槇尾山略縁起
夫れ王城の西北、槇尾山西明寺は當時、弘法大師の開基、智泉大徳の所住にして名僧・碩徳、代々茲に住せり。後宇多の法皇御在位の時に當りて、本堂・経藏・寶塔・鎮守等を建てて、勅して平等心王院と號し、自性上人に命じて當院の住持と爲す。上人、徳厚く智深くして、弘く顯密の教に通じ、學者、笈を負て到る者、沛然として水の下に就くが如し。法皇、屡臨幸して顯密の法を聴き玉ふ。又、遊義門院より二百餘函、聖教を寄附し玉ふ。上人臨末の日、法皇親しく鳳輦を病室に顧して、午時より酉の刻に至るまで、秘密の玄旨を傳受し、互に哀傷して別れ玉ふ。法皇、還幸の後、上人、坐を半跏に畳み、手に秘契を結び口に密言を誦して、眠が如くにして気絶す。時に紫雲靉靆、竒香馥郁たり。實に正和六年正月二十七日なり。上人滅後、嗣法の門人頼堅・道我等、相ひ續て住持す。然るに永禄年中の兵火に罹りて、有る所の伽藍、悉く焼失す。此の間に過る者、咸嘆惜せずと云ふこと無し。
慶長の初、明忍律師、字は俊正と云ふ者あり。高雄山晋海僧正の高弟なり。俗姓は中原氏、世官族たり。幼にして出家の志ありと雖も、家業を嗣に依て、未だ其の願を遂げず。慶長四年、師、年廿四歳、高雄山に登て落髪す。明年の冬より四度加行を修す。師、自ら嘆ひて曰く、發心して遠く渉ことは足に非ざれば能はず。佛道に趣向せんには戒に非んば寧ろ到らん。必ず須く顯密の二戒、堅固に受持して浄戒を犯ずること莫かるべしと。此に於て乃ち南京に往て、春日の社に詣し所志を祈る。時に沙門惠雲と云人あり。又た戒法の志あって霊跡を南洛に訪ふ。春日の廟前に於て律師と邂逅して、互に素志を述ぶ。恰も宿契の如し。二人、錫を連て西大寺に入る。寺に友尊と云ふ人あり。素より如律を信ず。是に於て志を齊し、共に律藏を探る。蓋し西大寺は興正菩薩弘法の場なり。今や隨行の徒無しと雖も、尚軌則の法有り。故に多聞□學の能く持犯開遮を説くあり。師、之を幸として雲・尊と相ひ共に隨ひ學ぶ。
慶長七年、遂に栂尾春日の神前に於て好相を祈り、雲・尊と共に興正菩薩所立の大乗三聚淨戒通受の法に依て自誓受戒して比丘の性を成し、専ら止作の行を勵し、日に大小の律藏を講じて研究せずと云ふこと無し。之に依て晋海僧正、師の如法奉戒を隨喜して、乃ち重て槇尾山を開き、律師及び二師を請じて共に結界成立し、如法律場の中興と為す。又、東照神君賜ふ所の腴田三十有五石を分ち附して、永く齋堂の資に備ふ。
慶長十一年、師年三十一、自ら謂へらく、已に通受自誓の願ひを遂つ。而るに未だ別受相承の望を果たせず。是に於て入唐求法の志を企つ。乃ち新學の徒を以て雲・尊二師に屬し、已に槇峯を出でて直に對馬の州に到る。奈せん國禁森嚴にして纜を解くこと克ず。馬嶋に寓滞すること已に五歳、慶長十五年の夏、沉痾に染む。自ら愈べからざることを知て、六月五日、手から書を修して高雄僧正に遺り、其の深恩を謝す。即ち短杖を執り、席を叩て佛号を唱ふ。心、安養に生ぜんことを期すとなり。同七月、綵雲、空中に簇り、寶華、庭前に雨す。自ら其の瑞相を記し已て、吉祥にして示寂す。戒臘九夏、報年三十有五歳。隨従の弟子道依、遺骨を負て槇尾山に歸る。一衆、訃を聞て痛嘆すること父母を喪するが如し。僧正自ら和歌を詠じて追慕す。嗚呼、法末の運に當て比丘の儀相を備ふる者は、皆是れ律師の賜なり。又、今の如法律宗と穪するは、蓋し槇尾を指て中興と為す。誠に是れ律師の功、豈に丕弗や。今、先徳の口説に依り、或は古記を考え、畧して此の縁起を裁す。
峕、元禄十三年庚辰正月吉祥日、槇尾山僧侶、謹んで書す。
槇尾山略縁起
そもそも、王城〈平安城〉の西北の槇尾山西明寺はその昔、弘法大師〈空海〉の開基であり、智泉大徳〈空海の愛弟子〉が住した所であって、名僧・碩徳が代々ここに住していた。後宇多法皇御在位の時〈在位1274-1287. 院政1287-1321〉にあたり、本堂・経蔵・宝塔・鎮守等を建てられ、勅により平等心王院と号するようになり、自性上人に命じて当院の住持とした。上人は徳厚く智深くして、弘く顕・密の教えに通じており、学者で(遥か遠方から)笈を背負って到る者が、沛然としてあたかも水が流れ込むかのようであった。法皇は、しばしば臨幸し、(上人から)顕密の法を聴きたまわれた。また、遊義門院〈姈子内親王。後宇多天皇の後宮〉は二百余函の聖教を寄附したまわれた。上人臨末の日、法皇は親しく鳳輦〈天皇の輿〉を病室に顧され、午時より酉の刻に至るまで、(上人は法皇に)秘密の玄旨を伝授すると、互いに哀傷して別れたまわれた。法皇が還幸されてほどなく、上人は坐を半跏に畳み、手に秘契を結び口に密言を誦して、眠るようにして息絶えた。すると紫雲がたなびき、奇香がただよったのである。実に正和六年〈1317〉正月二十七日のことであった。上人の滅後、嗣法の門人頼堅・道我等があい続いて住持した。しかしながら永禄年中〈1558-1570〉の兵火に罹り、それまで存した伽藍は悉く焼失した。その時、ここを通りかかる者は皆、(その燃えるのを)嘆惜せずにはいられなかった。
慶長〈1596-1615〉の初め、明忍律師、字は俊正と云う者があった。高雄山晋海僧正の高弟である。俗姓は中原氏、代々の官族であった。幼くして出家の志があったけれども、家業を嗣がねばならなかったため、いまだその願いを遂げられずにあった。(しかし遂に)慶長四年〈1576〉、師の年廿四歳、高雄山に登って落髪〈出家〉したのである。明年の冬より四度加行〈密教の初門となる四種の修行〉を修した。(けれどもそれは不本意なものであったため、)師は自ら嘆いて言われた。
「発心して遠くへ渉ることは足に依らなければならない。仏道に趣向するには戒に依らなければどうして到れようか。必ず須く顕教・密教の二戒を堅固に受持し、浄戒を犯してはならない」
そこで乃ち南京〈奈良〉に往き、春日の社に詣して所志を祈った。時に沙門恵雲〈慧雲〉と云う人があった。また戒法の志あって(戒学の)霊跡を南洛〈奈良〉に訪っていた。春日の廟前に於いて律師〈明忍〉と邂逅し、互いに素志を述べたところ、恰も宿契〈宿世の因縁〉のようであった。(そして)二人は錫を連ねて西大寺に入ったのである。(すると)寺には友尊と云ふ人があった。素より如律を信じていた。ここで於いて(その三人は)志を斉し、共に律蔵を探った。蓋し西大寺は興正菩薩〈叡尊〉が法を弘められた場であった。今や隨行の徒は無いとはいえ、なおも軌則の法は存している。故に多聞・□学であって、よく持犯開遮〈律の諸規定の詳細〉を説く者がある。師はこれを幸として、恵雲・友尊とあい共に(西大寺の碩学に)隨って学んだ。
慶長七年〈1576〉、遂に栂尾の春日の神前に於いて好相を祈り、恵雲・友尊と共に、興正菩薩が確立された大乗三聚淨戒通受の法に依り自誓受戒して比丘の性を成就し、専ら止作の行〈律で比丘に禁じられる行為に対する規定〉を勵し、日々に大小の律蔵を講じて研究しないということは無かった。これに依って晋海僧正は、師の如法奉戒を隨喜し、すなわち重ねて槇尾山を開き(復興し)、律師及び二師〈恵雲・友尊〉を請じて共に(平等心王院を僧坊として)結界を成立させ、如法律場の中興としたのである。また、東照神君〈徳川家康〉が(高雄山神護寺領として)賜われた腴田三十有五石を分かち附して、永く斎堂〈僧院〉の資に備えた。
慶長十一年〈1606〉、師の年三十一、自ら謂われた、「すでに通受自誓の願いを遂げはした。しかしながら、いまだ別受相承〈本来の三師七証・白四羯磨による正統な具足戒の受戒〉の望を果たしていない」と。そこで入唐求法の志を企てたのである。すなわち(槇尾山に集った)新学の徒を恵雲・友尊の二師に託し、とうとう槇峯〈槇尾山〉を出で、直に対馬の州に到った。(ところが)奈せん国禁森厳であって(支那に渡る)纜を解くことは出来なかった。(そのまま)馬嶋〈対馬〉に寓滞することすでに五年となった、慶長十五年〈1576〉の夏、沉痾〈長患い〉に染まった。自ら愈えるものではないことを知り、六月五日、手から書を修して高雄僧正〈晋海〉に遺り、その深恩を謝した。そして短杖を執り、席を叩いて(阿弥陀の)仏号を唱えた。心から安養〈極楽浄土〉に生まれることを期してのことである。同七月、綵雲が空中に簇り、宝華は庭前に雨した。自らその瑞相を記しおわると、吉祥にして示寂した。戒臘〈比丘となってからの年数〉九夏、報年〈享年〉三十有五歳。隨従の弟子道依〈ただ一人槇尾山から付き従った浄人。後に出家〉は、遺骨を背負って槇尾山に帰った。(平等心王院の)一衆は訃報を聞いて痛嘆すること父母を喪するかのようであった。僧正は自ら和歌を詠じて追慕した。嗚呼、(明忍らによる戒律復興が成し遂げられて以降、)法末の運〈仏教の衰退した時運〉であっても比丘の儀相を備える者は、皆これ律師の賜である。また、今の如法律宗と称するのは、蓋し槇尾を指して中興とする。誠にこれ律師の功であって、どうして偉大な事績でないことがあろうか。今、先徳の口説に依り、或いは古記を考え、略してこの縁起を筆した。
峕、元禄十三年庚辰〈1700〉正月吉祥日、槇尾山僧侶、謹んで書す。