諱は康雄やすまさ、仕へて少内記しょうないきとなる。母は某氏、淑德有り。師生れて穎異えいい羣童ぐんどうの中に處して屹然きつぜんたること、稺松ちしょう蒹葭けんかに超へて之とひとしからざるが如し。

七齡におよんで父其の聰慧なることを喜んで、命じて高雄山の晉海僧正しんかい そうじょうに從って内外ないげの典を習讀せむ。伊吾いご口に上て師授を煩はさず。十一歳、父よんで家にめぐらしむ。春三月、吉を擇んで初冠ういこうぶりして少内記に任せらる。家兄某、才藝師に劣れり。故に讓って世適となす。師、韻書いんしょそらんじ楷字を善くす。以故に禁筵きんえん聯句會れんくえに値ふ每とには必ず師に命じて執筆たらしむ。揮灑敏捷きさいびんしょうにして四座驚嘆す。故に神童の譽れ有り。十六歳、ぬきんでて少外記・右少史の兩職に補せらる。心を纘承の家學にとどめて宦のいとまあるときには、則ち舊記を補書して積で數十巻と成る。聲名藉藉せきせきとして縉紳しんしんの間に起る。

一日、喟然きぜんとして嘆じて曰く、此身不實なること猶ほ芭蕉ばしょうの如し。穹官きゅうかん峻爵しゅんしゃくも亦、なんぞ羨むに足んや。縦令たとひ才、卜商ぼくしょうが如なるも亦地下ぢげ修文郎しゅもんろうとなるに過ぎず。かず、浮屠ふとの法を學んで永く出離を期せんにはと。是れより㴱く世相の齷齪あくせくいとふて時時に高雄に登躡としょうして法を海公に問ふ。公は乃ち密門の巨擘きょはく、德行高峻なり。公、其の空門くうもんに志有ることをあはれんで、敎誨してむことし。

年二十一に至て意を決して出家。海公に投じて薙染ちせんして瑜伽ゆがの法行を稟受ほんじゅす。晨修夜勤しんしゅやごんして敢て少しも懈らず。寢食をわするるに至る。海公指して人に語て曰く、此子は吾が家の精進幢なりと。師、復嘆じて曰く、佛三學さんがくを設けて戒を基本と爲す。基本立せずんば定・慧何にか依ん。利濟を行はんと思はば、必ず本根を固くすべし。恨らくは此邦このくに、律幢久しくたおれて人の扶起する無し。吾儕わなみかたじけなくも緇倫に厠はる。豈に坐視するに忍んや。是に於て憤然ふんぜんとして志をふるひ、海公を辭して南京に赴き、古聖の遺蹤を探て先賢の勝軌をたずねる。

時に僧寥海りょうかい、字は慧雲えうんと云ふひと有り。本と法華宗の徒に係る。幼より脫白だつびゃく智解嶄然ちげざんぜんとしてもっと止觀しかんに精し。人みな觀行卽の慧雲と稱す。雲常に今世の贋浮屠にせふとの、佛法を假て貴富をむさぼる者を視て、此輩と頡頏けっこうすることを願はず。跡を丹波の山中にのがれて、わらびを採てうへに充て、がまを編んでごうとなす。淸淨自活しょうじょうじかつして積で年有り。一日、たまたま古蹟を訪てしゃくを和陽に飛して、師に三輪山みわやまの下に邂逅かいこうす。一つにかさを傾るの際、こうとして夙契しゅくけいごとし。素志そしたんずるに及んで、鍼芥相投しんかいそうとうす。遂にともなっ西大寺さいだいじに入り、尸羅しら稟受ほんじゅす。寺は及び興正大士こうしょうだいしの舊道場なり。大士戢化しゅうけの後、星霜せいそうやや久ふして僧風衰落すいらくす。然れども尚ほ一、二の耆德ぎとく有て能く止持作犯しじさぼんを說く。師、雲公とれいを席下にそばめて平生の疑滯ぎたい雪融冰解せつゆうひょうげす。寺に僧全空ぜんくう、字は友尊ゆうそんと云ふ者有て、亦た律學をたしなむ。二師の道諠どうぎの篤きを感じて、其に莫逆ばくぎゃくの交りを締ぶ。講筵に會する每に必ず品坐評商ほんざひょうしょうして夕陽ゆうひの樹に在るを覺へず。

現代語訳

律師の法諱は明忍みょうにん、初めの名は以白いはくである。俊正しゅんしょうはそのあざなである。平安城〈京都〉の中原氏の出身で、代々官人の家柄であった。師は権大外記康綱の九葉の子孫にあたる。父の諱は康雄やすお、(宮廷に)仕へて少内記であった。母の出自は不明であるが、淑徳ある人であった。師は生まれながら穎異えいい〈人に抜きん出て優れていること〉であり、他の童子の中にあって屹然きつぜん〈ひときわ高く抜きん出ていること〉としたその様は、あたかも松の若木があしの生い茂った中に一本すっくと立ち生えているかのようであった。

七歳となり、父はその聰明であることを喜んで、命じて高雄山の晋海しんかい僧正の元で内外典を習学させた。(書を素読させれば)伊吾いご〈声に出して言うこと〉(自ずから)口に上り、晋海師の教授を煩わせることがなかった。十一歳の時、父からの言いつけで家に帰った。春三月、吉日を択んで初冠ういこうぶり〈元服〉し、少内記に任せられた。家には兄なにがしがあったがその才芸は師に劣るものであった。故に(兄ではなく師に家督を)譲って後継ぎとしたのである。師は韻書〈虎関師錬『聚分韻略』〉を諳んじ、楷書に長じていた。そんなことから禁筵きんえん〈宮中〉で開かれる聯句会の毎には、必ず師は命ぜられて(詠われた句の)執筆をしたが、(師の)揮灑きさい〈思うままに書を書くこと〉はまこと敏捷であり、四座〈参加者一同〉は驚嘆したものである。故に「神童」と持て囃された。十六歳、抜擢されて少外記・右少史の両職に補任された。(師は常々)その心を(中原家)継承の家学に留め、官職の暇に旧記を補書して、ついに数十巻に及んだ。その名声は口々に噂されて縉紳しんしん〈貴人。高官〉の間に起こった。

ある日、喟然きぜん〈ため息をついて嘆くこと〉として、
「この身が不確かなことはあたかも芭蕉のようなものである。穹官きゅうかん〈高い官位〉峻爵しゅんしゃく〈高い爵位〉もまた、どうして羨むようなものであろうか。たといその才智が卜商ぼくしょう〈子夏。文学に最も長じていたという孔子の弟子〉のようであったとしても、所詮は地下の修文郎となるに過ぎない。結局、浮屠ふと〈仏陀〉の法を学び、永く出離〈解脱。生死輪廻から脱すること〉を求めることには及ばないものである。」
と嘆いた。それから深く世相に齷齪あくせくすることを厭いて、事あるごとに高雄山に登って仏法を晋海公に問うようになった。晋海公は密教の巨擘きょはく〈巨頭〉であって、その德行高峻な人である。晋海公は、師に空門〈仏門〉への志があることを憫んで、教誨して飽くことがなかった。

年二十一に至って意を決して出家。晋海公の門下に投じて薙染ちせん〈剃髪染衣〉瑜伽ゆがの法行〈真言密教〉を受け、朝に夕に勤め修してけっして怠ること無く、それは寝食を忘れるほどであった。晋海公は(そんな師を)指して、
「この子こそ我が一門の精進幢〈最も努力する人。その象徴〉である」
と人に語っていた。師はまた、
「仏陀は(戒・定・慧の)三学を設けられて戒をその基本とせられた。基本が確立されなければ、定と慧とは他の何に依って生じるであろう。利済りさい〈衆生を利益し済うこと〉を行わんと思うならば、必ずその根本を堅固としなければならない。残念なことに、この国における律幢は久しく倒れたままであって誰もこれを扶起ふき〈助け起こすこと〉しようとする者の無いことである。吾儕わなみ〈私、我々〉は、かたじけなくも緇倫しりん〈僧〉の端くれとなった者である。(戒も律も廃れたままとなっている日本における仏教の現状を)一体どうして坐視して放置できようか」
とも嘆かれていた。そこで憤然として志を奮い立たせ、晋海公の元を辞して南京なんきょう〈奈良〉に赴き、古聖の遺蹤いしょう〈遺跡〉を訪れて先賢の優れた著作を探し求めた。

ところでその同時期、僧で寥海りょうかい、字は慧雲えうんという者があった。元は法華宗の人である。幼少より脱俗出家しており、その智解は嶄然ざんぜん〈ひときわ抜きん出ていること〉として最も止観に精通していたことから、人々は皆「観行即の慧雲」と称賛していた。慧雲は常に、今世の贋浮屠にせふと〈悪僧・似非僧〉で仏法を隠れ蓑にして貴富を貪っている者らを視て、そのような輩と頡頏けっこうすることを避けていた。(そこで遂には法華宗を脱して)跡を丹波の山中にくらまし、蕨を採っては餓えに充て、蒲を編んで生業として清浄自活して年月を積んでいた。ある日、たまたま古蹟を訪れようと和陽〈奈良〉を訪れていた際、師と三輪山みわやまの下にて邂逅したのであった。すると忽ちかさを一つに傾けることとなり恍惚として、まるで夙契しゅくけい〈宿契。宿世の因縁〉かのようであった。素志そし〈日頃からの志〉に話が及ぶとたちまち鍼芥相投しんかいそうとう〈出会った瞬間に親しく交わるようになること〉したのである。そこで遂に共に西大寺に入り、尸羅しら〈戒〉稟受ほんじゅした。西大寺は興正大士〈興正菩薩叡尊〉の旧道場である。大士が遷化された後、星霜せいそう〈年月〉やや久しくして僧風衰落していた。しかしながら、なお一、二の耆徳ぎとく〈宿徳。徳高い老人〉あってよく止持作犯を説いていた。師は慧雲公と聆を席下に側て平生からの数々の疑問は、あたかも雪が融け、氷が砕けるかのように立ち消えた。寺には僧全空、字は友尊という者があって、また律学を嗜んでいた。二人の師の仏道を求める想いの篤いことに共感し、共に莫逆ばくぎゃくの交りを締んだのであった。(西大寺における律学の)講筵に参座すた度に必ず品坐評商ひんざひょうしょう〈内容を考証し、議論すること〉して夕陽が木々に差し掛かる〈長い時が経つこと〉のもわからぬほどであった。