VIVEKAsite, For All Buddhist Studies.
Dharmacakra
智慧之大海 ―去聖の為に絶学を継ぐ

止観双運 ―Śamathavipaśyanā yuganaddha

止観双運

一向という狂気

今、巷間に流行する「ヴィパッサナーこそ」という思想は、いずれも大戦後のビルマを起源としているものです。そしてそれは今示したように、ここ半世紀ほどの間に国際的に広まった新しい運動の中で生み出されてきたものです。

今やビルマ発祥のこの思想が流行し、時代に支配的となったことにより、「ヴィパッサナー(観)の瞑想だけ修しさえすれば悟りに至り得るのだ。サマタの瞑想は仏教外の瞑想であり、多くの場合、有害な、仏教の修行者には不必要の瞑想である」などと、世間で盛んに宣伝する者が数多く現れています。実際、俗世間では、その様に認識してしまっている人が大変多くなってしまいました。観の瞑想、ヴィパッサナーこそが「純粋な仏教の瞑想」・「仏陀の瞑想法」であり、それこそが、それだけ行うのが正しい道だと。

近年の日本での場合は、性急に独自性を打ち出さんとしたためか、そのような主張を(誠に残念なことに)過激に、攻撃的ともいえるほどに盛んにし、それをむしろ布教の手段としたような実につたなやから粗忽者そこつものの一群があったことの影響に依るものでしょう。

確かに、止の瞑想は、仏教以外の宗教でも行われてきたものと同じ類である、と言うことはできましょう。が、最近の流行として言われているように「ヴィパッサナー(観)の瞑想だけで良い」のかといえば、これは仏陀の教えの大乗・小乗の別を問わず、その様なこととは決してされていません。往々にして、「これだけが本当」・「これでないと駄目、他は無用なゴミ」などといった種類の言は、そしてそのような言を振るう者は、人に魅力的に感ぜられることがあるようです。

実際、日本でも中世、特に鎌倉期にはそのような言をふるって世の支持を次第に集め、むしろ社会に混乱をこそもたらしたような者もありました。それは、社会の変革期にあった人々に、新しいものに対する期待や希望、それによる精神的救いを与えるものであったのかもしれません。が、それと同時に、むしろその信条に由来する、他との果てなき確執と闘争とをももたらしたものでもありました。

「ヴィパッサナーさえ行えば、悟りに到る。ヴィパッサナーこそ純粋な仏教の、まことの悟りへの瞑想である」、「ヴィパッサナーさえ行えば、サマタなど不要」などといった主張は、熱病に犯された者のうわごとのようなもの。これはもはや、日本でいうならば、たとえば『法華経』や浄土教を「純粋に信仰」するのと同種の、狂信です。

「仏教には諸経あるとはいえ、しかし『法華経』こそ絶対至高の教えを説くものである。故にこれをのみ信仰して、その教えに従えば云々」、あるいは「このような理不尽な時代、社会にあっては自分がどれほどに努力しても畢竟無駄なこと。ここはひとえに阿弥陀の救済をこそ信じて云々」、はてまたは只管打坐すなわち「ただひたすら座る」などという同様の放言と同一視し得るものです。

近世、正法律を主張して仏教復興運動を展開した慈雲が言った「一文を採りて万経を捨てる」とは、そのような態度を持つ者らに対する批判の言葉です。

伝統的見解

世間ではあれこれと言われているものの、実際はどうであるのか。

それはむしろ、現在「ヴィパッサナーこそ修められるべきである」と主張する者らが多く出た、分別説部それ自身の聖典を見ることに依って、まったく明らかとなるでしょう。

Dve me, bhikkhave, dhammā vijjābhāgiyā. Katame dve? Samatho ca vipassanā ca. Samatho, bhikkhave, bhāvito kamattha manubhoti? Cittaṃ bhāvīyati. Cittaṃ bhāvitaṃ kamatthamanubhoti? Yo rāgo so pahīyati. Vipassanā, bhikkhave, bhāvitā kamatthamanubhoti? Paññā bhāvīyati. Paññā bhāvitā kamatthamanubhoti? Yā avijjā sā pahīyati. Rāgupakkiliṭṭhaṃ vā, bhikkhave, cittaṃ na vimuccati, avijjupakkiliṭṭhā vā paññā bhāvīyati. Iti kho, bhikkhave, rāgavirāgā cetovimutti, avijjāvirāgā paññāvimuttī'ti.
比丘びくたちよ、これら二つの法は智〈vijjā〉に連なるものである。何が二であろうか?止〈samatha〉と観〈vipassanā〉とである。比丘たちよ、何が止をしゅすることの果報であろうか?その心が陶冶とうやされる〈bhāvīyati〉。心が陶冶されたことの果報はなんであろうか?いかなるものであれ貪欲とんよく〈rāga〉が除滅される〈pahīyati〉。比丘たちよ、何が観を修することの果報であろうか?智慧〈paññā〉が陶冶される。智慧が陶冶されたことの果報はなんであろうか?いかなるものであれ無明むみょう〈avijjā〉が除滅される。比丘たちよ、貪欲に汚れた心では解脱することはない。無明にくらまされては智慧が陶冶されることもない。まさにこの故に、比丘たちよ、貪欲のないことが心解脱しんげだつ〈cetovimutti〉であり、無明のないことが慧解脱えげだつ〈paññāvimutti〉である。

Dukanipātapāḷi, Paṭhamapaṇṇāsaka, Bālavagga (AN 2.22-32)

ただ観の瞑想だけを修めよ、観こそが優れた瞑想である、などと主張する伝統説など、大乗・小乗のいずれにも、またパーリ仏教圏、チベット仏教圏、漢語仏教圏のいずれにも存在しません。大乗・小乗のそれぞれの伝統において、止と観とを共に修すべきことが説かれ、各々その術を論書の中などで詳細に伝えています。いや、そもそも止と観とは、今言われるように、経典の中でそれぞれ全く別々に説かれるようなものでもなかった。

止と観との瞑想の関係は、小乗において鳥の翼などに例えられ、大乗の伝統においては、しばしば車の両輪または同じく鳥の両翼に譬えられます。あるいは、これは伝統説ではなく、私が個人的によく用いる喩えですが、止と観との瞑想の関係は、以下のように喩えることが出来るものです。

止の瞑想は、人が高い場所にあって背伸びしただけでは届かないモノを跳んでつかもうとするときの脚であり、観の瞑想は、そのモノをつかむ腕である、と。ただ跳ねるだけでは高くは届かぬ脚を、鍛錬によって高く跳躍出来るようにするのが「止」であり、掴みがたい目的のモノを逃がさぬよう正確に我が掌中にせんとするのが「観」です。

さらに言うならば、瞑想を修める前提として「戒」を保つことは、跳び上がる以前に、それまでの普段の生活でタップリと付きすぎた贅肉(悪業・悪習)を削ぎ落とす為の減量であり、あるいは贅肉がまた再び付かないようにするための、または基礎体力をつけるための訓練です。

止の瞑想だけ行っても、高く飛び跳ねるようになって心地良くなるかもしれませんが、それも一時のこと。その高みに久しく留まることは出来ません。程なくして、もといた地面に引き戻されます。観の瞑想だけ行っても、その辺の何かを手にすることは出来て、何事か掴んだ気にはなるでしょう。しかし、高い場所にあるモノを掴み取ることなど出来ません。

止の瞑想によってより高く跳躍ちょうやくし、観の瞑想によってその高みにあるモノを掴み、それを手にしつつ、またこの地に着地するのです。

車の両輪、鳥の両翼

これらの喩えによって示されるように、あるいは示したように、止観のいずれか一つを行えば良い、いずれか一つさえ修せば悟りに至るのだ、と言う様なものでは決してありません。たとえば、南方の分別説部(上座部)がパーリ語によって伝えてきた、Dhammapadaダンマパダではこのように説かれます。

Yadā dvayesu dhammesu, pāragū hoti brāhmaṇo;
Athassa sabbe saṃyogā, atthaṃ gacchanti jānato.
婆羅門ばらもん〈brāhmaṇa〉が二つの法〈止観〉について完成したならば、彼は「知る者〈jānanta〉」でありそのすべての束縛は消え失せる。

Dhammapada, Brāhmaṇavaggo 384 (KN 2-26)

また、漢語仏教圏にて大乗のいわば入門書として盛んに依用されてきた、『大乗起信論だいじょうきしんろん』ではこのように言われます。

是止觀二門。共相助成不相捨離。若止觀不具。則無能入菩提之道
これら止観の二門は、相互に働きあうものであっていずれか一方が否定されるものでない。もし(行者が)止と観とを具えていないのであれば、悟りの道に入ることは出来はしない。

馬鳴 『大乗起信論』 (T32, p.583a)

さらには、支那の隋代以来、天台だけにとどまらず多くの宗派の門徒らに読まれてきた、簡にして要を得た優れた修禅の入門書、『修習止観坐禅法要しゅじゅうしかんざぜんほうよう』いわゆる『天台小止観てんだいしょうしかん』では、このような喩えをもって止観を説きあらわしています。

當知此之二法如車之雙輪鳥之兩翼。若偏修習即墮邪倒。故經云。若偏修禪定福德。不學智慧。名之曰愚。偏學知慧不修禪定福德名之曰狂。狂愚之過雖小不同。邪見輪轉蓋無差別。若不均等此則行乖圓備。何能疾登極果。
まさに知るべきである、この(止と観の)二法は車の両輪、鳥の両翼のようなものであることを。ただ止観の一方だけを修習したならば、誤った道に堕ちるであろう。故に経にこう説かれている、「もし偏に禅定・福徳〈檀那・持戒・忍辱・精進の四波羅蜜〉を修して、智慧を学ばなければ、これを名づけて愚という。偏に智慧を学んで禅定・福徳を修めないのは、これを名づけて狂という」と。狂と愚との過失は、(互いに)少々異なったものであるが、それが邪見であり、輪廻を継続させるという点で、まったく違いはない。もし、均等にこれら〈止観・六波羅蜜〉を修めることがなければ、そのような修行は満足なものではない。どうして最高の解脱に達することなど出来ようか。

智顗 『修習止観坐禅法要』 (T46, p.462b)

小乗の門人であれ大乗の門徒であれ、悟りを求める者は誰であれ、止と観との二つの法を修めなければなりません。これを伝統的に、これは唯識の代表的論書『瑜伽師地論ゆがしじろん』での玄奘による漢訳ですが、止観双運しかんそううんと云います。[S]śamathavipaśyanāシャマタヴィパシュヤナー yuganaddhaユガナッダの訳です。

止の瞑想によって得た三昧、定の力をもって、観の瞑想が良く成され、人は智慧を磨いて真理を悟ってきます。それら双方を行うこと、止の瞑想を修め観の瞑想を行うことが、仏教の瞑想の特色であり、大乗・小乗に通じた伝統的修道です。

止と観の瞑想は、それぞれ優劣を付けられるものではありません。一体どうして、車を走らせる左と右の車輪のうち、どちらが優れており、劣っているなどということが言えるでしょうか。大地から空に飛翔せんとする鳥が、翼なしに、あるいは片方の翼だけで羽ばたき飛ぶことが出来るでしょうか。その双方がなければ、仏教という道を走ることは出来ず、涅槃という大空に遊ぶことは出来ないのです。

以上のことを理解し踏まえた上で、これは特に止観についてのみ述べられていることではありませんけれども、またこのような言葉も己が胸に刻みつけておいたが良いでしょう。

輸波迦羅三藏曰。衆生根機不同。大聖設教亦復非一。不可偏執一法互相是非。尚不得人天報。況無上道。或有單行布施得成佛。或有唯脩戒亦得作佛。忍進禪慧。乃至八萬四千塵沙法門。一一門入悉得成佛。
善無畏ぜんむい〈[M]Subhāgala〉三蔵が云われた。
「人々の能力やその時々の条件は、それぞれ異なっている。大聖だいしょう〈釈迦如来〉が、その教えを説かれるのにもまた、(相手の能力・時機に従ってその教え方・その内容が)一様でなかった。一つの教えに偏執し、互いに(各々が奉ずる仏陀の教えについて)争ってはならない。そのようでは、(たとえ教えに従って修行したところで、その死後に)人・天として転生することも出来ず、ましてや無上道(たる悟り・解脱)を得ることなど出来ようはずもない。ある者は、単に布施を行って仏と成ることを得るのもある。ある者は、唯だ戒を修すことによって仏となることを得るのもある。忍辱にんにく精進しょうじん禅定ぜんじょう智慧ちえ、および八万四千の塵沙の法門は、それら一一の門(のいずれ)より入っても(やがては六波羅蜜を円満して)悉く仏陀と成り得るものである《後略》」

『無畏三蔵禅要』 (T18, p.944a)

己の信ずる道、我が歩む道の適不適を測るのには、まず自らのその心を省みることです。もし、むしろ自分がそうしていることによって、無闇に己の信じた道に固執するあまり他の欠点をあげつらうなどし、己の心に怒りや恨み、不安などが生じ、慈しみの心を持てず、他者との無益な軋轢や衝突を生んでいたとしたならば、その道に意味はありません。それはまったく愚かなことです。

常に、決して他者のではなく、あくまで自分の心そして身と口の行いが如何様なものであるかを見なければ、どれほどその教えに価値がある尊いものであったとしても、自らその価値を損ない、汚してしまいかねません。語弊を生む言い方となりますが、この場合、自分勝手・独善というのではありませんけれども、自己本位で良いのです。

もし何か自身がこれぞという道を進み、その心に自他に対する慈しみが生じ、不安や怖れなくあって、諸々の事象を淡々と見、受け入れられるようになって、拘りなく自由に闊歩できるようになるのであれば、ひとまずそれはその人にとって有益で正しいものです。

畢竟それが苦しみを減じ、さらに滅するに達するものであれば、それはきっと仏陀の説かれた教えに相違するものではありません。

貧道覺應 記
info@viveka.site