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Dharmacakra
智慧之大海 ―去聖の為に絶学を継ぐ

Asubha bhāvanā 不浄観

死亡率100%

平生、死はどこまでも他人事

自分や家族が夭折しないこと、不意の事故や殺人の被害者にならないことを前提に人生設計なるものをすることや万一に備えて家族のために生命保険に入っておくことと、人が死すべきものであること、そして死は突如としてやってくるものであることを常に念頭に置いて生きることとは話が異なります。

地震大国と言われる日本において、出来うる限りの地震対策をしている人は少なからずあります。近隣で大地震があって甚大な被害があったことを知るや、その対策・用意を慌ててしてみる人もあります。地震に対して地元の行政がたいした対策を立てていないのを知るや、たちまち抗議の声を上げる人もあります。

大地震がいつ、どこで起こるかどうかなど決してわかることではない。けれども、「高い確立」で近い将来地元を襲うであろうと言われていることに戦々恐々として、それに果たして意味があるかどうかなどわからぬとも、何らかの準備をはする。しかし、地震に同じくいつ・どこではわからないものの、高い確率ではなく100%、すなわち絶対に訪れる死について、ほとんどの人は何の準備もしません。

自分の死にしろ、他人の死にしろ、それが来ることは分かりきっているのに、しかも誰がどのように死ぬかわからないということも知っているのに、その準備はしない。では、人にはそれぞれ寿命があるのだから、それが不可避で仕様がないものであるからと諦観して準備をしないのかというと、そうではない。

人が地震対策をするのは、取りも直さず死にたくない、怪我したくない、財産を失いたくない等といった、それによって出来うる限り苦しみたくないという動機からでしょう。ならば、そのような動機と同じく、その到来に対してすこしでも苦しみを覚えぬよう、なんらか対策しておくことは、それが必ず訪れるものであるならなおさら必要なことではないでしょうか。

「いや、私は生命保険に入っているから大丈夫」「死んだあとの葬式の段取りや遺産相続については準備万端だ」などと答えるのはまるで宛が外れています。何故か自らの死、それだけでなく近しい人々の死については、まるでどこ吹く風になってしまうようです。それは地震対策のように物質的に云々出来ることではないから、どうしていいのかわからない、ということがあるのでしょう。

日本という社会が、マスコミによって地震で無残に倒れた多くの家屋を報じることは良くとも、そこにゴロゴロとする遺体が写っていてはいけないとするなど、ますます死を覆い隠すような方向に進んでいることも原因の一つとしてあると、文化人・文筆家などと称する輩がしたり顔で云うことがある。

しかしながら、それは原因などではありません。そのような人の心情は何も今に始まったことではなく、むしろ人の性のようなものです。例えば、夏目漱石はこのような随筆を残しています。

私の立居が自由になると、黒枠のついた摺物が、時々私の机の上に載せられる。私は運命を苦笑する人のごとく、絹帽などを被って、葬式の供に立つ、車を駆って斎場へ駆けつける。死んだ人のうちには、御爺さんも御婆さんもあるが、時には私よりも年歯が若くって、平生からその健康を誇っていた人も交っている。
私は宅へ帰って机の前に坐って、人間の寿命は実に不思議なものだと考える。多病な私はなぜ生き残っているのだろうかと疑って見る。あの人はどういう訳で私より先に死んだのだろうかと思う。
私としてこういう黙想に耽るのはむしろ当然だと言わなければならない。けれども自分の位地や、身体や、才能や――すべて己れというもののおり所を忘れがちな人間の一人として、私は死なないのが当り前だと思いながら暮らしている場合が多い。読経の間ですら、焼香の間ですら、死んだ仏のあとに生き残った、この私という形骸を、ちっとも不思議と心得ずに澄ましている事が常である。
或る人が私に告げて、「他の死ぬのは当たり前のように見えますが、自分が死ぬという事だけはとても考えられません」と云った事がある。戦争に出た経験のある男に、「そんなに隊のものが続々斃れるのを見ていながら、自分だけは死なないと思っていられますか」と聞いたら、その人は「いられますね。おおかた死ぬまでは死なないと思っているんでしょう」と答えた。それから大学の理科に関係のある人に、飛行機の話を聴かされた時に、こんな問答をした覚えもある。
「ああして始終落ちたり死んだりしたら、後から乗るものは怖いだろうね。今度はおれの番だという気になりそうなものだが、そうでないかしら」
「ところがそうでないと見えます」
「なぜ」
「なぜって、まるで反対の心理状態に支配されるようになるらしいのです。やっぱりあいつは墜落して死んだが、おれは大丈夫だという気になると見えますね」
私も恐らくこういう人の気分で、比較的平気にしていられるのだろう。それもそのはずである。死ぬまでは誰しも生きているのだから。

夏目漱石『硝子戸の中』二十二

多くの者が命を散らした江戸幕末の動乱期を終えて文明開化の鐘がやかましく鳴らされた当時、またそれ以前から肺病などで人がコロコロと死んでいた頃、あるいはロシアとの戦争で社会が多くの若者の死を経験していた頃にすら、このような感想が述べられています。先に挙げた在原業平ありわらのなりひらの辞世、そして今紹介した夏目漱石の随筆に書き出されたものを見ていくと、死がどこまでも他人事としか思えない人の心情は、ことさら「死が恣意的に社会から隠されたような現代だからこそ」と云うものではありません。

さらに言えば、近世後期の洒落者の文人であり御家人であった大田南畝おおた なんぽもまた、そのような自らの心情を辞世の句として歌い残しています。

今までは 人のことだと 思ふたに 
俺が死ぬとは こいつはたまらん

大田南畝

大田南畝のこの歌を、南畝らしいユーモアに満ちた面白いものだ、とただ感想するだけではいけない。いや、確かにユーモアを感じさせるものではあります。しかしこれは、前項において示した在原業平の歌に同じく、人というものの死に対する心情を、実に率直に吐露したものであって、笑い事ではありません。

これをただ面白い、と思う者であっても、その状況を自らが目のあたり経験した時、すなわち明日明後日、いや、もう間もなく自分が死ぬのだと突如として知った時、この歌に対して感想するように「面白い」と思えはしないでしょう。

人の死はまったく他人事で、それがいかに理不尽な死に方であっても、その不幸を聞いて「かわいそうだ」と思うことも数分、長くとも数週間後には忘れてしまう。それなのに、いざそれが自分に関わってくると「まさか私のまわりで」、「あまりにも理不尽だ」、「早過ぎる」、「こんなことになるのが分かっていたら、もっと色々していたのに」、「許せない」と慌てふためき、泣き叫び、悔い、怒り、なにものかを長く呪うにまでに至る人もあります。

実際、心が引き裂かれんばかりの悲しみは、その思いの行き場の無さ故に、強い怒りに転じられる可能性が高いものです。いや、仏教においては、「悲しみとは、小さき怒り」であると理解されています。故に大きな悲しみは、容易に強く深い怒りに転じてしまう。

死という現実、人生における最大の問題の一つを、まるでリアルのものと思わず生きることによる、ひとつの結果でしょう。日本人の平均寿命はおよそ八十歳という世界最高水準であり、それは「平均」なのであるから確率からして自身もおおよそそのあたりまで生きれようと思うことは当然ではないか、と言う人もあるかも知れません。

しかし、無常の風にさらされているのは老若男女すべてです。平均はあくまで平均にすぎません。日本には、その不幸・理不尽を受け入れられない結果、その原因を先祖の祟りや霊障なるもの、はてまたは風水的云々、名前が原因であるとみなし、なんらか新興宗教に入信したり、拝み屋に入れあげたり、風水や四柱推命にどっぷりつかるようになってしまうような人が、これは決して少数ではなくあります。私は勧めませんが、そうすることでその人の心が安らぎ落ち着くならば、一先ずやってみても良いでしょう。

何でも自分が信じたいものを信じたら良いでしょう。その権利が私たちには日本国憲法によって保証されている。そして、それがどのようなものであれ信仰があるからこそ、普通では考えられないような環境・状況にあっても、踏ん張り留まって、なんとか自殺せずに様々な努力を続けている人があります。

けれども、ただなんでもかんでも信じたとして、それは一時しのぎにはなっても、真に問題を解決させるものとはならないでしょう。人の一生には、たとえそれが一時しのぎであっても、差し当たっての耐え難い苦しみを癒すということが先決であることもあります。それは他人がどうこう言いえるものではない。ところがそれは、一度落ちるとなかなか這い上がることが出来ない深い落とし穴のような物でもあります。そのようなものにすがりついてみても、ここは断言しますが、畢竟その不幸・理不尽を解決する術には全くなりません。

自分の身にそのようなことが起こるとは予期していなかった、私の思いとあまりにかけ離れている。その理由がわからず理不尽に思う、不安に思う。だから理由が知りたい。何故か、何が、どうしてこんなことを起こしたのか。なぜ私にだけ、なぜ私の身に、という問い。それは多くの人に共通のものでしょう。

世界には人の知り得るものと知り得ないものとがあります。それを無理に理解しようとして、拝み屋の奇天烈な論理、特定の対象に対する信仰の有無・強弱云々によって幸不幸が定まるの如き論理を受け入れても、そこには不毛の地平が開けるのみです。

死ぬこと、どういう形にしろ人は必ず死ぬこと、それは我々は日常見聞きして充分に知っている、はずのことです。

死んでしまう、けれど…。死んでしまう、だから…。

私は死んでしまう、あの人は死ぬ、かの人たちは死んでしまった。わかっている、しかし、わからない。

「なぜ?」、「どうして?」、それは人に特有の思考かもしれません。我々の心は、その性として「考えるもの」です。我々は生きている限り、思うこと・考えることを止めることが出来ない。しかし、知り得ないものは知り得ないこと。語りえないものは語りえないものです。これを無理に知ろう、語ろうとしても、それは徒労に終わるでしょう。世界はそのように出来ています。

仏陀はこのような説示を残されています。

聞如是。一時佛在舍衞國祇樹給孤獨園。爾時世尊告諸比丘。有四事終不可思惟。云何爲四。衆生不可思議。世界不可思議。龍國不可思議。佛國境界不可思議。所以然者。不由此處得至滅盡涅槃。云何衆生不可思議。此衆生爲從何來爲從何去復從何起從此終當從何生。如是衆生不可思議。 《中略》 如是比丘。有此四處不可思議。非是常人之所思議。然此四事無善根本。亦不由此得修梵行。不至休息之處。乃至不到涅槃之處。但令人狂惑心意錯亂起諸疑結。
このように聞いた。ある時、仏陀は舎衛国祇園精舎におられた。その時、世尊は比丘たちに告げられた。
「思惟すべからざる四つの事柄がある。その四つとは何であろうか。衆生不可思議・世界不可思議・龍国不可思議・仏国境界不可思議である。(思惟すべからざる)その理由とは何であろうか。それによって煩悩を滅尽して涅槃に至ることがないからである。では衆生不可思議とは何であろうか。それは、生命とは何処より来たり何処に去るのか。また何の原因によってここに生じ、この生の後には何として生じるであろうか、と(の問い)を衆生不可思議という。 《中略》 比丘たちよ、この四つの不可思議があって、それは常人が思議しえるものではない。この四つの事柄は善の根本にはならず、これによって清らかな行を修めることも出来ず、心身は休まらず、終に涅槃に至ることもない。ただ人を狂わせ、心を錯乱させ、諸々の疑惑を生じさせるのみのものである」

『増一阿含経』巻廿一 苦楽品第二十九 (T2, p.657b)

また、パーリ語経典にても、今示した阿含経とは若干内容が異なりますが、同様に「人が考え追求すべきでない事柄」について、仏陀は説かれています。

“cattārimāni, bhikkhave, acinteyyāni, na cintetabbāni; yāni cintento ummādassa vighātassa bhāgī assa. katamāni cattāri? buddhānaṃ, bhikkhave, buddhavisayo acinteyyo, na cintetabbo; yaṃ cintento ummādassa vighātassa bhāgī assa. jhāyissa, bhikkhave, jhānavisayo acinteyyo, na cintetabbo; yaṃ cintento ummādassa vighātassa bhāgī assa. kammavipāko, bhikkhave, acinteyyo, na cintetabbo; yaṃ cintento ummādassa vighātassa bhāgī assa. lokacintā, bhikkhave, acinteyyā, na cintetabbā; yaṃ cintento ummādassa vighātassa bhāgī assa. imāni kho, bhikkhave, cattāri acinteyyāni, na cintetabbāni; yāni cintento ummādassa vighātassa bhāgī assā”ti.
「比丘たちよ、不可思議の四つの事柄があって、それらは思索されるべきでないものである。誰であれ(それらについて)考える者には、狂気と悩害とがもたらされるであろう。ではその四つとは何であろうか?比丘たちよ、諸々の仏陀の境涯は不可思議であって、思索されるべきでないものである。誰であれ(これについて)考える者には、狂気と悩害がもたらされるであろう。比丘たちよ、禅者の禅の境涯は不可思議であって、思索されるべきでないものである。誰であれ(これについて)考える者には、狂気と悩害がもたらされるであろう。比丘たちよ、業果(業報)は不可思議であって、思索されるべきでないものである。誰であれ(これについて)考える者には、狂気と悩害がもたらされるであろう。比丘たちよ、世界(の始まり・終わり・無限・有限など)についての思想は、思索されるべきでないものである。誰であれ(これについて)考える者には、狂気と悩害がもたらされるであろう。実に比丘たちよ、これら不可思議の四つの事柄があって、それらは思索されるべきでないものである。誰であれ(それらについて)考える者には、狂気と悩害とがもたらされるであろう」

Catukkanipāta, Acinteyyasutta (AN 4.77)

人は何処から来て何処へ行くのか。この、多くの者が一度は考えることがあるであろう、人の永遠の疑問。「人生の意味」を見出すための哲学的課題。しかし、これを考究することは、それは煩悩を滅すること、涅槃を得ることに何ら関わりのない無益なことである、と仏陀は説かれます。

仏教では、それは仏陀となった者、まったき智慧を獲得した者にのみ完全に知り得ることである。けれども高い禅定の境地に達した者にも、それがある程度理解できるようになる、といいます。如何なる理由によって人として生まれ、如何なる理由によって福徳多き人生を送り、あるいは非業の死を迎え、また何処に生まれ変わるかなどについては、普通の者の考えの及ぶことではなく、それを考え続ければ心身安からず、ついに狂ってしまうと仏陀は説かれています。

ここで人に必要であるのは、死は絶対に訪れるものであり、それは普通、いつ・どこで・どのようにと予期の出来ないものであるのを、確かに憶念することです。死が自身に、そして周囲のどこにでもあふれていることを、常に見つめ確認することです。

往古の支那で言われた「邯鄲の夢」の説話がそれを上手く表しているように、人生はあまりに長く感じられるものながら、しかしその終わりを迎えたときに振り返ればあっというほどの間もないほど短いものです。我々が命あるうちに自らやるべきことをなすために残された時間は実は殆どなく、一刻の猶予もありません。死という逃れることの出来ぬ事実を、おそらくは自分にとって理不尽にすら思えるその到来を、あくまで「我が事」として見つめ、用意し、受け入れておくことにどうしてためらうことがあるでしょうか。

しかしそれは、やれ、と言われていきなり出来ることではないでしょう。何でもいきなり十全に出来ることなど世の中にほとんどありはしません。故に日々、実は周囲に氾濫している多くの死を、それが他人事ではないと見つめ知る訓練をしたらよいと思います。我が死、我が家族の死に対する物理的な準備も必要かつ重要でしょうが、まずもっとも肝要なのは、そのように自分に関する死についての準備をしておくことです。

死を常に意識することは、世間でよくいう「縁起でもないこと」などではありません。それは自身の生き方を変え、そして畢竟、自身に平安をもたらすものです。死に対する態度を定めておくこと、それは自身の利益に直結するものです。それはキリスト教であれイスラム教であれ仏教であれ、唯物論者であれ無神論者であれ共産主義者であれ関係ありません。

仏陀のまさしく最後の言葉はこのようなものでした。

"Handadāni, bhikkhave, āmantayāni vo, Vayadhammā saṅkhārā, appamādena sampādetha". Ayaṃ tathāgatassa pacchimā vācā.
「さあ、比丘たちよ、諸々の作られたもの(諸行)は衰え滅びる性質のものである。怠らずに励んで目的を果たせ」。これが如来の最後の言葉である。

DN. Mahāparinibbānasutta, Tathāgatapacchimavācā

人は死ぬまで生きていきます。人は、我々は、私は生きて、そして死にます。死んでしまうのです。ではその時を、おそらく多くの場合、突如としてやってくるその時をどのように迎えるのか。その時が来るまでどのように過ごすのか。そして、その時の次がどのようなものとしてありたいのか。

それを決めるのは、今そうして呼吸し、生きてある自分自身にのみかかっています。

Ñāṇajoti