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Dharmacakra
智慧之大海 ―去聖の為に絶学を継ぐ

四念住(四念処) ―Smṛtyupasthāna / Satipaṭṭhāna

上座部における定義

上座部における四念住

上座部じょうざぶにおいて、まずupaṭṭhānaウパッターナという語はどのように用いられ、理解されているか。

それには、上座部の教学を理解するのに不可欠といえる、経蔵に収録されているものの多分に注釈書的、阿毘達磨あびだるま的内容をもつ、Paṭisambhidāmaggaパティサンビダーマッガ(『無碍解道むげげどう』)の一節を示します。なお、上座部における伝説では、この典籍は尊者サーリプッタ(舎利弗)によって説かれたものとされています。

upaṭṭhānaṭṭhena satindriyaṃ abhiññeyyaṃ; [...]
upaṭṭhānaṭṭhena satisambojjhaṅgo abhiññeyyo; [...]
upaṭṭhānaṭṭhena sammāsati abhiññeyyā; [...]
upaṭṭhānaṭṭhena satipaṭṭhānā abhiññeyyā;
停留〈upaṭṭhāna〉の意によって念根〈satindriya〉は了解せられるべきである。《中略》
停留の意によって念覚支〈satisambojjhaṅga〉は了解せられるべきである。《中略》
停留の意によって正念〈sammāsati〉は了解せられるべきである。《中略》
停留の意によって念住〈satipaṭṭhāna〉は了解せられるべきである。

Paṭisambhidāmagga, Mahāvagga, ñāṇakathā, (KN 19)

このように『無碍解道』では、念根(satindriyaサティンドリヤ)・念覚支(satibojjhaṅgaサティボージャンガ)・正念(sammāsatiサンマーサティ)・念住(satipaṭṭhānaサティパッターナ)など、念に関する事柄は全てupaṭṭhānaという意味によって、今は一応これを「停留(留まること)」と訳しましたが、理解すべきことが繰り返し説かれています。あるいは、「随侍(付き従うこと)」と訳しても良いでしょう。

やはり、これはあたりまえと言えることなのかもしれませんが、satipaṭṭhānaはsati + upaṭṭhānaと解するのが本来で正しく、sati + paṭṭhānaであると解釈するのは「新しい」のでしょう。かと言って、後者の意味で取ることが、その意味内容として全くの誤りと必ずしもなりはしないでしょう。

そしてこれは、むしろ「念とは何か」を示す、非常に明瞭な一節となっています。一般に念とは「忘れないこと」を原意とするものですが、それはまた「(認識する対象に)とどまること」・「(認識する対象を)失わないこと」でもあります。念とは「気づき」などでは決してない。

あるいは、例えば「繋ぎ止める」という譬喩により四念住が説かれている経説があります。

seyyathāpi, aggivessana, hatthidamako mahantaṃ thambhaṃ pathaviyaṃ nikhaṇitvā āraññakassa nāgassa gīvāyaṃ upanibandhati āraññakānañceva sīlānaṃ abhinimmadanāya āraññakānañceva sarasaṅkappānaṃ abhinimmadanāya āraññakānañceva darathakilamathapariḷāhānaṃ abhinimmadanāya gāmante abhiramāpanāya manussakantesu sīlesu samādapanāya; evameva kho, aggivessana, ariyasāvakassa ime cattāro satipaṭṭhānā cetaso upanibandhanā honti gehasitānañceva sīlānaṃ abhinimmadanāya gehasitānañceva sarasaṅkappānaṃ abhinimmadanāya gehasitānañceva darathakilamathapariḷāhānaṃ abhinimmadanāya ñāyassa adhigamāya nibbānassa sacchikiriyāya.
アッギヴェッサナよ、あたかも象の調教師〈hatthidamaka. 象師〉が、巨大な柱を大地に掘り立て、それに森(に住む野生)の象の首とを繋ぎ止めることによって、森での(野生の)習慣を鎮め、森での(野生の)記憶と思考とを鎮め、森での(野生の)不安と疲労と熱〈消耗〉とを鎮める。そして、村での(生活を)楽しませ、人との(生活に)適応した習慣を教えこむようなものである。実にそのように、アッギヴェッサナよ、四念住〈cattāro satipaṭṭhāna〉が聖なる弟子の心を繋ぎ止めることによって、家族と共に過ごした(在俗での)習慣を鎮め、家族と共に過ごした(在俗での)記憶と思考とを鎮め、家族と共に過ごした(在俗での)不安と疲労と熱とを沈める。そのことによって、(聖なる弟子は)正道を獲得し、涅槃を現証するのである。

Uparipaṇṇāsapāḷi. Suññatavagga, Dantabhūmisutta (MN 125)

この経における「四念住が聖なる弟子の心を繋ぎ止めることによって」云々という一節は、説一切有部の論師によっても、四念住とは「意識を認識対象に繋ぎ止めること」であって、それで世俗(日常)の粗雑な心を制し伏すのであるとする説の根拠として用いられていたようで、それを世親は『倶舎論くしゃろん』の中で紹介しています。これについてはまた説一切有部での四念住理解の項で後述します。

いずれにせよ、念住(satipaṭṭhāna)をして「繋ぎ止めること(upanibandhanaウパニバンダナ)」であるとするこの経(Dantabhūmi-suttaダンタブーミ・スッタ)は、念ひいては念住がいかなるものであるかを理解する、大きな一助とすべきものです。

(念自体の意味・内容については、別項「念とは何か」を参照のこと。)

さてまた、同じ上座部ではあったものの、 大寺だいじ派所属の典籍ではなく無畏山寺むいさんじ派所属のもので、阿羅漢であると称されていたUpatissaウパティッサ優波底沙うぱていしゃ)によって著された、Vimuttimaggaヴィムッティマッガの漢訳『解脱道論げだつどうろん』にては、以下のように念住をいう一説があります。

令住義念處
住せしめる〈留まらしめる〉という意味によって念処である。

『無碍解道』巻十二 分別諦品第十二之二 (T32, p.457c)

『解脱道論』は、先に挙げた『無碍解道』の所説を忠実に受けた記述が多く見られるのですが、この一説はまさにその様なものであろうと思われます。これを漢訳した扶南ふなん(現カンボジア)出身の僧伽婆羅そうぎゃばらSaṃghabharaサンガバラ?)は、upaṭṭhānaṭṭhenaを「令住義(住せしむる義)」としているので、他の三蔵たちと同様に、「留まる」といった意味で解していることが解ります。

さて、また念住について、上座部の阿毘達磨典籍の一つVibhanghaヴィバンガ(『分別論ふんべつろん』)ではSatipaṭṭhānavibhaṅgaサティパッターナヴィバンガ(「念住分別ねんじゅうふんべつ」)という一章が設けられ、そこで様々に語句の定義がなされています。そこでは、経典の語句の一々を定義する経分別きょうふんべつと、それを踏まえた上でこれを教義的に分析する阿毘達磨分別あびだるまふんべつの別がまたあります。

ここでは、そのうち阿毘達磨分別の最後の一説をのみ、それでも少々長く煩雑となってしまうのですが、重要なので以下に示します。

tattha katamaṃ satipaṭṭhānaṃ? idha bhikkhu yasmiṃ samaye lokuttaraṃ jhānaṃ bhāveti niyyānikaṃ apacayagāmiṃ diṭṭhigatānaṃ pahānāya paṭhamāya bhūmiyā pattiyā vivicceva kāmehi (vivicca akusalehi dhammehi savitakkaṃ savicāraṃ vivekajaṃ pītisukhaṃ) paṭhamaṃ jhānaṃ upasampajja viharati dukkhapaṭipadaṃ dandhābhiññaṃ, tasmiṃ samaye phasso hoti (vedanā hoti, saññā hoti, cetanā hoti, cittaṃ hoti, vitakko hoti, vicāro hoti, pīti hoti, sukhaṃ hoti, cittassekaggatā hoti, saddhindriyaṃ hoti, vīriyindriyaṃ hoti, satindriyaṃ hoti, samādhindriyaṃ hoti, paññindriyaṃ hoti, manindriyaṃ hoti, somanassindriyaṃ hoti, jīvitindriyaṃ hoti, anaññātaññassāmītindriyaṃ hoti, sammādiṭṭhi hoti, sammāsaṅkappo hoti, sammāvācā hoti, sammākammanto hoti, sammāājīvo hoti, sammāvāyāmo hoti, sammāsati hoti, sammāsamādhi hoti, saddhābalaṃ hoti, vīriyabalaṃ hoti, satibalaṃ hoti, samādhibalaṃ hoti, paññābalaṃ hoti, hiribalaṃ hoti, ottappabalaṃ hoti, alobho hoti, adoso hoti, amoho hoti, anabhijjhā hoti, abyāpādo hoti, sammādiṭṭhi hoti, hirī hoti, ottappaṃ hoti, kāyapassaddhi hoti, cittapassaddhi hoti, kāyalahutā hoti, cittalahutā hoti, kāyamudutā hoti, cittamudutā hoti, kāyakammaññatā hoti, cittakammaññatā hoti, kāyapāguññatā hoti, cittapāguññatā hoti, kāyujukatā hoti, cittujukatā hoti, sati hoti, sampajaññaṃ hoti, samatho hoti, vipassanā hoti, paggāho hoti,) avikkhepo hoti. ime dhammā kusalā. tasseva lokuttarassa kusalassa jhānassa katattā bhāvitattā vipākaṃ vivicceva kāmehi ... pe ... paṭhamaṃ jhānaṃ upasampajja viharati dukkhapaṭipadaṃ dandhābhiññaṃ suññataṃ, yā tasmiṃ samaye sati anussati sammāsati satisambojjhaṅgo maggaṅgaṃ maggapariyāpannaṃ — idaṃ vuccati “satipaṭṭhānaṃ”. avasesā dhammā satipaṭṭhānasampayuttā.
そこで、何が念住であろうか?ここに比丘あって、時に出世間の禅を修め、解脱を志向し、転生の停止へと赴き、悪見を捨離して初地に達し、諸欲を離れ、(*不善の諸法を離れ、粗雑な思考と微細な思考とがあり、遠離より生じる喜びと安楽ある、)苦遅通行なる初禅を具えて住す。その時、触あり、(受あり、想あり、思あり、心あり、尋あり、伺あり、喜あり、楽あり、心一境性あり、信根あり、精進根あり、念根あり、定根あり、慧根あり、意根あり、喜根あり、命根あり、未知當知根あり、正見あり、正思惟あり、正語あり、正業あり、正命あり、正精進あり、正念あり、正定あり、信力あり、精進力あり、念力あり、定力あり、慧力あり、慚力あり、愧力あり、無貪あり、無瞋あり、無痴あり、無貪あり、無恚あり、正見あり、慚あり、愧あり、身軽安あり、心軽安あり、身軽快性あり、心軽快性あり、身柔軟性あり、心柔軟性あり、身適業性あり、心適業性あり、身練達性あり、心練達性あり、身端直性あり、心端直性あり、念あり、正知あり、止あり、観あり、策励あり、)不散乱がある。これら諸々の法は善である。この出世間の善なる禅が為されたことによる、修習されたことによる果報である、諸欲を離れ、…(*同上)…苦遅通行にして空なる初禅を具えて住す。その時における、念・随念・正念・念覚支・道支・道に属するもの、―これが「念住」と云われる。その他の諸法は、念住と相応するものである。

*原文・訳文の()内は底本で省略されている一節の補填箇所
Vibhaṅga, Satipaṭṭhānavibhaṅga 385

少なくとも今挙げた『分別論』の一節では、念住とは、行者が初禅に至ってこそなし得るもの、(最低でも)初禅に至った行者の心に生じている念、すなわち正念・念覚支などであると説かれています。これは、念住が念住たりえるには、行者によるsamathaサマタ)の修習が一定の成就をみていることを前提とすることを示したものです

『清浄道論』における四念住理解

さらにまた、分別説部大寺派(上座部)の大立役者とも言うべき大徳Buddhaghosaブッダゴーサが、五世紀後半のセイロンにて著したそのVisuddhimaggaヴィスッディマッガ(『清浄道論しょうじょうどうろん』)では、何故にCattāro satipaṭṭhāna(四念住)というのかについて、以下のように説明しています。

tesu tesu ārammaṇesu okkhanditvā pakkhanditvā upaṭṭhānato paṭṭhānaṃ. satiyeva paṭṭhānaṃ satipaṭṭhānaṃ. kāyavedanācittadhammesu panassā asubha-dukkha-anicca-anattākāragahaṇavasena subha-sukha-nicca-atta-saññāpahānakiccasādhanavasena ca pavattito catudhā bhedo hoti. tasmā cattāro satipaṭṭhānāti vuccanti.
それぞれ諸々の対象において、入出して停留する(処である)が故に〈upaṭṭhānato〉、出発点〈paṭṭhāna〉である。まさに念〈sati〉の出発点が、念住〈satipaṭṭhāna〉である。そして身・受・心・法において、不浄・苦・無常・無我の相の把握により、また浄・楽・常・我の想の放棄という作用の成就により転ぜられることによって、(念住には)四種の別け隔てがある。その故に、四念住と云われる。

Visuddhimagga, ñāṇadassanavisuddhiniddesa, 819

劣機であるため拙訳が少々問題のあるものとなってしまったように思いますが、このようにブッダゴーサは、身・受・心・法のそれぞれを不浄・苦・無常・無我と把握し、また常・楽・浄・我の顛倒想を捨離するものとして、四念住を見ています。

そして、これがとりもなおさず分別説部大寺派(上座部)における正統な見解、四念住に対する理解の仕方・位置づけです。これは、先に四念住の通仏教的理解を挙げておきましたが、そのままであることがわかるでしょう。