師生于天正四年丙子寂于慶長十五年庚戌六月七日報齡三十有五僧臘一十有五嗚呼此邦自興正忍性二大士之後律燈熄燄幾乎餘三百載惟師崛起澆末跂大志發大願紐既絶之玄綱樹已倒之法幟自非大心薩埵乘願轂而來則疇克爾耶
惜乎赤縣之遊未果精泰之歸何遄倘使其齊興正之壽則法化丕行於閻浮而度人之壽可以溢于石室木方榮而風折之
悲夫雖然師之遺芳餘烈凛然不墜自鶴林之夕迨今垂八十禩其間俊彥之士相繼出其門者指殆不遑屈其最者則玉圓谿公長圓祐公空爾戒公本乘空公良存圓公空印盛公全理燈公恕閒覺公閒㝛空公慈雲城公眞識圓公幻爾塔公智鏡海公眞空阿公了運生公尊光如公光影通公賴圓雄公存正然公行空然公本寂徴公等亾慮若干人各皆通練三學信崇四衆師之後裔可謂盛矣
宐哉諸方禪林敎庠凡尊奉毘尼者咸指槇阜爲律虎之林與夫紵麻靈芝易地則同歟𡮢製自誓受戒血脈圖興正下系讚辭曰幷呑三聚長養戒身耀法利生千古未聞此數句可謂能罄興祖平生之梗槩也師於講律之暇喜閲往生要集可知其居恆繫念於淨域奚啻梵行之芬芳也哉昔大智照師有謂生弘律範𣦸歸安養前賢後賢其揆一也
蒙曾隨喜槇山經藏所鎭師手書聖典幷講律日記等多是用麤楮或取舊牘翻背寫焉在馬島時所闇寫梵網經跋尾云爲僃廢㤀艸書粗紙非敢輕慢佛語也昔日淸貧介約雖文房四寚亦似乏用而書寫不懈豈非精誠之所致耶至于捨親愛純道業曾獲鄕母書未𡮢啟讀纔頂戴訖投諸屋外谿流與吾門昺鐵面故事可併按焉
又僧念正者𡮢聞野山賢俊大德語曰師在日有僧修曼殊洛叉法一夕假寐間夢大士告曰伱願見我生身卽高雄法身院俊正是也觀師梵德精嚴悲願宏㴱散異馥於易簀之際煥祥光於屬纊之時則謂之五臺應化亦何疑之有哉
頃歳建仁長老松堂植公承釣命赴職于對府以酊菴公於暇日躳探師舊蹟且令人物色之然歳月稍久無人能識適一華菴老僧以僊者年九十餘尚善記往事公就渠詢之曰某童時曾見忍師始從洛至托居府内宮谷後厭人緣稍譁又移茅壇每愛府治西南夷崎山水奇絶經行其間鄕人不知其名但喚京都道者耳海岸精舍主僧智順欽師戒行往來密爾及圓寂後爲立牌位至今尚存闍維之所不豎𡨧堵只栽松樹一株而巳茅壇四山採伐殆盡獨其一株合抱偃蹇翠色鬱然斧斤莫敢侵云
奥有現光雲松大德以師之嘉言懿行前哲所記攟拾有遺不能無歉于衷徴蒙修補始以菲才辭然再請弗輟嘉其念祖尚德暫不相㤀因按故堯遠筌公所錄事實與松公所傅聞重爲編次命曰行業曲記𥁋曲細而記其事也庶俾來裔有所歆艷而自厲云爾
旹
貞享丁戼歳嘉平月中浣日峩山沙門道徴月潭和南謹撰
師は天正四年丙子に生れて慶長十五年庚戌六月七日に寂す。報齡三十有五、僧臘一十有五。嗚呼、此邦、興正・忍性の二大士の後より律燈燄を熄めて幾乎ど三百載に餘る。惟だ師、澆末に崛起して大志を跂て大願を發して、既に絶たるの玄綱を紐び已に倒るの法幟を樹つ。大心薩埵の願轂に乘じて來るに非ずんば、則ち疇が克く爾らんや。
惜かな、赤縣の遊び未だ果せざるに精泰の歸、何ぞ遄かなる。倘し其をして興正の壽に齊らしめば、則ち法化丕ひに閻浮に行はれて度人の壽、以て石室に溢るべし。木方に榮んとして、風之を折る。
悲かな、然りと雖ども師の遺芳餘烈、凛然として墜ちず。鶴林の夕より今に迨んで八十禩に垂んとす。其間、俊彥の士相ひ繼で其門より出る者の指、殆ど屈するに遑あらず。其の最なる者は則ち玉圓谿公・長圓祐公・空爾戒公・本乘空公・良存圓公・空印盛公・全理燈公・恕閒覺公・閒㝛空公・慈雲城公・眞識圓公・幻爾塔公・智鏡海公・眞空阿公・了運生公・尊光如公・光影通公・賴圓雄公・存正然公・行空然公・本寂徴公等、亾慮若干人。各の皆、三學を通練して四衆に信崇せらる師の後裔なり。謂つべし、盛んなりと。
宐なるかな、諸方の禪林敎庠、凡そ毘尼を尊奉する者、咸とく槇阜を指して律虎の林と爲す。夫の紵麻靈芝と地を易へば則ち同からん。𡮢て自誓受戒血脈の圖を製す。興正の下、讚辭を系ねて曰く、三聚を幷呑して、戒身を長養す。法を耀し生を利して、千古未だ聞ずと。此の數句、謂つべし、能く興祖平生の梗槩を罄すと。師、講律の暇に於て喜で往生要集を閲す。其の居恆、念を淨域に繫ることを知ぬべし。奚ぞ啻だ梵行の芬芳なるのみならんや。昔し大智照師謂ること有り、生ては律範を弘め、𣦸せば安養に歸んと。前賢後賢、其の揆一なり。
蒙、曾て槇山の經藏に鎭ずる所の師の手書の聖典幷に講律日記等を隨喜するに、多くは是れ麤楮を用ひ、或は舊牘を取て背を翻にして焉を寫す。馬島に在し時、闇寫する所の梵網經の跋尾に云く、廢㤀に僃るが爲に粗紙に艸書す。敢て佛語を輕慢するには非ずと。昔日、淸貧介約、文房四寚と雖も亦た用に乏しきに似たり。而るに書寫懈らず。豈に精誠の致す所に非ずや。親愛を捨て道業を純らにするに至ては、曾て鄕母の書を獲て未だ𡮢て啟き讀まず、纔かに頂戴訖て諸を屋外の谿流に投ず。吾が門の昺鐵面の故事と併せ按ずべし。
又、僧念正と云ふ者、𡮢て野山の賢俊大德の語るを聞くに曰く、師の在りし日、僧有て曼殊洛叉の法を修す。一夕、假寐の間夢むらく、大士告げて曰く、伱我が生身を見んと願はば、卽ち高雄法身院俊正是れなりと。師の梵德精嚴悲願宏㴱、異馥を易簀の際に散し、祥光を屬纊の時に煥かすを觀るに、則ち之を五臺の應化と謂んも亦た何の疑しきをか之れ有んや。
頃歳、建仁長老松堂植公、釣命を承けて職に對府の以酊菴に赴く。公、暇日に於て躳ら師の舊蹟を探る。且つ人をして之を物色せしむ。然ども歳月稍久ふして、人の能く識りたる無し。適ま一華菴の老僧以僊と云ふ者、年九十餘、尚ほ善く往事を記す。公、渠に就て之を詢て曰く、某童たりし時、曾て忍師を見る。始め洛從り至て府内の宮谷に托居す。後に人緣稍譁きことを厭て、又た茅壇に移る。每に府治の西南夷崎の山水奇絶なるを愛して、其間に經行す。鄕人、其の名を知らず。但だ京都の道者と喚ぶのみ。海岸精舍の主僧智順、師の戒行を欽んで往來密爾なり。圓寂の後に及で爲に牌位を立つ。今に至て尚ほ存す。闍維の所、𡨧堵を豎てず。只だ松樹一株を栽るのみ。茅壇の四山、採伐殆ど盡く。獨り其の一株、合抱偃蹇として翠色鬱然たり。斧斤も敢て侵すこと莫しと云ふ。
奥に現光の雲松大德有り。師の嘉言懿行、前哲の記する所を攟拾して遺すこと有るを以て、衷に歉無きこと能はず、蒙に徴めて修補せしむ。始め菲才を以て辭す。然ども再請して輟に弗す。其の祖を念ひ德を尚んで暫くも相㤀れざることを嘉して、因て故の堯遠筌公の錄する所の事實と松公の傅へ聞く所とを按じて、重ねて爲に編次す。命て行業曲記と曰ふ。𥁋し曲細にして其事を記すればなり。庶くは來裔をして歆艷する所有て自ら厲まさ俾んと爾云ふ。
比丘となってからの年数、比丘としての年齢。法臘とも。比丘としての立場の上下、席次の高低はすべて僧臘によって決定される。
その数は夏安居を過ごした回数に基づくもので。その年の夏安居以前に比丘となった者は、その安居の三ヶ月間を終えると僧臘一歳となる。しかしながら、夏安居の後に比丘となった者は新年を超えても一歳とはならず、翌年の夏安居を過ごして初めて一歳となる。
ここで月潭は俊正の僧臘を十五であったとしているが、これは月潭が法臘の意味を正しく理解しておらず、沙弥となってからの年月で数え言っている。月潭はこの『行業曲記』において俊正が沙弥となった年を廿一歳であったとしているが、これもおそらく誤りで実際は廿四歳のことであった。そして、俊正が自誓受によって具足戒を受けたのは慶長七年であり、没したのが慶長十五年六月のことであるから、その法臘は七あるいは八とするのが正しい。「あるいは」となるのは、自誓受戒したのが慶長七年の安居前であったか後であったによるためであるが、その具体的な月日が伝えられていないためである。▲
興正菩薩叡尊の弟子。母の死をきっかけに出家し官僧となるが、後に叡尊の門下に参じて正しく仏教の出家者となる。特に文殊信仰に篤く、戒律を厳しく守りつつ、文殊菩薩の誓願に基づいて貧者・病者をはじめ社会の最底辺の人々の救済に力を尽くした。叡尊が西大寺を拠点として活動したのに対し、忍性は鎌倉幕府の執権北条氏から帰依を受けて鎌倉を拠点として活動した。同時期の日蓮は特に忍性を目の敵とし、罵詈雑言の限りを盡くし、また法力比べや宗論などを挑まれているが、忍性はまったく相手にしなかった。日蓮の書に忍性を誹謗する文言は多く見られるが、忍性の書には日蓮に言及する文言は、その名についてすら無い。それは忍性の立てた十誓に基づくものであったとされる。結局、日蓮は最終的には忍性の徳と行業とを認めざるを得なくなって認めている。▲
一般的な語ではないが、おそらく大菩薩の意であろう。大心は大菩提心の略で、薩埵とはサンスクリットsattvaあるいはパーリ語sattaの音写で、存在する者、命ある者の意。▲
轂は車輪の中央部。ここでは「誓願という乗り物」というほどの意で用いているのであろう。▲
都。ここでは唐(明)の意。▲
閻浮提の略。閻浮提はサンスクリットjambudvīpaの音写で、仏教の世界観で須弥山の南に位置するとされる逆三角形の大陸で、我々が住まう世界とされる。▲
入滅の間際を表現した語。仏陀が入滅(般涅槃)する際、その東西南北の四方に二本づつ、計八本立っていた沙羅の樹は、時ならずして白い花を一斉に咲かせ、その姿があたかも白鶴の群集が如き様であったということから、仏陀の入滅あるいは高僧の入滅をして鶴林と表する。▲
優れた男子。▲
仏教徒を出家在家の男女をまとめて言う語。四とは比丘・比丘尼・優婆塞・優婆夷で、それぞれ正式な男女の出家者と男女の在家信者を意味する語。より詳しくは七衆という。▲
禅寺、修禅の道場。
月潭がこの『行業曲記』を著した江戸前期の当時、すでに俊正律師らの興律の影響は律宗だけではなく真言宗・天台宗・禅宗・浄土宗・法華宗にも及んでおり、特に臨済系のそれへの影響は甚だ大なるものであった。もっとも、律師らが当初目指した通仏教的戒律復興、いわば仏教そのものの復興を志したのとは異なり、それぞれが「吾が仏尊し」精神を山盛りもっての「まずは我が宗派ありき」を前提とした戒律復興の動きをした。結局そのような動きによって、そもそも戒律復興の本質など見失われていき、ただ「律院」だの「僧坊」だのと名乗るだけであり、また教学的に律が云々とするだけで実質まるで元の木阿弥であるのがほとんどとなっていった。▲
学び舎。仏教を学ぶ場所。いわゆる学林のこと。▲
[S/P]vinayaの音写。その意は調伏であり、すなわち律のこと。毘奈耶とも音写されている。▲
支那の終南山。唐代初頭の南山大師道宣の住した終南山を紵麻蘭若といった。▲
支那の霊芝崇福寺。南宋の大智律師元照が長く住した。ここではそれぞれ南山律宗の支那の本拠とされた地の往時における姿が、まさに日本の槇尾山において再現されていたと称賛する意図でこのように表しているのである。▲
慶長十五年〈1610〉一月廿六日に描かれたという自誓受戒の血脈図(系図)。『明忍律師之行状記』に載るもので、釈迦牟尼から弥勒、そして叡尊に至るまでの極めて簡略な系図。南山律宗(道宣・元照)の系統と法相宗(玄奘・慈恩)の系統、そして弥勒から直接叡尊に至るという三系統が合されたものとして描かれている。▲
興正菩薩叡尊。▲
平安中期、天台宗の恵心僧都源信によって著された極楽往生の肝心についての書。日本だけではなく、支那においても浄土教が持て囃される契機となった。▲
極楽浄土。▲
清らかな行い。本来的には一切の性的行為を制する事であるというが、ここではより広範に持戒清浄であること。▲
芳しい香り。▲
宋代、衰退していた南山律宗を復興しようと勤めた湛然元照の称。鎌倉期に渡宋した俊芿によりその著作の多くが日本にもたらされ、以来律宗において珍重された。特に道宣『行事鈔』を注釈した『行事鈔資持記』および『仏制比丘六物図』は重要で、律宗のみならず禅宗および浄土教徒でも広く参照された。
元照は支那天台宗の学僧でもあったが、ためにその律の解釈は多分に天台教学を差し込むものであった。彼の『資持記』などその著作を所依として律について理解する者らは、その故に「資持家」などと言われた。したがって道宣以来、日本では古代の鑑真による律理解と、中世の律宗の理解は同じではないことに注意。なお、彼は戒律復興を志しつつ、晩年は浄土教にも傾倒。その影響が日本の律家にも及び、彼を手本に浄土教も并せて行う人々が多く現れるが、俊正律師もまたそのうちの一人であった。▲
道理の通じない愚か者。何もわからない子供。ここでは著者月潭が自身を謙遜してそう自称している。▲
明忍が自ら書写した典籍やその手紙など、その相当数が今も平等心王院(西明寺)に保存されており、特に重要な手紙などは軸装されて伝承されている。月潭はそれを平等心王院にて実際に読んでいたという。これは月潭がその伝記の編纂を頼まれる前のことであるというから、月潭は以前から平等心王院の衆僧と親しく交流、すなわち律を彼らを通して学んでいたのである。
そもそも月潭の出家の師は如雪文巌であったが、彼は槇尾山平等心王院第八代衆首であった全理惠燈を証明師として比丘となったもと律僧であり、後に臨済宗一絲文守の門下に参じて臨済僧となった人である。ここで月潭が槇尾山でそのように祖師の書を閲覧出来ていたことは、彼らが他宗に転じていたからといってその関係がまったく途絶していたということは全く無く、むしろ親しく通じていたことの証であろう。初期の槇尾山に集ってその衆徒となった者のそれぞれ出自来歴を全て知ることは現在出来ないが、そもそもその中の多くが禅宗など諸宗の者であった。▲
粗い安物の和紙。▲
古紙、反故。▲
文房四宝、すなわち筆・紙・硯・墨。▲
明忍は京の母公からの手紙を頂戴するのみで開き見ず、茅壇の庵のほど近くを流れる小川に捨てていたという。後代、その小川は律師のこの故事に因んで「文捨川」と称されていたという。現在、対馬でその名を知る者は、近隣の者ですらまったくいない。 近年、対馬の島民の間ではその行業は忘れられていく一方で、ほとんどまったく律師の名など知られていないけれども、対馬ではいまだ明忍律師の足跡を辿ることが可能である。なお文捨川とは、山中を流れるごくごく小さな小川であるが、現在はほとんど涸れており、雨が降った時にのみ山中の水が流れる程度のものとなっている。しかしながら山中、ところどころ昔の石積みでいわば護岸がなされているから、その昔は一定の水量があったのであろう。▲
南宋代の支那で編纂された『禅林宝訓』に載る逸話。鉄面昺禅師は法を尋ねて故郷を離れ行脚している際、(故郷からの)手紙を得てもそれを開き見ること無く、我が心を乱すだけであるとして地に投げ捨てていたという。この話は明代に編纂された禅のいわば入門書『禅関策進』にも収録されており、日本にももたらされて禅家に広く読まれた。月潭はここで、その鉄面昺禅師と俊正明忍律師とを重ねて見ている。▲
賢俊良永。対馬宋家の息子で、若年で高野山にて出家させられていた。宋家の嫡子ではなく、次男三男や従兄弟であったのあろうが、当時宋家は次々代替わりしており、家内が混乱していたためであったろう。 賢俊は対馬に里帰りしていた際、偶然にも俊正明忍律師と邂逅していた。そこで賢俊は俊正に受戒を請うたというが断られ、むしろ平等心王院に行くことを勧められている。そこで彼は、これは結果的にであったろうが、俊正の死後に慧雲のもとで沙弥出家して交衆し、その翌年に自誓受戒して比丘となっている。しかしながら初めての安居を終えたばかりにも関わらず、彼は槇尾山を出て高野山に帰ることの許しを請う。これはかなり非常識な、むしろ律を破る行為であったために当然許されず、しかしその主張をなんとしても押し通したい賢俊は京都所司代を巻き込んでの訴訟とした。結果的に彼はその主張が公儀によって許され高野山に帰り、真別処に円通律寺を開いて高野山における律学の道場とすることとなる。また、その後に法隆寺北室院を永世の律院僧坊として中興。終生、興律のために勤め、大阪叡福寺にてその生を終えている。▲
曼殊は文殊菩薩で、ここでは文殊菩薩の五字真言のこと。洛叉はサンスクリットの音写で十万の意。すなわち曼殊洛叉とは文殊菩薩の五字呪arapacanaを十万回唱える密教の修習法のこと。文殊信仰自体は真言密教において普通に見られるものであるが、律宗では西大寺叡尊の弟子忍性に顕著に見られた。▲
ここで念正なる僧が、それはいまだ俊正律師在世のときのことであると言うが、夢中に菩薩から聞いたという言葉は「槇尾山平等心王院俊正」ではなく「高雄法身院俊正」であったとされる。この言はその当時、いまだ槇尾山平等心王院の伽藍がいわゆる僧坊として全き状態でなかったことを示したものと見て良い。もしそれがすでに確立されたものであったならば、「高雄法身院俊正」ということは無かったであろう。故にこの伝承は現実味ある話として聞こえる。
彼らは晋海僧正の後援のもと、神護寺の子院をむしろ本拠としていた。実際、同志であった友尊にしろ慧雲にしろ、逝去したのは槇尾山平等心王院ではなく、高雄山神護寺の子院においてであった。あるいは晋海は、神護寺の後継者として俊正律師を考えていたのかも知れない。俊正の出自としても、それに十分堪えうるものであった。▲
尋常ならざる芳しい香り。▲
学徳の高い者や高貴な者が死ぬこと。▲
吉祥なる光。あやしき光。▲
臨終、人の死に際。▲
五台山の略。文殊菩薩の居処(清涼山)として信仰される、支那の山。ここでは文殊菩薩自身を指していう語。▲
応化身の略。化身。仏陀や大菩薩が衆生済度のために、その誓願力によって様々な姿に変化し現した存在とされるもの。▲
建仁寺三百十一代長老松堂宗植。彼もまた俊正律師を敬しており、自ら対馬に赴任したことを好機としてその足跡を辿った。臨済宗は、これを日本にもたらした栄西の昔はそもそも持律持戒で密教兼修なるあり方であったが、時代が下るごとに禅一向宗と化していった。そのようなところに俊正律師の活躍に影響され、意識的無意識的に往時のあり方をやや取り戻したのである。▲
朝鮮修文職。ここでは釣命(朝命)としているが、江戸幕府が対馬の以酊庵に派遣した朝鮮との外交担当職。外交文書の作成や解読、使節の応対などを担った。特に漢文に秀でた禅宗の、京都五山の住職らが輪番でこの役に就いた。松堂宗植は朝鮮修文職第三十四代で、貞享三年三月から元禄元年四月までの二年間、この輪番職にて対馬にあった。▲
対馬に創建された朝鮮外交を担った施設。名目上は寺。 創始者は臨済僧景轍玄蘇であるが、彼は江戸幕府が開かれる以前から対馬の大名宋家に招かれ、その外交にあたっていた。文禄の役の際には秀吉の命を受け、朝鮮および明との交渉役となった。江戸期に入っても同様、朝鮮との交渉を一任される立場となって、慶長十六年にその拠点として以酊庵を開いた。
以酊庵は消失して現存しておらず、当時あった場所もおおよその場所が分かる程度で確かなことは知られていない。現在、まったく別の場所に移された西山寺が以酊庵跡とされており、景轍の墓もそこに移設されている。▲
現在は厳原と言われている一帯の古名。▲
清水山城東側一帯。今も宮谷の地名は残されており、厳原町宮谷としてある。当時、ここら一帯は対馬のいわば中心地であって、情報を収集するにも便利な地であったのであろう。あるいは俊正律師が、昔官人(中原氏・清原氏)であった時の何らかつてを辿った結果として、宮谷のような中心地に最初居住することになったのかもしれない。▲
現在の厳原港の南にある岬。戒山はここで「府治の西南」とするが、実際は府治から見ると南あるいは南東に位置する小さな崎である。宋家の船江からほぼ真東に位置する。茅壇のふもとあたり一体は、今は湾岸部を埋め立て新しい自動車道を走らせているが、往時はそこらは入り江の磯辺か浜辺であったろう。
律師が住まっていたという萱壇から見下ろせば、今は雑木が生い茂って見難くなってはいるが、その昔は樹などほとんど無くて眼下にその入り江をはっきり見ることが出来たであろう。そしてその右端に夷崎を望むことが出来たに違いない。なお、今の対馬の島民には夷崎などという古名は知られておらず、地元民に聞いたとしても何らわかりはしない。▲
修禅で疲れた身体を伸ばし、和らげるためなどにゆっくりと歩くこと。けれども、ここでは単に「散歩した」という程度のことを表現としてこう言ったのであろう。なお、これを現在の禅宗は呉音でなく唐音で「きんひん」などと読むことが多い。▲
海岸寺。現在は浄土宗の寺院として現存。俊正律師が滞在した茅壇のほぼ真下の、海から少しく上がった所に位置する寺院。ほんの十数年前にはここに俊正律師像とその図像、および俊正律師のものと「される」(実際は間違いなく違う)五条袈裟があったが、韓国の盗賊によって盗まれ、今はその所在が知られなくなっている。▲
海岸寺を中興した僧。出自など未詳。しかしながらその位牌は海岸寺に今も祀られており、元和四年十月一日に逝去したことは判明している。享年八十九歳。▲
[S]jhāpetaの音写。荼毘に同じ。▲
卒塔婆の略。墓塔。▲
当時植えられたというこの松は、今萱壇の山中に見出すことは出来ない。あるいはどこかに今もあるかもしれない。▲
木こり。▲
雲松實道。槇尾山衆僧の一人。現光寺中興、巖松院三世。日政(深草元政)に『行業記』の執筆を依頼した省我比丘と同時に自誓受具した人。▲
同門で同法侶たる省我の依頼により、日蓮宗の日政が著した『行業記』の内容に、まったく雲松は不満足であったのであろう。実際、『行業記』を著した日政自身はその末尾に「吾れ憾むらくは文獻足らず、律師の聲徳を述ぶるに堪へざることを」と述べているが、それは律師の偉業を伝え残すには全く足りないものと槇尾山衆徒らは不満であったのであろう。そこで文筆に優れ、また自身も律学を嗜んでいた月潭に白羽の矢を立てることとなったことが、ここで月潭自身によって語られている。▲
槇尾山衆僧の一人であった堯遠不筌により編纂された『明忍律師之行状』。ここで「録する所の事實」と言われているように、これはただ書き残されたものを引き写し、また聞き集めたことを記した程度であって、公式の伝記とするには体裁がまったく整えられていないものである。その故に省我は日政にその伝記の執筆を依頼し、また雲松は改めて月潭により良いものの執筆を依頼したのであろう。▲
月潭道徴。永源寺の中興二世となった臨済僧、如雪文巌の弟子として出家し、やがて京都嵯峨に直指庵を結んで住した独照性円の膝下に入るも、師と共に明から日本に渡来してきた臨済宗黄檗派(黄檗宗)の隠元隆琦の門下に参じてその法を継いだ黄檗僧。隠元が黄檗山萬福寺で没して後、師の直指庵を継いでその二世となった。▲
[S/P]vandanaの音写で、敬礼の意。僧同士の挨拶の際、特に下臈から上臈に対して用いる語。▲