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Dharmacakra
智慧之大海 ―去聖の為に絶学を継ぐ

月潭『槇尾山平等心王院故弘律始祖明忍和尚行業曲記』

訓読

師は天正四年丙子に生れて慶長十五年庚戌六月七日に寂す。報齡三十有五、僧臘一十有五。

嗚呼、此邦、興正・忍性の二大士の後より律燈燄を熄めて幾乎ど三百載に餘る。惟だ師、澆末に崛起して大志を跂て大願を發して、既に絶たるの玄綱を紐び已に倒るの法幟を樹つ。大心薩埵の願轂に乘じて來るに非ずんば、則ち疇が克く爾らんや。

惜かな、赤縣の遊び未だ果せざるに精泰の歸、何ぞ遄かなる。倘し其をして興正の壽に齊らしめば、則ち法化丕ひに閻浮に行はれて度人の壽、以て石室に溢るべし。木方に榮んとして、風之を折る。

悲かな、然りと雖ども師の遺芳餘烈、凛然として墜ちず。鶴林の夕より今に迨んで八十禩に垂んとす。其間、俊彥の士相ひ繼で其門より出る者の指、殆ど屈するに遑あらず。其の最なる者は則ち玉圓谿公・長圓祐公・空爾戒公・本乘空公・良存圓公・空印盛公・全理燈公・恕閒覺公・閒㝛空公・慈雲城公・眞識圓公・幻爾塔公・智鏡海公・眞空阿公・了運生公・尊光如公・光影通公・賴圓雄公・存正然公・行空然公・本寂徴公等、亾慮若干人。各の皆、三學を通練して四衆に信崇せらる師の後裔なり。謂つべし、盛んなりと。

宐なる哉、諸方の禪林敎庠、凡そ毘尼を尊奉する者、咸とく槇阜を指して律虎の林と爲す。夫の紵麻靈芝と地を易へば則ち同からん。𡮢て自誓受戒血脈の圖を製す。興正の下、讚辭を系ねて曰く、三聚を幷呑して、戒身を長養す。法を耀し生を利して、千古未だ聞ずと。此の數句、謂つべし、能く興祖平生の梗槩を罄すと。

師、講律の暇に於て喜で往生要集を閲す。其の居恆、念を淨域に繫ることを知ぬべし。奚ぞ啻だ梵行の芬芳なるのみならんや。昔し大智照師謂ること有り、生ては律範を弘め、𣦸せば安養に歸んと。前賢後賢、其の揆一なり。

蒙、曾て槇山の經藏に鎭ずる所の師の手書の聖典幷に講律日記等を隨喜するに、多くは是れ麤楮を用ひ、或は舊牘を取て背を翻にして焉を寫す。馬島に在し時、闇寫する所の梵網經の跋尾に云く、廢㤀に僃るが爲に粗紙に艸書す。敢て佛語を輕慢するには非ずと。昔日、淸貧介約、文房四寚と雖も亦た用に乏しきに似たり。而るに書寫懈らず。豈に精誠の致す所に非ずや。

親愛を捨て道業を純らにするに至ては、曾て鄕母の書を獲て未だ𡮢て啟き讀まず、纔かに頂戴訖て諸を屋外の谿流に投ず。吾が門の昺鐵面の故事と併せ按ずべし。

又、僧念正と云ふ者、𡮢て野山の賢俊大德の語るを聞くに曰く、師の在りし日、僧有て曼殊洛叉の法を修す。一夕、假寐の間夢むらく、大士告げて曰く、伱我が生身を見んと願はば、卽ち高雄法身院俊正是れなりと。

師の梵德精嚴悲願宏㴱、異馥を易簀の際に散し、祥光を屬纊の時に煥かすを觀るに、則ち之を五臺の應化と謂んも亦た何の疑しきをか之れ有んや。

頃歳、建仁長老松堂植公、釣命を承けて職に對府の以酊菴に赴く。公、暇日に於て躳ら師の舊蹟を探る。且つ人をして之を物色せしむ。然ども歳月稍久ふして、人の能く識りたる無し。適ま一華菴の老僧以僊と云ふ者、年九十餘、尚ほ善く往事を記す。公、渠に就て之を詢て曰く、某童たりし時、曾て忍師を見る。始め洛從り至て府内の宮谷に托居す。後に人緣稍譁きことを厭て、又た茅壇に移る。每に府治の西南夷崎の山水奇絶なるを愛して、其間に經行す。鄕人、其の名を知らず。但だ京都の道者と喚ぶのみ。海岸精舍の主僧智順、師の戒行を欽んで往來密爾なり。圓寂の後に及で爲に牌位を立つ。今に至て尚ほ存す。闍維の所、𡨧堵を豎てず。只だ松樹一株を栽るのみ。茅壇の四山、採伐殆ど盡く。獨り其の一株、合抱偃蹇として翠色鬱然たり。斧斤も敢て侵すこと莫しと云ふ。

奥に現光の雲松大德有り。師の嘉言懿行、前哲の記する所を攟拾して遺すこと有るを以て、衷に歉無きこと能はず、蒙に徴めて修補せしむ。始め菲才を以て辭す。然ども再請して輟に弗す。其の祖を念ひ德を尚んで暫くも相㤀れざることを嘉して、因て故の堯遠筌公の錄する所の事實と松公の傅へ聞く所とを按じて、重ねて爲に編次す。命て行業曲記と曰ふ。𥁋し曲細にして其事を記すればなり。庶くは來裔をして歆艷する所有て自ら厲まさ俾んと爾云ふ。


貞享丁戼歳嘉平月中浣日峩山沙門道徴月潭和南謹撰

現代語訳

師は天正四年丙子へいし〈1576〉に生まれ、慶長十五年庚戌こうじゅつ〈1610〉六月七日に寂した。報齢三十五、僧臈そうろう十五〈僧臈は具足戒を受けてから夏安居を過ごした回数であって、沙弥の年数は数えない。正しくは八夏〉

嗚呼、この国においては興正菩薩(叡尊)・忍性菩薩の二大士の後より律燈はそのともしびを消してほとんど三百年余りとなった。ただ師のみ、この澆末ぎょうまつ〈末世〉崛起くっき〈起き立つこと〉して大志を立てて大願を発し、既に絶えていた玄綱げんこう〈幽玄なる法義〉むすび、已に倒れた法幟をてたのである。それは大心薩埵〈大菩薩〉願轂がんこく〈「誓願」という車〉に乗じて来たもので無いとしたならば、(その真相を)一体誰がよく知ることが出来るであろうか。

惜しいことである、赤縣せきけんの遊び未だ果せざるに精泰せいたいの歸、どうして速やかであったろうか。もし師が興正菩薩の寿命〈叡尊は九十歳まで生きた〉と同様であったならば、その法化は大いに閻浮提えんぶだい〈世界〉は行われ、度人の壽、以て石室に溢れるほどであったろう。(しかしながら、)木がまさに盛んたろうとしていたのを、風がこれを折ったのである。

悲しいことである、しかしながら師の遺芳餘烈ゆいほうよれつ〈遺した美名と業績〉凛然りんぜん〈凛々しい様子〉として廃れてはいない。(師の)鶴林かくりん〈入滅.釈尊般涅槃の沙羅双樹の姿になぞらえた表現〉の夕べより今に及ぶに、およそ八十年となろうとしている。この間、俊彦しゅんげん〈優れた男子〉の士が(師の興律の跡を)相い継ぎ、その門から出た者を数えようと指を折るのに暇ないほどである。その中でも優れた者とは則ち、玉圓空谿ぎょくえん くうけい公・長圓了祐ちょうえん りょうゆう公・空爾友戒くうに ゆうかい公・本乗輪空ほんじょう りんくう公・良存堯圓りょうぞん ぎょうえん公・空印忍盛くういん にんじょう公・全理慧燈ぜんり えとう公・恕閒澄覺しょげん ちょうかく公・閒宿了空けんしゅく りょうくう公・慈雲智城じうん ちじょう公・眞識空圓しんしき くうえん公・幻爾智塔げんに ちとう公・智鏡慧海ちきょう えかい公・眞空了阿しんくう りょうあ公・了運不生りょううん ふしょう公・尊光空如そんこう くうにょ公・光影𥧬通こうえい けんつう公・頼圓尊雄らいえん そんゆう公・存正卓然そんしょう たくねん公・行空宛然ぎょうくう えんねん公・本寂慧徴ほんじゃく えちょう公等、すべて若干人。各々皆が三学を通じ練磨して(比丘・比丘尼・優婆塞うばそく優婆夷うばいの)四衆に崇信される師の後裔である。まさに言うべきであろう、(師が興し遺された律門は)盛んであると。

喜ばしいことである、諸方の禅林〈禅寺〉教庠きょうよう〈学林〉であれ、およそ毘尼〈vinaya. 律〉を尊奉する者は皆悉く槇尾山を指して「律虎の林」というのである。それは(支那の)紵麻ちょま〈道宣の居した終南山〉霊芝れいし〈元照の居した崇福寺〉と地を変えたとしても、(往時のように戒律を護持し、その威儀整然として厳重であることは)まったく同じ様相であったろう。(師は)かつて『自誓受戒血脈の図』を製作した。興正菩薩の下に讃辞を連ね、「三聚を并呑へいどんして、戒身を長養す。法を耀かがやかし生を利して、千古未だ聞かず」と書かれている。この数句は、言うべきである、よく興祖の平生の梗概こうがい〈あらまし〉を盡くしたものであると。

師は律を講じる暇には、喜び『往生要集』をけみしていた。そのような居恒きょこう〈日常〉から、(師が)念を浄域〈極楽浄土〉けていたことが知られるであろう。どうして(師が)ただ梵行〈持戒持律〉だけの芬芳ふんぽう〈良い香り。ここでは象徴の意〉であったとすることが出来ようか。その昔、大智律師元照が言っていた言葉がある、「この生のあるうちは律を弘め、死したならば安養〈極楽浄土〉に行き着こう」と。まさに前代の賢者〈元照〉も後代の賢者〈俊正明忍〉も、その揆を一つにしたのである。

もう〈愚か者。月潭道徴が自らを謙遜して言う〉は、かつて槇尾山の経蔵に収蔵している師の手書きの聖典ならびに講律日記等を隨喜(して閲覧)したところ、その多くは麤楮そちょ〈粗い和紙〉が用いられ、あるいは旧牘きゅうどく〈古紙。反故〉を用いて、それを裏返しにして書写されたものであった。(明忍が)対馬島にありし時、諳んじて書き写した『梵網経ぼんもうきょう』の跋文ばつもんには、「(万一)廃忘した際に備えて粗紙に草書したのである。故意に仏陀の言葉を軽慢してのことではない」と書かれている。当時、(師が)清貧節約であったその様は、たとえ(硯・墨・紙・筆の)文房四宝であっても満足に用いることが出来なかったのであろう。にも関わらず書写を怠ることは無かったのである。誠に(師の仏道に対する)精誠の致すところであったろう。

親への愛を捨て、ひたすら道業を専らとする態度に至っては、かつて郷里の母から書を得ても、それを決して開き読むことはせず、わずかに頂戴してからこれを屋外の渓流〈後に「文捨て川」と言われる〉に投げ捨てるほどであった。我が門〈禅宗〉昺鐵面へいてつめん〈鉄面昺禅師〉の故事〈『禅関策進』に出〉と併せて考えるべきことである。

また、僧で念正ねんしょうと言う者が、かつて高野山の賢俊けんしゅん〈賢俊良永。槇尾山にて受具してただ一年を過ごした後に出て高野山円通律寺を創建。また法隆寺北室院を律院として中興した〉大徳が語るのを聞いたところに依ると、
「師の在りし日、ある僧が曼殊洛叉まんじゅらくしゃの法〈文殊菩薩の五字真言を十万遍唱える修習法〉を修した。そこである夜、(その僧が)仮寝の間に夢を見たところ、大士〈菩薩〉が現れて告げるに、 『汝、我が生身を見ようと願うならば、すなわち高雄山法身院の俊正である』 とのことであった」
という。師の梵徳精厳ぼんとくせいげんにして悲願広深ひがんこうしんなることは、異馥いふく〈異香〉易簀えきさく〈死〉の際に散じ、祥光しょうこう〈めでたい光〉屬纊ぞっこう〈臨終〉の時に輝かしたことを見たならば、師は五台〈文殊菩薩〉応化おうけ〈世人のため仮に姿を表すこと。応化身、権現〉であったと言っても、また何の疑いもありはしないであろう。

最近、建仁寺の長老松堂宗植しょうどうそうしょく〈建仁寺三百十一代長老〉が朝命を承けて朝鮮修文職に任じられ、対馬府内の以酊菴いていあん〈支那・朝鮮との外交拠点とした禅寺〉に赴いた。公は、余暇の日に自ら師の旧蹟を探ったのであった。また同時に人にもこれを探させた。しかしながら、(師が没してから)歳月もやや久しく、人でこれをよく知っている者が無かった。たまたま一華菴いっけあんの老僧以僊いせんという者が、その年九十余であったけれども、なお善くかつての事柄を伝えていた。そこで公は彼に就いて師のことを尋ねると、
「私がまだ童であったかつて、明忍師を見たことがある。始めは京都より来て府内の宮谷に居されていた。しかし後に(宮谷は対馬の市街であって)人縁がやや煩いことを厭い、茅壇に移られた。ことに府治の西南にある夷崎いさきの山水が奇絶であることを愛され、そこを経行されていた。郷人らはその名を知らず、ただ『京都の道者』と呼ぶのみであった。海岸精舎かいがんしょうじゃの主僧智順ちじゅんは、師の戒行に随喜して往来密爾おうらいみつじであった。円寂〈逝去〉された後、師の為に位牌を立てた。これは今に至ってもなお存している。闍維じゃい〈荼毘〉に付した地に卒塔婆そとばは建てなかった。ただ松の樹一株を植えたのみである。茅壇の四山は伐採されてほとんど禿山となったが、独りその一株のみは合抱偃蹇ごうほうえんけん〈一抱えとなるほどの大木で、のびのびと広がっていること〉として翠色鬱然すいしょくうつぜん〈青々として鬱蒼と茂っていること〉である。斧斤ふきん〈木樵〉らもそれを敢えて伐ることなど無かった」
とのことであった。

ここに現光寺の雲松實道うんしょう じつどう大徳〈槇尾山衆僧の一人。現光寺中興・巖松院三世〉がある。師の嘉言懿行かげんいこう〈善言と立派な行い〉で、前哲が伝え記したものを蒐集しゅうしゅうして遺されたもの〈元政『行業記』〉があるけれども、しかし本心から満足のいくものではなかった。そこでもうに依頼してこられ、それを補完しようとされたのである。

最初は菲才〈才能が乏しいこと〉であることから辞退した。しかしながら再び請われたためやむを得ず撰すこととなった。その祖師〈明忍律師〉を想い、その徳を尊んで片時も忘れないことを称えて、因みに原本である堯遠不筌ぎょうおん ふせん公が記した事実〈『行状記』〉と雲松公の伝え聞く所とを按じ、改めて編纂した。名づけて『行業曲記ぎょうごうきょくき』という。けだし曲細〈非常に詳細であること〉にその事を記したためである。願わくは(この『行業曲記』によって)来裔らいえい〈子孫。律師の法孫〉が(師を)歆艷きんえん〈羨慕〉して自らを励まさしめるものになるように、とそう命名した。


貞享丁卯ていぼう〈1687〉嘉平月中浣日 峩山沙門道徴月潭どうちょうげったん和南〈[S/P]vandanaの音写で稽首・礼拝の意〉 謹撰