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Dharmacakra
智慧之大海 ―去聖の為に絶学を継ぐ

戒山『雲龍院正専周律師伝』

『雲龍院正専周律師伝』解題

正専如周

正専如周とは、近世江戸中期における律宗の学僧です。

京都八幡の伴氏出身で、幼少の頃に四宗兼学を宗としてた泉涌寺に入って剃髪出家した後、律・天台・法相・禅・真言など広く諸宗を学び、それをまた世に説き広めています。特に、泉涌寺の子院の一つとされる雲龍院〈昭和後期までは泉涌寺長老の居所。今は個人に占有され世襲寺院と化した〉を復興し、そこを拠点に律学を大いに広めたことにより、天台宗・日蓮宗ひいては浄土宗における戒律復興の契機を作っています。

(近来、不佞は「戒律復興」という表現はより厳密に用いるべきであろうと考えているため妥当でなく、厳密には「興律運動」あるいは「持戒運動」と表すべきことです。復興はすでに槇尾山の明忍らで果たされているのであって、その後進およびその門流から受戒した者らは、復興になんら関わっていない為です。特に、天台宗およびその亜流の宗派においては、そもそもその宗祖らが教義的に律を放棄しているため、「復興」という表現は更に不適切であるでしょう。しかし、ここでは仮に、わかりやすく「戒律復興」という語を用いています。)

正専は、泉涌寺で出家した後、泉涌寺と唐招提寺の寺主であった玉英照珍に従って受戒し、律学に励んでいます。玉英照珍とは、安土桃山から江戸初期にかけてその名がよく知られた、やはり顕密諸宗兼学の唐招提寺系の律宗の学僧で、律学について非常に精しかったとされる人です。徳川家康に進講し、時の天皇の戒師にもなっています。

正専がそのような玉英について出家して律学を極め、師と同様に世にこれを説き広めるべく講演する中に、若かりし頃の律宗の慈忍慧猛や日蓮宗の深草元政など、後にその名を馳せることとなる人々が参加しており、正専から大なる影響を受けています。

本稿において紹介する『雲龍院正専周律師伝』は、慈忍の直弟子であった戒山慧堅によって著されたものですが、正専を直接知らなかった戒山は、元政の言葉を弟子が書き留めたものや詩文などを集成した『艸山集』にある玄政の泉涌寺正専に対する述懐を参照しています。

その『艸山集』において、元政は以下のように正専について述懐しています。

遊泉涌寺記
泉涌寺之額者張即之之筆也至今泉涌二字秘在方丈墨滴淋漓如新離筆也壬寅之春携二三沙彌遊泉涌寺入門而遶舎利殿乃渉石磴至雲龍院登堂徘徊余昔甚少抱病於江府帰郷而養一年矣于時雲龍周律師會講法華余僦行者家於門前而日屛乎講座之後六月一日律師自雲龍院移居方丈預聽者彌衆僧徒殆千人白衣男女満庭擁門散日至當生忉利之文而引法藏師救母因縁半説之哽咽而已久之乃曰嗟乎如己者柰何為救親之若斯哉涕泣不已四座為之𣽽然今顧之辛巳之歳也余竊慕律師德儀嘗告律師言吾欲出家得否律師曰子甚少出家未晩也會裏有豪傑禅僧毎語人曰周公之履耶吾取之周公之𨤘耶吾除之人之所心服如此後経八年余遂出家律師沒既有年矣余毎遊泉涌必雲龍院則興懷舊之感既帰而語之童子側記偶客到也不得悉之
「泉涌寺に遊ぶの記」
泉涌寺の額は張即之〈南宋末期の政治家で書家〉による筆である。今は「泉涌」の二字は秘されて方丈にある。(その墨跡は)墨滴淋漓として、あたかも今しがた書き上げられたかのようであった。壬寅〈寛文二年(1662)〉の春、二、三の沙彌を携えて泉涌寺を訪れた。門を入って舎利殿を遶った後、石磴を登って雲龍院に至った。そして堂に上がってあちこちと徘徊した。
 私が昔、甚だ若かった時、近江で病に罹った。そこで帰郷し静養して一年を過ごしていた時、雲龍院の如周律師がたまたま『法華経』を講義されていた。そこで私は行者の家で門前にあったのを借りて、日々その講座の末席に参加した。六月一日、律師は雲龍院から(泉涌寺の)方丈に居を移された。それで、(講座に)参加する聴衆はますます多くなり、僧徒の数は殆ど千人、白衣〈在家信者〉の男女に至っては庭に満ち、門を取り囲むほどであった。最終日となって(『法華経』巻八 普賢菩薩勧発品第二十八にある)「當生忉利」の一節に至って、法蔵師が母を救った因縁譚を引用して解説される半ば、突如嗚咽されだした。そうしてしばらくの後、「嗚呼、私はどうして法蔵師のように親を救おうとしなかったのだろうか」と言われ、涙を流されてとめどなかった。四座〈すべての聴衆〉もまたこれを聞いて𣽽然〈涙を流す様子〉とした。今となって顧みたならば、それは辛巳の年〈寛永十八年(1641)〉のことであった。
 私はひそかに律師の徳儀を敬慕し、かつて律師のこう申し上げたことがある。「私は出家いたしとうございます。その可否や如何」と。すると律師は、「あなたはまだごく年若く、出家するには早い」とのお答えであった。ところで(泉涌寺の)会裏〈衆中〉に豪傑の禅僧があった。事あるごとに人に対し「如周公の履物ならば、私はこれを丁重に取り扱う。如周公の糞尿ならば、私はこれを丁重に清掃する」と語っていた。(如周公が)人から心服されていたのは、まさにそのようであった。
 この後、八年を経て私は遂に出家を果たした。その時、律師は既に没されてから数年が経ていた。私は泉涌寺を訪れる際には必ず雲龍院に参詣する。そして昔を懐かしむ思いに駆られるのである。 (以上のことを寺に)帰って語るのを童子に側らで記させたが、ちょうどその時、来客があったため、これ以上詳しくすることは出来なかった。

『艸山集』第四巻 黄

元政はその優れた詩文でも今なおよく知られている人ですが、なるほど、正専がどれほど人々から尊敬され、また玄政もその生涯を通じて深く敬慕していたかを、短いながらもよく伝えています。

近世における興律の波

正専は慶長十六年〈1611〉に玉英のもとで受戒していたにも関わらず、といってもそれは「軌則受戒」と言われる持戒を前提としない通過儀礼であって、実は全く正規の受戒として成立しないものであったのですが、その故もあってか寛永二十年〈1643〉には慈忍の師であった真空了阿を証明師とし、通受自誓受によって改めて受戒しています。正専、五十一歳の時のことです。

正専は上皇や大名、および畿内の庶民など広く貴賤から篤い信仰を集め、すでに確たる地位にあったにも関わらず、何故そのような行動に出たのか。当時、それは唐招提寺系や泉涌寺系のものとは異なる西大寺系の律宗に基づくものでしたが、槇尾山平等心王院(西明寺)において俊正明忍ら五人によって戒律復興がなされていました。そしてそこでは、その門弟らが現実に律を持して比丘僧伽を結し、活動していました。

そのような槇尾山に端を発した戒律復興の波は、すでに江戸初期に大きなうねりとなって諸宗の人々に認知されています。少なくとも今現在よりは、貴族庶民などの間においても仏教に関する素養がよほど高かった当時、律を復興してこれを実践する僧が世に現れたことは、僧俗問わず人々にとって実に稀有で尊いことでした。

正専自身にとっても、泉涌寺や唐招提寺、そして西大寺などそれぞれの律宗における教学や門流の違いや、律について学問上・知識上でのみ云々言うだけでなく、槇尾山の衆徒のように律を現実に行っているということのほうがより重大かつ貴重なことであったのでしょう。正専はそのような槇尾山の動きに敬意を払い、自身がすでに唐招提寺において(おそらくは別受にて、形骸化して実をまったく伴わないものではあったものの)具足戒を受けていたのに加え、中世の覚盛や叡尊に倣って自誓受をも受けようと志してのことであったのでしょう。自誓受の証明師を依頼した真空とどのような縁であったのか、今はまだわかっていませんが、そのような年老いてもなお道を求めようとする正専の行動自体が、その仏道に対する向き合い方や人柄とを伺わせるものです。

正専如周は現代、世間にほとんど知られていない人です。しかしながら、当時は雲龍院を拠点に仏教を講じて経の僧俗を化し、さらに自身が自誓受したことによって明忍以来の律の系譜に載る、唐招提寺系の律僧としてその法脈を継いだ者として、近世の興律運動の中でも注目すべき人の一人です。

小苾蒭覺應 拝記