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Dharmacakra
智慧之大海 ―去聖の為に絶学を継ぐ

止観双運 ―Śamathavipaśyanā yuganaddha

ビルマ仏教の鮮烈

在家信者の一大変革

これが次第に、それまでいくら熱心に信仰していたところで仏教との関わりといえば布施をし経を唱える程度に留まっていた、世間の人々から大きな支持を得ていきます。

ミングン・セヤードウ以来、人々が修行する門戸は細々と開かれていましたが、ウ・トゥウィンの潤沢じゅんたくな資金的援助と、初代首相の座についたウ・ヌーすなわちビルマ政府の全面的後援もあって、その門がここへきて非常に拡大したのです。これが、ビルマの在家の人々と仏教との関わり方に大々的変化をもたらした大きな力となった、とすら言いえるものでした。

その後、ウ・トゥウィンやウ・ヌーら後援によって、国内だけではなく海外にもマハーシ流ヴィパッサナーによる布教活動を精力的に展開。マハーシ・セヤードウは、インド、セイロン、日本、アメリカ、ヨーロッパ諸国などを直接訪れ、その当初の規模自体はともかくとしても、彼の「ヴィパッサナーこそ」という運動は成功し、世界的なものとなっていきます。また以降、そのようなマハーシの成功にならい、他の僧や在家の者でもそれぞれ独自の技法をもって瞑想を指導するセンターが、飛躍的に全国に設立されていきます。

1982年、三十二年間「ヴィパッサナー運動」に身を捧げ、多くの弟子たちを育てたマハーシ・セヤードウが逝去します。彼の葬儀は国葬あつかいとなり、ビルマでもおよそ前代未聞といえるほどの規模をもって行われています。

さて、マハーシ・セヤードウは、その在世中から声聞の聖者の階梯の一つである預流よる(あるいは阿羅漢)であるに違いない、と周囲の弟子や信奉者達から信じこまれており、今もそのように信仰する人が多数あります。その信奉者達には、長老が伝統的修道法を斟酌し再構成したと言える彼流の修道論を、「伝統的修道法」あるいは「ブッダの瞑想法」などとうたい、宣伝する者があります。

また、マハーシ・セヤードウ亡き後、その直接指導を受けた弟子やその孫弟子にあたる比丘には、長老の思想・方法論をベースに、さらに自分たち独自の着想でもって瞑想法・指導法を編み、各地に瞑想センターを構えている者が多くあります。

彼の直接の薫陶を受けた直系の弟子の中で、マハーシ・セヤードウの方法にさらに独自色を加味し、自ら瞑想センターを構えてその指導者となり、ビルマ国内だけにとどまらず国際的に知られるようになった者と言えば、Shweシュウェー Oo Minミン SayādawセヤードウKosalaコーサラ; 1913–2002)やPanditaパンディタ SayādawセヤードウPanditaパンディタ; 1921-)、Chanmyayチャンミ SayādawセヤードウJanakabhivamsaジャナカビヴァンサ; 1928-)です。

また、マハーシ・セヤードウらの成功に影響され、というと語弊がありますが、その瞑想センターのありかたをモデルとしつつ、しかしそれとは異なった着想・手法をもって開設され、現在に至るまで有名となっている僧があります。

写真:モーゴウ・セヤードウ

Mogokモーゴウ SayādawセヤードウVimalaヴィマラ; 1899-1962)です。彼はもともと阿毘達磨に通じた学僧で、その故もあるのでしょう、はじめから十二縁起を瞑想の対象とすることを特に強調した瞑想法を考案し、後進を教導していました。

この点からすると直接マハーシ・セヤードウの影響下にはない人ですが、「ヴィパッサナーこそ」という主張をした点では同様です。また、これは十二縁起にも関連することであり、またマハーシが身念住を特に強調していたのにある意味対抗してのことかもしれませんが、心念住をこそ強調する手法をとっています。

モーゴウ・セヤードウが逝去され荼毘に付されたあと、その遺骨に奇瑞の相があったことから、「彼はやはり阿羅漢であった」と人々から噂され、信じられて、その舎利は非常な尊敬をもって今も祀られています。

そしてまた、晩年出家でしかも文盲でありながら、世間から阿羅漢であると信奉されるまでに至った、Sunlunスンルン Guグー Kyaungチャウン Sayādawセヤードウ(1878–1952)です。

今も彼らの系統の瞑想センターが弟子達によってその思想・手法と共に引き継がれ、それぞれビルマ各地に展開しています。とは言え、数の上で言えば、ビルマにおける瞑想センターの半数以上がマハーシ系統のもので他を圧倒しています。

そのような、戦後の独立と共に起こったビルマの新運動は、現在に至ってはさらに様々な主張・手法が見られるようになっています。その中には、もはやただ単に、多くの指導者が乱立する状況にあって、その独自性を打ち出すためだけに他とは変わったことを説いているのではないか、とすら思える中身のアヤシイ者もみられます。しかし、いずれにせよ、それが「ヴィパッサナーこそ」という、止の修習をほとんど全く説かず、観の修習をもっぱらに主張する流れであるという点では変わりはありません。

他国への展開

このマハーシ・セヤードウらによる瞑想運動が成功した影響は、まず隣国タイに伝播し、タイにおいても同じような形態で瞑想を行わせていく僧の出現を見ることになっていきます。

スリランカに関しては、英国などの植民地であった一時期、比丘僧伽が完全に滅びて無くなり、また僧伽が復興されて以降であっても、第二次大戦が終わるまでの英国による植民地支配政策によって人々の仏教への信仰が熱を帯びることはなく、大勢として瞑想どころではありませんでした。故に、往古はセイロン島こそ分別説部の本拠地であったにも関わらず、長い瞑想の伝統などというものは絶えてありません。

いや、このことについては、日本では学者であってもほとんど知られていないことであるため、より正確に言っておく必要がありましょう。

実は独立前の第二次大戦前の20世紀初頭、セイロンにてヴィパッサナー運動を展開した人々がありました。その最初の人はHerbertハーバート Sriスリ Nissankaニッサンカ。彼は若い頃、ビルマに渡って一時、比丘出家した経験をもつ上流階級に属したシンハラ人(後に弁護士。そして地方議員を経てセイロン独立後には国会議員)です。

ニッサンカが一時出家を終えてビルマから帰国した頃、それはちょうどAnagārikaアナガーリカ Dharmapālaダルマパーラによって仏教復権運動が展開されている最中のことです。そこでニッサンカも同じく、シンハラ人としての誇りと伝統とを取り戻すべく仏教復興を志しました。その手段の一つとして、彼は女性出家の後援と瞑想とを在家信者の間に広める運動を開始しています。

その女性出家とは、ニッサンカの帰国より遡ること数年前、SudhammacārīスダンマチャーリーCatherine De Alwisキャサリン・デ・アルウィス)によってビルマのティーラシンを模倣して創始された、Dasa sil mātāダサシル・マーターという新たなセイロンにおける女性の立場です。スダンマチャーリーは女性の出家が不可能であったセイロンを離れてビルマに渡り、そこでティーラシンとなっていた人でした。

ニッサンカはそのようなスダンマチャーリーの動きとは別に、当時ちょうどビルマから来島していたティーラシン、VicārīヴィチャーリーMa Wichariマ・ウィチャーリー)の後援者となっています。そんな彼の後援を得たことにより、比較的自由に活動できたヴィチャーリーというビルマから来た若い女性出家者の存在は、特にコロンボなど都市部での女性たち、しかもその若年層にも大きな衝撃と影響力を与えています。そしてついに、スダンマチャーリーの活動においてはほとんど貧困や孤独にあえぐ高齢者など社会的弱者に限定されていた、ダサシルマーターという(あくまで非正規ながらも一応出家という)新たな立場がセイロン社会に定着していきます。

阿毘達磨(アビダルマ)に詳しくまた熱心な瞑想修行者でもあったヴィチャーリーは、人々に持戒を勧め、またヴィパッサナー瞑想を紹介し実践させています。それはまさにビルマで当時行われ始めていたことを、その同時期にセイロンに移植したものでした。そして、セイロンにおいてもそれは、特に仏教が衰亡して人々がその信仰と自信を失っていた時代であったがためになおさら、セイロンの人々の仏教に対する態度に大きな変革をもたらすものでした。それはシンハラ人にとっての民族の誇りと自信を取り戻すきっかけともなったのです。

(このあたりの経緯については、現在龍谷大学にあってその研究に従事するティーラシン、Saccānandīサッチャーナンディーの研究が非常に詳しい。)

そのように、独立前のセイロンにおける仏教復権運動を支え、これに大きな影響力を与えていたのは間接的・直接的に当時のビルマ仏教でした。もっとも、このことを現在のスリランカ人でも知る人は少なく、またセイロンの仏教復権運動がシンハラ・ナショナリズムと密接であったこともあってこれを率直に認めようとする人もあまりいません。スリランカ人(シンハラ人)のもつ自国への誇りや自負・愛着は、今の日本人にはなかなか想像できないものかもしれませんが、その短所がこのようなところに現れていると言えます。

そもそもセイロンこそ現在の上座部の伝統の発祥地であるという自負と、またすでにその伝統の復興を成し遂げていることから、もはや(インド語圏に属するスリランカと異なってパーリ語の発音が訛ってその振る舞いも彼らの視点からすると洗練されておらず、その国家も軍政であってより貧しい国であることから)ビルマ人やその仏教を見下すような風潮が学者や仏教僧らにもまま見られます。現在のスリランカ仏教、その僧伽の復興もまた、タイおよびビルマのそれを移植したことによって成し遂げられたものであったにも関わらず。

そのようなことから、20世紀初頭の彼らの努力と影響は、大戦後そして独立後、ダサシルマーターが完全にその社会的地位を獲得したという点において認められるものの、出家者や在家信者らでも瞑想や持戒を重視するという点においてほとんど継承されませんでした。

現在の状況について言えば、スリランカもタイに同じく、大戦後のマハーシ・セヤードウ一派などの指導や影響によって、ようやくまた瞑想が一般にも行われだした所です。近年は、律について非常に弛緩している僧がその大勢を占めている状況に対し、律を厳しく持って森林において生活する集団が誕生しています。これには後述するPa Auk Sayadawパ・アウ・セヤードウ一門の進出もあって、これと融合するが如き状態であると言えます。

彼らは決して政治的舞台に立とうとしないが故にスリランカの主流派になりえず、また表に出てくることもありません。が、律を厳持しつつ、瞑想に励む日々を送っているのは、この一派において見られることです。

マハーシを否定する流れの勃興 ―パ・アウ・セヤードウ

写真:Pa Auk Sayadaw © Horakuji(転載厳禁)

ただし、そのようなビルマでのヴィパッサナー新運動の流行にいわば対抗する人として、モン族のPa Auk Sayadawパ・アウ・セヤードウAcinnaアチンナ; 1934-)があります(日本でこれを「パオ」などと称するのは全く訛謬けびゅうであり、その名だけでなく語というものに対する敬意も欠いた行為)。

1981年、彼は南ビルマはMawlamyineモーラミャインの外れにあるPa Auk Tawyaパ・アウ・トーヤを、先代住職の死去によって継ぐこととなり、ここに彼は自身を指導者とする瞑想センターを設立。ここから、彼流の運動が開始されていくこととなります。それはマハーシ流に対して全く異なる、いわばそれに対向する一大潮流となっていきます。

なお、Tawトーとはビルマ語で「森」を意味し、Tawyaトーヤ(-kyaungチャウン) とすると「森の中の寺」が意味されます。幾多の仏典がそのような場所で修禅に励むべきことを説いている、パーリ語で言うところのaraññaアランニャ、漢訳では音写で阿蘭若あらんにゃといわれる、すなわち森林・空閑処を意味する語です。

さて、そこで彼は、五世紀中頃のセイロンで著されたと思われる分別説部ふんべつせつぶで最も権威ある(というよりも唯一無比の)修道書、Visuddhimaggaヴィスッディマッガ(『清浄道論しょうじょうどうろん』)に厳密に則った方法で、戒律の厳守なしにはサマタの成就は無く、またサマタの成就なしにヴィパッサナーなどあり得ないとする指導をなしています。

これは、マハーシなどによる、典拠無しとまでは言えずとも経論の説に沿ったものとは必ずしも言えない「新しい独自の手法」に対し、経論に説かれる修道法に「文字通り」従おうとすることを旨としたものです。それはいわゆる「如説修行」であるにはあります。ですが、しかし、私見ながら、それが度を過ぎて極端とも思えるほど厳密なために、むしろ彼の一門は教条主義の権化とさえ評し得るものとなっています。

とはいえ、ビルマの僧伽の規律、僧らの戒律の実修状況が、その全体としてかなり弛緩してきている現代。パ・アウのそれは、一昔前にシュウェージンらが行ったような、ビルマの僧伽を再び引き締めんとする運動であると見ることも出来るでしょう。

さて、その双方の修道法や思想の根本的異なりから、しばしばパ・アウの門徒とマハーシ一門などその他の系統の僧徒らは、今はそれが目立って表面化することこそありませんが、影では互いに批判しあって決して認め合わないなど、甚だ反目しています。彼らの中で指導者となっているような立場の僧らは、互いに同じ場で会うことすら嫌い、避ける程に至っています。

例えば、公の場所・私的な場所を問わず、なるべくその双方が出会わないよう、側仕える在家信者らが気を使わなければならないし、現実使っているほどです。むやみに互いが同席させられようものなら、まず在家信者がかなり叱責されてしまう。たとえば、シュエ・オ・ミン・セヤードウの後継者として活動している、ある瞑想指導者などは、彼と席を同じくしているときの写真を公開されることさえ嫌ったほどです。

しかし実は、これは彼本人から直接聞いたことですが、パ・アウ自身、若かりし頃はマハーシやパンディターラーマの元にて懸命に修行していた。けれども、それらの方法では決して悟れないと、畢竟その思想と手法とを全く否定。そこで『清浄道論』の所説に厳密にしたがった術を取ることを決心し、(特に師なくして)そのように始めたのである、ということです。

それまでのビルマにおいて、『清浄道論』がまったく学ばれず顧みられていなかったなどということはありません。必ず学ばれはしていた。が、そのような『清淨道論』に全面的に従うという手法は、実は彼から大々的に初められたことです。故に彼の流儀は、それをビルマの人々は決して認めようとはしませんが、「古来ビルマで脈々と行われてきた」などといったものではありません。しかしながら、ミャンマーにてこれを指摘されることは非常に嫌われます。そして、そのような意見を瞑想指導者などに対して開陳することは、ビルマにおいて甚だ非常識と言って良い行為で、たとい言ったとしてもまず否定されるでしょう。

そもそも、パ・アウ・セヤードウが今のように有名となるその出発点が、いわばマハーシ系統の「ヴィパッサナーこそ」という思想と手法の全くの否定でした。故に、その双方が反目し対立するのも無理からぬことです。

現在はパ・アウの系統もビルマで非常に著名となり、ビルマ人らの間では「パ・アウと言えば、禅定そして神通力を得られる」「我が過去世を見ることが出来る」、あるいは「パ・アウ・セヤードウこそ、律を厳しく守らんとする、本来のシュウェージン派の僧」などと一般に認識されるようになっています。マハーシもシュウェージン派の僧だったのですが。

今やモーラミャインのパ・アウ瞑想センターは、ビルマ国内最大にして最多の修行者(比丘だけでも多い時には千人以上)を抱えるまでになり、またその支院が彼の弟子を指導者としてビルマ国内に数カ所ながら展開し、さらには海外にもその支院が設立されています。

また、彼の特に「金銭に決して触れない」ことを初めとする、律を厳しく護らんとするその態度や、『清浄道論』の所説に文字通り従おうとするその修習法は、特に大陸の中国人や東南アジア諸国の華僑かきょうからの強い支持を獲得しています。

忌憚なく言ってしまえば、儒教に基づいて極めて即物的、近年は特に拝金主義的思考を多分にもつ彼ら中国人には、パ・アウ一門による特に金銭に触れないという生き方は実に驚くべき、しかしながら、であるが故にむしろ尊く敬すべきと感ぜられる、ということがあるようです。さらにまた、仏教に対する信仰を再び持ちだした大陸の支那人などは、特に禅に達したならば得られるという神通力(中でも宿命通)に対し、非常なる興味を抱いている者が多くあります。

そのようなこともあって、今やパ・アウのそれは、ビルマで最も裕福な瞑想センターの一つとなっています。もっとも、その結果、モーラミャインのパ・アウ瞑想センターは、近隣の村辺よりずっと人が多くあって、その者らの為の鉄筋コンクリートの建築物が寄進によって無闇に乱立するようになって騒がしく、もはや「トーヤ」などと言いがたい様相を呈し始めています。

そもそも彼らの信奉する『清浄道論』では、修行するに避けるべき場所として列挙する中、そのような大僧院を第一に挙げています。このような事態はまさしく「人の世の習い」というべきでしょう。皮肉なものです。

なにか建築物を建てるにあたって、たといそれが(一応パゴダは別であるとして)宗教関係のものであっても、なんらか理をもった建築思想などかけれも用いられず、環境との調和や統一性など一顧だにされずに、ただ開いている土地と資金とがあればとにかく適当にドシドシ作ってしまうのです。

何をするにつけても後々のことをまるで考えようとしない、近年の(?)ビルマの国柄、ビルマ人らの性癖です。