VIVEKAsite, For All Buddhist Studies.
Dharmacakra
智慧之大海 ―去聖の為に絶学を継ぐ

Asubha bhāvanā(不浄観)

不浄な私

atthi imasmiṃ kāye kesā lomā nakhā dantā taco, maṃsaṃ nhāru aṭṭhi aṭṭhimiñjaṃ vakkaṃ, hadayaṃ yakanaṃ kilomakaṃ pihakaṃ papphāsaṃ, antaṃ antaguṇaṃ udariyaṃ karīsaṃ matthaluṅgaṃ, pittaṃ semhaṃ pubbo lohitaṃ sedo medo, assu vasā kheḷo siṅghāṇikā lasikā muttaṃ.
sabbe sattā marissanti, maranti ca mariṃsupi, tathevāhaṃ marissāmi, ettha me natthi saṃsayo.
この身体には、髪・毛・爪・歯・皮、肉・筋・骨・骨髄・腎臓、心臓・肝臓・肋膜・脾臓・肺臓、腸・腸間膜・胃の内容物・大便・脳髄、胆汁・痰・膿・血・汗・脂、涙・血漿・唾・鼻汁・(関節)滑液・小便がある。
すべての生ける者どもはまさに死にゆく。彼らは死に、過去にも死に去った。私もまた死にゆくことに、なんの疑いがあろう。

不浄観

Asubhaアスバ bhāvanāバーヴァナーとは、直訳すると「不浄の修習」で、伝統的には不浄観と言います。

不浄観といっても大きくは二種あり、人の身体が死後次第に腐って朽ち、また獣に口散らかされ虫が湧いて、やがて骨と化していくかを観想するものが一般的かもしれません。日本ではそれを九想観あるいは九種不浄観などと言い、九想観図という「美女」が朽ちていく様を九段階にして描いた軸を用いて不浄観を行います。

分別説部ではそれを十不浄と言い、業処すなわち観察の対象として用い行います。

しかし、ここで不浄観として挙げたのは、人の身体とは様々な組織・器官からなり、またそこには種種の不浄なるものが満ちているものであると、身体についていわば解剖学的に淡々と(観察でなく)観想していく、Kāyagatāsatiカーヤガターサティ(身至念)という修習です。

ここで説かれるのは、死者の身体ではなく生きている者の身体を対象とするものです。人のその外見ではなく、その内容物がいかなるものであるかを常に意識することによって、貪欲を退治することを目的としたものです。特に愛欲(性欲)の強い者に、その修習が奨励されます。

上に挙げた「atthi imasmiṃ kāye」から「lasikā muttaṃ」迄の一節は、パーリ三蔵の経蔵に広く所々に説かれています。そのうちDīgha Nikāya(長部)所収のMahāsatipaṭṭhānaマハーサティパッターナ suttaスッタ(『大念住経』)では、Kāyānupassanāカーヤーヌパッサナー(身随念)の一つとして説かれています。また、論蔵ではVibhaṅgaヴィバンガ(『分別論』)に伝えられています。

(蛇足ですが、契経では、もともとmatthaluṅgaマッタルンガ〈脳髄〉を欠く三十一のものが説かれるのが、注釈書の説の影響で三十二として説かれるようになったようです。)

この文言の中には、ここで列挙されている身体の三十二の諸要素について、「不浄である」とする文言はありませんが、仏陀はこれらを説かれる直前に、このように説かれています。

puna caparaṃ, bhikkhave, bhikkhu imameva kāyaṃ uddhaṃ pādatalā adho kesamatthakā tacapariyantaṃ pūraṃ nānappakārassa asucino paccavekkhati. “atthi imasmiṃ kāye...
比丘たちよ、次にまた比丘は、下は足の踵より上は頭の髪の先まで皮膚で覆われた、様々な不浄で満ちたこの体を観察する。「この身体には・・・《以下略》」

DN. Mahāvagga, Mahāsatipaṭṭhānasutta 372

ここでは不浄というのに、asubhaアスバではなくasuciアスチ との語が用いられていますが、いずれも「不浄」の意で変わりありません。釈尊は時に、男性からの女性に対する性的欲望を起こすのを戒めるために、女性をして「不浄の詰まった糞袋」などと言っています。現代ならばフェミニストの一部が騒ぎたてそうな一節ですが、これは女性からする男性、あるいは男性同士、女性同士など同性でも同様に言えるものです。人は皆、本質的には「不浄の詰まった糞袋」です。

また、漢訳経典では『中阿含経』において、種々の念身を説く中にこれとほぼ同内容の一説が見られます。

比丘修習念身。比丘者。此身隨住。隨其好惡。從頭至足。觀見種種不淨充滿。謂此身中有髮毛爪齒麁細薄膚皮肉筋骨心腎肝肺大腸小腸脾胃搏糞腦及腦根淚汗涕唾膿血肪髓涎膽小便。
比丘たちよ、念身を修習するが良い。比丘はこの身体に随って住し、その好悪に従い、頭より脚に至るまで種々の不浄が充満しているのを観察するのだ。謂く、「この身体の中には、髮・毛・爪・歯・麁細薄膚皮・肉・筋・骨・心・腎・肝・肺・大腸・小腸・脾・胃・搏・糞・脳及び脳根・涙・汗・涕唾・膿・血・肪・髓・涎・膽・小便がある」と。

『中阿含経』巻廿 長壽王品「念身経」 (T2, p.556a)

パーリ語の文言の中で説かれている身体の三十二分を、パーリ語と日本語とを参照しやすいよう、表にして以下に示しておきます。

身至念における三十二身分
No. Pāli語 意味 No. Pāli語 意味
1 kesa 2 loma
3 nakha 4 danta
5 taca 皮膚 6 maṃsa
7 nhāru 8 aṭṭhi
9 aṭṭhimiñja 骨髄 10 vakka 腎臓
11 hadaya 心臓 12 yakana 肝臓
13 kilomaka 肋膜 14 pihaka 脾臓
15 papphāsa 肺臓 16 anta
17 antaguṇa 腸間膜 18 udariya 胃中物
19 karīsa 大便 20 matthaluṅga 脳髄
21 pitta 胆汁 22 semha
23 pubba 24 lohita
25 seda 26 meda
27 assu 28 vasa 血漿
29 kheḷo 30 siṅghāṇika 鼻水
31 lasika 滑液 32 mutta 小便

身体が諸々の汚物に満ちた器官・組織からなることを観察することにより、自身への愛着、そしてその強弱の異なりこそあるものの、正常な人間であればあって皆が備える性的欲求・衝動を抑制するために説かれたのが、この不浄観です。

身体についての一つの見方

現代の解剖学的な見方をしてはいるものの、根本的に異なっているのは、それらを「不浄」であると見なしている点、執着の対象とする価値のないことを知らしむことを前提としている点です。いや、これらは医療関係施設においても、その扱いは医療廃棄物(感染性廃棄物)として厳重に扱われるため、そう異なってもいないでしょうか。

これは特にタイのみに見られることのようですが、死体をナタや包丁などによってバラバラにし、各組織を並べる様子をビデオや写真に修め、僧侶らの不浄観に用いさせる人々があります。タイの比丘など、不浄観の実習のために医大などにおける解剖学の臨床や検死解剖に立ち会うことがしばしばあります。また、仏教信者で自分の死体を僧伽に寄付し、僧伽の所有する森に打ち捨てさせて、実地に死体が腐りゆく不浄観の対象とさせるという人まであります。聞いた話によると、それは「その朽ちていく遺体の見た目よりも、その匂いの凄まじさに耐えられない。見た目だけならばある意味すぐに慣れてしまう」とのことです。

このような人の身体の見方に対する反感、性的欲求を抑制せよとの教えに嫌悪を覚える一部の人々の不満の声が上がるかもしれません。「そのような、汝らの言う疎い離れるべき欲情に基づく行為の結果、不浄なる物からお前は生まれてきたのではないか。それを今更何を言うのか」と。あるいは、密教を少しばかりかじったことのある人から、「密教〈『理趣経』〉では妙適清浄〈性的エクスタシーは清浄である〉と説かれるのだ!」との言が吐き出されるかもしれません。

先ず、人の身体が諸々の不浄によって構成されていることを説くことはあっても、在家信者に対して性欲を完全に押さえ込め、などということを仏教は要求しません。不邪婬といって、不倫や強姦、不特定多数との性交渉などを戒めるに留まります。また、密教について一知半解の言を振るう人は、そもそも『理趣経』において説かれる「清浄」とは、綺麗汚いの「清らか」という意味ではなくて、「無自性空」の意味で用いられていることを知らなければならない。

とはいえ、もし在家であっても真から涅槃を求めるという者には、同様に人の身体の不浄なること、無常なることを観察させ、自ずから性的欲求を漸減させていくことが勧められます。

仏教における最終の目的、涅槃に達するという目的の前に、三毒などともいわれる貪欲(むさぼり)・瞋恚(いかり)・愚痴(真理についての無知)の三大煩悩に基づく欲求は障害となります。そして、自身の身体に対する愛着、他者の身体に対する性欲は、貪欲にもとづくものです。故に、仏教おいて涅槃を得ることを真から求める人にはその欲求を退治する必要があり、そのための修習が不浄観です。

不浄観は仏教の厭世的側面を表すものです。日本の僧職者や仏教学者にはそれを否定しようとした言を述べたがる者がありますが、事実そのような側面が仏教には確かにあります。しかし、ただいたずらに生を否定しているわけではありません。その昔、釈尊が不浄観を修することを弟子の比丘らに勧め、これを多くの比丘が熱心に修した結果、生を穢らわしいものと厭うようになった比丘らが次々と、刃物を用いて首を切るなどして自殺するという事態に至っています。そのため釈尊は比丘らに不浄観を修すことを一先ず止めさせ、かわりに持息念を説かれています。

このようなことがあったこともあり、不浄観は特に貪欲・色欲(性欲)の強いものにこそ推奨される瞑想となり、逆に厭世観の強い者や瞋恚の強い人には推奨されぬ瞑想となっています。厭世観の強い者がこれを修すると自殺してしまう可能性があり、瞋恚の強いものがこれを修めればその不浄なる対象に対して嫌悪・怒りを覚え、逆に瞋恚を強めるなど、逆効果となってしまうおそれがあるためです。

故に本格的な不浄観は誰でも修めえるものではありません。しかし、ここに挙げた三十二身分ならば、常に念じて毒となるものではない。これを憶念することによって、自他に対して、ただ上辺の見かけだけに翻弄されること無く、身体というものの本質を問う冷静な視点を持ち得るようになるに違いありません。