在家の瞑想指導者としては、世界で近年最も著名であった、とすら言えるほどであったゴエンカは、一体どのようにそうなったのか。
彼は、一世紀程前のビルマにおいて稀代の大学僧として世界に名を馳せ、当時から日本の仏教学者らにもその名を広く知られていた、Ledī Sayādaw(Ñāṇadhaja; 1846-1923)を信奉していた在家信者U Po Thet(1873-1945)の生徒、U Ba Khin(1899-1971)からヴィパッサナーを仕込まれ、習得したのだと自ら明かしています。
ところで、ビルマ人男性らの名前の頭に冠せられる「U」とは、ビルマにて僧俗問わず用いられる男性の敬称です。それは、英語で言うならば一般男性の場合はMr.、僧侶の場合にはVen.(=Venerable)、あるいはRev.(=Reverent) に該当します。
特に僧侶の場合、時に「U」を用いず、比丘であれば「Ashin」、沙弥であれば「Shin」と、その立場を明確とするための敬称を名前の頭に付すことも一般に行われます。そして女性の場合は「Daw」、またその年が比較的若い男性の場合は「Maung」、若い女性の場合は「Ma」がその名の頭に付せられます。故に、例えば日本語で「ウ・バ・キン氏」といい、あるいは英語で「Mr. U Ba Kin」などというのは、甚だおかしな呼称となります。
さて、ゴエンカの師とされるウ・バ・キンは、ビルマ政府の会計検査局長など数々の要職を務めた高官であった人です。そのような彼が、まず瞑想に触れるきっかけとなったのが、まだ役人としてそれほどの地位になかった鉄道局の会計官を勤めているとき、ふとした縁でウ・テイ・ラインのもとを訪れ、ヴィパッサナーを教授されたことでした。
この時、それまで瞑想などしたことがなかったところが随分と得るものがあり、以降、彼は仕事の傍らながら、その修習に励むようになっていった、といいます。
1941年のある日、彼はまったく偶然にも、北ビルマでは阿羅漢であるともっぱら噂されていたという、Webu Sayādaw(Kumārakassapa; 1896-1977)に接する機会を得ています。そのおり、これぞ千載一遇の好機と、セヤードウから瞑想についていくつか質問されるなどやりとりをしたところ、セヤードウから驚きをもってその知見を認められ、すぐにでも人々に瞑想指導をすべきであると申し付けられたのでした。
その後、彼は役人としてますます出世していきながらも、その合間にセヤードウから申し付けられた通り、少数ながら部下や周囲の者らに瞑想を指導するようになったといいます。
ただ、それも一家を支える大黒柱として、役所の高官として働いている間のこと、指導などといってもそれほど打ち込んだわけでもなく、またその時間も無かったようです。しかし、彼が地位も高くなり子供も大きくなって時間に余裕ができたこともあるのでしょう、1950年に部下など身近な者達にヴィパッサナーを教授する目的で個人的な会を、役所の事務所内に創設。
続いて1952年、ただ身近の者だけではなくより多くの人々に瞑想を教授しようと、これはすでに成功を収めていたマハーシ瞑想センターにも影響されてのことであったに違いありませんが、The International Meditation Centre (Rangoon)(ラングーン国際瞑想センター)を設立。役人仕事の傍らながら、自らその指導者となり、瞑想指導に打ち込むようになっています。そこにはビルマ人だけではなく、若干ながら海外からの参加者もあって、名前通り一応国際的なものでした。
また、1954年から'56年には、ビルマ政府の大々的な後援のもと開かれ、前述したマハーシらも参加した第六結集にも有力な在家居士として参加。その会計の責任者ともなっています。
さて、ウ・バ・キンがそのように活動している中、何の縁によってかは定かではありませんが、彼の瞑想センターが開かれて最初期に参加するようになったのが、ゴエンカでした。ウ・バ・キンに同じく、もともと非常に短気で怒りっぽく、何か気に入らないことがあれば平気でまわりに怒鳴り散らすような、甚だわがままな性格であったというゴエンカもまた、瞑想によって得られる平静さに感じるものがあって、次第に熱心に修行するようになったといいます。そして、ゴエンカが印僑であったこともあり、多くの印僑たちに彼の瞑想センターを紹介し、彼のヴィパッサナーの教えに導いていきます。
そのようにウ・バ・キンのもとで彼流のヴィパッサナーを修めているうち、師であるウ・バ・キンが、「ヴィパッサナー誕生の地でありながら滅びてしまったインドに、再びこれをもたらしたい」との志があることを聞きます。そして、それを彼の代わりに行うのはゴエンカであると。1969年のことです。それは彼からゴエンカへの遺志となったのでした。
ところで、ウ・バ・キン亡き後、彼のThe International Meditation Centreは、一応海外に支部が作られるなどしはしているものの、ゴエンカ教団の隆盛もあって全く目立たないものとなっています。現在、そのヤンゴンの本部というべきセンターは、まったく弛緩した、忌憚なく言うとだらしない空気の漂うただの宿舎の如きものとなって、およそ瞑想に適した場所とはかけ離れたものとなっています。そもそも、今やその周囲がRohingya(ベンガルからの不法移民。日本では「ロヒンギャ」などと発音されるが誤り)などが多く居住する、スラムに等しい雑多で喧しい環境となっているのです。
さて、ゴエンカは、彼をそれほどまでに深く尊敬していたのでしょう。また、ゴエンカが印僑でヒンディーを解して流暢に英語を話せ、またインドと商売をしていたため比較的行き易いということもあったのでしょう。ゴエンカは彼の言うとおりインドに移ってしばらく後、ビルマ以来一定の成功を収めていたという商売を辞め、夫婦揃ってヴィパッサナーを世に紹介し、コース参加者への指導のみに打ち込むようになります。
そして、ゴエンカの地道な活動に依って、そのヴィパッサナーへの支持者・信奉者を、次第に獲得していきます。
やがてゴエンカとその支持者らは1974年、西インドはMumbai郊外の小さな町Igatpuriに、20 acre(約81,000㎡)の土地を購入。ここをDhamma Giri(真理の山)と名づけています。そしてついに1976年、指導者ならびに参加者にとって必要な最低限の施設を整え、この山では最初となるコースを開始しています。ここがやがて彼らの活動の一大拠点、本部となります。
今やそれは、Vipassana International Academy(VIA) なる組織として、世界各地に展開して活動するまでに至っています。1985年にはまた、ゴエンカは、その活動の一環としてThe Vipassana Research Institute(VRI) という組織も立ち上げています。
これは、いわばゴエンカのヴィパッサナー教団(VIA)による広報・出版などを担当する組織です。寄付を集め、その資金に依ってビルマで行われた第六結集によって校訂・編纂されたパーリ三蔵ならびに蔵外仏典の出版やその電子化・ソフトウェア開発など、仏教を学ぶ者にとって大変に有益な仕事がなされています。また1997年には、ビルマのシュウェーダゴン・パゴダを模した、その中で大勢が瞑想できるようにした巨大な建造物を、世界中から集めた莫大な寄進によって建設しています。
それにしても、彼らの信条・主張からして、わざわざ仏教の象徴であると言えるパゴダを、それもビルマのシュウェーダゴン・パゴダを模した一等巨大なのを建設したのは不可解と言わざるを得ません。ただし、その中に人が入れるような構造物は[S]stūpaまたは[P]thūpa(卒塔婆・佛塔)でなく、[S]caityaまたは[P]cetiya(制底・祠)であり、その外形だけ模したものです。)
ところで、自身の法脈、いわゆる嗣法相承がどのようなものであるかを明確にすることは、律や密教、禅など仏教通じて行われることです。それは、自身の保持する伝統あるいは見解の正当性の、一大根拠となるものであるためです。ゴエンカもまた、要はこのような伝をもって、いわば自身の「法脈の正当性」を主張しています。けれどもそれは、それほど過去に辿れるものではなく、前述したようにレディ・セヤードウを起点として主張されているものであって、それ以前に言及されることはありません。
けれどもまた彼は、「(ゴエンカが伝え教える)ヴィパッサナーこそが、釈尊を含めた往古からの諸仏の瞑想である。けれども、それは、仏滅後まもなくインドでは滅びてしまった。しかし、幸運にもそれ以前に唯一ビルマに伝わっていたため、現在の私ゴエンカに至るまで、ビルマでのみ連綿として途切れることの無かった」などといった主張をしています。
また彼は、「ブッダは、なにか宗教といわれるような派閥主義的・教派主義的なものや特定の教義(ドグマ)など説かれはしなかった。仏陀が説かれたのは、ただ万人に普遍の真理であった」とした上で、「ブッダの説かれたヴィパッサナーとは、脱宗教あるいは脱教派主義の、科学的ですらある、心を育て苦しみから逃れる瞑想」などとして世に紹介。これはビルマのマハーシが、あくまで上座部の範疇で布教していたのとは大いに異なっている態度です。その実際はほとんど全面的に上座部の教義に基づいていながらも、「特定の宗教など関係ない。真理は万人に開かれ普遍であるから、これを見て体験するには、自らの宗教的・思想的信条をわざわざ持ち出す必要はなく、むしろそれは障碍となる」という態度です。
彼のそのような態度は、むしろ国際的により支持され、瞑想ブームとキリスト教離れ、いや、宗教そのものを嫌悪する傾向の加速する西洋での時勢も手伝って、インドはもとより欧米にて多数の信奉者・支持者を獲得するに至ります。繰り返しとなりますが、いまや世界各地に大変多くの支部が建てられ、まさに隆盛しています。
そのようなことから、彼の信奉者たちは、彼ゴエンカこそ、そのヴィパッサナーを釈尊(ヴィパッサナー)誕生の地インドに再びもたらした、いわば偉大な英雄であるといいます。何故か日本でこそあまり知られていない人でありその組織ですが、今や南アジアはもとよりヨーロッパそして南北アメリカ大陸で、瞑想に興味を持つ者で彼の名を知らない者など無い、と言っていい程までのものとなっています。
ところが、脱宗教・脱教派を旗印としていたはずが、それは今も変わりないのですが、彼の信奉者らの実際の態度やあり方は、あたかも「ゴエンカ教」「ゴエンカ教徒」のごとき様相を呈するようになっています。彼に傾倒する信奉者には、あるいはその根拠としている仏典についてや伝統的理解や修道法への知識の欠如や不足していたり偏向していたりすることがあるためなのか、排他的傾向すら見られるようになっています。
ゴエンカの、Sectarian(派閥主義者・教派主義者)をいわば悪と見なして排除する主張と、ヴィパッサナーだけ行えば良い、という彼の「教義」とが相まって、むしろ逆に強い排他性を生みだし、結果的に強力な教派の如きものを形成するに至ってしまったのかもしれません。まさしく「人の営み」というものでしょう、否定的な意味で。
実際その言葉とは裏腹に、彼は、その深く入り込んだ信奉者達には、いかなる宗教的行為はもとより、自分が教えている方法(ゴエンカ流ヴィパッサナー)以外の瞑想法など、自分が許可していない行為を行うことを、これは組織を一枚岩に保つための措置・規則でもあるのでしょうけれども、一切禁止するなど縛りをきつくしています。
しかし何故か、それがたとえパーリ経典の読誦であっても、いかなる儀礼・祭儀行為も排除しているはずのゴエンカ教団において、開祖ゴエンカだけは信者らの前で揚々とパーリ経文を唱えるのでした。信者たちは、忌憚なく言ってしまえば、彼による気味の悪い低音と酷い調子で唱えられるパーリ仏典の読経を直接、あるいは録音したテープなどによって、問答無用でわけも分からずじっと拝聴しなければなりません。実に面白いことに、ゴエンカ教団におけるほとんどの者は、彼が一体何を唱え、自分たちが何を聴かされているかをすらまるで知りません。
これは余談となりますが、彼は一時期、阿羅漢を飛び越し、自分のことをなんとしたことか釈尊についで現れる未来仏たる弥勒仏であるに違いない、自分は仏陀だ、と思い込むようになり、側近に吹聴していました。が、後に「どうやら違うようだ」と撤回したといいます。もう少しで、過去に実在したという支那僧の布袋と未来仏としての弥勒仏とが習合し、支那から東南アジアの華僑の間で崇拝されているような、華僑・印僑好みのデップリとしてブクブクに太った弥勒仏が、彼ら教団内において誕生するところであったようです。
現在、もはや彼は逝去してありませんが、一部の信者からは、彼は仏陀ではなく阿羅漢であった、ということで落ち着いていると言います。
しかしながら、そのようなことを、彼だけに起こるようなことなどと嘲笑い、他人事であるなどと決して思ってはいけない。往々にして永く修禅を続けてきた修行者は、そのような錯覚に容易く陥ってしまうためです。いわゆる「増上慢」です。実際、指導者として有名になると、ほとんどの人が何かしらこれと同じような錯覚に陥ります。指導者でなくただの修行者もまた、少々修行によって得たものがあったならば、たちまち師匠面や指導者面をしたくなるという思いがムクムクと生じてくるのです。
もちろん、それを真に身に着け、人を教導するだけの知識と徳とを備えているならば、積極的に他を指導したら良い。でなければこの道が広まることもない。そのような人には、むしろこちらから三顧の礼をもって懇願し、無理を押してでも師となって欲しいものです。
我は師をば儲たし。弟子は、ほしからず。尋常は聊の事あれば、師には成たがれ共、人に隨て一生弟子とは、成たがらぬにや。弟子持て、仕立たがらんよりは、佛果に至るまでは、我心をぞ仕立つべき。又佛は、一切有德の人を、崇重し給ふが故に、一切衆生の上に居して、天人の師たりと云云。
私は(私を教え導いてくれる優れた)師をこそもうけたい。弟子など欲しくはない。世間一般では、多少の(勉学を積んで人より優れた)ことがあれば(弟子を集めて)師になりたがるが、人に随って一生弟子のままでいたがりはしない。弟子を持って(師匠面してその弟子を)仕立てたがろうとするよりは、仏果に至るまでは我が心をこそ仕立てるべきである。また、仏はすべての有徳の人を尊び重んじられたからこそ、すべての生けるものの上にあって、神と人との師〈天人師〉となったのである。
高信 『栂尾明恵上人遺訓』(阿留辺畿夜宇和)
しかし、これは不佞個人の経験からして、他者よりは少しばかり長く経験し、また少々の知識を備えただけに過ぎない者であるにも関わらず、それを大仰に宣伝して自らを虚飾し、さも何らか悉地を得たかのようにして「指導者」になってしまう輩の世になんと多いことか。事実、巷間少しばかり「西洋お墨付き」の瞑想が紹介された途端に、たいした知見も経験も無い有象無象が、「瞑想ビジネス」・「仏教ビジネス」をあちこちで開始していることをたやすく認めることが出来るでしょう。浅ましいものです。
また、その弟子は弟子らで、自らが師事する我が師こそ尊く、その教えは他に勝れて尊いなどという考えを持ちがちであり、実際多くの修行者がそのような考えを持つようです。そのような弟子たちの師への思いもまた、その師の増上慢をさらに増長させてしまう要因となってしまいます。師は敬すべきであり、信頼すべきではあって、その所行や所説を常に一々疑ってかかっているようでは、その本人が成長することはない。しかし、なにごとも行きすぎてしまう。
何故か。何故に、多くの修行者というものが、そのようになってしまうのか。
人というものは、人の心というものは、そのようなものだからです。だからこそ、人は修行するのですが、得てしてこのような本末転倒が生じます。人とは面白いものです。故に、瑜伽を修習する人は誰であれ、これを「他山の石」としなければならない。
たとえば、ある人が、諸々の経典をよく記憶しており、さらに阿毘達磨などに精通し、仏教の見地からの心の構成やその働きなどを、他によく説くことが出来ていたとしましょう。では、それでその人が、そのような自らに生じた慢心などをたちまちに知り、それを容易く超克することが出来るのか。現実を見渡す限り、それは否であると言わざるを得ません。それらはまったく、というと語弊がありますが、別の事であるためです。
「八風に動ぜず」はもちろん理想です。が、世間の毀誉褒貶という風は、それぞれ大変な暴風であって、多くの場合、人は簡単に吹き飛ばされてしまいます。けれどもいくら飛ばされたとしても、自らが飛ばされたことを知ったならば、また立ち直ってその風に対してゆけば良いでしょう。人は間違えるものであり、そしてその間違いを正すことも出来るもの。
自らを正すには、まず自らの間違いを認めることからはじめなければなりません。しかしながら、その間違い、例えば自身の見解への執着であるとか、人々に尊敬されたことなどによって生じた慢心であるとか、そのようなものを、自らがその内に認め、これを正すのは生半可なことではありません。
そして、そのような自身の心の状態、自らが固執していること自体を「観察」しようという方向に、彼ら「ヴィパッサナーこそ」などという人々は、なにも特に彼らだけのことでもありませんが、なかなか赴くことはないようです。