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Dharmacakra
智慧之大海 ―去聖の為に絶学を継ぐ

四念住(四念処) ―Smṛtyupasthāna / Satipaṭṭhāna

説一切有部における定義

『倶舎論』

説一切有部せついっさいうぶ(以下、有部うぶ)における四念住の定義・位置づけはどのようなものか。

これは純粋なる有部の綱要書とは言えないものではありますが、しかし、カシミール・チベット・支那・日本などの往古の仏教諸国では、通じて最も基本的で重要な書として古来学ばれ用いられてきた『阿毘達磨倶舎論あびだつまくしゃろん』(以下、『倶舎論くしゃろん』)を用います。

『倶舎論』は四、五世紀の印度で活躍した学匠がくしょう世親せしんVasubandhuヴァスバンドゥ)によって著された、有部の教学の批判的綱要書です。『倶舎論』はいわゆる修道書とは異なります。故に、それが『念処経』などの契経に詳細にされていることもあって、具体的に四念住をいかに修習するかの詳細ではなく、その定義や修道における位置づけなどが示されているに過ぎません。

しかし、四念住についての有部の見解、特に『大毘婆沙論だいびばしゃろん』にある説を簡潔にまとめつつ、さらに世親個人の所見、これは経量部ならびに大乗の唯識ひいては中観派にも連なるものですが、説かれています。故に、それらをまとめて見るにすこぶる益のあるものです。

また、インドからチベット、また中国そして日本といった、大乗の系統で四念住が古来どのように理解されてきたかを知るにも、いや、これはなにも四念住に限って言うことではありませんが、『倶舎論』に触れないわけには決していきません。

大乗における四念住の定義や位置づけなどその見解は、印度のものとしては『大般若経』・『華厳経』・龍樹りゅうじゅ大智度論だいちどろん』・弥勒みろく瑜伽師地論ゆがしぢろん』・無着むじゃく摂大乗論しょうだいじょうろん』・世親『摂大乗論釈しょうだいじょうろんしゃく』などなど諸経論を学び、さらに支那の諸学僧におけるそれを見るには特に『大般涅槃経だいはつねはんぎょう』後分や天台大師智顗ちぎ『四念処』を読む必要があります。しかしながらそれらも結局、有部の四念住理解が基礎、前提とされており、したがって『倶舎論』を無視して理解できるものではありません。

有部における念住理解

以下に『倶舎論』が四念住について論じている重要な一節と、その現代語訳を併せて示します。

それに際し、『倶舎論』はサンスクリット原典が伝わっているため、それを直に引いて訳するが良いかと考えられるかも知れません。が、ここでは支那および日本で古来いかに理解されてきたかを知るために、敢えて漢訳本を用います。

とは言うものの、せっかく伝わっている原典を全く用いないのは愚というもの。ですので、漢訳を現代語訳するに際して梵本(Pradhan版)を参照し、重要な語句には対応する原語を、そして経典からの引用がなされている場合はその典拠を括弧内に適宜付しておきます。

頌曰
依已修成止 爲觀修念住 
以自相共相 觀身受心法 
自性聞等慧 餘相雜所縁 
説次第隨生 治倒故唯四
論曰。依已修成滿勝奢摩他。為毘鉢舍那修四念住。如何修習四念住耶。謂以自共相觀身受心法。身受心法各別自性名為自相。一切有為皆非常性。一切有漏皆是苦性。及一切法空非我性名為共相。身自性者。大種造色。受心自性如自名顯。法自性者。除三餘法。傳說。在定以極微剎那。各別觀身名身念住滿。餘三滿相如應當知。何等名為四念住體。此四念住體各有三。自性相雜所緣別故。自性念住以慧為體。此慧有三種。謂聞等所成。即此亦名三種念住。相雜念住以慧所餘俱有為體。所緣念住以慧所緣諸法為體。寧知自性是慧非餘。經說。於身住循身觀名身念住。餘三亦然。諸循觀名唯目慧體。非慧無有循觀用故。何緣於慧立念住名。毘婆沙師說。此品念增故。是念力持慧得轉義。如斧破木由楔力持。理實應言慧令念住。是故於慧立念住名。隨慧所觀能明記故。由此無滅作如是言。若有能於身住循身觀。緣身念得住乃至廣說。世尊亦說。若有於身住循身觀者念便住不謬。 《中略》
此四念住說次隨生。生復何緣次第如是。隨境麁者應先觀故。或諸欲貪於身處轉。故四念住觀身在初。然貪於身由欣樂受。欣樂於受由心不調。心之不調由惑未斷。故觀受等如是次第。此四念住如次治彼淨樂常我四種顛倒。故唯有四不增不減。
頌に曰く、
すでに止を修成するに依て、観の為に念住を修す。
自相と共相とを以て、身・受・心・法を観ず。
自性は聞等の慧なり。余は相雑と所縁となり。
説の次第は生ずるに隨う。倒を治するが故に唯だ四のみ。
論じて曰く、すぐれた奢摩他しゃまた〈śamatha. 止. 特に持息念と不浄観〉をすでに修め、成就じょうじゅしたことに依って、毘鉢舍那びぱしゃな〈vipaśyanā. 観〉のために四念住を修める。では何が四念住の修習であるかと言えば、自相じそう共相ぐうそうとを以って身〈kāya〉・受〈vedanā〉・心〈citta〉・法〈dharma〉を観察することである。
 身・受・心・法のそれぞれ異なっている自性じしょう〈svabhāva〉を名づけて、自相〈svalakṣaṇa〉という。一切の有為ういはすべて、常ならざるしょう〈anityatā. 無常性・非常性〉である。一切の有漏うろはすべて苦なる性〈duḥkhatā. 苦性〉であり、及び一切の法は空性くうしょう〈śūnyatā〉であって、我ならざる性〈anātmatā. 無我性・非我性〉であるのを名づけて、共相〈sāmānyalakṣaṇa〉という。身の自性とは、四大種〈地・水・火・風〉と(それらで構成される)四大所造色とである。受と心の自性は、その名自身によって顕われているであろう。法の自性とは、(前の身・受・心)三つを除くその他の物事である。
 (説一切有部の論師が)伝説するには、「じょう〈samāhita. 等引〉にあって、極微ごくみ〈paramāṇu〉刹那せつな〈kṣaṇika〉とを以って各別に身を観ることを名づけて、身念住〈kāyasmṛtyupasthāna〉の完成〈niṣpanna〉という。他の三の完成についても同様に知るべきである」と云う。(けれども、それは不当であろう。)
 何が四念住の自性であろうか?この四念住の本体には各々三つある。自性じしょう相雑そうぞう所縁しょえんとが別であるためである。自性念住は慧〈prajñā〉を以ってたい〈自性〉とする。この慧には三種あるが、それはもん〈聞・思・修〉所成慧しょじょうえである。すなわち、これをまた三種念住と名づける。相雑念住は、慧と共なる(心の)働きを以って体とする。所縁念住は、慧の対象となる諸法を以って体とする。
 では、どのように知るというのであろうか?(念住の)自性が慧であってその他のものでないということを。それは経に説かれている、「身において循身観じゅんしんかん〈kāyānupaśin〉に住することを名づけ、身念住〈smṛtyupasthāna〉とする。他の三もまた同様である」と。諸々の循観じゅんかん〈anupaśyanā〉の名は唯だ、慧を体とする。慧でなければ、循観の働きなどあり得ないためである。
 では、どのようなことから慧(を本質とするもの)について(「慧住」でなくて)「念住」との名を立てたのであろう?(説一切有部の)論師は説く、「これは念(の働き)が増すためである。念の力が支え持ち、慧(の働き)に転じる意味からである。たとえば斧が木を倒すのに、楔の力が支えとなるようなものである」と。
 (私世親の見解からすれば)理としては、まさしく慧こそが念を住させるものであることから、その故に慧が生じることに於いて念住と名づけると云うべきである。(念住の念は)慧が観たままに、よく(その認識対象を)明記するためである。これによって、阿那律あなりつ〈Aniruddha. 天眼第一とされた仏陀の直弟子の一人〉はこのように言われている。「もしよく身に於いて循身観に住したならば、身を所縁とする念〈kāyālambanānusmṛti〉が確立される」〈『雑阿含経』巻十九〉と、また続けてさらに詳しく説かれている。世尊もまた説かれている、「もし身に於いて循身観に住したならば、念はすなわち留まって、謬ることがない」〈『雑阿含経』巻十一〉と。
《中略》
 この四念住が(身・受・心・法との)次第で説かれたのは、それが生じる順に従っているのである。
生じるというが、どのような理由で次第してそのようであるのか?対象の麁大なものから(微細なものへと)順に観じていかなければならない為である。あるいは、諸々の欲貪〈kāmarāga〉は身体において生じるものである。その故に、四念住は身を観じることが初めにあるのである。けれども、身を貪することは、(楽なる)受を願い求めることに起因する。受を願い求めることは、心が調御されないことに起因する。心が調御ちょうごされないことは、わく〈煩悩〉がいまだ断じられていないことに起因するのである。故に、受などを観じるに、そのような順となっている。 この四念処はその順に、浄・楽・我・常の四顛倒してんどうを治する。故にただ四あるのみで、それより多くも少なくもない。

世親『阿毘達磨倶舎論』巻廿三 分別賢聖品 (T29, P119a)

以上のように、『倶舎論』では「為毘鉢舍那修四念住(毘鉢舍那びぱしゃなの為に四念住を修す)」とされています。

毘鉢舍那びぱしゃなとは、[S]vipaśyanāヴィパシュヤナー([P]vipassanāヴィパッサナー)の音写で、止観しかんのうちの「観」であり、あらゆる事物がすべて無常・苦・空性・無我をしょう〈本質〉としていることを観達する修習を意味します。そして、それがまた念住の定義となっており、さらに身・受・心・法それぞれ特有の相(自相)を観察することとなっています。

毘鉢舍那は、奢摩他しゃまた([S]śamathaシャマタ / [P]samathaサマタ)、すなわち止の修習において一定の成就を果たして初めて行い得るものです。上に示した一節の冒頭にて「依已修成滿勝奢摩他(勝れた奢摩他を已に修め成満することに依て)」とあるのは、それを意味したものです。

なお、『倶舎論』において四念住の具体的な修習として前提とされているのは、持息念じそくねん安那般那念あんなぱんなねん)と不浄観ふじょうかんです。これについては別項において詳説しますが、その二つの修習は、止と観との双つ并び修める重層構造(あるいは相関性)となっています。

説一切有部では、念住とは、その称として「念」の名を冠してはいるけれども、その自性(svābhava)〈本質〉は慧(prajñā)としたものであるとされます。そこで、「ならば何故に『慧住』といわずに『念住』というのか?」との問いを立て、「念の働きが無ければ循観じゅんかんanupaśyanāアヌパシュヤナー / 随観)の用があり得ないためである」と、人が容易く起こすであろうその疑問に答えています。

なぜ「念住」というのか?

ここで、上掲の『倶舎論』の一節の根拠となっている、「なぜ念住というのか」の理由を挙げ連ねる『大毘婆沙論』の一節を、これもまた少々長いものとなってしまいますが、参考までに以下に示します。

問念住以何為自性。為以念為以慧耶。若以念者。此說云何通。如說於身循身觀。乃至廣說。若以慧者。何故名念住。又契經說當云何通。如說於何處應觀念根。謂於四念住。答應說慧為自性。問若爾。何故名念住耶。答念於此住等住。各住故名念住。如象馬等所住處名象馬等住。此亦如是。有說。此由念力能於所緣起差別廣博作用。而不失壞故名念住。有說。由念力故此瑜伽師審記所緣。於所緣境忘已還憶。故名念住。有說。此修行者於所緣中先以念安住然後觀察。復於所緣先通達已後以念安住為守護故。如守門者故名念住。有說。此修行者於所緣境。先以念攝持。後以慧觀察。而斷煩惱。譬如田夫先以左手攬取草等。後以右手執鎌刈之。此亦如是。故名念住。有說。此瑜伽師被念鎧甲。於心相續上。執慧刀杖在生死陣中。不為煩惱怨所降伏。而能降伏於彼故名念住。有說。為遮取自性過故說名念住。若名慧住者便有取自性過失。有說。為顯非唯自性能有所作故名念住。由是等緣。但名念住不名慧住。
問:念住とは何を自性じしょうとするのであろうか。念であろうか?慧であろうか?もし念であるというならば、この説はどのように解釈すべきであろう、(契経かいきょうにある)「身循身觀乃至広説」という説について。もし慧であるというならば、何故に念住というのであろう。また契経の説をどのように解釈すべきというのか。「何処に於いて當に念根を観ずべきであろうか。それは四念住である」との説である。
答:まさに慧が自性であると説くべきである。
問:もしそうであるならば、何故に念住というのか?
答:念はここにおいて住し〈留まり〉、等住し、各住するために念住という。象や馬などが住む場所を、象や馬などの住というようなものである。これ(念住という名)もまた同様である。
ある者はこのようにも説く、「これは念力によって、よく所縁〈認識対象〉を分別し詳細に作用して、(対象を)失うことがないために念住という」と。
ある者はこのように説く、「念力によって、この瑜伽師ゆがし〈瑜伽行者〉は審らかに対象を認識し、所縁の境〈対象の事物〉を忘れたとしても、また思い出すことによって、念住と言う」と。
ある者はこのように説く、「この行者は、所縁の中で先ず念を以って安住し、その後に観察する。また所縁について先ず通達して後に、念を以って安住し、(心を)守護することから、守門者〈五根を守護して五欲に惑わせぬ者〉の様であることから、念住と言う」と。
ある者はこのように説く、「この行者が、所縁の境を先ず念を以って摂持し、後に慧を以って観察し、そして煩悩を断ずるのだ。譬えば農夫が先ず左手で以って草などを掴み、後に右手で以って鎌を手にして、これを刈るようなものである。これもまた同様である。そのことから念住と言う」と。
ある者はこのように説く、「これは瑜伽師が、念という甲冑を被り、心相続の上に慧という刀杖を手にすれば、生死しょうじという戦場にあっても煩悩という怨敵に打ち負かされること無く、むしろよく彼〈煩悩〉を打ち負かすことから、念住と言う」と。
ある者はこのように説く、「自性じしょうを認める過失を防ぐために、念住と言う。もし慧住と言ったならば、自性を認める過失があるであろう」と。
ある者はこのように説く、「唯だ自性のみが能く作すところではないことを顕そうとすることから、念住と言う」と。これらのことから、ただ「念住」と言って「慧住」とは言わないのだ。

『大毘婆沙論』巻百八十七 (T27, p.938b)

前述の通り、四念住とは、「阿含経」にて修道の具体的法およびその徳として総括して説かれる、三十七菩提分法さんじゅうしちぼだいぶんぽうの一角を担うものです。三十七菩提分法とは四念住を初め、四正断ししょうだん四神足しじんそく五根ごこん五力ごりき七覚支しちかくし八聖道はっしょうどうの七つの範疇で計三十七支あることによる称で、また三十七道品さんじゅうしちどうほんともいわれます。

『倶舎論』ではそれら三十七菩提分法について論じられる中、その七つの範疇が説かれた順序には特に意味が無く、ただその数の順にまとめられたものであるとしています。ただし、一説として以下の様な見解もあることも紹介されています。

有餘。於此不破契經所說次第立念住等。謂修行者將修行時。於多境中其心馳散。先修念住制伏其心故。契經言。此四念住能於境界繫縛其心。及正遣除耽嗜依念。是故念住說在最初。
ある者らはこれ〈三十七菩提分法〉について、契経かいきょうに説かれるその順序を乱すこと無く、念住ねんじゅうなど(についての所見)を立てる。「修行者がまさに修行しようとする時、多くのきょう〈認識対象〉に対して、その心があちこちと飛び回ることから、先ず念住を修め、その心を制し伏すのだ」。故に契経に言われる、「この四念住は、よく境界に於いてその心をつなぎ止め、そして正しく貪欲に基づいたおもい〈思考〉を除く」〈『中阿含経』巻五十二「調御地経」〉と。このことから念住を説いて(三十七菩提分法の)最初とする。

世親『阿毘達磨倶舎論』巻廿五 分別賢聖品 (T29. P133a)

これもやはり『大毘婆沙論』にそのような説があるのを特に挙げているものです。しかしながら、阿含経の随処で散説されるそれら七つの範疇それぞれは、最初から仏陀が三十七菩提分法などと体系立てて説かれていたのではありません。多くの場合、それぞれ別個に、独立して説かれていたものであったであろうことが、むしろ阿含経自身によって知られます。ただその中の幾つか、例えば四念住と七覚支は、もとより関連して説かれています。

それら別個に説かれていた修習にまつわる諸々の事柄が、やがて三十七菩提分法としてまとめ言われるようになった結果、それに対して以上のような理解が生まれたと考えられます。そして三十七菩提分法は今一般に、三十七種の修道「法」を総称したものであると云われます。

しかしながら、実はそのような説明は不適切であって、正しいものではありません。具体的に修道「法」であるといえるのは、ただ四念住だけです。そしてその四念住はまた詳説したのが、先に触れた持息念じそくねん安那般那念あんなぱんなねん)と不浄観ふじょうかんであり、また不浄観です。