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Dharmacakra
智慧之大海 ―去聖の為に絶学を継ぐ

戒山『青龍山野中寺慈忍猛律師伝』

『青龍山野中寺慈忍猛律師伝』解題

慈忍慧猛

写真;野中寺本堂

慈忍慧猛じにん えみょうとは、近世「律の三僧坊」と天下に称えられた河内の青龍山野中寺やちゅうじを復興してその中興の祖となった律僧であり、また江戸中期以降の律宗の流れにおいて非常に重要な役割を果たした人です。

慈忍はもと河内国讃良郡秦村(現大阪府寝屋川市豊野村)の出で、秦河勝の後裔であったと言われます。秦氏は秦の始皇帝の末裔とされる、百済を経由して三世紀頃に日本に渡来し帰化した氏族です。

慶長十八年〈1613〉生誕。幼少より出家を志し、齢二十六となってようやく両親の許しを得るや、江戸期における戒律復興の祖、槇尾山俊正明忍しゅんしょう みょうにんの門流であった真空了阿しんくう りょうあに従って得度剃髪。明忍律師の忍の字を頂いて慈忍の法名を得ています。そして、京都泉涌寺雲龍院にて広く律学を講じていた正専如周しょうせん にょしゅうのもとで学んだ後、晴れて槇尾山平等心王院に交衆きょうしゅ。ここに自誓受具して四度加行を修め、五夏を経た後の正保三年〈1646〉、山衆の指示によって、これは甚だ不本意な人事であったようですが、山城国宇治田原にあった巖松院がんしょういんの住持として入っています。

慈忍は、本意で無いながらも巌松院を拠点に活動するうち次第に近隣の人々の信仰を集めて、荒れていた諸堂を整備して律幢を掲げ、畿内でその名が広く知られるようになっていきます。巖松院にて法筵を敷くこと二十四年あまりの寛文十年〈1670〉、慈忍律師は巖松院を僧坊として結界することを槇尾山平等心王院の衆僧に打診。しかし、これを理不尽に却下されたことを機に巖松院を離れ、その復興を委託されていたという野中寺を居を移すことを決意しています。

そして野中寺を本拠とするや、これは寒村の小高い山腹にある小院たる巖松院と比すればその立地が格段に良いこともあったのでしょうけれども、慈忍は遥かに多くの信者を得ることとなり、当初は赤貧洗うが如しであった野中寺の整備はそれほど時を経ずして達成されています。けれども、野中寺の復興を果たして律法の興隆に努めることわずか五年の延宝三年〈1675〉に病に倒れ、弟子らに看取られるなか遷化しています。存命中に野中寺を四方僧坊として結界することは叶わぬままでした。

しかしながら、律師亡き後、その遺徳を仰いだ信者の寄進によって野中寺はさらに堂塔伽藍が整備され、その遺志を継いだ諸弟子の努力により、ついに野中寺は四方僧坊として結界されています。ここにおいて野中寺は、山城の槇尾山平等心王院と和泉の大鳥山神鳳寺と共に、「律の三僧坊」の一つとして天下にその名を轟かせるようになっています。

なお、そもそもなぜ近世に「三僧坊」なるものが成立したのかの背景には、その起点となった平等心王院が近世最初の律院として復興された当初、そこに交衆して自誓受して比丘となった賢俊良永けんしゅん りょうえいの行動がありました。賢俊は、新学の比丘としては本来必須である五年の依止をそこで委ねず、衆僧の反対にも関わらず、しかも政治の力をすら借りて一年にも満たないうちに離れ、高野山に去ってしまっていたことがまず第一に挙げられます。これによって槇尾山はむしろ保守的・閉鎖的となり、その後に慈忍との問題にも繋がっていくことになります。

(この問題について正しく理解するためには、まず律の諸規定、特には新学の比丘は必ず五夏〈五回の夏安居を過ごす間〉は、その和上もしくは依止阿闍梨の元で諸経律・諸行事・諸作法など基本を学ばなければならない、「依止」ということについて正確に知る必要があります。)

慈忍に参じた禅僧たち

ところで、慈忍律師が巖松院にて活動していたまさにその時、明代の支那から後に日本黄檗宗の祖となる隠元隆琦が来日し、明暦・万治〈1655-1658〉の頃にその居を九州から畿内に移しています。この時、畿内で持律の清僧として高名だった慈忍律師のもとには黄檗の隠元隆琦の弟子らが多く参じ、その元で受戒しています。

それにしても何故、彼らは大陸から渡来した僧らからだけでなく、慈忍律師のもとで受戒したのか。明代の支那における仏教界の状況は決して芳しいものではなかったようで、それを間接的ながら伝える話に俊正明忍律師の伝記があります。江戸期における戒律復興の祖明忍律師は、いわば緊急避難的な受戒方法というべき自誓受戒だけではなく、本来にして正当なる三師七証の別受を求めて支那へ渡らんとし不退の覚悟でただ一人の従者を連れて対馬に渡っていました。ところが、大陸や半島と交易繁多であった対馬でまずその情報を得るも、明や朝鮮における仏教も甚だ頽廃していることを聞いて、「異朝の佛法、欣慕するに足らず」と失望し、渡航を断念しているのです。

もはやそこに、明忍律師の求めた律の正統は大陸にも朝鮮にも滅びてないことを知ったのでしょう。

(しばしば「明忍律師は国禁のために支那への渡航を断念し、その機会を伺ううちに対馬で客死した」などと説明する者があります。が、少なくともその伝記にはそのようには伝えられていません。詳しくは別項「元政『『槙尾平等心王院興律始祖明忍律師行業記』」等、明忍の伝記を参照のこと。)

鎌倉期初頭の栄西など臨済僧らがまさにそうであったように、戒律こそ仏道の根本であって命脈であることを知り、その正統を自身が身に確かに持することが必須であるとの認識は、江戸期の渡来僧ら、そしてまたその門に入った黄檗系(臨済宗)の日本の僧らもあったに違いありません。

明忍が対馬でそう聞いていたように、そもそも大陸の明代における仏教の状況も決して芳しいものではなく、新来の黄檗僧らにもその自覚があったことによるのでしょうが、たとい以前に受けたことのある戒であったとしても、当時畿内に高名であった持戒清浄の比丘たる慈忍律師の元での受戒を更に求めることは、自然なことであったと言えます。

彼らが新来であったが故に、なんら宗派間のわだかまりなど無く、自由に動くことが出来たということもあったかもしれません。事実、その初期に黄檗僧らは諸宗の高僧と盛んに交流しています。実際、隠元隆琦の弟子としてよく知られた人であり、萬福寺に新たに大蔵経を開版(いわゆる鉄眼版)し、当時の仏教界に多大な貢献を果たしたことでも知られる鉄眼道光は、慈忍に従って受戒しています。

高弟、戒山慧堅

さて、その中にはただ受戒するだけではなく、その門人として膝下に入った者すらありました。それが本稿で紹介する慈忍の伝記『青龍山野中寺慈忍猛律師伝』を著して『律苑僧宝伝りつおんそうぼうでん』に編纂した戒山慧堅かいざん えけんです。

戒山は筑後州久留米の武家の子で、もと鉄眼道光てつげん どうこうに感化され出家した臨済宗黄檗派(黄檗宗)の禅僧だった人です。しかし、戒山は戒律こそまず最も仏道において肝要なるものであることを知って故国を辞し、その師を求めて大阪に向かいっています。そして、曹洞宗に属する摂州法厳寺の洞水雲溪とうすい うんけい(桃水雲溪)のもとを訪れた時、宇治田原の巌松院にある慈忍こそ当代随一の律僧であって、戒山の志を遂げ得る人は他に無いことを知らされます。

そこで戒山は、ついに巖松院の慈忍律師のもとを訪れ、弟子としてその門下に入ることを請うや、律師はその器を見抜いてただちに許され、あらためて沙弥出家。律師が野中寺に居を移す時は戒山もそれに付き従い、野中寺にて自誓受して晴れて比丘となっています。

律僧といっても、彼らがただ律の細かい箇条を守ることにひたすら終始していたなどということは決してありません。その多くは、真言・禅・天台や浄土などを広く遍く学んで三学に励むのが普通でした。律僧らは、律を持した上で修禅に励み、また経律を学んでこれを世に示していたのです。戒山が黄檗から律宗に移ったと言っても、それはただちにその人が禅を捨てたなどということを意味するものではありません。

なお、戒山は慈忍が逝去し、野中寺を離れて諸方に遊学していたところ、慈真信光に呼び戻されて慈忍が西大寺長老であった高貴から受法した菩薩流(松橋流・西大寺流)の一流伝授を受け、その正嫡となっています。

戒山はその後、近江湖東の安養寺を復興して居する中、日本における律宗の伝記の絶えて無いことを憂え、その道を興して久しく行われることを期し、支那および日本の律僧らの伝記集である『律苑僧宝伝』を著しています。それは弟子の湛堂慧淑たんどう えしゅくの協力を得て、四年の歳月をかけて成し遂げられたものでした。その『律苑僧宝伝』の中に、本稿で紹介する慈忍の伝記『青龍山野中寺慈忍猛律師伝』が納められています。それは戒山が直に知り、永く仕えていた師の伝記だけに、他とやや異なって自ずと熱を帯びた精しいものとなっています。

ところで、奇しくも戒山と同様、同じ禅宗でも曹洞宗の人で宇治興聖寺に参禅していた洪善普摂こうぜん ふしょうもまた、当時高名であった慈忍のもとに参じてその門下に入った人でした。洪善がその下に参じるきっかけとなったのは、宇治の興聖寺こうしょうじで共に修行していた法友、月舟宗胡げっしゅう そうこ と様々に語らう中での勧めであったと伝えられています。月舟はその後、曹洞宗の復古を試みてその中興の祖とされる洞上史において重要な人です。そして洪善は後に摂津法樂寺を復興し、慈雲尊者を見出した忍綱貞紀の師であった人でもあります。

鎌倉期初頭に同じく、江戸期においてもまた律宗と禅宗、そして密教との交流が繁くなされていたことは、あまり世間で注目され知られたことではありません。が、仏教の修道とは三学の階梯を踏むことにあって、それを真から歩もうとする人にとってみたならば、それは必然であったとも言えます。

小苾蒭覺應 拝記