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Dharmacakra
智慧之大海 ―去聖の為に絶学を継ぐ

Anekajāti gāthā(生死流転偈)

疑と信

業と輪廻に関する仏陀の根本的態度

画像:疑

唯物論と一口にいっても、それは哲学的考察の果てに導きだされたもの、観念論に相対するものとしてや、科学的観察の結果として仮説された、あるいは結論されているものなど、多種多様です。いずれにせよ、世界には諸説乱立し、それぞれ我が意とするところを研ぎ澄ますなどして壮観なること誠に結構、それでこそ人社会です。

しかし、ではそのように唯物論だけでなく、いまだ健在の観念論、ユダヤ教・キリスト教・イスラム教・儒教・道教・ヒンドゥー教等の諸思想・宗教などが、我が宗とする思想こそが至高と諸山屹立して競っている(?)中での、仏教通じての立場はいかなるものか。

仏教とは、あくまで輪廻転生を前提としてその苦しみを説き、そしてそこからの解脱と解脱に至る道を説くものであります。そしてその教えに(未だ理解が至らないとしても一先ず学び)従うのが仏教徒です。これを否定しては仏教でもなんでもなくなってただの新宗教、あるいはいま挙げ連ねたような唯物論の一派、あるいはその傍流・亜流、はてまたは市井しせい戯言ざれごとにすぎないものとなるでしょう。

このように言えば、たちまち「仏陀は、いくら仏陀の言葉であったとしても、それを自分自身が考え、納得しなければならないとされた。ただ仏陀の言葉であるからといって、これを盲目的に信じるのは愚者である。教条主義者である。輪廻などは当時のインドで支配的であった思想をやむを得ず取り入れた結果、あるいは後代の蒙昧の徒が挿入した迷信たる思想にすぎない。故にそれなしでも仏教は仏教たりえる」と主張しだす、大体が60歳代から80歳代の人によく出会います。前半部分は確かにそのとおり。しかし、後半はいただけません。

いや、これは何故かここ最近とみにそういう事を言う仏教学者を聞かなくなりましたが、戦前戦後の著名な仏教(信者)学者などがその著書などで盛んに主張していたことであって、これをオウム返しに我が意としているだけのことでもあるのでしょう。世間に左寄りの風がビュンビュンと吹いていた、かつての時代を反映したものと思われます。

実は、そのような共産主義・無政府主義に傾倒、あるいは憧憬しょうけいを抱いていた当時の仏教者らの主張は、近世において富永仲基とみなが なかもとの唱えた加上説かじょうせつに知ってか知らずか影響され、基づいたものとも考えられます。富永によって論述された、いわゆる大乗非仏説、それには当時から近代までの仏教者らが誰一人としてまともに反論できませんでした。

そして、近代以降に南アジアおよび東南アジアの植民地支配のため発達していった西洋由来の文献学に基づいた仏教理解が、村上専精むらかみ せんしょうなど日本の仏教者らに受け入れられていく中で、富永仲基の主張がまた混淆し、形成されてた思想を、おおよそ彼らはその背景としているように思われます。といっても、現代における仏教学者らは、自身らのその主張がよもや近世から近代に紆余曲折して形成されたものを継承したにすぎないものであることの自覚は、ほぼ皆無であったようです。

閑話休題。このような言に対し、先に述べたような諸宗諸派数多くあるといえども仏教に通じた立場というものを開陳すると、次には「私は確かに仏教に対する興味はあるが、しかしそれほど宗教などというものに首も突っ込みたくはないし足も踏み入れたくもない。そこでだ、仏教の教学的な云々など私にはどうでも良いことで、故に私は仏教に輪廻思想など全く不要。むしろそれは害悪だと考えるのだ」という、仏教に首と足を十分に突っ込んでいなければ言うことも、またその必要もない言が放たれる

あるいは、これも似たようなものですが、「そもそも仏教だなんだと、私はこだわってはいないのだ。仏陀は『仏教』を説かなかった。真理としての達磨(Darma)、そう達磨をこそ私は信じ従う」と来ると、その手合いの人は「では達磨とはナンゾや」と聞くと明確に答えられないことが多いのですが、大体相場が決まっているようです。これは戦後の著名な仏教学者、中村元などの言を生半可に模倣したものであるのでしょう。まさに一知半解いっちはんげの権化というべき人です。

しかし、その手合の人々の言いたいことはわかります。

それは詰まるところ、仏教が輪廻を通じて説いていることであるとはいえ、それ以上理解できず受け入れられず、また受け入れたくもないが為に、そのような主張となるのでしょう。仏教の立場からすると、輪廻を完全に否定するような思想いわゆる唯物論を断見、そしてその全く逆の永久不滅の魂があってこれが輪廻するという思想は、これを常見というのですが、邪見であり、モノの真実なるありさまに昏いということになります。まれに、「いや、業や輪廻転生の思想を除いたとして、仏教は唯物論にも虚無主義にもならない」と言う人もありますが、それは一体どういう事でしょうか。

とはいえ、それに対し、仏教を奉ずる人はここで「我が(信奉する)説こそが優れ正しい」などと言えないし、言ってはいけない。そこでその良し悪し、真偽云々を言いだせばたちまち、不毛の地平が開けます。また、どう考えようがその人の自由です。そして、わからない者に「わからなくてもただただ信じよ、信じれば救われる」などと強制するのも全く違います。それでは全く解決になりはしません。

故に、今は一応、そういう人はそれで良い。自分が納得できないことを、無理に信じ受け入れようとする必要など全くありません。わからなければ「わからない」、と一先ずしておけば良い。それを無理やり、「かくもゴーリテキな自分がわからない。それはすなわち悪なる説である。妄説である」などと断ずる必要はない。

仏教では、特に業や輪廻についての疑惑を、サンスクリットでvicikitsāヴィチキッツァー、パーリ語でvicikiccāヴィチキッチャーと言い、漢訳ではそのままとする、誰しもがもつ煩悩・心の働き、これを仏教では心所と言うのですが、その一つとして挙げます。広義での疑い・疑惑については、kāṅkṣāカーンクシャーkaṅkhāカンカー)あるいはvimatiヴィマティといって、これと区別されます。

疑、それは誰でもが持つ、人によってその強弱こそありますが、因果応報・生死輪廻(など真理)についての疑問であり疑惑です。人間には諸々の煩悩があって当たり前であり、故に輪廻についての疑惑は、人間である以上ある意味当たり前に持っている思考・感覚と言えるのです。別に自身がカガクテキであるからこそそう思うのでもない。

ただ仏教では、これは修行が進んでいく中で消え去るものとされます。具体的には、声聞乗しょうもんじょうの階梯で言えば、預流([S].Śrotāpanna / [P].Sotāpanna / よる須陀洹しゅだおん)という境地に至って解消されるものとされます。

さらに言うならば、仏教では輪廻転生について、要するに自分が修行していかなければ疑惑は解消されないことである、禅に至らなければこれを認識することは出来ず、修行が完成されなければ完全には理解できないことである、という態度を採っています。要するに、いくらゴーリテキに考えたところで理解できることではないとされています。

“cattārimāni, bhikkhave, acinteyyāni, na cintetabbāni; yāni cintento ummādassa vighātassa bhāgī assa. katamāni cattāri? buddhānaṃ, bhikkhave, buddhavisayo acinteyyo, na cintetabbo; yaṃ cintento ummādassa vighātassa bhāgī assa. jhāyissa, bhikkhave, jhānavisayo acinteyyo, na cintetabbo; yaṃ cintento ummādassa vighātassa bhāgī assa. kammavipāko, bhikkhave, acinteyyo, na cintetabbo; yaṃ cintento ummādassa vighātassa bhāgī assa. lokacintā, bhikkhave, acinteyyā, na cintetabbā; yaṃ cintento ummādassa vighātassa bhāgī assa. imāni kho, bhikkhave, cattāri acinteyyāni, na cintetabbāni; yāni cintento ummādassa vighātassa bhāgī assā”ti.
比丘たちよ、不可思議〈acinteyya〉の四つの事柄があって、それらは思索されるべきでないもの〈na cintetabba〉である。誰であれ(それらについて)考える者には、狂気〈ummāda〉と悩害〈vighāta〉とがもたらされるであろう。ではその四つとは何であろうか?比丘たちよ、諸々の仏陀の境涯は不可思議であって、思索されるべきでない。誰であれ(これについて)考える者には、狂気と悩害がもたらされるであろう。比丘たちよ、禅者の禅の境涯は不可思議であって、思索されるべきでない。誰であれ(これについて)考える者には、狂気と悩害がもたらされるであろう。比丘たちよ、業果〈業報. kammavipāka〉は不可思議であって、思索されるべきでない。誰であれ(これについて)考える者には、狂気と悩害がもたらされるであろう。比丘たちよ、世界(の始まり・終わり・無限・有限など)についての思想は、思索されるべきでない。誰であれ(これについて)考える者には、狂気と悩害がもたらされるであろう。実に比丘たちよ、これら不可思議の四つの事柄があって、それらは思索されるべきでないものである。誰であれ(それらについて)考える者には、狂気と悩害とがもたらされるであろう。

Catukkanipāta, Acinteyyasutta (AN 4.77)

実はその昔のインドにて、この問題についても唯物論者と仏教徒とは永遠と論争しており、輪廻を論証せんと試みられています。

しかし、現代における知的枠組みにおいては、生命すなわち意識あるものは、と言うと生物学者らから「待った」・「異議あり」の声がかかるかもしれませんが、輪廻転生するということについて論証など出来ず、また科学的に観察し得るものでもありません。私自身について言えば、業そして輪廻はあると確信、というかそれは自明のことであってもはや信じてなどいませんが、これを人に指し示せ、となると何も出来はしません。

おや、なにやら神の存在も霊魂の不滅も論理的に論証できないけれども信仰の上では真であるなどという、キリスト教世界で言われた二重真理説の態度とさして変わらないことになってきました。

これは先に述べたことの重複となりますが、仏教徒であるが、しかし輪廻については「信じられない」・「受け入れられない」・「わからない」というのであれば、まずは一応、疑いを持ってはいても、説き続けられた教えに従いつつ、また自ら問い続けておけば良いでしょう。その存在を認められないからと言って性急に否定しに走ってこれを妄説と断じ、むしろ仏教まるごと否定するか、または「私だけの仏教理解」、「私の達磨」あるいは「新時代に適合する新しい仏教」如きものに改変する必要はありません。

近代インドの哲人とされるJidduジッドゥ Krishnamurtiクリシュナムルティは、「自分の信仰することを繰り返し主張することは不安の表れである」という言を残しています。確かにそのとおり、あるモノゴトについて「信じる」・「信じている」・「信じて」などと、日々繰り返して自他に言うような人ほど、実はその人自身、半信半疑であることがあるようです。それを他に対して口にしているようでも、信じ切られていないが為に不安で、むしろ自分自身に言い聞かせているような人もまま見られます。

信頼するというのではなく、「信じる」というのは、その対象を知らないからこそ、ある場合には「努力して」する必要あるものでしょう。その対象の全てを知っているならば、その対象が真実であると知っているならば、いや、その対象の真実の姿を知っているならば、そもそも信じる必要などない。

また、「信仰とは『真実を知りたくない』という意味である」とは、近代を代表するドイツの哲学者の一人、F. W. Nietzsheニーチェ の言ですが、まさしくそのような意味で信仰している人も多くあります。…ん?とすると…、私自身はどうやら今までそれをすでに口にし過ぎてしまっているようです。これではまるで問うに落ちず、語るに落ちる、私自身が「実は業や輪廻など信じていないのだ」と語っているようなものになってしまうでしょうか。

道徳の根拠 ―特に自殺について

「おい、もはやAnekajāti gāthāの説明でもなんでもなく、半可通の知識と妙な理屈、そして駄文で、汝が信ずるところの輪廻はあると、ただゴリ押ししているだけになっているではないか。しかも結論が悟らなければ誰もわからないなどと、教条主義的かつ権威主義的で、さらに神秘主義的態度以外の何ものでもない。いい加減にしろバカヤロウ。やめっちまえ、ハゲ!」という鼻息も荒々しい罵声が聞こえてくるようです(少し大げさに言いました)。いや、むしろただ「フッ」とのみの哀れみを含めた冷笑の鼻音、嘲笑でしょうか。

が、たしかに本題から遠くはなれてしまった感があり、またこれ以上私の知性の低さが露見するのは、いやむしろ自分からそれを露呈してしまっているわけですが、不本意なること甚だし。やはり、ここらでやめたほうが良いようです。

しかし最後に一点だけ、繰り返し言わなければならないことがあります。仏教から輪廻転生という前提を抜き出し、そして行(Saṃskāraサンスカーラ)や業(Karmaカルマ)という概念を、物理学的な作用反作用や原子の循環、あるいは化学の反応機構などであるとだけ捉えてしまうと、仏教が音を立てて崩れ落ちる、とまではいかなくとも、「仏教」というものにほとんど意味がなくなるでしょう。「むしろ、それをこそ望んでいるのだ」という人もあるかもしれない。しかし、そう簡単にはいかない。死んでしまえば全ておしまい、人生はこの一回こっきりで次など絶対にないとすると、懸命に修行に励んで仮に「涅槃なるもの」を得たとしても、そこに大した意味などないのではないか。

「何故にわざわざ五感を制し、抑えがたき情欲を抑えて、命ある間に実現可能かどうかも全く知れない、しかも私の家族親族近隣でそれを以前見たことも経験したこともない、およそユートピアの如き伝説、いや、まるでネバーランドのようなお伽話の類に等しき涅槃などというものを目指さなければならないのか、馬鹿馬鹿しい」

「一回こっきりの人生ならば、我が心が思う様に世の快楽を享受し、そのためにこそ合法非合法問わず、あらゆる手段を以て努力したらいいではないか」

「バレなければいいのだよ、諸君。バレなければ」

ならば、古代ギリシャのアリスチッポスの如く、徹底的に肉体的瞬間的快楽をただただ追い求め、自分の好きなように生きる享楽主義者になることが良いでしょうか。「それでは獣と変わらないではないか」という人もあるかもしれません。しかし、アレスチッポスのそれは、あくまで哲学的思考に裏打ちされた、人生における最高の幸福とは何か、善をは何かを追求した結果としての一つの態度です。彼はソクラテスの弟子でキュレネ派を創始した人です。

また、結果的に同じようなあり方になるでしょうが、特に哲学的思考など無しに、世の中金がすべてと拝金主義者となって金儲けに精を出し、この世の春を謳歌するのもあるでしょう。しかし、これは実際ごくごく限られた人にのみ実現可能なことでしょうから、全く非現実的でしょうか。

もっとも、そのような意味で現実的・非現実的ということを言うのであれば、大乗・小乗を問わず仏教徒は世界中に数あれといえど、涅槃に到達する人がごく限られている現状、それは億万長者になる方がずっと確立が高いのではないかと思えるほどです。故に、涅槃を目指すことは極めて非現実的な行為ということになりますけれど(わざわざ言わなければ気づかない人のほうが多いでしょうが、フェアを期すために一応)。

「人生は苦しいことばかりで楽しいことなど一つもない」と感じ、実際そのような事態に直面した場合、あるいはまた物理的経済的に逼迫し四面楚歌となって何等希望を持てなくなった時、途端に自殺するのが最善の方法となるでしょう。

「人生山あり谷あり、明日は明日の風が吹く。そう悪いことばかりじゃないさ」と、うそぶいてみるのもいいでしょう。実際、そのように言う人に多くあったことがあります。しかし、実際人生はそんな甘いものではない。そのように言う人は、この世においては比較的恵まれた今を過ごしているからこそ、そういえるのでしょう。けれども、老病死は平等に我々のもとにやってきますが、人の能力も境涯も幸運も決して平等ではなく、ゆえに「老病死の過ごし方」は決して同じとはならない。それを無視して「明日は明日の風は吹く」はない。温帯の風は寒暖あって時に心地良いものでも、「北極に吹く風は常に冷たい」のです。

何も仏教だけが「人生は苦しみである」と説いているのではなく、キリスト教にしろイスラム教にしろ、その深度の異なりこそあれ同様です。一般に、ある程度恵まれた国に生きる人が年若い時には、「人生なるもの」など五里霧中であっても、おおよそ明るく華やかで希望に満ちたものであると楽観的観測を持って生き得られるかもしれません。

しかし、実際のところ、その人の主義が唯物論であろうが観念論であろうが、仏教であろうがキリスト教であろうが関係なく、その人の経済的貧富すら関せず、誰のものであっても人生はまことに理不尽で苦痛に満ちています。そうでなければ「救い」を求める人、「真理」を求める人などありえず、故に宗教や哲学が人類において大きな役割をもつこともなかったでしょう。

人生というものに真摯に向き合った時、あるいは何事か悲劇に直面した時、それを真剣に深く考え思えば思うほど、その如何ともし難い苦を見出すことになる。そしてその苦とは一体何か、そこから如何にすれば脱却できるかを考え、また悩むことになる。時としてそれを忘れさせてくれる至高の瞬間、灼熱の地における一服の清涼剤を得ることは出来るでしょうが、そこが灼熱の地であることは変わりません。であるからこそ、この問題について古来人は考え続け、今の人も考え、それぞれ好むところの見解を選択しているのでしょう。

かく言えば、「それは極端な物の見方だ」という人があるでしょう。およそすべての人は生来的に生きたいと望んでいる、生きたくて生きたくて仕方がないという根源的な欲求をもっていることを忘れてはいません。誰人にも自身の命こそまずもっとも重く、尊いものです。

「いや、そんなことはない、自らより大事な命はある。たとえば我が子のためならば、私はよろこんで我が生命をなげうつ」という人もあるでしょう。もちろん、そのような思いは言葉だけでなく、真でありましょう。けれどもそれは、そのような「我が子のためならば我が生命を捧げる」という「我が思い」こそ、「我が生命」より重く価値ある、ということです。しかし、我々の身体というものは普段、その根源から自らの生命を維持することを至上命題としていることは、一般に言えることです。

そこで、そのようなことを百も承知の上で、人生が嫌なら死ねば良い、自分の命をどうしようがその者の勝手。死ぬ瞬間こそ肉体的苦痛を感じるのかもしれないが、死んでしまえば全ておしまいであるならば、生きて苦しい思いをダラダラと虚しく続けるよりはよっぽど良い、と考えること。それはむしろ合理的でこそあれ、決して極端な考えであるとは思いません。

希望がなければ絶望はありえません。生きたくて生きたくて仕方がない、幸せになりたくてなりたくて仕方がない、死にたくなんかない。けれども、その実現をはばむどう仕様も無い自分自身を含めた環境、冷徹な現実がある。経済的理由から、精神的理由から、社会的理由から、病苦のため、心を病み気が違ってしまったため等々、理由は人によって色々とあるでしょう。しかし、理由は異なっても自殺という同様の手法でもって、その苦しみ、絶望を終わらせようとする人があります。

いや、「自殺こそが最後の希望なのだ」という人がある。そのような人が現実に、これは日本に限らず、世界に多くあります。むしろ経済的に困窮している国では、その経済的困窮を苦に自殺する者はごく少数であり、経済的物質的にある程度恵まれた国では、病苦や社会的悩みを苦としてではなく、経済的困窮を苦に自殺する人が多く見られるようです。その事実は人の幸不幸というものについて、様々なことを示唆するものです。私見では、その背後には必ず「孤独」というものがきっとあるのだろうと考えています。

人は幸せになりたいものです。ところが、人生とはかくも不如意なるもので、その浅深強弱は人によってまちまちであり、その異なりの故にもまた人は苦しみを味わう。

いや、そもそも「私は幸せになりたい」と人は間違いなく思っているけれども、実は「では幸せとは何か」に対して明快な答えを持っている人など、ほとんどありはしないように思われます。むしろその答えなど持っておらず、ただ漠然と社会が漠然と、また不安定に与えている空虚な「幸せのイメージ」に自分が合致しないことに、さらに悩み苦しむ人がある。「幸せになりたい。しあわせに、しあわせに。けれども、だから、私は死ぬのだ。それが私には最後に残された、たった一つの選択肢だから」と。

人は、生きたくて生きたくてしかたがない。幸せになりたい。でも、実際に何が幸せかはよくわからない。そして、しかし、自らがなんとなくでも生きたいようにその最低限ですら生きることが出来ないから、人々が思う幸せに自分がなりえないことから、死を選ぶ人がある。

そこでさて、「来世など無い!すべては物理的化学的法則に則ったモノだけの世界に過ぎない」、「それが(未だそのメカニズムが解明されていないが故に)驚異的なことであるとは言え、私という意識も脳の所産でモノの一機能」と言う同じ口から、そしてまた個人の意志・自由を尊ぶ思想を奉ずる社会にあって、その核とされるべき脳が導き出した、個人の意志として選択された死を、一体どうして阻害しようとするのか。

どのようにすれば、彼の偉大な科学者は「神はダイスを振らない」との言を残しましたが、おそらく科学的にはどこまでも不確定である未来について、そして多くの場合そのような望みがほとんど無いからこそ死という最後の選択肢を選ぶ者に対して、「生きていればそのうちきっと良いこともある」・「人は変わり得る、だから生きろ」などという言が吐き出されるのか。

一体何を根拠に、人は、そして社会は「死んではいけない」と言うのであるか。さらにいうならば「なぜ人は道徳的であるべきだ」と言うのか。ただ人倫として自殺は悪とするのか、いや、道徳として自殺は悪であるのか。だとすれば何故それは悪なのか。

なぜ自分はそう考えるのか?なぜ、そのように人に言い自分にも言い聞かせるのか?その背景が自分でも朦朧として何故かを言えないならば、それは「死を決断した人」に対して説得力に欠けたものとなるでしょう。

「おっと、これは具合が悪い」と考える唯物論者の中には、頭をひねって道徳の根拠、すべては物質だけであって死ねば全てが終りのこの世界において、「なぜ人はその過酷な人生を生きなければならないのか」、ひいては「なぜ人は人を殺してはいけないのか」、「バレなければなにしても良いのか」に対する模範回答を出そうと苦心している者もあるようです。

「自殺問題についてのみ、個人を主とせず、社会など全体を主として観た場合、個人が好き勝手に自殺することを許すと社会の諸機能・秩序に不都合、混乱が生じる。それがひいては各個人の不利益となるから駄目なのだ」というのも一つの回答でしょう。

実際人の死体についての見方が色々あったとして、それをただのモノと見ようが見まいが、いずれにせよその処置・処分には面倒事が多いものです。経済が傾くたび、何事か人の精神を不安定にさせる危機を社会が迎えるたび、街のそこいらに勝手気ままに自殺した遺体が無秩序にゴロゴロするようでは、社会は困ってしまう。死んだ本人は知らん顔でも、そのつけを払うのはその他の個人である他人です。例えば、東京でJR中央線を毎日利用している人ならば、これは見に染みて知っていることでしょう。

いや、そもそもこのような件に首を突っ込んでいくと、社会的に色々と都合が悪くなる可能性が高いので、いつもは舌鋒鋭く云々カンヌンする者でも口を閉ざすのが多いようです。

実のところ人倫と道徳の問題は絡み合うものであり、そう簡単に論じきられることではありません。自分という個人の意思を尊重するならば、また他人という個人も尊重しなければならず、社会という個人の意思の総体もまた尊重しなければならないものです。「個人」であるのは自分だけでは決してありません。