明忍律師之行状記
扶桑和國山城州葛丿郡高雄山之別峯槇尾神護寺の別院平等心王律興始祖釋丿明忍字俊正俗姓ハ中原權大外記康綱ガ後ナリ
童名ハ久松正親町院御宇天正四年出生ス。七歳ヨリ高雄山晋海僧正の御所に通て隨逐學問スコノカミナル人アルトイヘトモ才能人に超シカバタテヽ職ヲツカシムサリシカハ十一歳同御宇天正十四年三月十七日元服シテ淸原朝臣小内記賢好トメサレヌ。ヨリヨリ公卿禪師の交に出テ詩聯句執筆ナトシ給ルニ、ケンニン寺ノ某甲長老トイフ人、物語ノツイテニ曰少内記トイフ小童アリ聯句の執筆セルニ大方三體詩ナントハ諳ニ憶エタリトミヘタリ今モカヽ流モノノアルナルト讃メラレキ。
又當寺ノ僧丹波の氷室ニテ禪家ノ能僧アツマレル中ニテ聚分韻略ニテ文字ヲタスネシニ禪侶ノイワク其字ハ此中ニハナキ字ナリトイヽテ明忍ノ御事噂して此巻諳に覺ヘラルトイヘリ常ニ朝命ヲモクシ忠孝タユマス家ノ記録ヲヒラキ絶タルヲツキ闕タルヲ補ヒ數百の巻ヲシルス是故ニ後陽成院御宇天正十九年三月三日十六歳少外記右少史ノ兩位ニ任シ慶長四年四月十八日洛陽東山豊國明神廟號ヲ賜フ折ニハカタシケナク勅使トエラハル世事ヲモシトスルニタラサレトモ身ヲ立、家ヲトヽノヘ孝ヲ行 忠ヲ心ス俗聖ノ尊ム處ナリ サレトモ竹馬ノムカシヨリ晋海僧正ノ左右ニ侍て必竟安住寂滅光ノ無上道ヲナライ聞シニヨリ朝市の榮花念々ニいとはしく巌藪ノ煙霞日夕ニコノマシカリシニヤタヒタヒ高雄ニノホリヨジテ弘法大師ニ參詣し諸堂ニ立メクリテ心ナラヌ月日ヲ送レルサマナリキ
カヽル比石川備前守トテ大富ル者アリシカ金銀ノ箱ヲ小内記の兄ナル人ニ預ケシママニテ死ヌ然ニ彼兄披露遅々セリ漸日を過テ備前カ所持ノ箱ノカケコノウラニ金銀ノアツケ處ヲシルシヲケリ其親族大ニイカリアラタチシニ彼兄難儀愁傷セルヲ見ル是ヨリ結使纏縛ノカナシミイヤマシニ厭世志願頻ニシテ御年廿四ノ比 親里ノ傅ニハ廿一歳トイヘリ 高雄山ニ馳ノホリ僧正ヲタノミ落髪して諱ヲ以白ト號セリ世ニマニアいノ出家ニモアラス但心ヲキヨタキノ水ニスヽキ法ヲ高雄ノ峯ニシタエリ先僧正ヲ爲闍梨真言瑜伽ノ密行ニヲモムキ俗年廿五慶長五年十一月十五日十八道ヲ開白シ四度加行セリソレモ猶カタチノミナル有樣ナリ本意ナケレハ古德ノ遺跡ヲ尋テ南都ノカタニ行、諸寺ノ經論ヲトフラヘリ
爰ニ惠雲道渓トテ日蓮宗ノ學匠アリ幼年ニシテ入道シ攝州堺ノウラニ住、十歳ナルラン、施齋ヲウケテ親里ノ家ニイタリヌ親里兒心ヲナグサメントテ施物ニ錢ヲ與しに取モチ寺ニカヘリ佛前にサシ置、涙ヲナカシ、カカル物如何スヘキコトハリヲ明ラムル出家にならはやとて祈願セシトカヤ年漸かさなるにそへて才智多聞ナリシカハ彼衆ノ諸侶、專能化と仰ク洛西カツラト云處ニテ徒衆ヲ御シテ法花等を講セリ始ヨリ專ラ出離解脱ニ學セシ故ニ章安妙樂ノ祖意ヲ得テ世ニナソラヘテモタシカタク外ハ日蓮の流ヲクメトモ内ニハ邪濁ヲ嫌テ入ルコトナシ常ニ法花一實ノ理ヲホカラカニセリ皆人觀行卽ノ惠雲ト呼リ
明忍律師之行状記
あるいは同侶、心蓮院僧正宥厳〈仁和寺〉、あるいは恵燈〈全理恵燈〉・智城〈慈雲智城〉の両大徳、あるいは妙愚禅師、あるいは(明忍の)親族〈中原氏・清原氏〉等が伝え語るところに依る。
扶桑和国山城州葛ノ郡高雄山の別峯槇尾、神護寺の別院平等心王院の律興始祖、釈の明忍。字は俊正。俗姓は中原。権大外記康綱の後裔である。
童名は久松、正親町院の御宇、天正四年〈1576〉に出生した。七歳より高雄山晋海僧正の御所に通い、隨逐して学問した。そこに年長者があったにもかかわらず、その学才が抜きん出ていたため、取り立てて職に就かしていた。そのようなことから十一歳の時、同じく(正親町院の)御宇、天正十四年〈1586〉三月十七日に元服して清原朝臣小内記賢好を名乗ることとなった。たびたび公卿や禅師の交わりの席に出、詩聯句の執筆などされていた。建仁寺の某甲長老という人は、物語のついでに、
「少内記という小童がある。聯句の執筆をしているのだが、大方『三体詩』〈南宋で編纂された唐代の詩選集〉などは諳に憶えているようである。今の世にもそのような英才がいるとはまこと驚きだ」
と讃えていた。
また、当寺の僧が、丹波の氷室にて禅家の能僧らが集まった際、『聚分韻略』〈虎関師錬の著した韻書〉によってある文字を調べたところ、禅僧は、
「その字はこの(『聚分韻略』の)中には無い字である」
と言い、(話ついでに)明忍〈この時はまだ賢好〉の事を噂して、この巻は諳に覚えているということであった。
(賢好は)常に朝命を尊重し、忠に孝に弛むことがなかった。(清原)家の記録を開き見て、そこで絶えて不明となっているのを接ぎ、欠失しているのを補い、ついに数百巻に至るまでを記したのである。
そのようなことから、後陽成院の御宇、天正十九年〈1591〉三月三日、十六歳の時、(清原氏の家業を継いで)少外記および少史の両位に任ぜられた。慶長四年〈1599〉四月十八日、洛陽東山豊国明神が廟号を賜われた折には、かたじけなくもその勅使に選ばれさえした。(賢好にとって)世事などさして重要なものではなかったけれども、身を立て家を斉めて孝を行い、忠を旨としたのである。(そのような賢好の実直なる態度は)俗聖〈孔子など儒家の聖人〉の尊ぶところである。しかしながら、竹馬〈幼少〉の昔から晋海僧正の左右に侍って、必竟安住寂滅光の無上道〈仏法。世俗を離れ、生死輪廻からの出離を目指す〉を習い聞いていたため、朝市〈世間〉の栄華など漸次に厭わしく思うようになり、巌藪における煙霞を日夜に好ましく思うようになったのであろう。たびたび高雄山神護寺に登って弘法大師に参詣し、諸堂を巡拝しながら、心ならない(鬱々とした)月日を送っていた。
そんなある日、石川備前守〈石川貞清か?しかし生存時期に撞着がある〉という富豪が、金銀を収めた箱を小内記〈明忍〉の兄に預けたままで死んでしまった。しかし彼の兄は(そのことを故人の親族に)知らせるのを遅滞していたのである。しばらく時日が過ぎたある日、ようやく備前守が所持していた箱の掛子〈箱の内部を二段とし、内部の箱を縁に掛けて吊り下げた箱〉の裏に、(預けていた)金銀(の箱)の所在を記しおいたの(が発見されたの)であった。(これを知った備前守の)その親族らは大いに怒ること甚だしく、(賢好はこの問題で)兄が難儀し愁傷しているのを目の当たりにした。この出来事があってからは、結使・纏縛にまつわる悲しみがいよいよ強くなり、厭世の志願はいや増して、御年二十四の頃親里の伝では廿一歳であるという、高雄山に馳せ登って僧正を頼みとして落髪、諱を以白と号すこととなった。(いたずらに一時的な厭世感から)「世に間に合いの出家」をしたのでなく、ただ心を清瀧の水〈清滝川。神護寺の山嶺を流れる川〉に濯ぎ、法を高雄の峯に慕ったのである。そこで先ず僧正を阿闍梨として真言瑜伽の密行に入ることとなり、俗年二十五歳の慶長五年〈1600〉十一月十五日、十八道を開白して四度加行を修めた。しかしながら、(真言瑜伽の密行などといっても)その内実はただ形ばかりのことにすぎない有り様であった。(明忍は)これを本意とせず、古徳らの遺跡を尋ねて南都〈奈良〉に行き、諸寺を巡って諸経論を求め探ったのである。
ところで、恵雲道渓〈後に恵雲蓼海と諱を改める〉という日蓮宗の学匠〈学僧〉があった。幼年に出家入道し、摂津国の堺浦に住んで十歳となった頃、施斎〈信者からの食事の招待〉を受けて親里の家を訪れた。親里の人々は(幼くして出家した)子の心を慰めようと施物として金銭を与えた。しかし、(幼い恵雲は)それを取り持って寺に帰り、仏前にさし置いて涙を流し、「このような物をどのように扱うべきかの正しい理〈戒律〉を知る出家になろう」と祈願したということである。それから年月を重ねていくに従って才智優れ、博学多聞となっていったため、法華衆の僧侶らは専ら彼を能化として仰いだ。洛西の桂という処で徒衆を御し、『法華経』等を講じた。(出家の)始めより専ら出離解脱を志して修学してきたが、章安〈天台宗第四祖 灌頂〉や妙楽大師〈天台宗第六祖 荊渓湛然〉の祖意を会得して(当時の出家者らの)世を眺めたならば、(その堕落と無知とを究めた有り様に)看過できないことが多く、外儀〈外面。立場〉は日蓮の流れを汲んだものではあったものの、内心では(日蓮宗徒らの)邪濁な振る舞いを嫌って交わらなかった。常に法華一乗真実の理を明らかにしようと勤めていた。(そのようなことから)人は皆、彼を「観行即の恵雲」と呼んでいた。
近世初頭、仁和寺の子院心蓮院の住持を務めた密教僧。出自など未詳であるが、公家出身であったろう。▲
全理恵燈(慧燈)。平等心王院第七代住持、第八代衆首。奥州の人。慶長十六年〈1611〉、その他十人と共に恵雲の徒弟として自誓受具。山崎神照院開基。慶安元年〈1648〉六月廿六日寂、享年八十。恵雲の臨終の場にあった僧で、その行儀を取り仕切った。
年齢から考えれば、あるいは全理恵燈は明忍を直接知っていた人である可能性が高いが不確か。▲
慈雲智城。平等心王院第八代住持、第九代衆首京師の人。元和元年〈1615〉、その他三人と共に自誓受具。和州極楽寺開山、安養寺住。寛文二年〈1662〉十二月廿日寂、享年五十八。全理慧燈に同じく、慧雲(恵雲)の徒弟。
慈雲智城が生まれたのは慶長五年〈1600〉頃であり、明忍が対馬に渡った慶長十一年〈1606〉はいまだ六、七歳であるから、慈雲が明忍をよく見知っていたということはおよそ考え難い。▲
一通妙愚。出自未詳。江戸前期、寛文十三年〈1673〉、荒廃していた善峯寺の一角に阿弥陀堂を開いた僧。天台僧であったか浄土僧であったか判然としない。▲
葛野郡。おおよそ往時の洛中全てと洛外北西部、現在の京都市の大部分の旧称。▲
洛外北西部の山間奥深くにある寺院。創立年代不明ながら、元は和気氏の氏寺で高雄山寺(高尾山寺)と称していた。しかし、天長元年〈824〉、河内国に和気清麻呂が創建していた神願寺なる寺院を、その子真綱らが移転して高雄山寺と合併。神護国祚真言寺と改称して勅願寺となし、さらに神護寺と略称した。以来、戦乱などにより幾たびか荒廃したが近世は明忍の師、晋海僧正によって中興された。▲
平等心王院。神護寺の別院であったらしいが、近世までにその寺名をのみ遺して興廃。明忍らによる戒律復興の拠点とするべく、晋海僧正により復興の先鞭が着けられた。近世における寺伝の大要は別項“『槇尾山略縁起并流記』”を参照のこと。▲
出家した当初、その法諱は以白であった。それはおそらく、師僧晋海の父であった清原枝賢が晩年に出家した際の法名である道白の一字を貰ってのことであった。しかし、明忍が自誓受戒して正しく僧(比丘)となったことを契機とし、「以白」から「明忍」とその諱を改めている。そしてその名は、彼が深く敬愛した往古の僧の一人であり神護寺に縁の深かった中世鎌倉期の明恵上人の一字を取ったものであったと考えられる。▲
普段、日常で自他ともに用いる名。いわゆる通名に類する。僧においてはこれを仮名あるいは房号ともいう。
本来、僧の名を呼ぶ際には字を用い、対していわば本名である諱は「忌み名」であるから、これを直接口にしたり筆したりすることは不敬となるため忌避して用いない。実際、明忍在世時には、俊正房などと字をもって彼を称している。あるいは、俊正を俊性と表記するなど、名の一字に同音異字を充てることによって敬意を示すこともまま見られる。仮名を持たなかった古代(平安時代)は名の最初の一字を、たとえば空海や最澄であれば海、澄などと欠落させて称した。これを「避諱」といい、古代支那以来の習慣。
しかし、彼の遷化後、何故か明忍は諱をこそ用いられて字を以て称されなくなっている。これは近世、儒教(朱子学)志向の高まりから支那文化の傾斜が非常なものとなり、従来の日本における字を先とし諱を後とする習慣より、支那における諱を先とし字を後にすることが特に禅僧の間でしばしば見られるようになるが、その影響を受けてのことであったかもしれない。
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平安中期に始まる古い家系で明経道または明法道を家学とし、外記あるい史を世襲した地下の廷臣の家系。▲
外記は朝廷の太政官に属した官職。四等官のうち、少納言配下の主典の一。天皇への奏文の作成など事務や朝廷の儀式の奉行を行い、その先例や故実などの調査に当たった。権とは副あるいは仮の意で、ここでは副官あるいは員数外の官人の意。権大外記の官位は正七位上相当。▲
中原康綱。鎌倉前期の公家・官人。権大外記が極官。康綱流中原氏(隼人正流中原氏)の祖。
吉田兼好の『徒然草』にも登場する人物。兼行はその第百一段に「ある人、任大臣の節會の内辨を勤められけるに、内記のもちたる宣命を取らずして、堂上せられにけり。きはまりなき失禮なれども、立ち帰り取るべきにもあらず、思ひ煩はれけるに、六位の外記康綱、衣被の女房をかたらひて、かの宣命をもたせて、忍びやかに奉らせけり。いみじかりけり」と、康綱を非常に気の利いた人物であるとして称賛している。▲
正親町天皇(第百六代)。永正十四年〈1517〉五月二十九日生、文禄二年〈1593〉一月五日崩御。在位は弘治三年〈1557〉十月廿七日から天正十四年〈1586〉十一月七日。▲
守理晋海。京都の清原氏(広澄流)出身、清原枝賢の次男。長男は後に清原氏を改め舟橋氏を称してその祖となり、また『慶長日件録』を遺してことでも著名な舟橋秀賢の父、清原國賢。すなわち、晋海は舟橋秀賢の叔父であった。
当時、多くの公卿の嫡子以外がいずこか仏門に入らされていたように、高尾山法身院に預けられ出家。後に仁和寺第二十世厳島御室任助親王から灌頂を受け、これをまた南御室覚深親王に伝えた。南北朝時代の天文年間〈1532-1555〉に兵火で甚だ荒廃していた高雄山神護寺の復興に尽力するに際しては、徳川家康の帰依を受け寺領千五百町歩(三百戸)を下賜され、また寺の三里四方の山林を伽藍復興の為にと与えられて復興の財とした。神護寺(高雄山寺)の法身院をその居としていたため当時は「法身院」あるいはただ「僧正」と称されている(実際の僧位は権僧正)。天正十六年〈1588〉、大覚寺にて誠仁(さねひと)親王の第二王子、空性法親王(大覚寺宮)の師となって得度授戒している。
清原氏と中原氏とが同格の公家で非常に近い関係にあったこともあってか明忍の幼少期における学問の師であった。明忍の和上となって以降は、むしろ明忍の戒律復興への熱情に影響を受けてその良き理解者で後援者となり、平等心王院の復興に全面的に経済的支援をしている。そして実際に戒律復興に際してはその一員とすらなっていた。明忍が逝去した翌年の慶長十六年三月二日に遷化。
舟橋秀賢『慶長日件録』からは、晋海が非常に頻繁に秀賢宅に出入りし、あるいは秀賢が神護寺を訪れ、しきりに消息のやり取りをしていたことが知られる。秀賢はまた、その次男を晋海に預けて出家させている。また他に、慈雲『律法中興縁由記』には「僧正因に云く、予いま大樹君の歸敬ありて世栄分に過ぎ」あるいは「世人上下みな吾僧正の高徳を仰がざるなし」とあり、朝廷との繋がりも深く、また豊臣秀頼や徳川家康との交流があり、その帰依と後援を受けていた当時京都では高名な僧であったという。▲
そもそも、明忍は中原康雄(記載の系図では「康惟」)の庶子(次男)であり、早くから中原氏を継ぐべき人ではなかった。そこでしかし、中原氏とほぼ同格で同職を継承してきた清原氏の存在があった。当時、その当主であった清原国賢には嫡子として秀賢があったが、秀賢が出世し堂上を許されるに至って舟橋氏に改姓し、新たな一家を為すことが勅許された。するとしかし元の清原氏を継ぐべき適当な者(秀賢には他に二人の弟があったがいずれも出家)が他になかった。明忍が幼少から師事した晋海は清原氏出身であり国賢の実弟であったが、その明忍の出自が中原氏であり、また優れた才知あることを晋海から聞かされ見込んでのことであったろうが、清原国賢は明忍を養子として迎えた。その諱が賢好とあるのは、国賢から一字もらってのことである。▲
何か一つの題について複数人で句を連ね、一つの詩を詠じること。あるいはそれを楽しむ会。日本では皇家や公家、または禅家など寺家らが余興として楽しんだ。余興と言っても様々な作法があり、当時の貴族や有閑富裕層の社交の場であった。聯句あるいは聯詩とも。▲
建仁寺。鎌倉期初頭、栄西により建立された寺院。当初、戒・禅・真言・天台の四宗兼学寺であったが、後に臨済専修に転じた。▲
支那は唐代の詩選集。南宋の周弼による編。七言絶句・七言律詩・五言律詩の三体、すなわち三つの形式に限った唐の百六十七人の詩、四百九十四首を収める。日本では室町期、五山の禅僧によって愛好され、支那嗜好の強くなった近世には広く知識人に嗜まれた。▲
神護寺の僧徒を指したものか?▲
優れた僧、才知ある出家者。▲
鎌倉期の臨済僧、虎関師錬により作詩のために著された漢字辞典。漢字が韻と意味によって分類されている。▲
後陽成天皇(第百七代)。元亀二年〈1517〉十二月十五日生、元和三年〈1593〉八月廿六日崩御。在位は天正十四年〈1557〉十一月七日から慶長十六年〈1586〉三月廿七日。舟橋秀賢から漢学を学ぶなど好学の天皇であった。▲
外記の下位職。正七位上に相当。▲
少史は神祇官あるいは太政官に属した官職。文筆に秀でた者が任命され、朝廷の公文書の作成および記録を司った。右少史の官位は正七位上相当。
中原氏であれ清原氏は太政官付の史を継承した。▲
豊国大明神。豊臣秀吉没後に後陽成天皇から下賜された神号。秀吉の亡骸は東山清水の南に位置する阿弥陀ヶ峰に葬られ、その麓に豊国廟が建てられた。▲
霊廟や神社に付される称号。▲
世俗の聖人。ここでは仏教者の立場からして、忠孝を尊んだ孔子など儒教の聖人を意図しているか。▲
幼少時。竹馬で遊んだ頃。▲
「必竟」は究極・最終、「安住」はいかなる恐れも不安もなくあること、「寂滅光」はひっそりとして静かな輝き、「無上道」はこの上ない境地に導くもので仏道の意。一般的でない形容であるけれども、要するに究極の寂静の境地へと導く仏陀の教えの謂。▲
俗世間。▲
「巌藪」は岩と藪で転じて自然の野山。「煙霞」はけむりとかすみで転じて美しい自然の光景。ここでは洛中の喧騒から離れた高雄山近傍の静かで美しい山野の形容。▲
空海の諡号。▲
同時代の石川備前守で「大富ル者」といえばまさに石川貞清(宗林)がこれに該当するであろうが、彼の死没は寛永三年〈1626〉四月八日であって当書の記述する時期と大いに撞着する。そこで可能性として、明忍の兄中原康政(脚注次項に説明)が金銭を借りたか預かったかして返さなかった相手が石川備前守でなかったか、あるいは石川備前守の生前にその返済・返却を迫られて返せなかったかのいずれかであろう。この話がまるきり誤伝・捏造ということは、その内容が醜聞に類することであるため考え難い。
中原康政はこの騒動の後、官職を辞して出家したらしく、またすでに明忍は清原氏の養子となってその官職を継いでいたことから、中世以来、外記あるいは内記を務めた中原氏の流は一旦途絶えた。▲
中原康政。すでに天正十四年には中原氏を継いで外記・史の職に任じられており、 豊臣秀吉が太政大臣任官の宣下を受ける儀式に臨席していたことが知られる(『外記史分配』宮内庁図書寮文庫)。ところがこの後、具体的にいつのことであったか判然としないが、康政が本書にて伝えられるような不祥事を起こしたことによって職を辞し、出家したらしい。これによって中世鎌倉期以来、外記などを世襲してきた隼人正流中原氏は一旦途絶える。▲
掛子あるいは掛籠とも。箱の内部を二段とし、内部の箱を縁に掛けて吊り下げた箱。▲
「結使」は[S] saṃyojanaあるいはanuśayaの漢訳で、衝動的に駆り立て縛り付けもの、いわゆる煩悩の類義語。「纏縛」は煩悩に基づき、あるいはしたがって生じる諸々の好ましからざる心の働きで、随煩悩といわれる。具体的にはこれに十種(十纏)挙げられる。▲
処世ため一時しのぎの出家。
古代奈良期には、租庸調など脱税目的で出家する者、平安中期以降は貴族などの子弟で家を継げぬ庶子が処世術の一として出家する者が多くあり、律令制が崩壊して以降、鎌倉・室町期にもその傾向は下流にも広くみられた。それは近世江戸期も同様で、菩提心など欠片もなく、ただ一時しのぎや継ぐべき家がなく他に出世する場の無い者らが寺に入って出家を称していた。この一節は当時、その類の者が一般に見られることが認識されていたことを示す証左となる。▲
清瀧川(清滝川)。神護寺や平等心王院のある山々の谷間を流れる川。中世の昔は鳴瀧川と称した。▲
阿闍梨耶([S] ācārya)の略。阿闍梨。先生、教師の意。密教では特に真言瑜伽法を教授する特別な師を指していう。▲
瑜伽は[S/P] yogaの音写。いわゆる瞑想、修禅・修習の意。真言瑜伽の密行はすなわち真言密教。▲
日本密教において最も基礎的な瑜伽法。十八の印契によって構成されることから十八道という。いかなる仏・菩薩をその本尊とするかは流派により異なり、本来は受明灌頂の際に得た尊格を本尊とする。
晋海は真言宗の人であったが、いずれの流派を受け伝えていたか不詳。仁和寺に関わる人であったことからすると、あるいは伝法院流あるいは西院流か。▲
十八道を始めとし、金剛界法加行と大悲胎蔵法、ならびに護摩加行という四種の加行を段階的に修めることから四度という。加行とは[S] prayogaの漢訳で、繰り返し行うことの意。
密教が初めて伝わった平安初期の昔においては、四度加行などということは言われずそれらは別々に授けられ行われ、すなわち誰でも彼でもが伝法灌頂を受けて阿闍梨になることは無かった。しかし、平安中後期には早くも密教の伝授は形骸化し、通り一遍の加行を修めれば誰でも彼でも伝法灌頂を受け、名前ばかりの阿闍梨となることが出来ていた。ただし、密教のすべての加行を修め、伝法灌頂を受けるのにはそれなりの経済力が必要であったため、文字通り誰でも彼でも、というわけでもなかった。▲
奈良。南洛とも。▲
慧雲蓼海。明忍と共に戒律復興を果たした僧。和泉出身、もと日蓮宗徒。ここでその諱が「道渓」であったと伝えられるが、明忍に同じく、自誓受戒して比丘となった後に諱を改めたのであろう。
慶長十五年〈1610〉明忍律師が対馬において客死した後、平等心王院の第二世住持となる。戒律復興の騎手としてただ明忍のみが著名であるが、実際として明忍が具体的に後進を指導したという実績はほとんどなかった。それは全く慧雲が主として担ったのであり、また槇尾山の僧坊としての基礎を築いたのも彼であった。しかし、慧雲もまたその翌十六年三月二日あるいは翌々年の十七年二月二日、高雄山神護寺にて示寂。行年は明らかでない。▲
「齋」は元来「慎しむこと」を意味する漢語ながら、これを仏教では特に正午を過ぎての食事を摂らないことを言い、転じて僧に許された日の出から正午以前までの食事を指す。「施齋」は僧を家などに招いて食を布施すること。▲
指導者、教授者。寺院の中で学頭や阿闍梨を務める僧。▲
京都西側の郊外に位置する地、桂川の西辺。▲
世塵を離れ、もう二度と再び生まれ変わらないこと。生死の輪環から逃れ出ること。▲
法雲灌頂。支那隋代の仏教僧。章安大師と諡号された。天台宗の実質的開祖智顗に側仕え、その講義録となる『法華玄義』・『摩訶止観』・『法華文句』などいわゆる天台三大部を編纂。また自ら『大般涅槃経玄義』・『大般涅槃経疏』を著している。智顗を天台宗開祖とした場合、その第二祖とされる。▲
荊渓湛然。支那唐代の仏教僧。通称、妙楽大師あるいは毘陵尊者。死後に円通尊者と諡号された。唐代の天台教学振興につとめ、天台三大部の注釈『摩訶止観輔行伝弘決』・『法華玄義釈籤』・『法華文句記』など智顗の諸著作の注釈書を多くあらわした。智顗を天台宗開祖とした場合、その第六祖とされる。▲
「一實」は一乗真実の略。『法華経』が一乗真実を明かす教えを伝えたものであること。▲
天台教学における位階「六即」の第三。知識として空・仮・中の真理を学び終え、進んで止観を修めてそれを体得しようとする位。その具体的内容は随喜・読誦・説法・兼行六度・正行六度の五段階からなることから観行五品ともいい、また未だ師位には至っていないことから五品弟子位といわれる。▲