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Dharmacakra
智慧之大海 ―去聖の為に絶学を継ぐ

戒山『雲龍院正専周律師伝』

原文

湖東安養寺後学釋慧堅 撰

律師諱如周。字正專。俗緣伴氏。城州八旛人也。生而岐穎。甫九齢染小疾。母欲爲灸療。師有拒色。母戲曰。汝若灸必與財寶。師曰。世寶非吾所欲。若許吾讀佛經。則隨其命。母喜以爲。此子有緣于空門。遂俾入泉涌寺。依長國賢弘律師爲童行。十三翦落。英聲越人。慶長十六年。師十九歳。從玉英律師進具。究毘尼學。既而登天台。於正覺院聽法華。久之遊南都。時興福之喜多院有空慶僧正者。相宗之哲匠也。名重一時。師卽依之學唯識。瑜伽。因明等諸論。靡不洞徹。寛永七年。杖錫經行。至醍醐。隨僧正堯圓公。稟密敎於無量壽院。於松橋一流特究根源。圓甚稱賞。十三年參善慧忠禪師于慧日。叩單傳之旨。禪師以法依一頂付之。以爲法信。

以雲龍院廢壞已久。意欲興復。乃奏于朝。帝嘉之。賜以白金若于。師乃建佛殿僧舎齋堂鐘楼等屬。於是律幢高峙。而聲名日顯。若貴若賤。若小若大。靡不嚮風悦服。若京尹版倉氏。高槻城主永井氏。皆待以師禮。爲法外護。十八年。受請講法華。聽徒殆萬指。白衣男女至無席以容。滿散日。至當生忉利之文。而引法藏師救母因緣。半説之哽咽而已。久之乃曰。嗟乎如己者。柰何爲救親之若斯哉。涕泣不已。四座爲之𣽽然。會裏有豪傑禪僧。毎語人曰。周公之履耶吾取之。周公之𨤘耶吾除之。其爲人所信服也若此。師又刻三寶名字。印以與人。當是時。從受三歸五八戒者。多至一萬餘人。大上法皇欽師德義。寵遇甚渥。

十九年有旨命修如法經。以資先帝冥福。香燈花旛之奉備極尊崇。四來隨喜者滿庭擁門。莫不感激而起信焉。上皇請師於禁中。講梵網經。百官聽者。悉皆悦懌。自爾毎月入大内講法華。楞嚴。遺敎等諸經。二十年以通受法自誓増受菩薩戒。眞空阿律師爲之證明。二十一年。上皇及東福門院。延師受戒法。至於公卿大夫。同受者其多矣。天恩降重。人皆以爲榮。師常篤志于護宗。以無礙辯誨人不倦。宗門大小部帙。及諸經論。輪環講授。而東山門風於是益振。學者謂。竹巖無恙時不減也。正保四年二月初示疾。上皇知之。遣亞相經廣存問。特敇爲泉涌寺主。時疾已革。不能詣闕謝。乃於牀上拈香祝聖。臨終面西。合掌端坐而化。實是月十八日戌刻也。世壽五十有四。僧臘三十有六。門人塔其全身于寺之後山。

訓読

湖東安養寺後学釋慧堅えけん

律師いみな如周にょしゅう正專しょうせん。俗緣はとも氏、城州じょうしゅう八旛やはたの人なり。生して岐穎きえい。九齢の甫め小疾に染む。母、爲に灸療を欲すれども、師拒色有り。母戲れに曰く、汝若し灸すれば必ず財寶を與ふべしと。師曰く、世寶は吾が欲する所に非ず。若し吾に佛經を讀むことを許さば、則ち其の命に隨ふべしと。母、喜んで以て爲して、此の子、空門に緣有りとす。遂に泉涌寺に入て長國賢弘ちょうこく けんこう律師に依り童行と爲して俾す。十三翦落せんらく。英聲、人に越ゆ。慶長十六年、師十九歳、玉英ぎょくえい律師に從て進具しんぐして、毘尼學びにがくを究む。既にして天台に登り、正覺院しょうがくいんに於て法華を聽く。之を久しくして南都に遊ぶ。時に興福の喜多院きたいん空慶くうけい僧正という者有り。相宗の哲匠なり。名を一時に重ぬ。師、卽ち之に依て唯識ゆいしき瑜伽ゆが因明いんみょう等諸論を學し、洞徹せざること靡し。寛永七年、錫を杖して經行し、醍醐に至る。僧正堯圓ぎょうえんに隨て、密敎を無量壽院むりょうじゅいんにて稟く。松橋一流に於て特に根源を究む。圓、甚だ稱賞す。十三年、善慧忠ぜんえ ちゅう禪師慧日えにちに參じ、單傳の旨を叩く。禪師、法依一頂ほうえいっちょうを以て之に付し、以て法信と爲す。

雲龍院うんりゅういん廢壞すること已に久しきを以て、意、興復を欲す。乃ち朝に奏す。みかど、之を嘉して、賜るに白金若于を以てす。師、乃ち佛殿・僧舎・齋堂・鐘楼等の屬を建つ。是に於て律幢高峙して、聲名日に顯す。若しは貴、若しは賤、若しは小、若しは大、風を嚮して悦服せざるもの靡し。京尹けいいん版倉板倉、高槻城主永井氏の若きは、皆待して師禮を以て、法外護と爲る。十八年、請を受けて法華を講ず。聽徒殆ど萬指にして、白衣の男女、席を以て容るところ無きに至る。滿散の日、當生忉利とうしょうとうりの文に至て、法藏ほうぞう師の母を救ふ因緣いんねんを引く。半ば之を説くに哽咽して已まず。之を久しくして乃ち曰く、嗟乎、己の如き者、柰何、親を救ふことの斯の若く爲らんやと、涕泣して已まず。四座之の爲に𣽽然とす。會裏に豪傑の禪僧有り。毎に人に語て曰く、周公の履や、吾れ之を取る。周公の𨤘や、吾れ之を除くと。其の人の爲に信服せられること此の若し。師、又た三寶の名字を刻で、印して以て人に與ふ。是の時に當り、從て三歸五八戒を受く者、多く一萬餘人に至る。大上法皇、師の德義を欽して、寵遇すること甚だ渥し。

十九年、旨有て命じて如法經にょほうきょうを修し、以て先帝せんていの冥福に資す。香・燈・花・旛、之を奉備して尊崇を極む。四來の隨喜者、庭に滿ちて門を擁す。感激して信を起さざる莫し。上皇、師を禁中に請して、梵網經を講ぜしむ。百官聽者、悉く皆悦懌す。爾れより毎月、大内に入て法華・楞嚴・遺敎等の諸經を講ず。二十年、通受法つうじゅほうを以て自誓じせいして菩薩戒ぼさつかい増受ぞうじゅす。眞空阿しんくうあ律師、之の爲に證明す。二十一年、上皇及び東福門院とうふくもんいん、師を延べて戒法を受く。公卿大夫に至るまで、同じく受くる者其れ多し。天恩降重すること、人皆以て榮と爲す。師、常に志を護宗に篤く、無礙辯を以て人を誨して倦まず。宗門の大小部帙、及び諸の經論、輪環して講授。東山の門風、是に於て益す振るふ。學者謂く、竹巖、恙無き時減ぜずと。正保四年二月初、疾を示す。上皇之を知て、亞相あそう經廣つねひろを遣して存問し、特敇して泉涌寺主と爲す。時に疾已に革にして、闕を詣で謝すること能はず、乃ち牀上に於て拈香祝聖しゅくしんす。臨終西に面して、合掌端坐して化す。實に是の月十八日戌刻なり。世壽五十有四、僧臘三十有六。門人、其の全身を寺の後山に塔す。

脚註

  1. 慧堅えけん

    戒山慧堅。恵堅とも。慈忍慧猛の弟子。慈忍には十人あまりの弟子があったとされるが、その高弟三人のうちの一人。戒山は筑後の人で、地元に鉄眼道光が来たって『大乗起信論』の講筵の席に参加して発心し、その元で出家した臨済宗黄檗派の禅僧であった。しかし、修行を進めるうちに持戒の必須であることに気づいて、律学の師を求め上京。その途上、摂津の法巌寺にて桃水雲渓(洞水雲渓)に出逢って宇治田原の巌松院にあった慈忍律師の元に参じることを勧められ、その元に参じて長らく仕えた。戒山が受具したのは、野中寺に移住した寛文十年〈1671〉の冬十二月廿八日。なお、戒山の出家の師であった鉄眼は寛文九年〈1669〉、ようやく粗末な小堂が建てられたに過ぎない野中寺を訪れ、慈忍の元で菩薩戒を受けている。
    慈忍亡き後、戒山は諸方を遊行し、廃れていた湖東安養寺に入ってこれを中興。その第一世となった。安養寺に入って後には、律法の興隆を期して支那および日本の律僧三百六十餘人の伝記集成である『律苑僧宝伝』を著す。この著はいわば律宗および律学を広めるための大きな力、いわば啓蒙書として重要なものとなった。その後、慈門信光に次いで野中寺を継ぎその第三世となっているが、それはほとんど名目上のことであったという。
    戒山の優れた弟子に湛堂慧淑律師があり、彼もまた師の慧堅に倣って諸々の律僧の略伝の集成『律門西生録』を著した。その特筆すべき行業は、それまでのように律宗・真言宗・禅宗だけではなく、天台宗・浄土宗などさらに多くの宗派の僧らに戒律復興を波及させる一大立役者となったことにある。

  2. いみな

    実名。往古の支那において、人の死後にその実名を口にすることを憚ったが、それが生前にも適用されるようになった習慣。普段は実名(諱)は隠して用いず、仮の名いわば通名・あだ名を用いた。その習慣が古代日本に伝わり、平安中後期頃から僧侶においても一般化した。奈良期、平安初期の僧侶にはこの習慣はない。

  3. あざな

    諱以外に普段用いた名前。通名。僧侶においてはこれを仮名ともいう。たとえば明恵上人高辯や慈雲尊者飲光についていえば明恵や慈雲が字であり、高辯や飲光が諱。一般に、普段生活する上では字を用い、他も字で呼称するけれども、その著書や印信などには実名すなわち諱を記した。

  4. 城州じょうしゅう八旛やはた

    山城国八旗。現在の京都府八幡市(やわたし)。

  5. 岐穎きえい

    多才であること。

  6. 長國賢弘ちょうこく けんこう律師

    未詳。

  7. 翦落せんらく

    髪を剃り落とすこと。剃髪。出家すること。

  8. 玉英ぎょくえい律師

    玉英照珍。河内国の津田氏出身。唐招提寺末、寿徳院の照瑜について出家し、伝香寺の泉奘律師のもとで学問を納め、顕密に通じた学僧となる。文禄二年〈1593〉、朝廷の綸旨によって泉涌寺主となり、慶長十年〈1605〉には唐招提寺に居を移し、以降は大和・山城の唐招提寺末の律宗諸寺院を転々とした。徳川家康に進講し、また時の帝の戒師となるなど、当時よく名の知られた律宗の学僧であった。寛永五年〈1628〉十二月六日没。

  9. 進具しんぐ

    具足戒を受けること。受具とも。
    ここで「慶長十六年。師十九歳。從玉英律師進具」と、如周は十九歳にて進具したとされている。しかし、具足戒は数え年で二十歳となっていなければ受けることが出来ない。もし二十歳未満で受けたとしても、その受具は無効とされる。
    如周の生年はここで明らかとされていないが、正保四年〈1647〉に世寿五十四で逝去したとされる。そこで逆算すると、如周は文禄二年〈1593〉あるいは同三年〈1594〉のどちらかが生誕年となる。ここに慶長十六年に十九歳とされていることから、文禄二年に生誕とするのが正しいであろう。
    そこで問題となるのが、如周が具足戒を受けたのが数え年で二十に満たない点である。これでは具足戒の授受は成立しない。また、如周が具足戒を受けたのは唐招提寺であったと考えられるが、そこで行われていたのは「軌則受戒」といって、ただ形ばかり儀礼的に行うだけの不如法なものであった。ただ通過儀礼として、その必須の条件など全く満たさずに行われていたものである。如周がいくらそれを受けていたからと言って、それで如周は正しく比丘とは成りえないことは、いわば律の基本中の基本である。よって、律学にもっとも詳しかったという本人がそれを気づいていなかったなどとは到底考えられない。もっとも、実はそのような不如法受戒・似非受戒は、時代を遡って平安末期から鎌倉期の唐招提寺や興福寺などおいても行われていたもので、それ以外に選択肢が無いという事情もあった。
    そのような不如法なる受戒に拠ることなく、通受自誓受戒という新たな方法を考案して鎌倉期に戒律復興を果たしたのが叡尊および覚盛ら四人であった。もっとも、律の本筋・本流からいえば、通受自誓受戒という方法は決して本来的なものではなく、その正当性には多く疑義を差し挟め得るものである。しかしながら当時はそれ以外に方法が全く無かったという点で、緊急避難的なものとして認めざるを得ないものでもあった。
    いずれにせよ、鎌倉期に為された戒律復興は室町期以降の戦乱によってまた潰え、近世初頭に明忍律師らによって再び成し遂げられることとなるが、その術はやはり叡尊律師由来の通受自誓受に依るものであった。

  10. 毘尼學びにがく

    毘尼は[S]vinayaの音写で、律と漢訳される。すなわち毘尼学とは律学のことで、律についての学問。

  11. 正覺院しょうがくいん

    比叡山延暦寺の子院の一で、その昔は学問寺院(学頭寺)として名を馳せた。

  12. 喜多院きたいん

    興福寺の院家の一つ。院家とは門跡寺院に付随し、それを補佐する有力寺院。そのほとんど全ては貴族出身の僧によって運営された。

  13. 空慶くうけい僧正

    喜多院住職。興福寺別当二百十三世。徳川家康および秀忠に進講したという、当時良く名の知られた南都の学僧。その出自など未詳。

  14. 唯識ゆいしき

    護法『成唯識論』。世親の『唯識三十頌』の注釈書。玄奘三蔵訳。法相宗における根本典籍の一つ。

  15. 瑜伽ゆが

    弥勒『瑜伽師地論』。玄奘三蔵訳。法相宗における根本典籍の一つであり、また三聚浄戒(菩薩戒)に関する重要な典拠となる書。

  16. 因明いんみょう

    商羯羅主『因明入正理論』一巻。玄奘三蔵訳。因明とは論理学のことで、本書はその入門書。基によるその注釈書『因明入正理論疏』と共に、特に法相宗において盛んに研究された。

  17. 堯圓ぎょうえん

    今出川晴季の猶子で幼少時に東寺の堯雅について出家。灌頂を受けて松橋流第二十祖(松橋流については以下の無量寿院の項を参照)となる。後に東寺第百九十代長者に補任された。

  18. 無量壽院むりょうじゅいん

    醍醐寺五門跡の一つ。醍醐の五門跡、すなわち三宝院・金剛王院・理性院・無量寿院・報恩院は、それぞれ小野流の分派を生じてその名とした。特に三宝院・金剛王院・理性院は醍醐三流と言われ、勝覚の弟子定海・聖憲・賢覚がそれぞれ居する寺院の名をもって一流を建てた。報恩院を除く四院は平安後期に成立。報恩院の成立は鎌倉期初頭であったが、後代は報恩院流が最も盛んとなる。
    無量寿院は定海の弟子元海によって創建された。元海は勝覚ならびに三宝院流祖定海から灌頂を受けた。その弟子一海は、まず三宝院の定海から灌頂を受け、さらに元海からも灌頂を受けて無量寿院第二世となる。そこでその伝える法を松橋流として一流を建てたが、またこれを無量寿院流とも言う。もっとも、内容的にはその出自から当然といえば当然のこととなるが、三宝院流に粗方同じ。また、一海には付法の弟子として静慶があるが、静慶は叡尊に松橋流を伝授した。叡尊は、その他三宝院流・金剛王院流・報恩院流・地蔵院流等も兼ね受けたが、後に松橋流(無量寿院流)を本として、それらをまとめて独自に西大寺流を建てた(もっとも、西大寺内では西大寺流と言わない)。
    近世の泉涌寺では、正専が松橋流をここで受けたことに依り、代々松橋流にて諸法事を執り行ってきたが、明治十一年に佐伯旭雅が泉涌寺長老となった時、己の都合で随心院流に変更してしまい、泉涌寺における松橋流の伝承は絶えた。

  19. 善慧忠ぜんえ ちゅう禪師

    東福寺第二百四十七代 丹心慧忠のことか。

  20. 慧日えにち

    東福禅寺(東福寺)の山号。円爾により開山された臨済宗の寺院で、後に京都五山(臨済宗における京都の禅寺の寺格)の第四位に挙げられる大寺院。

  21. 法依一頂ほうえいっちょう

    法依は法衣の誤植であろう。袈裟衣一領。禅宗ではしばしば袈裟衣を与えることで伝法の証とした。

  22. 雲龍院うんりゅういん

    瑠璃山雲龍院。応安五年〈1372〉、後光厳天皇により、泉涌寺の南に創建された寺院。爾来、天皇家と縁深く、いわば天皇家の菩提所としてあったが応仁の乱の戦乱によってその大半を消失し荒廃していた。

  23. みかど

    後水尾上皇。

  24. 京尹けいいん

    京都所司代のこと。左京大夫あるいは右京大夫など、京都の司法・警察・民生などを司った役所である京職の長官。

  25. 版倉板倉

    板倉氏の誤植。年代からして、おそらく京都所司代を親子で勤めた板倉重宗であろう。

  26. 當生忉利とうしょうとうりの文

    『法華経』巻八 普賢菩薩勧発品第二十八にある一節。正専如周による『法華経』の講義は非常に熱の入った優れたものであったようで、その講義を聴講して感激し出家の志を持ったという人に、日蓮宗の深草玄政がある。

  27. 法藏ほうぞう師の母を救ふ因緣いんねん

    未詳。

  28. 如法經にょほうきょう

    一定の形式・作法に基づいた、特に『法華経』の写経。

  29. 先帝せんてい

    後円融天皇。

  30. 通受法つうじゅほう

    三聚浄戒、すなわち律儀戒・摂善法戒・饒益有情戒をすべて同時に「通じて受ける受戒法」。本来、律儀戒はその立場に応じた律儀を必ず別個に受けなければならないとされる。その本来の律儀戒の受戒を別受という。 そもそも「通受」という語は「出家在家が通じて受けるもの」を意味し、菩薩戒の特徴の一を示すものであった。しかしながら、中世、覚盛が本来の別受という受戒が不可能となっていた中で戒律復興を成し遂げるため、新たに考案した受戒法において通受という語を流用し、「三聚浄戒の受戒において律儀戒を通じて(併せて)受ける」という語として用いるようになった。それは伝統説にまったく反するものであったため、当時は覚盛の属する南都において異端視されたが次第に既成事実化し、近世においてはもはやそれを問題視する者はなかった。

  31. 自誓じせい

    元来、人が比丘となるためには、三師七証といわれる十人の比丘(僻地では三師二証の五比丘)が一処に集い、その上で希望する者が諸条件を満たしているかどうかを確認するなど、種種の過程を踏んで為される必要がある。しかしながら、平安中期以降の日本では、持律の比丘らが存在しなくなり、すなわち戒脈が断絶して、その実行が不可能となっていた。そこで平安末期にそれがようやく意識され、その解決を図るべく律学の復興がなされた。そしてその流れの中から出た興福寺の覚盛によって考案されたのが、通受という受戒法であり、それはまた自誓受によっても可能であるとされた。しかしながら、通受による自誓受具は様々な問題を孕んだものであって、いわば鑑真和上渡来以前の日本、あるいは最澄による大乗戒壇問題への先祖返りとも評し得るものであった。が、現実にはこれ以外に方法が無かったため、以降の日本の律宗ではいわば標準的受戒法となった。
    なお、当時も唐招提寺にて受戒はいまだ行われてはいたが、それは「軌則受戒」と揶揄される単なる通過儀礼・伝統儀式としてであったため、戒律復興を志し果たした僧らはその正統性を全く認めていない。

  32. 菩薩戒ぼさつかい

    三聚浄戒。

  33. 増受ぞうじゅ

    すでに以前受けていた戒あるいは律を、更に今一度重ねて受けること。

  34. 眞空阿しんくうあ律師

    真空了阿。薩摩出身。槇尾山平等心王院の衆徒で、明忍・晋海・慧雲・友尊・玉円によって復興された律の法脈のその初期に連なる人。伝承では浪華川口の港にて対馬に渡らんとする明忍に出会い、そこで十善戒を授けられた人であるという。寛永三年〈1626〉四月十日、槇尾山にて自誓受。共に受戒したのは槇尾山十世となる了運不生律師。その後の寛永十五年〈1638〉、野中寺を中興することとなる慈忍慧猛の師となり、また雲龍院の正專如周が改めて自誓受戒するに際しての証明師となるなど重要な役割を果たした。正保四年〈1647〉四月廿六日示寂。世寿五十四歳。

  35. 東福門院とうふくもんいん

    後水尾帝の皇后。二代将軍徳川秀忠の娘、徳川和子。

  36. 亞相あそう經廣つねひろ

    亜相とは大納言の唐名。經廣とは坊城俊直(ぼうじょう としなお)あらため権大納言の勧修寺経広(かじゅうじ つねひろ)のこと。

  37. 祝聖しゅくしん

    帝の無病長命を祈ること。

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