槇尾山略縁起
夫王城ノ西北槇尾山西明寺ハ者當時弘法大師ノ之開基智泉大徳ノ所住ニシテ而名僧碩徳代々住セリ茲也當リテ後宇多ノ法皇御在位ノ之時ニ建テゝ本堂経藏寶塔鎮守等ヲ勅シテ號シ平等心王院ト命シテ自性上人ニ爲當院ノ住持ト上人徳厚ク智深シテ弘ク通□顯密ノ教ニ學者負テ笈ヲ到ル者沛然トシテ而如シ水ノ就クカ下ニ矣法皇屡臨幸シテ聴玉フ顯密ノ法ヲ又遊義門院ヨリ寄附シ玉フ二百餘函聖教ヲ也上人臨末ノ之日法皇親ク顧シテ鳳輦ヲ於病室ニ従リ午時至ルマテ酉ノ刻ニ傳受シ秘密ノ玄旨ヲ互ニ哀傷シテ而別シ玉フ法皇還幸ノ後上人畳ミ坐ヲ半跏ニ手ニ結ヒ秘契ヲ口ニ誦シテ密言ヲ如ニシテ眠カ気絶ス于時紫雲靉靆竒香馥郁タリ矣實ニ正和六年正月二十七日也上人滅後嗣法ノ門人頼堅道我等相ヒ續テ住持ス矣然ルニ罹リテ永禄年中ノ兵火ニ所ノ有伽藍悉ク焼失ス過ル此間ニ者ノ咸無シ不ト云コト嘆惜セ矣
慶長ノ初有明忍律師字ハ俊正ト云者高雄山晋海僧正ノ高弟也俗姓ハ中原氏世為タリ官族也幼ニシテ而雖トモ有出家ノ之志依テ嗣ニ家業ヲ未タ遂ケ其願ヲ也慶長四年師年廿四歳登テ高雄山ニ落髪ス自明年之冬修ス四度加行ヲ師自嘆シテ曰ク發心シテ遠ク渉コトハ非レハ足ニ不能趣向センニハ佛道ニ非ンハ戒ニ寧ロ到ラン必ス須ク顯密ノ二戒堅固ニ受持シテ浄戒ヲ莫犯スルコト於テ此ニ乃チ往テ南京ニ詣シ春日ノ社ニ祈ル所志ヲ于時有リ沙門惠雲ト云人又タ有テ戒法ノ志訪フ霊跡ヲ于南洛ニ於テ春日ノ廟前ニ與律師邂逅シテ互ニ述フ素志ヲ恰モ如シ宿契ノ二人連テ錫ヲ入ル西大寺ニ寺ニ有友尊ト云ヒト素ヨリ信ス如律ヲ於テ是ニ齊シ志ヲ共ニ探ル律藏ヲ蓋シ西大寺ハ者興正菩薩弘法之場ナリ也今ヤ也雖トモ無シト隨行ノ徒尚有軌則ノ法故ニ有リ多聞□學ノ能ク説持犯開遮ヲ師幸トシテ之ヲ與雲尊相ヒ共ニ隨ヒ學フ
慶長七年遂ニ於栂尾春日ノ神前ニ祈リ好相ヲ共雲尊ト依テ興正菩薩所立ノ之大乗三聚淨戒通受ノ法ニ自誓受戒シテ成シ比丘ノ性ヲ専ラ勵シ止作ノ行ヲ日ニ講シテ大小ノ律藏ヲ無シ不ト云コト研究セ矣依テ之ニ晋海僧正隨喜シテ師ノ如法奉戒ヲ乃チ重テ開キ槇尾山ヲ請シテ律師及ヒ二師ヲ共ニ結界成立シ為ス如法律場ノ中興ト又分テ附ケテ東照神君所ノ賜フ腴田三十有五石ヲ永ク備フ齋堂ノ資ニ矣
慶長十一年師年三十一自ラ謂ヘラク已ニ遂ク通受自誓ノ之願ヒヲ而ルニ未タ果別受相承ノ之望ヲ於テ是企テ入唐求法ノ之志ヲ乃チ以テ新學ノ徒ヲ屬シ雲尊二師ニ已ニ出テヽ槇峯ヲ直ニ到ル對馬ノ州ニ奈セン國禁森嚴ニシテ而不克ハ解クコト纜ヲ寓滞スルコト馬嶋ニ已ニ五歳慶長十五年ニ夏染ム沉痾ニ自ラ知テ不コトヲ可カラ愈六月五日手カラ修シテ書ヲ遺リ高雄僧正ニ謝ス其ノ深恩ヲ即執リ短杖ヲ叩テ席ヲ唱フ佛号ヲ心期ストナリ生センコトヲ安養ニ也同七月綵雲簇リ空中ニ寶華雨ス庭前自記其ノ瑞相ヲ已テ吉祥ニシテ而示寂ス戒臘九夏報年三十有五歳隨従ノ弟子道依負テ遺骨ヲ歸ル槇尾山ニ一衆聞テ訃ウィ痛嘆スルコト如喪父母ヲ僧正自ラ詠シテ和歌ヲ追慕ス嗚呼當テ法末ノ之運ニ備フル比丘ノ儀相ヲ者皆ナ是レ律師ノ之賜ナリ也又タ今ノ之穪スルハ如法律宗ト蓋シ指シテ槇尾ヲ為中興ト也誠ニ是レ律師ノ之功豈ニ弗ヤ丕乎今マ依リ先徳ノ口説ニ或ハ考エ古記ヲ畧シテ裁ス此ノ縁起ヲ矣
峕元禄十三年庚辰正月吉祥日槇尾山僧侶謹書
槇尾山略縁起
夫れ王城の西北、槇尾山西明寺は當時、弘法大師の開基、智泉大徳の所住にして名僧・碩徳、代々茲に住せり。後宇多の法皇御在位の時に當りて、本堂・経藏・寶塔・鎮守等を建てて、勅して平等心王院と號し、自性上人に命じて當院の住持と爲す。上人、徳厚く智深くして、弘く顯密の教に通じ、學者、笈を負て到る者、沛然として水の下に就くが如し。法皇、屡臨幸して顯密の法を聴き玉ふ。又、遊義門院より二百餘函、聖教を寄附し玉ふ。上人臨末の日、法皇親しく鳳輦を病室に顧して、午時より酉の刻に至るまで、秘密の玄旨を傳受し、互に哀傷して別れ玉ふ。法皇、還幸の後、上人、坐を半跏に畳み、手に秘契を結び口に密言を誦して、眠が如くにして気絶す。時に紫雲靉靆、竒香馥郁たり。實に正和六年正月二十七日なり。上人滅後、嗣法の門人頼堅・道我等、相ひ續て住持す。然るに永禄年中の兵火に罹りて、有る所の伽藍、悉く焼失す。此の間に過る者、咸嘆惜せずと云ふこと無し。
慶長の初、明忍律師、字は俊正と云ふ者あり。高雄山晋海僧正の高弟なり。俗姓は中原氏、世官族たり。幼にして出家の志ありと雖も、家業を嗣に依て、未だ其の願を遂げず。慶長四年、師、年廿四歳、高雄山に登て落髪す。明年の冬より四度加行を修す。師、自ら嘆ひて曰く、發心して遠く渉ことは足に非ざれば能はず。佛道に趣向せんには戒に非んば寧ろ到らん。必ず須く顯密の二戒、堅固に受持して浄戒を犯ずること莫かるべしと。此に於て乃ち南京に往て、春日の社に詣し所志を祈る。時に沙門惠雲と云人あり。又た戒法の志あって霊跡を南洛に訪ふ。春日の廟前に於て律師と邂逅して、互に素志を述ぶ。恰も宿契の如し。二人、錫を連て西大寺に入る。寺に友尊と云ふ人あり。素より如律を信ず。是に於て志を齊し、共に律藏を探る。蓋し西大寺は興正菩薩弘法の場なり。今や隨行の徒無しと雖も、尚軌則の法有り。故に多聞□學の能く持犯開遮を説くあり。師、之を幸として雲・尊と相ひ共に隨ひ學ぶ。
慶長七年、遂に栂尾春日の神前に於て好相を祈り、雲・尊と共に興正菩薩所立の大乗三聚淨戒通受の法に依て自誓受戒して比丘の性を成し、専ら止作の行を勵し、日に大小の律藏を講じて研究せずと云ふこと無し。之に依て晋海僧正、師の如法奉戒を隨喜して、乃ち重て槇尾山を開き、律師及び二師を請じて共に結界成立し、如法律場の中興と為す。又、東照神君賜ふ所の腴田三十有五石を分ち附して、永く齋堂の資に備ふ。
慶長十一年、師年三十一、自ら謂へらく、已に通受自誓の願ひを遂つ。而るに未だ別受相承の望を果たせず。是に於て入唐求法の志を企つ。乃ち新學の徒を以て雲・尊二師に屬し、已に槇峯を出でて直に對馬の州に到る。奈せん國禁森嚴にして纜を解くこと克ず。馬嶋に寓滞すること已に五歳、慶長十五年の夏、沉痾に染む。自ら愈べからざることを知て、六月五日、手から書を修して高雄僧正に遺り、其の深恩を謝す。即ち短杖を執り、席を叩て佛号を唱ふ。心、安養に生ぜんことを期すとなり。同七月、綵雲、空中に簇り、寶華、庭前に雨す。自ら其の瑞相を記し已て、吉祥にして示寂す。戒臘九夏、報年三十有五歳。隨従の弟子道依、遺骨を負て槇尾山に歸る。一衆、訃を聞て痛嘆すること父母を喪するが如し。僧正自ら和歌を詠じて追慕す。嗚呼、法末の運に當て比丘の儀相を備ふる者は、皆是れ律師の賜なり。又、今の如法律宗と穪するは、蓋し槇尾を指て中興と為す。誠に是れ律師の功、豈に丕弗や。今、先徳の口説に依り、或は古記を考え、畧して此の縁起を裁す。
峕、元禄十三年庚辰正月吉祥日、槇尾山僧侶、謹んで書す。
皇帝・帝王・天子の住まう都城。ここでは山城の京の意。▲
平安初期、九世紀初めに最澄に次いで空海が高雄山寺(後の神護寺)に入った際、その別院として平等心王院(後の西明寺)が建立されたと伝説される。▲
平安時代初期の僧で、空海の甥。大安寺(三論宗)にて出家し、後に空海の門に入って両部灌頂を受けた。その後は高雄山寺の三綱の一角である維那(羯摩陀那)を任されるなど空海の信任厚かった。高野山開創にも空海に従って尽力したが、天長二年〈825〉二月十四日、高野山東南院にて三十七の若さで逝去。▲
中世鎌倉後期の第九十一代天皇。亀山天皇の第二皇子。在位1274-87年。皇位にあるときは父の亀山上皇が院政を布いていたが、自身が退位して後二条天皇を即位させると代わって院政を布いた。好学の人で仏教を熱心に学び信仰していた。深く寵愛していた姈子内親王(れいしないしんのう)が急に薨去したその二日後に出家し、大覚寺に遷座した。このことによって後宇多法皇は大覚寺殿とも称される。▲
自性我宝。和泉の槇尾山寺(施福寺)の人であるというが出自等未詳。真言宗の学侶として活躍した頼宝の師であったという。▲
雨が盛んに降る様子。転じて、その勢いが大きい様、あるいは一気に勢力が湧き出す様。▲
後宇多天皇の妃(後宮)、姈子内親王の院号。後深草天皇の娘。▲
天皇が行幸される際の輿など乗り物の総称。帝の正式の輿の屋形上には金銅の鳳凰が飾られていることから転じた称。▲
雲や霧がたなびくこと。▲
得も言われぬ香りがただよっている様。▲
守理晋海(真海)。京都の清原氏(広澄流)出身、清原枝賢の次男。長男は後に清原氏を改め舟橋氏を称してその祖となり、また『慶長日件録』を遺したことでも著名な舟橋秀賢の父、清原國賢。すなわち、晋海は舟橋秀賢の叔父であった。
当時、多くの公家や廷臣の嫡子以外がいずこか仏門に入らされていたように、高尾山法身院に預けられて出家。後に仁和寺第二十世厳島御室任助親王から灌頂を受け、これをまた南御室覚深親王に伝えた。南北朝時代の天文年間〈1532-1555〉に兵火で甚だ荒廃していた高雄山神護寺の復興に尽力するに際しては、徳川家康の帰依を受け寺領千五百町歩(三百戸)を下賜され、また寺の三里四方の山林を伽藍復興の為にと与えられて復興の財とした。神護寺の法身院をその居としていたため当時は「法身院」あるいはただ「僧正」と称されている(実際の僧位は権僧正)。天正十六年〈1588〉、大覚寺にて誠仁(さねひと)親王の第二王子、空性法親王(大覚寺宮)の師となって得度授戒している。
清原氏と中原氏とが非常に近い関係にあったこともあって明忍の幼少期から学問の師であった。明忍の師僧となって以降はむしろ明忍から戒律復興への熱情に影響を受け、その良き理解者で後援者となり、平等心王院の復興に経済的支援をしている。そして実際に戒律復興に際してはその一員とすらなっている。律師が逝去した翌年の慶長十六年三月二日に遷化。
舟橋秀賢『慶長日件録』からは、晋海が非常に頻繁に秀賢宅に出入りし、あるいは秀賢が神護寺を訪れ、しきりに消息のやり取りをしていたことが知られる。秀賢はまた、その息子の一人を晋海に預けている。▲
平安中期に始まる古い家系で明経道または明法道を家学とし、大外記あるいは少外記を世襲した地下の廷臣。▲
密教を全て受法するための伝法灌頂を受けるに際し、必ず修めなければならないとされる、十八道・金剛界法・大悲胎蔵法・護摩法からなる四箇の加行。加行は「繰り返して行じること」の意。▲
明忍の言葉でなく、空海の教誡として伝わる『遺戒(弘仁遺戒)』の一節。これはまた叡尊が持戒の不可欠であることに気づき、戒律復興へ動く契機となったと自ら記していた言葉であった(叡尊『金剛仏子叡尊感身学正記』巻上)。明忍が南都に行くまで叡尊の事績について承知していたとは思われない。しかし、神護寺が真言宗に属したものであったことから、南都に発つ以前に空海の『遺戒』に触れていた可能性は一応ある。けれども明忍が戒律の重要性を自覚したのがいつ、誰あるいは何に基づいてのことであったかの確かな伝承はない。
ここで槇尾山の徒衆がこのように記したのは、明忍の事績が叡尊ひいては空海にまで辿ることが出来るものであること、すなわちその正統性あるいは往古のそれと一致したものであることを強調せんとしてこのように記したものと思われる。▲
慧雲蓼海。明忍と共に戒律復興を果たした僧。和泉出身、もと日蓮宗徒。慶長十五年〈1610〉明忍律師が対馬において客死した後、平等心王院の第二世住持となる。戒律復興の騎手としてただ明忍のみが著名であるが、実際として明忍が具体的に後進を指導したという実績はほとんどなかった。それは全く慧雲が主として担ったのであり、また槇尾山の僧坊としての基礎を築いたのも彼であった。しかし、慧雲もまたその翌十六年三月二日あるいは翌々年の十七年二月二日、高雄山神護寺にて示寂。行年は明らかでない。▲
奈良。南都に同じ。▲
この『槇尾山略縁起』以前における諸々の明忍伝では、明忍と慧雲が出逢ったのは奈良の三輪山であったとされている。しかるにここで、両者が出逢ったのは春日大社の廟前であると改変されて伝えられている。何故か。それはまず中世初頭、鎌倉期の栂尾山の明恵上人が春日明神の加護があったとされる伝承(『明恵上人伝』)があり、また春日明神は「神明は道心を貴び給ふ事」(『沙石集』)との説話があって、さらに室町期までには春日明神が「戒法ヲ守リ玉ト云。夢ヲ見ル者アリ」(『聖誉鈔』)と伝えられていたことに依るのであろう。槇尾山における戒律復興は西大寺の叡尊ばかりでなく高山寺の明恵にも連なるものであると、三輪山では春日明神を関わらせることが出来ないため、その相承を歴史的にも正統なるものだと言わんとしての改変であったと考えられる。
しかし、この伝承はこれ以降の律宗内、槇尾山の外にてもまことしやかに伝わっており、例えば江戸後期の慈雲は『律法中興縁由記』にてその通り聞いたことを記している。▲
前世からの因縁。前々からの定め。夙契。▲
友尊全空。明忍・慧雲と共に戒律復興を果たした僧。もと慧雲と同じく法華宗徒であったというが、脱宗して西大寺にあった。慶長十五年〈1610〉六月二日、明忍律師に先んずることただ五日、示寂。▲
中世鎌倉期の思円叡尊〈1201-1290〉の諡号。正安二年〈1300〉に伏見上皇より送られた。叡尊は始め醍醐寺にて出家し真言密教を修めたが、密教をいくら修めても何の意味も功徳・証果も無いことを思い悩み、ついには弘法大師空海の『遺誡(弘仁遺誡)』における「凡出家修道本期佛果。不更要輪王梵釈家。豈況人間少少果報乎。發心遠渉非足不能。趣向佛道非戒寧到。必須顯密二戒堅固受持清浄莫犯(凡そ出家修道は、もと仏果を期す。更に輪王梵釈の家を要めず。豈況んや、人間少少の果報をや。発心して遠渉せんには、足にあらざれば能はず。仏道に趣向せんには、戒にあらざれば寧んぞ至らんや。必ず須く顕密の二戒堅固に受持して、清浄にして犯なかるべし)」などの一節を読み、その原因は持戒せねば仏道はなんら意味をなさない、その証果も決して無いことを確信。戒律復興のために運動し始めることとなった。ついには法相宗の解脱上人貞慶などの後援により律学を深め、覚盛など同志四人で戒律復興が果たされる。▲
天平の昔に称徳天皇によって開基された西大寺は、平安中期以降に興福寺が領する寺となっていたが、中世に叡尊が入寺して律宗復興の拠点として。▲
持犯は持戒と破戒、開遮の開とは仏陀によって(例外的に)許可された行為、遮は制された行為。ここでは、律の規定の詳細の意。▲
明忍らが高尾山神護寺ではなく、特に栂尾山高山寺のしかも春日の社の前で自誓受戒を行ったのは、明忍による明恵に対する追慕の念に基づいてのことであったろうと思われる。また、神護寺では他の僧の手前、そのような独自の活動を為し難いという事情もある程度作用していたかも知れない。
ここで「好相を祈り」とあるが、それは自誓受戒という特殊な受戒を行うに際し、必ず好相を感得しなければならないとの経説(『梵網経』・『占察経』)に基づいてのことであった。そこで好相とは、夢中あるいは白昼夢、または修禅中などにおいて、なんらか吉祥なる現象を覚知することで、たとえば夢中に仏陀から頭を撫でられるであるとか、空華を見た、どこからともなく異香が漂ったなどである。それは決して、視覚的に限られたものではなく、とにかく尋常ならざるもしかし好ましい現象を自ら体験することである。しかし、往時の僧はそのような経説に準じて好相を見るため、修禅や念仏、礼拝などを自ら選択して行い続けた。特に『占察経』の所説に依るところが大きく、いつしかそれは律宗において定型化・形式化していった。▲
本書作者の誤認。ここで興正菩薩(叡尊)所立とするのは、後述の三聚浄戒の通受自誓受という受戒法であるが、これを考案・創作したのは叡尊ではなく覚盛。叡尊は覚盛の講席に並び、不可能であるはずの具足戒の自誓受であっても通受であればそれが可能であると聞かされ、その実行に自ら参加した。しかし、覚盛と叡尊およびその他二人によってなされた通受自誓受の後、各々門流を唐招提寺と西大寺を中心に形成したが、世に支持されたのは叡尊の西大寺系統の門流で圧倒的であった。▲
三聚浄戒の略。六波羅蜜のうち戒波羅蜜の具体。『華厳経』や『菩薩善戒経』などにて説かれ、『瑜伽師地論』(および『菩薩地持経』)や『摂大乗論』など主として唯識系の論書においてその具体的内容が詳説された、律儀戒・摂善法戒・饒益有情戒の三種をその内容とするもの。声聞乗における戒律と菩薩乗におけるそれとを、大乗の立場から包摂して説いたものであり、大乗教徒が必ず受持すべきものとされる。▲
ただ三聚浄戒のみを受けることにより、大乗僧として菩薩戒も律儀戒も総じて(通じて)受けるという、鎌倉初期の覚盛によって発案され実行された受戒法。しかし、それは律蔵および印度以来の菩薩戒の授受に関する規定に従ったならば絶対にあり得ない、むしろ否定され続けてきた受戒法であった。
そもそも通受とは元来、「僧俗が通じて(共通して)受けるもの」という意味の語。▲
止作とは止持戒で悪しき行為を制する条項で、いわゆる律の五篇七聚の規定。作とは作持戒で善を積極的に作す規定、例えば説戒(布薩)・雨安居などのこと。▲
僧院の食堂。▲
通受に対し、三聚浄戒のうち特に律儀戒(比丘・比丘尼の場合は具足戒・律)をのみ別個に受ける法。比丘・比丘尼の場合はただ三師七証・白四羯磨によってのみ成立し、それが仏陀釈尊以来唯一の正統な法。▲
別受による具足戒を受けることは明忍の当時、もはや不可能であった。そこでそれが可能であろうと考えられるのは、支那に渡って彼の地の律院で受けることであった(もっとも、それは当時の明においても律の伝統はほとんど滅びて、不可能なことであった)。あるいは、明忍が思慕した明恵が入唐どころか印度に達しようと計画していたと伝えられることに倣わんとしたものであったろう。▲
国法が非常に厳重であること。厳しく制限されていること。
当時、日本は文禄の役および慶長の役で明を目指した朝鮮侵攻が終わったばかりであり、明とも朝鮮とも国交は正式には無かった。それらとの交渉を担当することとなる以酊庵が臨済僧景轍玄蘇により作られる、その丁度前後の外交問題が微妙な頃に俊正明忍律師は対馬に渡ったのである。よって、律師が国の公認のもと渡海する余地はなかったであろう。
もっとも、それまで対馬の宋家は明や朝鮮との交易で莫大な利益を挙げており、なんとしてもこれを再開するための手段を探り、その機会を伺っていた(徳川幕府としても、甚大な利益をもたらす明との交易再開は望むところであって使者を送るが、明に無視される)。そして、宋家は実際に国書を捏造して勝手に国交を回復しようと、いわゆる柳川一件を引き起こしている。しかしながら、その後しばらくして明は経済的・政治的大混乱の果てに滅亡し、むしろ明の人々が日本に亡命を求めて渡ってきたのであるから、渡航を求める時期としては最悪であった。▲
長患い。なかなか治らない病。宿痾。▲
明忍がその死の二日前の六月五日にしたためた、晋海宛ての末後状。その手紙は何故か「止観文」なる題が付され、今も西明寺の寺宝として遺されている。▲
極楽浄土の別の謂。▲
戒臈。比丘として雨安居(夏安居)を過ごし終えた数。比丘としての席次の高下を決定する唯一の基準で、比丘としての年齢を示す。一夏、二夏などと数え、夏臘・法臘などとも言う。
ここで『槇尾山略縁起并流記』を著した槇尾山の衆徒は明忍の戒臘を九夏としているが、これは決して正しくない。なんとなれば、安居が開始されるのは(支那・日本では一般に太陰暦の)四月十五日であり、それ以前に比丘となって授戒して雨安居に入って七月十五日の自恣を迎えなければその年の夏を戒臘として数えることが出来ないためである。
明忍が自誓受したのは慶長七年のいつか不明であり、没したのは十五年六月七日である。仮に慶長七年の四月十五日以前に受戒しており、当年の安居を過ごせていたとしても、没年の十五年の安居は途中であるから戒臘として数えられない。したがって明忍の戒臘は多くても八夏であり、慶長七年の夏安居の期間の途中あるいは後に受戒していたのであれば七夏であった。▲
道依明全。俗名など出自等未詳。俊正明忍律師が対馬に向かった際、ただ一人随行した人。明忍が対馬へと旅立つ時、持律持戒を助けるための浄人(在家信者)として随行し、対馬での生活を助けた。
西明寺に伝わる文書の一つ『禅語採要』(沙弥名籍)には、道依は賢俊良永と共に賢俊律師没後の慶長十五年十月に入衆、すなわち沙弥となったことを伝える。道依は慶長十六年〈1611〉であり、賢俊など他十名と共に自誓受具している。元和二年〈1616〉八月廿七日没。▲
「打見よと かねのしもくの筆の跡 まつ泣聲そ もよをされける」。
晋海は道依が対馬から持ち帰った、明恵が意識朦朧とする中に見た光景を書き取った書の乱れた筆跡を眼にし、この哀傷歌を詠じた。▲
当時、明忍らを嚆矢とする槇尾山における持律の衆徒、あるいはそこから出た律僧らは「如法律宗」と世に称されていたことを示唆する一節。
現代、明忍らに始まる興律運動をして「真言律であった」などと解する学者腹があるが誤認。本来的に真言律なるものは存在しない。明忍は確かに真言宗「出身」ではあるがその同志は諸宗から集っており、彼らが目指したものは仏教復興であって真言宗に限るものではなかった。ただし、その後の門弟もまた、これは中世における僧徒の多くがそうであったように真言密教を受法していたため、必然的に真言の祖たる空海を敬し、またその著作をよく学んでいたことは違いない。▲
「丕」はおおきい・さかん・おごそか・よいの意。ここでは偉大な事績の意。▲