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Dharmacakra
智慧之大海 ―去聖の為に絶学を継ぐ

月潭『槇尾山平等心王院故弘律始祖明忍和尚行業曲記』

原文

師生于天正四年丙子寂于慶長十五年庚戌六月七日報齡三十有五僧臘一十有五嗚呼此邦自興正忍性二大士之後律燈熄燄幾乎餘三百載惟師崛起澆末跂大志發大願紐既絶之玄綱樹已倒之法幟自非大心薩埵乘願轂而來則疇克爾耶

惜乎赤縣之遊未果淸泰之歸何遄倘使其齊興正之壽則法化丕行於閻浮而度人之壽可以溢于石室木方榮而風折之

悲夫雖然師之遺芳餘烈凛然不墜自鶴林之夕迨今垂八十禩其間俊彥之士相繼出其門者指殆不遑屈其最者則玉圓谿公長圓祐公空爾戒公本乘空公良存圓公空印盛公全理燈公恕閒覺公閒㝛空公慈雲城公眞識圓公幻爾塔公智鏡海公眞空阿公了運生公尊光如公光影通公賴圓雄公存正然公行空然公本寂徴公等亾慮若干人各皆通練三學信崇四衆師之後裔可謂盛矣

宐哉諸方禪林敎庠凡尊奉毘尼者咸指槇阜爲律虎之林與夫紵麻靈芝易地則同歟𡮢製自誓受戒血脈圖興正下系讚辭曰幷呑三聚長養戒身耀法利生千古未聞此數句可謂能罄興祖平生之梗槩也師於講律之暇喜閲往生要集可知其居恆繫念於淨域奚啻梵行之芬芳也哉昔大智照師有謂生弘律範𣦸歸安養前賢後賢其揆一也

蒙曾隨喜槇山經藏所鎭師手書聖典幷講律日記等多是用麤楮或取舊牘翻背寫焉在馬島時所闇寫梵網經跋尾云爲僃廢㤀艸書粗紙非敢輕慢佛語也昔日淸貧介約雖文房四寚亦似乏用而書寫不懈豈非精誠之所致耶至于捨親愛純道業曾獲鄕母書未𡮢啟讀纔頂戴訖投諸屋外谿流與吾門昺鐵面故事可併按焉

又僧念正者𡮢聞野山賢俊大德語曰師在日有僧修曼殊洛叉法一夕假寐間夢大士告曰伱願見我生身卽高雄法身院俊正是也觀師梵德精嚴悲願宏㴱散異馥於易簀之際煥祥光於屬纊之時則謂之五臺應化亦何疑之有哉

頃歳建仁長老松堂植公承鈞命赴職于對府以酊菴公於暇日躳探師舊蹟且令人物色之然歳月稍久無人能識適一華菴老僧以僊者年九十餘尚善記往事公就渠詢之曰某童時曾見忍師始從洛至托居府内宮谷後厭人緣稍譁又移茅壇每愛府治西南夷崎山水奇絶經行其間鄕人不知其名但喚京都道者耳海岸精舍主僧智順欽師戒行往來密爾及圓寂後爲立牌位至今尚存闍維之所不豎𡨧堵只栽松樹一株而巳茅壇四山採伐殆盡獨其一株合抱偃蹇翠色鬱然斧斤莫敢侵云

奥有現光雲松大德以師之嘉言懿行前哲所記攟拾有遺不能無歉于衷徴蒙修補始以菲才辭然再請弗輟嘉其念祖尚德暫不相㤀因按故堯遠筌公所錄事實與松公所傅聞重爲編次命曰行業曲記𥁋曲細而記其事也庶俾來裔有所歆艷而自厲云爾


貞享丁戼歳嘉平月中浣日峩山沙門道徴月潭和南謹撰

訓読

師は天正てんしょう四年丙子へいしに生れて慶長けいちょう十五年庚戌こうじゅつ六月七日に寂す。報齡ほうれい三十有五、僧臘そうろう一十有五。嗚呼ああ此邦このくに興正こうしょう忍性にんしょうの二大士の後より律燈りつとうかげろうめて幾乎ほとんど三百載にあまる。ひとり師、澆末ぎょうまつ崛起くっきして大志をくわだて大願をおこして、既にたえたるの玄綱げんこうむすび、すでに倒るの法幟ほうしつ。大心だいしん薩埵さった願轂がんこくに乘じてきたるにあらずんば、則ちたれしからんや。

おしいかな、赤縣せきけんの遊び、未だ果せざるに、淸泰せいたい、何ぞはるかなる。し其をして興正のいのちひとしからしめば、則ち法化ほうけおおひに閻浮えんぶに行はれて度人どにんの壽、以て石室にあふるべし。木、まさに榮んとして、風、之を折る。

かなしいかな、然りと雖ども師の遺芳ゆいほう餘烈よれつ凛然りんねんとしてちず。鶴林かくりんゆうべより今におよんで八十なんなんとす。其間そのま俊彦しゅんげんの士、つい其門そのもんよりいでる者の指、殆ど屈するにいそぎあらず。其の最なる者は則ち玉圓ぎょくえん谿けい公・長圓ぢょうえんゆう公・空爾くうにかい公・本乘ほんじょうくう公・良存りょうぞんえん公・空印くういんじょう公・全理ぜんりとう公・恕閒じょげんかく公・閒㝛げんしゅくくう公・慈雲じうんじょう公・眞識しんしきえん公・幻爾げんにとう公・智鏡ちきょうかい公・眞空しんくう公・了運りょううんしょう公・尊光そんこうにょ公・光影こうえいつう公・賴圓らいえんゆう公・存正ぞんしょうねん公・行空ぎょうくうねん公・本寂ほんじゃくちょう公等、亾慮すべて若干人。おのおの皆、三學を通練つうれんして四衆ししゅ信崇しんしゅうせらる師の後裔こうえいなり。謂つべし、盛んなりと。

むべなるかな、諸方の禪林ぜんりん敎庠きょうしょうおよ毘尼びに尊奉そんぶする者、ことごとく槇阜しんぶを指して律虎りつこの林と爲す。紵麻ちょま靈芝れいしと地をへば則ちおなじからん。𡮢かつ自誓じせい受戒じゅかい血脉けちみゃくを製す。興正の下、讚辭さんじつらねて曰く、三聚を幷呑へいどんして、戒身を長養ぢょうようす。法を耀かがやかしょうを利して、千古せんこ未だきかずと。此の數句、謂つべし、興祖こうそ平生へいぜい梗槩こうがいつくすと。師、講律こうりついとまに於てこのん往生要集おうじょうようしゅうえつす。其の居恆きょこう、念を淨域じょういきかけることを知ぬべし。なん梵行ぼんぎょう芬芳ふんぽうなるのみならんや。昔し大智だいちしょういわること有り、生ては律範りつはんを弘め、𣦸せば安養あんにょうかえらんと。前賢ぜんけん後賢ごけん、其のいつなり。

もうかつ槇山しんざん經藏きょうぞうちんずる所の師の手書の聖典しょうてんならびに講律日記等隨喜ずいきするに、多くは是れ麤楮ちょそを用ひ、或は旧牘きゅうとくを取てうらかえさまにしてこれうつす。馬島まとうありし時、闇寫あんじゃする所の梵網ぼんもう經の跋尾ばつびに云く、廢㤀はいもうそなえるが爲に粗紙そし艸書そうしょす。あえて佛語を輕慢きょうまんするには非ずと。昔日しゃくじつ淸貧せいひん介約かいやく文房ぶんぼう四寚しほうと雖も亦たもちいるとぼしきに似たり。しかるに書寫しょしゃおこたらず。精誠せいぜいの致す所に非ずや。親愛を捨て道業どうごうもつはらにするに至ては、かつ鄕母ごうもの書をて未だ𡮢かつひらき讀まず、わずかに頂戴ちょうだいおわりこれ屋外おくげ谿流けいりゅうに投ずが門の昺鐵面へいてつめんの故事あわあんずべし。

又、僧念正ねんしょうと云ふ者、𡮢かつ野山やさん賢俊けんしゅん大德の語るを聞くに曰く、師の在りし日、僧有て曼殊まんじゅ洛叉らくしゃの法を修す。一夕いっせき假寐かび夢むらく、大士告げて曰く、なんじ、我が生身しょうしんを見んと願はば、卽ち高雄たかお法身院ほっしんいん俊正しゅんしょう、是れなりと。師の梵德ぼんとく精嚴しょうごん悲願ひがん宏㴱こうしん異馥いふく易簀えきさくあいださんじ、祥光しょうこう屬纊しょくこうの時にかがやかすを觀るに、則ち之を五臺ごだい應化おうけいわんもなんの疑しきをか之れ有んや。

頃歳けいさい建仁長老松堂しょうどうしょく鈞命きんめいけてしき對府たいしゅう以酊庵いていあんおもむく。公、暇日かじつに於てみずから師の舊蹟くせきを探る。つ人をして之を物色もっしきせしむ。然ども歳月、やや久ふして、人の能くりたる無し。たまた一華菴いっけあんの老僧以僊いせんと云ふ者、年九十餘、尚ほ善く往事おうじを記す。公、かれに就て之をとうて曰く、それがしわらべたりし時、かつにん師を見る。始めらく從り至て府内ふない宮谷みやだに托居たくこす。後に人緣、ややかまびすしきことをいとうて、又た茅壇かやだんに移る。こと府治ふちの西南夷崎いさきの山水、奇絶なるを愛して、其間そのま經行きょうぎょうす。鄕人ごうにん、其の名を知らず。但だ京都の道者どうしゃぶのみ。海岸かいがん精舎しょうじゃの主僧智順ちじゅん、師の戒行をよろこんで往來密爾みつじなり。圓寂えんじゃくの後に及で爲に牌位はいいを立つ。今に至てほ存す。闍維じゃいの所、𡨧堵そとてず。だ松樹一株をうえるのみ。茅壇の四山しざん採伐さいばつ殆どことごとく、獨り其の一株、合抱がっぽう偃蹇えんけんとして翠色すいしき鬱然うつねんたり。斧斤ふきんも敢て侵すことしと云ふ。

ここ現光げんこう雲松うんしょう大德有り。師の嘉言かげん懿行いこう、前哲の記する所を攟拾くんしゅうしてのこすこと有るを以て、つちけん無きこと能はずもうもとめて修補しゅほせしむ。始め菲才ひさいを以て辭す。然ども再請さいしょうしててつふつす。其の祖をおもひ、德をたっとんでしばらくも相わすれざることをして、よりもと堯遠ぎょうおんせん公の錄する所の事實しょう公の傅へ聞く所とをあんじて、重ねて爲に編次へんじす。なづけ行業ぎょうごう曲記きょくきと曰ふ。𥁋けだ曲細きょくさいにして其事を記すればなり。ねがわくは來裔らいえいをして歆艷きんえんする所有て、自らはげまさしめんとしか云ふ。

とき
貞享じょうきょう丁戼ていぼう嘉平かへい中浣日ちゅうがんにち峩山がざん沙門道徴どうちょう月潭げったん和南わなん謹撰きんせん

脚註

  1. 報齡ほうれい

    寿命、享年。前世の報い、その果報としてこの世において生き得た年齢(数え年)。

  2. 僧臘そうろう

    比丘となってからの年数、比丘としての年齢。法臘とも。比丘としての立場の上下、席次の高低はすべて僧臘によって決定される。
    その数は夏安居を過ごした回数に基づくもので。その年の夏安居以前に比丘となった者は、その安居の三ヶ月間を終えると僧臘一歳となる。しかしながら、夏安居の後に比丘となった者は新年を超えても一歳とはならず、翌年の夏安居を過ごして初めて一歳となる。
    ここで月潭は俊正の僧臘を十五であったとしているが、これは月潭が法臘の意味を正しく理解しておらず、沙弥となってからの年月で数え言っている。月潭はこの『行業曲記』において俊正が沙弥となった年を廿一歳であったとしているが、これもおそらく誤りで実際は廿四歳のことであった。そして、俊正が自誓受によって具足戒を受けたのは慶長七年であり、没したのが慶長十五年六月のことであるから、その法臘は七あるいは八とするのが正しい。「あるいは」となるのは、自誓受戒したのが慶長七年の安居前であったか後であったによるためであるが、その具体的な月日が伝えられていないためである。

  3. 興正こうしょう

    既出。思円叡尊の諡号、興正菩薩。

  4. 忍性にんしょう

    興正菩薩叡尊の弟子。母の死をきっかけに出家し官僧となるが、後に叡尊の門下に参じて正しく仏教の出家者となる。特に文殊信仰に篤く、戒律を厳しく守りつつ、文殊菩薩の誓願に基づいて貧者・病者をはじめ社会の最底辺の人々の救済に力を尽くした。叡尊が西大寺を拠点として活動したのに対し、忍性は鎌倉幕府の執権北条氏から帰依を受けて鎌倉を拠点として活動した。同時期の日蓮は特に忍性を目の敵とし、罵詈雑言の限りを盡くし、また法力比べや宗論などを挑まれているが、忍性はまったく相手にしなかった。日蓮の書に忍性を誹謗する文言は多く見られるが、忍性の書には日蓮に言及する文言は、その名についてすら無い。それは忍性の立てた十誓に基づくものであったとされる。結局、日蓮は最終的には忍性の徳と行業とを認めざるを得なくなって認めている。

  5. 澆末ぎょうまつ

    澆は軽薄の意。道徳が衰え世情が乱れた世。澆季に同じ。

  6. 崛起くっき

    急に立つこと。群を抜いて躍り出ること。

  7. 玄綱げんこう

    仏教の綱要。

  8. 法幟ほうし

    真理の旗印。法は真理、特に仏法を意味し、幟は旗など標識。

  9. 大心だいしん薩埵さった

    一般的な語ではないが、おそらく大菩薩の意であろう。大心は大菩提心の略で、薩埵とはサンスクリットsattvaあるいはパーリ語sattaの音写で、存在する者、命ある者の意。

  10. 願轂がんこく

    轂は車輪の中央部。ここでは「誓願という乗り物」というほどの意で用いているのであろう。

  11. 赤縣せきけん

    都。ここでは唐(明)の意。

  12. 淸泰しょうたい

    「淸泰」は『阿彌陀鼓音声王陀羅尼経(鼓音声経)』に説かれる阿弥陀仏の国土の称。いわゆる極楽浄土の異称とされる。死後、極楽浄土に転生(往生)することの謂。

  13. 閻浮えんぶ

    閻浮提の略。閻浮提は[S] jambudvīpaの音写。仏教の世界観で須弥山の南に位置するとされる逆三角形の大陸で、我々が住まう地。

  14. 凛然りんねん

    寒さ厳しい時のように、覇気として引き締まった様。

  15. 鶴林かくりん

    入滅の間際を表現した語。仏陀が入滅(般涅槃)する際、その東西南北の四方に二本づつ、計八本立っていた沙羅の樹は、時ならずして白い花を一斉に咲かせ、その姿があたかも白鶴の群集が如き様であったということから、仏陀の入滅あるいは高僧の入滅をして鶴林と表する。

  16. 俊彦しゅんげん

    優れた男子。

  17. 四衆ししゅ

    仏教徒を出家在家の男女をまとめて言う語。四とは比丘・比丘尼・優婆塞・優婆夷で、それぞれ正式な男女の出家者と男女の在家信者を意味する語。より詳しくは七衆という。

  18. 禪林ぜんりん

    禅寺、修禅の道場。
    月潭がこの『行業曲記』を著した江戸前期の当時、すでに俊正律師らの興律の影響は律宗だけではなく真言宗・天台宗・禅宗・浄土宗・法華宗にも及んでおり、特に臨済系のそれへの影響は甚だ大なるものであった。もっとも、律師らが当初目指した通仏教的戒律復興、いわば仏教そのものの復興を志したのとは異なり、それぞれが「吾が仏尊し」精神を山盛りもっての「まずは我が宗派ありき」を前提とした戒律復興の動きをした。結局そのような動きによって、そもそも戒律復興の本質など見失われていき、ただ「律院」だの「僧坊」だのと名乗るだけであり、また教学的に律が云々とするだけで実質まるで元の木阿弥であるのがほとんどとなっていった。

  19. 敎庠きょうしょう

    学び舎。仏教を学ぶ場所。いわゆる学林のこと。

  20. 毘尼びに

    [S/P]vinayaの音写。その意は調伏であり、すなわち律のこと。毘奈耶とも音写されている。

  21. 槇阜しんぶ

    槇尾山。阜は小高い丘の意。

  22. 紵麻ちょま

    支那の終南山。唐代初頭の南山大師道宣の住した終南山を紵麻蘭若といった。

  23. 靈芝れいし

    支那の霊芝崇福寺。南宋の大智律師元照が長く住した。ここではそれぞれ南山律宗の支那の本拠とされた地の往時における姿が、まさに日本の槇尾山において再現されていたと称賛する意図でこのように表している。

  24. 自誓じせい受戒じゅかい血脉けちみゃく

    慶長十五年〈1610〉一月廿六日に描かれたという自誓受戒の血脈図(系図)。『明忍律師之行状記』に載るもので、釈迦牟尼から弥勒、そして叡尊に至るまでの極めて簡略な系図。南山律宗(道宣・元照)の系統と法相宗(玄奘・慈恩)の系統、そして弥勒から直接叡尊に至るという三系統が合されたものとして描かれている。

  25. 興祖こうそ

    興正菩薩叡尊。

  26. 往生要集おうじょうようしゅう

    平安中期、天台宗の恵心僧都源信によって著された極楽往生の肝心についての書。日本だけではなく、支那においても浄土教が持て囃される契機となった。

  27. 居恆きょこう

    常日頃、平生。居常に同じ。

  28. 淨域じょういき

    極楽浄土。

  29. 梵行ぼんぎょう

    清らかな行い。本来的には一切の性的行為を制する事であるというが、ここではより広範に持戒清浄であること。

  30. 芬芳ふんぽう

    芳しい香り。

  31. 大智だいちしょう

    大智律師湛然元照。宋代、衰退していた南山律宗を復興しようと勤めた支那僧。鎌倉期に渡宋した俊芿によりその著作の多くが日本にもたらされ、以来律宗において珍重された。特に道宣『行事鈔』を注釈した『行事鈔資持記』および『仏制比丘六物図』は重要で、律宗のみならず禅宗および浄土教徒でも広く参照された。
    元照は支那天台宗の学僧でもあったが、ためにその律の解釈は多分に天台教学を差し込むものであった。彼の『資持記』などその著作を所依として律について理解する者らは、その故に「資持家」などと言われた。したがって道宣以来、日本では古代の鑑真による律理解と、中世の律宗の理解は同じではないことに注意。なお、彼は戒律復興を志しつつ、晩年は浄土教にも傾倒。その影響が日本の律家にも及び、彼を手本に浄土教も并せて行う人々が多く現れるが、俊正律師もまたそのうちの一人であった。

  32. もう

    道理の通じない愚か者。何もわからない子供。ここでは著者月潭が自身を謙遜してそう自称している。

  33. 師の手書の聖典しょうてんならびに講律日記等

    明忍が自ら書写した典籍やその手紙など、その相当数が今も平等心王院(西明寺)に保存されており、特に重要な手紙などは軸装されて伝承されている。月潭はそれを平等心王院にて実際に読んでいたという。これは月潭がその伝記の編纂を頼まれる前のことであるというから、月潭は以前から平等心王院の衆僧と親しく交流、すなわち律を彼らを通して学んでいたのである。
    そもそも月潭の出家の師は如雪文巌であったが、彼は槇尾山平等心王院第八代衆首であった全理惠燈を証明師として比丘となったもと律僧であり、後に臨済宗一絲文守の門下に参じて臨済僧となった人である。ここで月潭が槇尾山でそのように祖師の書を閲覧出来ていたことは、彼らが他宗に転じていたからといってその関係がまったく途絶していたということは全く無く、むしろ親しく通じていたことの証であろう。初期の槇尾山に集ってその衆徒となった者のそれぞれ出自来歴を全て知ることは現在出来ないが、そもそもその中の多くが禅宗など諸宗の者であった。

  34. 隨喜ずいき

    原義は大いに喜ぶこと、また仏教では自他のなす善行を喜ぶこと。ただし、ここではありがたく拝見することの意。

  35. 麤楮ちょそ

    粗い安物の和紙。

  36. 旧牘きゅうとく

    古紙、反故。

  37. 文房ぶんぼう四寚しほう

    文房四宝、すなわち筆・紙・硯・墨。

  38. かつ鄕母ごうもの書を獲て...

    明忍は京の母公からの手紙を頂戴するのみで開き見ず、茅壇の庵のほど近くを流れる小川に捨てていたという。後代、その小川は律師のこの故事に因んで「文捨川」と称されていたという。現在、対馬でその名を知る者は、近隣の者ですらまったくいない。  近年、対馬の島民の間ではその行業は忘れられていく一方で、ほとんどまったく律師の名など知られていないけれども、対馬ではいまだ明忍律師の足跡を辿ることが可能である。なお文捨川とは、山中を流れるごくごく小さな小川であるが、現在はほとんど涸れており、雨が降った時にのみ山中の水が流れる程度のものとなっている。しかしながら山中、ところどころ昔の石積みでいわば護岸がなされているから、その昔は一定の水量があったのであろう。

  39. 昺鐵面へいてつめんの故事

    南宋代の支那で編纂された『禅林宝訓』に載る逸話。鉄面昺禅師は法を尋ねて故郷を離れ行脚している際、(故郷からの)手紙を得てもそれを開き見ること無く、我が心を乱すだけであるとして地に投げ捨てていたという。この話は明代に編纂された禅のいわば入門書『禅関策進』にも収録されており、日本にももたらされて禅家に広く読まれた。月潭はここで、その鉄面昺禅師と俊正明忍律師とを重ねて見ている。

  40. 賢俊けんしゅん大德

    賢俊良永。対馬宋家の息子で、若年で高野山にて出家させられていた。宋家の嫡子ではなく、次男三男や従兄弟であったのあろうが、当時宋家は次々代替わりしており、家内が混乱していたためであったろう。  賢俊は対馬に里帰りしていた際、偶然にも俊正明忍律師と邂逅していた。そこで賢俊は俊正に受戒を請うたというが断られ、むしろ平等心王院に行くことを勧められている。そこで彼は、これは結果的にであったろうが、俊正の死後に慧雲のもとで沙弥出家して交衆し、その翌年に自誓受戒して比丘となっている。しかしながら初めての安居を終えたばかりにも関わらず、彼は槇尾山を出て高野山に帰ることの許しを請う。これはかなり非常識な、むしろ律を破る行為であったために当然許されず、しかしその主張をなんとしても押し通したい賢俊は京都所司代を巻き込んでの訴訟とした。結果的に彼はその主張が公儀によって許され高野山に帰り、真別処に円通律寺を開いて高野山における律学の道場とすることとなる。また、その後に法隆寺北室院を永世の律院僧坊として中興。終生、興律のために勤め、大阪叡福寺にてその生を終えている。

  41. 曼殊まんじゅ洛叉らくしゃの法

    曼殊は文殊菩薩で、ここでは文殊菩薩の五字真言のこと。洛叉はサンスクリットの音写で十万の意。すなわち曼殊洛叉とは文殊菩薩の五字呪arapacanaを十万回唱える密教の修習法のこと。文殊信仰自体は真言密教において普通に見られるものであるが、律宗では西大寺叡尊の弟子忍性に顕著に見られた。

  42. 假寐かび

    仮寝、うたたね。

  43. 高雄たかお法身院ほっしんいん俊正しゅんしょう

    ここで念正なる僧が、それはいまだ俊正律師在世のときのことであると言うが、夢中に菩薩から聞いたという言葉は「槇尾山平等心王院俊正」ではなく「高雄法身院俊正」であったとされる。この言はその当時、いまだ槇尾山平等心王院の伽藍がいわゆる僧坊として全き状態でなかったことを示したものと見て良い。もしそれがすでに確立されたものであったならば、「高雄法身院俊正」ということは無かったであろう。故にこの伝承は(その事実としての真偽は別として)現実味ある話として聞こえる。
    彼らは晋海僧正の後援のもと、神護寺の子院をむしろ本拠としていた。実際、同志であった友尊にしろ慧雲にしろ、逝去したのは槇尾山平等心王院ではなく、高雄山神護寺の子院においてであった。あるいは晋海は当初、神護寺の後継者として俊正律師を考えていたやも知れない。俊正の出自としても、その任に十分堪えうるものではあった。

  44. 梵德ぼんとく

    穢れ無き徳。
    梵は一般に印度における最高神の一である梵天(Brahmā)、あるいは印度における階級制度の最高位である婆羅門(brāhmaṇa)、または広く印度一般を指す語であるが、ここでは清らか、崇高の意。

  45. 宏㴱こうしん

    広く深いこと。

  46. 異馥いふく

    尋常ならざる芳しい香り。

  47. 易簀えきさく

    学徳の高い者や高貴な者が死ぬこと。

  48. 祥光しょうこう

    吉祥なる光。あやしき光。

  49. 屬纊しょくこう

    臨終、人の死に際。

  50. 五臺ごだい

    五台山の略。文殊菩薩の居処(清涼山)として信仰される、支那の山。ここでは文殊菩薩自身を指していう語。

  51. 應化おうけ

    応化身の略。化身。仏陀や大菩薩が衆生済度のために、その誓願力によって様々な姿に変化し現した存在とされるもの。

  52. 建仁長老松堂しょうどうしょく

    建仁寺三百十一代長老松堂宗植。彼もまた俊正律師を敬しており、自ら対馬に赴任したことを好機としてその足跡を辿った。臨済宗は、これを日本にもたらした栄西の昔はそもそも持律持戒で密教兼修なるあり方であったが、時代が下るごとに禅一向宗と化していった。そのようなところに俊正律師の活躍に影響され、意識的無意識的に往時のあり方をやや取り戻したのである。

  53. 鈞命きんめい

    君主からの命令。

  54. しき

    朝鮮修文職。江戸幕府が対馬の以酊庵に派遣した朝鮮との外交担当職。外交文書の作成や解読、使節の応対などを担った。特に漢文に秀でた禅宗の、京都五山の住職らが輪番でこの役に就いた。松堂宗植は朝鮮修文職第三十四代で、貞享三年三月から元禄元年四月までの二年間、この輪番職にて対馬にあった。

  55. 對府たいしゅう

    対馬。

  56. 以酊庵いていあん

    対馬に創建された朝鮮外交を担った施設。名目上は寺。 創始者は臨済僧景轍玄蘇であるが、彼は江戸幕府が開かれる以前から対馬の大名宋家に招かれ、その外交にあたっていた。文禄の役の際には秀吉の命を受け、朝鮮および明との交渉役となった。江戸期に入っても同様、朝鮮との交渉を一任される立場となって、慶長十六年にその拠点として以酊庵を開いた。
    以酊庵は消失して現存しておらず、当時あった場所もおおよその場所が分かる程度で確かなことは知られていない。現在、まったく別の場所に移された西山寺が以酊庵跡とされており、景轍の墓もそこに移設されている。

  57. 府内ふない

    現在は厳原と言われている一帯の古名。

  58. 宮谷みやだに

    清水山城東側一帯。今も宮谷の地名は残されており、厳原町宮谷としてある。当時、ここら一帯は対馬のいわば中心地であって、情報を収集するにも便利な地であったのであろう。あるいは俊正律師が、昔官人(中原氏・清原氏)であった時の何らかつてを辿った結果として、宮谷のような中心地に最初居住することになったのかもしれない。

  59. 夷崎いさき

    現在の厳原港の南にある岬。戒山はここで「府治の西南」とするが、実際は府治から見ると南あるいは南東に位置する小さな崎である。宋家の船江からほぼ真東に位置する。茅壇のふもとあたり一体は、今は湾岸部を埋め立て新しい自動車道を走らせているが、往時はそこらは入り江の磯辺か浜辺であったろう。
    律師が住まっていたという萱壇から見下ろせば、今は雑木が生い茂って見難くなってはいるが、その昔は樹などほとんど無くて眼下にその入り江をはっきり見ることが出来たであろう。そしてその右端に夷崎を望むことが出来たに違いない。なお、今の対馬の島民には夷崎などという古名は知られておらず、地元民に聞いたとしても何らわかりはしない。

  60. 經行きょうぎょう

    修禅で疲れた身体を伸ばし、和らげるためなどにゆっくりと歩くこと。けれども、ここでは単に「散歩した」という程度のことを表現としてこう言ったのであろう。なお、これを近世以来、禅宗は呉音でなく唐音で「きんひん」などと読む。

  61. 海岸かいがん精舎しょうじゃ

    海岸寺。現在は浄土宗の寺院として現存。俊正律師が滞在した茅壇のほぼ真下の、海から少しく上がった所に位置する寺院。ほんの十数年前にはここに俊正律師像とその図像、および俊正律師のものと「される」(実際は間違いなく違う)五条袈裟があったが、韓国の盗賊によって盗まれ、今はその所在が知られなくなっている。

  62. 智順ちじゅん

    海岸寺を中興した僧。出自など未詳。しかしながらその位牌は海岸寺に今も祀られており、元和四年十月一日に逝去したことは判明している。享年八十九歳。

  63. 闍維じゃい

    [S]jhāpetaの音写。荼毘に同じ。

  64. 𡨧堵そと

    卒塔婆の略。墓塔。

  65. だ松樹一株をうえるのみ

    当時植えられたというこの松は、今萱壇の山中に見出すことは出来ない。あるいはどこかに今もあるかもしれない。

  66. 合抱がっぽう偃蹇えんけん

    「合抱」は両手を広げてひとかかえするほどの大きさ、「偃蹇」はそびえ立つ様。

  67. 翠色すいしき鬱然うつねん

    「翠色」は緑色、「鬱然」は草木の覆い茂った様で、鬱蒼に同じ。

  68. 斧斤ふきん

    木こり。

  69. 現光げんこう雲松うんしょう大德

    雲松實道。槇尾山衆僧の一人。現在の京都府木津川市加茂町加茂町にある現光寺中興、また宇治田原の巖松院三世。日政(深草元政)に『行業記』の執筆を依頼した省我比丘と同時に自誓受具した人。

  70. 師の嘉言かげん懿行いこう、前哲の記する...

    同門で同法侶たる省我の依頼により、日蓮宗の日政が著した『行業記』の内容に、まったく雲松は不満足であったのであろう。実際、『行業記』を著した日政自身はその末尾に「吾れ憾むらくは文獻足らず、律師の聲徳を述ぶるに堪へざることを」と述べているが、それは律師の偉業を伝え残すには全く足りないものと槇尾山衆徒らは不満であったのであろう。そこで文筆に優れ、また自身も律学を嗜んでいた月潭に白羽の矢を立てることとなったことが、ここで月潭自身によって語られている。

  71. 菲才ひさい

    劣った才能。才能が乏しいこと。

  72. 堯遠ぎょうおんせん公の錄する所の事實

    槇尾山衆僧の一人であった堯遠不筌により編纂された『明忍律師之行状』。ここで「録する所の事實」と言われているように、これはただ書き残されたものを引き写し、また聞き集めたことを記した程度であって、公式の伝記とするには体裁がまったく整えられていないものである。その故に省我は日政にその伝記の執筆を依頼し、また雲松は改めて月潭により良いものの執筆を依頼したのであろう。

  73. 歆艷きんえん

    心から慕い、憧れること。羨慕に同じ。

  74. 嘉平かへい

    十二月。嘉平は支那において十二月に行われた臘祭の異称。転じて十二月を指す語となった。

  75. 中浣日ちゅうがんにち

    月のうち十一日から二十日。中旬。
    浣は元来「洗う」を意味する語で、唐代の支那において役人が十日毎に勤務した後、帰宅して入浴・休息することを許されたことから、転じて十日間(旬)を意味するようになった。

  76. 峩山がざん沙門道徴月潭どうちょうげったん

    月潭道徴。永源寺の中興二世となった臨済僧、如雪文巌の弟子として出家し、やがて京都嵯峨に直指庵を結んで住した独照性円の膝下に入るも、師と共に明から日本に渡来してきた臨済宗黄檗派(黄檗宗)の隠元隆琦の門下に参じてその法を継いだ黄檗僧。隠元が黄檗山萬福寺で没して後、師の直指庵を継いでその二世となった。

  77. 和南わなん

    [S/P] vandana. 敬礼の意。僧同士の挨拶の際、特に下臈から上臈に対して用いる語。

明忍律師について

明忍伝